平成29年(2017年)沖縄遺骨収集奉仕活動

1月21日(土) 完全一体ご遺骨の収集作業を継続

今日の天気予報は、曇り。最高気温20度の予報です。同じような天候が続きます。雨の心配が無いのが救いです。今朝の慰霊巡拝は、「白梅之塔」一カ所だけです。それではご一緒に慰霊巡拝しましょう。(^o^)

「白梅之塔」

2017年1月21日/遺骨収集の様子no.1

木立に囲まれ静寂な雰囲気の中に「白梅之塔」がありました。実に清楚で慰霊塔らしい雰囲気を醸し出していますよね。このような「乙女らの祈りの場」という雰囲気を、いつまでも大切に維持して頂きたいですね。それから、いつ来ても感ずる事なのですが、清掃が行き届いています。「白梅之塔」に慰霊巡拝した際に、偶然清掃員の方が居ましたので、色々と聞いてみたら、やはり定期清掃を行っているという話でした。

国吉・真栄里地域には、五基の慰霊塔が建立されています。小さな集落にこれだけ慰霊塔がある事からしても、国吉台地がいかに与座に連なる喜屋武防衛陣地の要衝であったかが解りますね。

2017年1月21日/遺骨収集の様子no.2

「白梅之塔」は、沖縄県立第二高等女学校職員生徒戦没者を祀る慰霊塔です。沖縄戦に学徒として動員され戦死した22名の白梅隊員をはじめ、戦争が原因で亡くなった教職員12柱、同窓生113柱、計149柱が合祀されています。「白梅之塔」は何時来ても生花が供えられ絶えることがありませんね。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

2017年1月21日/遺骨収集の様子no.3

現在の慰霊塔は四代目で、塔の形は「壕の中から太陽を求める。日の光を求める」といったイメージで制作されたとの事です。

2017年1月21日/遺骨収集の様子no.4

ギリギリ読めますが、テキストに起こしましたのでご覧下さいませ。

【慰霊碑碑文】

沖縄県立第二高等女学校の四年生56人で編成された白梅学徒看護隊は、昭和20年3月6日第二十四師団(山部隊)の衛生看護教育隊に入隊し、補助看護婦としての特別集中教育を受けていた。

米軍の艦砲射撃が激しくなった同月24日から、東風平町富盛の八重瀬岳にあった同師団の第一野戦病院に軍属として配置され、昼夜別なく傷病兵の看護に専念した。

戦況は日毎に悪化し、同年6月4日遂に白梅隊に解散命令が下り、隊員は散り散りになって戦野を彷徨し、一人またひとりと戦火に斃れていった。 その場所は殆ど不明である。

また、解散後この地に後退した山第一野戦病院に、再び合流した一部の白梅隊員は、同年6月21、22の両日に亘り、米軍の猛攻撃を受け無念の最期を遂げた。この辺一帯は、白梅隊員の最も多くの犠牲者が出た所である。

塔は、戦没した白梅隊員及び沖縄戦で戦死、或いは戦争が原因で亡くなった教職員・同窓生149柱の鎮魂と、世界の恒久平和を祈念して昭和22年1月に建立した。毎年6月23日の「慰霊の日」に祭礼が行われる。

平成10年6月23日 
沖縄県立第二高等女学校 白梅同窓会 

2017年1月21日/遺骨収集の様子no.5

初代の「白梅之碑」で、昭和22年1月に建立されたものです。この碑は「戦没された学友たちの供養は私達の責務」として、先生方、同期生、そして同窓生などの尽力と協力により、建立されると共に第1回目の慰霊祭が執り行われたのです。この碑は当初国吉集落の南の丘の上にありましたが、昭和26年に現在の敷地に移設され、同時に現在のような立派な「白梅之塔」が建立されました。現在の塔は三代目です。現地に行かれましたらぜひ、この初代「白梅之碑」を探してみて下さい。すぐに見つかると思いますよ。

2017年1月21日/遺骨収集の様子no.6

「白梅之塔」の右側にある壕です。開口部はかなり大きいですね。偽装は難しかったと思います。この国吉の壕では、解散命令が出た以降も看護活動を続けた生徒も居ましたが、6月22日米軍にガソリンを流し込まれたり、火炎放射攻撃などの馬乗り攻撃をされて、職員を含む多くの学徒が犠牲となりました。

この馬乗り攻撃は、6月18日バクナー中将が真栄里部落で日本軍の砲撃により戦死した後という事で、米海兵隊第二師団によるその攻撃は徹底的であり残虐的であったようです。

2017年1月21日/遺骨収集の様子no.7

階段を降りきったところで撮影しました。

2017年1月21日/遺骨収集の様子no.8

「頭上注意」の表示が見えます。路面部分には砂利が敷かれています。この壕は国吉さんが熱心に取り組んでいましたから、国吉さん引退の今、何処かのグループがその志を引き継ぎ、遺骨収集に取り組んで居られるのかもしれませんね。それにしても、大変な労力時時間の間を要する作業に見えます。そのご苦労に頭が下がりますね。

遺骨調査・収集作業開始です

完全一体のご遺骨が収容されました。情報提供者である真喜志さんも、そして収骨作業に携わった私達メンバーも、共に喜びを分かち合いました。しかし思うに、亡くなられた戦没者の方こそが、戦後72年もの間、来る日も来る日も誰かが壕に入ってきて見つけてくれる事を待ち望んでいたのだと思います。そして72年の歳月を経て、昨日ついに念願叶い児孫による発見に到ったのです。72年ぶりに日の光も浴びました。ですから他ならぬ御霊様こそが最も喜ばれているに違いありません。ご遺骨を収容した私達も、その72年という長い歳月に思いを馳せました。72年間と言えば、例えば子どもが生まれ育ち、社会でのお役目を果たし、やがて晩年となり、そして老いて鬼籍に入るほどの長さです。

こうした経緯を鑑み、発見された御霊様の慰霊はどのようにしたら良いのか…。摩文仁にある国立戦没者墓苑の暗い遺骨仮安置室の棚に直行する前に、何か私達にささやかでもよいから、小さな形でも良いから、「慰霊」の言葉通り、御霊様をお慰め出来ないのか…という思いが込み上げてきました。72年間対2日間。余りに隔絶してはいますが、私達に見守られているこの一両日中に「私達児孫の手で何かをしなければいけない」という情動が脳裏を貫きます。

そして参加メンバーで相談した結果、「御霊様と常に向き合っている金光教那覇教会の林先生にお越し頂き、発見された御霊様の前で御祈念して頂こう」という結論に到りました。そこで昨日の夜ですが林先生にお電話して、調査の発端からご遺骨の発見、そして収骨状況などの経緯を説明し「戦没者の前での御祈念」をお願いしたところ、快諾して頂きました。本日朝の内に林先生がこの発見現場に到着し御祈念して頂く手はずとなっています。

目の前に横たわっておられる戦没者の方も、児孫に見守られて過ごすのは今日が最後です。私達は収容された戦没者と向き合うに際しては、72年もの長い歳月を耐えて待ち続けた事が、良かったのだと思ってもらえるように応接しました。

2017年1月21日/遺骨収集の様子no.9

収骨作業二日目です。今日作業に取り組まれる方は、後列福岡さん、金城さん、前列吉井さん、そして地元の仲里さんです。よろしくお願いします。(^o^)

金光教那覇教会の林先生による御祈念

2017年1月21日/遺骨収集の様子no.10

朝10時頃、金光教那覇教会の林先生と嶺井さんのお二人が現場に到着しました。道に迷うことなく順調に到着したとの事です。私達は突然とも言える前の晩の連絡にも関わらず、快諾しお越し下さった事に感謝の意をお伝えしました。事の詳細は昨日の電話でお伝えしたので、現時点までの収骨状況と御祈念して頂く事を要請した私達の思いや、戦没者への願いを説明した上で、林先生に御霊様の前で御祈念して頂きました。林先生は金光教の経典の一つである「祖先賛詞」をコピーして下さいまして、私達に配って下さいましたので、一緒に経典を朗読させて頂きました。

2017年1月21日/遺骨収集の様子no.11

金光教那覇教会の林先生と嶺井さんが、「祖先賛詞」を奉唱して下さっているところです。面対する戦没者の方も、じっと聞き入っています。

2017年1月21日/遺骨収集の様子no.12

林先生は「祖先賛詞」奉唱を終えてからも、長く言葉を発して下さいました。眼前の戦没者に向けてオリジナルの慰霊の言葉を語りかけて下さっています。時折そうした意味の解る文言が耳に入ってきます。御霊様のこれまでの風雪に耐えて来られたご苦労をねぎらい、心安らかなれとお祈りして下さっているのが良く伝わってきました。今こうして発見されて、慰霊の言葉掛けをしてくれる児孫がいるという事を、きっと喜んで下さっているに違いありません。誰にも看取られる事なく戦野に果てた戦没者ご自身も、耐え続けた72年の霜雪を、安堵の思いで懐古しているかもしれません。

2017年1月21日/遺骨収集の様子no.13

式典を終え、そっと御霊様の顔を見ましたら、泣いているように見えました…。 良かった。(^^)

2017年1月21日/遺骨収集の様子no.14

金光教那覇教会の林先生もお帰りになりました。さあ引き続き頑張って収骨作業に取り組みましょう。

2017年1月21日/遺骨収集の様子no.15

福岡さんが印鑑のような物を見つけました。ただ印鑑とは違うようです。金属製のようです。本来の形状は、印鑑みたいに丸い棒状の品物なのでしょうが、何らかの衝撃と言いましょうか、圧力で曲がっていますね。

2017年1月21日/遺骨収集の様子no.16

丸い部分は金属製で黒い蓋はセルロイド製のような印象を受けます。ご覧のように割ってみましても、何なのかよく解りません。薬を入れた瓶の保護ケースというのがあると聞いた事がありますので、もしかしたらそうした類いの物なのかもしれません。

2017年1月21日/遺骨収集の様子no.17

いわゆる「喉仏」がありました。残念ながら手を合わせて拝んでいるように見える部分は無くなっていますね。喉仏は男性で目立つ喉の出っ張りではありません。頭蓋骨のすぐ下を支える第二頚椎です。

2017年1月21日/遺骨収集の様子no.18

骨盤を構成する仙骨です。実に不思議な形状をしていますよね。

2017年1月21日/遺骨収集の様子no.19

現在までに見つかった遺品の数々です。記名がありそうな物品は少ないです。残念ながら記名があると確定した物もありません。

2017年1月21日/遺骨収集の様子no.20

18日の記事で、御遺骨発見現場から7メートルぐらいの距離に蛸壺があり、そこは見張り台のような役割もあった可能性があると書きましたが、その蛸壺を掘ってみる事にしました。写真は蛸壺ある場所を前面から見たものです。

2017年1月21日/遺骨収集の様子no.21

蛸壺を上から見たところです。

2017年1月21日/遺骨収集の様子no.22

仲里さんに近くに立って頂きました。人一人が入れるぐらいの穴だと解りますね。

2017年1月21日/遺骨収集の様子no.23

しばらく掘りましたが、残念ながらご遺骨や遺品は発見されませんでした。

2017年1月21日/遺骨収集の様子no.24

福岡さんが持参した煙草です。何と昭和20年頃に流通していた本物の煙草で、オークションサイトで見つけて、相応の値段で購入した物だそうですよ~。慰霊の意味は勿論、戦没者の方に吸わせてあげたいと持参したものです。

戦前はゴールデンバットという煙草がありましたが、英語表記のゴールデンバットは敵性語になるという事で、昭和15年に「金鵄(きんし)」に名前が変わりました。金鵄とは日本書紀に登場する伝説の鳥で、初代天皇にあたる神武天皇の東国征伐の最中に、金色に輝く光で敵軍の目をくらませ、神武天皇の勝利に導いたとされる鳥なのだそうです。ですから命名に際しては、戦意の高揚という意味合いもあったかもしれませんね。

2017年1月20日/遺骨収集の様子no.25

ほら中身の煙草も70余年前そのままの姿です。煙草大好きの福岡さんは、おもむろに「金鵄」の煙草に火を付けて大きい岩の上に置きました。戦没者の方もきっと喜ばれたと思いますよ。福岡さん有り難うございました。(^o^)

2017年1月21日/遺骨収集の様子no.26

現時点で発見されたご遺骨と遺品です。白布の所に福岡さんが持参された当時の煙草を置きました。どうぞ存分に吸って下さいね。

2017年1月21日/遺骨収集の様子no.27

仲里さんが布バケツに詰められた土砂を、壕内から運び上げている所です。

2017年1月21日/遺骨収集の様子no.28

金城さんと仲里さんがフルイに掛け分別作業をしている所です。

2017年1月21日/遺骨収集の様子no.29

飯ごうの蓋も出てきました。将校用ではなく兵士用の飯ごうです。こうして戦没者が身につけていた遺品は結構出てくるのですが、記名のありそうな物品は少ないです。

2017年1月21日/遺骨収集の様子no.30

福岡さんが壕内で頑張っています。

2017年1月21日/遺骨収集の様子no.31

といいつつ、「交替」といいつつ出てきました。長く身を屈めて作業していましたからね。お疲れ様でした。

2017年1月21日/遺骨収集の様子no.32

吉井さんと仲里さんが中に入り作業を継続しています。

2017年1月26日/遺骨収集の様子no.33

吉井さんが作業していますが、歯が見つかったという事で、撮影させてもらいましょう。

2017年1月21日/遺骨収集の様子no.34

銀歯かな…。いや金歯ですね。間違いありません。

2017年1月21日/遺骨収集の様子no.35

情報提供者である真喜志さんが、昨日に続き本日も沢山の飲料水とお菓子を持参して、現場に足を運んで下さいました。メンバーの皆さんが、丁度小腹の空いた頃でしたから、しばしみんなで頂きました。これ以降真喜志さんもお手伝いして下さるとの事です。有り難うございます。

2017年1月21日/遺骨収集の様子no.36

仲里さんが作業している所です。ご覧下さいませ。壕における沖縄戦当時の地盤がしっかり露出してきているのが見えますよね。約3メートルにわたりこの様に綺麗サッパリ土砂を運び出しました。土砂の搬出作業も間もなく打ち切りとなります。

2017年1月21日/遺骨収集の様子no.37

瀬戸物の欠片が出てきました。お茶碗かもしれません。

2017年1月21日/遺骨収集の様子no.38

工兵隊の壕に相応しく、斧が出てきましたよ。最初は単なる錆びた鉄の塊に見えてしまいました。金属部分もかなり錆びていますが、木製の柄の部分により斧である事が見てとれますね。

2017年1月21日/遺骨収集の様子no.39

これは何でしょうかね。革製品の可能性が高いですが…。個人が持参した物品の可能性が高いですから、遺骨収集情報センターに持ち込む遺品の中に入れておきます。

現場における遺骨収集は終了しました。ご遺骨は遺骨収集情報センターから頂いたビニール袋と段ボール箱に慎重に納めました。特に頭骨については、情報提供者である真喜志さんのお陰で、ご遺骨発見に繋がったという事で、真喜志さんに箱に納めて頂きました。

これらの作業は、ご遺骨がDNA鑑定される可能性があるという事で、私達は指紋が付かないように手袋をして作業しました。DNAが混ざってしまわないようにする為の配慮ですね。これからご遺骨と遺留品の二つを、摩文仁の平和祈念公園内にある遺骨収集情報センターにお届けする事になります。(^o^)

二日間お疲れ様でした。(^o^)

2017年1月21日/遺骨収集の様子no.40

二日間でしたが、長い長い二日間でした。無事に現場における全ての作業が終了したので、道路に出て記念撮影を行いました。作業に従事した皆さんは満足感に満ちたお顔をされていますね。情報提供者である、お父さんが独立混成第四四旅団工兵隊所属兵士であった真喜志さんと共に。

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