平成21年(2009年)沖縄遺骨収集奉仕活動
- 1月18日(日)地元のご夫妻と摩文仁の海岸線で遺骨収集
- 1月19日(月)『島守之塔』裏にあるとされる「軍医部の壕」を探す
- 1月20日(火)単独で摩文仁之丘西端斜面に入り遺骨収集
- 1月21日(水)松永氏と摩文仁之丘西端斜面に入り遺骨収集
- 1月22日(木)荒崎海岸で遺骨収集&資料館関係者を摩文仁の壕に案内
- 1月23日(金)摩文仁東端で遺骨収集&ヌヌマチガマで平和学習
- 1月24日(土)第36回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
- 1月25日(日)第36回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
- 8月07日(金)金光教ご本部参拝
1月20日(火) 単独で摩文仁之丘西端斜面にて遺骨収集
6時起床、6時30分付近を散策、7時朝食。
暦では「大寒」の今日、ここ沖縄では日中の気温が20度を越えると予報していました。ヒェ~。20度を超えるとハブが動き回るらしいですよ。沖縄のハブは本土のように完全に穴蔵に入って冬眠している訳ではないようなのです。
気温が上がってくれば、いつでもそのまま動き出せるような体勢ですから、ある意味では休眠ともとれそうな状態らしいですから、冬眠といえども深い眠りには入ってはおらず "静かにしている" だけなのかもしれませんよ。
ハブと出会い、目が合ったらどうしましょう~。(笑)
ところで私は 「ヘビ」 と 「女性」 は大嫌いなのです。 ホッ 本当です~。(^_^;)
なぜなら、 "どららも接近する距離を間違えると噛みつかれる" からです。(笑)
冗談はさておき、最近の沖縄では毒蛇のハブといっても、外来の「台湾ハブ」が急速に勢力を拡張しているらしいですよ。生殖分布調査でも、年々その活動範囲が広がっているそうです。
「台湾ハブ」は、沖縄在来種「島ハブ」よりも小柄で、長さ80センチくらいだそうですが、在来ハブよりもかなり強い毒を持つそうですから、なんか怖い話になってきましたよね。
また在来ハブと台湾ハブの交雑種も生まれて来ているらしいです。当然といえば当然の現象でしょうか。
俊敏なハブは、彼らにしてみると2メートル以内は「射程距離」だそうですよ。ですから、ハブを見つけたら2メートル以内には近づいてはいけないという話です。
又、意外にもハブの被害や捕獲件数は北部より、那覇市など南部が多いそうです。首里の古い住宅地に散在する石垣などが住み家になっている可能性があるという話ですから、那覇市内観光だといっても、草むらとかジメジメしているような場所は避けた方がよさそうです。
話が少し逸れてしまいました。という訳で20度を超える暑い日のジャングル入りは、「肝試し」の要因も絡んできて、精神がより不安定になるのが常ですね。(笑)
糸満市小波蔵の不発弾爆発現場
ところで今年1月14日、沖縄の糸満市小波蔵で、「道路工事中に不発弾が爆発し、重機を運転していた作業員が大けがを負った」というニュースは、本土の新聞でも報道され私も知るところとなりました。
この参加記をお読みになっている方も、テレビ&新聞で知ったという方も多いかも知れません。
記事を目にした時は 「あれ、糸満市という事は、宿に結構近いのかな?」 と思い、もしかしたら爆発事故現場を見る事が出来るかもしれないなという一種の期待をもって糸満市古波蔵にやってまいりました。
私は17日夜に糸満市小波蔵にある 「ペンション喫茶 南の楽園」 様に到着したわけです。爆発事故発生から4日後という事になりますね。
到着の翌朝さっそく朝食時にその爆発の話を持ち出しましたら、女将さんが、「ここからかなり近いですよ。私もでっかい爆発音を聞きましたよ」と言うではありませんか。ヒェ~。
女将さんの話によりますと「工事はしばらく中断されるみたいよ」との事ですし、私もすでに二回朝の散歩で古波蔵近辺を散歩する事により、付近の様子や道路の配置などをある程度把握する事ができましたので、なるたけ早く朝の散歩の時に、その爆発現場を見てこようと思っていました。
今朝も雨は降っておらず予定通り散歩出来ましたので、古波蔵の爆発現場を見学し写真に写して来ましたよ (^o^)。 皆様にご紹介いたします。
それにしても、60余年経過しても火薬が生きているなんて、本当に驚きです。皆様も沖縄戦で大量に打ち込まれた砲弾の、爆発の威力をご自身の目でご確認下さいませ。
それでは爆発現場の写真を見る前に、事故のおさらいをしておきましょう。沖縄の「琉球新報」紙における爆発事故の第一報です。
【糸満市小波蔵で水道工事中に不発弾爆発】 2人が重軽傷
「琉球新報」2009年1月14日
14日午前8時20分ごろ、糸満市小波蔵321番地付近の歩道で、建設業従業員の古波蔵純さん(25)=豊見城市宜保=が水道工事のため重機で掘削作業中、突然爆発が起こった。
糸満署によると、作業中の重機が土中に埋まっていた不発弾に接触し、爆発した可能性が高いという。この爆発事故で、古波蔵さんが顔面を負傷し重傷を負ったが、意識はあり、生命に別条はないという。
現場裏の老人ホームの男性入所者(75)の1人が割れたガラス片で足に軽傷を負った。午前11時半現在、ほかにけが人は確認されていない。同署と糸満市消防本部が詳しい事故原因を調べている。午後1時現在、けが人はほかに確認されていない。付近の住宅、寺の窓ガラスが割れるなどの被害もあった。糸満市によると、不発弾の有無などを探る工事前の磁気探査は実施していなかった。
爆発事故を受けて市や県は現場に職員を派遣し、被害を確認。訪米中の仲井真弘多知事にも報告された。那覇労働基準監督署や経済産業省原子力・安全保安院も現場を視察した。陸上自衛隊不発弾処理隊も現場に入った。
糸満署や県などによると、現場は糸満市発注の市道「真栄平・名城」線整備に伴う水道管敷設工事の際、重機が約1メートル掘削した地点で爆発が起きた。古波蔵さんは重機で土中の石を割り、その除去作業中だった。重機先端のドリルが触れた衝撃で、不発弾が爆発したとみられる。当時、現場付近では古波蔵さんを含め3人が作業していたという。同市道は開通していない。
大きな爆発音が一帯に響き、黄色い煙も目撃された。古波蔵さんは南風原町の県立南部医療センターに搬送され、連絡を受けた家族が駆けつけた。
「沖縄偕生園」では窓ガラス104枚が割れた。爆発当時、入所者の多くが食事中で、窓付近にはいなかった。爆風で付近の建物が揺れ、街灯が傾くなどの被害も確認された。
現場では県警の捜査員約20人が実況検分し、ショベルカーや爆発してえぐれた地面を調べていた。爆発で地面が直径4メートルほどえぐれ、土や石が辺りに散らばっていた。
県警から「爆発現場近くに信管らしきものがある」という連絡を受けた陸自が識別のため現場に入った。県内の不発弾事故では、1974年に那覇市小禄で園児4人が死亡、87年に那覇市長田で1人が死亡、89年に伊江村東江上で1人が死亡している。
「琉球新報」から転載させて頂きました
そして、爆発から9日後の1月23日の琉球新報の報道によれば、爆弾の種類が特定されたようですよ。
【糸満不発弾は米製250キロ】
「琉球新報」2009年1月23日
糸満市小波蔵で二人が重軽傷を負い、福祉施設の窓ガラスが割れるなど建物が損壊した不発弾爆発事故で、県警は22日り、爆発物を米国製250キロ爆弾「M64A1」と特定したと発表した。
県警の要請を受けた陸上自衛隊第一混成団が、爆発現場で発見された信管の識別番号や形状などから判断した。
県警は今後、過失の有無などを視野に捜査を進める。陸自によると、250キロ爆弾は沖縄戦当時、爆撃機が落としたもので、県内でその不発弾が多く見つかっている。大きさは直径約35センチ、長さ約120センチ。
陸自は信管除去作業の際、深さ4メートル以上の穴を掘り、ライナープレートという鉄製の壁を周囲に積み上げて穴を覆う措置を取るが、この爆弾の場合、半径420メートル範囲の避難が必要だという。
同プレートを使用しない場合は半径700メートルの避難が必要となる。
「琉球新報」から転載させて頂きました
糸満市小波蔵の不発弾爆発現場の様子
不発弾の爆発事故は写真のように、古波蔵と真栄里間の道路拡幅造成工事が行われている区間内で発生しました。爆発現場は500mぐらい先の様です。ここは石灰岩の岩山を掘削して道路を拡幅造成工事しています。こうして掘削された擁壁面を見ると樹林帯の表土は極端に薄い事が見て取れますね。
爆発現場が見えてきました。紅白のコーンで仕切られた部分が爆発現場です。点在する土の固まりは爆発時飛散したものと思われます。道路の舗装工事は完成し歩道工事に作業が移り、その歩道を重機で掘削している時に爆発が起きた様です。爆発事故に巻き込まれた重機そのものは、現場からすでに移動されている様です。
爆発現場の様子です。私の目測では穴の幅は7メートル、深さは1.5メートル程度に見えました。赤っぽい土は歩道造成時に搬入したものと思われ、白っぽい土は石灰岩の岩盤で爆発時削られたと予想。
ステンレス製フェンスはなぎ倒され、完成していた側溝やコンクリート製擁壁がご覧のように見事に破壊されていますので、爆発の威力は凄かったと言う印象です。ただコンクリート製擁壁に鉄筋がまったく入っていないのには違和感を感じますよ~。それはともかく(^^ゞ 、死者が出なかった事が幸いであり、何よりも救いでしたね。
糸満は戦後しばらく、一般住民は立ち入り出来ない地域でした。といいますのも、糸満一帯は米軍による実弾演習の場に利用されていたのですし、糸満の東側には兵員や砲弾を運ぶ為の、米軍専用滑走路もあったそうです。
朝鮮戦争時などでは、盛んに実弾演習などもやったでしょうから、沖縄戦当時の不発弾と、戦後の実弾演習の不発弾と、両方の不発弾が混在する可能性があるのが糸満市なのです。
単独で摩文仁之丘西端斜面に入り調査
今日は単独行動でジャングルに入る事になります。
ジャングル内での調査&遺骨収集活動は、出来れば単独行動は避けるべき。というのは当然です。ひとたび人身事故が起これば、救出活動でどれくらい社会にご迷惑をお掛けするか…。私も十分すぎるほど理解している事柄ではあります。
重々承知しているはずなのになぜ単独行動なのか…。
「理由は私にも説明出来ない」 としか言いようがありません。しかしながら、どうしても一年に一度は、一人きりでジャングルに入ってみたいのです。
はっきり言ってジャングル内は怖いです。
晴れている時はそれほど怖いとも思いませんが、曇り空だとジャングル内は相当に暗くなります。日中なのにずっと懐中電灯をつけっぱなしで歩く時もあるくらいですから。
また冬型の気圧配置の日は、北風がビュウビュウ吹き荒れます。冬型の気圧配置の場合、これまた曇り空の時が多くジャングル内は暗めですが、この強風が吹き荒れる時もジャングル内は怖いですよ~。
ドンドンドンドン… (お化けが出るときの太鼓の音)。
そんな怖いジャングルなのに、繰り返しますがなぜ一人きりで入る気になるのか…。
それは自分のペースで歩き、自分のペースで戦跡を見つめ、自分のペースで心を静め、自分のペースで戦野にたたずみ、自分の思うがままにコースを決められるからです。
一人きりになり、心を静めながら…。日本軍将兵や避難民になりきり、あの時代の、彼ら彼女らの目線になりきるのです。
なるたけ恐怖感に怯えながらの逃避行の絶体絶命的な深刻さを体現し、非業の死を遂げた戦没者の悲しみを、可能であれば同じレベルで共有したいし、可能であれば無言の会話をも交わしてみたい…。
「いつかは実現できるかもしれない」と思うから、可能性を信じて今年も一人きりでジャングルに入るのです。
本日の行動予定は、現在は閉園していますが、昔サボテン公園というのがありました。そこから入って海岸線に出ます。その後は現地の状況に応じて臨機応変に対応する予定ですが、基本的に「南冥の塔」との位置関係を把握するように勤め、今後の活動に資するように足跡を残していく予定です。
「黎明の塔」そして摩文仁南斜面を調査
昨年は一部破損により「通行禁止」だった木道も、修繕も終わり今年は通行できましたよ。
摩文仁山上に建つ「黎明の塔」です。第32軍司令官牛島満中将と参謀長の長勇中将を祀っています。少し手前左側階段を下りると、第32軍司令部壕の入り口があります。(現在鉄格子が取り付けられてます)
摩文仁山上から西側を展望しています。オレンジ色の屋根がある大きな建物がありますが、あそこが旧サボテン公園だった所です。
旧サボテン公園にやってまいりました (^o^)。オレンジ色の屋根の建物がメインの施設なのかな?。何年前に閉園したのか解りませんが、緑地は雑草が繁茂し当時の面影は見つけにくくなっています。
建物のある一角に「ブーゲンビレア」の花が咲き誇り、見てくれる人が現れたと喜んでくれました。
ここも旧施設の一角です。崖の端部まで芝地だったようです。太平洋が一望できて素晴らしい景観です。
地図でも事前に把握していましたが、崖が急峻でとても上り下り出来る状況にありません。とりあえず崖に沿って東側に進んでみることにしました。
崖の端部はアダンが繁茂しやすい環境です。ですがあまり強烈な繁茂では無いので安堵しました。
茎のような根のようなものが縦横に茂っている事が多く、地表は意外と平坦な状況が続きます。
落ちた葉がすごく堆積しています。こういうのが一番やっかいですよね~~。細い蔓が縦横に絡まっていますので、この面積だけの葉を排除するにも相当な時間がかかりますよ。
1時間30分以上ジャングルを歩きましたら、ご覧のような谷に出ました。この谷は私も何度か調査していますよ。
日本軍将兵が積み上げた石組みと思われます。この谷には相当の数の日本軍将兵がたくさんある壕内に潜伏していたと思われます。
壕というほどのものではありませんが、巨岩が上にありますので、上からの攻撃には耐えられそうです。
縦穴的な壕です。中はかなり広かったですよ。もちろん中に入らず懐中電灯で照らしてみました。
一見すると人間の大きさでは入れないと思われましたが、落ち葉を除けたら中に入れましたよ。
ここも入り口は小さいのですが、中は結構広い空間となっていました。
上の入り口から中に入った様子です。ただこの様な縦穴壕は、ガソリン攻撃やナパーム弾には弱いでしょうね。
谷底で昼食を食べると陰鬱になるので (^_^;)、巨岩の上に登り昼食を食べました。すぐ近くに枝葉が茂り、名前は解りませんが、鳥が好んで食べそうな実がついていましたよ。実の形状からして、もしかしたらガジュマルの木かも知れませんよ。
ご遺骨発見 (^o^)
お昼ご飯を巨岩の上で食べましたが、この場所は登るのに少し場から苦労しましたが気に入りましたよ。さすがに海は見えませんでしたが、かなり展望が開け、少なくとも自分の位置がそれなりに把握出来ました。
もう一つ、岩の上では携帯が使えました。ラッキー。早速妻の所に、「今お昼ご飯を食べてるよ」とメールしてやりました。
ジャングルでは、あまり長時間休んでしまうと、動くのがおっくうになるし、集中力も落ちてしまうので、そこそこ休憩したら「さあ行くぞ!」と腰を上げました。
午後速やかに活動するためには、当然のことながらお昼ご飯を少なめにするのも大切なポイントですね。お腹が空けばおやつを食べればよいし、甘いお菓子はエネルギーを速やかに再生産してくれます。
午後の探索を30分ぐらいした頃でしょうか、ちょっとした岩陰にご遺骨があるのを見つけました。ご遺骨発見となれば嬉しいわけですが、直感的に何かおかしいと感じました。
それは紛れもなくご遺骨が見える位置にまとまって置いてあるという印象なのです。この地域一帯は、金光教の遺骨収集奉仕活動でも何度も何度も入っていますし、当然他の遺骨収集団も何回となく入っているでしょう。
そんな地域であるにも関わらず、目で見える位置にご遺骨があるなんて信じられない…。
ですから、見つけた喜びと言うよりは、「なぜここにご遺骨が放置されてあるのか?」という疑念が先立ってしまいました。
「なぜご遺骨が見えるところにあるのか?」
「ご遺骨が放置されている」岩陰の様子です。壕のように見えますが、周辺部はすべて日本軍将兵が積み上げた石組みと思われます。
反対側からはこのように見えます。写真中央付近に白っぽい骨が見えますね。誰でもこの場に立てばご遺骨が目にとまるはずです。あまりに容易に発見できるのに、今までずっとここにある事自体が不思議ですよね~。
ご遺骨を近くから撮影しました。正確な色はもう少しアメ色っぽい色調をしていました。マクロ撮影がうまくいかず、ホワイトバランスが崩れてしまい、この写真だけ変な色になってしまいました。左側にあるのは、かなり風化していますが手榴弾です。
しばらくご遺骨や手榴弾、そして周辺部の様子を観察しましたら、遺品がかなり多く散乱している事に気づきました。ただし、これら遺品も一度人為的に集められたものが、長い歳月の中で再び散乱してしまったという印象です。
現場を観察しての結論としては、「過去にこの場所に立ち寄った人たちは、このご遺骨を風葬の骨であるとみなしたという事ではないか?」 というものです。
それ以外に、これだけ目につくご遺骨が、今日まで誰にも収集されずに、居残り続けたという理由が見あたりません。
だとしても、長年遺骨収集奉仕活動を続けてきた私の視点からして、これは風葬の骨ではないというのが明瞭に見えてしまいました。
「風葬の骨」と「沖縄戦戦没者の骨」の相違は、経験を積めば、容易に違いを認識できるものなのです。
もちろん初めて目にしたというようなレベルでは、判別は不可能ですが、何度も何度も両者を見続けていれば、おそらく誰でも容易に、直感的に瞬時に判定できるものであると思えます。
ここで皆様に 「風葬の骨」
がどの様なものなのか、四ヶ所の写真を見てもらう事にしましょう。
(※風葬の骨の御霊様、何の断りもなく勝手に公開することをお許しくださいませ
m(_ _)m)
「風葬骨」の様子
八重瀬町にある沖縄戦跡国定公園具志頭園地(海浜地区)の海岸からほど近い風葬の場です。骨はかなり風化して細粒化・石灰化しており、形状が原形を留めないものが多く見られます。
摩文仁崖下にある風葬の場です。目線以上の高さまで石が積んであり通常では中は見えません。上の写真ほどではありませんが石灰化が進んでおり、骨自体もささくれ立ち年月の経過を感じさせます。
南城市知久手堅の山中にある風葬の場です。ここは風葬の骨と沖縄戦戦没者の骨が混在しています。頭骨はすべて沖縄戦戦没者です。瓶の中の骨が風葬による骨です。地肌の違いが容易に理解できます。
八重瀬町新城にある「ガラビ壕」にある風葬の骨です。すでに形状を留めないレベルまで劣化していますね。過去に見てきた風葬の骨では、「ガラビ壕」の骨が最も劣化が著しかったという印象があります。「ガラビ壕」のような巨大洞窟は冬でも気温が高く、風化の度合いが進みやすいという仮説が成り立つ?。
以上、4枚の写真で風葬の骨の様子を見てきましたが、ご覧になった皆さんのご感想はいかがでしょうか?。
風葬の場には、かなりの確率で骨を収納しておいた瓶があるという事も見て取れると思います。ただごくまれに瓶が一切無いというケースもあった事はここで明らかにさせて頂きます。
この場合、もしかしたら戦争当時水を貯めておくとかの理由で、持ち去られた可能性があります。
ちなみに風葬では、頭骨はもちろん手足の細かい骨まで、体の全ての骨を瓶に入れるそうです。
(※写真の色は現物の色合いを正確に反映していません。ですから写真の色合いはひとつの参考程度に留めておいて下さいませ。)
ご遺骨のあった壕の状況・周囲の環境等を考察
- この場所に部落民が来るのは容易でない状況にあり、通常これほど困難な地に風葬の場は設けない。
- 実際にこのご遺骨発見現場から半径100メートル以内に風葬の場は無いと断定できそうです。
- 石組みが風葬のものでない。すなわち石組みは骨を隠すためのものであり通常は出来るだけ高く積む。
- 現状の石組みは、明らかに爆風よけの石組みと思われ、骨を目線から避けるためのようには見えない。
- 過去に見た風葬の場は、周囲の歩行部分よりも同等かより高い位置に風葬の場が設置されている。
- 現状の骨の位置は、上から骨を見下ろすようになっており、かつ丸見えであり神聖な場になり得ない。
- 風葬の場は直接の雨で濡れる場所には設けない。ここは通常の雨でも風があれば侵入すると思える。
- 通常の雨でも侵入するという仮説は、壁面の苔の色や手榴弾の腐食の度合いからも容易に想像できる。
ご遺骨と遺留品等を考察
- 骨が重たかった。すなわち風葬の骨は持ってみるとかなり軽く感じます。これは体験すれば誰でも納得。
- 上記理由だけでも、沖縄戦戦没者と断定してもよいくらいです。
- 風葬の場にはかなりの確率で骨を入れた瓶が見つかりますが、小さな破片を探すも一切無かった。
- 基本的に、風葬の骨は脱脂されており白っぽい色をしているが、沖縄戦戦没者の御遺骨は飴色っぽい。
- 瓶の破片がまったく無いという状況で、戦没者の遺品が大量に見つかっている。
- 骨の欠損部に注目する必要があります。言葉で表現しにくいのですが、腐食と自然風化の違いです。
- 歯の抜けた顎部分にも注目です。顎の歯が入っていた部分の表面のざらつきがまるで違います。
- 風葬の骨は形状が崩れ粉末化した骨が同時に混在していますが、この骨は崩れかけた骨が一切無い。
- 風葬の骨の崩れかけている部分を触ると、「ラクガン」のように粉末化するがその様子は無い。
- 風葬の骨は、たたくとカラカラという乾いた音がします。戦没者の骨は湿っぽく鈍い音がします。
- 骨の色合いから風葬と断定された可能性があるが、あくまで骨の色は周囲の環境の影響を受ける。
- 風葬の骨が持つ独特の色合いは重要な特徴ではありますが、見た目よりも年月経過による質に注目。
以上の理由により、私としては目の前にあるご遺骨が、風葬の骨でなく、沖縄戦戦没者のご遺骨であるという事を確信を持って宣言出来そうです。ただし、金光教の遺骨収集では、「風葬の骨はけっして持ち帰ってはならない」という決定事項がありますので、24日から始まる金光教の遺骨収集奉仕活動の際に、複数のベテランさんにご遺骨を検証して頂き、最終的に収集するかどうかを判定して頂く事となりますね。
ちなみに、ご遺骨のあった場所からは、沖縄戦戦没者の遺品も数多く見つかりました。遺品の置いてある状況を観察しますと、穴の中に散乱していると言うよりは、ある程度まとまって置いてあるという状況でしたから、一度集められたとしても持ち帰らず、この窪地に置いていったという事が想像されます。
遺留品の状況から、戦没された日本軍将兵の人数は複数人であったかもしれません。遺留品の際だった特徴的は、ガラス瓶などのほとんどが高熱に晒された結果、ガラスが溶けているという点ですね。
遺留品の様子
ご遺骨と共に大量の戦没者遺留品が見つかりました。丹念に調べましたが氏名等は発見できませんでした。「兵隊さんは灼熱地獄のなか何を思い亡くなっていったのか…」。私はこの戦没者遺留品を前に、辺りをはばかることなく声を出して泣き、しばし感涙の海に沈みました…。
多くのガラス製品が溶けているが見てとれます。ガラスが溶けた原因は「ナパーム弾攻撃」だと言われています。ナパーム弾は "超強力な焼夷弾" です。火炎は1000度を超え、熱風空間のあらゆる生物や物が焼き尽くされ燃え尽きて、且つ酸素を奪われ一寸の生命も生き延びられません。ナパーム弾攻撃を目の当たりにした、那覇から摩文仁へ逃げてきた県民の方の話では、「火炎を浴びると薄い皮膚などは簡単にペロッと剥げてしまう」、「ナパーム弾攻撃を受けた場所は、24時間経過しても岩が熱くて触れなかった」と証言しています。
ここ摩文仁の地は、交戦する戦争と言うよりは、まともな武器も持たない逃避行の敗残兵や民間人を、米軍が一方的に殺戮するという掃討戦が展開された地なのです。
しかも殺戮に使われた殺傷兵器は、ガソリンであったりナパーム弾攻撃であり、またあらゆる物を焼き尽くしてしまうとされる黄燐弾であったのです。たくさんの溶けたガラス容器を見ながら、ナパーム弾攻撃を受けたこの地の地獄絵に思いを致し、しばし悲嘆の涙に沈みました…。
神が住むとされる神聖な地、摩文仁之丘はこのように徹底的に破壊され、火の海となり焼き尽くされたのです。しかも摩文仁に潜伏する日本軍将兵や避難民に対するこれらの徹底した破壊は、何度も何度も繰り返されました。
ですから、遺骨収集という視点から見れば、多くの御遺骨は大小の岩の下に何層にもなって、埋もれている可能性があるという事です。
従って私たちが摩文仁にて遺骨収集奉仕活動をする際には、ご遺骨の多くが岩石の下に埋もれている可能性があるという事をしっかり認識し、とにかく岩をどけてみるという試みが必要なのです。
米陸軍第96歩兵師団に所属していたデンガー兵士は、沖縄上陸作戦に参加し、三ヶ月に及ぶ壮絶な沖縄戦を体験している方ですが、そんなデンガー兵士が従軍した摩文仁での掃討戦と思える戦いについて、自らの体験を『ニューズウィーク日本語版』紙に次のように語っています。
【米軍が発した極秘指令「日本人全員が攻撃対象」】
「ニューズウィーク日本語版」8月24日号
壮絶な戦いは三ヶ月続いた。
米軍は火炎放射器を使用。6月には、4日間の作戦で14万リットルの燃料を燃やし、多くの日本人が潜伏していた塹壕と洞穴を焼き払った。「残虐非道だが、効果的なやり方だった」とデンガーは言う。
「モラルなんてきれい事を言う人間はいなかった。ジャップを殺して生き残るためなら、手段は選ばない。『善良なジャップは死人のジャップ』 が合い言葉 ―――そういう世界だった」
(以下省略)「ニューズウィーク日本語版」から転載させて頂きました
沖縄戦では、日本軍将兵や避難民が隠れているであろうジャングルやサトウキビ畑、草地が焼き払われました。その多くが火炎放射器によるガソリン放射か、ナパーム弾攻撃により瞬時に広域を焼き払ってしまう方法です。
沖縄戦を戦った兵士の証言によれば、ガソリンを大量に雨のように降らせ火を放つと、避難民が壕などから逃げ出すが、その段階を見て空爆を開始するから、爆撃でバタバタと人々が吹き飛ばされたと語ります。
また綿の服はガソリンをよく浸透・吸収させよく燃えたという話ですよ。
確かにこの件に関しては、ベトナム戦争の時にベトナムの人たちが焼けただれた服を着たまま死んでいたり、焼けただれた服を着たまま逃げ惑っているという映像を多く見ましたので、まったくその通りだと思いました。
また沖縄戦の実録映像でも、ベトナム戦争に似ているおぞましい場面が幾度となく登場しますよね…。
ここでナパーム弾攻撃の恐るべき殺傷力・破壊力をご紹介しないわけにはいきません。ユーチューブ動画に、ナパーム弾攻撃の様子を映し出す映像がありましたので、ここでご紹介したいと思います。
下の映像により、ナパーム弾が"超強力な焼夷弾"である事がご理解頂けるでしょう。注目しなければならない点は、映像では解りませんが、ナパーム弾は千度を超える超高温であるという事です。炎が皮膚に接触すれば、ただちに焼かれてしまうそうです。
沖縄戦でもナパーム弾で焼き払われた一帯は、特に摩文仁のように岩盤が連なる地域では、「石焼きビビンバ」のように、岩がいつまでも熱くて触れなかったといいます。
摩文仁は平坦なところは火炎放射戦車隊が横一列となってあらゆる森や草、茂みなどを徹底的に焼き払い、火炎放射戦車が前進できないような荒れ地や岩山などでは、飛行機でガソリンをまき散らし点火して焼き払い、更にはナパーム弾攻撃で緑という緑は焼き払われ、岩山に変貌させてしまったのです。
摩文仁が米軍によナパーム弾などの強力な火力で焼き払われている状況を示す写真があります。
ほとんど隠れる場所は無いと思えるような、月世界でも見ているかのような風景が目の前に展開しているさまを見る事ができます。
1945年6月に撮影された摩文仁の様子です。完全に石灰岩の岩肌が露出している様が見てとれます。
今年撮影した写真です。地上から撮影したのであまり参考になりませんが、撮影方向は一緒です。
午後も引き続き同区域を調査
この付近は空撮するとはっきり理解できるのですが、とても巨大な岩が連なり、その間隙を縫うように人が行き来できる通路のような部分があります。ここでは、大勢の日本軍将兵および避難民が隠れていたと思われる、石を積み上げての塹壕があるのです。
小規模の自然壕も至る所にあります。おそらく全ての壕は人々は溢れかえっていたことでしょう。それらの避難壕は、巨岩の下にあるという事で、艦砲などの砲撃からは一定のレベルで防いでくれたでしょうか、真上の上空からやってくるガソリン攻撃やナパーム弾攻撃に限りなく無力であると見えてしまうのです。
ここは危ないと頭で解っていても、何処も混雑しており、とても理想的な隠れ場所なんて見つけられない…。「いつかはやられる」と思いながらも、せっせと小石を積み上げたのではないでしょうか。
一人でそんな事を思いながら、あちこち散在する塹壕を見やりながら、静かに探索し歩みを進めました。
巨岩の登ってみますとこんな感じです。思いの外海岸が近くなっているのが見てとれますね。
信じられないと思うでしょうが、ここを右側斜面から登っていきました。見た目よりは楽でしたよ。(^o^)
この場所も明らかに日本軍将兵が岩を積み上げていますね。海岸に向け積み上げています。ただ悲しい事に、この場所もガソリン攻撃には耐えられない場所だったのです……。
ここも岩を積み上げていますね。中に入って見ましたが一人であれば十分な広さでした。
これは動物の骨です。慣れればすぐに判別できるようになります。大きさも構造もかなり違います。
内部の様子です。理想的な避難場所かなと思いましたが、壕内には靴底や革製品の遺留品が散乱していました。
壕内にはご覧のように「たき火」をしたと思われるように炭がありました。これは明らかに沖縄戦当時のもので、きっとこの場所で煮炊きをしたのかもしれないですね。
(写真左上に私の手袋が写ってしまいました。これは遺品ではありません)
ご遺骨発見現場の様子
ご遺骨を発見しました。これは風葬の骨の可能性は無く、決定的に戦没者のご遺骨ですよ。写真のように露出しているご遺骨が多いと発見率は格段に高まるのですが、最近は本当に少なくなりました。骨片が三個ほど見えますが、人体の何処の骨だと思いますか?。
↑※この写真を見て瞬時に「ご遺骨だ」と認識できた方はすぐにご連絡ください。あなたはきっと遺骨収集のプロフェッショナルになれますよ。(^o^)
ご遺骨のすぐ近くに防毒マスクの蛇腹部分がありました。これにより日本軍将兵の可能性が高いですね。
今回の午後の探索地域は、「南冥の塔」から西側に200メートルも移動していない区域ではないかと推測されます。ご存じのように「南冥の塔」周辺部からは、南部に押し込まれた軍人・軍属、避難民の数え切れないほどのご遺骨が発見された地域ですから、そこからわずかしか離れていないと思われる、私の立っている区域は相当の数の人たちがひしめいていたと考えられます。
そんな過密状態に置かれた避難民は、左側が攻撃されれば右側に移動し、右側が攻撃されれば左側に移動し…。それでもほとんど殺されてしまう訳ですが、生き延びる事を信じて右往左往したという証言があります。
しかしながら人々がひしめき合い、容易に移動できない状況の中で、ガソリン攻撃やナパーム弾攻撃を受け、火の海にされたなかで、岩陰に潜む人たちの運命は…。
密集した穴蔵の中では、衣服に燃え広がる火炎を払いよける事も出来ず、灼熱地獄のなか焼死していったのかもしれません…。
農家のご主人と話をしました。
今からご紹介する農家のご主人とは、沖縄にやってくると毎回のように顔を合わせるので、いつの頃からか私の顔も覚えて下さり、いつも会えれば立ち話をする関係になっています。
本日の調査・探索を終えてジャングルを出まして、畑の縁を通って道に出まして、農家の横を通りましたので、その農家のおじさん居るかなと敷地内を見渡しましたら、居らっしゃいました~。
「こんにちは~」 と坂を駆け下りていったのは申すまでもありません。
こちらは元気に挨拶を投げましたが、おじさん何故か元気がありません。話題がすぐに見つからなかったので、「ワンちゃんが見あたりませんね」 と話を振ると、「ドロボーされたさ~」 とガッカリした表情で経緯を語ってくれました。
「うかつだった」、「甘かった」 としきりに言うのです…。
いやはや、可愛い愛犬が寿命が来て亡くなったのならともかく、ある日突然盗まれてしまったというのですから、同じく私だってしばらくは元気を無くしてしまいますよね。
そんな悲しい出来事に追い打ちを掛けるように、問わず語りに 「次にもらってきた犬も逃げてしまったし、また山羊は野犬に6頭もやられてしまったし…。」と語るのです。
ヒェ~。これだけ連続パンチを食らえば、誰だって落ち込んでしまいますよね~。でもおじさん、元気を出して下さいね。
どこの世界にも悪事を働く輩は居るものですが、我が子にも等しい愛おしい愛犬を盗まれたのですから、どれほどの言葉をもってしても慰められません。いつの日か、農家の庭先にひょっこり現れてくれる事を祈らずにはいられませんでした。
農家のおじさん
(この写真は2年前に撮影したものです)
沖縄県の天然記念物に指定されている「琉球犬」です。暑さに強い性質を持つそうですよ。我が子に等しいこのワンちゃんが泥棒されてしまったというのですから、さぞやガックリでしょうね。希少なる天然記念物ゆえの悲劇か!!。
それにしても犬を盗むなんて…。
おじさんご自慢の 「SIBAURA製 SD1643」
トラクターです。なんとなんと昭和34年に製造された過去の遺物というほど古い機械だそですよ。41年経過か!凄い。若い頃11年間軍隊に在籍し、軍用車両整備の仕事をしていたので、その体験がとても役立っており、そのお陰でこのトラクターも現役で居られるのだと語っていました。
※前門さんは今年84歳になられるとの事。まだ現役で農作業をされているそうですよ。いつまでもお元気でお過ごし下さい。
私の車が駐車してある、旧サボテン公園まで送って下さいました。今は亡き、懐かしい 「父の背中」 を見ているような気持ちになりました。ありがとうございました。