平成30年(2018年)沖縄遺骨収集奉仕活動
- 1月16日(火)故具志八重さんのお墓参り、故真喜志康一さんのお墓参り
- 1月17日(水)菊池さんと糸満市摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月18日(木)松永さん菊池さんと糸満市束里と摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月19日(金)菊池さんと糸満市摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月20日(土)糸満市与座の洞窟陣地で調査・遺骨収集
- 1月21日(日)糸満市束里及び八重瀬町安里で調査・遺骨収集
- 1月22日(月)南埜さんによる遺骨収集作業継続中の現場を見学
- 1月23日(火)八重瀬町安里で調査・遺骨収集
- 1月24日(水)八重瀬町安里で調査・遺骨収集、八重瀬町による遺骨発見現場調査
- 1月25日(木)(申し訳ありません。非公開での調査・遺骨収集を実施しました)
- 1月26日(金)八重瀬町具志頭で調査・遺骨収集
- 1月27日(土)八重瀬町具志頭及び糸満市摩文仁で調査・遺骨収集
- 1月28日(日)糸満市摩文仁で調査・遺骨収集
1月26日(金) 八重瀬町具志頭で調査・遺骨収集
今日の天気予報は曇りです。降水確率午前午後共に30%です。最高気温は16度の予報ですから朝晩は寒いと感ずるかもしれません。作業を終えた後、濡れた下着のままですと風邪を引く可能性もありますから着替えは適宜行いたいですね。今朝の慰霊巡拝は、「萬華之塔」そして「白梅之塔」です。それではご一緒に慰霊巡拝しましょう。(^o^)
朝摩文仁に向かう道すがら、虹が出ているのに気づいたので、車を止めて撮影しました。ここは糸満市西崎地区で、写真右手にホテルスポーツロッジ糸満という宿泊施設が写されています。ここから虹が見えるという事は、那覇市内が雨だという証ですね。意外と多くありますよ。那覇市内が雨なのに、糸満市は雨が降ってないという気象状況がですね。
「萬華之塔」
この慰霊塔は真壁集落の北東に位置し、道路を挟んで反対側には「JA 糸満市集出荷場 真壁支所」という倉庫のような大きな建物があります。「萬華之塔」がある一帯は沖縄戦最後の激戦地となった地域ですが、戦後真壁部落の住民が付近に散乱していた約1万9千余りの戦没者ご遺骨を勤労奉仕により収骨し、また寄付を募り納骨堂を建てたものだそうです。また霊域には部隊単位での、或いは個人での慰霊塔・慰霊碑も数多く配置されています。その慰霊碑の多さを垣間見ただけでも、ここ南部島尻で果てた戦没者の無念が偲ばれます。
最奥部にある「萬華之塔」です。「萬華之塔」塔は昭和26年8月に建立されましたが、現在の慰霊塔は二代目で平成15年に立て替えられた塔です。よく見ると新しい建物の雰囲気が少し残っていますよね。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
初代の「萬華之塔」の屋根には十字架が掛けられていました。「萬華之塔」が建立された頃は、在沖米軍兵士が納骨堂をこじ開けて、主に頭骨を盗んでしまう事件が多発しました。そうした経緯もあり、真壁住民が苦肉の策として、十字架を立てて米兵による頭骨の持ち去りを防ごうとしたのです。
最初に建立された「萬華之塔」には十字架が掛けられていたのをご存じでしょうか。下の写真がその初代の「萬華之塔」の写真です。なぜ十字架が設置されたのか?
その理由は驚くことに、米兵が頭骨に電気を入れて照明器具代わりにしたり、本国へ帰国する際の"おみやげ" にする為、納骨堂から頭蓋骨などを持ち去ってしまう事件が多発したからなのです。持ち去りが後を絶たない為、真壁の部落民は心を痛めました。苦肉の策として十字架が架けてあれば、米軍兵士も持ち去ることをためらうのではないか…。
そんな盗難防止の願いを込めて「萬華之塔」納骨堂の頭上に十字架が設置されたのです。同じ盗難防止という意味で、「ひめゆりの塔」にも、最初に建立された納骨堂に十字架がかけられていたのです。ちなみに大東亜戦争の最中の話ですが、米軍兵士は戦勝を誇示するために、日本人戦死者の頭蓋骨を、さかんに本国の家族や知人に郵送して贈ったそうです。
日本軍将兵の頭蓋骨は、要するに戦勝を祝うために、小綺麗な箱に詰められたプレゼントとして扱われたという訳ですよ。プレゼント以外にも、頭蓋骨に電球を入れオブジェとしてリビングに飾ったり、切断して灰皿にしたり、歯をペンダントにして持ち歩いたりという行為が実際に確認されています。この米軍兵士の蛮行を最初に指摘したのは、フィリピンに派遣されたローマ教皇使節団であったという記録があり、使節団はこの風習を極めて厳しく非難したという話です。「交戦国軍・民戦死者の頭蓋骨を部屋に飾っておく」という極めて悪質な蛮行は、人道上絶対に許すことの出来ない犯罪だと考えますよ。
「…日本兵などの戦死者の遺骨を記念品として持ち帰る行為が米軍の中で珍しくなかった」 という新聞記事がありますのでご覧下さいませ。
【米の大学倉庫に日本人戦没者?の遺骨30年以上も放置か】
「産経新聞」平成21年8月24日
【ニューヨーク=松尾理也】全米有数の名門大として知られるカリフォルニア大バークリー校の人類学博物館の倉庫に、第二次世界大戦の激戦地、サイパン島で自決した日本人などと記述された複数の人骨が収蔵されたままになっていることが明らかになった。
地元紙サンフランシスコ・クロニクルによると、頭骨を含む3体の人骨と、いくつかの頭骨のない人骨が木箱に収納されていたという。
木箱には、採取地として「サイパン」と明記され、「米軍の進攻の際に自決を遂げた日本人」などの説明が付されてあった。大学側によると、これらの人骨はすでに故人となっている海軍医が1974年に寄付した。それ以前は、同医師が個人的に保管していたとみられる。
戦争犠牲者の遺骨が博物館の倉庫に収蔵されたまま、いわば、たなざらしになっていたとすれば、敬意や厳粛さを欠く取り扱いといえる。
バークリー校近くを選挙区とするナンシー・ペロシ米下院議長(民主党)の事務所は、クロニクル紙に「経緯に重大な関心を持っている」と述べた。また、カリフォルニア州のグロリア・ロメロ州上院議員の事務所は「いわばクローゼットに骸骨があったようなもの。人間の尊厳を冒すものだ」と、日本への謝罪と遺骨の返還を求める方針を明らかにした。
クロニクル紙は、第2次大戦中に、日本兵などの戦死者の遺骨を記念品として持ち帰る行為が米軍の中で珍しくなかったと指摘。戦争犠牲者の保護を定めたジュネーブ条約違反の可能性もあると問題提起した。
これに対し、大学側は「人骨の身元が日本人と判明したわけではない。兵士か民間人か、どんな状況で死亡したのかという情報もない」とした上で、ジュネーブ条約は戦時捕虜に適用される国際法であり、身元不明のままでは条約違反とはいえないと反論している。
しかし問題を真剣に受け止め、米政府当局などと連絡を取っているという。在米日本大使館も「厚生労働省をはじめ日本の関係省庁と連絡を取り、情報収集を行っている」と関心を寄せている。
(※サイト管理者の判断で太字部分を強調させて頂きました)
「産経新聞」から転載させて頂きました
《過去の写真ご紹介》
昭和26年に建立された初代「萬華之塔」です。「萬華之塔」に十字架が設置された経緯は、米軍兵士による頭骨持ち去りが後を絶たず、十字架があれば米軍兵士も持ち去ることをためらうのではないか…。村民のそんな願いを込めて十字架が設置されたのでした。
手を合わせているのは、南部戦跡で累計六千柱以上のご遺骨を収集された石原正一郎さんです。石原正一郎さんは、沖縄戦も終局を迎えつつある6月18日、米上陸軍最高司令官サイモン・B・バックナー中将が、南部戦線で日本軍からの砲撃により戦死しましたが、石原正一郎さんはその砲撃の当事者であり、日本軍側で砲撃の指揮をとる立場の連隊中隊長だった方なのです。
石原正一郎さんはそうした経緯もあり、戦後沖縄に通い続け、大学生を大勢南部戦跡に連れてきて、平和学習の意を込めて共に遺骨収集にあたりました。また同時に金光教の遺骨収集にも深く関与して頂きました。石原正一郎さんは、沖縄での遺骨収集と慰霊祭参列の為に、私の推計でおそらくこれまでに70回以上沖縄に来られたと思います。
毎年6月22日に「萬華之塔」で戦没者慰霊祭が執り行われますが、石原正一郎さんは毎年その慰霊祭に参加する時には、「バックナー中将戦死之跡碑」にも必ず訪れ、献花し手を合わせていたと語っていました。
「萬華之塔」は地元部落民等の寄付により建立されたものですが、その寄付一覧名簿です。「萬華之塔」は昭和26年に建立されましたが、昭和26年といえば、まだまだ食べるものにも事欠く時代でした。そんな状況の中で真壁集落の人たちは地域に散乱するご遺骨を収集し、寄付を募り「萬華之塔」を建立し、ずっと慰霊塔を守り続けて下さったのです。
よく見ると「弗」という文字が見えます。「ドル」でなく「弗」ですから、何か時代を感じさせますよね。もうひとつ沖縄では米国占領時代「B円」(ビーえん)という貨幣が使用されていた時期があるんですよ。
5円、10円とか20円の寄付が多いですね。100円もお一人おられます。これらの円は、米国占領時代「B円」(ビーえん)としての円だと思います。昭和26年の10円は現在の貨幣に換算するとどれくらいの価値があるんでしょうかね。戦後の焼け野原状態での寄付に金額では計れない温情を感じます。
よく見ると「弗」という文字が見えます。「ドル」でなく「弗」ですから、何か時代を感じさせますよね。もうひとつ沖縄では米国占領時代 「B円」(ビーえん)という貨幣が使用されていた時期があるんですよ。
「B円」 は、1945年から1958年9月まで、米軍占領下の沖縄県や鹿児島県奄美諸島(トカラ列島含む)で、通貨として流通したアメリカ軍発行の軍票です。1948年から1958年までは、唯一の法定通貨だった…。」 と、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に書かれています。
B円 について、ここでもう少し詳細にウィキペディアから引用させて頂きましょう。
【B円】
B円(ビーえん)は、1945年から1958年9月まで、米軍占領下の沖縄県や鹿児島県奄美諸島(トカラ列島含む)で、通貨として流通したアメリカ軍発行の軍票。1948年から1958年までは、唯一の法定通貨だった。日本国内で法定通貨とされた唯一の外国軍票であり、本土地域でも短期間少量流通している。
正式名はB型軍票。英語表記は、Type "B" Military Yenで、Yen B type、B-yenなどとも表記される。
正確には、連合国の共通軍票であるAMC(Allied forces Military Currency)軍票の1種であり、他の連合国にも発行権があったが、日本に駐留した占領軍はアメリカ軍主体だったため、他国の軍は円建ての軍票は発行しなかった。当初のB円はアメリカ国内で印刷されたが、末期のものは日本で印刷されたものもある。硬貨はなく、全て紙幣だった。
沖縄県、奄美諸島とB円
アメリカが占領した直後は、沖縄本島は沖縄戦による荒廃によりどの通貨も流通せず、取引は物々交換で行われていた。その他の地域では旧日本円や、久米島紙幣などの地域通貨が若干流通していた。1946年4月15日、アメリカ軍は自らが発行するB円を公式通貨とした。その後、1946年8月5日からは若干の条件付きで新旧日本円の流通も認めた。そのため終戦直後の沖縄県や奄美諸島においては、これらの通貨が混合して流通していた。
しかし、アメリカ軍が恒久的な統治を考えるようになると、1948年7月21日に新旧日本円の流通は禁止され、B円が流通する唯一の通貨となった。このときは、7月16日から21日にかけて、日本円とB円の交換が行われた。
当初は 日本円1 円 = 1 B円 が公定レートだったが、1950年4月12日に日本円 3 円 = 1 B円(1ドル=120 B円)となり、B円が廃止されるまでこのレートが使われた。このレート変更は物価の上昇を招き、奄美諸島の本土復帰運動を加速させる結果にもなった。
B円だけを使用させることにより、米国民政府は、通貨の流通量を統制することができた。当時の公定レートは1ドル=360円だったが、1ドル=120B円という、日本円に比べ割高なレートがとられたのは、アメリカ軍が基地建設や駐留経費などを日本企業に支払う際に有利な条件にするためだったといわれている。
これにより日本本土から安価で資材を調達することができたかわりに、沖縄県周辺の経済は空洞化した。また、本土系企業の進出をも遅らせる理由になった。
当時の朝日新聞によれば、1953年12月25日において実際の通貨としての価値は1 B円=1.8 日本円程度だったという。
1958年9月16日から20日にかけて、アメリカドルへの通貨切り替えが行われ、廃止された。
「Wikipedia」から転載させて頂きました
「砲兵山吹之塔」
「砲兵山吹之塔」です。昭和41年(1966年)6月22日建立されました。野戦重砲兵第一連隊球第4401部隊、山根忠隊長以下739柱、及び配属鉄血勤皇隊員12柱を祀っています。
「砲兵山吹之塔」です。碑面の明治天皇御製「すえとおく かかげさせてむ 国の為 生命をすてし人の姿は」の御製は、宮内省の許可を得て、揮毫は日蓮宗総本山身延山久遠寺第八十六世一乗院日静上人(日露戦争に乃木将軍隷下部隊に陸軍伍長として従軍された)の筆によるそうです。
野戦重砲兵第一連隊球第4401部隊戦没者が記載された墓誌です。写真では解りにくいと思いますが、墓誌の冒頭に鉄血勤皇隊沖縄県立第一中学校生徒の戦没者氏名が記載されています。
《過去の写真ご紹介》
「砲兵山吹之塔」前に立つ石原正一郎さんです。昭和63年に撮影された、この写真は上掲の十字架の架かる萬華之塔の写真と共に、石原正一郎氏から頂いたものです。
沖縄戦も終局に近づいた昭和20年(1945年)6月18日、米軍沖縄占領部隊総司令官サイモン・B・バックナー中将が糸満市真栄里の高台で日本軍の砲弾によって戦死しましたが、石原正一郎さんは日本側の当時の野戦重砲第一連隊の中隊長として指揮をとっていました。そうした経緯で「萬華の塔」「砲兵山吹之塔」建立に尽力されました。そして石原さんは毎年6月22日に催されるこの地での慰霊祭には毎年必ず参列されるそうです。
沖縄遺骨収集奉仕活動で多大な貢献をされた石原正一郎さんは、金光教の遺骨収集にも深く関与して頂きました。また私も東京の千駄ヶ谷にあるご自宅にお訪ねしたり、携帯電話やメールなども無い時代でしたから、手紙で頻繁にやりとりするなど親しく交流させて頂きました。
南部視察中におけるサイモン・B・バックナー中将戦死に関わる砲撃の指揮を執った石原正一郎さんの新聞記事を、琉球新報記事群の中からから見つけましたので、ここに転載させて頂きます。
【沖縄に通い続け慰霊、収骨続ける/元砲撃隊長の石原さん】
「琉球新報」平成14年6月18日
【東京】1945年6月18日、米軍沖縄占領部隊総司令官サイモン・B・バックナー中将が糸満市真栄里の高台で日本軍の砲弾によって戦死した。57回目の命日を前に、日本側の当事者である当時の野戦重砲第一連隊の中隊長だった石原正一郎さん(85)=東京渋谷区=が中将の死について明かすとともに、44年間通い続けた沖縄への思いを語った。
石原さんが隊長を務める同連隊・球第4401部隊はこの日、真壁村(現糸満市真壁)に配備されていた。昼すぎに「真栄里の丘に米軍幹部の車が集まっている」との報告を受けた。「双眼鏡で方角と距離を確認し、14人の砲手が作業を進めた。残る砲弾は八発。すべて四キロ先の丘に向け発射。丘はがれきの山だった」と振り返る。
これまで中将は、歩兵銃で狙撃されたとの説もあった。しかし米軍側の戦死記録(米国陸軍省編/外間正四郎訳「日米最後の戦闘」)にも「日本軍の砲弾が観測所の真上でさく裂。吹き飛ばされた岩石の一つが中将の胸にあたり十分後に絶命した」と記されており、石原さんの証言と一致する。 使用されたりゅう弾砲は戦後、米軍が保管していたが、石原さんが「戦友の遺品」として返還を要求。現在、靖国神社境内に展示されている。
これまで事実を公にしてこなかったが、「私ももう85歳。事実を語り残すべきだと思った」と話す。85年には中将が倒れた高台に慰霊碑を建立。「米軍人が戦友の墓参りをする場を作りたかった」という。またドキュメンタリー作家の上原正稔さんの仲介で現在は、中将の家族と手紙のやりとりも行っている。
体調を崩す2年前まで44年間、6月には沖縄を訪れ、遺骨収集を行い、慰霊祭に出席した。「尊い命を奪われた人々の無念さを思うとやり切れない。沖縄に通い続けたのは、生き残った者として当然やらねばならないことだから」と話す。
「6月23日は、国の慰霊の日にしなきゃいかん」と力を込めて語る石原さん。今年も沖縄へ行くことはできないが、自宅で静かに手を合わせ23日を迎える。
「琉球新報」から転載させて頂きました
「萬華之塔」の左側に「萬華之塔 砲兵山吹之塔 由来記」と書かれた碑がありました。碑も小さいですが、文字も極めて小さいので写真では全く読めませんから、テキストに起こしてみました。平成4年5月15日 沖縄復帰二十年記念として建立されたもので、「野戦重砲兵第一聯隊会 祭主石原正一郎 文責建立石原正一郎氏」と記載されていますので、石原正一郎氏が起案した文章である事が解ります。
野戦重砲兵第一聯隊会及び石原正一郎氏が、「萬華之塔」「砲兵山吹之塔」の建立に尽力された経緯と共に、真壁住民の御厚情に対する感謝の念を強く表出しています。また戦没された方々への慰霊と顕彰に心を尽くす姿が浮かび上がってくる文面です。そして金光教那覇教会の林先生も現地慰霊祭に深く関わっているのが見てとれます。少し長いですがお読み下さいませ。
【萬華之塔 砲兵山吹之塔 由来記】
この浄財寄附者の碑は、昭和二十年六月二十三日沖縄戦終焉直後米軍占領下にあって、ここ當時糸満町三和村真壁部落の村民が、山野や田畑に累々と野曝しのままであった尊い軍官民戦没者の御遺骨を収集奉仕され、焼土と化した住むに家なき生活にありながら、占領下の通貨B円の五円、十円の尊い浄財を募り、納骨堂を建立し手厚く御屍を納め、萬華之塔と命名された建立基金協賛者の碑であり、納骨遺骨は約壱萬余柱に及ぶと聞く。このたび台風により破損した碑を真壁区長新垣正順氏の許可を受け、(合)本部砕石嘉手刈林春企画部長の御厚意と、例年山野の遺骨収集に協力奉仕を続ける沖縄在住米軍退役軍人ウイリアムJブレブル夫妻(妻邦子沖縄県民)のご協力により補修完成した。
砲兵山吹之塔建立も昭和四十一年四月遺品の火砲を米軍司令部より返還受領訪沖時、この地真壁の故金城増太郎先生、糸満市田島重男町会議員はじめ、村民一同の好意ある会議決定により無償で許可された。砲兵山吹之塔建立二十年を経た昭和六十一年十二月塔の補修工事中、左側珊瑚礁附近より発見された御遺骨もブレブル夫妻、キャップテンメンザ夫妻、篤志家栃木県高岡敏郎氏、金光教沖縄遺骨御用奉仕団等の協力を得て、二カ年にわたる遺骨収集奉仕により、数多くの遺品(球第四四〇一認識票外)と十三柱を収骨し、「諸霊安らかに」の建碑を奉献した。ここに由来を刻し縁りの遺族戦友はじめ本土同胞として、沖縄県民特に真壁村民の御厚情を永久に銘記し、深く感謝の誠を捧げる次第であります。
因に萬華之塔内遺骨は、昭和四十一年六月二十二日挙行された砲兵山吹之塔建立除幕式慰霊祭の祭主として来沖された、野戦重砲兵第一聯隊会総裁東久邇盛厚王元宮殿下(明治天皇皇孫、昭和天皇第一皇女故照宮成子内親王殿下の背の宮、今上天皇御義兄)の御意思により、占領下の昭和四十二年六月二十二日縁りの本土、沖縄生残りの戦友と米軍上陸前部隊駐屯地東風平村出身故神谷正雄氏御一家の御協力奉仕により、萬華之塔内の御遺骨を全て搬出し、那覇市日蓮宗妙光寺故新垣宣岳上人読経裡に一昼夜に及ぶ荼毘作業を営む。(偶々新垣上人御長男宣恒命は球第四四〇一部隊第六中隊衛生兵として真壁に戦死、萬華之塔に納骨され御尊父の回向供養を受く、奇しき法縁であった)
荼毘を終えた分骨二基を砲兵山吹之塔に供え慰霊祭を営み、分骨は岩水、石原両中隊長の胸に抱かれて本土に奉還され、靖國神社の特別の御配慮により境内奉納沖縄戦遺品の火砲と対面を許された。(靖國神社境内に戦没者が迎えられたのは御創建以来前例はない)この年七月十五日うら盆回に故東久邇盛厚王元宮総裁祭主となられ、本土遺族戦友により長野県善光寺忠霊殿、山梨県日蓮宗総本山身延山久遠寺に盛大に納骨法要を挙行、更に昭和四十五年六月二十二日沖縄、本土遺族戦友、真壁村民により砲兵山吹之塔、萬華之塔慰霊祭を営み、分骨を訪沖遺族戦友奉持して、和歌山県高野山沖縄戦戦没者供養塔に納骨、豪雨の中遺族戦友により盛大に納骨回向慰霊祭を挙行した。
昭和五十四年二月摩文仁ヶ丘国立戦没者墓苑完成、橋本龍太郎厚生大臣祭主の沖縄戦全戦没者追悼式典挙行時には、萬華之塔分骨を国立墓苑納骨堂に納骨した。例年の慰霊祭は、野戦重砲兵第一聯隊会総裁東久邇盛厚王元宮殿下の御意思により決定された六月二十二日を玉砕日と定め、真壁区民建立の萬華之塔と砲兵山吹之塔協賛行事として縁りの遺族戦友、真壁区長以下全区民参列、金光教那覇教会長林雅信師を祭主として二十七年間欠かすことなく挙行し、沖縄戦友は例年清明祭を営み今日に至る。
因に球四四〇一部隊沖縄県出身兵戦没者は七十八柱、配属鉄血勤皇隊沖縄県立第一中学校生徒十二柱が散華された。この砲兵山吹之塔は本土神奈川県真鶴産の原石を本土で加工し、沖縄に輸送したものである。碑面の明治天皇御製「すえとおく かかげさせてむ 国の為 生命をすてし人の姿は」の御製は宮内省の許可を得て、御製と砲兵山吹之塔の御揮毫は日蓮宗総本山身延山久遠寺第八十六世一乗院日静上人(日露戦争に乃木将軍隷下部隊に陸軍伍長として従軍された)米寿の筆になる。
碑裏面と顕彰碑の文字は石原正一郎記し顕彰碑文も起案す。砲兵山吹之塔祭主東久邇盛厚王元宮殿下は、昭和十四年対ソ連ノモンハン事件参戦時の第一中隊長殿下であり、昭和四十四年二月一日薨挙去、一乗院日静上人も昭和四十六年十二月二十七日行年九十三才の御長寿にて遷化された。
諸霊よ安らかに
平成四年五月十五日 沖縄復帰二十年記念 野戦重砲兵第一聯隊会 祭主石原正一郎 合掌 文責建立
(サイト管理者注:常用漢字にない漢字は常用漢字に変換しました。その他は原文ママ)
「山3480部隊(野砲兵第42聯隊)終焉之地碑」です。
【山3480部隊(野砲兵第42聯隊)終焉之地碑碑文】
山三四八〇部隊(野砲兵第四十二聠隊)は昭和十四年秋関東軍に新設の第二十四師団の特科聠隊聠隊として創設され東部ソ満国境近い東安省西東安に駐屯していたが、同十九年七月動員下令により出動し、南西諸島防衛のため沖縄本島の守備に当っていた。
翌二十年三月末より本当に侵攻した連合軍を迎えて、想像を絶するほど激しい弾雨の中で、第一線友軍の支援射撃に、あるいは対戦車攻撃に威力を発揮し再三その進撃を阻止するなど、砲兵の本領そのままに敢闘したのである。
やがて戦況の悪化に伴い、軍命令により島尻南部に後退した部隊は、ここ真壁を中心に陣地を展開してさらに奮戦するも、しだいに弾薬は途絶え死傷者は続出し各隊ごと最後の出撃を決行したがその殆どは、この地一帯で散華した。
また、輓馬部隊だけに在満時代からの数多くの軍馬も共に戦野を駆けたが、日を追って斃れる数を増し、戦火の消えたときついに一頭の姿もみることはなかった。
沖縄決戦における我が部隊の戦没者は、聠隊長西沢勇雄大佐以下二千百十余名を数えるが、部隊に配属された防衛隊員はじめ炊事や看護などに献身的に尽くされ、最後は部隊と運命を共にした人や、戦火の犠牲となった多くの住民のいたことを忘れることはできない。
これらのことが、祖国に今日の平和と繁栄をもたらすための礎石となったことを明らかにし、とこしえに御霊安かれと念じつつ、我が部隊終焉の地にこの碑を建立する。
昭和六十二年三月 野砲兵第四十二聠隊戦友会 同 戦没者遺族有志
「馬魂碑」です。「愛馬よ安らかに眠れ」と書き記されていました。沖縄戦では沢山の軍馬が動員されましたが、亡くなった軍馬の慰霊碑なのですね。沖縄戦では本土から沢山の軍馬が搬送されましたが、沖縄の在来馬もその多くが軍馬として動員されたそうです。ちなみに真壁にはもう一カ所「馬魂碑」がありますね。
「沖縄連隊区司令部戦没職員 慰霊碑」です。台座部分には、星マークと共に沖縄連隊区司令官 陸軍少将井口駿三閣下 祭霊外88柱と書かれています。
「独立重砲兵第百大隊(球一八八〇四部隊)碑」です。
【鎮魂碑碑文】
昭和十九年六月中旬マリアナ戦線の変化に伴い、突如陸軍重砲兵学校に八九式十五糎可農砲一個大隊の動員が下令された。教導聯隊は大隊長川村秀人中佐以下三百五十有余名を第三中隊第四中隊を主幹として、富士文教所の教官及び職員を加え横須賀重砲兵聯隊に転属した。当隊は独立重砲兵第百大隊として同年七月二十一日、沖縄那覇港に上陸第三十二軍に編入、主力は第五砲兵司令官和田孝助中将の隷下に入り、北中飛行場制圧の任に就き、一部は国頭支隊に配属された。
翌二十年四月一日米軍は古今未曽有の艦砲射撃及び爆撃に援護され上陸を開始した。棚原陣地の当隊は沈着冷静に対処し両ひ飛行場制圧に偉大な戦果を納めた。総攻撃に際しては機動的集中射撃を実施し砲兵の本領を如何なく発揮したが、間断なき砲爆撃により死傷者続出、火砲車両の損壊も甚だしく司令部命令により、喜屋武陣地に後退真壁附近に集結し、戦闘続行敵の進出阻止に当たった。
六月二十日最後の軍命令により機を失せず果敢な斬り込みを決行、全員悠久の大義に生き靖国の華と散った。本決戦に於ける当隊の戦没者は河村大隊長以下七百三十四名であるが、当隊に配属された防衛隊員学徒隊員はじめ看護炊事等に献身的に尽くし、当隊と運命を共にした人や戦火の犠牲となった多くの住民がいたことを忘れることは出来ない。祖国に今日の平和と繁栄をもたらすため、礎石となられたこれ等の方々の御霊の安らかならんことを祈願し、当隊終焉のこの地に碑を建立する。
平成五年五月 全国重砲会 重砲校友好会 独立重砲兵第百大隊遺族会
砲弾が立っていました。1トン爆弾というのを見た事がありますが、この砲弾はそれよりも小さいですから、〇キロ爆弾という呼称なのでしょうか。?
「萬華之塔」の右側には、ご覧のような舗装された歩道があります。この歩道を60メートル程進むと大きく口を開けた壕がありますので、行ってみましょう。
壕口が見えてきましたね。鬱蒼とした雰囲気です。ただ何年か前の巨大台風の被害により、倒木が多かったのでしょうか、近年は昔と比べて光が入るようになり、不気味な雰囲気は和らいでいます。実際にご覧のように樹林の外側に光が見えますからね。昔は全く見えなかったんですよ。最も曇りの日や雨の日は、相変わらず暗くて怖い雰囲気になりますので、見学する場合は曇りや雨の日は避けたほうが無難です。
ちなみにこのアンディラガマから南南東方向に150メートルぐらい行った場所に、第二十四師団野戦病院分院だった「アンガーガマ」があり、私も松永さん、吉井さんと共に、一度最奥部まで調査したことがあります。
アンディラガマ(真壁千人洞)
アンディラガマ(真壁千人洞)の壕口が見えてきました。
それでは中に入ってみましょう。私は最奥部まで入った事はありませんが、全長250メートルぐらいあるそうです。
20メートルほど入った所で入り口部分を撮影しました。かなり大きな開口部であるのが見てとれます。擬装するのは困難だったでしょう。
ご覧下さい。火炎放射攻撃を受けたのかガソリンを流し込まれたのか、壁面が煤で真っ黒ですね。黒煙や黒い煤は径年劣化として色褪せていくのが普通ですが、これほど往時の黒さを今に残している現場も少ないです。
アレッ、通路が無くなっている? エッそんな馬鹿な!!
ちょっと頬を摘まんでみましたが、夢ではないようです。もしかしたら行政が危険だという事で、塞いでしまったのかもしれません。それならそうと入り口付近にその旨の表示をして頂きたいですね。
壕内入り口付近には、往時を偲ぶ遺留品が沢山置かれています。戦後の遺骨収集時に捨てられた物品もありそうですが、真壁住民の避難壕であったという事で、生活必需品のような物品が多い印象です。
「白梅之塔」
林に囲まれた静かなたたずまいのこの地は、観光化された「ひめゆりの塔」とは違い、実に清楚で慰霊塔らしい雰囲気を醸し出していますね。 白梅同窓会の方々が定期的に清掃しているとの事ですから、いつの時も清潔な雰囲気が維持されているのかも知れません。このような「乙女らの祈りの場」という雰囲気を、いつまでも大切に維持していただきたいですね。
この「白梅之塔」は、県立第二高等女学校校長以下、職員生徒、同窓生105名を祀っています。二高女の生徒46名は、3月6日東風平の国民学校に設営された陸軍病院に動員されました。そして3月24日、生徒達は今の八重瀬町富盛にあった第二十四師団第一野戦病院に配属され、負傷兵の看護にあたる事になったのです。以降戦局の悪化と共に、新城分院や東風平分院などに移動し看護活動を続けましたが、6月4日解散命令を受けて以降は、戦野を彷徨う事となり、多くの犠牲者が出てしまいました。
解散命令が出た以降も、この国吉の壕で看護活動を続ける生徒も居ましたが、6月22日米軍にガソリンを流し込まれたり、火炎放射攻撃などの馬乗り攻撃をされて、職員を含む36人が犠牲となりました。この馬乗り攻撃は、6月18日バクナー中将が、真栄里部落で、日本軍の砲撃による流れ弾に当たり戦死した後という事もあり、米海兵隊第二師団によるその攻撃は、徹底的であり残虐的であったようです。この頃の米軍は怒り狂ったように、付近にいた住民に「日本軍に司令官の位置を通報した」として射殺したり、白旗の代わりに手を挙げて出てきた者まで銃撃するなど、軍民問わず徹底的な殺戮が行われたようです。
「白梅之塔」
県道54号線から別れて200メートルも行かないうちに「白梅之塔」が現れます。ここは真栄里になるんですね。「白梅之塔」はそんな木立に囲まれ静寂な雰囲気の中にがありました。参道の両側には常緑高木であるモクマオウ(木麻黄)が植え込まれ、実に清楚で霊域らしい雰囲気を醸し出していますよね。このような「乙女らの祈りの場」という雰囲気を、いつまでも大切に維持して頂きたいです。それから、いつ来ても感ずる事なのですが、清掃が行き届いています。「白梅之塔」に慰霊巡拝した際に、偶然清掃員の方が居て清掃作業をされていたので、立ち話的に色々と聞いてみましたら、やはりキチンと定期清掃を行っているという話でした。
国吉・真栄里地域には、五基の慰霊塔が建立されています。日本軍が最後の防衛線として設定した八重瀬岳、与座岳、国吉、真栄里ラインに重なる事もあり、小さな集落にこれだけ慰霊塔がある事からしても、国吉台地が与座に連なる防衛陣地の要衝であったかが解りますね。
「ひめゆりの塔」は、沖縄県立第二高等女学校職員生徒戦没者を祀る慰霊塔です。沖縄戦に学徒として動員され戦死した22名の白梅隊員をはじめ、戦争が原因で亡くなった教職員12柱、同窓生113柱、計149柱が合祀されています。「白梅之塔」は何時来ても生花が供えられ絶えることがありませんね。それに千羽鶴も。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
そう、千羽鶴です。同じように「ひめゆりの塔」脇にも千羽鶴を架けておく場所がありますよね。南部戦跡に限って言えば「ひめゆりの塔」への慰霊巡拝の人波が絶えませんが、「白梅之塔」にも足を伸ばして下さる方が思いの外多いという証でしょうね。
「白梅之塔」碑文です。チラチラして読みにくいので、テキストに起こしましたのでご覧下さいませ。
【白梅之塔碑文】
沖縄県立第二高等女学校の四年生56人で編成された白梅学徒看護隊は、昭和20年3月6日第二十四師団(山部隊)の衛生看護教育隊に入隊し、補助看護婦としての特別集中教育を受けていた。
米軍の艦砲射撃が激しくなった同月24日から、東風平町富盛の八重瀬岳にあった同師団の第一野戦病院に軍属として配置され、昼夜別なく傷病兵の看護に専念した。
戦況は日毎に悪化し、同年6月4日遂に白梅隊に解散命令が下り、隊員は散り散りになって戦野を彷徨し、一人またひとりと戦火に斃れていった。 その場所は殆ど不明である。
また、解散後この地に後退した山第一野戦病院に、再び合流した一部の白梅隊員は、同年6月21、22の両日に亘り、米軍の猛攻撃を受け無念の最期を遂げた。この辺一帯は、白梅隊員の最も多くの犠牲者が出た所である。
塔は、戦没した白梅隊員及び沖縄戦で戦死、或いは戦争が原因で亡くなった教職員・同窓生149柱の鎮魂と、世界の恒久平和を祈念して昭和22年1月に建立した。毎年6月23日の「慰霊の日」に祭礼が行われる。
平成10年6月23日
沖縄県立第二高等女学校 白梅同窓会
「沖縄県立第二高等女学校職員生徒戦没者名碑」です。
現在の慰霊塔は四代目で平成4年(1992年)6月に建立されました。塔の形は「壕の中から太陽を求める。日の光を求める」といったイメージで制作されたとの事です。
戦後三十五年目の卒業式
沖縄県立第二高等女学校の白梅学徒同期生の間で、「卒業証書を頂けないだろうか」という話が、戦後三十年を経て持ち上がったそうです。そうした経緯もあり、金城宏吉先生の指導を仰ぎながら、6月23日に亡くなった学友たちの墓前白梅之塔で行うという方針が定まりまして、沖縄の「ウスーコー(法事)」は、三十三回忌をもって終わりますので、白梅隊ご遺族の心情にも配慮しつつ、昭和52年の三十三回忌明けの二年後となる昭和54年(1979年)に、戦後三十五年目の節目に、白梅学徒同期生の卒業式が執り行われたそうです。
「白梅 沖縄県立第二高等女学校看護隊の記録」という本の中に、その三十五年目の卒業式の様子が書き記されていますので、引用させて頂きます。(^o^)
「白梅」 沖縄県立第二高等女学校看護隊の記録
白梅同窓会編著 クリエイティブ21 平成12年(2000年)初版
【戦後三十五年目の卒業式】 東恩納 道子(旧姓・東恩納)
(ここまで省略)
1979年6月23日、戦後三十五年目の私たちの卒業式が行われました。開式の言葉は、西平一男先生、司会の仲田史子さん《現・東(昭和17年入学)》の声が、塔の庭に優しく、そして静かに、緑の梢の蝉時雨の中に消えていきました。日出ずる国 みんなみの み空も海も か青なる
懐かしい校歌。しっかり歌っているつもりなのですが、なぜか声になりません。金城先生の張り詰めたお声…。
「卒業証書 安仁屋 俊子 右ハ本校所定ノ学科ヲ…」
稲福全栄校長先生(戦没)が、あの激戦の中を大事に持ち歩かれた校印で、朱色も鮮やかに押印され、「安仁屋俊子」、「上原春江」と戦没した白梅隊員の名前が読み上げられ、御遺族の方が正面に進まれる。いくらか腰の曲がったお父様。そして、白いおぐしのお母様。証書の娘の名をジーッと…。赤いバラをお着けになった胸を震わされ、一筋の涙を1945(昭和20)年3月23日、貴女たち自身で手にした筈の卒業証書の上に。
例年にならい「仰げば尊し我が師の恩」の歌で、広い講堂を在校生に送られ、昭和二十年三月六日、地久節といわれた皇后誕生日が、私たち二十年卒の卒業式でしたが、前年の十・十空襲で、那覇市は九十パーセントが全焼し、私たちのモダンなコの字型の校舎も全焼。空襲後、校長先生方でやっと決めた二十年三月二十三日でした。その前日二十二日の夜中十二時まで、東風平の山部隊との交渉をされた金城宏吉先生の願いも空しく、二十三日から米軍の艦砲射撃が始まりました。今にして思えば、卒業式などできる筈がありませんでした。
時は過ぎました。そう、三十五年も…。
塔に眠る貴女たちと一緒にやる筈だった卒業式。遠く東京から肥後秀子さん(現・肥後)、四国の松江富貴子さん(現・戸梶)と鈴木ヤス子さん(現・久保)、鹿児島から須賀米子さん(現・大川)、福島シズエさん(現・平井)、悦田淑子さん(現・川路)たちが、宮古の大嶺信子さん(現・砂川)、八重山からは大山喜代さん(現・大山)、備瀬秀子さん(現・新垣)渡嘉敷スエさん(現・宮良)たちが出席し、涙、涙で証書を頂いて…。
式はゆっくりと時を刻み、万感の想いを込めて『仰げば尊し』
「白梅」から転載させて頂きました
「わが国の守りは私たちの手で」と健気な決意も新たに、みずから進んで看護隊に志願し、非業の死を遂げられた白梅隊員と共に挙行された念願の卒業式…。
同期生の念願であった卒業式の挙行を待っていたかのように、沖縄県立第二高等女学校の校章や三角定規、そして糸巻き、櫛などが見つかったそうです。これら校章などの遺品は、摩文仁に近い大渡の壕から発見され、これらは同校同窓会会長大嶺勝子さんに届けられましたが、なんと三十五年目の卒業式の前日だったそうです。
校章をその他の遺品を発見したのは、石原正一郎さんという方で、金光教の遺骨収集にも参加されており、私も随分とお話をする機会がありました。
ちなみに石原正一郎さんは、米上陸軍最高司令官サイモン・B・バックナー中将の、南部戦線での戦死に関わる日本軍の砲撃を指揮した野戦重砲第一連隊の中隊長だった方で、戦後は沖縄に通い詰めて遺骨収集に取り組み、すでに南部戦跡で累計六千柱以上のご遺骨を収集された方なのです。
石原さんによる沖縄県立第二高等女学校の校章や遺品を発見し、同校同窓会長にお届けした経緯などが「沖縄・白梅の悲話」(読売新聞大阪社会部編)に記載されていますので転載させて頂きます。
本文では、発見された校章に関する説明や、石原さんの人となりや遺骨収集に掛けるその思い、そして戦没された女子看護隊の純粋さ、至高さに寄せる慈愛に満ちた哀悼の念などが記載されていますので、ご覧下さいませ。
「沖縄・白梅の悲話」
読売新聞大阪社会部編著 昭和55年(1980年)初版
【沖縄白梅の悲話】
(107ページ)
沖縄の悲劇を語り継ぎたいという思いを抱くのは、沖縄の人たちばかりではない。この沖縄シリーズ第一章『白梅』で、沖縄県立第二高女の三十五年ぶりの卒業式を待っていたかのように校章「白梅」が摩文仁の壕から見つかった、と書いたが、発掘されたのは、それだけではなかった。三角定規、おはじき、糸巻き、それに櫛もあった。
白梅隊員、上原初代さんのお宅で、まるで宝物のように大切に守られているこれらの品々を見せてもらったとき、三浦美佐子さんも河内さんも、あの戦いの様から考えて、まさに貴重品ともいえる、これら五つの遺品をだれが、どうして発見したのか、知りたかった。上原さんは「この人が、私たちのために持ってきて下さった、と聞いておりますが」と一枚の名刺を示した。
帰阪してすぐ、河内は東京で、その人、石原正一郎さんに会った。六十二歳。マユが太い。早稲田大学出身。沖縄で玉砕した野戦重砲兵第一連隊の元大尉である。
渋谷区千駄ヶ谷のマンションで、石原さんは、太く、低い声で、校章に、女子学徒兵に寄せる思いを語った。
石原さんは、昭和四十一年から、沖縄南部地区で収骨を続け、その数はすでに六千柱。四十六回沖縄を訪れている。三十三回忌の年、五十二年以降は、野戦病院を重点に収骨した。病院の中で自決させられた兵は、さぞ無念だっただろう、引きずってでも壕から出していたら助かっただろうに、という思いが強かった。
与座、八重瀬岳から摩文仁まで、二十カ所近い病院壕には、まだ数多くの遺骨があった。そして、そのまわりから、櫛、手鏡、裁縫箱、おはじき、鉛筆……少女の持ちものがいくつも出てきた。
「私はね、戦友がね、彼女たちにたとえ、包帯のひと巻きでもしていただいたのだ、心をなぐさめていたのだ、と思うようになりました。そうしますと、あの娘さんたちの小さな、ほんとうに細々としたお品が、もういとおしくてたまらなくなってきましてねぇ、ありがとうございます、ありがとうと口にしながら集めたんです。 校章もそうです。摩文仁に近い大度の壕から出ました。大きな石を二十人がかりで引き揚げました。その下に大人のご遺骨と、校章がありました。そばには少女の歯がありました」
石原さんは、すぐその校章などを同窓会の大嶺勝子会長に届けた。卒業式の前の日だった。「日本の戦史に、彼女たちのことは、全くといっていいほど出てこないんですよねぇ。まして、白梅隊は知られていない。それが残念でならなかったです。
私は必ず、六月二十三日、沖縄の終戦の日、白梅之塔にお参りしています。収骨に連れていっている大学生にも必ず、お参りさせています。若者が手を合わせてあげたら、あの人たち、きっと喜ぶよねって」
河内は、白梅の校章が結びつけてくれた石原さんとの出会いに、百万の味方を得た思いだった。石原さんはつぎつぎと遺品を見せてくれた。名刺ぐらいの鏡はところどころはげ落ちていた。鉛筆は二センチくらいまできれいに削られていた。胸が熱くなり、思わず語りかけていた。
―――ふるさと、沖縄から遠く離れた、平和な時代の東京で、二人の男が、いま、あなたたちのことを思い、偲んでいるのですよ―――と。石原さんは、両手を合わせていた。
沖縄南部で十五年間に六千体も収骨、これからも体の動く限り続けてゆくと石原正一郎さんは、南部の大きな地図をひろげて、日本の沖縄に、まだどれだけの遺骨が眠っているのか、熱っぽく話し始めた。
県の記録によると、昭和三十年までに県民が収骨した数は十三万五千二十三柱。それから四十五年までの十五年間に県は、さらに、二万九千七百六十八柱を納めたという。そして五十一年三月には、未収は、対象十八万八千百三十六柱のうち、二千百九十九柱になったと説明した。しかし、石原さんら民間の手で、五十年から今日まで、六千五十七柱が収骨されている。数が合わない。
「海洋博の年ですけど、摩文仁が心ない人たちの手でね、汚されているのがたまらなくなりましてね、ジュースやビールの空き缶がいっぱいなんですよ。清掃しようということになってね、黎明の塔から北側斜面から入ったんですよ。そしたら、山のような御遺骨ですよ。百三十七柱収骨しました。何万、何十万人という観光客の足元に、それだけ眠ってられたのです。それがいまの日本ですよ。
戦後三十五年たちますとね、もう御遺骨は、三十センチ、四十センチものわくら葉の下にあります。
まず、それをとりまして、地表を出すんですけど、その地表も風化しているんです。お骨のまわりを三メートル四方、掘りまして御遺品を捜すんです。お名前がわかるものは、なんとしても、御遺族にお渡ししたい。それが私の念願なんです。これまでに、百ほどの遺品をお届けしました。その百の御遺族のお顔を忘れることはできません。沖縄には、まだ、お名前がわかっているのに、肉親の手に帰れない遺品が何万とあるでしょう。これだけ豊かな日本が、なぜ、それをしてあげられないのか。考え方の問題じゃないと思うんですよ。日本人の生き方の問題じゃないでしょうかねえ」石原さんは、自費で、時には、心臓の発作で救急車で入院したり、骨折したりしながら、山野に、壕の中に入ってゆく。
「私たちが山野でね、十日前後でね、多いときには何百柱ですよね。三十三回忌には二千柱ですよ。もうないとは言わせません。それを数字をあげろ、なんて役人は言いますけどね。厚生省のお役人なんか、ハブがこわいのか、山野には決して入ってきませんよ。壕内の収骨しか予算がないとか言いましてね。いま、南部ではあちこち採石しているんですけど、もう一回ブルドーザーがくれば、というところに四柱もあったりするんです。かつてね、沖縄の人たちは、占領下の食うや食わずの時代に、るいるいたる遺骨を集めて下さったんです。真壁村にある万華の塔にはね、だれだれ三円、だれだれ五円と寄付した村人の名が刻まれていますよ。塔は十字架なんです。米兵が、納骨堂からシャレコウベをとっては、電気を入れて、おもちゃにしたらしいんです。村人がなんとかしなければと考えたのが十字架を立てることだったんですね。あの戦争で、村も家も、家族も失ったあの人たちが、どんな気持ちでお骨を守って下さったか。私たちはおこたえしなければなりませんよ」
石原さんの太く、低い声も、また、一つの沖縄の声であった。
「沖縄白梅の悲話」から転載させて頂きました
追記:
「白梅 沖縄県立第二高等女学校看護隊の記録」の第十章
白梅の香り永久に には、「本土の防波堤となった沖縄」という寄稿文を高岡敏郎さんという方が書いていますが、この方は昭和16年に満州に駐屯していた武部隊に入隊され、九十九里浜に駐屯する部隊で終戦を迎えられました。定年退職後、沖縄戦を知りたいと沖縄に通うようになり、その過程でご紹介した石原正一郎さんとも知り合い、また白梅学徒同期生の方々との交流も深まっていったようです。
高岡敏郎さんは、金光教の遺骨収集にも石原さんと共によく参加されました。結果として私も懇意にしていただき、インターネットの無い時代でしたから、メールなどの便利な手段はなくて、専ら手紙による“文通”を通じて高岡敏郎さんと交流を深めました。文通というのは現代では死語になっているのかな。?
石原正一郎さん、高岡敏郎さん
「南冥之塔」横にあるアバタガマでの一コマです。金光教の遺骨収集により、このアバタガマで発見された黄色い石鹸箱によって御遺族が特定されまして、その御遺族が翌年この壕に慰霊に訪れた時の写真です。
一番左の横顔の方と、中央やや右の女性が御遺族です。一番右側の横顔の人が、黄色い石鹸箱を発見した栗平さんという方で、驚くことに黄色い石鹸箱を持っていた兵隊さんとは同じ部隊の戦友であったそうです。また写真左から二番目のメガネをした方が、沖縄南部で十五年間に六千体もの御遺骨を収集された石原正一郎さんです。またその右側の片膝ついた方が、高岡敏郎さんです。
初代の「白梅之碑」です。昭和22年1月に建立されたようですね。この碑は「戦没された学友たちの供養は私達の責務」として、先生方、同期生、そして同窓生などの尽力と協力により、建立されると共に第1回目の慰霊祭が執り行われたといいます。この碑は当初国吉集落の南の丘の上にありましたが、昭和26年に現在の敷地に移設され、同時に現在のような立派な「白梅之塔」が建立されました。現在の塔は四代目です。現地に行かれましたらぜひ、この初代「白梅之碑」を探してみて下さい。すぐに見つかると思いますよ。
「白梅之塔」の右側にある「白梅学徒看護隊自決之壕」です。ちなみに、ここから百数十メートル離れた場所に「白梅之塔 上の壕」という壕があります。沖縄戦当時、両壕は単に「上の壕」「下の壕」と呼ばれていたみたいです。目の前にある壕は、開口部はかなり大きいですね。偽装は難しかったと思います。この病院壕では解散命令が出た以降も看護活動を続けた生徒も居ましたが、6月22日米軍にガソリンを流し込まれたり、火炎放射攻撃などの馬乗り攻撃をされて、職員を含む多くの学徒が犠牲となりました。
この馬乗り攻撃は、6月18日バクナー中将が真栄里部落で日本軍の砲撃により戦死した後という事で、米海兵隊第二師団によるその攻撃は徹底的であり残虐的であったようです。
階段を降りきったところで撮影しました。「白梅之塔」製作にあたり「壕の中から太陽を求める。日の光を求める」というコンセプトを、この写真を見ると印象深く感じられますよね。
「頭上注意」の表示が見えます。路面部分には砂利が敷かれています。この壕は国吉さんが熱心に取り組んでいましたから、国吉さん引退の今、何処かのグループがその志を引き継ぎ、遺骨収集に取り組んで居られるのかもしれませんね。それにしても、大変な労力時時間の間を要する作業に見えます。そのご苦労に頭が下がりますね。
壕内天井部の様子です。戦後70以上経過して、ガソリンを流し込まれるなど、激しい馬乗り攻撃を受けた様子を物語る岩面の黒い煤も色褪せていますが、往時の雰囲気を今でも残しています。
《過去の写真ご紹介》
「白梅之塔」から道なりに100メートルほど坂道の公道を登り、左に折れて「山形の塔」や「眞山之塔」を横に見ながら更に森の中に進みますと、「白梅之塔 上の壕」の碑文が見えてきます。碑の奥には壕があります。
「白梅之塔 上の壕」の碑文です。ここでは文言としては「竪穴」と表現していますね。壕とは呼べないレベルの縦穴だったのですね。白梅学徒看護隊の生徒さん達も下の壕は病院壕という事で、この縦穴に来ては睡眠をとっていたと記述されていますね。
ここがいわゆる「上の壕」です。壕の真上から撮影しています。下に降りるのにちょっと大変なのでここから撮影させて頂きました。壕の様子が余りわからなくてすいません。
以前降りて壕の中に入ってみた事がありましたが、それほど深くはなく、もしかしたら壕と呼べないぐらいの浅い壕でした。縦穴という視点で見てもみましたが、いずれにしても狭い空間でしか無かった印象です。しかしながらこの付近では壕らしき壕は他に見当たらず、睡眠をとるなど稀少な隠れ場所だったのでしょう。
(ご覧のように縦穴とも呼べないくらいに破壊されていますが、もしかしたら米軍の攻撃で大きく破壊されたか、軍備品の備蓄倉庫だったと言いますから、備蓄砲弾等が攻撃で誘爆したという可能性もあります。吹き飛ばされた側の土石がほとんど見当たず平坦になっていましたからね)
「南禅廣寺」です。「白梅学徒看護隊自決之壕」の横にあります。
「南禅廣寺」の右奥には、ご覧のような窪地があります。縦穴壕と呼んで良いと思いますが、中に入った事がないので、大きさも不明です。いつか入って見たいですね。
同じ霊域内にある「萬魂之塔」です。国吉部落の方々が域内に散乱していたご遺骨を集め建立された慰霊塔だそうです。
霊域内に今が見頃と緋寒桜が満開となっていました。霊域に祀られる戦没者に、「今年も春が来ましたよ」と告げているような気がしました。(^o^)
毎年の恒例行事となっていますが、今年も平和祈念公園の花売りおばさん達と写真に収まりました。こうして一緒に写真に収まるようになってなって何年になるでしょうか。私達メンバーも高齢化していますが、花売りおばさん達もまた高齢化しています。これから先もずっとお会いできる事を祈念したいです。「また来年も絶対お会いしましょうね」が遺骨収集最終日に花売りおばさんと交わす最後の言葉です。
調査・遺骨収集作業開始です
本日は、24日の参加記でご紹介しましたように、昨年9月、立命館大学の学生と沖縄鍾乳洞協会のメンバーが調査のために前ヌ山の洞窟に入った際に発見した御遺骨を、沖縄鍾乳洞協会の理事でもある松永さんを通じて戦没者遺骨収集情報センターのご了解の元、私達が収骨作業をする事になっています。
「御遺骨の年代を測定するために検体を採取する」という意味での遺骨収集ですから、取り残しが無いよう気を引き締めて取り組みたいと思います。尚沖縄鍾乳洞協会の山内平三郎理事長も、私達の作業の様子を見たいとの事で、後から見学に訪れるとのお話です。
遺骨収集作業の様子
入山に先立ち皆さんで手を合わせました。
御遺骨発見現場を目指してジャングルに入って行きました。
岩の上に置いてありました。手榴弾よりも大きいです。これは何でしょうかね。?
長丁場の作業になるので遊歩道から現場までビニール紐を展開しました。近くに公共施設がありましてトイレ利用の許可を得ているので、トイレの行き来も迷う事無く出来ますね。
御遺骨発見現場に到着しました。御遺骨を置く場所、そしてフルイを掛ける場所等を決めた後、皆さんがそれぞれ荷物を降ろしました。皆さんの準備が完了次第、壕に入ります。
壕に入りました。松永さん仲里さん、そして私以外のメンバーは初めて入る事となります。
ここから少し下ります。
御遺骨発見現場に到着しました。白い御遺骨が見えますね。
私が入ってきました。私のヘッドライトは明るいですね。(笑)
御遺骨を真上から撮影しました。写真上側が傾斜面の水上。そして写真下側が傾斜面の水下です。
壕内のこの傾斜面で一人がお亡くなりになった。そして全ての御遺骨が徐々に徐々に水下側に落ちていったと思われます。頭骨片も見えますが、頭骨も当然もっと上の方にあったと考えられます。亡くなって73年経過、もしくは150年とか200年。もしかしたらそれ以上年月が経過し、写真に写されている位置まで、何らかの力、例えば雨水の力とか重力とか、風力による移動はまず無いと思いますが、そうした何らかの力が作用して人骨がこの様な位置まで移動したと考えられます。
皆さんが続々と御遺骨発見現場に到着しています。
カメラを持っている方々に写真撮影をしてもらいます。
全員が到着しましたので、献花し皆さんが手を合わせご冥福をお祈りしました。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
合掌後、収骨作業開始です。松永さんが着手するに際し、「立命館大学の学生と沖縄鍾乳洞協会のメンバーが御遺骨を発見された事。御遺骨は沖縄戦戦没者なのか古墓に納められたお骨なのか、現時点では不明なので遺骨の時代については来年以降、戦没者遺骨収集情報センターが検体を調査し判断する事になっている。従って遺品や記名遺品が発掘されるかどうかが鍵となるので、御遺骨と共にそうした遺留品の発見にも力を入れて下さい」と語られました。
毎年参加されている女性の田中さんが、今年初めて娘さんを帯同して参加されました。そうした事もあり、松永さんが目の前にある地表骨について、「田中さんの娘さんにまず収骨して頂きましょう。きっと掛け替えのない貴重な体験になるはずです」と語られたので、皆さんも賛同して下さいました。写真は御遺骨を白布に納める娘さんの姿を写しています。
御遺骨を白布に納める娘さんです。横に折られる方はお母さんでもある田中さんです。
頭骨片について、吉井さんから状況の説明を受ける娘さんです。
露出している地表骨について、概ね収骨されたので白布に納めた御遺骨を移動します。
更に目をこらして小さな御遺骨や遺留品を見つけます。
更に目をこらして小さな御遺骨や遺留品を見つけます。
一番手前の男性は末吉さんと言います。今年初参加して下さろった方です。昨日と本日の二日間参加ですが、私が末吉さんの到着日時を勘違いしたために、昨日午前中の半日棒に振らせてしまいました。誠にごめんなさ~い。この場でもお詫びいたします。
ちなみに末吉さんは私よりも先輩の年齢なのですが、この遺骨収集以外にもボランティア活動をされているとの事で、色々とお話をお伺いしましたが、晩年は社会奉仕活動に活躍の場を見いだされている方です。ご覧のように服装についても、私は事前に何も申し上げませんでしたが、ご覧のようにしっかりと遺骨収集作業の装備を調えておられました。各種ボランティア活動をされているが故の体験から、周到な準備をされたのだと思います。誠に頭が下がる思いです。m(_ _)m
初体験の娘さんの周りに、お母さんと共にベテランさんが集まって優しく色んな説明をされていました。娘さんにとって掛け替えのない貴重な体験になる…。私はそう確信しました。(^o^)
松永さんが周辺部を精査しています。
吉井さんが次の段階としてクマデを用いて探し始めました。
田中さんと娘さんが頑張っています。もう少し継続して探して頂き、間もなくここの土砂は外に搬出して、フルイに掛けて更に探す事になります。
福岡さんが壕内空間を精査しています。
吉井さんと豊澤さんが居る場所が、傾斜面の最底部という事になります。この辺りは石を除き土は全部外に持ち出す予定です。
メンバー同士、色んな談義をしながら作業を進めます。これがまたテンションを上げてくれます。(^o^)
同じく傾斜面の最底部を調べる松永さんです。
私達がいる壕空間は、単純な形状ではなく、複雑な形状をしています。この穴のような部分もそうです。こうした部分も遺留品などが無いか、順次探していきます。
この写真は御遺骨があった傾斜面の傾斜角をよく表しています。結構急坂ですよね。御遺骨も下に下にと落ちていくのは自然だと感じます。
缶詰の缶が見えます。また缶の周囲に黒い煤が付着しているのが見えますね。
たき火の跡もありました。燃えかす、つまり炭は73年の歳月なんて問題なく残るのですね。これまで南部戦跡一帯で十数カ所ですが、ご覧のような火を燃やして米を炊いたり料理したと思われる跡を見てきました。小銃弾の火薬も火を起こす際に利用されたようです。実際にたき火の近くに薬莢殻が複数本置いてあるなんて現場もありました。
これも缶詰の缶ですね。開缶してありました。毎年のように缶詰の缶を見ていますが、ご覧のように年々腐植の度合いが増しているのを感じます。
さあ土砂の搬出が始まりました。約40メートルぐらい横穴みたいな坑道を運ばねばなりません。大変な作業ですが、全メンバーが一致協力してより多くの土砂を運び出したいです。(^o^)
壕内の土砂が搬出され、ご覧のようにフルイで細かい御遺骨や遺留品がないか精査されます。
男性陣が土砂を運び、女性陣がフルイに頑張ってもらう事になりました。松永さんはここでも娘さんに、こうしたフルイ作業を通じて何かを得てもらいたいと気遣っていました。親心ですね~。(^o^)
ちなみに土砂は最初のうちは発見御遺骨の周囲に限定して土砂が搬出されています。遺留品や記名遺品があるかないか、ここが一番重要な観点ですから、田中さんと娘さん頑張って下さ~い。(^o^)
立命館大学の学生と沖縄鍾乳洞協会のメンバーが調査された際に、もう一カ所御遺骨はなさそうだけど、遺留品が散在し日本軍将兵が居たと思われる壕があるという事で、今から仲里さんと一緒に見に行く事になりました。
仲里さん、早い、早すぎる。私を置いてきぼりにして、グングン前を行く仲里さんでした。仲里さんは忍者みたいに足早でした。
ここが壕口です。狭いです。人がやっと入れるぐらいの開口寸法です。これなら擬装は簡単だったでしょう。
壕口から少し降りると、すぐに水平移動です。ご覧のように凄く狭い通路を進みます。
最後は少し下って、壕口からトータルで約25メートルぐらい入ったでしょうか。現場に到着しました。
缶詰の缶を始めとして、ご覧のように沢山の遺留品がありました。小銃弾も見えます。
手足の指の骨がありました。ここで将兵が亡くなっているのですね。
銃剣のように見えますが、刃の幅といいましょうか高さがありすぎますし、刃が直線的でないという事もあり、恐らく銃剣ではないと思われます。
和風柄の急須です。ここでも火を焚いてお湯を沸かしてお茶を飲んだという事でしょうかね。
二個小銃弾があり、一個は薬莢のみで、もう一個は未使用ですね。
これは一斗缶という大きな缶ですね。
御遺骨発見現場に戻りました。
現場に戻りますと、引き続き松永さんや田中さん、そして娘さんが一生懸命フルイを掛けていました。
小さな御遺骨が出てきますね。
御遺骨発見現場付近でも引き続き、収骨作業が続けられています。
末吉さんが頑張って土砂を運んでいます。
傾斜面最底部もご覧のように随分と綺麗になりました。
末吉さんが布バケツを持って帰ってきました。
吉井さんが土砂をバケツに入れています。
仲里さんが土砂をバケツに入れています。
ご覧のような狭い坑道をバケツリレーしていきます。
昼食の時間になったので、壕内で収骨された御遺骨を運び出しました。手足の骨や脊髄なども見えますね。
三人の目が土砂に注がれます。
娘さんの手先に注目して下さい。ピンセットを持っています。これは便利そうですね。(^o^)
午前中の作業お疲れ様でした。(^o^) 昼食はレストランで頂く事になり、出発準備をしています。
来た道を戻ります。ビニール紐が張られているので安心です。
食事をする為だけで現場を離れるのはロスタイム? いいえ、全力で、そして集中して作業をした場合、リフレッシュタイムは必要です。エネルギーを充満させて戻ってきます。(^o^)
お昼ご飯ですよ (^o^)
美味しそうですね。頂きま~す。(^o^)
港川船乗りの帰還に際しての目印であったという巨岩の下を通ります。
ジャングル帯を進みます。福岡さんみたいに不足した装備を車から持ってきた人も居ます。
午後の作業開始です。写真中央に豊澤さんが居ますが、彼のヘッドライト光が強烈なのが見て解りますね。
フルイも三人で頑張っています。ピンセットが大活躍しているようです。
今のところ缶詰の缶二個と左下の金属的な物一点のみの遺留品となっています。例えばボタンなど身につけていたような、亡くなられた方の直接的な遺留品はまだ発見されていません。
この時点での収骨された御遺骨の様子です。手先指先の骨は、写真中央部の脊髄などと一緒にしてあります。身体全体万遍なくあるというのが見てとれますね。御遺骨の減耗状況もまた然りです。それから歯も見つかっています。3本ありました。DNA鑑定の可能性もあるので、亡くしたら大変と松永さんが持っています。また写真左下に何個か骨が写されていますが、動物の骨です。ごく僅かな量ですから、動物が壕内で死んだとかではなく、もしかしたら山羊とかの肉を壕内で食べたのかもしれません。
奥まった場所にあったのですが、この壁面も煤で黒くなっています。
福岡さんが収骨作業をしています。
豊澤さんが作業しています。土砂を削っているので、根が沢山見えるようになりました。これだけ根があるというのは、地表が思いの外近いという事を意味します。
松永さんが土砂を運んでいます。
現時点での壕内で発見された遺留品です。戦没者御遺骨の物と思われる遺留品はまだありません。
この時点での収骨された御遺骨の様子です。御遺骨はもうあまり出なくなったようです。
沖縄鍾乳洞協会の山内平三郎理事長が収骨現場を訪れて下さいました。理事長も沖縄戦戦没者の可能性がある一方、古墓の可能性もあると見ておられるようで、遺留品の発見状況を知りたいとの事で来られました。
収骨された御遺骨を観察する理事長です。歯も見てもらいましたが、奥歯を観察されて歯のすり減りの度合いが大きいと言います。古代の人間ほど固い食べ物を食べるので、歯がすり減っているとの事です。
御遺骨発見現場の収骨作業はほぼ終了しました。前の記事でも書きましたが、この壕の入り口すぐの所は風葬墓なのですが、とても広い空間である事から、日本軍将兵や避難民も大勢居たと推測されます。メンバーの皆さんがそこには沢山の遺留品があるので、御遺骨は収骨済みだと思うけど作業したいとの事なので、夕方までそこで収集作業をする事になりました。
作業が始まりました。皆さんが思い思いの場所でクマデを動かし始めました。
松永さんのお友達のHさんです。いつも松永さんと共に参加される大学教授です。現場では体験した知見を色々と語って下さり勉強になります。有り難うございます。
冒頭部分で、すでにご紹介した末吉さんです。私よりも年上なのですが、そのパワーたるや脱帽というところです。彼のヘルメットに注目です。先に彼は色んなボランティア活動をしていると書きましたが、そのヘルメットにはある場所の社会福祉協議会の名前が入っています。どこからボランティア活動した際に貼った物なのですね。
福岡さんです。今年は御遺骨の清掃用品を一段と充実させて持参しました。
吉井さんです。図書館や資料館などを訪ねて沖縄戦に関する資料を漁るのが趣味という吉井さんですから、その博識に私達はいつも助けられています。
写真奥の豊澤さんものた読書家ですから、沖縄戦について驚くほどの知見を持っています。手前の田中さんも金光教の遺骨収集を通じて長い事遺骨収集に取り組まれています。今年は娘さんを伴っての参加となりました。娘さんが社会人になったら遺骨収集の体験などは無理かも知れないので、学生のうちに体験させてあげたいとの事で一緒に参加されたとの事です。
皆さんが思い思いの場所で作業しています。
皆さんが無心にクマデを動かしています。
ごく短時間作業しただけなのに、こんなにも遺留品が見つかりました。銃剣が印象深いですね。人骨は全くありませんでした。左下の部分は少し離れた場所から発見されたので、離して識別しています。
その離れた部分の遺留品には、ご覧のようにボタンとか歯ブラシもありました。両者共に日本軍将兵が残した遺留品だと思われます。