平成29年(2017年)沖縄遺骨収集奉仕活動

ご遺骨発見に関わるメディア情報

今回の完全一体のご遺骨発見について、沖縄のメディアが記事にして掲載して下さいました。有り難うございました。今次掲載以降にも記事を掲載して頂いた場合は、引き続きこのコーナーに追記して行きますので、よろしくお願いします。
まずは琉球新報社様が、ご遺骨発見の記事を書いて下さり、身元判明に向けて情報の提供を呼びかけて下さいました。

【八重瀬の壕から全身骨】 日本兵か、発見者「遺族へ返したい」

「琉球新報」2017年2月1日

琉球新報記事、2017年2月1日/遺骨収集の様子

完全な状態で収集された遺骨と「遺骨を遺族に返してあげたい」と語る沖縄鍾乳洞協会の松永光雄理事=1月20日、八重瀬町安里

【八重瀬】八重瀬町安里の壕で31日までに沖縄戦当時の日本兵とみられる遺骨1体が見つかった。頭蓋骨から肩甲骨、尾てい骨、大腿(だいたい)骨、すねの骨、上腕など完全な状態でそろっている。下あごには左右3本ずつ歯も残っている。約30年にわたりボランティアで遺骨を収集している八重瀬町のNPO法人沖縄鍾乳洞協会の松永光雄理事(63)は「戦後72年たってもまだ戦争は終わっていない。1体がきれいに発掘されるのは珍しく、奇跡に近い。できれば遺族に返してあげたい」と話し、情報提供を呼び掛けている。

遺骨は、1983年8月25日と26日に琉球新報の連載「戦禍を掘る―出会いの十字路―」に掲載された旧具志頭村安里の「独立混成第44旅団工兵隊壕」の記事がきっかけで発掘された。米軍の攻撃で小隊が全滅し、約30柱が収骨されていない現状を伝えている。

子どもの頃、同隊の生存者だった父に連れられ、壕に手を合わせに来ていた60代の男性=那覇市=が、当時の記事を保管。毎年、慰霊の日に参拝に訪れていたが、収骨されたかずっと気になっていたという。

男性は松永さんらボランティアに連絡し、18日に一緒に壕を確認。直径約60センチの小さな穴から下に3メートルほど下りると、人骨があった。

松永さんらボランティアが収骨作業を実施。水筒や飯ごうのふた、銃弾、陶器の破片、四つ穴のボタンなどの遺留品も見つかったが、名前など身元を特定できる物はない。松永さんは「今回は証言をきっかけに遺骨を収集できた。何か情報があれば教えてほしい」と話した。

壕を調査した公益財団法人県平和祈念財団戦没者遺骨収集情報センターの中野修調査員は、壕の形から紙面で紹介された壕とは別のものと見ている。「上腕も左右あり、完全に一人の遺骨だ。遺留品から見ても軍人の可能性が高い」とし、情報の提供を呼び掛けている。情報提供は県平和祈念財団戦没者遺骨収集情報センター(電話)098(997)4123。(豊浜由紀子)

「琉球新報」から転載させて頂きました

サイト管理人が沖縄を離れた二日後、1月24日(火曜日)の夜9時半を過ぎた頃、私の携帯電話が鳴りました。何だろうと電話に出てみますと、遺骨収集情報センターのNさんからの電話でした。

「沖縄での遺骨収集お疲れ様でした。第一報としてお伝えしますが、回収して下さった遺品を調べたところ、名前が書かれているものがありまして、「村本福次」と書かれています。この方はご存じかもしれませんが、独立混成第四十四旅団工兵隊の隊長である村本福次大尉だと思われます。(以下省略)」と語られました。

もしかしたらご遺骨をご遺族にお返しできるかもしれないという期待値が高まっているのでしょう、Nさん自身も少しばかり興奮されている印象を受けました。勿論私も同様に興奮しました。作業終了時点で、こんなにも完璧な完全一体のご遺骨が収容されたのに、水筒や飯ごうの蓋はあったものの、悲しいかな記名遺品となりうる物品は損傷が激しくて、氏名確認は無理だろうと落胆しつつ帰路についたのですから、Nさんによる第一報は飛び上がらんばかりに嬉しかったです。電話が切れた後に、妻にこの溢れんばかりの喜びを、身振り手振りを交えて話しまくりました。(笑)

沸き上がる喜びと共に思ったのは、遺骨収集情報センターの職員さん達は、こんなに夜遅くまで調査作業をして下さっているのだなと、とても有り難く胸がジーンとしました。発見と同時に私に早く知らせたくて、翌朝ではなく夜の遅い時間帯でしたが連絡を下さったのですね。来年再びお伺いする際は、Nさんに直接お目に掛かり丁重に御礼を申し上げたいと思いました。(^o^)

【遺留品に「村本福次」】 八重瀬の全身骨

「琉球新報」平成29年(2017年)2月5日

【糸満・八重瀬】八重瀬町安里で1月に発見された日本兵と思われる遺骨のそばにあった遺留品から、「村本福次」の名前が彫られたお守りのような物が見つかった。つぶれてさびた水筒にくっついていたものが偶然はがれ落ちて出てきた。遺骨と遺留品を保管している糸満市摩文仁の公益財団法人県平和祈念財団戦没者遺骨収集情報センター(又吉康夫センター長)が4日までに確認した。遺骨収集のきっかけとなった1983年の本紙連載「戦渦を掘る」に掲載されている独立混成第44旅団工兵隊の村本福次隊長と同姓同名で、平和の礎では熊本県出身者として刻銘されている。

お守りらしき物は真ちゅう製で縦約3センチ、横約2センチの楕円形。さびや土などを取り除くと「村本福次」の名前、反対面に大日如来が彫られていた。同センターによると、平和の礎では熊本県出身者の刻銘版に「村本福次」の名前がある。生年月日と死亡年月日は不明で、同姓同名はいない。問い合わせは、県平和祈念財団戦没者遺骨収集情報センター098-997-4123

「琉球新報」から転載させて頂きました

【金属に刻銘「村本福次」】 八重瀬の壕から出土

「沖縄タイムス」平成29年(2017年)2月8日

【八重瀬】八重瀬町安里の壕で1月、沖縄戦の戦没者とみられる人骨が見つかり、近くで出土した真ちゅう製のお守りのような物に「村本福次」の刻銘があった。関係者は身元判明の手掛かりとして期待している。遺骨や遺品を引き継いだ県平和祈念財団戦没者遺骨収集情報センターの又吉康夫センター長によると、遺骨と同時に姓名が入った物が発見されるのはめったにないという。

遺骨はNPO法人沖縄鍾乳洞協会の松永光雄さんらが見つけた。その後、同センターが調べたところ、破損したアルミ製の水筒の内側に縦3センチ、横2センチの大きさの金属片があった。

村本福次さんの名前は「平和の礎」に熊本県出身者として刻銘されている。遺骨の発見場所の近くにある「バンダの等」の碑文には、村本さんが旧日本軍の独立混成第44旅団工兵隊の大尉として、約200人余りの将兵や住民とともに、この地で玉砕したと記されている。松永さんは「姓名が書かれた遺品が見つかったことに驚いている。身元が判明することを期待したい」と話した。問い合わせは同センター、電話098-997-4123

「沖縄タイムス」から転載させて頂きました

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