平成21年(2009年)沖縄遺骨収集奉仕活動

1月23日(金) 摩文仁東端で遺骨収集&ヌヌマチガマで平和学習

6時起床、6時30分付近を散策、7時朝食。

天気予報によりますと、今日も雨の心配は無し。ヤッター(^_^)v。
今日も遺骨収集作業を予定していますので、雨の心配不要というのは本当に嬉しいですね。

本日の大まかな予定としては、午前中は摩文仁の東側ジャングルで松永さん吉井さんの三人で遺骨収集を実施。午後は、三人プラス田中さんという女性を加えて四人で、八重瀬町にある「ヌヌマチガマ」に入り、松永さんが解説者となり壕内での平和学習を実施する予定となっています。

「ヌヌマチガマ」については、私も2007年に松永さんと共に壕に入りましたが、あの時は限られた時間の中での訪問でしたから、確か壕入り口から数十メートル前進した後引き返しました。

ですが今回は500メートルぐらいの長さの壕の反対側つまり 「ガラビ壕」 側に出て、再び戻ってくるという、本格的であり、探検とでもいうべきレベルの探索&平和学習ですから今から楽しみにしています。

「沖縄陸軍病院之塔」を訪ねる

摩文仁での集合時刻にまだ十分間がありますので、朝一番に 「沖縄陸軍病院之塔」 を訪問する事にしました。

糸満に宿を定めたメリットはすごい!。宿を出発し10分もしないうちに到着しました。

この慰霊塔は数年前に一度訪問していますが、当時はこの塔に到達するのにずいぶんと時間を浪費してしまったのを覚えています。ですが、現在は案内標識がバッチリ整備され、おそらく初訪問でも短時間で塔に到達出来るレベルになっていると言えるでしょう。

「平和創造の森公園」を過ぎて、200メートルほど県道を進んだ頃、右側に注意しながら進むと、石碑の案内標識が見えてきますよ。この案内標識を発見できればしめたもの、以降の道路交差部には必ず同じような案内標識が設置されていましたから、必ずや難なく『沖縄陸軍病院之塔』に到達できるでしょう。

「沖縄陸軍病院之塔」

遺骨収集の様子1

「平和創造の森公園」を過ぎて、200メートルほど県道を進み、右側を注意して見れば石碑の案内標識あります。以降同じような案内板が三カ所ありますので、たぶん迷うような事は無いと思います。

遺骨収集の様子2

農家の畑などに囲まれた閑静な場所に慰霊塔と避難壕がありました。周囲は比較的平坦な地であり、昔から農地として活用された場所と思われ、かなり遠くが見通せます。

遺骨収集の様子3

正面が「沖縄陸軍病院之塔」です。塔の前にこのような椅子席が連なっているのは珍しいですね。

遺骨収集の様子4

昭和39年「沖縄陸軍病院戦没職員の碑」として建立され、平成6年「沖縄陸軍病院之塔」として再建され、病院長広沢文吉軍医少将ほか軍人、軍属、医師、薬剤師、看護婦等43名が祀られています。

遺骨収集の様子5

 

遺骨収集の様子6

この案内標識の背後に避難壕があります。ポッカリと巨大な穴が開いているという状況です。

遺骨収集の様子7

ご覧のように開口部がかなり広いのが特徴です。当時もこのスロープのような坂を上り下りしたのでしょう。中央にある巨木は、沖縄戦当時には無かったと思われ、開口部の広さが際だっています。入り口を偽装する事もままならず、容易に米軍に見つかったと想像されますね。

遺骨収集の様子8

壕内部の最奥部から10メートルほど戻った場所から撮影。懐中電灯を消してみますと、かなり暗く感じました。この壕に避難していた職員や患者さんはどのような思いで空を見上げていたのか…。

壕はわずかばかり横にも進めますが、基本的に深さ10メートル程度の縦穴構造ですから、上部から爆撃を受けたらひとたまりもないと思われました。また穴の直径も大きく偽装する事もままならない事から、容易に米軍に発見され攻撃を受けたものと推測されます。

「白梅之塔」

次に訪れたのは「白梅之塔」ですよ(^o^)。ここも毎回のように慰霊に訪れていますよね。今回訪れましたらちょうど管理人さんらしき人が清掃作業をしていましたので、少し立ち話しましたが、清掃は三日に一度やられているとの事。どうりでいつ訪ねても綺麗に清掃されている訳ですよね。

この「白梅之塔」は、沖縄県立第二高等女学校校長以下、職員生徒、同窓生など149名を祀っています。塔の形は「壕の中から太陽を求める。日の光を求める」といったイメージで制作されたとの事。

二高女の生徒46名は、3月6日東風平の国民学校に設営された陸軍病院に動員されました。そして3月24日、生徒達は今の八重瀬町富盛にあった第二十四師団第一野戦病院に配属され、負傷兵の看護にあたる事になったのです。

以降戦局の悪化と共に、新城分院や東風平分院などに移動し看護活動を続けましたが、6月4日解散命令を受けて以降は、戦野を彷徨う事となり、多くの犠牲者が出てしまいました。

解散命令が出た以降も、この国吉の壕で看護活動を続ける生徒も居ましたが、6月22日米軍にガソリンを流し込まれたり、火炎放射攻撃などの馬乗り攻撃をされて、職員を含む36人が犠牲となりました。

この馬乗り攻撃は、6月18日バクナー中将が、真栄里部落で、日本軍の砲撃により戦死した後という事もあり、米海兵隊第二師団によるその攻撃は、徹底的であり残虐的であったようです。

またバクナー中将が戦死してから24時間以内に、米軍の二人の将官が相次いで戦死を遂げました。一人は狙撃兵に撃たれた海兵隊司令官ハロルド・C・ロバーツ大佐で、もう一人はクローディアス・M・イースレー准将でした。

これ以降、"軍民問わず" の掃討戦が展開されたのは想像に難くありません。

実際に、この頃の米軍は怒り狂ったように、付近にいた住民に「日本軍に司令官の位置を通報した」として射殺したり、白旗の代わりに手を挙げて出てきた者まで銃撃するなど、軍民問わず徹底的な殺戮が行われたようですよ(^^;)。

「白梅之塔」の右横に壕がありますが、そこで白梅学徒隊は看護活動を行っていましたが、寝泊まりはここから上の方にある壕でしていたとの事です。

その上の壕にはまだ一度も行ってないのです。次回こそは訪ねてみたいですね。

「白梅之塔」

遺骨収集の様子9

「白梅之塔」の全景を道路を挟んで駐車場側から撮影しました。「白梅之塔」はいつ来ても清掃が行き届いています。折り鶴がいつも飾ってあります。うっそうとした木立に囲まれた「白梅之塔」は懸命に看護をこなした清楚な学徒にふさわしいですね。

遺骨収集の様子10

「白梅之塔」です。現在の慰霊塔は四代目だそうです。塔の形状は「壕の中から太陽を求める。日の光を求める」といったイメージで製作されたとの事ですよ。

遺骨収集の様子11

自決した壕の案内石碑です。

遺骨収集の様子12

自決した壕を階段の上から見ています。思いの外開口部は広くて米軍に容易に発見されたと思いますね。

遺骨収集の様子13

壕の底部から撮影しています。まさに塔製作のコンセプト「壕の中から太陽を求める。日の光を求める」のイメージそのものですね。

昨日、「萬華の塔」 を訪ねたおりに、皆様に石原正一郎さんの事をご紹介しました。

石原さんは米上陸軍最高司令官サイモン・B・バックナー中将の、南部戦線での戦死に関わる日本軍の砲撃を指揮した連隊中隊長だったと言う事と、戦後ずっと沖縄に通い詰めて遺骨収集に取り組み、すでに南部戦跡で累計六千柱以上のご遺骨を収集されたという話をご紹介しました。

石原さんは膨大なご遺骨を収集すると共に、数々の遺品を発掘し100点ほども沖縄戦当時の所持者を特定し、ご遺族にお返ししているのです。

発見した遺品の中には、沖縄県立第二高等女学校の校章「白梅」も、摩文仁の壕から発見したのです。返却された校章「白梅」は、白梅学徒隊の隊員だった方が、今に至っても大切に保管されているそうですよ。

昨日ご紹介しました「沖縄白梅の悲話」(読売新聞社編)に、その発見された校章に関する経緯、石原さんの人となりと共に女子学徒兵に寄せる思いが記載されていますので、ここに転載させて頂きご紹介したいと思います。

【沖縄白梅の悲話】

(107ページ)
沖縄の悲劇を語り継ぎたいという思いを抱くのは、沖縄の人たちばかりではない。

この沖縄シリーズ第一章『白梅』で、沖縄県立第二高女の三十五年ぶりの卒業式を待っていたかのように校章「白梅」が摩文仁の壕から見つかった、と書いたが、発掘されたのは、それだけではなかった。三角定規、おはじき、糸巻き、それに櫛もあった。

白梅隊員、上原初代さんのお宅で、まるで宝物のように大切に守られているこれらの品々を見せてもらったとき、三浦美佐子さんも河内さんも、あの戦いの様から考えて、まさに貴重品ともいえる、これら五つの遺品をだれが、どうして発見したのか、知りたかった。

上原さんは「この人が、私たちのために持ってきて下さった、と聞いておりますが」と一枚の名刺を示した。

帰阪してすぐ、河内は東京で、その人、石原正一郎さんに会った。六十二歳。マユが太い。早稲田大学出身。沖縄で玉砕した野戦重砲兵第一連隊の元大尉である。

渋谷区千駄ヶ谷のマンションで、石原さんは、太く、低い声で、校章に、女子学徒兵に寄せる思いを語った。

石原さんは、昭和四十一年から、沖縄南部地区で収骨を続け、その数はすでに六千柱。四十六回沖縄を訪れている。三十三回忌の年、五十二年以降は、野戦病院を重点に収骨した。

病院の中で自決させられた兵は、さぞ無念だっただろう、引きずってでも壕から出していたら助かっただろうに、という思いが強かった。

与座、八重瀬岳から摩文仁まで、二十カ所近い病院壕には、まだ数多くの遺骨があった。そして、そのまわりから、櫛、手鏡、裁縫箱、おはじき、鉛筆……少女の持ちものがいくつも出てきた。

「私はね、戦友がね、彼女たちにたとえ、包帯のひと巻きでもしていただいたのだ、心をなぐさめていたのだ、と思うようになりました。そうしますと、あの娘さんたちの小さな、ほんとうに細々としたお品が、もういとおしくてたまらなくなってきましてねぇ、ありがとうございます、ありがとうと口にしながら集めたんです。 校章もそうです。

摩文仁に近い大度の壕から出ました。大きな石を二十人がかりで引き揚げました。その下に大人のご遺骨と、校章がありました。そばには少女の歯がありました」

石原さんは、すぐその校章などを同窓会の大嶺勝子会長に届けた。卒業式の前の日だった。

「日本の戦史に、彼女たちのことは、全くといっていいほど出てこないんですよねぇ。まして、白梅隊は知られていない。それが残念でならなかったです。私は必ず、六月二十三日、沖縄の終戦の日、白梅之塔にお参りしています。収骨に連れていっている大学生にも必ず、お参りさせています。若者が手を合わせてあげたら、あの人たち、きっと喜ぶよねって」

河内は、白梅の校章が結びつけてくれた石原さんとの出会いに、百万の味方を得た思いだった。石原さんはつぎつぎと遺品を見せてくれた。名刺ぐらいの鏡はところどころはげ落ちていた。鉛筆は二センチくらいまできれいに削られていた。胸が熱くなり、思わず語りかけていた。

―――ふるさと、沖縄から遠く離れた、平和な時代の東京で、二人の男が、いま、あなたたちのことを思い、偲んでいるのですよ―――と。
石原さんは、両手を合わせていた。

沖縄南部で十五年間に六千体も収骨、これからも体の動く限り続けてゆくと石原正一郎さんは、南部の大きな地図をひろげて、日本の沖縄に、まだどれだけの遺骨が眠っているのか、熱っぽく話し始めた。

県の記録によると、昭和三十年までに県民が収骨した数は十三万五千二十三柱。それから四十五年までの十五年間に県は、さらに、二万九千七百六十八柱を納めたという。

そして五十一年三月には、未収は、対象十八万八千百三十六柱のうち、二千百九十九柱になったと説明した。

しかし、石原さんら民間の手で、五十年から今日まで、六千五十七柱が収骨されている。数が合わない。

「海洋博の年ですけど、摩文仁が心ない人たちの手でね、汚されているのがたまらなくなりましてね、ジュースやビールの空き缶がいっぱいなんですよ。

清掃しようということになってね、黎明の塔から北側斜面から入ったんですよ。そしたら、山のような御遺骨ですよ。百三十七柱収骨しました。

何万、何十万人という観光客の足元に、それだけ眠ってられたのです。それがいまの日本ですよ。

戦後三十五年たちますとね、もう御遺骨は、三十センチ、四十センチものわくら葉の下にあります。まず、それをとりまして、地表を出すんですけど、その地表も風化しているんです。

お骨のまわりを三メートル四方、掘りまして御遺品を捜すんです。お名前がわかるものは、なんとしても、御遺族にお渡ししたい。それが私の念願なんです。

それまでに、百ほどの遺品をお届けしました。その百の御遺族のお顔を忘れることはできません。

沖縄には、まだ、お名前がわかっているのに、肉親の手に帰れない遺品が何万とあるでしょう。これだけ豊かな日本が、なぜ、それをしてあげられないのか。

考え方の問題じゃないと思うんですよ。日本人の生き方の問題じゃないでしょうかねえ」

「沖縄白梅の悲話」から転載させて頂きました

「白梅之塔」へ至る道路脇には、糸満市のように施設園芸は少なく、露地の葉物野菜が栽培されていました。

もしかしたら沖縄では、夏は暑くて野菜は育ちにくいので、冬を中心とした季節が野菜栽培のメインの時節なのかもしれませんよ (^o^)。

何年か前に真壁集落内にある畑で、この季節になんとトマトの収穫最盛期だったのを思い出しました。

遺骨収集の様子14

キャベツですね (^o^)。少し成長が不揃いなのが気になりますが、まだ成長初期ですからね。今後に期待!。

遺骨収集の様子15

結球レタス畑です。こちらは見事に成長が揃っていますよ。こういうのが見ていて気持ちよいですよね。

摩文仁の東端斜面で調査&遺骨収集

ここまで文章と写真を追いかけて来ますと、もうすぐお昼になるのではないかと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、まだ朝の9時ですからね。(笑)

さてさて今日の午前中の予定は、摩文仁の東端斜面ジャングルに松永さんと吉井さんと私の三人で調査&遺骨収集に入ります。

午後は、私たち三人に更に女性の田中さんを加えた四人で、八重瀬町新城にある「ヌヌマチガマ」に入り、松永さんガイドによる「平和学習」を予定しています。

また夕方からは、那覇市内にある金光教那覇教会にて、「第36回 金光教沖縄遺骨収集奉仕」活動の事前説明会&懇親会が開催されますので、私たちも夕方になりますと、ここから那覇市内に向かう予定です。

私たちの集合予定時刻9時に摩文仁駐車場に到着してみますと、見慣れたお顔、そうです篠原先生がすでにジャングルに入る為の準備をしているではないですか~~(^o^)。

篠原先生らが今日から活動を開始されるというのはすでに把握していましたが、今日はお二人でジャングルに入られるようです。

今回は同一行動をとる事は出来ませんでしたが、一緒に行動する時もあります。篠原先生のグループは若手中心の元気グループですから、いつの年も本当に頼りがいのある万能チームですよね。

摩文仁駐車場で再会

遺骨収集の様子16

後ろ左側から松永さん、吉井さん、長尾さん。前は右側に篠原先生がいらっしゃいます。私を除き、皆さんは遺骨収集のスペシャリストと言って良いでしょうね。

篠原先生らは、本日は摩文仁の南側を調査・探索すると語っていました。

私たちはといえば、今後数年間の展開もありますので、サイトでは場所の公開は出来ませんが、摩文仁の「東端」での調査・探索を実施します。

午後1時頃には、東京から参加する田中さんという女性が合流しますので、1時近くになりますと、私たちもジャングルが出る予定です。

今日も雨の心配は全く無し!!。素晴らしい遺骨収集日和ですから、その環境を活かして必ずやご遺骨を発見します。

ジャングルで調査開始!

遺骨収集の様子17

この地域一帯は相当に複雑な壕が連続的にあり時間を要します。実際なかなか前進できませんでした。

遺骨収集の様子18

間違いなく多くの兵隊さんが居たと推測される形跡がたくさんありました。

遺骨収集の様子19

松永さんで手にとり見せてくれましたが、「砲弾の破片ではないか!」と語りました。こんな鉄の破片がぶっ飛んできたら、体に穴が開いてしまうほどですね。

遺骨収集の様子20

ここも天井は浅いのですが、かなり深いですよ。火炎放射を浴びたような壁面状況では無いです。

遺骨収集の様子21

ご覧のように天井が斜めなのですが、深く深く続いています。

遺骨収集の様子22

壕内の天井に煤が付着している訳ではありませんが、ここに「かまど」がありました。長期に滞在したかどうかは定かでありませんが、日本兵が一時滞留した事は間違いないようです。

遺骨収集の様子23

奥深い壕ですが、徹底的に土石を掘り返してみようという話になりました。本格的に作業をする場合は、基本的にロウソクを立て酸素の状況を確認した上で作業を開始します。

ロウソクを立て、4カ所ほど本格的に土石を掘り返しましたが、残念ながら遺品はあってもご遺骨は見つかりませんでした。

御遺骨存在の可能性がある場所をスポットで探索している訳です。そこまでやるかというぐらい深く掘り返りましたので、さすがに疲れました。

遺骨収集のセオリーに立ち返れば、「掘る掘るまた掘る」に行き着きますから、頑張って掘り続けたのです。

本日の作業は午前中だけですから、持てるエネルギーの大半は午前中に出し切ってしまおうと思いましたので、その意味でもパワーをフル回転して、ご遺骨を探し続けました。

田中さんと合流し地元情報による壕を調査

午後1時頃、私たち三人と本日東京から駆けつけた田中さんという女性と、「健児之塔」へ至る駐車場で無事に合流できました。

私たちが約束の時間に少し遅れて到着したので、彼女は「健児之塔」や「南冥の塔」などを見学しながら待っていてくれたのです。

田中さんは、小さなお子さんがいて、なかなか外泊が難しい家庭環境らしいですが、一年に一度のこの遺骨収集奉仕活動では、可能な限り出来ることをやりたいというお考えのようで、明日から始まる金光教遺骨収集奉仕活動に先立ち、前日の朝一番に自宅を出発してここ沖縄にやってまいりました。

本日私たちは、八重瀬町新城にある「ヌヌマチガマ」に入る予定だったので、お誘いしたという訳です。

田中さんにとっては貴重な半日ですが、病院壕として利用された「ヌヌマチガマ」見学は、きっと意義深いものになると思いますよ 。

田中さんも昼食をまだ食べていないという話ですし、私たち三人もまだ食べていないので、途中一カ所で壕を調査し、それが済んだら南城市の知念には美味しいお店があるそうなので、そこで昼食を食べようという話になりました。

松永さんが地元情報により知ったという壕があり、そこにご遺骨があるかもしれないという話です。今からその壕に入って見ますよ。

地元情報による壕を調査

遺骨収集の様子24

場所は明らかに出来ませんが、このような風景のこの先に目指す壕がありました。

遺骨収集の様子25

入って間もなく砲弾のようなものが二つ棚になっているような岩場にありました。

遺骨収集の様子26

大まかに言うと三層構造だと思います。とにかく深いというのが一番の印象です。また大雨の時にはこの壕内に水が流れ込むようです。それにより酸欠の心配は無いと判断しました。壁面にもススが付着しているのが見てとれます。

遺骨収集の様子27

とにかく巨大な壕で、しかも三層構造になっているようなのです。正直に申しますと、一時二人とも出口方向を見失いました。二人とも見失うとは極めて珍しいです。

そういう時はまず冷静になる事が肝心です。ウロウロ探しては絶対駄目です。まず来た道を戻るのです。滅多にこの様な事態にならないと思いますが、原因はほとんど同じ様な雰囲気が記憶を混乱させたようです。また巨大壕では、探索に気持ちを集中させ過ぎると、自分の立ち位置を見失う事がままあります。巨大壕や複層になっている壕や、複雑な壕では、マーカーを置きながら前進するのもひとつの手です。

遺骨収集の様子28

所々に写真のような蓄電池や瀬戸物など遺品がありました。軍関係の遺品が多かった印象です。この壕も日本軍将兵により利用された事が明らかでした。

遺骨収集の様子29

壕から出てきたところです。出入り口は小さいのに内部空間はすごく大きい壕でした。台風など大雨の時は、ここから壕内部に雨水が流れ込むようです。

知念の食堂で沖縄料理を堪能しました

国道331号線を旧知念村に向け走らせ、現在の南城市知念久手堅までやって来ました。南城市の出張所の反対側にあるスーパーの隣が食堂になっていました。おそらくは観光旅行している人たちが立ち寄るというよりは、地元の人たちが利用するという雰囲気のお店でした。

松永さんはこのお店によく立ち寄られるようで、お店の従業員の方と、お客様という範囲を超えた会話をしていましたよ。

ソーキそばとかの名前の知れた沖縄料理も勿論ありますが、今まで食べたことにないような料理メニューもまた並んでいました。私はあまりよく知らないので、松永さんに勧められる料理を頂きました。

皆さんお腹が空いていたこともあり、ボリュームも結構あったのですが、和気藹々と話をしながらあっという間に食べてしまいましたね。

私も美味しくてペロッと食べてしまいましたが、午前中の作業でかなり疲れていたのでしょう。料理や食堂の写真など写す事をすっかり忘れてしまいました~。

ですから何もここでご紹介出来ないのですが、たった二枚だけですが写しましたのでご紹介します。

遺骨収集の様子30

小鳥にえさを与える人が多いのでしょう。私たちと2メートルぐらいの距離まで近づいてきましたよ。本土では見かけない、南国風の可愛らしい小鳥ですよね。ただ店内に「えさを与えないで下さい」という表示があったので、私たちはその指示に従いました。

遺骨収集の様子31

本土では1000ミリリットル入りが当たり前ですが、ここ沖縄では946ミリリットル入りとは…。米国のメーカーが主に基地内向けに4分の1ガロン(約 946ミリリットル)入りで売っていた名残だそうですよ。

「ヌヌマチガマ」で平和学習

美味しい沖縄料理を食べてから、私たちはかねてから見学を楽しみにしている、八重瀬町新城にある「ヌヌマチガマ」へと車を走らせました。

ここ「ヌヌマチガマ」を、松永さんに平和学習的な解説をしてもらいながら、壕内を往復してこようという、超贅沢な企画を実行に移す時がやって来たのです。(笑)

私は、かつて松永さんと共にこの壕内を、50メートルぐらい前進した事があるだけです。他のメンバーの吉井さん、田中さんは初めての入壕だそうです。お二方も大いに期待しているようです。

「ヌヌマチガマ」はとにかく巨大な自然洞窟で、複数の出入り口がありますが、基本的には出入り口は東西にあり、直線距離で500メートル余り連続している鍾乳洞です。

私たちが入る予定の出入り口は、その鍾乳洞の西側にあり「ヌヌマチガマ」と呼びます。そして東側出入り口を「ガラビガマ」と呼ぶのです。ひとつの壕なのに、呼び名が二つ。という訳です。それだけ巨大だという証左ですね。

壕全体を俯瞰する図はなかなか無いのですが、、参考になりそうな写真を過去に撮影してありましたので、ここに再び登場させてみましょう。

現在立ち入り禁止の「ガラビガマ」側の様子

遺骨収集の様子32

東側の「ガラビガマ」入り口は、今から7年前の平成14年にご覧のように立ち入り禁止となりました。地主と行政の間でトラブルが発生しているようです。ちなみに現在複数の壕でこのような問題が発生しています。実際この通路ではね~。地主さんのお気持ちもよく理解できるところです。

遺骨収集の様子33

この落盤の危険性があるという警告板を設置した翌年から立ち入り禁止になったようです。警告板の壕の概要図に注目です。下側出入り口が「ガラビガマ」、上側出入り口が「ヌヌマチガマ」です。見取り図の壕の上から下までが、直線距離で500メートルあるという事になります。

写真でお解りのように、東側出入り口である「ガラビガマ」は平成14年に閉鎖されてしまったようです。

表面上の理由は「落盤の危険性があるから」という事のようですが、伝え聞く情報によれば、基本的に壕に関わる農家とのトラブルがあるという話です。

「糸洲の壕」も同様のトラブルが露見しましたが、話し合いの結果再開されたようです。いずれにしても、畑に囲まれた狭い通路に観光バスがやってきて生徒が何十人も並んで出たり入ったり…。ちょっと厳しいですね。

農家の気持ちになってみれば、その弊害はよく理解できるところです。この手のトラブルは、隣接する地域の方々の利害に出来る限り配慮しないと、壕見学そのものが立ちゆかなくなるおそれもありますから、見学する立場の人たち、は単なる観光地巡りという捉え方でなく、「地域の人たちが住んでいるところに入っていくのだ」という事を認識し、それなりの気配りが求められるのかもしれませんね。

「ヌヌマチガマ」に入るに際しまして、ここで沖縄戦当時この壕はどのように利用されていたのかを、簡単におさらいしてみたいと思います。

西側出入り口を 「ヌヌマチガマ」、東側出入り口を 「ガラビガマ」 と呼ぶ、全長500メートル程に及ぶこの巨大鍾乳洞は、沖縄戦が始まる前は第24師団(山部隊)歩兵第89連隊第2大隊の野戦病院として利用されていました。

陸軍野戦病院の本部は八重瀬町富盛の八重瀬岳にある第24師団第一野戦病院でしたが、米軍上陸後中部戦線である嘉数高地・前田高地等での激戦が続くようになると負傷者が急増しました。

1945年4月下旬、負傷者急増に伴い、新城・新垣・与座にある壕に分院を設けたのです。新城の分院が「ガラビガマ」なのです。史料を読むと、メインの出入り口は「ガラビガマ」だったという印象ですね。

新城の分院は、開設当初は軍医一人、看護婦一人、衛生兵、県立第二高等女学校の学徒看護隊、つまり白梅学徒隊の生徒3人 (最終的に5人) が加わり、また地元から女子青年団員も大勢動員され、看護体制を整えたと言われています。

戦闘の激化に伴い、収容患者数はピーク時で1000名にも及んだと記されています。これだけの数の重軽傷患者を、ランプやローソクなどのささやかな明かりを頼りに、野戦病院関係者は懸命に看護活動に邁進したのです。

包帯やガーゼ、消毒液、各種薬品なにもかもが不足しています。何よりも麻酔薬なしでの外科手術が行われたそうですから、その現場たるや…。言葉を失ってしまいますね。

麻酔なしで手足を切断したという話がありましたが、その手足を埋めた場所は、現在でも把握されていないという話です。

包帯などの洗濯も学徒さんや女子青年団員の仕事だったようで、ガラビガマ側の出入り口付近に地下水が湧き出すところがあり、そこで洗濯をしていたといいます。

「看護婦さん、看護婦さ~ん」と呼ばれてランプを頼りに、患者さんの元にたどり着くと、「痛い、痛い」というので、包帯を外して患部を見るとウジが一杯湧いているので、ウジを一生懸命ピンセットで取ってやったそうです。

また呼ばれて患者さんの元に訪ねると、「隣の人の様子が変だ」というので、隣の患者さんの様子を見ると、すでに死んでいてウジの住み家になっていた…。という事もあったそうです。

4月も後半になりますと、あらゆる物資が底をつき、日本軍将兵や看護婦、そして患者さんの食糧確保も困難を極め、記述によれば一日で、小さいおにぎり1個しか配給されない日々が続いたとあります。

患者さんは体力をつけて怪我の回復を計ろうにも、食べるものもないという事であれば、きっと怪我や病気の回復も遅々として進まなかったかもしれませんよ。

治療や看護にあたる医師や看護婦さん達の、想像を超える困難さは容易に想像できます。戦争ですから、手や足を吹き飛ばされたり、内臓が露出していたり穴が開いていたり…。

もちろん一人ではトイレや寝返りさえうてない重症患者も大勢居たかも知れません。重症患者は重傷と高熱で脳が冒されてしまい脳症患者となり、苦しみでのたうち回り、大声を出したり暴れ回るといった悲劇的な結末になっていくそうです。

また傷口からバイ菌が入り、脳に障害をもたらすという破傷風患者も大勢居たと言われています。

治療する側とされる側の人数の圧倒的な乖離。空腹に打ちひしがれながらの各種看護作業。患者さんへの水や食料の配布などなど…。

昼夜を能わず看護活動に明け暮れた、学徒看護隊や女子青年団員の方々に、本当にご苦労さまでしたと言いたいですよね。

患者さんも看護する側の困難さが解っているから、患者さんは余計に我慢我慢の日々を送った事もあったかもしれません。優しい日本人ですから。

沖縄戦も二ヶ月が経過し、6月3日に米軍が「ヌヌマチガマ」から2キロほど離れた港川海岸から上陸するという情報がもたらされ、ここ新城分院は解散し八重瀬岳の本部に合流する事となり、その時に決定的な悲劇が訪れたのです。

解散に際し動けない重症患者には青酸カリが配られて、かなりの数の患者さんがこの壕内で亡くなったと言われています。手榴弾を持っていた人はそれを爆発させて自決しましたし、また拳銃などを持っていた兵隊さんは、自分の頭を拳銃で撃ったと言われており、実際に戦後の遺骨収集では、頭骨に穴が開いている御遺骨が複数発見された事からも、それが裏付けられています。

これはとても心の痛む問題です。その時身動きのとれない彼らは何を思ったか…。故郷に帰る夢が遠のき、無念の哀しみの中で息を引きとったのか…。

私も今回初めて「ヌヌマチガマ」の最奥部へと足を踏み入れます。ここで亡くならざるを得なかった五百名もの重症患者さんたちの思いがどのようなものであったのか。心を静め、重症患者になりきりその思いを、私なりに確認して来ようと思います。

それでは、参加記をご覧になっている皆様も一緒に、巨大鍾乳洞の中に入って見ましょう。

「白梅学徒看護隊之壕」の碑

遺骨収集の様子34

「ヌヌマチガマ」側壕入り口近くに「白梅学徒看護隊之壕」の碑が立っています。ここ新城分院では県立第二高等女学校の学徒看護隊「白梅学徒隊」の生徒5人が看護活動にあたりました。「白梅学徒隊」の生徒はこの壕では亡くなっていません。富盛の本部が解散された6月4日以降、戦野をさまよい犠牲となりました。

全長500m ヌヌマチガマ・ガラビガマ間往復

遺骨収集の様子35

「ヌヌマチガマ」 出入り口は道路脇にあり、周囲に農家のビニールハウスや畑があるという環境です。昔はこの付近に植生する「ぐわば」を摘むことができ、お茶や薬用で飲んだりしたそうですよ。入り口付近は坂が急ですから、雨の日は滑りやすいかもしれません。

遺骨収集の様子36

入り口付近を中から撮影しました。私を含め男性3人、女性1人の合計4人で、これから「ヌヌマチガマ」での平和学習&探検に出発します。本日外はかなり寒かったのですが、壕の中に入るとやはり暖かかったですね。壕は東西に貫通しており、基本的に酸欠の心配はないとされています。

遺骨収集の様子37

「かまど」跡です。以前と比べ小石がかなり減少しています。消し炭もほとんど文字通り消えてしまいました。「かまど」だと説明されなければ、気がつかないレベルの場所となってしまいましたね~。松永さんは「壊された」という表現を使いましたが、今も調査や遺骨収集に入るグループがあり、その人たちではないかと語っていました。こうなってしまってはどうしようもありませんが、もう少し防護策かなにかしておくべきでしたね…。

遺骨収集の様子38

壕に入ってまもない段階では、このように湧き水のある場所が何カ所かあるようです。当時この壕内にいた方々にとっても貴重な飲み水だったのは間違いないでしょう。また天井から水滴がしたたり落ちている区域がありました。それらも水受けで集水したそうです。

遺骨収集の様子39

まだあまり深く入っていませんが、ここいらはご覧のように地面は湧き水でグチャグチャの状態です。「深いところに重症患者が居た」という当時の情報があり、この辺にも当時重症患者が居たのではないか?という話です。(ご覧のように、この壕に入るには長靴・手袋は必需品であることを申し添えておきます)。

遺骨収集の様子40

壕内は登ったり降りたり、とにかくアップダウンが激しいですね~。重症患者は、戸板に乗せられて搬入されたといいます。坂道では滑り落ちる可能性があるので患者さん自身も落っこちないように必死だったという話ですよ。

遺骨収集の様子41

壕内で説明する松永さんです。修学旅行平和学習では、見学時間が1時間のケースが多く、往復20分ずつ、解説に20分のパターンが多いそうです。松永さんは修学旅行生と同等レベルの平和学習を私たちにしてくれました。ありがとうございました。

野戦病院として利用されたこの壕では、ピークの頃は患者さんが千名を越えたといわれています。壕内にワラや草などが持ち込まれ患者さんはその上に寝ていたといいます。(壕内では距離感がかなり狂ってしまいました、どれくらい入ったのかあまりよく解りません。)

遺骨収集の様子42

ここまで来ると地面は乾いた状態が続きます。それにしてもアップダウンが激しいですね。当時は灯りがあるかないかの状況ですから、このアップダウンはとても歩きにくかったと思います。ご覧のように、道を一歩間違うと崖から落っこちてしまうような状況なのですから。

遺骨収集の様子43

ここまで来るとかなり広い空間が広がっていました。その空間の広いことに皆がビックリしていました。壕内の天井から植物の根が垂れ下がってきています。壕の上はジャングルな訳ですが、それにしても岩に穴を開け侵入してくる根のパワーは本当に凄いですね。この付近で風を感じだ場所がありました。地上から見ても穴が開いているそうです。近くに牛舎があるそうですよ。

遺骨収集の様子44

壕内にはこれまで相当数の見学者が入ったと思われ、しっかり道が出来ている場所が多かったです。

遺骨収集の様子45

「この部分に患者さんが横になっていたのではないだろうか」というような会話をしました。学徒さんや女子青年団員の方々は、壕内で看護活動をしていると昼夜の区別がつかなったそうですが、絶え間なく続く看護活動のなかで、もともと決められた休憩時間というのは無く、タイミングを見ては、患者さんの間に潜り込み、ささやかな休息をとったといいます。ここで骨片が見つかりました。持ち帰り金光教の遺骨収集にご一緒させてもらおうという話になりました。

遺骨収集の様子46

ご覧のように壕内の空間は、かなり広くそれがずっと続きます。またアップダウンも続きます。この辺は完全に乾いており、この近くにいた患者さんはかなり水に苦労したと思われます。ただ南部掃討戦の時期は梅雨に入っていますので、この時期より水の確保は容易だった可能性があります。

遺骨収集の様子47

沖縄戦当時、この鍾乳石に針金を巻き付けランプを吊したのではないかと言われています。

遺骨収集の様子48

沖縄戦当時の遺品と思われますが、「数珠」かな? それとも女性の装飾品かな?。ただし見学者も壕内にいろんな物を落としていくので、よく調べないと断定出来ないそうです。

遺骨収集の様子49

かなり急な坂が多いので、靴底もしっかりグリップのきいたものでないと滑りやすいです。下りが始まると「ガラビガマ」側に近くなったという事が解るらしいですよ、実際風を感じるようになりました。この付近には天井に穴があり、時間帯によっては太陽光線が差し込むそうです。

遺骨収集の様子50

「ガラビガマ」側にかなり近づいてきたので、また人工的な構築物が目につくようになって来ました。壁面には黒くススが付着した場所がありますが、兵隊さんが手榴弾で自決した場所だといわれています。松永さんは「ヌヌマチガマ」側もそうでしたが、こちら側も何カ所か貴重な形跡が破壊されていると嘆きました。意図的か、または無知からか…。どちらにしても、沖縄戦当時の面影は少しでも多くそのままにして置きたいですね。

遺骨収集の様子51

大きなカマドがありましたよ。昔はサトウキビを煮詰めるこんな大きな鍋があったそうです。ただ調理の多くは「ヌヌマチガマ」側で行ったようで、鉄砲水などアクシデントがあった時にこちら側で調理したそうです。

遺骨収集の様子52

「ガラビガマ」側にかなり近い事もあり、「風葬」の場が三カ所ほどありました。写真に写されている頭骨については、明らかに銃弾が貫通したと思われる穴があいていますので、戦没者の御遺骨が含まれていると断定出来そうです。他の箇所についても、御遺骨が明らかに混在していると断言できる状況でした。

沖縄伝統の埋葬方法である「風葬墓」であるのが明白な場所では、安易に骨を持ち出すのは慎むべきです。また本来ならば、風葬の場に足を踏み入れるのにも慎重さが求められるという点を、遺骨収集奉仕活動に参加される方は十分認識しておく必要がありますね。

遺骨収集の様子53

鍾乳石の岩肌が苔むしているような色になってきました。
「ガラビガマ」側に出てきましたよ。一部ロープが設置され、田中さんがロープで降りようとしています。

遺骨収集の様子54

「ガラビガマ」側入り口の様子です。なにかおどろおどろしい巨大なツララがあり異様な雰囲気です。写真の中に石組みが二カ所ありますが、いずれも風葬の場となっています。風葬の場は基本的に石を積み上げ中が見えないようにするのが一般的です。

遺骨収集の様子55

「ガラビガマ」入り口付近で撮影しました。撮影はしませんでしたが、この下の方に地下水が流れており、飲用や包帯の洗濯をしたそうです。現在はポンプと配管が設置され、農家の灌漑用水として利用されているようです。またこの下の方に機関銃の銃座が現存しています。ここは森が深いのか、鳥がたくさん鳴いていましたよ。

※ 松永さんが、落盤した岩が落ちている場所を教えてくれました。
松永さんによりますと、昔はなかったといいます。つまり近年落ちた岩であり、色も明らかに差異が見られるので間違いないと説明してくれました。所轄する行政当局にも連絡済みだという話です。

「ガラビガマ」入り口付近に具志頭村長が掲示した、「ガラビ壕への入場者への注意」のなかで落盤の危険性があるので十分注意するように……。という警告は間違いではなく、入壕に際しては十分にそのようなリスクがあると認識する必要がありそうです。すなわち、この壕見学に際してはヘルメットは必須だという事ですね。

またこの付近の岩陰に地元の人たちが、"自然に対して祈る場所" がありました。そのような神聖な場がある場合は、その周囲では節度ある行動を心がけたいものですね。

松永さんの説明では、この「ガラビガマ」入り口に立っただけで泣き出してしまう学生さんがいるそうです。また、カメラや取材のテレビカメラなどが、先ほどまで使えたのに一時的に壊れたように使えなくなってしまうという事例が結構あるのだそうです。

神聖な場では、人智を越えた何かが存在するようですよ。神聖な場においては、"謙虚に行動する" 事が要請されているのではないでしょうか。

今来た道を帰ります

遺骨収集の様子56

松永さんの平和学習を受けながら、ここまでの往路は約50分かかりました。ここでユータンして再び「ヌヌマチガマ」 入り口に向かいますよ。松永さんは、途中から別ルートで帰ると話していましたが、私たちはひたすら付いていくだけです。ここまで来て感じたのは、壕内はとても複雑で一人では絶対に入ってはいけないという点ですね。壕内に何度か入っているという経験者を同伴させるべきという事は申すまでもありません。

遺骨収集の様子57

「ガラビガマ」入り口付近です。通路の左右には重症患者さんが横たわっていたのではないでしょうかね。それでは、いま来た道を戻っていきましょう。

遺骨収集の様子58

「ガラビガマ」入り口付近も急な坂が複数あります。重症患者さんの移動や、治療活動や食事や下の世話などでここを行き来した看護側の人たちも大変でした。

遺骨収集の様子59

どうです。このおどろおどろしい岩肌は…。地獄の入り口に近づいているという印象です。

遺骨収集の様子60

この写真もこの世の物とは思えませんね。地獄世界に迷い込んでしまった気分です。

遺骨収集の様子61

ある洞窟内の天井を撮影しましたが、コウモリのコロニーが写されています。コウモリは極めてデリケートな生物であり、冬は基本的に冬眠するそうです。洞窟内に住むコウモリを撮影したのは、今回が初めてでしたが、このコウモリを撮影した後、松永さんにこっぴどく叱られました~。
コウモリが、フラッシュの強烈な光に驚いてしまうので、フラッシュをコウモリに向けるのは厳禁だそうです。それでなくとも、沖縄のコウモリの生息数は激減しており、その観点からもコウモリの撮影時には絶対にフラッシュを使用しないようにとの警告を受けました。
この大厳罰を教訓に、これ以降はコウモリを撮影することはしない事にしました。ごめんなさ~い。

遺骨収集の様子62

コウモリのコロニーの下には、大概糞の山がありますね。コウモリの糞はご覧のように、焦げ茶色のツブツブといった雰囲気です。ちなみに糞を餌にするゲジゲジ?(節足動物)が居ましたね~。

遺骨収集の様子63

凄い風景でしょう~。一人なら怖くて ギャー と絶叫してしまいそうですよ。吉井さんが、ユニークな岩を見つけて「観音岩」に命名しましょうなんて言ってましたよ。それくらい、あちこち感動的な岩肌の鍾乳洞風景が続いています。

遺骨収集の様子64

この辺にも大勢の患者さんが居たのではないか? というような会話をしました。ほとんどが傾斜や坂道の道中で、広く平らな部分が現れるとその様に想像してしまいます。探すつもりもなく、何気なく地面を見て、結局合わせて数個の御遺骨が見つかりました。御遺骨は私が責任を持って、明日から始まる金光教遺骨収集奉仕団のお清め班にお渡しします。

遺骨収集の様子65

そろそろ別ルートに入る段階となってきたようです。

遺骨収集の様子66

往路とは別ルートに入りました。この様な狭い空間が続くようになりました。「ツララ」をたたくとコーンコーンという高い音がします。つまり中は空洞のようですよ。写真にも欠けて落ちているツララが散乱していますが、空洞のものや細いのは意外ともろいそうですよ。風を感じますので、酸欠の心配は不要のようです。

遺骨収集の様子67

かなり狭い部分が続きますよ。離れたら怖いのですぐ続いて前に進みます。やっと通れる部分もありました。またなぜか暖かくなってきました。所々に通過点を示す紐やマーキングが施してありました。以前調査で入った団体が施工したものでしょう。

遺骨収集の様子68

多くを掲載できませんでしたが、この付近では芸術作品と思えるような壮大な鍾乳洞が続きました。光が見えだしたようで「もうすぐ出口だよ」と松永さんの声が、前の方から聞こえました。

遺骨収集の様子69

直径70センチほどの穴が開いていました。ここが出入り口となります。この穴はごく限られた人しか知らない秘密の出入り口らしいですよ。通常の地図では、三カ所入り口が書いてありますが、ここは記載されていないそうです。周囲は完全にジャングルの中です。「ヌヌマチガマ」出入り口に近いことは間違いないと思われます。この穴の下には床面が平らで素晴らしい空間がありますが、その空間についての証言はないそうです。
この穴を出た段階で、「ヌヌマチガマ」入壕から2時間30分経過していました。

遺骨収集の様子70

かつてここも出入り口の一つでした。ここは「ヌヌマチガマ」出入り口の近くにあります。戦後地元住民がゴミ捨て場として利用していたので、ネットを張りゴミ捨てを防いでいます。

那覇教会で事前説明会&親睦交流会

明日から金光教那覇教会が主催する遺骨収集奉仕活動が始まりますが、前日である今日夕刻から、「説明会&親睦交流会」が那覇教会にて開催となります。

那覇教会の林先生を中心としてスタッフの方々が、名簿の作成、官公庁や警察そして新聞社へのご挨拶。そして南部病院などへの緊急時の対応のお願いなと、一週間ほど前に挨拶回りして来るそうですよ。

これらの段取りや準備だけでも相当な作業量だと思いますが、それにも関わらず二日間の遺骨収集作業が円滑に運営される様にと、参加者同士の交流の場まで設けて下さいました。

林先生が登壇し配布された名簿リストをもとに、班長さん紹介や班編成の説明と、明日から始まる探索・収骨地域の概要、遺骨収集作業に対する諸注意事項などを説明して下さいました。

そして質疑応答も終了しますと、テーブルが瞬く間に設置され、準備されていた沢山の手作りの料理が机上に並べられました~。

アルコールも並べられ、ビールは勿論地元泡盛も周到に準備されているようですよ~。

明日からの厳しい遺骨収集ご用奉仕の前に、お楽しみの親睦交流会が始まりました。初参加の方々も教会に駆けつけて下さいましたが、多くはベテランさん達であり一年ぶりの再会という事もあって、賑やかな会話と笑い声が会場一杯に広がった事は申すまでもありません。

皆様、明日からよろしくお願いします。

那覇教会での事前説明・親睦交流会

遺骨収集の様子71

すでに班別編成リストが参加者に手渡されています。那覇教会教会長の林先生が、明日から始まる遺骨収集ご用奉仕全般に関する説明をして下さいました。祭壇横には、長く奉仕団団長を務められ、昨年お国替えされた吉木昭弘先生の遺影が飾られていました。

遺骨収集の様子72

手を挙げているのは、おなじみ宜野湾市在住の嶺井さんです。いつも準備ありがとうございます。またその横には、かつて無線中継で大活躍していたベテランの河手さんがいらっしゃいます。

遺骨収集の様子73

参加回数を重ねているベテランさんが多く、一年ぶりに再会に話は尽きないようですね。奄美大島から今年初めて参加するという若い女性が、この写真の中にいらっしゃいますよ。よろしくです。(^o^)

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