平成30年(2018年)沖縄遺骨収集奉仕活動
- 1月16日(火)故具志八重さんのお墓参り、故真喜志康一さんのお墓参り
- 1月17日(水)菊池さんと糸満市摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月18日(木)松永さん菊池さんと糸満市束里と摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月19日(金)菊池さんと糸満市摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月20日(土)糸満市与座の洞窟陣地で調査・遺骨収集
- 1月21日(日)糸満市束里及び八重瀬町安里で調査・遺骨収集
- 1月22日(月)南埜さんによる遺骨収集作業継続中の現場を見学
- 1月23日(火)八重瀬町安里で調査・遺骨収集
- 1月24日(水)八重瀬町安里で調査・遺骨収集、八重瀬町による遺骨発見現場調査
- 1月25日(木)(申し訳ありません。非公開での調査・遺骨収集を実施しました)
- 1月26日(金)八重瀬町具志頭で調査・遺骨収集
- 1月27日(土)八重瀬町具志頭及び糸満市摩文仁で調査・遺骨収集
- 1月28日(日)糸満市摩文仁で調査・遺骨収集
1月21日(日) 糸満市束里及び八重瀬町安里で調査・遺骨収集
今日の天気予報は曇り時々晴れ、最高気温は22度の予想ですから、久しぶりに雨の心配がない一日になりそうで嬉しいです。今朝は予定があり、慰霊塔の慰霊巡拝はお休みでした。
三日前の18日(木曜日)に松永さん、菊池さん、そして私の三人で、糸満市束里のジャングルを下見調査しましたが、今日は本格的に同地の調査・遺骨収集作業に取り組みます。それでは事故に気をつけて、頑張って取り組みましょう。(^o^)
調査・遺骨収集作業開始です
束里で調査・遺骨収集作業
吉井さんです。早くもご遺骨がありそうな場所の蔓や落ち葉などを移動しています。腰ベルトには金属探知機がありますね。
斉藤さんです。大きな木の下で、盛んにクマデを動かしています。
私の目の前に人が一人入れるぐらいの穴がありました。掘ったものではなく、自然の岩の隙間という印象ですが、蛸壺のような深さがあります。向きも北側を向いており、北側から攻めてくる米軍に有効です。早速掘ってみましょう。
私の腰辺りが少し写っています。深さも申し分ない蛸壺ですが、残念ながら何も無いようです。
ここも良い陣地です。蛸壺というよりは、岩の割れ目ですね。7メートルぐらい続いています。入って土の部分を掘ってみましょう。
割れ目の下に降りて上を見るとこんな感じです。ここは絶対将兵が居て守備についていましたね。そんな気がします。
ちょうど人が一人通れるぐらいの幅です。7メートルぐらい進むと左に折れているようです。
残念ながら何もありませんでした。上に上がって90度に曲がっている部分を撮影しました。人工でなく自然にこのように岩が剥離したと言いましょうか割れたようです。
ガジュマルの気根が凄い事になっています。向こう側で作業している斉藤さんが霞んで見えます。
菊池さんが壕入り口でクマデを動かしています。
豊澤さんが壕の中に居ました。
吉井さんの声がしましたので、近づいて聞いてみると吉井さんの向こう側に壕が幾つかあるようです。
凄いです。高低差が半端ないですが、吉井さんが降りて調べるとの事です。
斉藤さんが作業しています。
吉井さんが見ている壕内で菊池さんと豊澤さんが作業しています。
菊池さんと豊澤さんが一生懸命掘っています。
菊池さんと豊澤さんがさぎ作業している壕内に、ここからも行けるようです。入って見ましょう。
斉藤さんが土砂を掘り進めています。一緒に見ましたが、まだまだ掘らないと、沖縄戦当時の地盤には達しない雰囲気です。
三十年式銃剣が出てきました。1890年代に開発・採用された銃剣で、当初の制式名称は三十年式歩兵銃銃剣と呼ばれていました。ちなみにゴボウに似ている事から牛蒡剣とも呼ばれたそうです。
こちらは12ミリ機関銃弾ですね。
昼頃金城さん、福岡さんのお二人が到着しました。朝は集合写真撮影を忘れてしまったので、ここで撮影させてもらいました。右側から吉井さん、到着された金城さん、金城さんは名前からして沖縄の人と思われる方も居られるでしょうが、東京都出身の方です。そして豊澤さん、菊池さん、到着された福岡さん、そして紅一点の斉藤さんです。よろしくお願いします。今日もケガをしないように十分しながら頑張りましょう。(^o^)
再びジャングルに入ります。
序盤は土や腐葉土の多い場所を登ります。
傾斜面が急になってきました。まだまだ上り坂が続くのが見えます。
岩場に入ってきました。
金城さん、福岡さんが合流したという事で、この附近の様子を見て回る事にしました。私達は登り始めた位置から、斜面に沿い東側に進みました。
崖を登り切る辺りになると、ご覧のような巨大な奇岩があちこちに見られます。
一番奥に豊澤さんが立っていますが、その辺りが地面としては崖上になります。
割れた水瓶と割れたお茶碗が見えます。
割れた水瓶と割れたお茶碗が見えますね。誰かがここに集めたのか、元々ここにあったのか、それは不明です。
割れた水瓶と共に風葬骨も見えます。御遺骨を見ただけで沖縄戦戦没者ではないと判断できます。これまで同地域に入った団体の全てが風葬骨と判断して持ち出さなかったのですね。ちなみにご覧のように、風葬骨は釉薬をかけずに焼いた陶製の素焼き水瓶に入っているのが一般的です。地位の高い方、或いはお金のある方は飾り付けられた厨子甕に風葬骨を入れるのでしょうけど、南部戦跡での遺骨収集では見た事は無いですね。
ここにも割れた水瓶があります。
これも割れた水瓶です。
同じく割れた水瓶です。狭い範囲に集中的に割れた水瓶が散在しています。いずれも岩の中とかではなく露天にありました。風葬骨は見えないように岩陰に収納するものであり、露天に安置するだけなどというのは聞いた事がありません。
ちなみに私達は現在崖の上に居ますが、崖下の地際に日本軍の陣地壕が複数並んでいます。元々風葬墓だった場所を掘り進めて構築壕にした可能性があります。だとするとこれらはそれら本来の風葬墓にあったものと思われますが、ここで疑念が浮かぶのは、陣地を作る為に風葬骨の入った水瓶を墓から出すのは理解できます。その場合普通は外の邪魔にならない場所に置くのだと思います。わざわざ30メートル前後の道などない崖を登って上に持ち上げる必要性を感じません。それは又遺骨収集団体にも言えて、下で見つけた水瓶をわざわざ崖上に持ち上げる事などあり得ないと思います。
通路のようなこの場所を皆さんが、「ここは交通路だ」と語っていました。右側が崖で米軍が攻めてきた方向です。この交通路を行ったり来たりしたのでしょうね。
交通路が終わり普通の岩場になりました。ですからこの場所も兵士が行き来し、且つ戦闘を展開した可能性のある場所です。
割れたご飯茶碗とお茶碗が岩の上に置いてありました。
崖上を西に向かって歩いています。間もなく午前中調査・遺骨収集作業をした場所に到着します。
斉藤さんが歩いている場所も同じく、兵士が行き来した所だと思われます。
調査・遺骨収集作業を移動しようという話になりまして、皆さんが傾斜面に沿って西側に進んでいます。
しばらく岩場のない緩斜面でしたが、再び岩場が目立ってきました。
ご覧のように、とにかく蔓植物が多いのに閉口です。蔓植物は転倒しやすいですから、その点も要注意です。
岩場が多くなり、陣地壕などもありそうな雰囲気になってきました。
斉藤さんが見ている先に、豊澤さんが壕の中に入っています。写真奥が北側ですから良い向きの壕といえますね。
吉井さんが岩の手前で探しています。
ここも中々良い場所ですよ。
菊池さんも岩陰で探しています。
吉井さん、斉藤さんが岩陰を探しています。
壕内で作業している豊澤さんです。将兵の遺品が少し出ているようです。
吉井さんが大きな岩の割れ目の通路のような場所を掘っています。
豊澤さんが入った壕から戦没者の遺品が少し出ています。豊澤さんの話ではご遺骨はないが、この壕で亡くなった将兵が居るのは間違いないので、皆さんで手を合わせましょうという話になりました。
全部軍靴の一部だと推測されます。
全員で手を合わせました。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
安里で調査・遺骨収集作業開始です
束里での調査・遺骨収集作業は3時30分に切り上げ、4時から日没まであまり時間がありませんが、安里で調査しようという話になり向かいました。
「萬朶之塔」に向かう道すがら道路端に、ご覧のような砲弾の破片といいましょうか、破片ではないですね。また不発弾でもないですね。何と呼んだら良いか。(^^;)
恐らく畑の中で見つかったこの砲弾を畑の外、それは道端なのですが、そこに置いたという事になると思います。中身はないので爆発する危険性はないですし、長く野晒しだったのでしょう。
「萬朶之塔」
安里にある「萬朶之塔(ばんだのとう)」です。一年前にこの「萬朶之塔」前で真喜志さんご兄弟と記念撮影したのが懐かしいです。あっと言う間の一年でした。ちなみに真喜志さんご兄弟の案内で調査した結果、すぐに完全一体のご遺骨発見に至ったという経緯は、昨年の参加記に詳しく掲載されていますので、1月18日(水)~1月21日(土)の記事をご覧下さいませ。(^o^)
【萬朶之塔(ばんだのとう)碑文】
独立混成第四四旅団工兵隊は、優勢なる米軍に対し勇戦奮斗、敵の心胆寒からしめたるも昭和二十年六月中旬村本福次大尉を長とせる将兵並びに軍に強力せる住民併せて二百余名は善戦空しくこの地において玉砕せり。
ここに南方同胞援護会の助成を得て塔を建て御霊を慰め永くその遺烈を伝う。
昭和四十三年六月 財団法人沖縄遺族連合会
安里で調査・遺骨収集作業
V字谷とでも呼ぶ場所を降ります。4メートル程の崖となっています。それ程危険ではありません。
斉藤さんが降りようとしています。
4メートル程の崖を降りると、すぐに水平に移動します。
写真左側が崖下になり、島尻主陣地帯に対する米軍の攻撃は左手方面から攻め上がってくると言う事になります。このV字谷も沢山の将兵が行き来した事でしょう。
間もなく構築された陣地壕に到着します。
ここが壕口です。すでに中に入っていますね。壕口は四カ所あります。写真を見ると中央付近で岩に線が引かれているようにみえます。上半分は賢固な岩盤です。下半分はジャーガルとかクチャなのでしょうか。灰色をした粘土質の掘削しやすい層となっています。つまり賢固な岩盤の下に構築壕を掘り進めたという事になります。このような地層に陣地を構築したケースは、南部島尻ではあちこちで見られますね。
斉藤さんと金城さんが入っていますが、ご覧のように立って歩く事はできません。
すでに収骨済みの壕である事は間違いありませんが、地面を見ると細かい遺品がありますね。
被甲(ガスマスク)の部品でセルロースアセテートのレンズですね。第一次世界大戦以降、化学兵器に対する備えが必須となり、沖縄戦でも将兵は防毒面具を携帯していたので、同部品は下着のボタンと同じぐらい頻度高く見つかりますね。
壕内部から外に居る菊池さんを見ています。樹木が無かったら国道507号線が走る平坦部が見える事でしょう。沖縄戦当時も攻撃前の準備砲撃で、ほとんどの草木はなぎ倒されて見通しは利いたはずです。
沖縄守備軍第32軍は5月末に首里戦線より喜屋武半島に後退しました。島尻主陣地帯の玻名城、八重瀬嶽、与座岳、真栄里などの前線のうち、玻名城、八重瀬嶽間は独立混成第44旅団が布陣していましたが、与那原から態勢を整えつつ追ってきた米軍第7師団は意外に早く混成旅団の陣地に肉迫してきました。6月7日、8日頃から具志頭・玻名城・安里附近で漸次激戦が展開したのです。
沖縄戦当時この壕口から肉迫する米軍に向けて出撃したり、逆に馬乗り攻撃されたりと激闘がこの壕でも繰り広げられたものと思われます。この開口部から見える風景、即ち戦車の後ろに大勢の歩兵を伴い肉迫する米軍に抗するべく、すでに多くの兵士が傷つきながら、対戦車砲などは無く、限られた小銃砲弾を用いて戦闘を強いられる日本軍将兵の心理状態に今ここで浸るのも、艱難の戦いの末に戦場に果てた日本軍将兵の鎮魂に繋がるものと考えます。
金属製品ですね。左側は帯皮のバックルでしょうね。バックルは鉄とアルミ、真鍮のいずれかですが、これは鉄製のようです。す。
オッ、クロイワトカゲモドキ君がいました。クロイワトカゲモドキ君は壕内でよく見かけますね。そしてあまり人を怖がりません。今回もかなり近づいて接写しましたが、逃げずにずっとこちらを見ていましたよ。(^o^)
崖に沿ってずっと空間が掘り進められています。出入り口が所々にあり、その壕口から出入りしたり戦闘したものと推測されます。ここは少し落盤しているという印象です。
落盤を防ぐための坑木を設置した跡です。賢固な岩盤が3から4メートル厚なので、素人判断で、そうした措置は必要ないと感じますが、艦砲弾も着弾する地域ですから、築城隊は必要だと判断したのですね。
一番奥まった空間に金城さんと福岡さんが居ます。奥に四つ目の出入り口があります。ここはあまり落盤や土砂の流入はない雰囲気ですから、現況が沖縄戦当時のままなのかもしれません。
福岡さんが居るところを、外から見てみました。やはり賢固な岩盤の下に掘り進められているのが見てとれますね。
構築壕を出て附近のジャングルを調査しています。
ほどほどの傾斜面ですから、比較的歩きやすい場所です。
吉井さんが、「一緒に見てほしい場所がある」と語りかけてきたので、私も一緒に向かいました。
吉井さんが見つけた場所です。ごく僅かですが巨岩の下に隙間があります。
ごく僅かな隙間ですが、中を覗くとそれなりに広い空間が見えます。ある意味壕といえるのかもしれません。
その壕口の少し右側を見ています。右から左に傾斜面になっているのが見えますね。吉井さんは右側から戦後70余年土砂が右から左に流れ続けて壕が埋没したのではないか…。そう推理しました。ちなみに斜めになっている線の上が賢固な岩盤で、下が先ほどの構築壕と同じ掘削可能な柔らかな粘土層です。本日はすでに夕方なので、この場所は後日しっかり再調査しようという話になりました。
時刻も夕方5時を過ぎたので、調査・遺骨収集作業を終了しようという話になり、来た道を帰り始めました。
さあ目の前の崖を登れば難ルートは終わります。
結構な急傾斜の崖ですが、幸いに手と足を引っ掛ける場所が適度にあるので、見た目ほど困難な崖ではありません。