平成29年(2017年)沖縄遺骨収集奉仕活動

1月16日(月) 八重瀬町玻名城の独立混成第十五聯隊関連壕等で遺骨収集

今日の天気予報は、曇り所により雨。最高気温18度の予報です。雨が降るかもしれないという事で、回避したい思いもありますが、こればかりは如何ともしがたいですね。それでは今日の慰霊巡拝は、「沖縄陸軍病院第一外科壕」「沖縄陸軍病院之塔」です。ご一緒に慰霊巡拝しましょう。(^o^)

「沖縄陸軍病院第一外科壕」

2017年1月16日/遺骨収集の様子no.1

場所は糸満市伊原にあります。国道331号線から農道に入り、およそ150メートルぐらい進むと左手にご覧のような「第一外科壕」が見えてきます。沖縄戦当時は壕の周囲にある樹木等は砲撃で吹き飛ばされたでしょうから、そうした視点で壕を俯瞰してみますと、かなり大きい縦穴に見えますね。穴が見えないように偽装するなどと言う事は不可能だと思えます。開口部は米軍飛行機からもよく見えたでしょうね。

「ひめゆり平和祈念資料館」の説明書きによりますと、「伊原第三外科壕とともに、南部撤退後に沖縄陸軍病院職員やひめゆり学徒隊が避難していた壕の一つで、最初糸数分室の勤務者が入っていたが、後から第一外科と津嘉山経理部の勤務者が合流した。6月17日、壕の入り口近くに砲弾が直撃し、学徒や病院関係者が死傷。その翌18日に学徒らに解散命令が出され、19日未明に負傷者9名を残し、壕を脱出した」と書かれていました。

2017年1月16日/遺骨収集の様子no.2

沖縄陸軍病院第一外科壕は、最初は伊原集落の人達が入っていた壕です。それではご一緒に中に入ってみましょう。階段状になっているスロープを降りていくと、ご覧のように岩の下に狭い空間があるのが見えてきます。

2017年1月16日/遺骨収集の様子no.3

香炉などが設置された献花台に花を添えて手を合わせました。写真中央部に穴らしきものが見えますね。そこから壕の内部へと入っていきます。出入り口はこの一カ所のみのようです。昭和36年(1961年)に琉球政府社会局などが中心となって大々的な遺骨収集が行われたそうです。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

2017年1月16日/遺骨収集の様子no.4

壕口方向を見た状態から左側を撮影しています。雨が多いと写真左手奥側から水が流れ出ているのですが、今年は一応乾いていますね。

2017年1月16日/遺骨収集の様子no.5

壕口から撮影しています。少し解りにくいと思いますが、水が貯まり池のようになっていますね。ですからこれ以上奥には行けません。沖縄戦当時はこうした状況は無かったと思います。近年この近くに巨大な貯水槽を構築したそうで、そうした事もありこの近辺の地下水位が上がったという事のようで、その結果毎年慰霊巡拝に参りますが、池になっている頻度が増える傾向にあります。

2017年1月16日/遺骨収集の様子no.6

最も下に降りたところか開口部を撮影しました。壕口は小さいですが、地表の開口部はかなり大きいのが見てとれます。

「沖縄陸軍病院之塔」

2017年1月16日/遺骨収集の様子no.7

道路脇にはご覧のような「陸軍病院慰霊之塔」という石碑が、少なくとも三カ所ありますので、どれか一カ所でも見つければ迷うことなく到着できると思います。

2017年1月16日/遺骨収集の様子no.8

「沖縄陸軍病院之塔」の敷地内には、大きな広場があるのが印象的ですね。また昔は大きな樹木が繁り鬱蒼とした雰囲気でしたが、それらの木も適宜伐採されたりして、現在はご覧のように見通しのきく明るい雰囲気となっています。

2017年1月16日/遺骨収集の様子no.9

「沖縄陸軍病院之塔」です。沖縄陸軍病院は当初那覇市樋川にある開南中学校を拠点としていましたが、昭和19年の所謂十・十空襲により破壊され、南風原の黄金森にある分院へと移動します。首里戦線崩壊後は、伊原にあるこの「沖縄陸軍病院之塔」横の壕を本部としました。同塔は昭和39年「沖縄陸軍病院戦没職員の碑」として建立され、平成6年「沖縄陸軍病院之塔」として再建されました。病院長広沢文吉軍医少将ほか軍人、軍属、医師、薬剤師、看護婦等43名が祀られています。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

2017年1月16日/遺骨収集の様子no.10

「沖縄陸軍病院本部壕跡」と石碑に書いてありますすね。石碑の背面にあるのがその壕です。地元の方はこの壕を「サキアブ」と呼ぶそうです。それでは一緒に入って見ましょう。

2017年1月16日/遺骨収集の様子no.11

これが沖縄陸軍病院本部壕です。大きな木がありますが、もちろん沖縄戦当時は無かったでしょう。ご覧のように開口部がとても大きくて偽装は出来なかったでしょうね。この壕では6月14日もしくは18日のどちらかと言われていますが、米軍迫撃砲弾が落下し、広池院長、佐々木大尉、下士官、衛生兵そして学徒など、中に居た多くの方々が亡くなりました。

《過去の写真ご紹介》

2017年1月26日/遺骨収集の様子no.12

この写真は米軍迫撃砲弾が落下した際に、負傷したり死亡した方々の場所を明示した図です。ギリギリ見えますね。9番が迫撃砲弾着弾点です。左側2番の所で、橋本伍長、兵一名即死、宮原軍曹重傷。4番の所で、中林伍長即死、軍属炊事婦二名即死。5番の所で、院長負傷。と書かれています。着弾点は壕の天井の無い窪地部分でしたので、遮る物がなく広範囲に砲弾破片が直撃したと思われます。

2017年1月16日/遺骨収集の様子no.13

もう少し先に進むと、いわゆる壕の中に入るという状況になりますね。という事で、第一外科壕と同じように、地表から見る開口部はとても大きいですね。

2017年1月16日/遺骨収集の様子no.14

壕の中に入ったところで、開口部分を撮影しました。第一外科壕と同じように、かなり大きい縦穴に見えたでしょうね。

2017年1月16日/遺骨収集の様子no.15

20メートルぐらい奥に入ったところで撮影しました。まだ十分に立って歩ける空間があります。奥に進むにつれて勾配は低くなっていきます。

2017年1月16日/遺骨収集の様子no.15

写真奥には壁が見えてきましたから、壕の最奥部という事になります。右側には池があります。沖縄戦当時もあった事が推測されますので、この壕内では飲料水に困らなかった可能性がありますね。

2017年1月16日/遺骨収集の様子no.16

「サキアブ」の最奥部が見えてきましたね。壕入り口からどうでしょうか、およそ60メートルぐらいでしょうかね。黒く見えるのは池です。今年は水位が低い状況ですね。秋から冬にかけての降水量により、水位は高かったり低かったりしています。「沖縄陸軍病院之塔」の南側には、小高い山が連なり稜線となっているので、相対的に低い位置にあるこの池は、水が枯れることは無いように思えます。

遺骨調査・収集作業開始です

2017年1月16日/遺骨収集の様子no.17

本日の遺骨収集作業が始まりました。結構険しそうな雰囲気ですが、アダンは無いので、その点は少しばかり気が楽ですね。

2017年1月16日/遺骨収集の様子no.18

豊澤さんが積極的に切り開いて下さっています。

2017年1月16日/遺骨収集の様子no.19

このジャングルは比較的明るいですね。あまり鬱蒼とした樹木はありません。見通しもききます。

2017年1月16日/遺骨収集の様子no.20

「ギャー」とかの大きな奇声が発せられたので、何かアクシデントがあったのかと助けに来ました。この写真は少し解りにくいのですが、巨岩の下に福岡さんが入っています。穴の中で何か見つけたようです。福岡さんが穴から出て来て聞きましたら、中にハブの抜け殻があるそうです。福岡さんは匍匐前進して穴の中に入りましたが、いきなり目の前にハブの抜け殻があったので、ビックリしてしまったそうです。それは誰でも驚きますよね。そこで私も穴の中に潜ってみることにしました。

2017年1月16日/遺骨収集の様子no.21

穴の中に入り2メートル程入った所に、ご覧のようなハブの抜け殻がありました。こんなのがいきなり見えてきたら、それはビックリしますね~。こうしたハブの抜け殻は時折目にする事がありますね。ちなみに本物の生きてるハブを目撃したのは、34年遺骨収集していて一度だけですね。大きな岩を除けたら、その下にハブが居ました。ハブもビックリしたでしょうが、私もビックリしてすぐにその場を離れました。ハブを見ながら去りましたが、休眠中なのでシュルシュルと機敏な動きはしませんでした。

2017年1月16日/遺骨収集の様子no.22

大きな岩の亀裂部分を福岡さんが見ています。

2017年1月16日/遺骨収集の様子no.23

大きな縦穴がありました。これは落ちたら大変ですね。

2017年1月16日/遺骨収集の様子no.24

豊澤さんが上掲写真の穴が、岩の亀裂と繋がっているのか調べています。繋がっていれば中に入れますからね。

2017年1月16日/遺骨収集の様子no.25

11時頃に紅一点の田中さんが摩文仁に到着しましたので、さっそく記念撮影を行いました。(^o^)

独立混成第四十四旅団司令部壕見学

2017年1月16日/遺骨収集の様子no.26

田中さんと吉井さんが到着したという事で、独立混成第四十四旅団司令部壕を見に行く事になりました。この壕は独立混成第十五聯隊の連隊戦闘指揮所を兼ねていた可能性が高い所です。従いまして激烈な馬乗り攻撃を受け壕内に居た部隊は全滅しました。これにより具志頭陣地や91高地を含む稜線陣地を守っていた独立混成第十五聯隊は壊滅したといって良いでしょう。こうした激戦ゆかりの壕について、サイト管理人以外のメンバーの皆さんは一度も入った事が無いという話ですから、絶好の機会となりました。ちなみに沖縄戦におけるシュガーローフの戦いなどで第三十二軍から感状を授与されるなど、首里戦線で縦横に大活躍した独立混成第四十四旅団(旅団長は鈴木繁二陸軍少将)の編成地は熊本県で、隷下には第1歩兵隊、第2歩兵隊、独立混成第15連隊、旅団砲兵隊、旅団工兵隊等の部隊を持ちます。

2017年1月16日/遺骨収集の様子no.27

三人の視線の先にある障害物を越えられるか…。無理なら回り道となります。その見極めをしています。

2017年1月26日/遺骨収集の様子no.28

独立混成第四十四旅団司令部壕のいりぐ入り口です。序盤下り斜面となっていますので、慎重に降りていきましょう。

2017年1月16日/遺骨収集の様子no.29

すでに壕の中に入っています。まだストロボ無しで撮影できる状況です。壕の入り口の様子は撮影忘れです。(^^;)

2017年1月16日/遺骨収集の様子no.30

福岡さんの持つ懐中電灯が無茶苦茶明るいので、カメラのストロボも光らなくなってしまいます。(笑)

2017年1月16日/遺骨収集の様子no.31

こうして見ると独立混成第四十四旅団司令部壕は、結構奥深い壕であるのが見てとれますね。どちらかと言うと穴みたいな坑道ではなく、岩の割れ目という印象を受けますね。

2017年1月16日/遺骨収集の様子no.32

この壕も例外ではなく家庭ゴミが沢山捨てられています。目の前にあるのは冷蔵庫ですね。

2017年1月16日/遺骨収集の様子no.33

手前に見えるのは牛の骨ですね。動物の骨や生活ゴミと共に、ご覧のように守備軍が持ち込んだ弾薬なども結構目に付きますね。

2017年1月16日/遺骨収集の様子no.34

これは三八式歩兵銃の銃弾だと思われます。

2017年1月16日/遺骨収集の様子no.35

この写真を見てギョッとした方も多いと思います。ごめんなさ~い。(^^;) これは牛の頭の骨ですよね。投げ入れた際に使用したロープがそのまま巻き付いているのが何ともリアルです。この独立混成第四十四旅団司令部壕は、壕上部に穴が開いていて、そこからこの牛も投げ入れたものと思われます。

実は沖縄では昔から集落の一角に病死した家畜や動物を捨てる壕があったと言いますし、こうした死骸の廃棄場所は集落単位で設けられていたといいます。ですからこの壕は立地から見て仲座集落の住民の廃棄場所という事になると思いますね。ちなみに「ひめゆりの塔」前にある第三外科壕も、伊原集落の動物の死骸等の捨て穴だったそうです。

いずれにしても冷蔵庫や生活ゴミの廃棄・投棄については、これはまた別問題で人としてのモラルの問題ですね。

2017年1月16日/遺骨収集の様子no.35

少し解りにくいと思いますが、写真中央の穴が更に下に降りる為の入り口となります。この独立混成第四十四旅団司令部壕は地下三階建ての建物と同じ構造となっています。現在私たちが居る場所が地下一階で、この入り口から降りると地下二階に降りる事になります。現在は大量のゴミや土砂で出入り口が狭くなっていますが、沖縄戦当時はもっと簡単に上下階の移動が出来たのではないかと推測しています。ちなみに本日は下見という事で、ここで切り上げて壕を出る事になりました。

2017年1月16日/遺骨収集の様子no.36

帰路につきました。大きな壕ですから地下一階部分については酸欠の恐れは全く無いですね。

2017年1月16日/遺骨収集の様子no.37

壕の出入り口部分が見えてきました。こうして見ると地表から深く降りていくのが見てとれますね。一見して通路ばかりのように見えますが、所々に広い空間があり収容人員はかなりの規模になると思います。

2017年1月16日/遺骨収集の様子no.38

ザ・サザンリンクスゴルフクラブの一角に来ています。クラブハウスの建物が見える好立地の場所に、町立のゲートボール場があるのですね。これまではゴルフ場を横切る形で、玻名城ビーチという海岸まで降りた事はあります。金光教の遺骨収集でも、その海岸線で遺骨収集した事がありました。しかしこのゲートボール場の存在は今まで知りませんでしたね~。ご覧下さいませ。太平洋を臨む絶好のロケーションではないでしょうか。こんな風光明媚な所でスポーツをやって汗を流す…。ご覧のように平日の一時をゲートボールで楽しもうと、大勢の人達で賑わっていました。この辺りの住民の方は幸せですね。(^o^)

2017年1月16日/遺骨収集の様子no.39

お昼ご飯を食べ午後の作業の開始です。新たに菊池さんが合流しました。という事で本日は総勢五名のメンバーで遺骨収集する事になりました。遺骨収集地域は、ザ・サザンリンクスゴルフクラブ北側の稜線に沿って、最奥部が多々名城跡までとする予定で行動します。それでは午後も頑張りましょう。(^o^)

2017年1月16日/遺骨収集の様子no.40

菊池さんが到着早々に道を作ってくれています。有り難うございます。ジャングルへの入り際というのは、樹木ではなく草本的な植物が繁茂していますから簡単に直進できません。

2017年1月16日/遺骨収集の様子no.41

東に方向を変えて進んでいきます。

2017年1月16日/遺骨収集の様子no.42

国土地理院が設置した三角点という標識がありました。沖縄戦当時ここは91高地と呼ばれ、摩文仁防衛戦においては、独立混成第四十四旅団隷下の独立混成第15連隊(美田千賀蔵大佐)が布陣した場所です。ここから1キロメートルぐらい東に具志頭陣地があり、現在もクラシンウジョウ壕が自然壕を掘り進めて構築壕とした往時の立派な陣地としての面影を残しています。また現在具志頭城跡の近くに「魄粋之塔」があり、具志頭村の住民の方々が、同村内に散在していたご遺骨一万余柱を収集し祀っています。収集されたご遺骨の中には、独立混成第四十四旅団隷下の全滅した部隊戦没者のご遺骨も数多くあったと思います。住民の方々がそうしたご遺骨も集めて下さったのですから、本当に有り難い話ですね。

2017年1月16日/遺骨収集の様子no.43

三角点標識から、更に東へとしばらく進みますと、オッ人為的に作られた石垣のようなものが見えてきましたね。どうやら多々名城跡に到着したようです。石垣としては少し解りにくいですね。長年放置されているせいか、蔓植物などが石垣の表面を蔽っていたりします。

2017年1月16日/遺骨収集の様子no.44

この辺りの石垣は解りやすいですね。城を構成する一番外側の石垣だと思われます。多々名城は、13世紀から14世紀の初期に、花城按司が築城したようです。築城した時は「花城(はなぐすく)」と呼んでいたそうですが、いつの頃からか「多々名城(たたなぐすく)」と言われるようになったと言う話ですが、推測するにこの稜線に隣接するするようにある古城の上城の説明板に「上城城主の上原按司は、後に多々名按司に滅ぼされ…」という記述があるので、ここの花城も多々名按司に滅ぼされ多々名城に名前が変わったと見るのが自然だと思われます。

集落の名前が玻名城で多々名城の元の名が花城でどちらも同じ「はなぐすく」と呼び、何か紛らわしいですが、いずれにしてもグスクの規模は、南部地域では最大規模であるそうです。ちなみに玻名城の国道331号線上に「玻名城入口」というバス停があるそうで、城跡まで遊歩道も完備されているそうですから、そちらの方がジャングルの木々をかき分けながら進むより楽だと思います。念のため。(笑)

2017年1月16日/遺骨収集の様子no.45

石垣の上から撮影しました。結構な幅がありますし、しっかり積み上げられているという印象を受けますね。

2017年1月16日/遺骨収集の様子no.46

さあ遺骨収集作業の開始です。皆さん思い思いの場所を求めて散りました。

2017年1月16日/遺骨収集の様子no.47

いわゆる蛸壺のような穴があちこちにあります。蛸壺だとすれば中にご遺骨がある可能性が高まりますからね。一つ一つ徹底して調べていきます。

2017年1月16日/遺骨収集の様子no.48

豊澤さんと田中さんが作業していますが、戦後70余年が経過し、ご覧のように結構土が堆積しています。

2017年1月16日/遺骨収集の様子no.49

菊池さんが作業している所も穴っぽいですね。右側の方向に港川がありますから、右側の石垣といい岩陰もありますから、将兵が居たかもしれません。

2017年1月16日/遺骨収集の様子no.50

サイト管理人は、思いの外木登りが得意なんですよ。(^o^) という事で、さっそく木に登ってみました。遺骨収集では現場現場で、可能な限り木や山に登り付近の様子を観察すると、地理の把握にとても有効です。場所と場所との距離感も実態に沿って把握できますから、ぜひ習慣づける事を推奨します。

2017年1月16日/遺骨収集の様子no.51

西側を見ています。ザ・サザンリンクスゴルフクラブのコースがよく見えますね。(望遠側で撮影していますので、実際の距離感はもう少し遠くにあります) ザ・サザンリンクスゴルフクラブの敷地は米海軍の専用弾薬庫でしたが、昭和52年といいますから、今から40年前に全部返還されたものです。返還された敷地はゴルフ場以外に、土地改良事業が実施されたうえで、農家に払い下げられたと言います。土地を造成した際はかなりの数のご遺骨が出たと地元の方が話していました。写真をよく見ると道路がありますが、玻名城ビーチに到る一般道ですね。ちなみに目の前に展開するジャングルも、金光教の遺骨収集で二度ほど入っています。

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