平成29年(2017年)沖縄遺骨収集奉仕活動

1月17日(火) 八重瀬町具志頭の稜線北側傾斜面で遺骨収集

今日の天気予報は、曇り時々晴れ。最高気温20度の予報です。20度というのは、とても暑い気象状況です。飲料水をしっかり買い求めて作業に取り組まねばなりませんね。今朝の慰霊巡拝は、独立高射砲27大隊本部壕「南冥の塔」、そして「沖縄師範健児之塔」です。

独立高射砲27大隊本部壕

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.1

独立高射砲27大隊本部壕に行くには、まずは糸満市大度の国道331号線沿いにある「海の見えるレストラン」を目標にし、同レストランの崖下側に小さな道がありますので、その小道を見つけたらしめたものです。50メートルほど進むと門中墓前に至ります。お墓前からは舗装路面はなくなり、いきなりご覧のような狭い登山道のような小道を降りていく事になります。手摺りが標識代わりにあるので迷うことはないと思われます。道なりに進んで下さい。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.2

40メートルほど下ると左に曲がり、水平面ほ進む事になります。ご覧のように道はなくなりますが昔道だったせいでしょうか、樹木は育ってないので、鬱蒼としてはいますかず、見通しのきく草地となっていますが、足下に注意しながらそのまま前進します。ちなみにこの時期はハブはいませんから、その点だけはご安心下さい。ただこうして毎年慰霊参拝を続けていますと、目の前に広がる風景が、“人間の関与” が失われ、草の丈が伸び、木本があちこち増えてくる荒涼とした光景に変わる変遷の姿を見るのは、ちょっと寂しいものがありますね。(T_T)

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.3

進行方向左手を見ながら50メートルほど進むとご覧のような壕入り口が現れます。これが「独立高射砲27大隊本部壕」です。正確には同壕は入り口が二カ所ありますので、その一つの入り口という事になります。それでは近づいてみましょう。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.4

沖縄戦が始まるまでは、この壕において独立高射砲27大隊第二中隊が火砲一門を設置して、予備陣地として南方の守りを担っていました。元々高射砲陣地は敵の激しい攻撃に晒されるのを前提としているため、開口部はご覧のようにコンクリートで補強されています。 独立高射砲27大隊本部壕は、この壕と右側にもうひとつ大規模な壕があり、二つの壕はつながっていたと言われています。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.5

コンクリートの状況を撮影しましたが、勾配がかなりありますし、丸太で型枠を構成したというのが見てとれますね。コンクリート部分をよく見て下さい、戦後70余年を経て10センチほどの鍾乳石が垂れ下がって居るではありませんか。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.6

壕内部の様子です。それほど広くはないですね。高射砲は壕内部に収納しておいて、射撃する時はレールに乗せて前に出して射撃、速やかに後退させたのでしょう。 また写真中央部に少し黒い部分がありますが、そこからもう一つの壕と繋がっていたと言われています。昔そこから覗いてみましたが、落盤していて進む事はできませんでした。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.7

ここが独立高射砲27大隊本部壕のもう一つの壕口です。壕入り口に大きな岩が鎮座していますが、この巨岩は平成24年ですから今から5年前という事になりますが、大きな地震があり、その揺れで上から落石したようです。壕入り口を塞ぐように落ちたので、出入りには少し不自由しています。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.8

落ちてきたこの巨岩の上に、更に太い倒木がありましたが、それは誰かが撤去したようです。この場所で手を合わせました。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.9

壕の中へ10メートルほど入った所から撮影してみました。ご覧のように開口部は結構な大きさがあります。偽装はしたでしょうが、危うい大きさですよね。兵員の出入りだけでなく、大砲とか大きな装備品を出入りさせたのでしょうか。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.10

卒塔婆が数本立っていますね。戦後70余年を経て、洗い流した訳でもないのに、卒塔婆に書かれていたであろう戦没者の名前などは見事に自然消滅しているのが印象的です。風雨にさらされる場所ではないのに墨文字が消えてしまうなんて…。70余年の歳月の長さが偲ばれますね。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.11

結構深い場所まで入ってきました。下りながら更に進みます。 壕の壁天井が煤で真っ黒になっているのが見えますね。以前入っ時には木杭が炭のようになっていたのを目撃したことがありますので、徹底的な火炎放射攻撃を受けたようです。

※独立高射砲第二十七大隊に関わる『独立高射砲第二十七大隊英霊の碑』は、この壕のある真上の地上部分に、嘗てあった「沖縄ファミリーランド」内にあったそうですが、同園閉鎖後は移転されたそうで、現在は県道15号線安里と仲座の分岐点付近にあるとの事です。機会があれば訪ねてみる予定です。

「南冥の塔」

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.12

駐車場から100メートルほど階段を下っていくと、ご覧のような案内石塔が見えますので、案内に従って右折していきます。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.13

歩道から見上げるとご覧のような風景に出くわします。この近辺はこうした巨大な岩が入り組んで並んでいるために、極めて複雑な地形をしています。この近辺で方向を見失い迷子になったと感じたら、確実にパニックになるでしょう。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.14

歩道突き当たりには、ご覧のような南冥の塔解説文が設置されています。ギリギリ読めますが、テキストに起こしてみました。(^o^)

【南冥の塔解説文】

沖縄戦終焉の地であるこの一帯には、米軍に追いつめられ逃げ場を失った多数の日本の軍人軍属、一般住民が米軍の連日連夜にわたるすさまじい砲爆撃により傷つき、斃れていて、死屍累々といったその様はこの世の地獄絵図かと見まごうような悲惨な光景でした。 この南冥の塔は、沖縄戦に参戦し、その惨状が念頭から離れなかったという日系二世の米兵ヤマモトタツオ氏が中心となり、昭和二十九年九月、この一帯に放置されていた身元不明の兵士、住民の遺骨一万二千柱を集骨して建立されました。 現在、この塔の遺骨のほとんどは沖縄戦没者墓苑に移され、ここには一部が分骨されて祀られています。 ここに追悼の意を表し、戦没者の御霊を慰めるとともに、安らかならんことを祈ります。

内閣府沖縄総合事務局 

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.15

「南冥之塔」です。新装なって精々しい雰囲気を維持していますね。ところで那覇教会の林先生が、沖縄に点在する慰霊塔の前で慰霊祭を最初に行ったのが、この「南冥の塔」だったそうです。慰霊祭の依頼者は、この慰霊塔の墓守をしていたといえる前門家のキヌさんでした。という事で金光教の遺骨収集奉仕活動とこの「南冥の塔」とは、切っても切れない縁があると言えるでしょう。

林先生は、毎年6月23日の沖縄戦終結の日に合わせて、ここ「南冥之塔」で慰霊祭を仕えられています。すでに39年も続けられているそうですから驚きです。毎年本当にお疲れ様でございます。

国立の墓苑は日本全国で千鳥ヶ淵と摩文仁の二カ所しかありませんが、この「南冥の塔」もなんと国立墓苑に指定されており、それがために、林先生が祭主を務める6月23日挙行の慰霊祭には、国の出先機関である内閣府沖縄総合事務局長名で生花が届けられるそうですよ。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.16

日系二世の米兵ヤマモトタツオ氏が、摩文仁を立ち去るにあたり、刻み込んだ碑文は次の通りです。

「銃とらぬ諸人の 御霊永遠に神鎮まりませと 祈りつつ吾れ 此の碑を捧げまつる
一九五四年九月拾四日 沖縄戦参加一米兵」

日系二世の米兵ヤマモトタツオ氏が、沖縄戦の渦中、日本軍を掃討するため摩文仁で作戦を遂行中に、赤ん坊の泣き声がするので、声を頼りに辺りを探してみると、砲弾に打たれ死んでいる母親の血塗られた乳房をまさぐりながら、飢えて泣いている赤ん坊が居たそうです。しかしながら掃討戦の作戦遂行中であり、手当もせずその場を立ち去ったそうです。

やがて戦争も終わり、除隊となって郷里に戻りましたが、その時の光景がたびたび夢に出てくるというのです。それでいたたまれず、単身沖縄にやって来て、前門家の庭にテントを張らせてもらい、現在の南冥之塔がある一帯で遺骨収集を一ヶ月ほど続け、ご遺骨を塔の横にある壕に納めたそうです。

ところで、金光教の遺骨収集奉仕活動の運営を一手に担っていた運営委員会時代に、この解説文に書かれている、日系二世の米兵ヤマモトタツオ氏を、米国からお招きして、南冥之塔前で慰霊祭を…。という動きがありました。

もう何年前になるでしょうか、おそらく25年以上前であったと記憶していますが、少し記憶がぼやけてきています。いすれにしてもヤマモトタツオ氏招聘の足掛かりを掴むべく、米軍及び米軍軍属の方々の、金光教の遺骨収集参加を一元的に任されていた、米軍軍属のブレイ松枝さんという方を通して、米国で新聞投稿をして広く情報を求め、そしてついに日系二世の米兵ヤマモトタツオ氏の所在を突き止められたそうです。 しかしながら、その結果は…。

ヤマモトタツオ氏ご本人は、戦闘疲労症(PTSD)になっており、「訪問は止めてほしい」と、ご家族の方が直接語られたと聞いております。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.17

「南冥の塔」の左手には、ご覧のように口を開けた壕があります。内部も相応の広さがあり、沖縄戦当時はかなりの人々が避難していたものと推測されます。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.18

日系二世の米兵ヤマモトタツオ氏も、最初は集めたご遺骨をこの壕の中に安置したそうです。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.19

「南冥の塔」から帰る途中、上を見上げると、ご覧のような光景が見えました。人工の構築物がポコッと突き出ていますが、「黎明之塔」でする。同塔がある場所は、摩文仁の丘の最高地点で、沖縄戦当時は89高地と呼ばれていました。右手やや下ったところに司令部壕があり、第三十二軍牛島満司令官と長勇参謀長が自決した場所としても知られています。

「沖縄師範健児之塔」

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.20

駐車場に車を留め参道を降りていくと、70メートルぐらい進んだ所にトイレ休憩所があります。そのトイレ前の道が三叉路になっており、「沖縄師範健児之塔」に行く道、「南冥の塔」に行く道、そして海岸に到る道(途中「金井戸」という湧き水が出ている場所あり)の三方向に分岐しています。この分岐から更に50メートル程進むと、眼前にご覧のように「沖縄師範健児之塔」が見えて来ます。一昔前は、樹木が生い茂り、一人で訪ねるのが憚られるぐらい鬱蒼として暗く陰気な雰囲気でしたが、現在は樹木も伐採され明るい雰囲気となっています。

ちなみに「沖縄師範健児之塔」があるこの場所は、摩文仁のハンダ原と呼ぶ場所にあります。原という名がついているので原っぱになっているのかという事になりますが、さすがに農業が出来るほどの原っぱはありませんが、原と呼べるレベルの平らな場所である事は間違いありません。巨大な岩がゴロゴロありますから、とても平らな場所とは思えないかも知れませんが、確かにこの辺りは海岸に向かって緩やかに下ってはいるものの原っぱであると断言できます。それは「黎明之塔」から展望して頂ければ一目瞭然だと思います。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.21

昭和25年(1950年)6月に建立された「沖縄師範健児之塔」ですね。沖縄師範学校の野田貞雄校長ほか、戦没職員17名、生徒289名、計307名を祀っています。

南の 巌のはてまで 守り来て 散りし龍の児 雲まきのぼる

ひめゆり学徒を引率した仲宗根政善氏は、若人の死を悼んで次のように詠みました。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.22

沖縄師範学校男子部は、昭和20年3月31日に、職員も含めて386名全員が軍名により動員されました。386名の生徒達は鉄血勤王師範隊を編成し、本部、切込隊、千早隊、野戦築城隊、特別編成中隊を組織し、4月1日より守備軍司令部と共に作戦に参加しました。負傷兵の治療の補助、陣地構成、炊事、立哨、情報収集や伝達などの任務を担いました。そして5月下旬より戦況不利になると司令部と共に南部地区へ撤退し、最終的にこの摩文仁の壕まで退却しました。6月19日軍解散命令の出たあと敵軍に斬り込む者、この壕内で自決する者など、多くの犠牲者を出しました。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.23

ギリギリ読めますね。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.24

「沖縄師範健児之塔」の全景です。右奥には「平和の像」があります。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.25

「平和の像」ですね。この像は、九死に一生を得て戦場から生還した沖縄師範学校生であった大田昌秀氏、外間守善氏、安村昌享氏らが、後に自らの戦場体験を綴った「沖縄健児隊」を刊行し、それが松竹により映画化された際の印税などを元に、大田氏が中心となって製作、建立したものだそうです。像は、彫刻家野田氏の作で、向かって右側の少年が「友情」を、中央の少年が「師弟愛」を、左の少年が「永遠の平和」を象徴しているとの事です。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.26

この小さな「健児之塔」碑は、昭和21年(1946年)3月に旧真和志村(現那覇市東部)の村長金城和信氏により建立された初代の「健児之塔」です。同様の慰霊碑は、「魂魄之塔」と「ひめゆりの塔」にもありますね。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.27

「平和の像」のした下には小さな壕があります。愛娘の遺骨を探していた村長金城和信氏は、その壕で複数の学徒の遺骨の存在を確認したと言います。そうした経緯もあり、この地に「沖縄師範健児之塔」を建立したのです。それではその壕に降りてみましょう。この写真の方向に歩みを進めます。そのまま階段を上がっていくと「黎明之塔」や平和祈念公園に行く事になりますので、壕を目指す場合は、右側の手摺りが無い部分から下に降りていきます。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.28

するとご覧のような開口部のある壕が見えてきます。壕口は東を向いています。壕口は海上に展開する米軍からは見えません。また階段のある側は上の写真で解るように巨岩がそびえ立っていますので、上から壕口は全く見えないという実に素晴らしい場所にある壕だと解ります。ちなみにこの壕がある場所に注目です。と言いますのも一枚前の写真の階段を登っていくと、摩文仁における第三十二軍司令部壕があります。またこの壕から40メートルぐらい先には、司令部の炊事等を行う第三十二軍関連部隊が入っていたと思われるとても大きな壕があります。当然重要なその二つの壕を将兵が行き来したと思われますが、その行き来するルートの途中にこの学徒隊が居た壕があり、これは単なる偶然ではないと思われます。

沖縄戦を詳細に書き記した『沖縄決戦』(八原博通著)によれば、「小径を下りつくした脚下の海岸には直径十数メートルの泉があり、その傍らには巨大な奇岩に囲繞された洞窟がある。泉は命の綱とたのむ唯一の給水源で、洞窟は炊事場になっている。戦況急迫した場合、果たして山上の洞窟と断崖下の生命源が連絡を保持し得るや否や…」と書かれています。

これは摩文仁の第32軍司令部の洞窟から見た状況ですから、「直径十数メートルの泉」とは、チンガー(金井戸)を指しているのは間違いないでしょう。また「その傍らには巨大な奇岩に囲繞された洞窟がある」と書かれていますが、チンガーの周囲にある巨大な壕とは、私が指摘する壕以外には見当たりません。炊事場というのは第三十二軍司令部の炊事場という事になろうかと思います。現在この学徒隊が居た壕の上はコンクリート製の階段が整備されていますが、沖縄戦当時も上の司令部壕まで登りやすい地形ではなかったかと推測されます。私も実際の階段の両側で遺骨収集をやった事がありましたが、現在の階段ルートが一番上りやすいルートであると認識した事を覚えています。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.29

すでに学徒が居た壕の中に入っています。愛娘の遺骨を探し求めていた金城和信氏ご夫妻は、男子学徒の御霊も祀りたいと念じておられたそうです。そしてついにこの壕を発見しました。壕内には男子学徒の遺体が5人ぐらいで一緒に抱き合うように毛布に包まっていたり、その他一人二人とまるで安らかな眠りについているかのように横たわっていたそうです。

ブロックで仕切られた区画は納骨堂となっています。ちなみにブロックの積み方が甘く、中が見える場所がありますので、納骨堂の中を見たい方は覗いてみて下さい。30年ぐらい前はご遺骨が山のようにありましたが、戦後70余年を経て今はごく僅かのご遺骨があるだけとなっています。ちなみにご覧のように献花されているのが見えます。私は「沖縄師範健児之塔」に来た場合は、大概この場所に降りてきて手を合わせるのですが、誰かが献花した跡がいつもあります。「ひめゆりの塔」と比較したら寂しい限りですが、この場所まで降りて手を合わせる方が一定数居られることを実感しています。ちなみに20年以上前にこの壕の写真では左手の方で遺骨収集して、完全一体とは呼べませんが、一定の数のご遺骨を収集したことがあります。その時は併せて「沖縄師範健児之塔」から15メートルぐらい離れた岩陰でも、かなりまとまったご遺骨を収集しました。

遺骨調査・収集作業開始です

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.30

これからジャングルに入り調査作業を始めます。まずは献花しジャングルに向かい手を合わせました。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.31

本日は右側から、菊池さん、吉井さん、田中さん、南埜さん、そして福岡さんと私の六名での作業となります。皆さんよろしくお願いします。(^o^)

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.32

ジャングルに入りました。本日の天気予報は曇り時々晴れという予報で、実際に曇り空的な天候で、ジャングル内もかなり明るいです。ライト無しでも地表面がしっかり見えるので、遺骨収集にはもってこいの気象状況ですね。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.33

ここの稜線も石灰岩で構成される平坦面が、活断層活動により切断された傾動地塊となっているのが見てとれますね。結果として南側が緩やかな傾斜となり、北側が断層崖となる典型的な地形を形成しています。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.34

何度も書いていますが、アダンが無いのが嬉しいですね。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.35

大きな岩の割れ目が見えてきました。将兵が隠れる、或いは攻撃する場所としてはもってこいの場所に見えます。向かい側に位置する安里方面と協力して、摩文仁方面に進軍して来る米軍に対し挟撃攻撃が可能な場所と言えるでしょう。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.36

南埜さんが、写真左側の穴っぽい部分について、「今は埋まっているけど、当時は蛸壺か兵士の出入り口かもしれない」と語ります。それにしても小さい窪地なので、そんな事は無いのではと思いましたが…。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.37

ご覧のように、見た目は穴などほとんど無いように見えます。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.38

カメラを更に近づけて見てみますと…。ストロボが光らなかったので解りにくいと思いますが、穴が奥深く続いているのが見えました~。(^^;)

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.39

少しクマデ等で岩を除けたら、たちまち人間が入れるぐらいの穴となりました。そして実際に人間が一人入れるぐらいの穴が奥深く続いているのが見えます。そこで痩せ身であるサイト管理人が入る事になりました。安全確保のためにロープを下ろす準備をしている所です。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.40

中に入り3メートルぐらいの所から入り口を見ています。入り口付近は痩せ身でないと無理ですが、中はそれなりの空間があり、太っている人でも大丈夫だと思います。沖縄戦を戦った将兵で太っている人はあまり居なかったでしょうから、ほとんどの将兵がこの空洞を行き来できたと思います。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.41

奥の方を撮影してみました。ご覧下さい、奥深いでしょう。更に入ってみましょう。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.42

カメラのピントが手前に合照してしまいましたが、奥深い所に別の出入り口から入れると思われる空間が見えます。ハシゴなどがあれば降りられそうですが、現状のこのままでは降りられないようです。私が入った壕口は稜線の上の方ですから、山裾付近に別の出入り口がありそうです。一応内部の様子は把握できたので、これから外に出ます。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.43

吉井さん、福岡さん、田中さんのお三方が先ほど見つけた大きな岩の割れ目で遺骨収集をしていました。すでに少しご遺骨が出ているようです。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.44

下の方に壕があると連絡を受け駆けつけました。菊池さんが案内して下さいましたが、ご覧のような開口部の壕が山裾にありました。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.45

南埜さんはすでに中に入って調査を開始していました。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.46

壕口から内部空間を撮影してみました。それ程奥深くはないですね。右側にはまだ進める場所があるようです。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.47

少し壕に入ってから入り口側を撮影しました。開口部は安里方面に向いています。この壕の位置は、昨日多々名城跡の少し手前にあった三角点、当時は91高地と呼ばれましたが、そこから1.2キロメートルぐらいの位置にあります。ですから当然この付近一帯も独立混成第四十四旅団隷下の独立混成第15連隊が布陣していた場所です。6月10日から15日ぐらいに掛けて、米軍との間で激しい戦闘が続きました。この壕からも多くの兵士が出撃したと思われます。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.48

一番深い所から入り口方面を撮影しました。内部を見渡してみましたが、先ほど見つけた穴の中で見た広い空間の所と繋がってはいないようですね。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.49

地下足袋の底の部分がありました。開口部の大きい目立つ壕ですから、すでに収骨済みだとは思いますが、南埜さんはこの壕でしばらく掘り進んでみると語っていました。

2017年1月26日/遺骨収集の様子no.50

この部品は、三八式歩兵銃の銃身内部を清掃する道具の先端部です。煙突を掃除する道具の先端部分をイメージして頂ければ解りますね。針金が巻いてある部分に短いブラシが巻いてありましたが、腐植して消えてしまいました。銃身の奥深く清掃するために、この部品に長さ20センチほどの鉄の棒を4本接続して用います。この清掃道具は個人では持たず、分隊単位で持参したそうです。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.51

今入った壕の位置関係を調べるべく、一度山裾に降りてみました。そしたらこんな立派な門中墓がありました~。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.52

門中のお名前は消させて頂きました。これならごネットで紹介しても大丈夫ですよね。沖縄のお墓は「破風墓」「屋形墓」とか色んな種類がありますが、この写真のお墓は「亀甲墓(きっこうばか)」と呼ばれるものです。写真中央部に墓の中に入る出入り口がありますね。内部はとても広くて6~8畳もあるそうです。一度は中を見たいと念じていますが、何時の事になるやら…。

墓全体の形状が亀の甲羅に似ているところから「亀甲墓」と言われますが、真実は女性の子宮を模したものし言われ、墓の入り口が産道に当たると言われています。人は母親の胎内から生まれ、死ぬとまた母親の「胎内」に戻っていくという「母体回帰」の風習によるものと言われています。ちなみに門中とは親戚の事で一族でお墓に入るのです。ある意味とても合理的ではないでしょうか。「清明祭」や「旧盆」などでは、一族が墓に集まり墓前に香をたき、泡盛や重箱を供えて酒を酌み交わしますが、私も何度かそんな風景を目撃しています。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.53

門中墓のすぐ横には、ご覧のようにサトウキビが置いてありました。初めて見ましたが、サトウキビをチップ化して編み目の袋に詰めてあります。このような状況だと、トラックがやって来てクレーンで吊り上げて積み込むというような流れでしょうね。これまでは長いサトウキビの茎を何十本と束ねて結束してあるのはよく見かけましたけどね。この様なパターンは初めて見ました。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.54

更に近づいてみますと、サトウキビの切り口を見ますと、綺麗に切れてないので、機械で切ったというよりも、鎌で切ったと言う印象を受けます。恐らく農家の方が手作業で切ったのでしょう。ステンレス製の丸い輪が組み込まれていますので、そこにワイヤーロープを通して積み込むものと思われます。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.55

再び田中さんや吉井さん、福岡さんが作業している場所に戻って参りました。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.56

遺骨や色んな遺品が見つかっていますね。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.57

田中さんがフルイを用いて土砂と遺骨等を選別しています。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.58

発見したご遺骨は、二カ所に別れているようですね。ちなみに私たちは念のため場所毎に分別するように努めています。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.59

昼食を食べに行く際に、松永さんが古城の一つである上城という城跡を案内して下さいました。多々名城跡と同じ稜線上にあり距離にして1キロメートルぐらい離れています。所在地は安里と与座の境界線付近にあると思われます。説明文は読めますね。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.60

松永さんが指さす方向に古城がありました。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.61

写真の辺り一帯全部が上城があった場所のようです。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.62

午後の作業が始まりました。ご遺骨が見えますね。土がカラカラに乾いています。通常の雨などでは、この場所に降らないのかもしれません。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.63

ご遺骨自体も小さいので、フルイを用いて見落とす事なく収集していきます。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.64

手前側の白布も、少しずつご遺骨が増えてますね。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.65

収集場所の全体を写してみました。真上は巨岩が覆い被さるようになっていますので、米軍偵察機からも全く見えない絶好の陣地となっていますね。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.66

ご遺骨は足の骨が多そうですね。金属製の板はなんでしょうか。無線通信機器の外箱でしょうか。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.67

もう一カ所の白布にあるご遺骨の様子です。ジメジメした場所ではないのに、戦後70余年も経過すると、ご覧のようにご遺骨も細かくなってしまうのですね。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.68

まだまだ小さなご遺骨が出てくる状況です。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.69

福岡さんはピンセットを持参しています。しかも大きいのと小さいのと二種類持っていました。もう脱帽ものですね~。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.70

お三方が思い思いの場所で作業しています。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.71

吉井さんが作業しています。手前にある白っぽい岩は全部吉井さんが出したものです。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.72

田中さんが作業している所からもご遺骨が出ているようです。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.73

少しずつ着実にご遺骨が増えていますね。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.74

歯が歯茎に埋め込まれた状態で出てきました。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.75

歯だけでもこれだけ出てきました。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.76

お三方が収集作業をしている様子です。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.77

山裾の壕で収集作業をしている南埜さんと菊池さんはどうしているでしょうか。?

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.78

ヒェ~。随分と掘り進めましたね。しかも仕事が綺麗ですよね。奥まった所に石垣が出来ていますが、全て本日南埜さんが積み上げたものです。石垣の奥に土を入れていく…。狭い場所に石も土も片付けられる素晴らしい手法ですよね。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.79

鉄製の部品が出てきました。ちょっと何の部品か解りませんね。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.80

細かい土石になっている場合は、クマデではなくご覧の道具の方が効率が良いと南埜さんは語ります。単純作業が延々と続く場合は、効率の面から道具の選別にも注意していると南埜さんは語ります。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.81

スコップに入れた土を、石垣の奥に放り入れる…。南埜さんはこうした単純作業を何日も続ける場合もあると語っています。正に遺骨収集とは、忍耐力と努力、そして根気と気力の要る、類い希なる禅僧の修行にも例えられるような行為という事になりますね。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.82

引き続き吉井さんと田中さんが同じ場所で収骨作業をしています。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.83

福岡さんの「七つ道具」をご紹介しましょう。(^o^) 収集作業では威力を発揮しそうな物ばかりですよね。福岡さんも長く遺骨収集に取り組んで居られますから、体験の中から少しずつ種類を増やしていったのでしょう。こうして持参する道具が変わっていく、或いは増えていくというのは、真剣に遺骨収集と向き合っているという証でもあります。今後どのような道具が増えていくのか…。その点を怠りなく見守っていきたいと思います。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.84

松永さんが所用を済ませ駆けつけて下さいました。現在までの状況を福岡さんが説明しています。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.85

収集したご遺骨について、松永さんと福岡さんとが話し合っています。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.86

松永さんも収集作業に取りかかりました。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.87

再び南埜さん菊池さんのお二方が作業している壕に来ました。お二人とも協力して頑張っています。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.88

大きな岩の周囲は全て一段低くなっています。全て片付けられてしまいました。凄い作業量ですね~。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.89

大きな岩を隅に追いやり、再び土砂を選別していきます。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.90

菊池さんのところも一段深くなっているのが確認できます。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.91

お二方のパワーで、最初に壕内を観察した時と比較して、地形がかなり変わってしまいました。これらの状況は、本日作業が終わらなくとも、どこが終了した場所で、どこが未作業の場所かがハッキリ読めますので、誰が見ても解りやすい遺骨収集のやり方だと思います。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.92

再び松永さんや田中さんが作業する場所に戻って参りました。夕方となり辺りは少しずつ暗くなってきています。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.93

福岡さんはフルイを多用して精力的に頑張っています。今日中には終わらないという事で、後日もまた作業を続けると話していました。

2017年1月17日/遺骨収集の様子no.94

夕方になって暗くなってきたので作業終了にしました。本日も全員事故も無く終わる事が出来ました。お疲れ様でした。(^o^)

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