平成21年(2009年)沖縄遺骨収集奉仕活動
- 1月18日(日)地元のご夫妻と摩文仁の海岸線で遺骨収集
- 1月19日(月)『島守之塔』裏にあるとされる「軍医部の壕」を探す
- 1月20日(火)単独で摩文仁之丘西端斜面に入り遺骨収集
- 1月21日(水)松永氏と摩文仁之丘西端斜面に入り遺骨収集
- 1月22日(木)荒崎海岸で遺骨収集&資料館関係者を摩文仁の壕に案内
- 1月23日(金)摩文仁東端で遺骨収集&ヌヌマチガマで平和学習
- 1月24日(土)第36回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
- 1月25日(日)第36回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
- 8月07日(金)金光教ご本部参拝
1月25日(日) 「第36回金光教沖縄遺骨収集奉仕」に参加しました
金光教沖縄遺骨収集奉仕活動も二日目となりました。今日の夕方には作業を終えて慰霊祭があり、その後はすぐに着替えて那覇空港に向かう…。1年間この日を待ちこがれながらも、過ぎてしまえばあっという間の二日間という事になります。その意味でも悔いが残らないように、今日一日心を引き締めて取り組ませて頂きます。
今日も昨日に続き、天候は雨の心配が無い絶好のコンディションです。天気予報を確認しましたが、スコールなどの突発的な雨も無さそうなことから、朝空を眺めた段階で雨合羽は車の中に置いてきました。
参加者の多くが那覇市内に宿を確保していますので、車に分乗して摩文仁にやって来る皆さんは、集合時刻の8時30分が近づくにつれて、一緒に那覇をスタートしたのではないかと思えるぐらい同時に駐車場に到着します。やがて旧奉賛会事務所前の会場は賑やかになってまいりました。
昨日は夕方作業終了間際になって滑落事故が発生し、皆さんが一時騒然となりましたが、金光教の班ごとの情報ネットワークは素晴らしく、すでにどのような結末だったのかを皆さん知っているようです。
いつも通り「朝の御祈念」を摩文仁山頂に向かって執り行い、それが済むと林先生が昨日の滑落事故の概要と結果とを、少し時間をかけて話してくれました。
また普段は登壇する事の無い大庭さんが、救急搬送された病院での経過状況なども含めて、より詳細に状況を説明して下さいました。
お二方の話を総合しますと、「素晴らしくラッキーが出来事が重なり」順調に南部病院に搬送することができ、専門医に診察してもらう事ができたという話です。
診察の結果「肋骨が1本折れている」事が判明しました。肋骨が骨折した場合は入院の必要はなく、腕を動かさないようにして骨の接合を待つ以外に対処方法は無いという事で、入院する必要もないという結論でした。
結果として昨夜9時過ぎには、本人は自分の足で歩いて付き添ったメンバーの方々と共に、南部病院を出発してホテルに帰ったという話です。
アッそれから本人は、午前中は少しゆっくりして、午後の慰霊祭の時には、参列したいという意欲を見せ周りを困らせているという話ですよ 。(笑)
昨日の一時的にせよ、「青ざめた事態」 に翻弄された事を思えば、正に神のご加護により劇的な回復を見たとしか思えませんよね。
皆さんの回復への必死の祈りが見事な奇跡を起こさせたのかもしれません。昨日今日の流れを見て劇的な進展に、私も驚きを隠せません。
事の結末に安堵し、お二方が状況を説明する後半には、ドッと笑い出す場面も何度か見られ、試練を見事なほど希望へのバネに変えてしまったようです。
朝の御祈念&打ち合わせ
いつものように摩文仁山頂に向かい「朝の御祈念」を執り行います。ご覧のように今日も"晴れ"ですよ。二日間晴れが続くなんて本当に嬉しいですよね。
林先生が昨日の滑落事故の発生状況から病院での処置&退院までを詳細に説明してくれました。故吉木先生の遺影も正面に掲げられ、私たちを見守ってくれていますね。
林先生の滑落事故の説明に聞き入る参加者の皆さんです。皆さんが最悪の事態が避けられ、比較的「軽微な怪我」で済んだことに安堵された様子でした。
大庭さんも登壇され、本人の病院での様子などを、時折ドッと笑いを誘いながら軽快に話してくれました。病院を退出する段階では本人は冗談も言えるようになっていたという話です。本当に良かったですね。
さあ今日一日行動を共にする1班の皆さんですよ。1班は初参加の方が多いのに鍛えられたのか、たった一日でベテランさんの顔に変貌していますね~。この笑顔! 昨日の疲労なんて全く無いみたいですよ。 今日も頑張っていきましょう。
〔1・4班〕島田知事のご遺骨・遺品を求めて
1班・4班合同での午前中の予定する探索地域は、昨日よりも更に東側に移動して行われるという話です。上から見ると、おそらく「平和の礎」がある区域の真下あたりでしょうか。
1班・4班のメンバーは湧水の場所である「ワシチガー」へ至る松林に来たところで、いつもの通り「入山に際しての御祈念」を行いました。
御祈念が終わりますと地元の信者さんである嶺井さんが、「準備運動としての体操を行いますので、互いにぶつからない程度に広がって下さい (^^)/」 と号令を掛けました。
そして思いもよらずストレッチのような体操が始まりました。
これは素晴らしいアイデアですね~。朝ですからまだ体は半分眠っているような状況かもしれません。この体操によりきっと体は目覚めますね。
私も号令に合わせて、おもいっきり手足を伸ばしましたのは言うまでもありません。
皆さんの顔つきや雰囲気も、「体操前と体操後」でずいぶんと違った印象を受けましたよ。たった数分の運動ではありますが、劇的に体調に変化が見られました。
体だけでなく、気持ちも「さあやるぞ!」という切り替えが出来たかもしれません。
準備体操を終え、体の動きも快適になったことから、私たちは崖下にある、地元で昔から利用されていた湧き水の場「ワシチガー」を目指して歩き出しました。
湧水地「ワシチガー」目指して出発!
まずは松林の中で「入山に際しての御祈念」を行いました。作業の安全を願い、また御霊様のご安心を願うと共に、可能であればご遺骨との出会いを願うものです。
「朝はまだ体が眠っている」という事で、嶺井さん主導で準備体操が始まりました。朝体操をする事は事故防止にきっと役立つでしょうから、これはホント素晴らしいアイデアですね。
昔から地元の方が利用していた道を降りてきて、まもなく「ワシチガー」に到達します。徹底的な爆撃を受け、道と言っても岩がゴロゴロしていますが、それとなく道と解ります。
皆さん昨日の疲れを感じさせないほど元気です。
湧き水の水源である「ワシチガー」前に全員集合しました。この時期あまり湧水量は多くありませんが、付近一帯は粘土質の土で覆われかなりグチャグチャしてます。
ここが湧き水の水源です。地元の人々は昔から「ワシチガー」と呼びます。「ガー」とは、もしかしたら「川」の意味かもしれませんね。沖縄戦当時はもっと水量があったと思われます。
「ワシチガー」は昔から地元摩文仁の水源として大切に守られ保存されて来たところです。
沖縄戦当時は、当然のことながら数少ない水場として、避難民が殺到した場所でもありますが、米軍はこの水場の沖合に駆逐艦を待機させ、また崖の上から人々を狙撃し、湧水地周囲は死体の山となっていたそうです。
湧き水の中に死体が浮き、水も赤く濁っていたといいます。それでも人々は飲まざるを得ません。死を覚悟でこの水場に殺到したのです。
地元から参加された方が、「ワシチガー」に関する悲惨な光景を私たちに説明してくださいました。
私たちは、「ワシチガー」周辺で亡くなられた戦没者に全員で黙祷を捧げました。木々が生い茂り今は静かなる場ですが、沖縄戦当時は屍の山が築かれた凄惨な地だったのですね。
摩文仁が米軍の激しい攻撃にさらされている時、この湧き水の周囲でも大勢の避難民が、機関銃の餌食となり亡くなったという事実を知っただけでも、今から探索するこの地域への集中力は倍加されるのではないかと想像されます。
さて1分間の黙祷を終え、いよいよ探索地域に分け入る段階となりましたよ。
午前中の探索地域は「ワシチガー」を基点として東側へ300メートルぐらいまでの範囲の海岸線及び斜面を登り、崖となっていてそれ以上登れない地点までの範囲を探索する事となっています。
班長さんの合図で出発進行で~す。
まずは岩がゴロゴロしていますが「歩きやすい」海岸線を東に進みました。
100メートル程前進してまいりました。この辺りから横一列でジャングル内に入っていきましょう。
さあ ご遺骨を探す作業が始まりましたよ。皆さんが思い思いの場に進みながら、鎌やクマデで草や土石をかき分けていきます。
草地を過ぎるといよいよ斜面も急勾配となります。慎重に足場を確保しながら登ります。
頼りになるのは 「自分の直感のみ!」 です。この辺にありそうだなと目星をつけ探索します。遺骨収集奉仕活動で一番求められるのは 「研ぎ澄まされた直感と集中力」です。
巨大な岩の縁や下には、経験的にご遺骨発見の可能性は高まりますね。このような場所では丹念に土や岩を除けて、「沖縄戦当時の地表面を出す」事が重要なポイントですよ。
アッあんなところでも二人作業していますよ。巨岩が連なったり草地があったりです。こうして見るとかなりの急勾配であることが解りますね。
1班4班の皆さんは分散してご遺骨の発見に向け探索活動に集中するようになりました。私は他班の活動を把握するべく、作業場所を離脱し本部へと戻ってまいりました。
私は機動班の一員という事なので、どこへも機動的に移動するという役割を担っている訳ですから、速やかに本部に戻り林先生の指示を仰ごうという訳です。
本部テント前にやってまいりますと篠原先生と山川さんが、仮設テント周りの植栽部分の清掃作業をしていました。さすがですよね~。このような発想ができるなんて本当にうらやましい限りです (^o^)。
お二方はお清め作業に従事されているわけですが、朝のうちは当然のことながら「仕事がない」状態も多々ありますので、そうした場合は旧慰霊奉賛会建物の周囲を清掃したりして、一時を過ごすのだそうですよ。
篠原先生はかつては率先してジャングルに分け入っていた大ベテランさんだった訳ですが、さすがに近年はお清め作業に従事されています。
「お清め班」の方々は、朝のうちお清め作業が無かったり、作業が一段落した場合などには、仮設テント周辺の清掃をしたりして過ごすのだそうです。
〔3班〕ご遺骨発見現場で遺骨収集
3班がご遺骨を発見したという情報がすでに本部に入っており、その状況を把握するべく、3班の活動地域に徒歩で向かいました。
本部テントからは1キロメートル以上離れていますが、車だとかなり遠回りになってしまうので、崖上に沿って資料館横を通り過ぎ、ちょっとした小道を進んでいきました。
昨日もそうでしたが今年は結構歩きますよ。私の装備は重量級であり、リュックにもかなりの資機材が入っています。
集中して取り組んでいるせいだと思います。大変であることに違いはないのですが、これが結構歩けちゃうんですよね。(笑)
昨日と同じポイントに移動してまいりました。来年からの遺骨収集は、このポイントから少しずつ摩文仁に向かって探索区域が展開していくのでしょうか。700メートル先の資料館との間に、もう一カ所崖下に降りられる場所をぜひ見つけたいですね~。
海岸線沿いはこのように荒々しい巨岩が連なっています。摩文仁方面を見ています。
。黄色いテープを張って、ここまでが今年の調査区域だよと表示します。大きな岩がゴロゴロしていますが、この多くが爆撃で上から落っこちて来たのかもしれませんよ
ちょっとした窪地や穴もクマデ等で慎重に探索していきます。
日本軍の手榴弾が三個発見されました。すでに赤テープが巻かれています。それにしてもプロフェッショナルな仕事をしていますね~(^o^)。ピン部分にもテープで巻いてありますね。
ご遺骨発見現場の様子
ご遺骨が発見された場所です。通路のすぐ横といった場所からの発見でした。
皆さんが慎重に、少しでもご遺骨の形を崩さないように掘り出す努力をしています。「シノ」と「剪定バサミ」を使っているのが見えます。この二つはご遺骨発見時とても重宝しますね。
こちらは発見現場の土をここまで持ってきて、細かい骨片を探しています。大きい骨だけでなく、小さい骨片も漏らさず徹底して集骨の努力をするのが金光教の姿勢ですよ。
「ふるい」を使って土石の中から骨片を発見しようとしているところです。こうしたちょっとした作業に、金光教の遺骨収集奉仕活動への姿勢を垣間見ることが出来ますね。
この時点で収骨されたご遺骨の様子です。足の骨が多いですね。肋骨も見えます。一番左側の骨は背側面から見た肩甲骨と思われます。
3班の方々が発見したご遺骨の収骨状況も確認できましたので、他班の状況を把握するべく、まずは1・4班のところへもう一度行ってみることにしました。
一度崖上に上がり資料館を過ぎて、再び崖下に降りるルートが通常は考えられますが、かなり時間を要してしまうことは確実なので、引き潮の今、海岸伝いに行けないかなと思案しました。
試しに海岸の縁まで出てみますと、なんと1・4班の方々が遠方にチラチラと見えるではないですか。海岸は円弧を描いていますから、直線でおよそ500メートルではないかと推測されました。
ただ問題は誰も海岸を歩いて渡る人は居ないと思うでしょうから、この私がもしも海岸を移動中に遭難したら、誰にも探してもらえないのではないかというのがチト心配でした。
そ点で思いついたのが、班員の方に一言海岸線を歩いて摩文仁に行ってくると伝えればよいのだと思いついたのです。さっそく班員の方に、「海岸線をあるいて摩文仁まで行ってきますから、行方不明になったら海岸線を探して下さい」とお願いして、私は海岸まで降りていきましたよ。
来年からの遺骨収集奉仕活動を思うと、海岸線の移動が多くなる可能性があります。これからの事を考慮して、足場の状況、ルートとか所要時間などを把握するように歩きながら、より安全に行き来出来るルート情報を得るように努めました。
写真中央部分に薄茶色の、砂浜になっている場所が見えますが、そこまで歩いて行く予定です。その砂浜付近で1・4班の方々が作業しています。目をこらしてよく見るとこちらからも姿がみえましたよ。広角側で撮影しているので砂浜の部分まで遠いように見えますが、およそ500メートルほどでしょうか。
お昼休みにクジラ ショー観覧
引き潮の海岸線を小走りに進み、無事に1・4班の皆さんが作業しているところに到達しました。
以外と早かったですよ。15分ぐらいでした。立ち止まる事も多かった状態のタイムですから、立ち止まらなければもっと早く渡れるという確信を得ましたし、転倒さえしなければ安全に海岸線を移動できることが解ったのは収穫でした。
渡り終えた頃ちょうどお昼が近づいていたので、作業している方々も「お昼ご飯にしましょう」という雰囲気でしたから、私も海岸の日の当たる場所に出て、皆さんと一緒にお昼ごはんを食べることにしました。
雑談を交えてご飯を食べていると、班員の一人が「アックジラが見えた~。(^o^)」と絶叫するではありませんか。(笑)
「え~、ホント~~」と居合わせた人たちが一斉に海を見つめました。
「見えた~。(^o^)」、確かに私も見ましたよ。かなりダイナミックな動きをしています。
私たちの居る海岸からクジラとの距離がどれくらいあるのかは見当もつきませんが、ここで見ていても結構な迫力を感じました。
クジラ君は、私たちが騒いでいる間何度か飛び跳ねてくれましたよ。そして私はといえば、あのクジラ君の勇姿の撮影に成功しました~。
少し小さいので迫力という点では見劣りしますが、クジラである事は間違いなく確認できますよ。
それでは撮影したクジラの写真をご覧頂きます。
クジラの撮影に成功(^o^)
ホラホラホラホラ 中央部水平線上にクジラが飛び上がったのが見えるでしょ~~。
「小さすぎてよく見えない」ですって。済みません、広角側で撮影したので小さく写ってしまいました~。
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拡大して、これならどうですか~~。(^o^)
カメラは広角側なので小さく写りましたが、私たちの目ではこれに近い大きさで見ることが出来ましたよ。とにかくザッブーンという音こそ聞こえませんでしたが、動作はゆっくりですごい迫力でした。
思いもよらずホエールウオッチングができて感激でした。しばらくは、皆さんとクジラ談義になったのは言うまでもありません。
実は昨年もクジラを見ることが出来たのです。その時、私は尻尾が海中に入るぎりぎりの所しか見られませんでしたが、他のメンバーはしっかりとクジラを見たのです。
という事で、太平洋を望む摩文仁海岸ではホエールウオッチングを楽しむ事が出来ました。皆様も時間があれば、太平洋をじ~~っと見つめてみて下さいませ。
さてお昼ご飯も食べ終えましたので、誰が声を掛けることもなく自然と皆さんが立ち上がり、広げた弁当箱や包装紙などを片付けたりと、午後の作業準備に入りました。
「さあ、それでは午後も頑張りましょう」 という事で、皆さんがゆっくりと海岸づたいに移動を開始しました。
さあ午後も頑張りましょう。ご覧のように天候は「晴れ時々曇り」といった気象状況です。午後も問題なく探索活動に集中できそうです。
引き潮時といえども水深のある場所は至る所にあります。平気でグングンと海に入っていくので、よく見たらゴム長靴を履いていました。長靴なら大丈夫ですね。
引き潮時の様子です。これぐらい岩礁が露出していると歩きやすいですね。ジャングル内の水平移動は大変ですが、これならば超簡単に移動できますよ。
結局引き潮の海岸線を三回往復しました
こちらではまだご遺骨の発見に至ってないようですから、再び3班の作業現場に戻ることにしました。
先ほどこちらに来るのに15分ほどで到達できましたので、帰りはもう少し時間短縮できないか、しっかりと経過時間を計測することにしました。
引き潮時の海岸は、別世界のような実に不思議な様相ですが、見た目ほど移動が困難ではありませんよ。
いろいろ試してみた結果「軽く走って移動するのが一番楽」と感じました。軽く走って移動するほうが、徒歩よりも楽だと思います。
駅の階段などは、歩いて上るより軽く走って上った方が楽だというのと同じだという理屈ですね。
今回は立ち止まって周りの風景などはあまり見ないようにしたので、純粋の移動時間のみのタイムですが、なんと8分で渡り終えたのです (^o^)。
「早い」、おそらく崖の上を移動したのでは20分以上かかってしまうのではないかと思われますから、それを思うともうこの海の道の利用も十分に利用価値があると思いました。
ただ前にも書きましたように、もしも事故が発生したら大変です。誰それさんがいないという事になりますと、陸地を探すのが一般的で、おそらく海岸線や海の中まで探すという発想は湧かないと思います。
ですから、海岸の移動をする場合は、陸地にいる誰かに声を掛けてから移動する必要があると感じます。
それから手袋は必ずしたほうが良いですね。岩がかなり切り立っており、そこに素手で手を置いたらかなり痛い目に遭う事必定ですよ。
引き潮の海岸を歩いて渡る様子
写真中央部分より少し左側。白っぽい部分が砂浜で、あそこからここまで走って移動してきました。移動に要した時間は、たったの8分でした。これだと崖上を移動する気にはもうなれませんね。
白い部分が見えますがコンクリート製で、湧水の為の構築物となっています。ここいらあたりは比較的移動しやすい岩礁となっていますね。
陸地と海との境目辺りは、ごらんのように巨大な岩がゴロゴロと連なっています。巨岩の下は格好の隠れ場所なのですが、台風など暴風雨でご遺骨は流されてしまった可能性があります。
海中の生物らしきものを撮影しました。これはもしかしたら「なまこ」でしょうか。
これもどう見ても生き物のような…。他にもとても面白い物体がいくつかありましたが、先を急ぐので撮影はしませんでした。
3班の皆さんによる収骨作業
「ご遺骨を見つけたら、周囲に更なるご遺骨がある可能性がある」というのが、ひとつのセオリーと言えるでしょう。
これは砲爆撃によりご遺骨が四散してしまったケースもありますし、複数人で行動を共にし同時に"やられてしまった"というケースも考えられます。
近年になればなるほど、この法則は当てはまりにくくなっていますが、一昔前は一体見つかると周囲でも見つかるケースがそれなりにありましたね。
という訳で、3班の皆さんは午前中の探索範囲を少し広げて、更に広範囲で作業していました。
言葉での説明よりも、写真を見ながらの解説のほうがはるかにリアルで説得力がありますよ。収骨を完了し、現地ミニ慰霊祭の様子までを、写真と解説文とでご紹介いたします。
収骨作業&現地ミニ慰霊祭の様子
一番奥の三人が一緒にいる場所が、最初にご遺骨を発見した場所です。周辺部も探索すると、ご遺骨が発見される事がありますので気を緩められません。
草木を刈り払い、慎重にご遺骨があるかないかを確認しながら前進していきます。
ヒェ~~~。すごい。若さですね~。クマデ一丁でよくもまあ 穴の中で深さ30㎝を掘り進みましたね~。遺骨収集とは 「掘る・掘る・掘るまた掘る」 事であるのを身をもって証明してくれていますが、結局ご遺骨は見つからなかった事から、彼の使った腕力と流した汗は無駄な行為だったのでしょうか…。そんな事はありませんよね。 2平米の面積についてご遺骨不存在が証明されましたし、2平米にわたって沖縄の地が清められましたし、なによりも彼の流した20ミリリットルの尊い汗は御霊様の為に流したのだから。
この段階での収骨状況です。劇的に増えてはいませんが、少しずつ収骨が進みつつあります。
アゴの骨が見えてきました
「アゴの骨がある」と女性が声を上げました。金光教の遺骨収集奉仕活動でも、頭骨に関する部分については特段に注意を払い収骨を進めます。
歯が見えてきましたね。皆さんが指の先で作業するかのように、慎重に指先で土を崩していきます。
歯とアゴの骨が見えてきました。出来る限り原形を留めるように作業しますが、ご覧のようにご遺骨はかなりもろくなっている印象です。
アゴの骨にヘルメットを被せ破壊しないようにしてから、クマデなどで周囲の土を崩していきます。しばらくこの作業を繰り返します。
無事にアゴの骨を破損せずに収骨できましたよ。オッ この方は虫歯はありませんけど、「親知らず」がありますね。(笑)
アゴの骨を含め、少しずつ収骨数が増えていきますね。かなりご遺骨は埋もれているようですよ。
昭和17年製の10銭硬貨が出てきました。衣類のボタンも結構出ています。私のきたない手でごめんなさい。
皆さんが協力しながら、ご遺骨の発掘を進めているところです。斜面であることが見て取れます。このような場所では土石を下に落とせますから、作業がすごくスムーズです。
また時にはブルドーザーのように、「人力パワー」で一気に押していく場面もあります。三人の屈強な男性が全力で掘り進めています。あっという間に一段深くなりましたよ~。
遺骨収集では、時にはバールが大活躍する場面があります。バール、クマデやシノ、ノコや剪定バサミなど、道具を使い慣らすことが迅速な作業には欠かせませんね。ここに写されている作業風景や持つ道具を見ても、遺骨収集のノウハウがびっしりと詰め込まれています。この絵図は、皆さんがまさにプロフェッショナルな仕事をしていると言えるでしょう。
収骨作業を終え、御神酒や水をお供えして戦没者のご冥福をお祈りしました。
60余年もの間、この地にてお待たせしましたね。明日からはごゆっくりとお休み下さいませ。私たちは 「あなた」 のこれからの幸せのために、心からお祈りしますからね。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げますm(_ _)m。
昭和49年に始まった金光教沖縄遺骨収集奉仕活動も、今年は第36回目の開催となりました。
他府県から信奉者・一般参加者ら50名、地元沖縄から29名、この中には毎年参加されているアメリカグループ3名も含まれています。 という事で、今年はベテランさんから初体験の方まで、総員79名の方々が、沖縄本島の南端、ここ摩文仁に参集されたようですよ。
旧奉賛会前の会場には、昨年ご逝去された吉木昭弘先生の遺影も、大きい写真と小さい写真とが設置されており、お姿は見えませんが、今年も一緒に作業しているような気持ちにさせてくれました。恐らく他の参加者の皆さんも、同じような気持ちで接せられたのではないかと思います。
昨日の奉仕活動のなかでは、一人の班員が滑落しレスキュー隊と救急車を派遣して頂いての救助活動もありました。私も第一報を受けたときから、事態の推移を本当に心配しましたが、結果としては、幸いに鎖骨1本を骨折しただけという結果であることが、今朝林先生と大庭さんから報告されました。
その滑落したご本人も、元気に慰霊祭に参加されるという話ですから、本当に良かったですよね。
この遺骨収集ご用奉仕は、"とても危険な作業なのだ" という点を改めて思い起こさせてくれました。
「遺骨収集、踏み出す一歩に、気をつけよう」交通安全の標語ではないですが、とにかく遺骨収集では、踏み出す一歩に、常に危険が潜むという事を認識して、ジャングル内での歩みを進めていきたいですね。
浮き石、枯れ木、落ち葉の堆積、隠された穴、雨によるスリップ等々…。一歩前進する度に、転倒や滑落のリスクに直面することになるのです。
このリスクの度合いは、ベテランさん、初心者さんに関わりなく、また集中力の度合いによらず、何人も等しく覚悟しなければならないものだと思います。
今年も沖縄戦当時の知事だった島田知事の、摩文仁での動向について新情報がありましたので、その情報に基づいての探索活動も実施しました。
島田知事に関する新たな発見はなりませんでしたが、林先生は「沖縄戦当時、県知事として県民の安全を第一に、県内外への疎開、食料の調達などに奔走された島田知事」 の御遺骨や遺品を、何としても探し出したいと念願していますので、これからも新たな情報が出てまいりましたら、逐次島田知事御遺骨発見への努力は続けていくものと思われます。
島田知事の事については、「沖縄の島守」(田村洋三著/中央公論新社) にすごく詳しく書かれていますので、良かったらご一読して下さいませ。
今年2月22日、米国アカデミー賞の外国語映画賞を受賞した映画『おくりびと』が大ヒットしましたね。
映画のロケ地となった山形県庄内地方の、日本の原風景とも言える自然豊かな景観と、人々の生活の美しさとに魅せられた方もきっと多いと思います。
重いテーマだけに暗くならないように、適度に人の生と死をユーモアと感動を織り交ぜて描いていますし、何より役者の演技がとても上手でしたね。
この映画がヒットした後、ロケ地巡りのツアーも人気で大ヒットしたようです。
私は妻からの誘いでこの映画を一緒に見に行った訳ですが、妻が横にいるのにも拘わらず、ハンカチを多用する姿を見られてしまいました (^_^;)。
今はめっきり少なくなった、死との応接…。皆がやりたがらないもの、手を触れたがらないもの、汚らわしいと思っていたもの…。
そんな視線を投げかけられる死体を、美しい姿で送り出すお手伝いをする納棺師の、仕事の「所作」と「職人技」に、私も感動の涙を流し続けました。
と同時に、私の脳裏にはある風景が浮かび上がって来たのです。それは映画における納棺師の作業風景と、金光教沖縄遺骨収集奉仕活動における "お清め班" の作業風景とが重なって見えたのです。
"お清め班" の作業風景といえば、ブラシや棒などで御遺骨に付着した土や汚れをゴシゴシ落としていく作業ですから、木本雅弘さん演ずるところの納棺師のような、美しく、洗練された所作という訳にはいきません。
ですが、「死者を美しい姿で送り出すお手伝いをしている」 という意味では、映画 『おくりびと』 の納棺師と同じ使命を帯びた、尊い仕事と言えるでしょう。
神仏と同じ世界へと旅立つ戦没者を、「向こう側でも敬意と尊厳が得られますように…」 との願いを込めて送り出してやるのが、 "お清め班" の仕事といえるのではないでしょうか。
なによりも目の前にある御遺骨は、戦争による苦難と無念の死を遂げられた方たちなのです。少なくとも、彼ら彼女らの "死の現場" では、縁者による涙をもって葬送されてはいません。
お清め班の方々は、「向こう側では今度こそお幸せに…」 との願いを込めて、御遺骨をピカピカにしようと、手に持つブラシに力が入ろうというものです。
他者の "死" を、ていねいに応接するという体験は、それはとりもなおさず、 自他の "生" を慈しむ道につながっていると思えてなりません。
現地慰霊祭
連結テント内にはすでに祭壇が設けられましてお供え物も十分に整えられ、慰霊祭の準備はすべて整いました。やがて参加者全員がテント内や周囲に集まり、那覇教会の林先生の主導で慰霊祭が始められました。
那覇教会の林先生が朗々と、現地慰霊祭祭詞を奏上しています。
前に一度現地慰霊祭の「祭詞」を参加記上で皆様にご紹介したことがありますが、何度聞いても涙がこぼれ落ちます…。
これは毎年の事ながら、祭詞が沖縄戦の実相を如実に表現している事にもよりますが、林先生の朗々と読み上げる声の中に、戦没者への深い哀悼の思いが込められているからに違いありません。
36年間もの長きにわたって、一心に「戦没者のご安心」を願い続けてきた、列席する人たちの醸し出す深い深い思いが、「祭詞」という言霊に乗り移り、再び私たちの心に反射して帰って来る事にもよりましょう。
ここ摩文仁に集う人たちは、祭詞朗読の中で「祭詞」そのものと一体化するのです。
金光教沖縄遺骨収集奉仕 現地慰霊祭
金光教那覇教会教師の林先生主導で現地慰霊祭が始められました。今は亡き吉木先生も、戦没された御霊様と共に列席されているに違いありません。
那覇教会の林先生が「祭詞」を奉上しているところです。毎年の事ですが胸に染み入る文脈です。かなりの長文ですが、私たちも心を静めて文脈を一緒に追い「祭詞」を共有します。
「祖先賛詞」(そせんさんじ)を皆で一緒に奏上します。歴史は連綿と続いており、祖先のお陰を被る事により、今の私たちの平安な暮らしがあると言えるでしょう。
「祖先賛詞」(そせんさんじ)を皆で一緒に奏上します。「祖先賛詩」、つまり戦没者や祖先の遺徳を偲び、感恩の念を表出する事。これはとても大切な事ですよね。これは宗教を信奉するしないに関わらず、社会生活からの要請であり原点でもあると言えるでしょう。
私たちの祖先賛詞の思い、天まで届きますように…。今ある尊い平和は、戦没者の犠牲の上に築かれたもの。あなた方の尊い犠牲をいつまでも忘れません。
私達が唯一御霊様にしてあげられること、それは一緒に泣いてあげること。それしか私たちには出来ませんが、心ゆくまでお相手いたしますよ…。
全国各地から参集した皆さんが、前に整列して玉串を捧げます。左から二人目のロン・フーラさんはベトナム戦争従軍兵士でもあります。遺骨収集に25年参加されています。
全国各地から参集した皆さんが、前に整列して玉串を捧げます。右から二人目の嶺井さんは沖縄在住で、年間を通して沖縄遺骨収集に関わる情報の収集にあたっています。
全国各地から参集した皆さんが、前に整列して玉串を捧げます。一番奥のご婦人の後藤さんは、毎年北海道から参加されています。遠路をはるばるお疲れ様です。
篠原先生が最後まで一心に御祈念しているのが印象的でした。「全国から馳せ参じた79名の、御霊様へのご安心を願う思いが天まで届きますように…。そして 摩文仁の大地が清められますように…」。