平成29年(2017年)沖縄遺骨収集奉仕活動
- 1月12日(木)故具志八重さんのお墓参り、新設された「台湾之塔」慰霊巡拝
- 1月13日(金)国立戦没者墓苑下の大きな壕その他の場所で遺骨収集
- 1月14日(土)国立戦没者墓苑下で遺骨収集、金山均大佐自決の壕慰霊巡拝
- 1月15日(日)国立戦没者墓苑下の大きな壕その他の場所で遺骨収集
- 1月16日(月)八重瀬町仲座・玻名城の独立混成第十五聯隊関連壕等で遺骨収集
- 1月17日(火)八重瀬町具志頭の稜線北側傾斜面で遺骨収集
- 1月18日(水)八重瀬町安里で真喜志氏と共に調査、具志頭で遺骨収集
- 1月19日(木)八重瀬町具志頭で遺骨収集、警察・市役所担当者による現地調査
- 1月20日(金)完全一体ご遺骨の収集作業を開始
- 1月21日(土)完全一体ご遺骨の収集作業を継続
- 1月22日(日)収骨作業現場の最終点検
- 2月10日(金)ご遺骨発見に関わるメディア報道
- 8月15日(火)「72 年の時を超えて」真喜志 彰氏寄稿文
1月19日(木) 八重瀬町具志頭で遺骨収集、警察・市役所担当者による現地調査
今日の天気予報は、曇り午後は一時的に雨。最高気温22度の予報。昨日と同じ蒸し蒸しする天気になりそうですね。今朝の慰霊巡拝は、「開南健児之塔」、「開南健児之塔」、そして「ずゐせんの塔」です。それではご一緒に慰霊巡拝しましょう。(^o^)
「開南健児之塔」
「海南健児之塔」です。戦没された勤皇隊学徒隊員を祀っている慰霊塔のひとつです。 塔は平和創造の森公園内の小高い丘の上にあり、背後は海ですから波音が聞こえてきそうな静かな環境にありますね。地面には砂利が敷き詰められ、両側にはモモタマナの木が植えられています。
沖縄戦で戦没した私立開南中学校の職員4名と一期生から九期生までの274名が祀られています。沖縄戦では、在校生68名が動員されました。生徒達は鉄血勤皇隊や通信隊を組織し、第六十二師団独立歩兵第二十三大隊、同師団司令部などに配属されました。生徒達の任務は不明な点が多いそうですが、危険な任務に就くことも多くあったとされ、66名の犠牲者を出しました。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
沖縄戦で戦没した私立開南中学校の職員4名と一期生から九期生までの274名が期毎に記載され祀られています。
「魂魄の塔」
米須霊域の中心的存在が「魂魄之塔」です。昭和21年1月収容所に捉えられていた真和志村民は帰郷を許され戻ってみますと、地域一帯は死屍累々の場になっていたといいます。そんな光景を目の当たりにした初代金城村長は奥様と共に地域住民の協力を仰ぎ、まず遺骨収集から始めたといいます。二万余柱を奉じて同年2月建立された慰霊塔を「魂魄之塔」と命名しました。最終的に三万余柱が納骨されましたが、昭和54年2月には国立戦没者墓苑に、一部の御遺骨ですが移されたそうです。摩文仁の丘や魂魄の塔がある米須、そして伊原には、全国のすべての都道府県慰霊碑がありますが、唯一「沖縄県の碑」は存在していませんが、あえてあげるならば、この「魂魄の塔」が沖縄県の碑といえるかもしれないとの事です。また6月23日の慰霊の日には大勢の方々が「魂魄の塔」へ慰霊参拝に訪れるそうです。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
「魂魄の塔」碑文です。ギリギリ読めますね。
平成7年(1995年)に除幕された翁長助静氏の詩が刻まれています。
「ずゐせんの塔」
国道331号線米須にある米須西交差点、ここは「平和創造の森公園」 への入り口に当たる交差点ですが、交差点を折れてすぐのところに「ずゐせんの塔」はありました。ちなみに隣接して「ひむかいの塔」もあります。 この「ずゐせんの塔」は那覇市首里桃原町にあった同校敷地跡に最初建立されましたが、後に生徒たちの最期の地となった米須・伊原地域に移すことが検討されまして、結果として昭和34年6月、ゆかりの地である米須に移築されたものです。
沖縄県立首里高等女学校の戦没職員15名、動員された4年生61名のうち戦没学徒33名、同窓生54名、計102柱が祀られています。 同校生徒は「瑞泉(ずいせん)学徒隊」と呼ばれましたが、「ずゐせん」は同校同窓会名称「瑞泉」から命名されました。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
塔の説明文ですが読めますね。(^o^)
瑞泉学徒隊についての解説文です。ギリギリ詠めますね。
花売りおばさんと共に
遺骨調査・収集作業開始です
これからジャングルに入り調査作業を始めます。まずは献花しジャングルに向かい手を合わせました。
本日は右側から、田中さん、菊池さん、そして福岡さんと私です。皆さんよろしくお願いします。(^o^)
ご覧のように凄い断層崖がある場所がありました。早速皆さんが関心を示して探す事になりました。
戦後72年経過し、露天の場合はご覧のように随分と落ち葉といいましょうか、腐葉土といいましょうか堆積しています。これらを除けなければまずご遺骨や遺品は見えてきません。
松永さんが、八重瀬町の遺跡・史跡に関わる関係者の方を案内して現場にやってきました。
八重瀬町の遺跡・史跡に関わる関係者の方が現場を視察している所です。
南埜さんは独立混成第四十四旅団司令部壕を見た事が無いという話でしたから、私と一緒に中を調査する事になりました。
地下三階建ての構造をしている、その最下層まで行ってみるつもりです。安全の為南埜さんがロープを準備しています。
こうしてロープを展開すれば迷子になる可能性はありませんからね。
地下の二層目に入ります。
更に奥へと続いています。
まだまだ続きます。
南埜さんが地盤を観察しているところです。
将兵が身につけていた皮製の一部が沢山あります。
これは人骨ではなく牛の骨です。
靴底も至る所に散乱しています。
軍靴の一部や89式50ミリ擲弾筒弾も結構目にします。
私が先導して、地下三層目に降りようと、極めて狭い空間を移動しようとしたら、コウモリのコロニーがあるらしく、何匹ものコウモリがしきりに「キーキー」と鳴いています。「こっちに来ないで」と鳴いているような気がしたので、このまま前進するとコロニーを破壊しかねないので、先に進むのは断念し引き返しました。
擲弾筒弾や手榴弾、そして小銃弾などは回収し持って上がれるように準備しました。
独立混成第四十四旅団司令部壕から私と南埜さんが出ようとしたところ、丁度八重瀬町の担当者の方が視察に来られたので、再び一緒に案内する事になりました。
ロープ伝いに降りてもらえば、転倒等のリスクも軽減できますからね。
ここが最も危険な場所です。私達も手伝って移動してもらいます。
八重瀬町の職員さんが壕内部を観察しているところです。
独立混成第四十四旅団司令部壕からでてみ出てみるとビックリです。遺骨収集情報センターの職員さん、警察の方、そして八重瀬町の所轄担当者の方の車がこんなに駐車してありました。私達が乗ってきた車は別の場所に駐車してありますから、ここには一台も駐車してありません。皆さんお忙しい中、こうして迅速に対応して下さいました。これは松永さんの地元故のパイプの太さという面を抜きには考えられませんし、行政所管担当部署の皆様による積極的な対応には感謝感謝ですね。(^o^)
昨日発見した御遺骨発見現場も見て頂きました。
昨日発見した御遺骨発見現場に琉球新報の女性記者さんが訪ねてこられました。遺骨収集してから記事にすると語られていましたから、もしも記名遺品などが見つかれば、大きな記事にして下さるかもしれません。これから作業する私達も益々気合いが入ろうというものですね。
警察による調査、八重瀬町担当部署の方の調査が済み、遺骨収集情報センターの職員さんからゴーサインが出ました。早かった。有り難いですね。明日から作業できるという事で、作業手順や作業ボリューム等を見極める為に、改めて壕内の発見したご遺骨の様子をしっかり観察しました。
ご遺骨を精査しました!
まずは頭骨ですね。頭骨が発見され本当に良かったと思います。歯もありますから必要に応じてDNA鑑定をして頂けそうです。下顎の骨は、頭骨よりも下の方にありましたが、踏みつける可能性のある場所にあり、油断すると踏みつけて壊してしまうので、岩の上に上げておきました。
手足の主要なご遺骨が見えています。
大腿骨、脛骨も見えていますね。
岩を一個移動してみると、大腿骨、脛骨である事がハッキリ見えますね。
左側に兵士が持っている水筒が見えます。右側には特徴的な骨である仙骨が見えます。仙骨のある場所も重要です。腰がどこにあったかを表すからです。壕内で自決するにせよケガで死亡するにせよ、仙骨はあまり移動しないと思われるからです。ちなみにご遺骨から男性女性を見極めるのは不可能とされていますが、この仙骨に限り見極められるという見解を持っている方も居られるようです。
水筒をアップしてみましょう。最も量産された九四式水筒と思われます。激しく凹んでいますね。岩とかが激しくぶつからないと、ここまで凹まないと思われます。
特徴的な腕の骨である尺骨があります。肋骨が何本か見えますね。
解りにくいですが、肩甲骨があります。
これはもう一つの肩甲骨と思われます。
足の腓骨と腕の橈骨が見えます。
壕の輪郭は円形でハッキリしており、岩石組成を観察して落盤の危険性は無いと判断しました。沖縄戦当時の地盤も比較的容易に露出して来そうです。ご遺骨が散乱する範囲は長さ2メートル程度。但し上腕骨のみ少し離れた場所にあります。従って収集する範囲はおよそ3メートル程度になりそうな予感。全ての土砂は外に搬出しますが、二日あれば問題なく作業が完了する段階まで持って行けそうだと確信しました。
また収集道具を補強する為にホームセンターに行くなどの必要はないと判断しました。現有の道具類で対処できそうです。但しフルイについては、全ての土砂をフルイに掛ける為に作業効率を高める必要があります。そこで南埜さんが大型のフルイを持っているという事で、明日自宅から持参してもらう事になりました。以上で明日からの作業に関わる道具の手配は完了です。
ご遺骨の精査を終え壕を出てみると、右側の方ですが、これまでに何度かご一緒した沖縄在住の仲里さんが居られました。明日からの収骨作業を手伝って頂けるそうです。有り難うございます。また左側の方は地元の農家の方で、沖縄戦当時15歳だったそうで、終戦後安里地域の遺骨の収集に専任で取り組まれたそうです。この方を含めて6人で毎日ご遺骨を探しては収集するという作業を続けましたが、この安里地域の全地域で収骨を終えるのに半年を要したそうです。その他当時の状況を色々と話して下さいました。