平成30年(2018年)沖縄遺骨収集奉仕活動

1月23日(火) 八重瀬町安里で調査・遺骨収集

今日の天気予報は曇が多めながら、晴れ間も覗くという天気だそうで、降水確率も一日を通じて10%と安心してジャングルに入れます。最高気温は21度の予想ですから、快適に作業出来そうです。今朝の慰霊巡拝は、「山雨之塔」そして「南北之塔」です。それではご一緒に慰霊巡拝しましょう。(^o^) 

「山雨之塔」

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.1

糸満市の宇江城という集落の一角に「山雨(やまあめ)の塔」があります。道路脇にあるので見落とす事はないと思われます。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.2

「山雨の塔」です。この慰霊塔は1962年に建立され、第24師団(山部隊)を率いた雨宮中将と幕僚や兵士500柱がここに合祀されています。中央の塔が雨宮中将、両脇の塔が部下の幕僚を表し、部下幕僚が雨宮中将を助けている形を象徴しているそうです。

この師団は北海道で編成されたものですが、昭和19年に第32軍に編入され沖縄に転進してきました。第24師団(山部隊)は沖縄戦が始まる前は、那覇から港川ラインの主に本島南部島尻方面の守備に当たっていましたが、沖縄戦が始まって首里に迫る米軍の進軍を阻むために、急遽運玉森から前田高地に至る前線で戦闘に加わり、米軍と激しい戦いを展開した末に、精鋭部隊の兵員を激しく消耗していったのです。

5月下旬、第32軍司令部の首里撤退に伴い、第24師団の残存兵力も順次南部島尻へと退却し、司令部を糸満市の真栄平に置き最後の抗戦に臨んだのです。米軍の圧倒的な火力による激しい掃討戦により、将兵は次々と倒れていき組織的戦闘も不能となった事から、6月30日雨宮師団長は幕僚と共に、「山雨の塔」の横にある壕内で自決し、同師団は壊滅したのです。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.3

碑文ですが読めないのでテキストにしました。

【山雨の塔碑文】

大東亜戦争の局運急を告ぐるや昭和十九年八月遙か北満より雨宮巽中将の銃ぶる山兵団長躯沖縄の布陣に参加す翌二十年四月一日上陸せる米軍を迎撃血戦三ヶ月に及んで刃折れ弾尽き六月三十日兵以下幕僚等此の地宇江城跡に於て自刃悠久の大義に生く茲に南方同胞援護会の助成を得て碑を建て永くその偉烈を傳う

昭和三十七年十月 財団法人沖縄遺族連合会 

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.4

「山雨之塔」のすぐ横に「クラガーガマ」があります。数年前からこのガマに到る通路入り口に扉が設けられて自由に出入りできなくなりました。ですからここ数年ガマに入った事が無いですが、金光教では何度かこの壕で遺骨収集が実施され、ご遺骨が収集されました。この壕は「クラガーガマ」と地元民は呼び、「暗井戸」という意味だそうです。地元民の避難洞窟として利用され、また壕内は川が流れていることから、避難民の水くみ場を兼ねていたといいます。

少し解りにくいですが、ここから川が始まっていて、写真左手方向に川の中を歩いて進むと壕内に入ることができます。実は私も以前にこの壕内の進めるところまで前進してみようと、可能な限り前進した事があるのです。壕は少なくとも200メートルは容易に前進できます。200メートル前進した所は急に狭くなっており、人間も屈んで真っ直ぐにならないと前進出来ないほど狭いのです。その時は、普通の装備だったので、その穴を通ることは出来ず断念し、そこからは引き返したのです。

この壕内には多くのご遺骨や遺品が散在していると思われますが、ご遺骨を捜すのは極めて困難な現況なのです。それといいますのも、この壕内には驚くほどの汚泥が堆積しているのです。恐らく沖縄戦当時はそのような状況には無く、汚泥の堆積は戦後になってからだと思われます。

戦後の壕入り口付近での貯水池などの設置工事などにより、水がこの壕に集中するようになったと思われ、台風など大雨の時には壕内に大量の水が流れ込むようになっていますが、その水が200メートル先の狭くなっている部分から先に、容易に流れ去っていかないので、壕内が貯水槽のような働きをして、水に混じった土砂が沈殿してしまうのだと思われます。実際に発見されるご遺骨や遺品は、戦後堆積した汚泥の中ではなく、汚泥底部の固い地面部分付近から発見されるのです。水も確保できるし相当数の人たちを収容できる素晴らしい壕だったのでしょうが、現在は歩くのも困難なほど膨大な汚泥が堆積し、収集作業を極めて困難な状況にしています。

平成20年(2008年) 金光教の遺骨収集により、「クラガーガマ」から発見された御遺骨を再転載させて頂きます。

「クラガーガマ」から発見された御遺骨

遺骨収集の様子6

御霊様に申し上げます。
戦争の悲惨さを指し示す為に、御遺骨を頭骨と共にサイトに掲載させて頂きました。なにとぞ御了承下さいませ。御霊様におかれましては、安住の地に安らかに御鎮まり下さいますようお願い申し上げます。私達は目をそらす事なく30秒以上この御遺骨を見つめなければなりません。また 私達は戦争により起こりうる悲惨さを、この目でしっかり見届けておかなければなりません。
【平成19年(2007年)2月18日金光教遺骨収集にて発見・収骨】

御霊様のご冥福を心より祈念申し上げます。m(_ _)m

「南北之塔」

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.5

「南北之塔」と併置されている「捜索二十四聯隊慰霊之碑」が見えてきました。ところで沖縄の人々は真栄平を「メーデーラー」と読みます。ですから30年以上前の話ですが、「真栄平にある南北之塔」と沖縄の人に訪ねても意味が通じず南北之塔の所在が一向に解らないという時期がありました。今では笑い話ですけどね。(^o^)

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.6

手前が「捜索二十四聯隊慰霊之碑」で奥が「南北之塔」です。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.7

『南北之塔』は県道250号線沿いにある真栄平集落の背後にある小山の一角にあります。また「南北之塔」のすぐ横には「アバタ壕」があります。

沖縄戦末期の真栄平では多くの沖縄県民と日本兵が犠牲になりました。収容所から戻った区民らま、まず屋敷内や道路・田畑に散乱する遺骨の収集から始めねばならなかったといいます。集落の端に積まれた遺骨や遺体を「アバタ壕」に「真栄平納骨堂」として埋葬。昭和41年に区民や県外の元日本兵や遺族らの寄付で同塔を改築し「南北之塔」と命名しました。この付近一帯は北海道を拠点とした第24師団歩兵第89連隊の将兵が最期を遂げた地でもある事から、塔名の「南北」は、北は北海道から南は沖縄まで、全国の戦没した将兵・住民を等しく祀ってあげたいという地元の人々の強い願いが込められていると言います。また改築に伴い壕内に納められていたご遺骨の一部は摩文仁の平和記念公園にある沖縄国立戦没者墓苑に移されたという話です。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.8

「南北之塔」の碑文です。

【南北之塔碑文】

沖縄戦終焉の地、ここ真栄平は最も悲惨な戦場と化し、多くの犠牲者を出した所である。当時の人口は九百人の中、生存者はわずか三百人余りであった。沖縄の戦後は遺骨収集から始まったと言われ、収容所から帰った区民も直ちに屋敷内や道路、田畑、山野に散らばっていた遺骨の収集をはじめた。

この塔には、真栄平周辺で戦禍に倒れた区民をはじめ、中南部からの避難民、軍人等、数千柱の身元不明者の遺骨が納められ、その御霊が祀られている。

この塔は終戦間もない昭和21年、真栄平納骨堂として、世界の恒久平和の願いを込め、真栄平区民によって建立された。昭和41年、真栄平遺族会や篤志家のご芳志を受けて改築を行い、現在の南北の塔が完成された。

毎年6月23日には、戦没者のご冥福をお祈りするとともに、平和の尊さを子々孫々に伝える行事として慰霊祭が行われている。

平成元年3月 真栄平自治会 

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子9

「アバタ壕」における金光教遺骨収集奉仕活動では、御遺骨の発見と共に大きなドラマがありました。

信者さんである右上に写っている栗平さんが、「○○○○」という名が記された 「黄色い石けん箱」を壕内で発見したのですが、驚く事になんと石けん箱に記された名前の兵士と栗平さんとは、同じ部隊に所属した戦友だったのです。

「黄色い石けん箱」 をぜひ御遺族にお届けしようと、戦友である栗平さんを始め、金光教のご本部、伊方教会の品川先生、銀座教会の石原氏による懸命な調査により、ついに遺族が特定されたのです。

この壕内で戦死された○○○○さんの息子さんご夫妻が、東京に住んでいる事が判明し、遺品である「黄色い石けん箱」は、無事に御遺族の元へ帰ることが出来たのです (^o^)。

「父の戦友であった栗平様をはじめ、多くの方々のご厚意により、私を捜し出して下さり、銀座教会で私の手元に遺品を返して下さったのが、母の法事の前日でした。法事の日に兄弟親戚に見せ、皆で涙しました」 と、御遺族が語っていたのが印象的でした。

この写真は、遺族である息子さんご夫妻が慰霊のために、黄色い石けん箱が発見された「アバタガマ」を訪れた際に撮影したものです。 (一番左に写っている男性と写真中央右寄りに写っている女性が御遺族です)

黄色い石けん箱を発見した戦友の栗平さんや、左側に写っている沖縄戦で戦った石原さんが、沖縄戦当時の日本軍の戦況や米軍による馬乗り攻撃された際の、壕内の惨劇の様子を遺族に説明しているところです。

ご遺族の○○さんは翌年から金光教の遺骨収集奉仕活動に参加されるようになりました。御遺族の○○さんは、その熱意溢れる奉仕活動のなかで、多くの御遺骨を発見されました。

ご遺族の胸中は、○○さんが大病されて医師の勧告により訪沖出来なくなるまでの10数年間、金光教沖縄遺骨収集奉仕団の一員として、毎年遺骨収集活動を継続された事に、それがよく表出されていると思えます。病を抱えながらも、身体が動く限り沖縄遺骨収集奉仕活動に参加し続けたいという、真摯な姿勢がとても印象的に私の脳裏に焼きついているのです。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.9

「捜索二十四聯隊慰霊之碑」です。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.10

「捜索二十四聯隊慰霊之碑史」碑文です。テキストに起こしましたのでご覧下さいませ。句読点ではなく一文字の空白で段落を表しているので、少し読みにくいかも知れませんが、原文ママで表示しました。

【捜索二十四聯隊慰霊之碑史】

昭和19年7月連隊に動員下令、同年10月17日駐屯地満州東安省密山を出発 同年8月3日沖縄本島到着読谷山村字波平に駐屯波平瀬名波長浜に至る海岸線に陣地構築 同年12月沖縄防衛作戦変更により連隊は島尻郡真栄平に異動連隊本部を真栄平にき大度より米須に至る海岸線に向い陣地構築国の防衛に任ずるも 同年20年4月1日米軍嘉手納より波平に至る海岸線より上陸連日激戦を転回 同年4月24日首里防衛戦参加のため連隊は辨ケ岳後方大名部落に転進連日棚原西原幸地掛久保宮城方面に斬込隊を出動させ多大な戦果をあげ部隊個人感状数多く受け前田方面えの夜襲17戦辨ケ岳での陣地戦と勇戦敢闘せり同年 5月29日軍は 島尻地区の新防衛線に後退連隊は師団後退の後衛部隊として最後迄敵と対時良く任務を達成最後の引上部隊として真栄平陣地に後退同年 6月 1日配備完了連日斬込隊を敵陣に出動さす同年 6月18日175.5 高地えの夜襲占領翌19日同陣地で連隊主力をもっ平に至る海岸線より上陸連日激戦を転回同年 6月21日真栄平66高地陣地に於いて連隊長以下残余の将兵連隊長自ら兵の銃を取り敵を激撃全員壮烈な戦死をとげた連隊長以下戦没将兵 400名と連隊と運命を共にした真栄平住民連隊医務班看護婦炊事班勤務の炊事婦防衛隊員等約 200名の英霊に 子々孫々に至る迄慰霊の誠を捧げ2度とあの悲惨な戦争を起こしてはならない永遠の世界平和を念じここに象徴の碑を建立した

捜索二十四聯隊山三四七八部隊 
生存者 陸軍伍長 渡部 満 

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.11

「クワデーサー」の木が植えられています。和名はモモタマナ(桃玉名)です。三十年ぐらい前は小さな木でしたが、毎年グングンと大きく育っています。紅葉した葉が印象深いですよね。沖縄では紅葉した葉があまり無いですから。モモタマナ(桃玉名)は葉がおお大きいことから木陰を作るという事でしょうかね。沖縄では古くから村落の集会所や墓地などで植えられています。また果実は食用になりますし、何よりヤシガニの好物だそうですよ。(^o^)

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.12

この付近及び「アバタ壕」等での戦没を特定できた方が多いのでしょうね。個人の慰霊塔やお墓もご覧のように数多く並んでいます。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.13

「アバタ壕」入り口です。壕入り口は擬装や隠蔽したとしても結構目立つ大きさですね。壕の奥行きはおよそ40メートルぐらいでしょうかね。壕は斜めに下ってカーブを描いていますから、壕内部は思いの外広く感じます。また川というほど水流はありませんが、梅雨の頃には水も湧き出るのではないかと推測される水流の痕跡があります。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.14

それでは「アバタ壕」に入って見ましょう。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.15

「アバタ壕」は入り口から4メートルぐらい降りたところで、二方向に分かれます。写真は少し解りにくいのですが、その二つに分かれる分岐点を撮影しています。元々この分岐から先は、この壕が真栄平集落の避難壕であった関係で、地元の戦没された方々のご遺骨を納めていました。そうした地元の戦没者が眠っている分岐入り口はセメントで完璧に塞がれていた事もあり、金光教の遺骨収集でもこの分岐口から先はノータッチで取り組みました。しかしながら数年前に何者かにより分岐入り口が破壊され、下に降りられるようになってしまったのです。ですからご覧のように、大きな岩が積まれていますが、岩を除ければ降りられる状況になってしまいました。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.16

壕の底面を見ています。写真よりもあと少し奥まった空間がありますが、ここからは見えないという状況です。湿気を含んだ生暖かい空気がこちらに吹き付けてきます。カメラレンズもすぐに曇ってしまいました。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.17

上を見上げてみるとご覧のような感じです。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.18

「南北の塔」のある敷地から南側を見ています。解りにくいですが太平洋の海原が展開しています。写真中央部辺りが大渡海岸です。ここから大渡海岸までおよそ2.5キロメートルです。また少し右側に束里の清掃工場の煙突が見えますね。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.19

「南北の塔」に隣接する畑には、ご覧のようにバラが満開になっていました。季節は正に春本番という印象です。(^o^)

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.20

昨日の記事でも書きましたが月桃ですね。旧正月に食べる事の多いムーチー(餅、鬼餅)は、餅粉をこね、白糖や黒糖で味付けをして月桃の葉で巻き、蒸して作ります。健康や長寿の祈願のため縁起物として食されるとの事です。

調査・遺骨収集作業開始です

今日は終日安里で調査・遺骨収集作業に取り組む予定です。それでは事故に気をつけ一日頑張りましょう。(^o^)

安里で調査・遺骨収集作業

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.21

「萬朶之塔」全景です。安里に来ましたらまず参拝です。数年前まで「萬朶之塔」の背面と左側は雑木林でしたが、綺麗に撤去され畑になっていました。その数年前までは同塔に至る道も雑草に覆われていましたが、松永さんの話では自衛隊関係者が通路や慰霊碑の管理・清掃を続けて下さっているという話をしていました。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.22

背面には碑文が書かれていますが、読めないのでテキストを起こしましたのでご覧下さいませ。

【【萬朶之塔碑文】

独立混成第四四旅団工兵隊は、優勢なる米軍に対し勇戦奮斗、敵の心胆寒からしめたるも昭和二十年六月中旬村本福次大尉を長とせる将兵並びに軍に強力せる住民併せて二百余名は善戦空しくこの地において玉砕せり。

ここに南方同胞援護会の助成を得て塔を建て御霊を慰め永くその遺烈を伝う。

昭和四十三年六月 財団法人沖縄遺族連合会

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.23

作業に先立ち、ここ具志頭から八重瀬嶽の前線帯を陣地として激戦を展開した独立混成第四四旅団の戦没者に手を合わせました。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.24

本日調査・遺骨収集作業に取り組む、右から菊池さん、豊澤さん、吉井さん、福岡さんです。よろしくお願いします。(^o^)

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.25

まずは4メートルほどの切り立った崖をおります。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.26

崖を降りると、少し水平移動して現場に到着します。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.27

作業開始です! 写真中央の「埋もれた壕」を掘ってみようという話になり、本日総力を結集して取り組みます。御遺骨が出ても出なくても、皆さんが納得がいくまで掘り進めるつもりです。(^o^)

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.28

相当なボリュームの土砂を搬出する事になります。もっとも昨日見学させて頂いた南埜さんの現場に比べたら二十分の一とか三十分の一とかのボリュームかもしれませんが…。まずは最初にその土砂を置く場所の確保です。そして当然のその場所は、御遺骨や遺品が無いか同時に調査されなければなりません。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.29

皆さんが勝手知ったるベテランメンバーですから、目に見えてグングンと作業が進みます。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.30

大分片付いてきましたね。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.31

同時に壕口を広げる作業も開始されました。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.32

豊澤さん、福岡さんが土嚢袋に土砂を詰めています。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.33

土砂を置く場所を金属探知機で金属的部品がないか調べています。ちなみに私達が金属探知機を使い始めたのは、福岡さんが最初に携帯して見事にその効率性を見せて下さったからです。福岡さん有り難うございました。

こうした時は目視も大切ですが、金属探知機は間違いなく作業短縮化を図ってくれますね。他の遺骨収集をされている団体の皆様、ぜひ金属探知機をご準備下さいませ。必ずや作業効率に貢献しますよ。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.34

見事な作業ぶりです。今から土砂を置く予定の場所について、御遺骨や遺品等が無い事を確認しました。これで心置きなく残土を積み上げる事ができますね。(^o^)

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.35

ミミズ君が居ました。雨が当たる場所の土砂を掘り返すと、よくミミズに出会います。ちなみに土を掘り起こすと、ミミズ君と共に蝉の幼虫にもよく出会いますね。クマデ等を連続的に振り続けていると、ミミズが出てきても惰性で振り続けてしまいがちですが、ミミズ発見という状況では、可能な限り無傷で他の場所に移動させたいですね。私も撮影後ミミズ君を遺骨収集の影響を受けない場所の腐葉土の中に放ちました。

話は飛躍しますが(^^;)、私達人類は大地を耕し土の生態系を豊かにするミミズ君が居なかったら、作物の収穫量は激減し生存困難になるかもしれません。それくらい人類にとっての恩人、いや恩ミミズなのです。(話が飛躍しすぎてごめんなさい)

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.36

豊澤さんがパワー全開で、もうこんなに掘り進めて下さいました。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.37

土砂を移動し根を切って、中が見えるようになって来ましたね。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.38

頑張った豊澤さんに代わり、今度は菊池さんが取り組みます。一人した作業は出来ないので交代で取り組みます。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.39

次第に身体が中に入れるようになっているのが見てとれますね。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.40

掻き出された土砂を吉井さんが金属探知機で調査しています。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.41

金属探知機が反応しました。鉄製というのは解りますが、何の部品でしょうかね。?

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.42

豊澤さんが壕口を広げています。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.43

素晴らしい。身体が中に入るまでになりました。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.44

この時点でこの様な状況となりました。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.45

手前から、もう一段掘り下げて進もうという事になり、掘り始めました。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.46

吉井さんがメインとなり頑張っています。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.47

今度は豊澤さんに交替です。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.48

オー。人が入れるレベルになりましたね。(^o^)

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.49

比較的柔軟な身体である福岡さんが中に入りました。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.50

小銃弾が出てきました。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.51

壕内で豊澤さんと福岡さんの二人が中の土砂を外に出すべく作業しています。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.52

岩ではなく土の塊という印象ですが、明らかに煤で真っ黒になっている面がありますね。沖縄戦当時の表面であったのでしょう。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.53

豊澤さんがクマデで土を軟らかくしています。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.54

菊池さんはもう一段下げるべく掘り進めています。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.55

この時点で見つかった遺品と思われる物品です。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.56

豊澤さんが沖縄戦当時の地盤を探しています。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.57

また金属的な部品が出てきました。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.58

この金属的な部品は何でしょうか。?

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.59

この時点で見つかった遺品と思われる物品です。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.60

休憩です。この段階で見つかった物品を見て話し合っているところです。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.61

時刻は正午になりました。午後は別の場所に行く予定なので、昼食は具志頭城趾で頂く事になりました。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.62

間もなくジャングルから出ます。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.63

具志頭城趾にやって参りました。具志頭園地という公園になっていますので、駐車場もありますしトイレもあります。ザ・サザンリンクスゴルフ場を遠望する眺望の良い場所で、私達は昼食を頂きました。

具志頭村教育委員会が掲示した具志頭城という解説版には、「具志頭城は、十四世紀の中期頃に英祖王統第二代大成王の第三子具志頭按司が築城したものと伝えられ、以来、代々の具志頭按司の居城であった。その規模は、およそ二万五千七百平方メートルもあり、沖縄の古城跡の中でも大きい方で、自然の断崖上に構えられた山城形式にして、連格式の城である。…」と書かれているので、城趾の痕跡を探そうとしましたが、ちょっと見当たりません。場所が違うのかも知れません。

この写真右側の稜線には三角点があり沖縄戦では91高地と呼ばれた場所があります。独立混成第四十四旅団隷下の独立混成第15連隊(美田千賀蔵大佐)が布陣した場所でもあります。また具志頭城趾の横には、クラシンウジョウ壕という自然壕を掘り進めて構築壕とした立派な壕が残されています。この壕は米軍が港川から上陸する事を想定して構築された陣地壕です。またこの壕には琉球王国の初代王 尚巴志の三男、具志頭王子の墓とされる焼香台のある拝所もあります。ちなみにこのクラシンウジョウ壕は修学旅行生など団体から入場料を徴収する為に鍵が掛けられていて、一般人は見る事が出来ないのでご注意下さいませ。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.64

ザ・サザンリンクスゴルフ場を望遠で捉えました。ゴルフ場から手前には広大なジャングル帯があるのが見てとれます。私も金光教の遺骨収集で、運営委員会時代に一度この目の前に広がるジャングル帯に入った事があります。ジャングル帯に入って見ますと、写真で見る以上に広大な印象を受けました。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.65

昼食後公園内には慰霊塔がある事が解り慰霊巡拝しました。ここは「土佐之塔」への参道です。奥の方に慰霊塔が見えますね。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.66

「土佐之塔」です。沖縄と南方諸地域で戦死した土佐の国高知県出身者、18,545柱(うち沖縄戦戦死者832柱)が祀ってあります。

【塔の由来】

ここ具志頭の丘は、第二次世界大戦の戦跡であり、吾が郷土出身戦没者にゆかりの深い土地として、また隣接地はかつて津村久茂氏が慰霊塔を建立したところでもあり、今次大戦に散華された勇士の霊を弔うに相応しい處として、英霊の遺された崇高な御精神を讃える為全県民の浄財と郷土産の石材をもって、土佐の塔を建てます。

この塔が世界悠久の平和につながり、民族永遠の繁栄をもたらすことを希ってやみません。

茫洋たる大洋、紺碧の空、そして孤島に散華せられた英霊よ、安らかに鎮まりませと祈りつつこの塔の由来を記します。

昭和四十一年十一月 

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.67

「慰霊顕彰碑」と「忠魂碑」です。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.68

戦没者を記した刻銘板です。その他にも「甲斐の塔」とか「魄粋之塔」なども園内にあるようなのですが、昼食後すぐに戻るので、また後日参拝させて頂きます。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.69

吉井さんが具志頭城を少し降りた場所に風葬墓があると教えて下さいまして、吉井さん以外に私も含め誰もその風葬墓を見た事がないという事だったので、見学しようという話になりました。写真は具志頭園地から少し下った場所で、この少し奥の方に目指す風葬墓があるようです。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.70

巨岩の下に風葬墓がありました。福岡さんが見ている先に水瓶に入った風葬骨があります。石垣は黒いの白いのと混ざっていますから、戦後積み上げられたものと思われます。いずれにしてもこの地域一帯を俯瞰してみた印象を含めて、この岩陰は陣地として将兵が布陣していた可能性は高いと思います。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.71

これが水瓶に入っている風葬骨です。風葬骨のボリュームとしては多く残存している方だと思います。黒く焦げた壁面もある事から、この附近は米軍の激しい砲爆に晒されたはずです。そうした状況下よくこれだけ風葬骨が残存したと感激するほどです。白く粉っぽいうどん粉状の骨が表面に無いので、墓の上部を覆う巨岩の張り出しから見て、強い風の吹く台風による暴風雨以外では雨が風葬骨に掛からない位置関係にあるので残存率が高いのではないかと感じました。

風葬骨を入れる骨壺は、お金がある家は装飾を施された厨子甕(ずしがめ)に納めますが、一般庶民は日常生活用品である水瓶や油瓶を用いたようです。ちなみに南部戦跡一帯では水瓶のみで、厨子甕は見た事がありません。その素焼きの水瓶も大きさは実に様々な物がありました。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.72

風葬墓の位置は結構海岸に近かったので、道を下りついでに車を海岸まで走らせて砂浜に降り立ってみました。写真では見えませんが、この山の上の方に具志頭城趾があります。摩文仁方面から避難してきた人達は、具志頭城趾のあるこの山の裏側か、この砂浜を通って港川方面に向かった事でしょう。ちなみに金光教では運営委員会時代に2回、那覇教会主催になって1回遺骨収集がこの附近で実施されています。

午後の調査・遺骨収集作業開始です

昨年の遺骨収集では、八重瀬町安里でご足労頂いた真喜志さんご兄弟のご案内により、完全一体のご遺骨発見に至りましたが、昨年の参加記でもご紹介した新聞記事文の「米軍の戦車砲を打ち込まれて壕口が崩れた」という第3小隊壕とは、壕の内部構造が少し違うので、私も含め皆さん全員が昨年の壕附近を、必要ならもう少し範囲を広げて別の壕があるかどうか探してみたいという話になりました。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.73

壕があるかないかを確認するために、メンバーの皆さんが一定の間隔で離れて前進しています。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.74

巨大な樹木が倒れていました。恐らく台風などで倒れたものと思いますが、こんな大木が倒れるなんてビックリですよね。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.75

吉井さんが歩いている横に、上掲の倒木の根が写されています。この写真で見ると、なぜ巨大な樹木が倒れたのか理解できますね。根株が浅いですよね。実に薄っぺらです。これでは踏ん張れません。地面は腐葉土で厚く覆われていますが、一皮むけば土の少ない岩盤が覆っているという事なのでしょう。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.76

この附近は緩斜面になっている事もあり、大きな亀甲墓がありました。コンクリート部分には立ち入らず、その周縁部を移動します。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.77

福岡さんが何か見つけたようです。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.78

水瓶の蓋ですね。割れてないのは珍しいと思います。附近に風葬墓があるかもしれないと見渡すとありました。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.79

入り口は狭く入れませんが、岩の下に空間がありました。福岡さんが内部を照らして精査しましたが、風葬骨は無いようです。落盤した形跡もなく、入り口も無い事から陣地としては使われてない、ただの空間のようです。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.80

少し解りにくいですが、1メートル×2メートルぐらいの大きさで、窪んでいる場所がありました。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.81

吉井さん福岡さんと、この不可思議な沈下した部分について、しばし検討をしました。機会があれば掘ってみたいですねという意見でまとまりました。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.82

傾斜面がきつくなってきました。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.83

そうこうしているうちに、昨年の御遺骨発見現場に接続されている別の開口部である古墓側の前に出ました。この古墓内には水瓶に収められた風葬骨が納められています。戦没者遺骨収集情報センターからお聞きした情報では、昨年私達が遺骨収集を終えた後に、戦没者遺骨収集情報センターが民間会社に、この壕の内部調査を委託して大規模に調査をされたと担当の方からお伺いしました。積み上げられた石組の一部が白くなっている部分がありますが、そこから出入りしたものと思われます。その結果こちら側の壕内には、戦没者御遺骨や遺品は無かったとの事です。

昨年真喜志さんのご案内・ご協力を得て発見した完全一体の御遺骨が、独立混成第四四旅団工兵隊(球7073)の村本福次隊長(熊本県出身)である事がDNA鑑定で確定しまして、御遺骨は無事に御遺族の元にお帰りになられたと、16日の参加記でご報告させて頂きました。そうした経緯もあり、私達は村本福次隊長が熊本県出身である事から、摩文仁之丘にある熊本県の慰霊塔の「火之国之塔」に参拝して参りました。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.84

熊本県の慰霊塔である「火之国之塔」に到着しました。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.85

「火之国之塔」です。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.86

「火之国之塔」に詩が埋め込まれています。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.87

塔前で、村本福次隊長が73年ぶりに故郷にお帰りになった事をご報告すると共に、戦没された方々のご冥福をお祈り申し上げました。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.88

参拝を終えた後、慰霊塔の周囲に掲示されている戦没者の名前を皆さんが見ています。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.89

戦没者の名前に見入る松永さんと菊池さんです。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.90

同じく戦没者の名前に見入る吉井さんと福岡さんです。

独立混成第四十四旅団隷下の独立混成第四四旅団工兵隊(球7073)の隊長であった、熊本県出身の村本福次隊長は、73年の歳月を経て故郷にお帰りになりました。私達は改めて村本福次隊長と同じ壕に居たと思われる、重傷を負われた甲斐勇一曹長(宮崎県出身)に着目しました。

真喜志さんのお父さんは、独立混成第四四旅団工兵隊(球7073)所属兵士でしたが、お父さんが御遺族に宛てた書簡の中には、次のように書かれている部分があるのでご紹介します。

「部隊編成以来常に隊長を補佐し、部隊人事係として最も信望の厚かった甲斐勇一曹長が、単身壕を出て小隊巡視の帰途米軍から狙撃され、左下腹部に貫通銃創を受け重傷を負うたことでした。顔色をご覧になった隊長殿は直ぐに気付かれ「負傷しただろう、早く手当して貰え。まだまだ大事にせんといかん」「いや、大したことはありません」とはいったものの、宮原衛生軍曹が診ると、意外に重傷の様でした。ひとまず手当はしたもののかなりの重傷と見え、もう再び立ち上ることはできませんでした」

この文面から推察するに、甲斐勇一曹長は村本福次隊長と共に壕内で最後を迎えたと思うのが順当です。甲斐勇一曹長を必ず発見しましょうと、私達は誓いを新たにしました。

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