平成30年(2018年)沖縄遺骨収集奉仕活動
- 1月16日(火)故具志八重さんのお墓参り、故真喜志康一さんのお墓参り
- 1月17日(水)菊池さんと糸満市摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月18日(木)松永さん菊池さんと糸満市束里と摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月19日(金)菊池さんと糸満市摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月20日(土)糸満市与座の洞窟陣地で調査・遺骨収集
- 1月21日(日)糸満市束里及び八重瀬町安里で調査・遺骨収集
- 1月22日(月)南埜さんによる遺骨収集作業継続中の現場を見学
- 1月23日(火)八重瀬町安里で調査・遺骨収集
- 1月24日(水)八重瀬町安里で調査・遺骨収集、八重瀬町による遺骨発見現場調査
- 1月25日(木)(申し訳ありません。非公開での調査・遺骨収集を実施しました)
- 1月26日(金)八重瀬町具志頭で調査・遺骨収集
- 1月27日(土)八重瀬町具志頭及び糸満市摩文仁で調査・遺骨収集
- 1月28日(日)糸満市摩文仁で調査・遺骨収集
1月17日(水) 菊池さんと糸満市摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
昨日沖縄に到着しまして、恒例の具志八重さんのお墓参りや、印象深く且つ感動的な真喜志さん御尊父のお墓参りをさせて頂きました。真喜志さんと同じ気持ちでお墓参り出来たことをとても嬉しく思います。今朝もまだその喜びの余韻に浸っているという状況ですが、本日から13日間に渡る遺骨調査・収集活動が開始されます。病院のお世話にならないように、「慢心は事故の元」この点に最も注意しながら、真摯に取り組ませて頂きたいと念じています。
本日の降水確率午前40%、午後60%と午後には雨が降る予報となっています。最高気温は23度の予想です。午前中は所用で首里に行かねばなりませんので、ジャングルに入っての作業は半日ちょっとと言う時間配分になると思いますが、初日ですから無理をせずウォーミングアップという感じ、つまり足腰をジャングル特有の起伏に慣らせるというようなレベルで活動を開始します。(^o^)
首里での所用の合間を見つけて「靜魂之塔」に参拝してきましたのでご覧下さいませ。
「靜魂之塔」
首里石嶺にある「靜魂之塔」です。うどぅん山公園の片隅にありました。左に見えるのは伊江御殿の杜です。
「靜魂之塔」から見て北東方向に少し進むと、城北中学校や石嶺中学校があります。今は住宅団地や商店が立ち並ぶ住宅密集地となっていますから、場所そのものは特定出来ないと思われますが、その両中学校辺りは沖縄戦当時、日本軍呼称の140高地や150高地があり、村上乙中佐率いる戦車第27聯隊(球12102)や吉田勝中佐率いる歩兵第22聯隊(山3474)が頑強に奮戦した場所でもあります。
「靜魂之塔」には石嶺地区の住民戦没者94名が祭られているそうです。
「大東亜戦争戦亡者 一九五二年三月??日建立」と横書きで書かれており、この文面の下に戦没者の氏名が記載されていまして、最下段に「建立者 友進會」と記載されています。戦没者は玉城姓がほとんどです。この地域は首里から離れた一つの集落を形成していたという話ですから、住民は玉城姓が圧倒的に多かったという事かもしれませんね。
「靜魂之塔」の右側少し進んだ所に、ご覧のような奇岩がありました。近づいて見ましょう。
しっかり丸く穴が開いています。話は飛びますが、富士の樹林帯には溶岩が樹林帯に流れ出たあと、丸い木材が腐熟して無くなった為に、丸い穴の開いた溶岩があると聞いたことがありますが、それと同じ原理で目の前の穴が出来たとは考えにくいのですが…。う~む。謎めいていますね。(^^;)
「靜魂之塔」の裏にある雑木林の様子ですが、目の前の斜面に埋められてしまった壕が、かつてあったのではないか? 直感的にそんな感じがしたので撮影してみました。「靜魂之塔」が立つ場所は現在公園となっており、住宅に適さない急傾斜面もある事から、かつ米軍から見て反射面陣地を構成出来る事から、軍陣地壕も幾つか掘られていたのではないか…。違っていたらごめんなさいです。
首里は来てみると斜面の多い地域である事にビックリです。地図だけではこれほどのアップダウンを感じ取れません。やはり現地に立つと地図にない情報や雰囲気を体感できます。ちなみに沖縄戦当時、首里の住民は自前の防空壕を持っていたと言います。固そうな岩盤もありますが、全体的に土質も掘りやすい印象を受けますので、実際にそうに違いないという気になります。
第二十四師団第一野戦病院手術壕
首里での所用を済ませ、私と菊池さんは摩文仁に戻る道すがら、菊池さんがまだ見たことがないというので、島尻郡八重瀬町富盛にある第二十四師団第一野戦病院手術壕を訪ねました。現在八重瀬公園として整備されているお八重瀬嶽は、古くは三山時代、八重瀬按司の居城跡でありました。現在は桜の名所としても知られており、春には桜祭りが開催される公園でもあります。また八重瀬公園駐車場から見て、県道を挟んだ反対側の小高い丘には戦火を耐え抜いた「富盛の大獅子」がありますよね。
「富盛の大獅子」は時間の関係で今日は訪ねませんが、この大獅子は激しい戦闘の地にあっても幸い破壊されることなく現在に至っています。この大獅子は、火除け(火返し)として琉球王朝時代の尚貞王21年(1689年)に建立されたものです(高さ141cm 長さ175cm)。沖縄各地にある村落祭祀上の目的で作られた獅子の中でも最古のもので、民族資料としても貴重なものであるといわれています。1974年には沖縄県指定有形文化財に指定され,今は町のシンボル的存在となっています。
第32軍は5月末に首里戦線から喜屋武半島に後退し、玻名城、八重瀬嶽、与座岳、真栄里を前線とする東西8キロ、縦深4キロの主陣地帯を構成した事もあり、島尻一帯は首里に次いで激戦が展開された場所である事はご承知の通りです。ここ八重瀬一帯も米軍の激しい砲爆撃に曝され、おびただしい数の戦死者が出た要衝でした。八重瀬公園入り口左側にある「八重瀬之塔」(東風平町字富盛/昭和24年6月建立・昭和43年5月改築)には、戦後富盛の人たちが付近に散乱するご遺骨15,000余柱を集めて祀ってあります。
八重瀬嶽中腹にある第24師団(山部隊)第一野戦病院本部壕及び手術壕では、「白梅の塔」でも紹介している県立第二高等女学校の学徒隊が看護活動を続けた場所でもあります。第一野戦病院には、軍医・衛生兵・看護婦など200人以上が配置され、白梅学徒隊46名も加わり手術の手伝いや看護、汚物の処理、死体埋葬などの作業にあたったのです。
第一野戦病院手術壕が「上の壕」と呼ばれ、本部壕が「下の壕」と呼ばれていました。現在見学できるのは「上の壕」のみとなっています。八重瀬公園駐車場からすぐのこの「上の壕」は二つの出入り口があり、全長およそ70メートルほどの壕です。今まで十数回訪問している壕ですが、一度壕内立ち入り禁止の看板が掲示されていた時期もありましたが、現在は見学可能です。
ちなみに「下の壕」と呼ばれた本部壕は現在立ち入り禁止になっています。二年ほど前でしょうか、松永さんと私とで「下の壕」に行ってみましたが、地権者が設置したと思われる立ち入り禁止の表示がしてありました。松永さんは中に入った事があるそうで、内部は軍構築壕で結構大規模なものだそうです。
第二十四師団第一野戦病院手術壕、一度立ち入り禁止になったという事で、壕内に落石や落盤等の危険があるとかというと、そんな兆候はありません。話は飛びますが、南風原の陸軍病院壕20号壕が公開されていますが、あそこは出入り口に開閉式の扉を設け、壕内部表面の乾燥と風化による劣化を防いでいます。それでも壕内の劣化は進んでいると20号壕関係者が語っていましたが、扉が無いよりはましであり、扉がない八重瀬のこの病院壕は、壕内表面の乾燥がかなり速いスピードで進んでいると見なければなりません。それではご一緒に手術壕に入ってみましょう。
「陸軍第24師団(山)第一野戦病院手術壕」
「陸軍第24師団(山)第一野戦病院手術壕」入口です。壕の呼称は沖縄戦当時「上の壕」とも呼ばれていました。壕は構築壕ですが、出入り口については地域の霊場として風葬墓であったかもしれません。拡張された壕かもです。本壕は出入り口が二カ所あります。ここは駐車場側の出入り口ですね。入ってすぐ右側が手術室です。前線で負傷した将兵は手術を受けるために、入り口付近は長い患者の行列が出来たと言います。順番を待つ間に亡くなった方も多かったそうですよ。それではご一緒に入って見ましょう。
壕に入って6メートルほど進むと、右側に小さな小部屋のような空間がありますが、この空間が手術室だったと言われています。手術の為のベットその他手術備品などの配置をイメージするとそれほど広くはないですね。手術室がむしろ狭いと感ずるぐらいです。
手術室から戻り、本坑道を進んでみましょう。壕入り口からみて左側に曲がっています。
壕は構築壕ですから縦横一間×一間以上の空間があります。平坦ではなく勾配が結構きついですね。坑道の左右には二段ベットが設けられ、手術を終えた患者さんらが横たわっていたと思われます。
50メートルも進まないうちに、坑道は右側に曲がっています。空間は少し狭くなっています。奥の方に出入り口が見えますね。
菊池さんが立っておられるので、壕空間の大きさが解りますね。ギリギリ立って歩けるという状況です。
壕の壁面を撮影しています。煤で黒くなっている部分は沖縄戦当時のままの姿です。激しい馬乗り攻撃を受けた事が想起されます。そして左側の白い部分は沖縄戦当時の岩肌が剥落しています。風がよく通り岩肌が乾燥してしまうのか、壕内至る所で同じように剥離しているのが目に付きます。昔はこうした状況にはありませんでしたから、岩肌の風化が進んでいるとみて間違いありません。剥離部の厚みは、ごく薄いので落盤に至る恐れはありませんが、戦跡の存続を脅かす事態である事は間違いありません。
ところで南風原の一般公開されている20号壕では、壕の入り口と出口に引き違い戸を設けて気温や湿度を一定に保つように工夫して、壕内環境の安定化を図り、それにより風化による劣化を防ぐ努力をしています。
こちら側がもう一方の出入り口です。周囲の地形から、この出入り口は容易には見つからないという好条件の出入り口です。
出入り口を出たところの風景です。右側に行くと駐車場に戻る事が出来ます。
写真は八重瀬公園駐車場のすぐ横にある風葬墓を写したものです。昔はもっと岩が積み上がっていましたし、木も小さかったですが、年々石垣が低くなったりして、容易に内部の様子が見える状態になっています。
瓶に入った風葬骨です。この場所は台風など風混じりの雨が直接降りかかる場所であると思われますので、風で飛ばされたり雨で流されるのか、粉っぽい骨は見当たりませんね。道路脇にこうした風葬骨が野晒しにされたまま存在するというのは、所有者不明となったのでしょうかね。もしそうであったにしても、少なくとも私が見てきた限り30年以上も手が加えられた形跡を見ていません。古来沖縄人の遺骨が納められた墓なのですから、石垣だけでもキチンと積み上げて古墓として管理保存してほしいですね。
国立沖縄戦没者墓苑
「国立沖縄戦没者墓苑」参道です。
「国立沖縄戦没者墓苑」です。屋根のある参拝所は新しく建て替えられました。以前の建物と仕様は同じですから代わり栄えはしませんが、近づくとピカピカです。従来の「国立沖縄戦没者墓苑」は、昭和54年(1979年)に創建されたもので、創建後38年が経過して参拝所を中心に傷みがひどくなっていました。基礎工事の段階で不発弾が見つかりその対応と措置に、かなりの時間を要したと聞いていますが、無事に建て替え完了となりました。(^o^)
《過去の写真ご紹介》
昨年1月に沖縄に来た時にはこんな感じでした。基礎工事の段階で不発弾が見つかりその対応と措置に、かなりの時間を要したと聞いていますが、無事に完成して良かったですね。(^o^)
私は沖縄に到着すると、まず「国立沖縄戦没者墓苑」に参拝します。また初日に無理な場合もありますが、そうした場合は二三日以内に参拝を終えるようにしています。非業の死を遂げられた沖縄戦戦没者の後ろ盾があってこその沖縄遺骨収集であると考えるからです。心の通う遺骨収集にする為にも、戦没された方々がより喜ぶと思われる感覚、感性を大切にして取り組ませて頂く事を心がけています。
後日には戦没者慰霊への志を同じくする数名の仲間が摩文仁にやって参ります。その馳せ参ずるメンバーを代表して、また日本を守るために大東亜戦争を戦い抜いた将兵の児孫である私達の同世代を代表して、悲しくも戦場に果てた二十余万の戦没者に対し、心からの慰霊の言葉を申し述べます。そして願わくば、ここ摩文仁に未だ眠る、誰にも看取られることなく戦野に果てた戦没者一柱が見つからんことを祈願致しました。
【国立沖縄戦没者墓苑の建立から現在までの経緯】
沖縄戦においては、軍民合わせて18万余の尊い命が失われました。この戦没者の遺骨収集は戦後、いち早く地域住民の手によりはじまり、各地に納骨堂や納骨堂を兼ねた慰霊塔を急造し、収集した遺骨を納めました。
昭和32年(1957年)には、政府が当時の琉球政府に委託して、那覇市識名に戦没者中央納骨所を建設し、納骨してまいりましたが、次第に収骨数が多くなるにつれ、中央納骨所が狭隘となってまいりました。このため、国難に準じた戦没者の遺骨を永遠におまつりするのにふさわしい墓苑を新たに造るべきであるとの要望が沖縄県をはじめ関係遺族等から寄せられ、厚生省(現厚生労働省)の配慮により昭和54年に本墓苑が創建され、中央納骨所から本墓苑に転骨したものです。
しかし、その後、毎年のように約100柱が新たに収集納骨されたことから、昭和60年に後方に納骨堂が増設されました。現在、本墓苑には戦没者18万余柱が納骨されております。
正面の参拝所の屋根は沖縄の伝統的技法により焼かれた赤瓦を使い、紋には桜の花を用いています。納骨堂には、沖縄産の琉球トラバーチン1千個が琉球王家の墓を模した古来の技法で積み上げられています。納骨堂はコの字形となっていますが、これは祖国の平和の礎となられた同胞を温かく抱擁していることを意味しています。
納骨堂に抱きかかえられるように安置されている石棺は福島県産の黒御影石で、どっしりとした万成御影石の台座にのっています。石棺の中には、沖縄の各戦場の象徴遺骨が白木の箱に分骨して納められております。
「沖縄県平和祈念財団サイト」から転載させて頂きました
調査・遺骨収集作業開始です
午後2時のを回りました。午後の降水確率は60%でしたが、予報通り弱い雨が降ってきました。摩文仁のジャングルに入って20メートルぐらいの通路を撮影しました。今年は珍しく通路らしい状況が今に残っていますね。毎年縦横に植物が伸長してしまうので、毎年同じ場所を通るのですが、通路らしい雰囲気は全く消えているのが恒例となっています。昨年は台風が少なく伸長した植物が倒れなかったのかな?
この辺り、ゴミが散乱していましたが、昨年県が主催して大規模な清掃作業が行われましたから、見事にゴミが片付けられていますね。
ここもゴミの山でしたが綺麗になりました。
ここもゴミの山でしたが綺麗になりました。あのゴミ山を知っている一人として、見事にゴミがない現況に感動的ですらあります。行政の力に脱帽と言ったところですが、摩文仁にはまだまだ膨大なゴミ山が控えていますので、ぜひ継続される事を願ってやみませんね。(^o^)
この写真からは私と菊池さんと調査活動が始まりました。
雨も降っていますので、暖機運転のようなイメージで、これまで通った事が無く、かつ私が是非一度見てみたいと思っていた場所を二人で巡ってみました。まだ一度も訪ねたことがない場所に行くのは、いつの時も胸が躍ります。満足です。(^o^)
昨年1月の遺骨収集は具志頭で何日か実施しましたが、その区域内のとある壕が気に掛かっていました。昨年一度入って調査した壕ではありますが、抱えた疑念が消えず、昨年も作業最後の段階でもう一度中に入って目視する予定でしたが、タイムアウトで本年に持ち越しせざるを得ませんでした。という訳で本日その気がかりな壕に、昨年に続き二度目となりますが入ってみることにしました。壕が繋がっていれば新発見となります。さてどうなりますか…。
気がかりな壕の再調査
雨の降るジャングルをしばらく進みまして、間もなく目的の壕に到着するでしょう。
この壕です。落ち葉で埋まっていますから、人が入れるのかと思われるでしょうが、ギリギリ人が出入りできるレベルの開口寸法があります。
この壕がある場所は傾斜面であり、かつこの壕から下に斜面を15メートルぐらい下ると立派な壕があります。古墓であったところを拡張して陣地にした壕と思われますが、構築陣地では壕の正面出入り口に対して、一人用隧道を正面出入り口の周囲に設けて、秘密出入り口として開口部は銃座として用い、壕正面を攻められたり、壕正面で展開する戦闘を有利たらしめる配置構造にしている場合が多いのです。
私が今から入ろうとしている小さな壕も、構築壕を援護する銃座として用いられたのではないか…。だとすれば下にある構築壕に繋がっているはずだ…。そう関連付けた訳です。
ここが少し平らな部分があって身体も楽に向きを変えられました。ご覧のようにまだ下に降りられます。周囲をしっかり観察しながら降りていきます。
入り口付近を見ています。入り口は戦後の堆積物で狭かったですが、内部空間は移動するにまずまずの空間があります。
5メートルぐらい降りたでしょうか。残念ながらこれ以上降りられない状況です。写真では解りづらいですが、下にはまだ空間があるのが見てとれます。人が立って歩けるぐらいの広い空間がありそうです。ですから下の空間が構築壕である痕跡がないか良く観察もしました。
今度こそ今大きな発見に繋がるかも…。と期待しましたが、残念な結果となりそうです。昨年もここで断念したわけですが、岩の崩れ方が微妙なので、迷いに迷っているというのが実態です。砲撃による落盤で塞がれたのか、それとも元々空間が繋がっていなかったのか…。その最終見極めを今回するつもりで入りました。しっかりと観察して、元々繋がっていなかったというのが最終結論です。残念でした。(T_T)