平成21年(2009年)沖縄遺骨収集奉仕活動

1月19日(月) 『島守の塔』裏にあるとされる「軍医部の壕」を探す

6時起床、6時30分付近を散策、7時朝食。

今日は終日、平和学習ガイドをされている松永さんと共に、遺骨収集をする事になっています。実は松永さんも、沖縄戦当時の知事であった島田知事のご遺骨や遺品が一切見つかっていないという点に、長年注目しており何とか見つけてあげたいと願っている一人なのです。

電話で松永さんに、島田知事の当時の移動ルートについて、新しい情報を得たとお伝えしたらさっそく反応し、それでは私たちも島田知事が滞在したとされる「軍医部の壕」を探してみようと相成ったのです。

ちなみに「軍医部の壕」を出た後の島田知事の消息は、基本的に不明のままなのです。島田知事に関しての記事を、雑誌『週刊新潮』(8月6日号) P.142で見つけましたので、ここに転載させて頂きまして、皆様にご紹介したいと思います。

【沖縄戦、県民疎開に尽力した知事】

「週刊新潮」(2009年8月6日号)櫻井よしこ氏

島田については、『明日への選択』(2009年3~5月号)で日本政策研究センター主任研究員の岡田幹彦氏が「沖縄の島守・島田叡」として詳報した。以下、岡田氏の記述を基に島田の足跡を辿ってみる。

島田が沖縄で過ごしたのは昭和20年1月31日の赴任から同年7月の自決まで、わずか5ヶ月余りである。島田は沖縄県知事の後任の打診を即答で引き受けた。着任直後、同情的に問われ、次のように答えたという。

「私だって死ぬのは怖いですよ。しかしそれよりも卑怯者といわれるのはもっと怖い。私が来なければ誰か来ないといけなかった。人間には運というものがあってね。」

島田の赴任は沖縄軍司令官牛島満中将の懇請でもあったという。肝胆相照らした牛島と島田はやがて戦場となる沖縄から出来るだけ多くの県民を疎開させ、同時に県民の食糧確保を重要課題とした。

島田は島民、とりわけ老幼婦女子の疎開に力を注いだ。結果、県民59万中22万余、本土に5万3000、台湾に2万、戦場とならない県北部に15万の県民の疎開を実現した。

当時、県知事は大変な存在だった。特に官尊民卑の風潮が強かった沖縄では、勅任官知事は「天皇陛下も同然」だったと岡田氏は書く。そのような立場の島田だったが、気軽に地域の民家に足を運んだ。行く先々には、土地や家畜を気にして疎開を渋る人々がいた。島田は彼らを「それでも危ないから疎開した方が良いよ」と説得したというのだ。

島に留まった知事
米軍の圧倒的力に追い詰められ、船も燃料もすべて不足の状況下で、人々を説得し、わずか5ヶ月間で22万人余を疎開させたのは驚きである。

米軍が上陸し戦闘が始まると、島田は壕で県政を行った。だが、壕内にとどまらず、砲火の下、各地に出かけて人々を指導した。
空間を広げるため壕を掘る作業にも積極的に加わった。

食事は皆と同じものだけを口にした。下着は必ず自分で洗った。村人が川や田で捕らえた鰻や鮒、野菜などを届けると、少しだけ口にして、あとは「怪我人に」といって渡した。

6月19日、毎日新聞の支局長野村は沖縄脱出に当たり、島田に別れの挨拶に来て言った。県民にはもう十分尽くした、文官のあなたは本土に引き揚げてもよいではないか、と。

すると島田は答えたという。
「君、一県の長官として僕が生きて帰れると思うかね?。沖縄の人がどれだけ死んでいるか、君も知っているだろ」
そして、自分ほど県民の力になれなかった知事は、後にも先にもいないと、嘆じたという。

玉砕を免れないであろう沖縄の知事職を、島田は誰かが引き受けなければならない責任だとして引き受けた。そして全力を尽くした。しかし尚このように語るのは、県民全員を救いたいと心底願っていたからだ。

6月23日、牛島司令官が自決
沖縄は陥ち、県民を守りきれなかった責任をとって、7月、島田も自決した。

敗れはしたが、最後まで沖縄と県民を守るべく文字通り死力を尽くした牛島、島田、そしてあの苦難の時に沖縄にとどまり、沖縄の人々と心を一にしたヤマトンチューを、沖縄の人々は忘れてはいない。

昭和26年6月25日、島田をはじめ戦没県職員468柱を合祀する「島守の塔」が全県民の浄財で建立された。除幕式と慰霊祭には島田美喜子夫人が招かれた。

岡田氏の綴ったこの「沖縄の島守・島田叡」は涙なしには読めない。
(以下省略)

「週刊新潮」から転載させて頂きました

櫻井よしこ氏は本文の中で、「沖縄の島守・島田叡」(岡田幹彦著)を参照したと述べていますが、アマゾン等で調べても、残念ですが出てきませんね。

私が購入している本としては、「沖縄の島守」(田村洋三著/中央公論新社)を皆様にお勧めしたいと思います。島田知事・荒井警察部長の沖縄での献身的な行動についてお知りになりたい方は、ぜひ読んでみて下さいませ (^o^)。

※昨年の参加記でも、島田知事および「島守の塔」について解説していますが、それほど長い文章ではないので、ここに再度同じ文面を掲載させて頂きます。

[引用開始]

■「島守之塔」
「島守の塔」は数え切れないほど、何度も何度も慰霊に訪れています。

しかし今回、まさか最上段から「島守之塔」の霊域に入ったというのは意外でしたね~。

前に「沖縄の島守」(田村洋三著/中央公論新社)で読んだこともあり、第27代島田叡沖縄県知事と荒井退造警察部長ほか戦没県庁職員468名が祀られてることはもちろん知っていました。

その本によれば、二人はこの島守の塔の裏手にある軍医部壕を6月26日に出発し、その後の消息は全くわからないという状況のようです。

内務省は遺族とも相談の上、島田知事と荒井警察部長の二人が、「軍医部壕」を出たと思われる26日を死亡の日と認定し、この日を命日と決めたといいます。

島田沖縄県知事としての赴任期間はわずか5か月足らず。享年は島田沖縄県知事が43歳、荒井警察部長が44歳でした。

私は「沖縄の島守」の本に記載されていた、慰霊塔の裏手にあるという「軍医部壕」を捜すべく、もう一度V字型の塹壕部分に入ってみましたが、本に記載されているような地形とはなっていなくて、「軍医部壕」をらしき場所を見つけることはなりませんでした。

振り返ってみれば、島田叡沖縄県知事、荒井退造警察部長のお二人は、沖縄の戦時体制下の中で、共に力を合わせ献身的に、困難な状況下での60万県民の保護という県政業務に取り組み、いわゆる内地出身であるにも関わらず、戦後になってもずっと沖縄県民の敬慕を集めたお二人なんですよね。

私も知りませんでしたが、大東亜戦争の頃は、県知事職は選挙ではなく政府が任命する官選だったようです。

そして昭和20年頃の沖縄といえば、米軍が進出し戦場となることが見えてきましたから、政府の沖縄県知事職指名に対し数人が辞退し、よってなかなか沖縄県知事が決まらず、人選が難航していたらしいのです。

そうしたなか、兵庫県出身の島田叡(あきら)氏は、知事の内命をその場で受けたのです。

受諾後「おれが行かなんだら、誰かが行かなならんやないか。俺は死にとうないから、誰か行って死ね。とは、よう言わん」という言葉を、知人に語ったといいます。

そして十・十空襲以降しだいに南西諸島への空爆が激しさを増すなか、昭和20年1月31日沖縄県に県知事として着任したのです。
拳銃と青酸カリを懐中に忍ばせながら、死を覚悟しての沖縄入りと思われます。

栃木県出身の荒井退造警察部長が一足早く沖縄に着任していたようですが、荒井退造警察部長と共に、まずは急がねばならない、沖縄県民の疎開業務に全力で取り組みました。

そして台湾や本土へまたは本島北部への県民疎開や、食料の確保と分散貯蔵、イモなど夜間作業による食糧増産、などなど喫緊の問題を迅速に処理していったのです。

島田さんが着任した経緯をよく知っている県職員もまた、知事の指示に従い精一杯県政業務に尽力しました。

前任の知事時代は、色々と問題があり疎開業務がすスムーズに進まなかったようですが、二人の努力により県内外に20万人以上も人々を疎開させ、結果それだけの人数の命を救ったといえるでしょう。

3月に入り米軍による空襲が始まると、県庁を首里にある第32軍司令部壕に移し、地下壕の中で県政業務を継続しました。

そしてそれ以後沖縄戦戦局の推移に伴い南部へと移動していく訳ですが、10余りもの壕を転々としながら、県庁として機能維持に務めました。

壕を転々とする頃から荒井退造警察部長は、不衛生な壕生活などが原因と思われる、赤痢になってしまったようです。激しい下痢に悩まされ、壕内でも横になっている時が多かったといいます。

6月9日 米軍が島尻に迫る中、「轟の壕」内で、島田知事は同行の県職員・警察官に対し、「どうか命を永らえて欲しい」と訓示し、県及び警察組織の解散を命じたのです。

島田知事は、生きて生還しようとは考えておらず、解散を命じた以降、死に場所を求めて荒井警察部長と共に、摩文仁の第32軍司令部壕を訪ねたといいます。

沖縄守備軍第32軍牛島満司令官に、「行動を共にさせていただきたい」と頼みましたが、牛島司令官は「自決するのは我々だけでよろしい。知事は非戦闘員なのだから、死ぬ必要はない」と諭したと言われています。

6月21日から始まった米軍による摩文仁之丘への総攻撃。6月23日の第32軍牛島満司令官と長勇参謀長の自決…。

生物が生きているとはとても思えないほどの激しい攻撃を受け、白い石灰岩の荒野と化した摩文仁之丘から、二人が脱出したのは6月26日だとされています。

それ以降、島田叡沖縄県知事、荒井退造警察部長のお二人の消息は明らかにされていません。

◆「沖縄の島守」(田村洋三著/中央公論新社)
上記文献を参照させていただきました ありがとうございました。

[引用終了]

島田知事の6月26日以降の消息は、現在のところ不明のようですが、ある情報によれば、「前日と同じ姿勢のままで、やや体を曲げ、ひざのあたりに垂れた右手の近くに拳銃が落ちていた。知事さんは拳銃で自決したんだな、と私は思った」と、沖縄戦を生き抜いた兵隊さんが、島田知事の最後を見たという証言もあるようです。

「軍医部の壕」を探す

昨年は私一人で慰霊塔裏のV字谷に降りて「軍医部の壕」を探しましたが、どうにも見つかりませんでした (^_^;)。

今回は松永さんと共に捜す事となり、とても心強いですよ。このチャンスを活かすべく、ぜひとも「軍医部の壕」を探し当てたいですね。

前に紹介しました『沖縄の島守』(田村洋三著/中央公論新社)によれば、「島守の塔」裏手にあるとされる「軍医部の壕」について次のような記述がありますので、転載させて頂きました。

【摩文仁之丘の軍医部壕内見取図】

摩文仁之丘の軍医部壕内見取図

さて、島田らを迎えたころの軍医部壕は、どんな様子だったか。大塚は著者の取材ノートに壕内の略図(挿図22)を書きながら、説明してくれた。

「あの辺には軍司令部のほか、経理部、獣医部、法務部などが、それぞれ壕を構えていましたが、軍医部の壕が一番狭く、お粗末でした。

雨が降りますと、やんでからも三時間はポトリ、ポトリと雨漏りがするので、奥の方はいつもジトジト濡れていました。
そんな所に軍医部長の篠田重直・軍医大佐以下36人が、すし詰め状態で入っていました。そこへ知事以下4人を受け入れたのですから、一層狭くなりました。

あの壕は九師団が台湾へ去った後、島尻へ配備された山部隊(第24師団)が掘っておいたもので、入口に機関銃の銃座がありました」

島守の塔は下に島田知事以下の戦没県職員を祀る慰霊塔、背後の数十段の石段の上に島田と荒井の終焉の地を示す石碑が立つ二段構えの造りになっているが、銃座は上の碑の場所にあった。

「銃座の後ろは坂になっていて、突き当たりに横長の二十畳敷きぐらいの大部屋がありました。天井の高さは1メートル50センチぐらいで、かがんで入らねばなりませんでしたが、そこに軍医部の下士官や兵30人ぐらいが寝起きしていました。

この部屋に降りる坂道の途中の左手、胸ぐらいの高さの位置に、もう一つの鍾乳洞に通じる人一人がやっと入れるぐらいの穴がありました。

その鍾乳洞で我々は命拾いをするのですが、それは後でお話しするとして、大部屋の右奥を左手に曲がると、幅2メートル、奥行き10メートルぐらい、天井は大部屋より低い細長い部屋がありました。将校三人はそこに居ました。島田さんたちも、ここへ入って頂きました。

両方の壁際に、どこから持ってきたのか、体の幅ぐらいの湿気よけの木製の簀の子を敷きまして、縦二列に寝ていました。

配置は一番奥から左、右に篠田軍医部長と鈴木軍医中佐、二番目が私と島田知事、三番目が県庁職員(仲宗根官房主事と思われる)と荒井警察部長…という順序になっていました。つまり私と島田さんは通路を挟んで隣り合わせでした。」

「沖縄の島守」から転載させて頂きました

「銃座の後ろは坂になっていて、突き当たりに横長の二十畳敷きぐらいの大部屋がありました。天井の高さは1メートル50センチぐらいで、かがんで入らねばなりませんでしたが、そこに軍医部の下士官や兵30人ぐらいが寝起きしていました。

この部屋に降りる坂道の途中の左手、胸ぐらいの高さの位置に、もう一つの鍾乳洞に通じる人一人がやっと入れるぐらいの穴がありました」

この大塚氏の証言は実に具体的でリアルなので、大いに私たちを喜ばせてくれるものですが、この文面を頼りに「軍医部の壕」を捜しても、残念ながらどうしても見つかりません。

もちろんV字谷の幾つかの壕に入って見ましたし、遺骨収集が為された壕でも、骨片が多数出てきたので、遺骨の収集もやりました。

いずれにしても半日かけて徹底的に、「島守の塔」周辺部の壕を精査しましたが、私たちが「軍医部の壕」に該当するような内部構造を持つ壕に出会うことはありませんでした。

「島守之塔」

遺骨収集の様子1

「島守の塔」の全景です。島田知事と荒井警察部長の消息は、軍医部壕を出た所で途絶えている故、壕の前に慰霊塔を建てました。「島守の塔」の名称は、県下の公募で寄せられた七百余通の中の一等入選作から命名されたといいます。
[※この写真のみ昨年撮影したものです]

遺骨収集の様子2

「島守の塔」が建立され、塔の除幕式と第一回慰霊祭は昭和26年(1951年)6月25日に行われました。島田知事夫人美喜子氏をお迎えし、5000人近い一般の沖縄県民が参列して式典は執り行われましたといいます。

遺骨収集の様子3

これは上の慰霊塔で「島田知事と荒井警察部長の終焉の地」と記されています。証言によりますと、この慰霊塔がある部分に当時「機関銃の銃座」があったとされています。

遺骨収集の様子4

慰霊塔の背後の様子です。東側を見ていますが、背後は基本的にV字谷が東西にずっと続いています。

遺骨収集の様子5

慰霊塔の背後の様子です。西側を見ていますが、背後は同じくV字谷が西へと長く伸びています。

遺骨収集の様子6

ただ慰霊塔の真裏部分だけは、こんもりと三角形の形で土が堆積しているのです。細かい土石ですから沖縄戦当時もあったとは、とても考えられません。
ひとつの考え方として、この土石は「島守の塔」造成工事か、又は上の霊園建設時に発生した「残土」を、このV字谷捨てた可能性が高いと思います。 間違っていたらご免なさいですが…。つまり何が言いたいのかと申しますと、この土石を排除すると壕の入り口が見えてくるのでは無いかと。

遺骨収集の様子7

「島守の塔」真裏には壕がありませんが、「付近」にはたくさんの壕があります。まずそのうちの一カ所の壕に入ってみることにしました。

遺骨収集の様子8

ご覧のように長細い空間が奥へと続いています。

遺骨収集の様子9

黒いススが付着しており、その様子から火炎放射を浴びせられたか、ガソリンを流し込まれたか…。

遺骨収集の様子10

松永さんは「壁の凹みで遺品を発見」した事が多いらしく、壕に入ると必ず壁の凹みを点検します。

遺骨収集の様子11

どうやら砲弾らしいですが、手榴弾では無いようです。白い火薬が見えますね。

遺骨収集の様子12

床面には蓄電池の部品が多数落ちていました。

遺骨収集の様子13

遺骨収集作業は済んでいるようですが、よく見ると細かい骨片がたくさん見えるので、私たちも収骨しました。

遺骨収集の様子14

同じ場所に長く滞在し、かつ作業をする場合は基本的にロウソクを立て、酸欠予防の対応措置をとります。

遺骨収集の様子15

短時間でこれだけの骨片を見つけました。機会をみてもっと徹底して収骨したいですね。

遺骨収集の様子16

私たちはV字谷に沿って東側に進んでみました。そしてある壕に入ってみました。

遺骨収集の様子17

写真ではちょっと解りにくいのですが、かなりの落差があります。つまりかなり深いですよ。(^_^;)

遺骨収集の様子18

途中ではまだ上から光が入る部分が見えました。これから更に深く入っていきます。

遺骨収集の様子19

ホラッ 深いでしょう~~(^_^;)。この様なところは、一人では絶対に入ってはいけない壕ですね。

遺骨収集の様子20

ここも直線的に壕内は進むようになってしました。横に伸びるような枝道はなく広場も有りませんでした。すなわちここも「軍医部の壕」では無さそうです。

遺骨収集の様子21

遺品がかなりありました。この壕も床面の土石の様子から、収骨作業は済んでいると見てよいでしょう。

摩文仁南斜面での最大規模の壕を調査

摩文仁には大小おびただしい数の自然壕が存在します。摩文仁で一番有名な壕は、当然のことながら牛島中将と長参謀長が自決した「第32軍司令部壕」でしょう。

しかし「第32軍司令部壕」よりも更に大きい壕があるといえば、驚く方がいらっしゃるかも知れませんね。

摩文仁で一番大きいと思われる壕(収容人員の多さという意味で)に、今から皆さんをご招待しますよ。(笑)

今から見学する壕は、空間の広さも広いですが、周辺部に連接する複数の壕もまた有機的な連絡網という観点で言えば、ある意味素晴らしい要塞と言えなくもないという構造をしています。

実際に金光教の遺骨収集奉仕活動でも、すでに県による大規模な収骨作業が終わっているにもかかわらず、複数の軍人さんのご遺骨が発見されており、壕の連接の複雑さにおいて容易に全貌を把握できなかったと言えるほどの複雑な壕群なのです。

今日は松永さんを、その一番空間の大きい壕にご案内する事にしました。皆様も写真を見ながら日本軍軍人さんが大勢居たであろうその壕の内部をご覧下さいませ。

(壕内を撮影してみると、意外と狭い空間に見えてしまっています。写真よりも実際はかなり広いです)

摩文仁南斜面での最大規模の壕内の様子

遺骨収集の様子22

道すがら赤いものがあったので松永さんに聞いたら、これはキノコらしいですよ。一番大きいものでピンポン球ぐらいの大きさでした。松永さんも食べたことはないそうです。

遺骨収集の様子23

同じく道すがらに、艦砲の不発弾あります。手袋と比較してみると結構大きいですよね。

遺骨収集の様子24

いよいよ壕が近づいてきました。ここはまだ青天井となっており壕では無いです。

遺骨収集の様子25

ここはすでに壕内に入っています。大雨の時にはここは水路となるようでゴミがたくさん散乱しています。

遺骨収集の様子26

ここはメインホールといった所です。中央に石とセメントで貯水池を作ったようです。

遺骨収集の様子27

現在は水が枯れていますが、沖縄戦当時はわずかに湧水があり、それを貯水したものと思われます。実際に壁際には水の流れ落ちた形跡が見られます。

遺骨収集の様子28

1.5メートル程度の真四角の寸法でしょうか。深さは当時1メートルぐらいはあったでしょうかね。

遺骨収集の様子29

壁はご覧のように珊瑚が表面に住みついた巨岩となっており、いかなる爆撃やナパーム弾も防げたかな?。ツララがあるという事は、わずかではあっても水が上からしたたり落ちていたという証左ですよね。

遺骨収集の様子30

台風などの大雨の時は、この壕内は水路となるようで、かなりの遺品などが流れ去ったと思われます。それでも所々に戦争遺品が置いたままになっています。

遺骨収集の様子31

枝分かれしている横の壕に入ってみました。ここいらも頑丈な岩で構成されています。

遺骨収集の様子32

降りてきたルートとは別のルートで帰り始めています。ルートの難易度はどちらも同じぐらいです。強いて言えば帰りのルートの方がエキサイティングになれるかな。 怖いという意味で。(笑)

遺骨収集の様子33

壕の周囲はご覧のように、相変わらずのジャングルとなっています。

摩文仁南斜面での最大規模の壕を写真でご紹介しましたが、如何でしたでしょうか?。この大きな壕は、第32軍司令部壕から200メートル程度しか離れておらず、また日本軍将兵の遺骨・遺品も多数発見されていることから、この壕は重要な拠点であったのは明白です。

写真だと空間の広さをそのまま表現できませんね。その壕に行ってみたいと思われる方は、いつの日か機会があれば私が現地をご案内いたしますので、我こそはと思われる方は挑戦してみて下さいませ。

私自身も、この巨大空間の一角でご遺骨一柱発見しましたし、50メートルほど離れた場所ですが2004年に、6柱から8柱はあると思われる、かなりまとまったご遺骨を発見させて頂いた事もあり、このあたりはとても思い出深い地域でもあります。

「目をつぶっても歩ける」とまでは言いませんが(^_^;)、この付近については知り尽くしていると言っても過言ではありませんよ。

という訳でこのあたりは、何度も何度も探索した場所であり、行き来した場所である訳です。しかしながら、もう見つからないのではないかと思われるような場所からも、時折ご遺骨は発見され続けているのが現状です。

それはやはり、「メンバーが変わり、人柄が変わり、見方が変わり、視点が変わり、集中力が変わり、気分が変わり、疲労度が変わり、道具が変わり、その日の天候の影響で変わり、風雨で地形が変わる」 などの微妙な諸条件の変化により、また偶然も重なる事によって、数が減少しているとはいえ、何年経過しても新たなご遺骨発見に結びつくものだと思います。

この地域にやってくると、「もう無いと諦めてはいけない」 という事を、いつも思い起こさせてくれる場所でもあります。

ですから、遺骨収集で大切なのは 「もう無いと思いながら探すのではなく、必ずあると思って探す」 事が最も重要なポイントなのです。

帰りのルートを進んできますと、ちょうど国立戦没者墓苑の背後にある道路部分に出て来る事になります。

すでに12時が経過していましたので、私たちも昼食を食べることにしました。松永さんが「資料館裏手のお店に行こう」と言いましたので、私もおにぎりは持っていましたが、そこで一緒に食べる事にしました。

資料館裏手のお店は、食堂とお土産品販売を兼ねている店舗で、遺骨収集奉仕活動に参加されている方にとっては、馴染みのお店ですよね。 もちろん私も、お店を切り盛りしているおばさんとは、気軽に挨拶を交わすほどになっています。

このお店は松永さんもよく利用するらしく、松永さんとおばさんとの会話を聞いていると、まさに地元の人たちだなと言うほのぼのとした雰囲気となります。

私も沖縄そばを注文して、持参したおにぎりと共に食べました。ジャングル内では、何時の時も集中力が無意識に働いてしまいますが、ジャングル外に居るときは気分的にも楽チンですよね。

おばさんも忙しくないようなので、三人で会話を楽しみながら昼食の一時を過ごしました。

昼食の一時の様子

遺骨収集の様子34

資料館裏手にある食堂&お土産屋さんの様子です。結構ダイバーも立ち寄るのかよく見かけますね。写真を撮影した時にも二人いらっしゃいました。ダイバーに 「寒くないですか」 と聞いたら 「寒くないですよ」 と答えていました。(笑)

遺骨収集の様子35

松永さんとお店を切り盛りしているおばさんです。いつもお世話になりますね。

遺骨収集の様子36

地元の農家から仕入れたのか、豆類が色々と販売されていました。本土には無い豆のような気が…。

資料館東側のV字谷およびアダンの森を調査

摩文仁之丘の中央部付近には、東西に伸びたV字谷が展開しているのは、何度も書いている通りです。

そのV字谷は、私の推測では、「島守の塔」から更にグングンと東に伸びて、資料館よりも更に東側までV字谷として伸びていたと見ています。

実際に、昨年資料館の東側でも大きなV字谷が、摩文仁之丘方面から伸びて来ているのが、はっきりと確認されました。

平和祈念公園を整備する際に、「島守の塔」前の道路から「平和の礎」や資料館までの間は、ブルドーザーなどで地盤を平坦に均されてしまったから、現況ではV字谷が消えてしまったと推測しています。

摩文仁之丘のこのV字谷こそ、ここに潜む多くの日本軍将兵の命を失う場となりましたが、一方でまた多くの日本軍将兵の命を救ったともいえる所なのです。

V字谷からは、毎年のようにご遺骨が発見されているのです。私も昨年、資料館の東側で完全一体と思われる未発見のご遺骨を見つけました。

おそらくこのV字谷からは引き続き、調査する度にご遺骨が発見され続ける事でしょう。

ここで憂う事態が進行しつつあるという事を皆様にお知らせしなければなりません。平和祈念公園の管理作業で、樹木の剪定および草取り、芝地の整備などで出た大量の剪定屑を、このV字谷に捨ててしまっているのです。

その剪定屑のボリュームが尋常でない大量なものですから、一度捨てられてしまうと、再びその場所で遺骨収集作業をする事はまず出来ません。

大量の枝が厚い層となり腐葉土と化して、クマデ等を用いた発掘を一段と困難にさせるからです。

「V字谷には一切の剪定屑を投げ込まないでほしい」 、これを公園管理事務所に節にお願いする次第です。

本日午後の調査で、資料館東側のアダンの森に入った訳ですが、この区域にあるV字谷にも半年以内に投棄されたと思われる大量の剪定屑が捨てられおり、V字谷を埋め尽くしていたのを目の当たりにし愕然としました…。

「沖縄工業健児の塔」およびアダンの森の様子

遺骨収集の様子38

沖縄県立工業高等学校の職員・生徒167名を祀る「沖縄工業健児の塔」です。資料館のすぐ横に位置し、デイゴの木に囲まれ太平洋を望むロケーションに慰霊塔はあります。

遺骨収集の様子39

ここ一年の間に整備工事が進められ、立派によみがえった「沖縄工業健児の塔」の全景です。7本の柱は互いに繋がって協力を意味し、三羽の鳩は平和への希求を象徴しているとの事です。

遺骨収集の様子40

とても危険だった資料館との境界線の崩落も、ご覧のようにきっちりコンクリートで整形されました。

遺骨収集の様子41

これが問題の剪定屑の捨てられた場所です。捨てられた場所にはV字谷が走っており、見事に谷は剪定屑で埋められていたのです…。 この様に剪定屑が投棄された場所は、摩文仁の各県の慰霊塔裏でもあちこち見られる現象です。剪定屑が投棄された場所では、再び遺骨収集をするのはまず不可能となります。
※公園管理者様 V字谷に枝葉・土石等の廃棄物を投げ込まないようにお願いしま~す。

遺骨収集の様子42

さあこれからアダンの森に入っていきますよ。アダンさん お手柔らかにね。

遺骨収集の様子43

ここまで来ると、V字谷も随分と浅くなって参りました。私と松永さんとで、V字谷の終着点をついに確認しましたよ。この地点よりも東側にはV字谷が無い事を確認しました。

遺骨収集の様子44

人がやっと入れるぐらいの狭い入り口の壕です。「もしかしたらご遺骨が……」と浮き足立ちましたが、ご遺骨はありませんでした。中に入ってみると結構広かったですよ。

遺骨収集の様子45

この付近のV字谷には結構日本軍将兵の遺品があり、軍の活動の場であったことが想起されます。

遺骨収集の様子46

アダンの森の中を痛い思いをしながら探し続けましたが、ご遺骨はありませんでした。夕方になって来たので、作業を終了しました。ご覧のように出て来たらすぐに資料館があります。

遺骨収集の様子47

資料館前に気になる壕があるというので、一緒に見に行きました。

遺骨収集の様子48

大きな「ヤシガニ」が壕の中の岩陰に潜んでいました。松永さんの話によりますと、沖縄の人たちはこの「ヤシガニ」を食べるそうです。

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