令和04年(2022年)沖縄遺骨収集奉仕活動

1月15日(土) 摩文仁海岸線で調査・遺骨収集

今日の天候予報は「曇り時々晴れ」で、予想最高気温19度、降水確率は10%、10%です。引き続き雨の心配は不要で、安心して取り組めそうです。

本日朝の慰霊巡拝は、喜屋武にある「沖縄戦による破壊を免れた希少な石垣の塀」、摩文仁に移動して「南冥の塔」「金井戸」「沖縄師範健児之塔」「第三十二軍司令部壕」「勇魂の碑」「高摩文仁グスク」「黎明之塔」、を訪ねました。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.1

糸満市の小波蔵交差点を通過して、喜屋武に向けて走っていると右側にマンション二棟が見えてきました。なぜマンション二棟を撮影しているのかと申しますと、一昨年「陸軍病院第二外科壕」の慰霊巡拝を終えて、同壕から南側の風景を撮影したところ、まだ建築中であったマンション二棟が見えたのです。建築中のマンション二棟は、とても大きく見えました。糸満市市外でなく、こんな郊外の地に大きなマンション二棟は、とても目立ちますし興味がそそられていました。そのマンション二棟を思いもよらず、今朝撮影する事となったのでした。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.2

アップしてみたらまだ工事中ですね。クレーンがまだあったり、外装がネットで被覆されています。一昨年の1月に工事中だった訳ですから、随分とゆっくり工事です。いずれにしても、マンションと言う雰囲気ですね。

まず朝一番で糸満市喜屋武にある篠原保司陸軍中尉戦死の地を訪ねました。篠原保司陸軍中尉は、県立一中(現・首里高校)の配属将校で、一中鉄血勤皇隊隊長として同校学徒兵を率いた方です。その篠原保司陸軍中尉が戦没された場所を訪ねてみたいと思います。県道3号線沿い、戦前から喜屋武集落の中心地であるヘーランメー広場の近くの住宅街に、その戦没の地があります。

篠原保司陸軍中尉は死して尚、沖縄一中鉄血勤皇隊の生存者を始めとした多くの学校関係者から、“軍服を着た教育者” として、命の恩人と顕彰され続けておられるとの事。早速ご一緒に慰霊巡拝して見ましょう。

篠原保司陸軍中尉戦死の地/喜屋武

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.3

見えてきました。一本の大きなガジュマルの木が目標になるかも知れませんね‥‥。と言いつつ、あれ~、常緑であるはずのガジュマルの木が、小さくなった上に、イチョウの木の冬枯れ状態みたいになっている~!

《過去の写真ご紹介》

令和2年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.3

【令和2年(2020年)撮影】
こうして見ると、沖縄戦で破壊されなかった部分と、戦後補修された部分とが良く解りますね。沖縄では立派な塀のお屋敷を「長門(ながじょう)」と呼ぶのだそうですが、これは沖縄戦による破壊を免れた稀少な塀ですね。長門、正にその名に能わず往時の面影を今に残していました。

過去写真掲載はここまでです。

一昨年の慰霊巡拝の際に撮影したガジュマルの木をご紹介しました。太い枝が横に伸びているのが解ります。一方枯れた現在のガジュマルの木の枝ぶりを見ますと、横に伸びていた太い枝がありません。かなり強い剪定をしたのが解ります。現在展開している枝葉は、強剪定した後に生えた小枝群だと思えます。と言う事で、あの巨木であったガジュマルの木が枯れてしまったのは、あまりの強剪定が原因だと考えられます。いわゆるショック死ですね。ただガジュマルの木は凄く強健なので、今ある枝葉は枯れるでしょうけど、株元辺りからひこばえが生えて、完全にご臨終にはならないかも知れません。来年以降追跡調査したいと思います。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.4

到着しました。この石垣は、沖縄戦による激しい破壊を免れて現存する貴重な石垣でもあります。沖縄では立派な塀のお屋敷を「長門(ながじょう)」と呼ぶのだそうです。こうして見ると、沖縄戦で破壊されなかった部分と、戦後補修された部分とが良く解りますね。

「沖縄一中鉄血勤皇隊」の著者田村洋三氏の調査では、大小堀家の長門だそうです。塀の長さは30メートル余りといったところです。中央付近の石垣が切れている部分が正門です。住宅敷地面積はおよそ700平米あるそうです。敷地内には木造平屋建て家屋の他にブロック等で組まれた建物が二つほど点在していました。まずはぐるりと一周してみましたが、当然のことながら破壊された部分と破壊を免れ現存する部分とが混在しているという状況でした。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.5

ここは正門です。正面の中にある石組みは「ヒンプン」と呼ばれ、沖縄建築ではよく見られるもので、外からの目隠しという実用的な役割と、沖縄の魔物は角を曲がるのが苦手なため、直進して入ってこないようにという魔除けの意味も込められているようです。

奥に見える住宅は戦後建てられたものと思われます。著者の解説によれば、空き家だったと書き記されていますが、現時点の状況は中を見る事が出来ないので断定しかねますが、雑草が繁茂し落ち葉が堆積しているような事も無く、恒常的に何らかの管理作業が為されていると感じました。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.6

門を入ってすぐ右側にガジュマルの木が植えられています。篠原保司中尉等数人は、正門横に植えられている、このガジュマルの木の株元で旅装を解いたと言います。そして帰らぬ人になりました‥‥。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.7

西側角まで来ました。篠原隊長率いる一中勤皇隊本部本隊は、この西側角の敷地内塀際に寄り添うように寝ていたそうです。また上掲写真で書きましたが、篠原保司中尉等数人は、正門横のガジュマルの木の株元で旅装を解いたと言います。深夜ガジュマル付近で艦砲砲弾か迫撃砲弾が炸裂し、頭部に砲弾破片の直撃を受けた篠原隊長は、一声も発することなく即死されたという事です。著者による聞き取り調査によりますと、篠原隊長が戦死されたのは6月10日頃だと言います。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.8

西側角から西側全体を見ています。沖縄戦で破壊されなかった石垣がそのまま残存していますね。上の方は爆風で吹き飛ばされ、下の方は残存した‥‥。そんな状況です。

《書籍ご紹介》

「沖縄一中鉄血勤皇隊」 学徒の盾となった隊長 篠原保司

田村洋三著 (株)光人社 平成22年(2010年)初版

著者である田村洋三氏は、沖縄戦について数冊出版されており、その全てを購入済みです。氏の著作は綿密な現地調査による徹底した情報収集にあります。元読売新聞記者にして、”生涯一記者” を自認する著者だけあって、現地調査に重点を置き、足で記事を書いていると言えるでしょう。氏の執筆の課程では、必ずと言って良いほど取材対象の核心を知る人物に出会いますし、大いなる協力を得るに至るのは、他ならぬ氏の熱情が至らしめる必然であるとも言えるでしょう。

この本は、県立一中(現・首里高校)の鉄血勤皇隊と同校の配属将校であり、部隊結成後は鉄血勤皇隊隊長として学徒兵を率いた篠原保司陸軍中尉のノンフィクションであり、著者の綿密な取材や調査によって、篠原保司中尉は一中鉄血勤皇隊の生存者をはじめとした多くの関係者から、命の恩人とされ顕彰され続けて来た事が本書では紹介されています。篠原中尉が県立一中に配属将校として赴任してから、時には生徒を叱咤し時には励まし、沖縄戦の中では生徒らを理不尽に扱う日本軍将兵らに対し、身を挺して守り続けてきた25歳の若き青年将校の生涯が詳細に記されています。

「沖縄の島守―内務官僚かく戦えり」「沖縄県民斯ク戦ヘリ―大田實海軍中将一家の昭和史」などなど、沖縄戦に関する著作の多い田村洋三氏が書いた本ですが、沖縄一中に配属将校隊長として赴任した篠原中尉を、沖縄一中における軍務を超えて教育者としての側面を織り交ぜながら、今も尚生徒に敬慕される篠原中尉の沖縄戦渦中における足跡を辿っている本です。

帯には篠原中尉の在りし日の面影と共に、次のように記されています。ご存じのように本の帯は書籍内容のエッセンスが書き記されていますよね。

「戦死率73%、悲劇の中学生隊を指揮、凄惨な地上戦のただ中で最後まで人として歩むべき道を示し続けた若き陸軍将校と、十代の生徒達との命の絆を描く感動のノンフィクション」

「スラッとした長身、役者にしても良いような美男子、その容姿で一中全生徒の憧れの的となった篠原中尉。しかし素晴らしいのは姿、形だけではなかった…。少しも威張らず、奥床しく、荒れ狂う“鉄の暴風”の下で、「軍服を着た教育者」として尊敬を集め、今も元生徒らに慕われる異色の配属将校の生と死。」

配属将校とは、陸軍省が全国の官・公・私立中学校以上の男子校に派遣、正課としての軍事教練などを教えた軍人のことを指しますが、篠原中尉は沖縄一中に配属された将校で、三年生以上で編成された男子学徒隊「沖縄県鉄血勤皇隊第一中隊」(略称:沖縄一中鉄血勤皇隊)の隊長を務められました。

この本の主人公である篠原中尉は南部撤退の途上、糸満市喜屋武集落内で仮眠中に、砲弾破片の直撃を受け亡くなられましたが、沖縄一中鉄血勤皇隊の生存者は、現在でも等しく篠原中尉を「先生」又は「教官」と敬意を込めて呼ぶそうです。著者である田村洋三氏はそれを「篠原が軍令を金科玉条とした一介の配属将校ではなく、“軍服を着た教育者” として生徒達の尊敬を集めていた証明であろう」と書き綴っています。

「喜屋武にある沖縄戦による破壊を免れた希少な石垣の塀」とは、正に篠原中尉が亡くなられた場所を指す言葉でもあります。篠原中尉戦死の瞬間は、この本のクライマックスでもありますから、砲弾破片の直撃を受け亡くなられる経緯を詳細に書き記してあり、文面に照らし往時を思い起こしながら私達は訪ねました。

篠原保司陸軍中尉が戦死された場所を、塀の外から見学させていただきましたが、同著の中では篠原中尉が亡くなられた状況をどの様に書き記されているのか、「沖縄一中鉄血勤皇隊 学徒の盾となった隊長 篠原保司」を見てみましょう。

篠原隊長の最後
この後、豊子はとろとろっとまどろんだらしいが、一発の轟音に眠りを破られた。「いきなりグワーンと頭上のガジュマルで物凄い爆発音がして火柱が立ち、枝や葉が飛び散り、体に降り注ぎました。辺りは硝煙がもうもうと立ちこめ、のどを刺すような強い刺激臭がしました。艦砲弾か迫撃砲弾がガジュマルの木を直撃したらしく、こんもり繁っていた枝が吹き飛ばされ、周囲が少し明るくなりました。まず富原先生が『腹をやられたーッ、もう駄目だ。手榴弾くれーッ、自決する』と叫び、地面をのたうち回りました。父も爆風で耳が一時 聞こえなかったようですが、手早く富原先生のお腹の傷を調べ『脇腹の擦過傷です。死ぬような傷じゃないから、気をしっかり持って下さい』と励ましました。それでも富原先生は『頼むから死なせてくれーッ』と言うので、父は『先生が自決したら、九州に疎開されたご家族はどうなるのですかッ』と声を荒げて叱りました。姉の敏子は右の顎と右肩の肉を少し削がれ、私も右側頭部に破片が入り、血まみれでした」

こんな危急存亡のとき、率先してリーダーシップを発揮するはずの篠原隊長の声はなく、横たわったままだった。隣に寝ていて不思議に思った豊子が「先生ッ」と呼び掛け、体を揺すると、篠原は二度、溜め息に似た呼吸を洩らした後、枕代わりの雑嚢から頭をガクッと落とした。絶命だった。豊子の目撃談。

「夜明けの薄明かりにすかして見ると、日ごろ色白でハンサムな先生の顔は鬱血したように青黒く腫れ上がり、戦闘帽の右こめかみの部分は血で半円形に黒ずんでいました。よくよく見ると、戦闘帽の際の右側頭部に五ミリほどの小さな穴があり、破片はここから入って脳に達し、致命傷になったようでした。一言も発しないままのご最後で、さぞや、ご無念だったと思います」

「沖縄一中鉄血勤皇隊」から転載させて頂きました

「一中健児之塔」

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.8

養秀会館の敷地に入りました。広大な敷地のようですね。奥の階段を登ると「一中健児之塔」があるようです。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.9

大きな建物ですが養秀会館と言います。沖縄戦当時は沖縄県立第一中学校、そして戦後は首里高等学校と校名が変わりましたが、その卒業生の同窓会館という趣旨の建物のようですね。この学校の歴史は130余年と古い歴史があるようです。本校の前身は、今を遡ること二百十年余り前、琉球王朝第二尚氏15代国王の尚温王が、優れた人材を育成せんと、「海邦養秀」の扁額を掲げ、後に王国の最高学府となる公学校を本校の敷地に創建したのが始まりとされているという事のようです。これにより会館名を養秀会館としたのですね。

現在の沖縄県立首里高等学校は、在校生1,300余名で「海邦養秀」の理念のもと、質の高い文武両道を実践しているという話です。実際に撮影はしませんでしたが、養秀会館の向かいには、弓道場が設けられており、文武両道の一端を垣間見ることができました。

男子学徒隊「沖縄県鉄血勤皇隊第一中隊」(略称:沖縄一中鉄血勤皇隊)についての本が出版されているのでご紹介します。私は読了しています。

「沖縄一中鉄血勤皇隊の記録」 (上)(下)

兼城 一編著 高文研 平成12年(2000年)初版

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.10

階段を登ると、平らな広大な敷地が現れました。ご覧のように天気は快晴ですから、階段を登っただけで汗だくになってしまいました~。とにかく暑いです。広い敷地でセンターに参道があり、左側が芝地で右側が駐車場になっています。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.11

「一中健児之塔」です。立派な慰霊塔ですね。養秀同窓会サイトには同慰霊塔について次のよう記載があります。

一中健児之塔は、1950年4月30日に旧沖縄県立第一中学校同窓会の浄財により元同校寄宿舎養秀寮跡に建立された。その後、創立百周年記念事業として養秀会館の建設と同時に一中健児之塔の改修移設が行われ、昭和54年に除幕式、入魂式が挙行された。

一中健児之塔は、正面には、平和を象徴する鳩とそれを支える万人の手をデザインした白・黒・ベージュの大理石の壁面装飾があり、その上に久米島産の二トンもある緑石の一中健児之塔の碑が置かれている。供花台はギリシャ産の二トンの大理石の切石をそのまま使っている。

「一中健児之塔」の揮毫 島袋光祐氏(大正二年卒)
デザイン 喜村朝貞氏(昭和二十六年卒)

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.12

平成14年5月に竣工した刻銘碑です。一中健児之塔の左側壁面の前に建てられ、高さ1.8メートル、横5.5メートルの黒御影石造りで、碑の上段に縁取られた一中の校章の「桜」が金色に輝いているのが印象的ですね。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.13

ギリギリ読めますが、テキストでも掲示しました。

【慰霊碑碑文】

第二次世界大戦の最中、昭和二十年三月二十七日、沖縄県立第一中学校(首里高等学校の前身)においては、米軍の砲爆撃下この地で異例・悲壮な卒業式が挙行され、第五学年生と第四学年生が同時に卒業し、ただちに第三学年生と共に鉄血勤皇隊が編成され、第五砲兵司令部に配属された。また、前年十一月から通信隊要員として教育訓練を受けていた第二学年生は、三月二十八日、少年特別志願兵として電信兵第三六連隊に入隊を命ぜられ、各無線中隊に配属された。

鉄血勤皇隊、通信隊の学徒兵は、郷土防衛の若い血潮を燃やしつつ、陣地構築、通信、伝令、弾薬・糧食の運搬、戦傷兵の輸送その他の任務に精魂を傾け、熾烈な砲爆撃下に決死敢闘、対戦車肉薄攻撃、挺身斬込みに参加し、終始軍の一員としてその責務を遂行した。

非戦闘員であるべき学業半ばの年端もゆかぬ二百有余の学徒兵は、いまだかたい蕾のまま散華した。

先の戦争では、教職員、学徒兵を含め、八百有余の同窓の方々が戦没された。まことに痛恨のきわみである。

昭和十五年の沖縄県立第一中学校創立六十周年記念事業として養秀寮が建設されたゆかりのこの地に、一中健児之塔を建立し、志むなしく斃れた一中健児を追慕し、謹んで御冥福を祈り、世界の恒久平和を希求する。

社団法人 養秀同窓会 

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.14

写真は「一中健児之塔」の裏山を撮影していますが、昭和19年米軍による、いわゆる十・十空襲後、三年生以上で編成された男子学徒隊「沖縄県鉄血勤皇隊第一中隊」(略称:沖縄一中鉄血勤皇隊)でも、自前の壕構築が進められ、今もその壕郡の一部が残存するという話です。この裏山にあるそうですから見学してみましょう。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.15

残存壕郡の案内板がありました。ギリギリ読めますね。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.16

壕に至るこの坂道は、案内板によれば「篠原坂」と書かれています。ここでハッと思いつくのは、この篠原とは人の名前で、沖縄一中の配属将校を務めた篠原保司陸軍中尉の名前である「篠原」ではないかと感じました。違っていたらごめんなさいですが…。

篠原陸軍中尉を顕彰する意味を込めて篠原坂と命名された、という前提で書かせていただきますと、沖縄一中に配属将校として赴任した篠原保司陸軍中尉は、沖縄戦では同高の隊長を務められました。

沖縄一中鉄血勤皇隊の生存者は等しく、篠原中尉を「先生」または「教官」と呼ぶそうです。これは配属将校という立場を超えて、“軍服を着た教育者”として生徒たちの尊敬を集めていた証明であろうと、「沖縄一中鉄血勤皇隊」の著者である田村氏は述べています。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.17

篠原坂を登り終えますと、最初にあるのがこの「銃器庫跡」です。近づいてみますとごく浅い壕でした。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.18

「銃器庫跡」の説明です。読めますね。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.19

「第三小隊壕入口跡」と書かれていますね。草が茂っていて壕の状況はよく解りませんでしたが、こちらは小隊の壕という事で、ある程度奥深い壕かもしれませんね。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.20

「第三小隊壕入口跡」の説明です。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.21

ここから先は立ち入り禁止になっていますね。戻りましょう。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.22

道を少し戻りまして右側に進むと、「教導兵詰所跡」の壕がありました。四畳半もない空間ですが、壁面がかなり黒くなっていますよね。これは沖縄戦当時の焼け焦げた状況を反映しているのかもしれませんね。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.23

「教導兵詰所跡」の説明です。ギリギリ読めますね。

過去写真掲載はここまでです。

篠原保司陸軍中尉戦死の地での慰霊巡拝を終え、摩文仁に向けて走っています。途中の小波蔵交差点から波平交差点間の道路の両側は、野菜産地と言う趣で野菜畑が広がっていたので、写真を三枚程ご紹介します。(^o^)

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.9

トウモロコシ畑です。関東での露地栽培では、6月後半ぐらいから収穫が可能となるトウモロコシですが、ご覧のように、雄穂がすでに出ていますから、二三週間後には収穫が始まると言う感じですね。こう言う事からして、沖縄農業は、もしかしたら、夏は暑すぎて土が乾くなどして作物が育たず、冬こそが野菜が育つ時節なのかも知れませんね。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.10

レタス畑ですね。広大な面積で栽培しています。白いマルチが為されていますが、虫除けを目的に設置されています。例えばアブラムシなども白く光る物を嫌うと言う特性を利用して、農薬の使用回数を減らそうと言う訳ですね。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.11

順調に成長を続けています。間もなく結球が始まると言う段階ですね。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.12

国道331号線上、摩文仁がよく見える場所に出たので、車から降りて撮影しました。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.13

摩文仁集落に入りました。今から「南溟之塔」や「沖縄師範健児之塔」に向かいますが、途中のとあるお宅にあるガジュマルの木で出来た生け垣をご紹介します。すでに道路の右側にすでに見えていますよね。立派でしょう~。(^o^)
因みに、写真正面の奥にある樹林で覆われた小山が摩文仁之丘です。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.14

摩文仁集落のとあるお宅の生け垣を撮影しています。ブロック塀の上に、生け垣として屋根を造形しているのが解ります。樹種はガジュマルの木だとの事です。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.15

玄関がある側に移動して撮影しました。しっかり屋根の刈り込みが為されているのが見えます。ブロック塀の上だけでなく、ご覧のように塀の内側のお庭も見事に盆栽仕立てになっているのが解ります。

以前塀の外で撮影していましたら、中から家のご主人が出てきて、「よろしければ中も見ていきませんか」と、優しく声を掛けて下さいましたので、お言葉に甘えて中も見せて頂きました。その時に撮影した写真がありますので、ご紹介致します。

《過去の写真ご紹介》

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.36

【平成30年(2018年)1月27日撮影】
摩文仁集落にある、とあるお宅のブロック塀の上に展開する生け垣を写しています。敷地内の刈り込まれた植栽も見事です。ブロック塀に沿うこの生け垣は屋根の形を模しているのですね。実に整然と剪定されています。どうしたらこんな直線を維持できるのでしょうか…。素晴らしいの一言ですね。(^o^)

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.37

塀の中に招き入れてくださり、お相手をして下さったのは、60歳前後と思われる家のご主人でしたが、庭の植栽を手入れされているのは、その方のお父さんのようです。敷地内でまず最初に案内されたのがこの写真に写されている扇形に剪定された植栽です。玄関横の目立つ場所に植えられています。木はガジュマルです。この扇形を維持するのは本当に手間が掛かるし、第一難しいらしいですよ。ですからお祖父さんにとっては、この扇は一番の自慢のようです。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.38

10年とか20年とかのスパンで、じっくり育てる必要があるのでしょうね。この扇形の植栽の前での立ち話が一番長かったですから、最も熱を入れて取り組んでいる作品なのでしょう。(^o^)

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.39

お庭の様子です。見事ですね。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.40

庭はL形になっていて、奥の方一帯を写しています。剪定シーズンともなると、お父さんは庭に張り付くように連日取り組まれるそうです。勿論脚立も使った危険な作業だそうですが、道楽として楽しんでやっているという話です。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.41

中央付近を写しています。沖縄ならではの和風庭園に感激です。手入れには相当な時間を投入しているはずですから、好きで無ければ絶対出来ない取り組みですね。いや~、有り難うございました。(^o^)

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.16

平和祈念公園内に到達しました。そこから摩文仁之丘を見ています。山上の「黎明之塔」は木の陰になっていて見当たりませんね。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.17

健児之塔前の駐車場までやって参りました。ヒェ~。駐車場の風景も激変していますね~。駐車場に住宅が建ってしまいました。写真奥に沢山の車両が駐車していますが、全部工事をする職人さんの車のようです。このまま車を奥の空いてる場所に駐車して良いのか‥‥。迷ったので中には入れず、もう少し手前に駐車する事にしました。

写真をよく見ますと、写真中央付近に「車両進入禁止」の赤い標識が置いてあるのが見えますよね。この標識は昨年から設置されていました。昨年この場所に駐車するに際して、心配になったので地権者の方にお伺いしましたら、「慰霊塔の参拝はオッケー」と仰ったのですぐ失礼しました。そして今年は偶然にも「車両進入禁止」標識の本意を知る事が出来ました。眼前の住宅で工事をしている職人さんに、横を通行する際にご挨拶をしたら、立ち話となり色んなお話を伺う事が出来ました。

即ちですね。サーファーがこの駐車場に長時間駐車するので、地権者は困り果てているそうです。一台や二台ではないそうです。「車両進入禁止」の標識を掲示しても何の効果も無かったので、行政に訴えた結果、驚く事に駐車場から海岸に行けなくする為、公園を囲うように頑丈なフェンスを設置する予定との事ですよ。ヒェ~。「健児之塔」などへ行けなくなるのでしょうかね~。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.18

おなじみの場所ですが、眼前の「健児之塔」案内板辺りにフェンスを設置するのでしょうかね~。そうなると、ここから慰霊巡拝に行けなくなるのでしょうか‥‥。いずれにしても、この件は要注目ですから毎年確認したいと思います。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.19

少し進むと道の両側は石垣となっているのが見えますね。沖縄戦当時は、摩文仁山稜がこの辺りまで続いていて、高くはないですが、それなりの小山が続いていたのでした。米軍はこの先海岸まで続く岩場に隠れている将兵や避難民を殺害しよとしました。そしてその為には、この小山部分を削り戦車が行き来出来るようにする必要があると判断したようです。そうなんです。ここは山を削り、戦車が通れるようにした「戦車道」なのです。

話は変わりまして、多分皆さんは信じられないと思いますが‥‥。昔は、この「沖縄師範健児之塔」や「南冥の塔」に至る、この目の前の参道右側に、同塔参拝に訪れた方々にお土産品やドリンク類を販売するお店が、数珠つなぎのように並んでいいたのです。沖縄が本土復帰して以降は南部戦跡の慰霊巡拝がブームとなっていたのです。記憶では十軒以上並んでいました。各お店には、おばさんが一人ずつ居られました。沖縄戦でご主人を亡くされた方が多いと聞き及んでいます。

お店の面積は一畳ぐらいで屋根は無く、白布や布地で装飾された平らな台にお土産品やドリンク類が所狭しと並べられていました。私も当時暑かったので、ドリンクを購入した記憶があります。昔は慰霊塔への参拝客が想像以上に多かった事を表す事例だと思います。勿論、先ほど駐車した広場に立つ建物には、お土産屋さんが少なくとも三軒は賑やかに営業をしていました。こうして当時を思い起こすと、今とは隔世の感がありますね。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.20

ここもおなじみの風景です。参道が曲がるところにトイレがあります。参道には「クワデーサー」(モモタマナ)の木が植えられていて、年々大きくなっているのが解ります。この写真とほぼ同じ位置から撮影したと思われる、昭和43年に撮影された写真を次にご紹介します。

平成31年(2019年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.54

【沖縄県公文書館所蔵】
分類名:戦跡・慰霊
撮影地:
撮影日:1968年
備 考:
写真解説:【原文】
【和訳】ハワイ在沖縄県人 糸満 伊原 ひめゆりの塔 宮良部長同行

サイト管理人コメント:
上掲写真とほぼ同じ位置で撮影されたものです。昭和43年(1968年)の頃は、ご覧のように大木がほとんど見当たりませんね。この写真は潮が満ちている時に撮影されたようですが、リーフ(外礁)が白く波立っているのが見えます。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.21

「沖縄師範健児之塔」に向かう参道に写真の緋寒桜がありますが、近年は全く元気がありません。これまで三十年ぐらいこの緋寒桜を見守り続けてきましたが、今年は特に花数が少なくて、ご臨終が近いかも‥‥。と言う感じです。(^_^;) かつて勢いよく咲き誇った樹勢と比較して何十分の一程度に花数が減っています。

樹勢が衰えた原因として考えられるのが、平成24年(2012年)に巨大台風が二度襲来しましたが、この場所は遮蔽物がなく、海から塩分を含んだ強烈な風が吹き付け、枝葉が塩を浴びて深刻なダメージを受けたと考えられます。皆様はオーバーに聞こえるかも知れませんが、この巨大台風が通過した翌年の摩文仁は、全山の緑陰、即ち緑の葉が吹き飛ばされたのでしょう、先端の細い枝ばかりが目立つ、荒涼たる風景が広がっていたのです。それがハッキリと目視で解るのでした。

いずれにしても眼前の緋寒桜は、本葉の芽がちらほらと見えるので、今すぐと言う事は無いと思いますが、枯れないように祈るばかりです。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.22

ご覧のように、花は極端に少なくなっています。木に花芽を形成するエネルギーが無いのでしょうね。

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子21

【平成23年(2011年)1月29日撮影】
ヒカンザクラ(緋寒桜)です。別名をカンヒザクラ(寒緋桜)とも言いますね。順序が逆になっただけですけど。ご覧のようにソメイヨシノ等と比較してみると、花が開ききらず、俯き気味に咲くのが特徴です。花弁や、ガク(萼)も緋色をしていますね。東京の靖國神社にも大木がありますし、その他上野公園にもありますし、東京にもあちこち植えられていますね。

過去の写真掲載はここまでです。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.23

道路を挟んでトイレの向かいには「クワデーサー」(モモタマナ)の木が植えられています。毎年グングンと大きく育っています。潮風が強烈に当たる場所であり、緋寒桜が元気がないのと対照的に、こちらはすこぶる元気です。沖縄では古くから村落の集会所や墓地などで植えられています。日陰を作ってくれるありがたい樹木のようです。また「クワデーサー」の果実は食用になりますし、何よりヤシガニの好物だそうですよ。(^o^)

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.24

駐車場に車を停めて参道を70Mぐらい降りて来ると、トイレと緋寒桜の木がある場所に至ります。この場所は三叉路になっており、ご覧のように参道が枝分かれしている場所でもあります。左側の参道を直進しますと「沖縄師範健児之塔」へ、そして中央の下り坂を下りていくと、「金井戸」や摩文仁海岸へ、そして右の参道を進むと「南冥の塔」へと至ります。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.25

トイレの近くにある小高い場所に、「南冥の塔」の案内板がありました。これは多分容易に発見出来ると思います。それではご一緒に、案内石碑の矢印の方向に進んでみましょう。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.26

「南冥の塔」の案内石碑の右側にある樹木です。ご覧下さいませ。一種類の樹木かと思いきや、よく見ると元々あった樹木にガジュマルの木が絡んでいるというのが実相の様です。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.27

ガジュマルの木は恐ろしい事に、別名「締め殺しの木」とも言われています。ガジュマルの木が着生した樹木、つまり元々の樹木を強く締め付けているのが見えますね。

「沖縄師範健児之塔」参道前駐車場の一角にあった木も、ガジュマルの木が絞め殺してしまい、元木が枯れてしまいました。結果として所有者がガジュマルも一緒に切り倒してしまいました。ですから、この写真に写されている元々の樹木も何年か先には、可哀想に同じ運命を辿る可能性が高いですね。これはしっかりと追跡調査を続けましょう。(^^;)

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.28

ご覧のように、整備された遊歩道がありますので、夏などの暖かい時節でもハブ等の出没を気にすることなく参拝できると思います。遊歩道の先に「南冥の塔」があります。

突然ですが皆様、この道が無い状態、つまり左右の木々が鬱蒼と茂る状態が画面一杯に連続しているというイメージで見て頂けますか。金光教那覇教会の林先生によりますと、金光教がここ摩文仁で遺骨収集を始めた昭和50年(1975年)の頃は、この道は一切無かったという話ですよ。ですから林先生も、まさかこの奥に慰霊塔があるなんて長く気づかなかったと言います。

参道前にある駐車場の真横にあるお土産屋さんを経営されていた、前門キヌさんという方に、林先生が「南冥の塔」があると案内されて初めて、同塔の存在を知ったそうです。その頃の前門キヌさんは「南冥の塔」の墓守をしていたとの事で、その後の同塔での長く続けられている慰霊祭に繋がっていきました。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.29

眼前に巨大な岩山が見えてきました。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.30

遊歩道も間もなく終わりです。白い案内板が見えてきましたね、もう少しです。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.31

左側の巨岩が「南冥之塔」の背後にある巨岩で、奥まった所にある岩山もまた巨大ですが、山上に登る事が可能なんですよ。同岩山の北側は樹木が生い茂る緩斜面となっているからです。かつて金光教の遺骨収集で入った事がありました。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.32

遊歩道の右側にはご覧のような巨大な岩が鎮座しています。巨岩が連なっているこの付近一帯を、地元ではボージャーシーと呼ぶ様です。これら巨岩は「黎明之塔」のある89高地からよく見えますので、良い目印にもなっていますね。

因みに、この巨岩の裾には、国吉さんが発見した約七千年前の遺跡とされる「摩文仁ハンタ原遺跡」があり、遺骨収集などは出来ない状況となっています。平成22年(2010年)に国吉さんと一緒に遺骨収集をした際に、現場で説明を受けましたので、その時の写真をご紹介致します。

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子2

【平成22年(2010年)2月19日撮影】
国吉さんの案内で、この現場までやって参りました。ご覧のように巨岩の下は、雨が直接降らないので草木が生えていません。ここは金光教でも遺骨収集で何度も土を掘り返した場所です。今でも細かい御遺骨は探せば出て来るはずです。岩にはよく見ると化石がたくさん含まれていまして、あちこちにその化石を見る事が出来ます。岩壁の所に小さな白い看板が見えますが、下の写真のような文章が書いてあります。

遺骨収集の様子3

国吉さんにより発見された、この約7000年前とされる遺跡は「摩文仁ハンタ原遺跡」と命名されたようです。国吉さんは、ここ以外にも何カ所か、古代遺跡や古代人の人骨、その他化石などを発見していると語っていました。

遺骨収集の様子4

「岩には化石がたくさん含まれている」と聞いた上で、よく岩を観察すると、確かにたくさん化石がある事がよく見えますね~。写真では解りにくいですが、たくさん化石が写されていますよ。

遺骨収集の様子5

古代人の骨が発見された場所です。後日実施される調査の前に、第三者により遺跡を破壊されないように、土嚢が盛られていますね。

過去の写真掲載はここまでです。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.33

一方参道の南側に目をやると、この辺りは特にそうなのですが、緩やかな緩斜面を形成して全体的に平坦な場所となっています。ハンタ原と呼べそうな場所がこの辺り一面に広がっているのが解ります。

因みに遺骨収集をされている方々が警戒するのがクワズイモです。写真に写されている大きな葉の植物がそれです。ジャングル内の移動に際して切り倒しながら進まなければならない事も多いです。その場合は鎌等をなるたけ体から離して振りかざしたり、樹液が四散しないようにズバッと一気に切り倒すなど、樹液を浴びないように注意すれば大丈夫です。またクワズイモを切り倒す際は防護メガネを掛けていればより安心です。

いずれにしてもクワズイモの樹液が皮膚に触れただけでも大変です。特に粘膜に樹液を接触させると悲鳴を上げる事態となります。死に至る毒草ではないので、あまり深刻に捉える必要はありませんが、一度樹液が皮膚に触れる体験してみると良く理解できる所です。

《過去の写真ご紹介》

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.17

【令和02年(2020年)1月撮影】
クワズイモの花です。この写真はこの場所で撮影したのではなく、今次遺骨収集で他のジャングル内で咲いていたものをご紹介しています。長年遺骨収集をしていて、クワズイモの花に遭遇するのは非常に希です。元々開花時期が初夏から夏と言いますから、遺骨収集を実施する1月とか2月では季節外れという事もあるでしょうからね。この写真は、その希少なクワズイモの花のご紹介でした。

過去の写真掲載はここまでです。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.34

案内板ですね。「南冥の塔」の由来が記されています。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.35

歩道突き当たりには、ご覧のような「南冥の塔」の由来が書き記されています。この案内板は平成26年(2014年)に改築されたものですが、すでに結構汚れていますよね。台風とか季節によってはスコールと呼ぶような強い雨も降ったりしますから、亜熱帯に属する沖縄は年間を通して厳しい環境にあると言えるかもしれません。本文はギリギリ読めますが、テキストに起こしてみました。(^o^)

【南冥の塔解説文】

沖縄戦終焉の地であるこの一帯には、米軍に追いつめられ逃げ場を失った多数の日本の軍人軍属、一般住民が米軍の連日連夜にわたるすさまじい砲爆撃により傷つき、斃れていて、死屍累々といったその様はこの世の地獄絵図かと見まごうような悲惨な光景でした。

この南冥の塔は、沖縄戦に参戦し、その惨状が念頭から離れなかったという日系二世の米兵ヤマモトタツオ氏が中心となり、昭和二十九年九月、この一帯に放置されていた身元不明の兵士、住民の遺骨一万二千柱を集骨して建立されました。

現在、この塔の遺骨のほとんどは沖縄戦没者墓苑に移され、ここには一部が分骨されて祀られています。

ここに追悼の意を表し、戦没者の御霊を慰めるとともに、安らかならんことを祈ります。

内閣府沖縄総合事務局 

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.36

階段を上りきると「南冥の塔」があります。

「南冥の塔」

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.37

「南冥の塔」です。昭和29年(1954年)9月に建立され、平成26年(2014年)に改築されましたから、真新しく精々しい雰囲気となっていますね。背後のコンクリート製の施設が納骨堂で、分骨されたご遺骨が少数納められているとの事です。

ところで那覇教会の林先生が、沖縄に点在する慰霊塔の前で慰霊祭を最初に行ったのが、この「南冥の塔」だったそうです。慰霊祭の依頼者は、この慰霊塔の墓守をしていた前門家のキヌさんでした。という事で金光教の遺骨収集奉仕活動とこの「南冥の塔」とは、切っても切れない縁があると言えるでしょう。

林先生は、毎年6月23日の沖縄戦終結の日に合わせて、ここ「南冥の塔」で慰霊祭を仕えられています。同塔の墓守をされていた前門キヌさんに、「南冥の塔で慰霊祭をぜひ…」と相談を持ちかけられたのが昭和51年だったそうです。この時以降林先生による「南冥の塔」での慰霊祭は、現在まで途切れることなく続けられているそうですから驚くばかりです。毎年本当にお疲れ様でございます。m(_ _)m

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

所在地ご紹介

「駐車場は、短時間の駐車なら広場に駐車OK、トイレあります」

「沖縄師範健児之塔」や「南冥の塔」を慰霊巡拝する場合、参道手前にある駐車場に車を止めるのが一般的です。その駐車場横にある住宅にお住まいだった前門家を、「南冥の塔」を語る際には外せません。金光教の遺骨収集は、特に26年続いた運営委員会時代の300人から400人が全国から参集する大規模な遺骨収集活動には発展しましたが、前門光雄さん抜きにそれは為し得なかったと断言しても良いかも知れません。そんな金光教の遺骨収集に於いて掛け替えのない前門光雄さんですが、平成14年(2002年)満50歳の若さで急逝されました。

前門光雄さんのお母様は、「南冥の塔」への道が無かった時代から同塔の墓守をされていた方です。前門光雄さんは子供の頃からお母様に手を引かれて、山野に散在するご遺骨の収集を続けられました。そのお母様と那覇教会の林先生とが出会い、そのお母様の願いにより、「南冥の塔」で金光教の祭式に則った慰霊祭が挙行されるに至りました。そして林先生は前門家と共に遺骨収集活動をする流れに発展して行きました。その後石原正一郎氏や帯同する学生奉仕団も加わり、より規模の拡大した遺骨収集活動として受け継がれていきました。因みに「南冥の塔」前での慰霊祭は現在でも、毎年沖縄慰霊の日に挙行されています。

私も前門光雄さんとは良く話をしました。米軍放出の暗緑色の作業服と編上靴をいつも身に纏っておられましたから、いつもすぐに発見できました。地味で目立ちたがらないタイプでしたから、一見無愛想に見えましたが、沖縄の人の典型と言える様なとても心根の優しい方でした。彼の語る言葉の中で、一番印象に残っている言葉は、「沖縄の心は、おばあの心です」と言うのがあります。この言葉は私だけでなく、多くの参加者が耳にしているかも知れません。前門光雄さん自身を表すような、とても印象深い言葉でした。ご冥福をお祈りいたします。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.38

国立の墓苑は日本全国で千鳥ヶ淵と摩文仁の二カ所しかありませんが、この「南冥の塔」もなんと国立墓苑に指定されており、それがために、林先生が祭主を務める6月23日挙行の慰霊祭には、国の出先機関である内閣府沖縄総合事務局長名で生花が届けられるそうですよ。

日系二世の米兵ヤマモトタツオ氏が、摩文仁を立ち去るにあたり、刻み込んだ碑文は次の通りです。

銃とらぬ諸人の 御霊永遠に神鎮まりませと 祈りつつ吾れ 此の碑を捧げまつる 一九五四年九月拾四日 沖縄戦参加一米兵

日系二世の米兵ヤマモトタツオ氏が、沖縄戦の渦中、日本軍を掃討するため摩文仁で作戦を遂行中に、赤ん坊の泣き声がするので、声を頼りに辺りを探してみると、砲弾に打たれ死んでいる母親の血塗られた乳房をまさぐりながら、飢えて泣いている赤ん坊が居たそうです。しかしながら掃討戦の作戦遂行中であり、手当もせずその場を立ち去ったそうです。

やがて戦争も終わり、除隊となって郷里に戻りましたが、その時の光景がたびたび夢に出てくるというのです。それでいたたまれず、単身沖縄にやって来て、前門家の庭にテントを張らせてもらい、現在の「南冥の塔」がある一帯で遺骨収集を一ヶ月ほど続け、ご遺骨を塔の横にある壕に納めたそうです。

ところで、金光教の遺骨収集奉仕活動の運営を一手に担い、26年間続いた運営委員会時代に、昭和29年(1954年)9月に「南冥の塔」を建立された、この解説文に書かれている岡山県出身である日系二世の米兵ヤマモトタツオ氏を、米国から招聘して「南冥の塔」前での慰霊祭に参列して頂こう…。という動きが金光教遺骨収集運営委員会で持ち上がりました。

もう何十年前になるでしょうか、私は昭和61年(1986年)1月から金光教の遺骨収集に参加させて頂いてますが、初参加から数年を経た頃であったと思います。少し記憶がぼやけて来ていますが、その頃に金光教でもヤマモトタツオ氏招聘の足掛かりを掴むべく、米軍及び米軍軍属の方々の金光教遺骨収集参加状況を一元的に任されていた、米軍軍属のブレブル松枝さんという方を通して、米国で「ヤマモトタツオ氏を捜しています」と新聞投稿をして広く情報を求めたのです。その結果、ついに日系二世の米兵ヤマモトタツオ氏の所在を突き止められたそうですよ。しかしながら、その結果は…。

ヤマモトタツオ氏ご本人は戦闘疲労症(PTSD)になっており、「訪問は止めてほしい」と、氏のご家族の方が直接述べられたと聞いております。戦闘疲労症(PTSD)と言う言葉を知っていた私も、こうした事実と結末に衝撃を受けた記憶があります。戦争を戦い抜いて故郷に帰って尚、戦闘で負った心の傷みの深さに思いを致す時、ヤマモトタツオ氏のいくばくかの忘却への道筋と、心の安らぎとを祈らずには居られませんでした。

昨年の沖縄遺骨収集から今日までの一年の間に、十数冊程度の沖縄戦関連本を読ませて頂いたのがですが、その中の二冊米軍側から見た沖縄戦、即ち沖縄戦を戦った米軍側兵士が書いた本、そして沖縄戦を戦った米軍側兵士の息子が書いた本を読む機会に恵まれました。

沖縄戦を戦った米軍側兵士の本二冊を読んでの一番の驚きは、故郷に帰還してからもずっと、戦闘疲労症/心的外傷後ストレス障害(PTSD)で苦しみ続ける将兵が数え切れないぐらい大勢居ると言う事実でした。戦争で精神が壊れてしまった帰還米兵と、その家族の出口なき苦悩‥‥。戦争当事者である帰還米兵が復員後、酒やドラッグに溺れその後の人生を棒に振ると言うのは、これまでにも頻繁に聞く話でしたが、帰還米兵の家族、特に子供達にも深刻な被害が及んでいる事実を初めて知ったのです。

ご存じのように、沖縄戦の天王山と言えば日米相互に、慶良間チージ即ちシュガーローフの戦いと言えるでしょう。シュガーローフの戦いとは、独立混成第44旅団隷下部隊である独立混成第15連隊と、進撃して来た米第6海兵師団とが激突した天下分け目の激戦地ですよね。字安里の北に位置する丘陵地帯に築かれた日本軍の陣地の攻防で、日本軍は「五十二高地/すりばち丘」、米軍は「シュガーローフ」と呼んだ場所での激闘ですし、その横にはハーフ・ムーンもあります。

激闘が続いたシュガーローフの攻防は、「5月12日から一週間にも及び、一日のうち四度も頂上奪取の争奪戦がくりかえされるなど、激戦の末、18日には対に米軍側に制圧されました。しかしながら、この激闘で米軍側は2,662人の戦死者と、1,289人の極度の心的外傷後ストレス障害(PTSD)兵を出した」と、同地、慶良間チージにある解説文にも刻まれているのはご承知の通りです。

米軍側のこうした心的外傷後ストレス障害(PTSD)への罹患は、沖縄戦だけをみても、「戦闘外」傷病者として分類された精神障害者は26,221にも上り、また広く第二次世界大戦で見ると、戦争神経症の治療を受けた米兵は約140万人に上り、地上部隊の37パーセントの兵士が精神医学的な理由から除隊になったと言われています。

米国は沖縄戦を含む第二次世界大戦後も懲りずにベトナムをマッチポンプで攻撃しました。米国がベトナムに惨敗すると言う結末でした。因みに、心的外傷後ストレス障害(PTSD)と言う診断名は、ベトナム戦争からの帰還米兵が数え切れないぐらい罹患した事から命名された病名です。米国はそしてまた、アフガニスタンとイラクへと軍事侵略し続けました。侵略に大義が無いまま、こちらも惨めな負け戦になりました。

こうしたアフガニスタンとイラクからの帰還米兵もまた相当数が深刻な心的外傷後ストレス障害(PTSD)に苦しみ、同地からの帰還兵二百万人の内、五十万人が精神的な傷害を負ったとされ、米国の自殺者数年間約3万人の内、帰還米兵の自殺が約25%を占めていると言う記事を他の雑誌で読んだ記憶があります。帰還米兵は日々自殺していて、その数はアフガニスタンとイラク戦争で戦死した兵士の数を上回るとも書かれてもいました。

それでは、ここから冒頭でご紹介した、沖縄戦を戦った米軍側兵士が書いた本、そして沖縄戦を戦った米軍側兵士の息子が書いた本の本文の中に書かれている、復員してからも戦闘疲労症/心的外傷後ストレス障害(PTSD)で苦しみ続ける兵士とその家族に関わる記述部分を抜粋し転載させて頂きます。

「泥と炎の沖縄戦」

E.B.スレッジ著 琉球新報社 平成3年(1991年)12月初版

この本の著者は、ユージン・B・スレッジ氏で、大学在学中に太平洋戦争が勃発した事により、彼はすぐに海兵隊に志願しました。そして訓練を受けた後に、第一海兵師団第五連隊第三大隊K中隊配属の兵士として、ペリリュー島と沖縄での日本軍との戦闘経過を綴った一兵卒の戦争観であり前線での戦闘体験記です。この本は皆様にも是非購読をお勧めしたい一冊です。同著は長らく絶版でしたが、2008年に訳者も変えユージン・B・スレッジ氏著「ペリリュー・沖縄戦記」として、新たに講談社学術文庫からも刊行されましたね。

著者は上陸後、首里戦線である沢岻、安波茶、大名高地、そして真嘉比――天久戦線のハーフ・ムーン(大道森)などで、死を恐れぬ日本軍兵士と戦った様相が綴られています。泥濘としのつく雨に打たれながら、信じられない程の勇敢さで突撃してくる、何時眼前に現れるかもしれない日本兵を極度に恐れ、血と悪臭、恐怖と苦悶と言う凄惨な様相に身震いするほどの酷い戦場だったと述べています。驚く事に、米兵の中には恐怖の余り戦線を離脱したかったのでしょう、銃で自分の足を撃つなどして偽装負傷した兵士も相当な数に上ったと書かれています。

沖縄戦では、米軍側も多大な犠牲者を出しながらも首里を陥落させ、著者も前線での戦いは終わったと思い安堵したのもつかの間、再度の地獄を見る事となったのです。即ち悪夢の島尻南部戦線、国吉台地でも激闘につぐ激闘となり、米兵も再び多数の死傷者を出すに至ったのです。このような目を背けたくなる地獄のような惨状に、著者はくるりと向きを変えて一目散に逃げ出したかったと語ります。島尻南部戦線では、米軍側も6月11日から18日にかけての国吉 ―― 与座 ―― 八重瀬岳での激戦で第一海兵師団は千百五十人の死傷者を出しました。

著者は「まえがき」で、わたしの脳裏には、太平洋戦争での経験が絶えず頭をもたげる。それをそのままにしておくことは心の負担でもあった。だが時が心の傷を癒やしてくれるのか、心臓が動悸を打ち、脈拍が速くなって冷や汗をかいて目を覚ますというあの悪夢を見ることもなくなった。いまやわたしは苦痛を伴う作業ではあるけれども、この物語を書けるようになったのである。仲間で無傷を帰ったものはひとりもいなかった。多くのものがその生命を失い、多くのものが健康な体を傷つけ、またなかには健全なる精神を損ねたものも出てきた。生き残ったものはみんな、忘れようとしても忘れることのできないあの恐怖をいつまでも思い出すだろう‥‥。と述べています。

それでは、同著の戦闘疲労症/心的外傷後ストレス障害(PTSD)に関わる部分を、私の判断でピックアップし転載させて頂きます。

(207頁)
砲弾の炸裂音や爆風により障害を来たした兵のなかには、ひとりで歩けるのもいたが、どうしても手助けを必要とする者もいた。まるで夢遊病者みたいで、手をとって道を教えなければまともには歩いて行けないのだ。方向感覚を完全に喪失しているのである。

またショックと恐怖で目つきが狂っているのもいた。そのほかにも、わたしがよく知っている連中だが、こちらが一体だれなのか、さっぱり認識できない痴呆症になったのも、さらには「こわさ」そのものを感じなくなっているのもいた。

砲弾はそのさく裂音や爆風などで、文字通り彼をわたしたち普通の人間とは違う精神状態に揺さぶり落としてしまったのだ。

故郷に帰れなかったものの中には、恐らく治る見込みもないまま精神的に忘却のかなたに追いやられて残る半生を傷痍軍人として生ける屍となって病院で過ごさねばならなくなった人たちもいたであろう。

戦闘疲労症の場合も、これまた悲惨だった。自分がどこにいるのか、さっぱり分からない分離症のケースから、しょっちゅうすすり泣きをしているもの、さらに絶えず大声でわめき散らしてばかりいるもの等々、さまざまだった。

(212頁)
あれほど本国に帰還したがっていた連中が、いざ帰ってみると、もう一度志願して戦地に戻りたいという ―― わたしにとって、正直、信じられない話であった(実際に再志願して戻ってきたのもいた)。

彼らは戦争は、いやというほど経験している。だが娑婆の生活や何につけ不自由のない本国の兵営生活に自分を適応させることは大変な苦労を伴うものだったのだ。

本国に帰還した戦友たちの手紙には ―― わたしもまた実際に帰還して同じことを感じたのだが ―― 人々が、アメリカはダメだとか、コーヒーがぬるい、列車やバスを待つのに列をつくらなくちゃいかん、とか、いろいろ些細なことで、だらだらぐちをこぼしているのはまったく理解できない、というのもあった。

(307頁)
米軍の損害は全部で戦死または行方不明者七千六百十三人、負傷者は三万一千八百七人をだしていた。「戦闘外」傷病者として分類された精神障害者は二万六千二百二十一人にも上った。この数字は恐らく太平洋戦域におけるどの戦場よりも高いものであろう。

原因は二つある。その一つは、日本軍は米軍がそれまで太平洋戦で経験したことがないほど大砲や曲射砲による猛砲撃をしてきたこと、もう一つは、狂信的な敵との接近戦が長期間にわたって繰り広げられたことである。

海兵隊(海軍派遣の医療チームも含む)の全死傷者数は行方不明も合わせて二万二十人であった。

第一海兵師団の沖縄戦の損害は大きかった。公式記録では七千六百六十五人の戦死傷および行方不明となっている。だが、補充兵のなかには、数は確定できないがまだ隊員名簿にも登録されないうちに戦死した者もいたのである。

師団のペリリューでの戦死傷者が六千五百二十六人で、沖縄でのそれが七千六百六十五人だから、合計一万四千百九十一人になる。統計上の数字だけからいえば、師団の歩兵部隊は、この二つの戦場で百五十%の死傷者を出したことになる。

「泥と炎の沖縄戦」から転載させて頂きました

「日本兵を殺した父」 ピューリツァー賞作家が見た沖縄戦と元兵士たち

デール・マハリッジ著 藤井留美訳 (株)原書房 平成22年(2010年)初版

著者はデール・マハリッジ氏で、彼のお父さんであるスティーブ・マハリッジが、沖縄戦では、海兵隊第六師団L中隊(通称 ラブ中隊)の兵士として日本軍と戦いました。著者によると、父であるスティーブ・マハリッジは、良き父親であろうと努力を重ねていたのは承知していましたが、「スティーヴ・マハリッジの身体には二人の男が同居しているようだった。ひとりはどす黒い怒りに燃える野獣のような男。だがいつもは良き父親になりたいと願うもうひとりの男だった」と述べているように、喧嘩ばかりしていて、目が合っただけでこぶしが飛んでくるような荒んだ日常であったようです。

著者は父が沖縄で何を体験し何を見たのか‥‥。それを知りたくなり、自宅に於ける父の仕事場に常に置かれていた、父と戦友の一人が並んで写っている一枚の写真を頼りに、海兵隊第六師団L中隊(ラブ中隊)所属兵士に沖縄戦の様相を聞くべく、何年掛かろうとも彼ら一人一人を見つけ出すと決意し、何百本と電話を掛けまくり、何百通と手紙を送りまくったと言います。著者による父の沖縄戦に纏わる旅は12年に及んだそうですが、大きな成果も得られました。その成果を第三部 十二名の海兵隊員と題して証言を収録しているのが、この本の一番の特徴と思えます。戦争で受傷する心的外傷後ストレス障害(PTSD)を語る上で、この証言集が極めて貴重な意味を持つと私は感じました。そして著者は最後には、沖縄まで訪ね沖縄戦従軍兵士の証言をトレースし、父への追憶の旅を続けたのです。

著者は使命感にも似て、この本を書いた動機を次のように語っています。「第二次世界大戦が終わり、大勢の男たちがアメリカに帰還した。けれども『良い戦争』の名のもとに無数の美談が語られるばかりで、遠い海外で男たちがほんとうに経験したこと、そして彼らが家に戻ったあとのことは無視されている。帰還兵が引きずる心と体の苦しみを、ともに背負わされる家族も多かった。私たち子どもにとっては、戦争で傷ついた父親のもとで育ったこと自体、戦争の二次被害だったと言える。この本は、ひとつの戦争の出口を、一個人の視点から報告した本だ」

第一部 父の戦後
(23頁)
スティーヴはカリフォルニア州にある海兵隊訓練基地、キャンプ・ペンドルトンに送られた。

そして1946年はじめ ―― スタークウェザー・アヴニュー798番地に戻ってきた若者は、家族から見るとまったくの別人だった。無口で陰気で、しょっちゅう酔っ払っていた。それから4年間、スティーヴは酒びたりだった。

スティーヴの「帰郷」は暖かく迎えられたわけではなかった。戦争から戻ってまもないある日、彼はロシア農民の救いのない心理構造を目の当たりにする。たまたま路上で会った老女が、スティーヴの足元につばを吐きすててこう叫んだのだ。「なんであんたが戻ってきたんだ! いい子はみんなあっちで死んじまった!」

同じころ、ウォッシーと呼ばれていた兄のビルが、姉のヘレンの頭を殴りつけた。戦争前からよくヘレンを殴っていたのだが、このときはスティーヴがつかみかかった。スティーヴはナイフの先をウォッシーののどに押しつけ、今度ヘレンに手を出したら「ぶっ殺す」とどなった。

戦争から帰ったスティーヴは喧嘩ばかりしていた。理由は何でもよかったし、理由はないことがほとんどだった。目が合っただけでこぶしが飛んでくる。スティーヴは博打を仕切り、犯罪にも少なくとも一度はは手を染めた。トラック部品をくすねたのだ。そのころの写真を見ると、自暴自棄でまるで野獣のような目をしている。人殺しか自殺でもしかねない、ただならぬ光を放つ目だ。

その目の奥でいったいどんな思考が働いていたのか?

それは知る由もないが、ウォッシー伯父は二度とヘレン伯母に手をあげることはなかった。

スティーヴ・マハリッジの身体には二人の男が同居しているようだった。ひとりはどす黒い怒りに燃える野獣のような男。だがいつもは良き父親になりたいと願うもうひとりの男だった。

父が釣りを始めたのは私たちが生まれてからで、父親になるために釣り竿を手にしたのではないかと私は思っている。父は子どもの父親になるという、途方もなく大きな仕事に挑戦していた。

(27頁)
父は私に怒るとき、新兵訓練だとえらい目にあうぞと脅すことがあった。キャンプ・ペンドルトンで、パンツをちゃんと洗わなかった新兵がいた。すると指導役の軍曹は、パンツにこびりついた大便を口で取られたそうだ。

「おまえも同じ目にあうぞ! 根性を叩きなおしてもらえ!」父は吠えた。パンツの大便を口で取らなくてはならないのか。そんなときはかならず母が割って入り、この子にかまわないでと父に食ってかかった。母は御しやすい女でもなければ虐待に耐える妻でもなかった ―― いつも父に反撃し、激しく口論していた。父が怒りを爆発させても、されるがままにはならない。母の怒りは父が原因なのか、それとも父が増幅させただけなのか、それはわからない。さらに言うなら、父の苦悩があふれだして私の感情にも影響を与えていたかもしれない。ただ歳月が過ぎたいま振り返ってみると、わが家のすべての怒りは父の爆発から始まっていたような気がする。

(80頁)
人と人との関係では、おたがい相手を求める強さがちがうことがままある。私も時間がたってやっとわかった。父の人生のなかで母は大きな位置を占めていたが、母にとってはそれほどでもなかった。戦争のあと、父のよりどころは母だった。四年間の酒びたりの生活から抜けだせたのは、母に出会ったからだ。私たち兄弟も生まれた。父は自らの異常性をひた隠しながら、戦場で受けた脳の損傷と忌まわしい記憶がつくりだす怒りの悪魔と戦いつづけた。悪魔に屈しないための盾のような役割を、母は(そして私たち子どもも)引きうけさせられた。

そのために母が支払った代償は大きかった。母の死後、ひとつだけ私が確信したことがある。それはグアムと沖縄での父の体験を、本気で突きとめねばならないということだ。マリガンの遺書のありかがわかればそれで終わりではない。あの戦争で父が果たした役割をすべて把握しなくてはいけない。戦争が父母の結婚生活に大きな影をおとしてきたことに、私はようやく気づいた。母の人生を変え、この家で育った子どもたちの人生を決めた戦争は、いまの私にも続いている。

第三部 十二名の海兵隊員
(135頁)
「日本人はいまも憎いですか?」
「ああ。いいやつは死んだやつだけだ」
「ずいぶんはっきりした答えですね」
「日本食は食べないんです」とジムが補った。
「俺が行くフレッドメイヤーというスーパーに、日本人の若造がいるんだ」とグラーナートは話し始めた。「俺はそいつを見かけると、頭をぶち抜きたくなる。レジ台にそいつしかいないと、カートを置いて店を出るんだ。まだ19か20ぐらいで、戦争で俺たちが撃ち殺したジャップによく似ている」
「こうやって話すのは良いことなんです」ジムは、今度は父親のいる前で言った。「父のこうした怒りを、母はついぞ理解できなかった」
「戦争から帰ってきた俺は別人だった」とグラーナートは言う。「19歳で軍隊に入ったのに、復員したときは年寄りみたいだった」

(166頁)
「わからんな。そのころ誰かに言われたんだ。PS 何とかって」

「PTSD」

「PTSDか。とにかくそれは、戦争が終わってすぐになるとはかぎらんそうだ何年もたってから出ることもある」

(172頁)
1946年から50年までのあいだ、スティーブ・マハリッジとドェームス・ラフリッジは二人とも飲んだくれの廃人だった。父もビジネスカレッジ、いまで言うジュニアカレッジに入学したが、結局中退している。がんばって続けるべきだと母は諭したが、彼女が考えていたようなやる気の問題ではなかった。脳震盪の影響、もしくはPTSD、その両方だったかもしれない。ラフリッジにくらべると父はがんばってやり遂げたほうだが、ひと皮めくれば、戦争で頭がいかれた海兵隊員の顔が隠れていた。母がいなかったら、父も酒と喧嘩と博打に明けくれていたかもしれない。

(202頁)
戦争アイテムの収集にとりつかれていたハイグラーだが、訪問するたびに、戦死した部下の遺族の話もしきりと聞かされた。遺族の多くは、ハイグラーがまめに書いてよこす手紙に感謝していた。しかし何年かして、ひとりの未亡人から断りの連絡が来た。もう忘れたいので、お手紙はご遠慮ください。
「そのとき気づかされた。こちらは年を重ねていくが、死んだ者は変わらない。戦争の本当の悲劇は、あとに残された家族だと思う。父や母、兄弟姉妹だ。ひとりの兵士の死は、彼につながる大勢の人の人生も変えるんだ。死ぬほうは一瞬で終わっても、残った家族はそうはいかない。死んだ兵士には立派な記念碑も立つが、家族にはそんなものはないうえに、苦しみははるかに大きい。復員軍人の日のパレードや、戦没将兵記念日の式典を見るたびにに、そういうほんとうに大事な視点が抜けおちていると思うんだ。私はあれこれ話すのもそのためなんだよ。戦争が終わった直後、私は心に誓った。死んでしまった兵士に思いを馳せる人間がいることを、その母親や未亡人に知らせてあげようと」
「私は反戦主義者ってわけじゃない。平和主義者ではなおさらない。だがこういうことを考えると、イラクとアフガニスタンにおいそれと戦争に行けないと思うんだ」

(207頁)
『臆病な海兵隊員』、この本によると、第二次世界大戦で戦争神経症の治療を受けた兵士は約140万人。地上部隊の37パーセントが精神医学的な理由で除隊になり、脱走者も相当数にのぼる。ただし「脱走および戦争神経症」を理由に死刑になった兵士は一名だけ。銃殺刑だった。「私をはじめ、戦争で神経をやられた多くの兵士たちが、エディ・スロヴィクに同情する。彼は恐怖におびえていたのだろう‥‥私もまた怖がりで臆病な海兵隊員だった」

第二次世界大戦で神経がいかれた兵士は大勢いるが、この問題が大っぴらに語られることはめったにない。2005年に出版された『臆病な海兵隊員』を、私はむさぼるように読んだ。筆者の気迫がありありと伝わってくる。晩年を迎えたランチョッティは、「良い戦争」が持っている禁じられた一面 ―― 戦場での狂気 ―― ほ勇敢にも暴きだした。

(229頁)
私は、あれだけ大きな損害をもたらしたシュガーローフ・ヒルの戦術について質問した。

「あれはばかげた戦いだった。やっちゃいけないことばかりだった。俺たちは何度も疑問に思ったよ。あんな丘、迂回して行けばいいじゃないかと。周囲に陣地を張って、二十四時間監視して孤立させればよかったんだ。それだって簡単じゃないがね。バックナー(中将)はもっと早くことを進めるべきだった。そうしたらもっと大勢が助かったよ。行かなくてもいい場所がたくさんあった。オキナワだけじゃない。ほかの島でもそうだ」

(237頁)
記録には、ロスブロックは「爆風による脳震盪、神経過敏で戦場の夢をよく見る」と書かれていた。

「背後から小声でささやかれると、100メートル飛びあがりそうなぐらい驚いてしまう。そんなことが長く続いた」

家に帰ったロスブロックは、「おまえ、気難しくなったな」とみんなに言われた。

1963年に神経衰弱になった。結婚して子どもを二人(ナンシーとリタ)もうけ、家を買ったばかりだったのに、神経が完全に参ってしまった。ロスブロックは安定した職を失った。そのころ父も亡くしている。ロスブロックはいまで言うパニック発作に見舞われるようになった。最初の発作が起きたのは、休暇でニューヨーク州横断高速道路を走っていたときだ。誰かが頭の上にどっかと居座り、下あごが胸にめりこむような感覚に襲われて、ロスブロックは家に引きかえした。診察した医師はこう言った。「オキナワで起こっているはずの発作がいま出たんだよ」

「三週間、仕事に行けなかった。玄関から外に出るのがたまらなく恐ろしい。車の運転もできない。ハンドルを握っていると、いろんな考えが次々と押しよせてくるんだ。食事ものどを通らなくなった。」

医者も転々としたロスブロックだが、地元の聖職者に会いにいったことが打開のきっかけとなった。「もう何がなんだかわからないんです。仕事も失いそうで、家族をやしなえるかどうか心配でたまりません。戦争のことがあれもこれもよみがえってきます」すると聖職者は言った。「ジョー、これだけは言っておくよ。覚悟を決めて無用の考えを頭から追いだし、仕事に戻りなさい。さもないと病気はどんどん悪くなって、最後は死んでしまうだろう。家族は一か月も泣き暮らすことになるよ。だけど半年もしてごらん。周囲の連中は、あいつは何て名前だっけ? となる。世の中の流れは速いんだ」

その聖職者はほかにも多くの復員兵と接していた。だから第二次世界大戦でどんな経験をしても、周囲はすぐに忘れると言いたかったのだろう。

(266頁)
ブラザーズは野戦病院に収容され、退院するころには戦いは終わっていた。島の南部はすさまじい激戦だったと彼は言う。

「そこで何が起きているのか、行ってみるまで知らなかった。バックナー将軍もわかってなかった。情報伝達が機能していなかったんだ。彼ら(日本兵)はそこに集中していて、しかも決戦の構えだった。半歩進むごとに日本兵が出てきた」

「正気の沙汰じゃなかったよ。これだけは言っておこう。日本人は筋金入りの軍人だ。あの島で、私らはほんとうに手ごわい敵を相手にした。ちょっとやそっとじゃ倒せない。死ぬと覚悟を決めたとき、きみならどうする?」

(302頁)
二度にわたる外傷性脳損傷のせいで、オハイオ州ノース・ロイヤルトンにあるひとつの家では第二次世界大戦は終わらなかった。沖縄のあとも、仁川、ヴェトナムのダックトー、そしてアフガニスタンのトラボラで起きた戦争で、アメリカ全土にそんな家庭が無数に生まれた。戦争は外傷性脳損傷と外傷後ストレス障害の生産工場なのだ。

戦争から戻ってきた父は、それまでと別人だったのだろうか。2011年、私はクリーヴランドに住む父方の伯母ヘレンを訪ねた。マハリッジ家の人間は個人的なことを話す性格ではないが、確かめてみたくなったのだ。スタークウェザー・アヴニューの家も子どもが育つ環境としてはいまひとつだったが、父の兄弟姉妹のなかに突然怒りだす人はいなかったと思う。

ヘレン伯母さんは驚くほど率直に話してくれた。戦争のことをたずねたら、すごい勢いで黙れとどなられたという。
「だから、私たちは戦争の話は二度としなかったわ」
「戦争前とは変わってた?」

まるで別人、と伯母さんは答えた。ふだんはとてもおとなしいのに、ときおり怒りを爆発させるようになったという。父が中国から帰還したのは1946年だが、それからまもなく、ヘレン伯母さんが女友だちと遊びに出かけたことがあった。たまたま顔見知りの男の子たちと会い、しばらくおしゃべりしたという。帰宅したヘレンは、どこに行っていたんだとスティーブから詰問され、男とちゃらちゃらするなと殴られた。いきなり爆発したように暴力を振るわれて、ヘレン伯母さんは大きなショックを受けたという。スティーブは戦争前からそんな性格だった?

「まさか。戦争前はそんなことをする人じゃなかったわ」

「日本兵を殺した父」から転載させて頂きました

この本には、半分ぐらいのスペースを割いて、グアム戦と沖縄戦に従軍した米兵の証言が掲載されている章があるので、主要な証言をピックアップし下掲で転載させて頂きます。サイト管理人にとっても、この証言集は往事にタイムスリップしたかのように、眼前で展開されるリアルな沖縄戦を想起させるものでした。

私はこの本を読み終えて、まず冒頭で申し上げたいのは、沖縄戦を含めて大東亜戦争での戦場に於いて、米軍兵士の日本軍兵士への振る舞いに、米国における黄色人種たるアジア系人種への差別の歴史、そうした背景が如実に反映されているのがよく理解出来ました。米兵の証言は、沖縄戦から七十余年を経ても尚、白人優越意識が剥き出しであるのが判ります。当時の米兵は当たり前のように日本人を「ジャップ」と呼んでいたし、「善良なジャップは死人のジャップだ」が、沖縄だけでなく東南アジア戦域での米兵の常套句だったのです。

また証言集を読むと、米軍は武器を棄て両手を挙げて投降してきた日本軍兵士を捕虜とせず、ことごとく殺害したと言う事実は間違いないようです。下掲の米兵の証言でも、「作戦終了の直前にも捕虜殺害があった」と記述されていますから、占領を宣言した6月21日直前でも捕虜殺害が行われていたようです。こうした事から推測すると、戦場の場所により、或いは所属部隊により、日時は多少前後するにしても、日本兵や沖縄県民を捕虜として受け入れ始めたのは、米軍が沖縄島の占領を宣言した6月21日頃、即ち摩文仁や喜屋武岬に追い詰められた将兵や避難民に向けて、拡声マイクで投降の勧告をし出してからだと推測されます。

沖縄や本土の識者の中には、米兵は捕虜になった者たちを極めて人道的に扱ったと高く評価する論調もありますが、同著の沖縄戦従軍兵士の証言をみる限り、東南アジア戦線で受けた日本人への扱いと同様に、米兵は軍服を着ていない沖縄県民たる女性や子どもに対して、容赦ない態度をとっていたのが判ります。米兵達には「動くものはみんな撃て」との命令が出されていたのです。

実際に著者も文中でその点に触れていて、戦争における民間人の犠牲について、沖縄戦も例外でなかったとした上で、「大国アメリカの歴史を振りかえると、軍部も市民も民間人の犠牲は看過してきた。沖縄でもそうだったし、いまも変わらない。ジョン・ターマンは自著『他者の死 ―― アメリカの戦争における民間人の運命』のなかで、そうすることがアメリカ人にとって「好都合」なのだと指摘する」と述べています。

また証言集では、米兵が死んだ日本兵に対し戦利品あさりに夢中になったり、銃床で口をこじ開けるなどして金歯を抜いて持ち去るなど、死体に対し虐待していた場面も、数え切れないぐらい多く登場しますが、ここでは、こうした米兵の日本兵に対する目を覆いたくなるような蛮行を訴追するものではない事をあらかじめお断りしておきます。

その上で、本来なら米軍の巨大な破壊力を伴う艦砲の砲撃を浴び続け、且つ人体が全て灰に帰す火炎放射攻撃や、肉体や骨まで全てを焼き尽くすまで燃え続ける黄燐弾・白燐弾、そして猛火炎で酸素を断ち、更に一千度の熱風を浴びせて焼き死すナパーム弾の被弾等々による惨状を目の当たりし、死への恐怖に震え上がった日本兵の側にPTSDが激発してよいはずなのに、沖縄戦に勝利した米兵側に重篤な精神障害を来した兵士がかくも多く生じたのか ―― 私は、この証言集の中にその答えを見たのです。

著者は、この点に関して文中で言及されていませんから、著者本人も気づいていないように思えます。沖縄戦に勝利したはずの米兵側に、重篤な「戦闘外」傷病者として分類された精神障害者が、その数なんと26,221人も続出したのです。と言う事で、サイトを閲覧して下さっている皆様も、米兵側にのみ心的外傷後ストレス障害(PTSD)者が続出した原因が奈辺にあるのか考察してみて下さいませ。

因みに、この証言集に掲載された米兵の証言を読みつつ、米兵の向こう側で対峙し勇敢に戦った日本兵の悲しい結末に、私は幾度か泣き‥‥。繰り返される米兵の蛮行や、日本人の蔑称である「ジャップ」とか「ニップ」とかを、今でも履き捨てるように使うさまに、途中で本を床に叩きつけたくなった事を申し添えておきます。

それでは、沖縄戦に従軍した米兵証言を一部ピックアップし転載させて頂きます。

(100頁)
(サイト管理人注:グアム島に関わる証言です)
1944年7月21日の上陸に向けてグアム島をめざしていた重巡洋艦サンフランシスコで、L中隊のチャールズ・レパントはクレア・シスラー中佐から指示を受けていた。

「ごたごたした食堂に大きな地形図をひろげてね」とレパントは六十年前を回想する。「いまでもはっきり覚えているが、最後に中佐は言った。『敵の捕虜にはなるな。敵を捕虜にもするな』」

(87頁)
(サイト管理人注:グアム島に関わる証言です)
グアム島の戦いでアメリカ軍の戦死者は1744名、負傷者は5308名になった。最初の戦闘で日本軍は19071名が戦死し、ジャングルに潜んで抵抗を続けていた6000人もその後掃討されていった。
記録では、戦闘中、もしくはその直後に捕虜になった兵士はいなかったようだ。アメリカ軍は日本兵が最後のひとりまで戦ったと宣伝し、多くの歴史家もそれを信じている。なるほど日本の武士道精神ではそう教えているが、そんなことに構わず投降した兵士もいた。

グアム島では、彼らはアメリカ軍将官の命令で処刑されたのだ。捕虜として他の島に連行された者はごく少数だった。要するに兵士は投降後に殺されたということだ。そうなると残った日本兵は「死にものぐるい」で戦うしかなく、アメリカ軍を本土攻撃へと駆りたてることになった。

(107頁)
日本兵は道の外に連れだされた。「海兵隊員たちは、動こうとしない日本兵をライフルの銃床でこづきまわし、ぬかるんだ道に立たせた。日本兵は懇願するような調子で何か言っている。それでも行け! 行け! と言われ、しかたなく歩きだした。五人が引き金を引いた。俺は人として見ていられなかった。バンバンバン! 捕虜にすることもできたのに、射殺してしまった。あの兵士も誰かの父親か、夫だったろうに。俺が生きたいと思ったのと同じぐらい、あいつも生きたかったはずだ」

(121頁)
「ジャップの捕虜が連れてこられた。陰部を切られた海兵隊員の死体があって、その近くにいたジャップを捕まえたらしい。シスラー(中佐)が言った。こいつを連れていけ、おまえたちの好きにしろ。ジャップは道を走らされ、背後から狙い撃ちされた。むごいやりかただった。シスラーはこのせいで降格になったよ。あとで調査が入って、海兵隊員は手榴弾で死んだこと、陰部は切られたんじゃなくて吹きとばされたんだと判明した」

(125頁)
「どうするつもりだ?」
「撃ち殺そう」
「こんな赤ん坊をか?」
「俺がやるよ」とケネディは言った。
「だめだ。許さん」
「どうしてもジャップを助けるというのなら、お前を撃つぞ」
ケネディはピストルを抜き、顔色ひとつ変えずに赤ん坊を撃った。片方の子には二発も撃ち込んだ。
「このことをしゃべったら、お前を殺すぞ」とケネディは釘を刺した。やつは本気だ。そう思うとグラーナートは恐ろしくて、口をつぐむしかなかった。

(126頁)
数日後、ケネディがグラーナートのところにやってきた。これから何人かの仲間と、近くの丘で母親と暮らす少女をねじこみに行くという。(※サイト管理人注:ねじこみとは強姦の意です)
「俺は行かない」グラーナートは嫌悪感でいっぱいだった。「そんなことはしたくない」
「連中は出かけていき、二時間ほど帰ってこなかった。少女はケネディが持っていたピストルを奪うと、こめかみに当てて引き金を引いたそうだ。強姦されるぐらいなら死んだほうがましだと思ったんだな。だがケネディは弾を抜いていた。彼女は別の兵士の腕に噛みついた。やつらは母親を地面の穴に押しこんで、出られないようにした」

(137頁)
「この話をしてもいいのかどうか」パルマザーニは口ごもった。「投降してきた少尉がいたんだ」
「日本軍の?」
「ああ。カリフォルニアのスタンフォード大学を出ていて、俺より英語がうまいもんで、思わず言ったよ。何なんだ。こいつは? ってね。俺じゃなく別の誰かが捕まえて、大佐のテントに連れて行った。大佐はそいつを調べたあと、俺に言った。救護所の下にある営倉に連れていけ。ぐずぐずするんじゃないぞ」

だが営倉はなかった。

少尉はラッキー・ストライクをくれと言いだした。しかし海軍のシービー(建設工営隊)からもらったのは一箱四本入りのウイングズだけだ。「ウイングズならあるぜ。どうだ?」パルマザーニはそう言ってウイングズの箱を出した。箱には二本残っていたから、一本やるつもりだった。ところが少尉は「いや、ラッキー・ストライクがほしい」と言いはる。
「だから俺は、そんなにラッキー・ストライクがほしけりゃやるよと言って、銃剣をやつの首に突きさした」パルマザーニは一瞬押しだまった。「やつを殺したんだ。死体は穴に転がした。それで終わりだ」
「面倒なことにならなかったんですか?」
「大丈夫だった。どっちにしても殺されていたからな。俺でなくても、誰かがやった」
「気はとがめなかった?」
「いや」返事は速かった。「まさか。やつらを生かしておくなんて胸糞悪かった」
「いま日本人のことをどう思ってます?」
「変わらんよ」
「グアムでは捕虜は取らなかった?」
「ひとりもね」

(140頁)
パルマザーニが火炎放射器を使ったのは島の南部だった。

どれくらい噴射したかと問われると、「たくさん」としか答えようがない。コンクリート製で上部に細い開口部があるトーチカや、地元民の墓、壕に噴射しまくった。
「目標物の正面に立ち、まず手榴弾を投げこむ。白燐弾や榴散弾だ。それからナパーム弾をお見舞いした」

どうして白燐弾を?

「白い煙幕が充満して、息ができなくなるんだ。さらに榴散弾を使って、いよいよ火炎放射器だ。炎がこんなふうに噴きだした」パルマザーニは両手を激しく回転させた。「ゆっくりに見えるが、実はものすごく速い。炎の長さは六メートルぐらいある。タンクは開けっぱなしだと三十分で空になる。なかにいる敵が何人でも、ナパームで焼きつくすことができた。どんなに恐れしらずのジャップでも、炎は別だ。焼け焦げになったら、誰が誰だかわからない」

ナパームの威力を物語る写真を、フランク・ハイグラーが持っていた。炎の温度は六百度に達し、死体は二四時間燃えつづけて最後は人の形をした灰になる。写真の日本兵はラブ中隊の誰かに焼き殺された。火炎放射器を扱う兵士は多くなかったから、パルマザーニだった可能性もある。
(サイト管理人注:書籍にはナパーム弾で「人の形をして灰になった日本兵」のおぞましい写真が掲載されています。とても転載する気にはなれません。こうした写真を敢えて掲載しようとする著者の気が知れません)

アメリカ軍は1960年代以降火炎放射器の使用をやめたが(ヴェトナム戦争で子どもたちが逃げまどう映像が悪印象を与えた)、パルマザーニはそれが不満だ。

(143頁)
私は話題を変えた。沖縄での日本軍捕虜のことだ。「墓や壕からぞろぞろ投降してきたが、ひとりも捕虜にしなかった。そんな時間はなかったんだ。少尉が言った。とっとと殺して、先に進め。バックナー(中将)は、島を残らず占拠せよと発破をかけていたんだ。中佐(クレア・シスラー)がそれを受けて、中隊の司令官たちに命令を出した」

この命令は、少なくとも私が調べたかぎりでは文書になっていない。ただラミュエル・C・シェパード・ジュニア少将が、海兵隊オーラルヒストリー・プロジェクトで1966年と67年の応じたインタビューの記録に、それを匂わせるような発言があった。「捕虜はほんの少しだった。なぜなら敵は最後まで戦ったから」

そこで私は質問した。「結局、半々だったということですか? 捕虜になるような兵士がいなかったのと、捕虜を取りたくなかったのと」
「そうかもな」とパルマザーニは言った。ジャップはとにかくあきらめない。捕虜の数が極端に少ないのは、こちらが生きのびるにはそうするしかなかったからだ。敵は確実に殺せと部下に教えこむ必要があった ―― やつらは異教徒みたいなものだ。ジャップを殺すのは、油断のならないガラガラヘビを退治するのと同じだった。ヨーロッパではこんな気持ちにならなかった。ドイツ兵でも、こいつらにだって家族がいるんだと思ったよ。だけどジャップは別だ。ガラガラヘビを殺すような気持ちだった。

日本兵のほうも、殺されることは承知していた。死ぬまで戦うと頭から信じて疑わなかった。アメリカ軍のほうも、捕虜を連れて移動する体制はとっていなかった。

(157頁)
俺は寝ぼけ半分で小便をしに外に出た。ときどき火の手が上がった。そのとき四、五人の日本兵が腰を低くして走ってきた。俺はそのひとりの脳天を直撃した。翌朝、戦利品をいただこうと現場に戻ったが、もう誰かに持っていかれた後だった。

ラフリッジが興味を持ったのは刀や旗だけではなかった。南に向かう途中で、彼は日本兵の死体から金歯を抜きとっている。「ほかの連中がやるのを見て、自分にもやれると思った。ベルトから下げるカンバス地の袋を、眼鏡のレンズとか、金歯とか、そういう物でいっぱいにしているやつがいたんだ」M1カービンの銃床で金歯をへし折り、ナイフをてこ代わりにしてはずす。衛生兵は歯科用のペンチを使っていた。
「何個集めたんですか?」
「片手いっぱいぐらいかな」

そう言ってラフリッジはめずらしく押しだまった。

今日五人殺したらね明日はもっとたくさんやれるかもしれない。俺はだんだんと楽しくなってきた。しかも即死させるんじゃなくて腹を撃つ。苦しみながらゆっくり死んでいくようにな。

(162頁)
「日本兵の金歯は?」
「負傷したときポケットにずっしり入ってたよ。だが衛生兵が服を脱がせるとき、俺の短パンのポケットも切りやがった」

金歯が地面にぶちまけられた。
「部隊の連中が拾ったかどうかは知らない」

(170頁)
「いま日本人のことをどう思っていますか?」
「もっと殺せばよかった」

ラフリッジは暗い声で笑った。
「やつらには同情のかけらも持たないね。他の連中と同様、俺たちと張りあってた。落とした爆弾の数はこっちが上だったがな。だがやつらはいつか戻ってくる。ドイツ人もだ。俺はそう思う。日本もドイツも、負けを認めちゃいない。戦争になる前から、俺たちに嫉妬して、憎んでいたんだ」

(182頁)
「この国は戦争好きなんだな。俺にはそう思える。自由のためにイギリスと戦い、土地を手に入れるためにインディアンと戦った。カリフォルニア欲しさにメキシコを敵に回して、まんまとものにした。自分たちが存在しつづけるために、戦いを続けてきた。国全体が戦争好きなんだ ―― そのことを認めたほうがいい」

(187頁)
ハイグラーはラニガンから聞いた話として、シスラーが捕虜の殺害を許可したことも教えてくれた。
「こいつを石打ちの刑にしろ」とシスラーは命じた。兵士たちは捕虜を道の真ん中に立たせ、いっせいに石を投げつけて死なせてしまった。このことが発覚してシスラーは第三大隊からはずされた。軍法会議にかけるかと思いきや‥‥本国に送りかえして第六海兵師団の幕僚に据え、ことをうやむやにしてしまった。その後シュガーローフで指揮官が不在になったために、シスラーは第三大隊に復帰した。

(195頁)
それでも降伏する者はいた。

「自分ではどうしようもなかったんだが、わだかまりの残る事件があった。作戦終了の直前(※サイト管理人注:6月21日の直前と言う意味と思われます)、二人の日本兵が捕虜になった。私は部下のひとりに、本部に連れていけと命じた。10分後、部下が戻ってきて『始末しました』と報告する。どういう意味かと問うと、逃げようとしたから撃ったという。そんなはずがない、おまえが殺したんだろうと思った。部下がそんなことをするなんて、とても気分が悪かった。だが自分では何ができただろうか?」

トム・プライスもこの事件を覚えていた。彼の話はこうだ。

二人の日本兵がふんどし姿で丘を下りてきた。ハイグラー大尉が部下に「後方に連れていけ。最後まで確認しろよ」と命じた。一行が坂を下りはじめてまもなく、BARの発射音がした。ハイグラー大尉は何も言わなかった。誰も何も言わなかった。

彼らがジープに乗っていったので、俺たちは歩いてコーヒーをのみにいった。道の上に倒れていたひとりはまだ息があり、目を開いていた。(捕虜を連れていくように命じられた)やつが背中を撃ってとどめを刺した。あいつは残りの人生、自分をどう思って生きていったんだろう。いろんなことを見てきた。北部で待ち伏せ攻撃をしたとき、レパントがやられたとき‥‥俺が手をかけるとしたら、首を絞めただろう。でも背中を撃ったりはしない。日本兵はめったに降伏しなかったが、あの二人はもうどうしようもないと悟って降参したんだ。でもそれが運の尽きだった。

(208頁)
ランチョッティは本好きで、詩人にあこがれていた。1942年にヘンリー・ソローの作品と出会う。生涯を通じて権威に疑いの目を向け、不信感を抱くようになったのは、ソローの影響だ。ランチョッティは高校を中退して詩を書くようになる。だが彼の人生は相反する力の綱引きだった。ランチョッティは映画館に入りびたっていた。「国策宣伝装置と化したハリウッドは、若者を軍隊に駆りたてる映画をたくさん製作していた」そんな映画を見て高揚したランチョッティは、海兵隊に志願する。1944年5月4日、パリス島でブートキャンプが始まった。

訓練を終えたランチョッティは、よりによって「シー・デューティー」入りを希望する。無名兵士の墓や、海軍の巨大艦船、あるいは大使館で護衛を務める、海兵隊の中でもエリート集団だ。
「自分が使い捨ての戦闘要員でしかないことに気づくまで、時間がかかった」とランチョッティは書いている。「一介の小銃兵、敵と顔を突きあわせて戦う最下層の兵士だ」

ランチョッティはしばらく本国勤務だったが、1944年末にはガダルカナル行きの船に乗せられた。着いたのは年が変わる直前だ。この島についてはいろいろ聞いていたので、ランチョッティは胸を躍らせていた。「ほんの数か月前にカナルの映画を見たばかりだった」

それが政府の計算だった。国策映画で盛りあげておいて、現実を見せる。戦闘が行われたら、すかさずハリウッドが映画化して国内で上映する。そこでは誰もが英雄で、かならずアメリカ兵より多くの敵兵が死ぬ。無菌化されたロマンティックな戦闘では、無名のまま死んでいく兵士などいないのである。

(210頁)
ランチョッティの小隊は壕の掃討も行った。まず白燐手榴弾を投げ込む。白燐が体について燃えだすと、ワセリンを使わないと消せない。傷ついた民間人が穴から出てきた。「燐の炎は衣服を燃やし、肉を焼いて骨に達した。その苦しみようはすさまじく、とくに子どもは見ていられない。二人の海兵隊員が大声で笑っていた。極限の恐怖に耐えきれず、残忍さをむきだしにしている。母親が赤ん坊を抱きかかえ、服についた燐を取ろうと必死になっていた。兵士たちは感覚が完全に麻痺して、人間性を置きざりにしていた。こいつらが同胞なのか? 自分だって大差ないのではないか?」
「おまえら、何をやったんだ!」ランチョッティは小銃を振りあげ、二人の海兵隊員をどなりつけた。「女と子どもしかいないじゃないか。民間人だそ」
「あと一個手榴弾を入れてみろ、おまえらの頭を吹きとばしてやる」

兵士たちは笑うのをやめた。

ランチョッティはミリタリーナイフの先で女の服についた燐をとってやる。すると下卑た連中のなかから、「アジア女が好みかい?」と野次が飛んだ。

腹から血を流してうめいている男のまわりに、兵士たちが集まってきた。男は兵士の小銃を指さし、それから自分の頭を差した。意味するところは明らかだった。

煙と悪臭、混乱と恐怖があたりの空気を満たしていた。兵士たちは男を顧みなかったが、ラフーは違った。戦死した将校が前の持ち主だった四十五口径を手に持ち、苦しむ男の頭に銃口を当てた。

(213頁)
その臭いで、今日見た若い女の死体を思いだした。身体を強打して死んだのだろう。服が吹きとばされて素っ裸になり、口や性器から蛆が湧いていた。兵士たちが笑いながら性器に棒を突っこみ、出したり入れたりするうちに、口から大量の蛆が這いだした。

(214頁)
海兵隊員が、あたりに転がる日本兵の死体から金歯を次々と抜いていた。別のひとりは兵士の耳を削ぎおとす。耳が切りはなされたとき、血が糸のようにしたたり落ちた。金歯はひもで締める布の袋にしまった。耳も同じような袋に入れていた。金歯を抜くのはペンチとミリタリーナイフで、耳はナイフ一本あればよかった‥‥。歯が抜きにくいときは、小銃の銃床を打ちおろしてから作業を続けた。

彼らがラフーに近づくと、耳を切っていた兵士を後ろから蹴りあげた。兵士はつんのめって死体の上に倒れた。ラフーは一言も発しない。やられた兵士も、振りかえってラフーだとわかると文句を言わなかった。なぜ蹴るのかと食ってかかることもしなかった。

(217頁)
(サイト管理人注:ランチョッティの告白です)
私は悟った。社会的、経済的に、そして知的レベルの面でも、自分はこの前線にいるべきなのだと。父や祖父もかつてそうだったように、この戦争が始まったときから、それが人生における自分の運命だった。自分たちは戦争で使いすてにされる人間の列にすぎない。大砲のえじき、餌になるべき人間なのだ。それは敵の側も同じこと。負け犬どうしが戦っているのだ。

プロパガンダ映画にまんまとだまされて、戦争の栄光だとか、軍に必要とされていると信じこんだ。だけどいまは、身の丈以上のことだったと感じている。

映画館で、鳥肌を立てながら戦争映画に興奮していた十代の自分はバカみたいだった。そういえば父は、あんなものはでっちあげだと言っていた。第一次世界大戦に従軍した父は戦争映画を見てもちっとも楽しくなさそうだった。いまは父の言葉が痛いほどわかる。でっちあげとは、戦争の現実を伝えていないという意味だった。

(218頁)
そのなかで私が興味を持ったのは、フレイザー・ハント著『ダグラス・マッカーサーの語られない物語』だった。この本は1954年に出版されたものの、世間ではまったく注目されなかった。それでもアメリカ国民から12,000人の死者と36,707人の負傷者を出し、26,000人をストレスで苦しめた「オキナワという無謀すぎる賭け」について、ハントはこんな疑問を投げかける。「なぜこれほど多くの戦死傷者が出たのか。それは防げなかったのか。戦術に致命的な誤りがあったのではないか。そもそもオキナワはどうしても必要な目標だったのか。近くの小さな島々を短期間で占領したほうが、深刻な損耗はなかったのではないか」

ハントはこうも書いている。仮に全長100キロ余りの島を北から三分の二まで制圧できたのであれば、残りは包囲するだけで、日本軍は飢えて戦えなかっただろう。アメリカ軍の地上戦戦死傷者の大半は、島南部にある日本軍の拠点に無謀な正面攻撃を繰りかえし、疲弊した結果出たものである。だが日本軍を自ら築いた防塞に閉じこめることもできた‥‥ただそれには、総合的な指導者が‥‥想像力と専門知識を発揮して‥‥直接的な強襲にばかり頼る旧来の手法から離れる必要があった。

島の南端を封鎖していたら、6月だけで10万人とも言われる非戦闘員の死者も出なかったかもしれない。ハーマン・ウォルター・マリガンも死なずにすんだし、私の父も二回も脳震盪に見舞われなかっただろう。

(219頁)
マッカーサーは三年にわたる激しい戦いのあいだ、海軍、空軍の双方から十分な装備を供給されなかったにもかかわらず(ハップことヘンリー・ハーレー・アーノルド元帥は、B-17より航続距離も爆弾搭載量も二倍の最新型B-29をマッカーサーに使わせようとしなかった)、彼の指揮下で戦死した兵士の数は海軍よりはるかに少なかった。しかもマッカーサーは、少なくとも25万人の日本兵を「孤立させ、放置した」のである。そこで私は計算してみた。沖縄戦でのアメリカ軍と日本軍の殺傷比率は10対1だった。もしマッカーサーが海軍と同じように25万人の日本軍と正面から戦っていたら、アメリカ軍の戦死傷者は25,000人だったかもしれない。だが実際にはそれほど多くはなかった。孤立して戦闘法放棄させられた日本兵も命は助かった。

ハントは書いている。「マッカーサーの戦略と戦術は、多くのアメリカ兵を帰還させるうえで大いに貢献した」

マッカーサーが連合国軍最高司令官となって、戦艦ミズーリ上で日本の降伏を受けいれ、さらに占領下の日本を統治する役を担ったのも、ある意味彼の正しさを裏づけるものだろう。
「海軍主導で戦った沖縄戦の甚大な被害にトルーマン大統領は衝撃を受け、マッカーサー支持に傾いていった。海軍は連合国軍最高司令官にニミッツを推していた」

(220頁)
ランチョッティはジープに乗せられて前線に戻った。そこで持ち場を離れて歩きだしたこと、部隊に戻るのに数日かかることを文書で報告した。そうこうするうちに戦争が終わった。

ランチョッティの著作によると、沖縄戦で精神疾患にかかった兵士は彼を含めて26,000人になるという。「強いストレスを受けると精神が壊れることがわかった。同じ目にあった兵士がたくさんいると自分に言いきかせたが、仲間が何人いたところで慰めにならない。若い精神科医が私に問いかけた声が、いまも頭にこびりついて離れない ―― きみは臆病者か?」

(222頁)
沖縄戦とアフガニスタンは「同じだ」とランチョッティは言いきる。「何も変わっていない。問題はそのその昔残酷な戦いがあったことじゃなく、同じ戦いが何度でも繰りかえされることだ」

クルップコルスキーが戦死したのと同じ日、ローランド・A・ラドウィグという海兵隊員も死んだのだ。
「いまでもはっきり覚えている。ラドウィグという姓でね。頭がつるつるで、まつ毛や肩は金色で、ウィスコンシン出身だった。65年もたつのにな。小さな布の袋を持っていて、ペンチ片手に歩きまわっては、死んだやつの口をこじあけて金歯を引っこぬいていた。そんなことをやるやつはごく少数だ」

ランチョッティはそう言うと冷ややかな声で笑った。そういえば父も、自分が見た残酷な場面を語るときはにこにこしていて、いまにも笑いだしそうだった。
「なんで笑ったんだろう。自分でもわからんよ。やつの袋にはかなりの金歯が入ってた。死んだとき、開きっぱなしの口から金歯が見えた。横たわった姿がいまもよみがえる。金歯を収集していた男が、いまは収集してくれと言わんばかりに金歯を見せている。金歯を抜くとか、耳を切るとか、とても褒められたことじゃない。ラフーはそういうことに怒りを覚えた。やつは負傷者を楽にしてやるために頭を撃ったが、死体をおとしめるようなことはしていない。やつは生きている人間を死体にしたが、死体を汚したりはしなかった」

(255頁)
私の父が持っていた旗にサインしたひとりが、煙草入れの小袋に入れた大量の金歯をホフマンに自慢した。
「袋の半分か四分の三は入っていた。銃剣で引っこぬいたあと、糧食の空き缶で煮沸消毒したそうだ」

ホフマンは金歯を集めていた兵士のことを「アジアティック」と呼んだ。極東に長くいすぎて頭がいかれた、という意味だ。

アジアティックになった兵士のなかには、1942年からずっと戦地を転々としている者もいた。文明から遠ざかって久しい彼らは顔つきも変わっていた。「東洋人そのものなんだ。日本人や中国人と区別がつかない。本国では白い東洋人なんて呼ばれていた」

(267頁)
ブラザーズによると、中佐はグアムで捕虜を殺害した罪で軍法会議にかけられそうになったらしい。

沖縄でも同じだった。ただグアムと違って、正式な命令は出ていない。捕虜を取らない方針は「ほのめかされた」のだとブラザーズは言う。
「いったいどうして?」
「あとから引きあいに出されて、軍法会議にかけられないためだよ。シスラー中佐はそれでえらい目にあった。だが捕虜にせず戻せといわれても、どうすればいい? どこに戻すかもわからないときは? 暗闇のなか、二人の日本兵を歩かせる。やつらは逃亡しようとする。そうなったら撃つしかないだろう。瞬時の判断だ。議論するようなことじゃない。ただ ――」
「それが現実だったということだ。私自身はやっていないが、別の誰かがやったのは知っている。立場がそうなれば自分もやっただろう」アメリカ兵の死体を運ぶトラックに、日本兵捕虜の死体も混ざっているのを何度か見たという。

「いま日本人のことをどう思いますか?」
「うちの車は三十年スバル一筋だよ」ブラザーズは笑う。

戦争が始まったとき、日本人のことは何ひとつ知らなかったブラザーズだが、それ以来本をいろいろ読んで勉強した。おかげで日本人の物の考えかたが昔より理解できるようになったという。「アメリカ、ヨーロッパ諸国、イギリスがみんな中国を狙っていて、ジャップをのけ者にしようとした。日本人はこう言いたかったんだ ―― おい、何で俺たちを締めだすんだ? パイのひと切れをもらっていいだろう? 資源の取りあい、要するにそういうことだ。戦争はそこから始まるんだよ」
「わたしたちは過去から教訓を学んでますかね」
「それはどうだろうな。この国はアフガニスタンで何をしている? また過ちを犯してると思うよ。100年前にも勝てなかったんだから、今度も勝てそうにない。いったい何のために戦ってるんだろう?」

「日本兵を殺した父」から転載させて頂きました

この本に登場する沖縄戦に従軍した12名の海兵隊員も、77年前の沖縄戦当時とテンションは同じで、相変わらずジャップジャップと日本を蔑み見下してはいるが、不遜極まりない海兵隊員達は一度我が身を省みてほしい。米国は昔も今も敵を間違える天才だと言える。防共の防波堤であった日本を叩き潰した結果を見れば、それは明らかだろう。ソ連の高笑いが米兵等には聞こえなかったのだろうか。登場する海兵隊員等は、米国に歯向かうジャップを叩き潰して溜飲は下げただろうが、続いて朝鮮戦争やベトナム戦争が自分達を待ち受けているとは予想だにしなかっただろう。

因みに米国の論調では、第二次世界大戦を「良い戦争」と表現する事がままあり、戦域で戦闘を指揮した司令官を名指しで、或いは大戦全般の戦略や戦術について批判する記事は、ほとんど目にする機会が無いのですが、著者は沖縄を訪問した際に、意図してバックナー中将の慰霊碑に出向かなかったと言います。著者であるデール・マハリッジ氏は米軍の沖縄作戦をどのように見ているのでしょうか。

(364頁)
私は太平洋戦争に関する本を数十冊読んだ。網羅的に調べたわけではないが、ダグラス・マッカーサーの戦術に対する批判的な分析は数多くあったのに対し、チェスター・w・ニミッツの戦術批判はとても少ない。誇大妄想的なマッカーサーにくらべると、寡黙だったニミッツに公然と石を投げる者はあまりいなかった。

ウイリアム・マンチェスター著『ダグラス・マッカーサー』によると、マッカーサーは軍内で嫌われていた。自己中心的で自己陶酔が激しい性格は、右派・左派・中道の区別なく多くの人に反感を持たれていた。フランクリン・ローズヴェルトも、1944年の大統領選挙にマッカーサーが出馬するのではないかと戦々恐々だった。マッカーサーはローズヴェルトにとってつねに最大の敵だった。

マッカーサーは正気ではない、無能だ、愚かだと攻撃する歴史家はいくらでもいるが、彼らもニミッツに関しては無言を貫くか、賞賛を贈るかだ。

私が読んだ戦争関連の本のなかで、衝撃的なくだりがあった。マンチェスター著『グッドバイ・ダークネス』の一節だ。

『死傷者リストが長くなればなるほど、つまり流される血が多くなるほど、それを正当化する必要が出てくる‥‥こうしてヴェルダンが、パッセンダーレが、ダンケルク、硫黄島が何度となく祭りあげられ、戦局を左右しながらも人命の損失が少なかった戦いは無視される‥‥ホランディアは、あの戦争でマッカーサーがあげた最大の勝利だが、いまではまったく注目されない。なぜなら将軍の計略がみごとに日本軍の裏をかき、GIの犠牲が軽微ですんだからだ。』

さらに、地上部隊の安全をつねに配慮していたというマッカーサーの逸話を知るに及んで、私はマッカーサー支持派になった。

戦争中に数少ないニミッツ批判を行ったひとりが、ハウリン・マッドことホーランド・M・スミス中将だった。海軍主導のぶざまな戦いとなったペリリュー島では、海兵隊の最高将官だった人物だ。「ニミッツは海兵隊の肩を踏み台にして名声を得た」とスミスは言った(激高したニミッツは、戦艦ミズリー号で日本が降伏文書に調印したとき、スミスの出席を拒否した)。

1945年6月4日付(ワシントン・ポスト)紙には、めずらしく沖縄作戦に批判的な記事が掲載された(軍の検閲は通過した)。めったにないことだが、このときニミッツは憤然としてAP通信記者にこう語ったという。「死傷者がどれだけ出ようとも、完遂させねばならない任務がある。あれは不手際でも失敗でもなかった」

ラブ中隊の元兵士のなかには、戦争に関する本を読んで、軍部指導者が戦争に踏みきった誤判断を含めて、日本側の立場を理解した者もいた。またビル・フェントンのように、一兵士の立場から戦術のまずさを指摘した者もいる。ジョージ・ニランドはマッカーサー支持でも何でもなかったが、海軍は太平洋上の島々で飛行場への爆撃を続行し、日本軍が使えないようにするべきだったと興奮の面持ちで語った。そうすればアメリカ兵が島に上陸する必要もなかったというのだ。

ニミッツと、キングをはじめとする彼の部下たちを私が嫌うのは、後世からの勝手な判断ではない。太平洋戦域での戦いは、当時わかっていた情報だけで判断しても、ほかにやりようがあった。グアムの戦いの必要性に関しては論じないが、沖縄戦はあんな戦いでなくてもよかったはずだ。その意味では、ジョー・ランチョッティと同様、双方の将軍や提督を私は嫌悪する。アメリカは日本の狂信的な軍部指導者を制御できなかったが、だからといって彼らと同じ土俵に立つ必要もなかった。

ニミッツの愚劣さが、沖縄戦における民間人十五万人、日本兵十一万人、アメリカ兵一万二千人以上の犠牲を引きおこした。そのひとりがマリガンだ。父も脳損傷の後遺症を一生引きずった。私がニミッツを嫌うのはあくまで私情だが、それも無理からぬ面があると思う。なぜなら私は、第二次世界大戦における彼の判断が最後まで尾を引く家で生まれ育ったのだから。

「日本兵を殺した父」から転載させて頂きました

日本軍の戦力に対し、三十倍とも五十倍とも言われる圧倒的な戦力を持つ米軍が、上陸地点から体制を整え南進を開始、たかだか4キロメートル余りの首里まで進軍するのに、四十日以上も掛かり、ようやく占領したのは5月29日の事でした。

このように、祖国の危急存亡の秋にあって、己れの本務を十二分に知り尽くし、わが命をも顧みず祖国防衛の為に肉弾突撃を敢行した日本兵の高貴な精神。従容としてその運命に身を委ね、敵軍に突入していった日本軍将兵のご冥福を心よりお祈りしたいですね。m(_ _)m

このサイトをご覧になっている皆様も、ご紹介した二冊の書籍を読み進めながら、グアム島戦や沖縄戦での米兵による野蛮な残虐行為に驚き、心は沈み、辛くやるせない気持ちになったかも知れません。特に普段、戦争本や戦記本を読まれていない方はショックを受けられたかもです。だとしたら誠に申し訳ありません。

最後は、同著の中でホッとする記述を見つけたので紹介しつつ、米兵側から見た沖縄戦記と言える「泥と炎の沖縄戦」「日本兵を殺した父」の書籍紹介を終えたいと思います。

沖縄戦も終わり、8月15日に日本国が降伏した後、著者の父が所属していた第六海兵師団第二二海兵連隊第三L中隊(通称 ラブ中隊)は、戦後処理の為に中国の青島に移ったようです。「」内は、ホフマン兵士の証言です。

(255頁)
ヒロシマとナガサキのあと、ラブ中隊は中国の青島に移る。

兵士たちの多くは、中国に上陸するのも、日本兵に会うのも初体験だった。ホフマン自身は民族主義がむきだしの中国人より日本人に好感を抱いた。

「中国人は泥棒や詐欺師の集団だった。だが日本人はひたすら礼儀正しく、私たちが正式に引き継ぐまで秩序をしっかり維持していた。降伏の手続きもつつがなく行われた。私たちは日本人と肩を並べて仕事を進めた。やがて家族の帰還が始まった。私は、収容されていた兵士や女性、子ども1500人を佐世保に運ぶ戦車陸揚艦に同乗できることになった ―― 良い機会だと思ったよ」

「日本人の振るまいは見事の一言だった。17歳の若造だった私が甲板に座っている。まわりにいるのは1500人のニップだ。さぞ居心地が悪いかと思いきや、まったくそんなことはなかった。彼らは聡明で、実に立派だった。すべてが整然としていて、悪い感情は皆無だった」

船は朝鮮半島を回り込み、長崎から二十数キロの佐世保港に到着した。日本人は、乗船したときよりも船をきれいに片づけて下船していったという。

「日本兵を殺した父」から転載させて頂きました

如何でしたか~~~。(^o^)

「日本人は、乗船したときよりも船をきれいに片づけて下船していったという」

これって、今ではサッカーワールドカップの風物詩になったと言っても過言ではない、日本人サポーターによる試合後のスタンド清掃を思い起こしますよね。いや~、血は争えないですね~。(^o^)

昨年暮れに開催されたカタール・ワールドカップ(W杯)でも、観戦していた日本人サポーターの多くが試合後の客席でゴミ拾いをしていたことが話題になりました。ある報道記事では、大きな袋を持った日本ファンがスタジアムを綺麗にする様子が映った後、なぜそのような事をしているのかとインタビューされた男性は、「私たちは日本人です。ゴミを残すことはしないんです。この場所にリスペクトを持っている」と話したと伝えられています。

私達日本人は、77年前に戦争で負けはしましたが、日本人としての気概、そして心根は全然変わっていないのでしょう。一事が万事ですよね。今を生きる私達は、日本人が遍く持つ高貴な精神性と美風をしっかりと児孫に語り伝えて参りましょう。(^o^)(^o^)(^o^)

《書籍ご紹介》

「孤高の鷲―リンドバーグ第二次大戦参戦記」 (上・下)

チャールズ・A・リンドバーグ著 学研文庫 平成14年(2002年)初版

『孤高の鷲―リンドバーグ第二次大戦参戦記』の著者であるチャールズ・A・リンドバーグ氏については、1927年に愛機「スピリット・オヴ・セントルイス号」で、史上初の大西洋横断無着陸飛行を成功させ、「翼よあれがパリの灯だ」のセリフと共に、日本では知られているのではないでしょうか。

この本は、著者が国家危急の要請には逆らえず、陸軍のパイロットとして第二次大戦に参戦するため太平洋戦線へと赴き、戦場の様を終戦までを日記として記録していたものを公開・出版したものです。著者は、米軍の太平洋戦域での前線で、「アメリカ軍は捕虜を取らない」という方針が徹底された事による、日本兵に対する信じられない蛮行を目撃する事になるのです。

それでは今から同著の一部を転載させて頂きます。書籍の最初から最後に至るまで、米軍の日本軍将兵への人種差別的対応と虐待の様子が列記されており、戦場の冷酷なる情景が想起されると共に、日本軍将兵に訪れた悲しい末路に心が痛みます。戦場で非業の死を遂げられた日本軍将兵の無念さを追憶する為にも、目をそらすことなく最後までお読み下さいませ。m(_ _)m

【捕虜をとるな】
6月21日 水曜日 (241ページ)

合衆国軍、シェルブールを孤立化させる。ドイツの対英ロケット爆撃が続く。

日本軍兵士殺害に関する将軍の話―数週問前のことだが、最前線のさる技術科軍曹が、もう二年以上も太平洋地域で戦闘部隊と行を共にしながら、ついぞ実戦に参加した経験がなく――帰国する前にせめて一人だけでも日本兵を殺したいと不平を漏らした。

軍曹は敵の地域内に進入する偵察任務に誘われた。

軍曹は撃つべき日本兵を見つけられなかったが、偵察隊は一人の日本兵を捕虜にした。今こそ日本兵を殺すチャンスだと、その捕虜は軍曹の前に引き立てられた。

「しかし、俺はこいつを殺せないよ! やつは捕虜なんだ。無抵抗だ」
「ちぇっ、戦争だぜ。野郎の殺し方を教えてやらあ」

偵察隊の一人が日本兵に煙草と火を与えた。煙草を吸い始めた途端に、日本兵の頭部に腕が巻きつき、喉元が「一方の耳元から片方の耳元まで切り裂かれた」のだった。

このやり方全体は、話をしてくれた将軍の全面的な是認を受けていた。私がそのやり方に反対し、どうしても捕虜を殺さねばならないのなら疾 《やま》しくない、蛮行に非ざる方法に訴えるべきだと主張すると、私は悠然たる侮蔑と哀れみの態度に接した。

「野郎どもがわれわれにやったことだ。やつらを扱うたった一つの方法さ」

6月26日 月曜日 (243ページ6行目)

小屋の壁の一つに、絹地の日本国旗が三枚かかげてあった。日本軍兵士の死体から取ったものだという。その一枚は記念品《スーペニア》として十ボンド(三十三ドル)の値打があると、ある将校は説明した。

日本軍将校の軍刀を所持する男は二百五十ポンドなら譲ってもよいと言った。

談たまたま捕虜のこと、日本軍将兵の捕虜が少ないという点に及ぶ。「捕虜にしたければいくらでも捕虜にすることが出来る」と、将校の一人が答えた。「ところが、わが方の連中は捕虜をとりたがらないのだ」

「*****では二千人ぐらい捕虜にした。しかし、本部に引き立てられたのはたった百か二百だった。残りの連中にはちょっとした出来事があった。もし戦友が飛行場に連れて行かれ、機関銃の乱射を受けたと聞いたら、投降を奨励することにはならんだろう」

「あるいは両手を挙げて出て来たのに撃ち殺されたのではね」と、別の将校が調子を合わせる。

「たとえば***隊だが、かなり残酷なやり方で切り刻まれている隊員の遺体を発見した。それ以来、連中は日本兵をさほど多く捕虜にしなくなったと考えて間違いない」

話は次いで空中戦や落下傘脱出に移る。一座の操縦士は一人残らず、落下傘で降下中の敵のパイロットを撃ち殺して差し支えないと主張した。もっとも、自分ならそんな真似はしたくないと断わる者が数名いた。

「これも、最初はジャップの方からやり出した。やつらがその手を使いたければ、われわれにだって同じ手が使えるということだ」。落下傘にぶらさがったまま、日本軍に撃ち殺されたアメリカ軍パイロットの話が幾つか披露された。

【捕虜をとるな】
6月28日 水曜日 (245ページ9行目)

第四七五飛行連隊の将校連と夕食、夜を共に過す。話題は今夜もまた、戦争や捕虜、記念品のことに及ぶ。

わが将兵の態度に深い衝撃を覚えた。敵兵の死や勇気に対しても、また一般的な人間生活の品位に対しても、敬意を払うという心を持ち合せておらぬ。

日本兵の死体から略奪したり、略奪の最中に死者を〝野郎″《サノヴァビィッチ》呼ばわりしたりすることも意に介さぬ。
ある議論の最中に私は意見を述べた、日本兵が何をしでかそうと、われわれがもし拷問をもつて彼らを死に至らしめれば、われわれは得るところが何一つ無いし、また文明の代表者と主張することさえ出来ないと。

「ま、なかにはやつらの歯をもぎとる兵もいますよ。しかし、大抵はまずやつらを殺してからそれをやっていますね」と、将校の一人が言い訳がましく言った。

後刻、ベッドに入る用意をしていたら、もう一人の将校が戦利品を見せてくれた。

ある夜の午前二時ごろ、数人の日本兵がキャンプに入ってきた(将校の間で日本兵が食糧を盗みに来たのか、それとも投降に来たのかという点で議論が分れた)。

戦利品を見せてくれた件《くだん》の将校が目を覚まし、そして日本兵を認めるや45口径をつかみ、二人を撃ち殺してしまった。別の将校が三人目を射殺した。

このような行為のために彼らを非難するつもりはない。結局、まだ暗い早朝にキャンプ内に入って来る日本兵を認めたとき、まず質問を発するゆとりは持てないものだ。

自分が非難したいのは殺害の態度であり、死者の尊厳に対する表敬の完全な欠如なのだ。

戦利品は何時ものように文字を書きつけた日本の国旗、軍票も混った数枚の日本紙幣、印鑑、郵便貯金帳、文章や宛名まで書き込んである数枚の葉書、他に幾つかの品物と数名の日本兵が写っている一枚の写真などであった。

写真には〝戦利品″を奪われた死体の兵士も写っていた。十五歳から十七歳ぐらいの少年であった。

7月13日 木曜日 (260ページ)

たまたま滞在中のフィル・ラ・フォレットと夕食を共にする。フィルが料理をした。

戦局、昔のこと、国内の政治情勢を話し合う。その途中で、話が日本軍とわが軍が犯す残虐行為に及んだ。わが軍の一部兵士が日本捕虜を拷問し、日本軍に劣らぬ残忍な蛮行をやってのけていることも容認された。

わが軍の将兵は日本軍の捕虜や投降者を射殺することしか念頭にない。日本人を動物以下に取り扱い、それらの行為が大方から大目に見られているのである。われわれは文明のために戦っているのだと主張されている。

ところが、南太平洋における戦争をこの眼で見れば見るほど、われわれには文明人を主張せねばならぬ理由がいよいよ無くなるように思う。

事実、この点に関するわれわれの成績が日本人のそれより遙かに高いという確信は持てないのだ。

7月21日 金曜日 (263ページ4行目)

仮に攻守ところを変えて、わが方の部隊がかくも勇敢に立派に拠点を死守したのであれば、この防衛戦はわが国の歴史上、不擁不屈と勇気と犠牲的精神との最も栄光ある実例の一つとして記録されたに相違ない。

が、安全でかなり贅沢な将校クラブに坐しながら、これらの日本軍を「黄色いやつばら」と表現するアメリカ軍将校の言に耳を傾けねばならないのである。

彼らの欲求は日本兵を無慈悲に、むごたらしく皆殺しにすることなのだ。オウィ島に来て以来、敵に対する畏敬の言葉も同情の言葉も聞いた覚えは全くない。

自分が最も気にしているのは、わが将兵の側にある殺戮《さつりく》の欲望ではない。それは戦争に固有なものである。

問題は敵の尊敬に値する特質にさえ敬意を払う心を欠いていることだ―勇気、艱難、死、信念に殉ずる覚悟、卓越した訓練と装備にもかかわらず次々と殲滅されて行く部隊等に対し敬意を払う心が全くない。

われわれには勇敢な行為であっても、彼らがそれを示すと狂信的な行為ということになる。

われわれは声を限りに彼らの残虐行為をいちいち数え立てるが、その一方では自らの残虐行為を包み隠し、ただ単なる報復措置として大目に見ようとする。

アメリカ兵の首を斬り落す日本兵は〝どぶネズミ以下″の東洋流の蛮行だ。日本兵の喉元を切り裂くアメリカ兵は「ジャップが戦友に同じような真似をしたのを知っていたからこそ、同じようなことをやってのけたまでの話だ」。

東洋流の残虐行為がしばしばわれわれのそれより極悪であることを問題にしているのではない。結局のところ、われわれは自分にも、また耳を傾けてくれる人たちにも、われわれがあらゆる〝善″と文明の擁護者だと絶えず言い聞かせてきたということである。

私は突っ立ったまま、密林の焼け焦げた跡や、日本軍が身を隠している洞窟と思《おぼ》しき断崖の黒点を眺めやる。あの焼けただれた地域の地表下に極限の苦悶が隠されているのだ――飢餓、絶望、そして死体や死に瀕した男たち。

ただ祖国愛と信ずるもののために耐え、よしんば心底で望んだとしても敢えて投降しようとはしない、なぜならば両手を挙げて洞窟から出ても、アメリカ兵が見つけ次第、射殺するであろうことは火を見るよりも明らかなのだから。

しかし、われわれは彼らに爆撃を加えて洞窟からいぶり出さねばならぬ。戦争だからである。もしわれわれが彼らを殺さねば、われわれが投降の可能性を無くしたが故に彼らはわれわれを殺すであろう。

それにしても、われわれがもし日本兵の遺体の歯をもぎとったり、ブルドーザーで遺体を穴の中に押しやり、浚《さら》った土をかぶせたりする代りに、人間にふさわしい埋葬を営んでやることが出来るのであれば、私はわが国民性にもっと敬愛の心を抱けたに相違ない。

ブルドーザーで片付けたあとは墓標もたてずに、こう言うのである。「これが黄色いやつばらを始末するたった一つの手さ」と。

7月22日 土曜日 (265ページ)

今朝、爆撃された地域に関する報告が入って来る。

爆撃、砲撃に続いて歩兵部隊が出動した。彼らは「一弾も撃たずに」同地域を占領した―ある洞窟では日本兵の死体が約四十個も発見され、「それよりかなり多数の身体の一部分」が散乱していた。

わずかな生存者は茫然自失の状態で坐るか横になっているかして、アメリカ兵を目にしても身じろぎもしなかった。

第一報では一名だけ捕虜にしたとあったが、後刻、歩兵部隊の佐官将校が私に語ったところによれば、「一名も捕虜にとらなかった」という。
「うちの兵隊ときたら全然、捕虜をとりたがらないのだ」

7月24日 月曜日 (267ページ後ろから5行目)

丘の斜面を降りて行くと、峠に差しかかる。そこには一人の日本軍将校と、十人か十二人の日本軍兵士の死体が、切り刻まれた人体だけが見せるような身の毛のよだつ姿勢で四肢を伸ばしたまま、横たわっていた。

彼らは峠の防衛戦で倒れ、死体は埋めずに放っておかれたのである。戦闘は数週間前に行われたので、熱帯地の暑気と蟻とがそれぞれの働きをなしていた。

頭蓋骨を覆うわずかな肉片だけが残っている。ある場所では一個の遺体に二つの首が並んでいるかと思えば、他の場所では遺体に首が無かった。

なかには四肢がばらばらになり、身体のかけらしか残っておらぬ死体もあった。

そして同行の将校が言ったように、「歩兵はお得意の商売にとりかかったようだ」。つまり、戦利品として金歯をことごとくもぎとったというのである。

洞窟群へたどり着くまでには山道を横切り、もう一つの丘を登らねばならぬ。山道の片側にある爆弾で出来た穴の縁を通り過ぎる。

穴の底には五人か六人の日本兵の死体が横たわり、わが軍がその上から放り込んだトラック一台分の残飯や廃物で半ば埋もれていた。

同胞が今日ほど恥ずかしかったことはない。敵を殺す、これは理解できる。戦争の欠くべからざる要素だ。敵を殺戮する最も効果的ないかなる方法も正当化されるだろう。

しかし、わが同胞が拷問によって敵を殺害し、敵の遺体を爆弾で出来た穴に投げ込んだ上、残飯や廃物を放り込むところまで堕落するとは実に胸くそが悪くなる。

7月24日 月曜日 (270ページ3行目)

洞窟の中央の奥には最初の洞窟で見たのと同じような小屋が建てられていた。火焔放射の届かないところにあったので、最初の場合よりもましな状態にあった。

小屋の一つが 病院に使われていたことは明らかだ。床にある死体の一つは担架の上に横たわり、半ば布地に覆われたままの姿だ。

ここは日本軍が投降を試みた洞窟だといわれ、わが軍から「顔を洗って出直して来い」とやられたそうである。

8月11日 金曜日 (283ページ後から8行目)

明りのいくらか貧弱なテント内で空箱や簡易ベッドの端に腰掛けたまま、日本人捕虜の問題を話し合った。

私は自分の考えを述べた、相手を捕虜に出来るいつ如何なる時でも投降を受け容れないのは間違いだ、投降を受け容れればわれわれの進撃は一段と速くなり、多くのアメリカ人の生命が救われるであろう。

とにかく投降した場合は必ず殺されると考えるようになれば、彼らは当然踏みとどまり、最後の一兵まで戦い抜くだろう――そして機会があるごとに捕虜にしたアメリカ軍将兵を殺すであろう、と。

大多数の将校は私の意見に同意したが(さほど熱烈に同意したわけではないが)、しかし、わが方の歩兵部隊はそのように考えてはおらぬようだと言った。

「たとえば第四二連隊だ。連中は捕虜を取らないことにしている。兵どもはそれを自慢にしているのだ」

「将校連は尋問するために捕虜を欲しがる。ところが、捕虜一名に付きシドニーへ二週間の休暇を与えるというお触れを出さない限り、捕虜が一人も手に入らない。お触れが出た途端に持て余すほどの捕虜が手に入るのだ」

「しかし、いざ休暇の懸賞を取り消すと、捕虜は一人も入って来なくなる。兵どもはただ、一人もつかまらなかったよとうそぶくだけなんだ」

「オーストラリア軍の連中はもっとひどい。日本軍の捕虜を輸送機で南の方に送らねばならなくなったときの話を覚えてるかね? あるパイロットなど、僕にこう言ったものだ。捕虜を機上から山中に突き落し、ジャップは途中でハラキリをやっちまったと報告しただけの話さ」

「例の日本軍の野戦病院を占領したときの話を知ってるかね。わが軍が通り抜けたとき、生存者は一人も残さなかったそうだ」

「ニップスも、われわれに同じことをやってのけたのだからね」「オーストラリア軍ばかりを責めるわけにはいかない。性器を切り取られたり、ステーキ用に肉を切り取られたりした戦友の遺体を発見しているのだ」

「オーストラリア軍は、ジャップが本当に人肉を料理していた場所を占領したことがある」(昨日、戦闘飛行隊の掲示板に、ビアク島で戦友の人肉を料理中の日本兵数名が捕えられたという告知が出たばかりである)

侵攻作戦の初期に、人間らしい慈悲心がわずかしか示されず、わが軍が数知れぬ残虐行為を犯したという事実はかなり明白に立証される。

後日、戦略拠点が確保されてからは、一部の日本軍将兵も殺害される心配がなく投降できもことを悟るに至った。しかし、わが軍も時には野蛮だが、東洋人の方がもっとひどいように見受けられる。

8月14日 月曜日 (287ページ後ろから2行目)

…。戦闘飛行連隊管制班の連中が自発的に定期的なパトロールを実施し、相当数の"ニップス"を殺したと将校たちは語る。 そのリーダー格は管制班に所属するチェロキー・インディアンの混血であった。

「連中はちょいちょい、自分たちで殺したジャップの大腿骨を持ち帰り、それでペン・ホルダーとかペーパー・ナイフとかいったような品を造っている」。

当地の将校連は、P47の行動半径内に日本軍の抵抗がないと骨肉の嘆をかこっている。

8月27日 日曜日 (295ページ9行目)

…。地面の至る所に弾薬箱が散乱し、アメリカ軍の墓地が出来ている。白い十字架の長い列が整然と並び―十字架の列に次ぐ列が墓地を形造るところもあれば、散乱した弾薬箱の間にぽつんと椰子の木の板材で固まれ、白い板の十字架が立つ墓地もあった。墓標前の土盛りには海兵隊の鉄兜が置いてある。

日本軍将兵―数千人の墓地には墓標らしきものさえ立っておらぬ。死体はブルドーザーが渫《さら》って穴の中に放り込み、その同じブルドーザーが掻き集めた石灰岩で上から蔽ったのである。

島が小さかったので、敵の死体さえ埋めねばならなかったということだ!

同行の士官は第一波が上陸に成功してから間もなく到着したのだが、海兵隊は日本軍の投降をめったに受け付けなかったそうである。

激戦であった。わが方も将兵の損害が甚大であった。敵をことごとく殺し、捕虜にはしないというのが一般的な空気だった。

捕虜をとった場合でも、一列に並べ、英語を話せる者はいないかと質問する。英語を話せる者は尋問を受けるために連行され、あとの連中は「一人も捕虜にされなかった」という。

9月4日 月曜日 (298ページページ7行目)

…。当地のある軍医の話によれば、一部の海兵隊員はスーベニア用の金歯を手に入れるべく日本軍将校の遺体を掘り起こしたそうだ。

ウエブサイトマスター注:9月3日の日記が割愛されています。(この訳書自体が、原著の五分の二ほどの抄訳である。)

自信は無いですが、大体以下のような意味と思います。正確を期したい方は、ご自分で調べるか、英語の得意な人に聞いてください。(特に、"They told me some of the incidents surrounding the capture of this island."の"surrounding"がよくわからないです。)

9月3日 日曜日

夕食と夜をフリーマン大佐や将校連と過ごす。彼らはこの島の占領にまつわるいくつかの出来事を私にに話した。我々は海と空からの凄まじい爆撃から始めた。日本人たちは、いつものように、頑固に戦った。

海兵隊は、いつものように、めったに降伏を受け入れなかった。

9月9日 土曜日 (300ページ4行目)

ケネス・コリヤー中尉、マッコール大尉らと朝食。話題は何となくロイ島の侵攻作戦と占領当時のことに及ぶ。ある将校の話によると、アメリカ軍の損害は大部分が弾薬集積所の爆発にあったという。彼は作戦開始の三日後に上陸した。

アメリカ軍の戦死者は個別的に埋葬されたが、日本軍の戦死体はトラックに積み込み、ブルドーザーが掘り返した大きな穴に放り込んだ。

原住民が主として死体の処置に当り、彼らは多くの死体を〝臭気″で見付け出したそうである。

将校の話によれば、穴の中の遺体を「ブルドーザーにかける」前に、何人かの海兵隊員が遺体の間に分け入り、ポケットを探ったり、金歯捜しに棒で口をこじ開けたりした。

金歯を仕舞い込む小袋を持っている海兵隊員さえいた。その将校はさらに耳や鼻を切り落されている日本軍の戦死体を幾つか見たとも言った。

「兵が耳や鼻を切り取るのは、面白半分に仲問に見せびらかすためか、乾燥させて帰還するときに持ち帰るためですよ。日本兵の生首を持っている海兵隊員まで見つけましてね。頭蓋骨にこびりつく肉片を蟻に食わせようとしていたのですが、悪臭が強くなり過ぎたので、首を取り上げねばなりませんでした」。行く先々で聞かされる似たり寄ったりの話だ。

9月14日 木曜日 (303ページページ後ろから4行目)

…。到着したとき、海軍航空輸送部事務所にはたまたまジョン・ヤング大佐ら数名の海兵隊将校が居合わせていた。大佐からエワで一夜を過ごすようにと招かれる。

通関をすませ、車でエワの基地に向かった(税関吏は荷物の中に人骨を入れていないかと質問した。日本兵の遺骨をスーベニアとして持ち帰る者が数多く発見されたので、相手構わずにこのような質問をせねばならないのだと言う。

税関吏はまた、手荷物の中にまだ「緑色をしている」日本兵の頭蓋骨を二個も忍ばせていた男を発見したことがあるとも言った)。

【生と死の尊厳】
6月11日 月曜日 (396ページ8行目)

…。無論、このような事が行われているのを、自分は知っていた。しかし、よしんばそれが第三者の撮影した写真を見て得た知識であっても、自らその現場に立ち、この眼で見、この耳で聴き、五感で感じた場合とはわけが違う。

一種、異様な困惑が襲ってきた。以前にかかる困難を覚えたのはどこでだったろうか。南太平洋でか。そうとも、ビアク島の洞窟で日本兵の遺体が腐りかけるのを見掛けたときだ、爆撃跡の穴に埋まる日本兵の遺体の上から残飯が投げ捨てられ、待機室やテントにまだ緑色を呈する日本兵の頭蓋骨が飾り付けてあるのを見掛けたときだ。

かりそめにも人間が――文明人が、かかる次元まで堕落できるとは考えられないことのような気がする。にもかかわらず、彼らは現実にこうして堕落したのである、ここドイツのキャンプ・ドラにおいて、またかのビアク島の洞窟において。

しかも、ビアク島ではわれわれアメリカ人がそれをやってのけたのである、それとは異なる価値のために立ち上ったと主張するわれわれが、だ。

ドイツ人はユダヤ人の扱い方で人間性を汚《けが》したと主張するわれわれアメリカ人が、日本人の扱い方で同じようなことをしでかしたのである。

「やつらは本当に獣以下だ。どいつもこいつも皆殺しにすべきだ」。耳に胼胝《たこ》ができるほど南太平洋のアメリカ軍将校から開かされた台詞《せりふ》だ!「何故、兄弟の目にある塵を見て、おのが目にある梁木《うつばり》を認めぬか」

私はポーランド少年を見やった。このような飢餓状態をどこで見たろうか。それも、ビアク島においてだ。原住民の操るカヌーの光景が記憶に甦《よみがえ》ってきた――われわれのキャンプ近くの岸辺に向ってゆっくりと漕ぎながら、半裸体の武装した原住民に護送される日本軍の捕虜たちだ。

列の後尾にいた若干名は歩行できないほど飢えており、このポーランド少年より瘡せ細っていた。勿論、ドイツ人が捕虜収容所でポーランド少年を飢えさせたように、アメリカ人が日本人を飢えさせたわけではない。

われわれがあまりにも〝文明化″し、手際が良すぎただけの話である。ただ日本人の投降を受け付ないことにより、彼らをして密林内で飢えさせたに過ぎぬ(彼らの責任において)。

単純明快な事態であった。飢餓のために眼がぎらつこうと疾病《しっぺい》の危険性があろうと、われわれは心を動かされなかった。

数マイルにわたる密林がそれを覆い隠し、消し去ってくれたからだ。両手を挙げて投降しょうとする先頭の日本兵を撃ち殺しさえすればよかった(「ジャップの投降は信用できない。手榴弾を投げつけるからね。即座に撃ち殺してしまう手しかないよ」)。

あるいはただ打切棒《ぶっきらぼう》に振舞い、白旗を掲げて来た敵の使者を怒鳴りつければよいのだ、歩兵部隊の将校連が洞窟で、「顔を洗って出直して来い、畜生め」と勝ち誇ったように。

かかる一連の出来事が走馬灯のように脳裏をかすめて行く。わが海兵隊が、ミッドウェーの砂浜に寸鉄を帯びないで泳ぎつこうとする日本軍の生存者を撃ち殺した話。

ホランディア飛行場で、わが軍が日本軍の捕虜に機銃掃射を浴びせた話。ニューギニアの山越えに南へ飛ぶ輸送機の上から、オーストラリア人が日本軍の捕虜を突き落した話(「オーストラリア軍は捕虜がハラキリを演じたとか〝抵抗″したからと報告してるんだ」)。

ヌルフォール島で殺されたばかりの日本兵の死体から脛骨を切り出し、ペーパー・ナイフやペン皿を造った話。

「そのうちに、あのジャップの野戦病院をたたき潰してやるぞ」と豪語した若いパイロットの話。

金歯を求めて日本兵の遺体の口をこじ開けたアメリカ兵の話(「そいつは歩兵お得意の内職でね」)。

「スーべニア用としてこぎれいにするため」日本兵の生首を蟻塚に埋めたという話。

ブルドーザーで日本兵の死体を道路の片側に寄せ、浅い、墓標のない穴に放り込んだ話(「それが近くにあったりすると、我慢ができないので埋めてしまうんだ」)。

イタリアの町でムソリーニと愛人が逆さ吊りにされた写真を、高い文化的理想を主張する何千というアメリカ人が容認したこと。

歴史を遡《さかのぼ》れば、かかる残虐行為は古今東西を問わず続けられてきたのであった、ドイツのダハウ、ブッケンワルト、キャンプ・ドラといった収容所においてばかりではない、ロシアから太平洋にかけても、またアメリカ本国の暴動や私刑《リンチ》、中南米のさほど喧伝されぬ蜂起や中国の残酷事件においても、さらに数年前のスペイで、往時のユダヤ人虐殺で、ニューイングランドの魔女焼き、イギリスの八つ裂き刑、キリストと神のみ名において行われて来た火刑においても。

私は人骨の灰に埋まる穴を見降ろした(「一年半に二万五千人だ」)。かかる行為はなにも特定の国家や民族に限って行われたのではないことに気が付く。

ドイツ人がヨーロッパでユダヤ人になしたと同じようなことを、われわれは太平洋で日本人に行なって来たのである。ドイツ人が人間の灰を穴に埋めることで自らを?《けが》したと同じように、われわれもまた、ブルドーザーで遺体を浚い、墓標もない熱帯地の穴に放り込むことにより自らを?したのである。

地球の片側で行われた蛮行はその反対側で行われても、蛮行であることには変りがない。「汝ら人を裁くな、裁かれざらん為なり」(新訳聖書・マタイ伝第七章一節)。

この戦争はドイツ人や日本人ばかりではない、あらゆる諸国民に恥辱と荒廃とをもたらしたのだ。

「孤高の鷲―リンドバーグ第二次大戦参戦記」から転載させて頂きました

《書籍ご紹介》

「アーロン収容所」

会田雄次著 中央公論社 昭和48年(1973年)11月初版

「人種偏見」 太平洋戦争に見る日米摩擦の底流

ジョン・W・ダワー著 斎藤元一訳 (株)TBSブリタニカ 昭和62年(1987年)9月初版

「容赦なき戦争」 太平洋戦争における人種差別

ジョン・W・ダワー著 斎藤元一訳 (株)平凡社 平成13年(2001年)12月初版

「大空襲と原爆は本当に必要だったのか」

A・C・グレイリング著 鈴木主税/浅岡政子訳 河出書房新社 (2007年)2月初版

「日米開戦の人種的側面」 アメリカの反省1944

カレイ・マックウイリアムス著 渡辺惣樹訳 (株)草思社 平成24年(2012年)7月初版

「人種戦争」 レイス・ウォー

ジェラルド・ホーン著 藤田裕行訳 祥伝社 平成27年(2015年)7月初版

「アメリカの日本空襲にモラルはあったか」

ロナルド・シェイファー著 深田民生訳 (株)草思社 令平成8年(1996年)4月初版

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.39

慰霊塔の左側に壕がありまして、ご覧の様な開口部が見えます。この壕は摩文仁集落住民の避難壕であった様です。この壕も含めて摩文仁集落の避難壕は、この付近に三カ所あったそうです。左手ジャングル内にかなり大きな壕がありますので、恐らくその壕も摩文仁集落の人達の避難壕だったと推測しています。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.40

壕の前の雨の当たらない場所に、ご覧のように板や清掃具が置いてありました。

何年か前も、この壕で寝起きして墓守をするおばさんが居たと書きましたが、備品のそろえ方、備品の置き方等を観察すると大きく違っていますので、以前居られたおばあさんとは違う、別の人ではないかと推測しています。また備品が少ない事から、住んでは居ない印象で、通って来るものと思われます。

因みに前回住んでいたおばあさんに聞いたところでは、南城市に自宅があり、時折やって来てこの壕では墓守をしていると言う話でしたし、何日か泊まって帰ると言うパターンを繰り返しているとの事でした。しっかりしたその話しぶりからして、認知症ぎみのおばあさんが、変な事をしているというような印象は全くありません。キチンとしたおばあさんでした。

いずれにしてもこうした霊域で墓守とは立派な行いですよね~。とても真似は出来ません。だってこの壕内で夜寝るなんて、死んでも真似は出来ません。(^^;)

ただ不思議なのは、墓守をする方が「南冥之塔」だけに現れて、「沖縄師範健児之塔」には現れません。同塔にも寝泊まり出来る壕があります。こちらの壕は摩文仁集落住民の避難壕だったので、摩文仁の住人であるなら御遺族だろうと思えますが、前回居られた方は南城市に住まいがあるとの話でしたから、遺族と言うのも断定しかねますよね‥‥。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.41

壕口の左手には、雑草の影に隠れて見えにくいのですが、守備軍将兵個人の慰霊碑が数基建立されています。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.42

壕口です。かつて摩文仁集落住民の避難壕でした。中に入ってみましょう

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.43

壕内の様子です。写真に収まっている範囲が全てですから、それほど広くは無いですね。しかしながら、この付近では比較的大きい壕であると言えるかもです。この付近でこの壕よりも広い空間のある壕は一カ所しかありませんからね。「南冥の塔」は、この付近で収集されたご遺骨一万二千柱が祀られていますが、当初は納骨堂はありませんから、この壕内に集められたとの事です。

この壕は繰り返し遺骨収集が為されたので、床面が凸凹になっています。この壕はフィッシャーのようになっていて、相当堅固な鍾乳石で出来ていますから、壁・天井面の崩落は考えられないですね。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.44

天井面を見ています。天井面まで全てフィッシャーであり、一枚岩となっているのは、かなり珍しい形状であると言えますね。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.45

「南冥之塔」の横には、沖縄の海岸でよく目にする「クサトベラ(草扉)」が生えていました。沖縄では「スーキ」と呼ぶようです。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.46

「クサトベラ(草扉)」をアップしてみました。若草色の部分が新芽と言う感じですね。一月なのに、もうこれだけ芽吹いていると言う訳です。

動画ご紹介

「金光教那覇教会 林雅信先生 祝子先生 インタビュー⑧ 南冥之塔・赤心之塔」
 ※金光教本部が編纂された動画です

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.47

水汲みに来た将兵や避難民の多くが、狙撃され殺害されたと言われる「金井戸」に向かいます。まずは海岸に向かう遊歩道を下っていきます。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.48

写真は遊歩道左手に自然繁殖しているエンジェルストランペットを捉えています。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.49

ここにも、エンジェルストランペットがあります。もう20年以上前から、ここにに生えている元気な花木です。但し今年も花数が極端に少ないですね。因みにこの花は、昔はダチュラという名でした。ですから私もダチュラとつい呼んでしまいますが、今は改名してエンジェルストランペットと呼ぶそうです。大きなラッパ状の花がぶら下がるように開花する熱帯花木ですね。品種によっては夜間、花が香るそうです。

熱帯植物ですが寒さには比較的強く、関東地方のほとんどの地域では地上部が枯れても地下部から芽が出てまた開花します。確かに東京の新宿でも通勤途上ですが、毎年元気に花を咲かせるエンジェルストランペットがありますからね。大株になると、一度に50~100輪ほどのたくさんの花が咲く事があります。通勤途上で見かけるエンジェルストランペットもそうでした。ものすごい花数で壮観でした。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.50

エンジェルストランペットの元気が無い理由がわかりました。犯人はトウツルモドキでした。昆虫のゲジゲジのように左右に葉を広げながら蔓が伸びているのが見えますね。トウツルモドキは、海岸の日当たり良好な林縁に生えており、長さ10メートル以上にもなる大型のつる性植物です。先端に巻きひげがあって、その先端が他の植物に絡みつき勢力範囲をぐんぐんと広げていきますので、文字通り藪を枯らすヤブガラシと同じぐらい、他の植物には脅威であると思います。来年以降も観察を続けますが、どうなりますか‥‥。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.51

写真中央部をご覧下さい。トウツルモドキの巻きひげを捉えています。この巻きひげがくせ者ですよね。あらゆる植物に絡みつき勢力範囲を広げていくのです。ヤブガラシと言う植物もありますが、それと同じぐらいトウツルモドキは、藪を枯らしていく可能性のある植物です。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.52

アサガオではないでしようが、同じような蔓植物がありました。土のある場所に限定されると思いますが、遺骨収集していて見かける事の多い花ですね。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.53

ご覧のように、遊歩道を下っていくと左に曲がって行きます。そして曲がってすぐ左手に金井戸及び金井戸川があります。遊歩道左手をご覧下さい。湿地帯になっているのでしょう、クワズイモが群生しています。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.54

遊歩道左手で繁茂しているクワズイモです。この辺りは、雨が降るとクワズイモが繁茂している場所に雨水が集まってくるので、結果として湿地帯になっているのが解ります。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.55

お~。今年は雑草が刈られています。昨年は雑草が繁茂して凄かったですからね。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.56

「危険」の標識が設置されています。穴が空いていますね。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.57

遊歩道から撮影していますが、写真奥に「金井戸」があります。そして「金井戸」からこちらまで、石垣が積まれ、狭い水路みたいな感じになっていますが、これが「金井戸川」ですね。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.58

「金井戸」のすぐ横にモクマオウの木が自生しています。しかしながら、近年は元気がありません。木の下の方にガジュマルが絡みついていますので、その事が原因かも知れませんね。このモクマオウの木は、沖縄戦当時八十九高地と呼ばれた、「黎明之塔」高台からも見えるので、この「金井戸」の位置の目印になる事から、枯れずに生き続けてほしいですね~。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.59

「金井戸」が見えてきました。

「金井戸」

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.60

「金井戸」です。地元ではチンガーと呼ばれるそうです。沖縄戦を詳細に書き記した『沖縄決戦』(八原博通著)によれば、「小径を下りつくした脚下の海岸には直径十数メートルの泉が…」と書かれていますから、沖縄戦当時と比べて湧水量は僅かとなっていると思われます。ただチンガー背面と東側に広大で緩やかな勾配の傾斜面を有していますから、広範囲の降雨の受け皿になりますから、梅雨時などかかなりの水量の湧き水があるのかなと思われます。

また摩文仁之丘には井戸は二カ所しかありません。もう一カ所は海岸線に沿って東に1キロメートルぐらい行った先にありまして「ワシチガー」と言います。両井戸ともに米軍に井戸の存在が知られていましたから、チンガーを含めた両井戸への水汲みは決死の行動だっに違いありません。

チンガーの現在の様子ですが、セメント等の構築物は戦前のものか戦後のものかは不明です。昔から井戸は使わないと枯れると言われる事もありますが、正にそのような状況になっています。

沖縄戦解説本などで見るチンガーの項目では、「夜になると兵士や住民が水を求めて殺到したが、米軍による砲撃や機銃掃射で多くの犠牲者が出た。井戸の周りは死体であふれ、その死体をどけてから水をくんだ。しかもその水は血に染まっていた」という表記が為されていたりしますが、井戸の南側は小高い丘になっており、海に居並ぶ米艦船からはチンガーは全く見えません。井戸の畔に立ったとしても海からは一切姿は見えません。ですから井戸の畔に集まった人々を機関銃で直接狙撃する事は出来ません。

チンガーは死の泉として恐れられた事は間違いありませんが、米軍はチンガーの前面に哨戒艇を常駐させていたので、恐らく迫撃砲など曲線を描く砲撃が多用されたのではないか、或いはチンガーの周囲50メートルとか100メートル内に入る人影を狙って機関銃などで狙撃するという状況ではないかと推測されます。いわゆる曲射砲によるめくら撃ちですね。

戦後七十余年を経て、現在のチンガーの周囲は緑豊かな木々が茂っていますが、沖縄戦当時の白い石灰岩の丘陵であった事をイメージすると、井戸の周囲100メートルぐらいを俯瞰しても、思いのほか岩などの遮蔽物が少ないです。夜間に水汲みに成功する将兵や避難民も居たでしょうが、遮蔽物が全くない傾斜面は確実に人影が曝露し、照準が合わせられている機関銃などで狙撃された可能性があります。

一方上掲文でご紹介した摩文仁にもう一カ所ある泉についてですが、チンガーから見て、海岸線に沿って東に1キロメートルぐらい行った先の、摩文仁のもう一つの井戸である「ワシチガー」は、井戸の周囲100メートルぐらいを俯瞰した場合、傾斜面は一切の遮蔽物はなく、海岸の岩場しか遮蔽物はありません。ですから井戸及び周囲の広範囲がに米軍艦艇に曝露しており、こちらの「ワシチガー」井戸の方がよほど命がけであったと推測されます。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

所在地ご紹介

「駐車場は、短時間の駐車なら広場に駐車OK、トイレあります」

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.61

モクマオウの木がある側から「金井戸」を見ています。モクマオウの木の幹の太さからして、戦後植樹された可能性がありますね。また幹の左側に気根のような物が見えますが、ガジュマルの気根です。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.62

「金井戸川」と書かれた石碑です。現在は書いてある文字は全く解りませんね。また割れた石板の半分が無くなっていますね。

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子34

【平成19年(2007年)撮影】
「金井戸川」と書いてありますね。昔は川とよべるほど湧水量が多くて、井戸から溢れた水は、川となって流れ出たと言う事でしょうかね。

遺骨収集の様子35

ご覧のように狭いですが、水路の両脇が石垣になっています。一部埋もれたりしていますが、沖縄戦当時からそのまま残された水路のようです。

遺骨収集の様子37

クイズですよ。沖縄戦当時、この「ユウナ」という植物の葉は何に使ったでしょうか???。答えは、トイレットペーパーとしてお尻を拭くのに使いました~。

過去の写真掲載はここまでです。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.63

この写真は金井戸の少し西側に立って撮影しました。写真中央部が一番低い所、ご覧の様にくぼんでいる場所であるのが見て取れます。位置的には金井戸川の川底よりも少し低い位置になります。池の畔に立った状態、つまりは海上に浮かぶ哨戒艇から、この金井戸に立っているのが見えてしまう可能性が一番高い場所です。

写真には木々繁り海は全く見えませんが、沖縄戦当時のように木々が無いイメージで観つつ、金井戸から坂道を少しずつ道を登って、もうこの位置だと海上に浮かぶ哨戒艇から見えるかな‥。という所で撮影してみました。この私が立っている場所は金井戸から結構高い位置になっています。私は立って撮影しているので、日本軍将兵が匍匐前進でこの写真に写されている場を通過するなら、艦船からは全く見えないと断言できるでしょう。

この金井戸には戦死体が山の様に積まれ、井戸の水は赤く染まっていたという証言があり、現場は常に悪臭と共に悲惨な状況だったようです。と言う事で、水を求めここで亡くなられた日本軍将兵は、照準を合わせられて狙撃されたというよりは、曲射砲によるめくら撃ちで亡くなられた可能性が高いと感じます。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.64

金井戸よりも少し高い場所から、海岸に向けて切り割りのようになっている遊歩道撮影しました。立っている場所は、金井戸の井戸のある場所よりも高い位置からの撮影になりますが、ご覧のように海は全く見えません。金井戸よりも一段高い所に立っても見えないのですから、金井戸の際に普通に立っていても、海上に浮かぶ哨戒艇などから発見される可能性はゼロである事が解ります。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.65

金井戸は巨岩の麓にありますが、その巨岩の右裾にはご覧のように、小さな拝所がありました。毎年確認しているのが解るのですが、使われている印象があります。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.66

この付近もまたクワズイモが群生していますから、水気のある場所のようです。因みに、平和祈念公園内に「空華之塔」がありますが、同塔のある崖下辺りを最上流とする、その付近に降る雨水が、緩やかな勾配のある低地を約250m程流れつつ、この写真の所まで雨水がやって来ると言う訳です。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.67

遊歩道をこのまま進むと海岸に出ます。ご覧のように、「金井戸」を過ぎて少し先の場所が稜線となり、その先は海岸まで一気に下っていきます。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.68

遊歩道も、間もなく稜線越えとなりますね。少し掘り進めて歩きやすくしたのでしょう。遊歩道の両側に法面があるのが解ります。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.69

稜線を越えると、海岸に向けて一気に降りていきます。解りにくいですが、すでに海岸や海も見えていますよ。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.70

間もなく浜辺に出ますね。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.71

コンクリート製の階段が突然途切れ、写真の奥の方に移動していますね~。恐らく台風などの強烈な波によって壊されたのでしょう。波の破壊力は凄いですね。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.72

砂浜に出ました。この砂浜の名称は、「健児之塔の浜」と呼ぶようです。ご覧のように、ここは砂浜となっていますが、摩文仁全体で見ますと、砂浜はごくごく限られた場所だけに見られると言えるでしょう。摩文仁では二カ所しか砂浜はありません。もう一カ所は、沖縄平和祈念資料館の崖下に砂浜があります。また現在引き潮ですが、引き潮時はかなり沖合まで歩いて行けるのが解ります。因みに、昔ここ摩文仁海岸沖合でクジラを見た事がありますので、次の写真でご紹介します。(^o^)

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子32

皆様も沖縄本島の沖合はホエールウォッチングが盛んだと聞いた事がありますか? 冬の沖縄旅行では人気のレジャーとして、実際にホエールウォッチングツアーが盛んに行われている様です。春から夏にかけてアラスカの海で過ごしたザトウクジラは、冬はアラスカから9000km程の旅をしながら南下し沖縄の海にやって来て、出産と子育てをするのだそうですよ。

私も平成21年(2009年)の第36回金光教遺骨収集の時に、摩文仁海岸線からクジラを見ました。クジラ自体は沖合を泳いでいたので小さくしか見えませんでしたが、体を海中から出してザッブーンと再び海に消えるまでの動きは実に雄大で迫力がありました。(^o^)

この写真に鯨が写っていますのでご覧くださいませ。よ~く見て下さい。中央部水平線上にクジラが飛び上がったのが見えるでしょ~~。
「小さすぎてよく見えない」ですって。済みません、カメラの広角側で撮影したので小さく写ってしまいました~。













遺骨収集の様子

拡大して、これならどうですか~~。(^o^)
カメラの広角側で撮影したので小さく写りましたが、私達自身の目では写真と同じレベルの大きさで見ることが出来ましたよ。ザッブーンという音こそ聞こえませんでしたが、とにかく動作はゆっくりですごい迫力でした。

過去写真掲載はここまでです。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.73

東側の海岸線を見ています。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.74

今度は西側の海岸線を見ています。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.75

砂浜をよくよく見ますと、何かが打ち上げられているようにも見えますよね。そうなんです。軽石です。帯のように広がっているのが解ります。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.76

この写真もそうです。帯のように軽石が広がっています。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.77

軽石です。持ってみると確かに軽石そのものです。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.78

帯状に堆積しているので、波に浮いて移動したのが解りますね。この大量の軽石は、昨年8月に、小笠原諸島近海の海底火山「福徳岡ノ場」で大規模な噴火が発生し、その噴火で噴出した軽石が、およそ2カ月かけて1,450キロほど離れた沖縄本島に流れてきた‥‥。という事のようです。

軽石の撤去費16億円超え 沖縄県が試算 漁業・観光の被害含まず

【琉球新報】令和4年(2022年)2月18日

漂着した大量の軽石=2021年10月29日、国頭村(小型無人機で大城直也撮影)

小笠原諸島の海底火山噴火の影響による大量の軽石が漂流・漂着している問題で、沖縄県は17日までに、県内の港湾施設などに漂着した軽石の回収や運搬などに要した費用を基に被害額が16億円以上になるとの試算を示した。出漁自粛による漁業被害やマリンレジャーの休業による観光関連などの被害は含めておらず、実質的な被害額はさらに大きくなるとみられる。

県によると、県や市町村などが4日までに回収した軽石の総量は2万9209立方メートルとなっている。出漁を自粛している漁船は10日時点で186隻に上り、全登録隻数の6・2%に当たる。

被害総額のうち最も金額が大きかったのは、県土木建築部所管の海岸で実施する回収費用で10億9300万円だった。県は本島北部の海岸漂着量を基に、先島諸島を含めた県内全域の想定回収量を10万2千立方メートルと見積もっており、これに掘削や運搬費などを掛け合わせて想定被害額を算出した。

農林水産部では、県管理の4漁港と市町村管理の2漁港で災害復旧事業を実施しており、被害額は漁港関連のみで1億924万円と試算した。

漁業被害については2021年10月と11月の水揚げ量が例年の同時期と比べ290トン少なかったものの、新型コロナウイルスや資源量などの影響を排除することができないことから、「被害額を算定することは困難」だとした。

漁業者への対応として県は21次補正予算案で漁船約3千隻を対象に1カ月分の燃料代の補助を盛り込んでいる。事業費は1億8千万円。
(当銘千絵)

「琉球新報」から転載させて頂きました

動画ご紹介

「軽石どうなった? 漂着から4か月余り 現地はいま(沖縄テレビ)」

平成24年(2012年)の出来事なのですが、とある沖縄戦に従軍した兵隊さんが本土に帰還しまして、戦後は沖縄遺骨収集奉仕活動を精力的に行なったそうです。そしてご本人が亡くなられる前に、「遺骨の一部を摩文仁に散骨してほしい」と遺言書に書き記されたそうです。そうした経緯で、亡くなられた方のご親族が、ここ摩文仁に散骨をする為に来られ、林先生が主導される「慰霊式典・散骨」の場に、私も参列させて頂く機会がありました。

プライバシーがありますからサイトでは多くを語れませんが、金光教の遺骨収集奉仕活動にも何度か参加されており、また沖縄で遺骨収集を実施する際には、平和学習ガイドの松永さんを指名して、タクシーに一緒に乗車され活動されたという経緯があるそうで、亡くなられた方の生前の活動の様子を、松永さんはよく憶えておられました。

下掲の二枚の写真は、亡くなられた方のご親族、および林先生と私たちと総勢十名程で、摩文仁の「沖縄師範健児之塔」駐車場から摩文仁海岸に降りて、一部砂浜になっている場所にシートを敷いて、林先生主導で慰霊祭を挙行し、最後にご親族が持参した遺骨の一部を海辺に散骨しました。その様子を二枚の写真に収めましたのでご紹介します。

《過去の写真ご紹介》

摩文仁散骨の様子1

【摩文仁砂浜での故人慰霊祭・散骨】 遺言者の「遺骨の一部を摩文仁に散骨してほしい」という希望に添い、ご親族の方々が摩文仁海岸を訪れ、林先生主導により故人慰霊祭を挙行している所です。プライバシーに配慮しご遺族を小さく写しています。列の一番前で祭詞を読み上げておられるのが金光教那覇教会の林先生です。

摩文仁散骨の様子2

亡くなった方ご本人の希望により、ごく少量のご遺骨が海水面に散骨されました。写されている白い部分がご遺骨です。この方は沖縄戦を戦い抜きましたが、所属部隊員全員が戦死されて、唯一人生き残ったとの事です。ご遺族の話によりますと、「戦友の元に帰りたい」 と常々語っていたそうです。

この方は戦後においては、年金を使い果たすくらいに精力的に沖縄に通い続け、遺骨収集奉仕活動に取り組まれたという話です。金光教の遺骨収集奉仕活動にも何度か参加されました。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

過去写真掲載はここまでです。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.79

再び三叉路と言いましょうか、遊歩道分岐点に戻りました。「沖縄師範健児之塔」に向かうため、一番左の遊歩道を降りていきました。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.80

「沖縄師範健児之塔」が見えて来ましたね。因みに「沖縄師範健児之塔」があるこの辺りは、「摩文仁のハンタ原」と呼ぶ場所にあります。原という名がついているので原っぱになっているのかという事になりますが、さすがに農業が出来るほどの原っぱはありません。遠くから見ると平らなように見えるというレベルでの平坦さです。巨大な岩がゴロゴロありますから、とても平らな場所とは思えないかも知れませんが、周囲が隆起した岩場だらけですから、目の錯覚か原っぱであると見えてしまうのです。その例えは「黎明之塔」から展望して頂ければ一目瞭然だと思います。

「沖縄師範健児之塔」

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.81

昭和21年(1946年)3月に建立された「沖縄師範健児之塔」です。沖縄師範学校の野田貞雄校長ほか、戦没職員17名、生徒289名、計307名を祀っています。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

所在地ご紹介

「駐車場は、短時間の駐車なら広場に駐車OK、トイレあります」

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.82

沖縄師範学校男子部は、昭和20年3月31日に、職員も含めて386名全員が軍名により動員されました。386名の生徒達は鉄血勤王師範隊を編成し、本部、切込隊、千早隊、野戦築城隊、特別編成中隊を組織し、4月1日より守備軍司令部と共に作戦に参加しました。負傷兵の治療の補助、陣地構成、炊事、立哨、情報収集や伝達などの任務を担いました。そして5月下旬より戦況不利になると司令部と共に南部地区へ撤退し、最終的にこの摩文仁の壕まで退却しました。6月19日軍解散命令の出たあと敵軍に斬り込む者、この壕内で自決する者など、多くの犠牲者を出しました。

平成31年(2019年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.54

【沖縄県公文書館所蔵】
分類名:戦跡・慰霊
撮影地:
撮影日:1961年 6月13日
備 考:
写真解説:【原文】
【和訳】日本国会議員団(船田中団長)12人来沖 糸満 摩文仁 沖縄師範健児之塔

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.54

ギリギリ読めますね。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.83

「沖縄師範健児之塔」の由来と鉄血勤皇師範隊の編成が書き記されている碑です。テキストに起こしてみました。

【沖縄師範健児之塔の由来】

この塔は、一九四五年の沖縄戦で散華した沖縄師範学校男子部の野田校長以下職員・生徒の御霊を祀ったものである。

鉄血勤皇師範隊は、三月二十一日沖縄守備軍の命令によって編成された。以来、同隊は軍と共に首里戦線からここ摩文仁の地まで勇戦奮闘し三百十九柱の職員・生徒を失った。誠に痛ましく断腸の思いである。

時は流れて一九四七年、幸運にも生存した当時の在学生が、これら戦没学友の冥福を祈って塔の建立を発起した。戦後の混沌とした世相のなか苦労して募金運動を展開し同窓の先輩諸氏の協力を得て、一九五〇年五月二十五日この塔を完成した。

【鉄血勤皇師範隊の編成】

本部(隊員一六名 戦死一三名)
師範隊の指揮、軍司令部との連絡調整、食料の調達および師範隊の炊飯を担当

情報宣伝隊(隊員二二名 戦死九名)
千早隊とも呼ばれ、軍の情報や戦果の宣伝活動、占領地へ潜入して地下工作活動など

斬込隊(隊員五七名 戦死四六名)
菊水隊とも呼ばれ、敵の背後斬込みによる後方攪乱、軍司令部の歩哨勤務、負傷者の搬送など

野戦築城隊(隊員二四三名 戦死一二二名)
陣地構築や対戦車壕の敷設、主要道路や橋梁の補修や祖絶、弾薬や食料等の搬送など

特別編成中隊(隊員四八名 戦死三六名)
野戦築城隊から選抜して編成され軍司令部護衛、急造爆雷による対戦車攻撃など

現地入隊(隊員七五名 戦死六四名)
一九歳に達した学友が三月一日現地部隊に入隊

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.84

こちらは「沖縄師範学校沿革」です。ギリギリ読めますね。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.85

ひめゆり学徒隊の引率教師である仲宗根正善先生が詠まれた詩です。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.86

名嘉元浪村氏が詠まれた詩です。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.87

この碑の碑文は全く読めませんし情報もありませんね。

「平和の像」

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.88

「平和の像」です。この像は、九死に一生を得て戦場から生還した沖縄師範学校生であった大田昌秀氏、外間守善氏、安村昌享氏らが、後に自らの戦場体験を綴った「沖縄健児隊」を刊行し、それが松竹により映画化された際の印税などを元に、大田氏が中心となって製作建立したものだそうです。像は彫刻家野田氏の作で、向かって右側の少年が「友情」を、中央の少年が「師弟愛」を、左の少年が「永遠の平和」を象徴しているとの事です。

因みに三体の立像の下に碑の説明文があるのが見て取れます。実は最近まで碑文の存在に気づきませんでした。どうしても目線が三体の像に行ってしまうので、雰囲気的に何かの模様かなと思っていました。(^^;)

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.89

像は彫刻家野田氏の作で、向かって右側の少年が「友情」を、中央の少年が「師弟愛」を、左の少年が「永遠の平和」を象徴しているとの事です。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.90

ここに「平和の像」碑文が書かれています。

「平和の像」碑文

昭和二十年三月三十日、第二次世界大戦最中、沖縄師範学校全職員生徒は、軍命により、第三十二軍司令部の直属隊「鉄血勤皇師範隊」として軍に動員された。然るに同年六月二十二日、南西諸島方面軍最高司令官牛島満中将が自決するに及び師範隊は解散するに至ったが、この間、総員四百八十名中三百有餘名が守備軍と運命を共にしたのである。ここに、生存者の手によって「慰霊の塔」が建立されたのであるが、更に大田昌秀、外間守善編「沖縄健児隊」の出版並に同名映画の上映記念事業として、廣く江潮の有志の方々の御後援の下に、この「平和の像」は建てられたのである。若い身命を捧げて散った師友達の冥福を祈ると共に、それらの尊い殉死によって齎された平和への希願を永久に傳えるべく生存者達は心から祈るものである。

発起者 沖縄師範學校生存者 

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.91

「平和の像」の右下にご覧のように、初代の「健児之塔」がひっそりと建っています。碑は正確には「健兒之塔」と書かれているそうです。なぜ初代の「健児之塔」はここに建てられたのかなと思ったら、この石碑の下には沖縄守備軍管理部の壕があり、師範学校男子部の生徒が大勢亡くなった事を金城和信氏が探し当てたからなのですね。

男子中学校学徒を祀る塔も建てたいと念じていた金城和信氏は、ある時真和志村民から「井戸近くの壕で、鉄血勤皇隊の生徒たちが自決を遂げたらしい」と言う話を聞き、金城夫妻と当時衛生課長だった方、軍司令部付で最期まで牛島閣下に付き添われた方等6名で、勤皇隊生徒が自決したという壕を探したところ、その日の内に壕は発見され、安らかに眠っているかのような学徒達のご遺体が重なるようにあったと言います。

この初代の「健児之塔」は、終戦後米軍から真和志村村長に任命された金城和信氏が、昭和21年(1946年)に入ってから、「魂魄之塔」「ひめゆりの塔」に続いて建立したものですね。金城和信氏は、沖縄戦で最愛の娘二人を失った事もあり、戦後の混乱期にも関わらず、また米軍の遺骨収集の許可が容易に下りないなかで粘り強く交渉を続けるなど、慰霊塔(碑)の建立と遺骨収集を含めた戦没者の慰霊活動に生涯を通し全力で取り組まれた方です。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.92

この碑文も判読が厳しい部分もありますがご紹介してみます。
ひとすぢに お久にまもらん わかうどら いのちはてにき えりをたださむ
昭和三十九年献 渕上房太郎

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.93

詩が詠まれている様なのですが、ご紹介出来るレベルで読めません。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.94

「平和の像」の背後には、ご覧のようにフィッシャーがあります。このフィッシャーを降りて行くと納骨堂の横に行く事が出来ます。距離は30mぐらいですね。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.95

鉄血勤王師範隊の生徒が配属されていた「沖縄守備軍管理部の壕」を訪ねてみましょう。写真遊歩道の右下に降りる階段の下に壕があります。首里の司令部壕と比べて、ここ摩文仁の司令部壕は極めて弱小なので、司令部の機構を丸ごと収容する場所はありませんでしたから、摩文仁司令部壕を中心として、あちこちに分散された形で司令部機能を維持したものと思われます。それでは写真中央の右に曲がる階段を降りてみましょう。

因みに、遊歩道の先にある階段を登ると、摩文仁之丘の最も高い場所、沖縄戦当時は摩文仁89高地と呼ばれた場所に建立されている「黎明之塔」、「勇魂之碑」、そして「牛島軍司令官、長参謀長、両将軍之墓跡」に行けますね。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.96

遊歩道を右に曲がり、階段を降りて行きます。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.97

階段からは、こんな風景になっています。雨の日は滑るかも知れません。十分注意して降りて行きます。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.98

「平和の像」の後ろ側に回るとご覧のような風景になります。眼前の壕が「沖縄守備軍管理部の壕」となります。小さな壕なのですが開口部は大きいですね。壕口は東を向いています。壕口は海上に展開する米軍からは見えません。また米軍機が上から見ても壕口があるとは絶対に見えないはずです。そして階段のある側は巨岩がそびえ立っていますので、「黎明之塔」がある上部からも壕口は全く見えないという実に素晴らしい場所にある壕だと解ります。また壕内はL形になっていて、直撃弾を浴びる可能性も低いです。ここは絶好の避難壕だと感じました。この壕内で昔、遺骨収集をやった事がありまして雑骨が多数発見されました。その時に頭に浮かんだのは、この壕で亡くなられた将兵はナパーム弾にやられたのだろうなと考えました。

ちなみにこの壕がある場所に注目です。と言いますのも「平和の像」横にある階段を登っていくと、摩文仁における第三十二軍司令部壕があります。またこの壕から下に目をやると、40メートルぐらい先には司令部の炊事等を行う第三十二軍関連部隊が入っていたと推測されるとても大きな壕があります。私と吉井さんで確認していますが、立哨兵が立っていたと思われる石組みで造作された半坪ほどの平坦な地面が、周囲の風景に不自然なほどキチンと整地されていた事から、二人でそのように推測しています。話が少しそれましたが、当然重要なその二つの壕を伝令や食料や水を調達するために将兵が行き来したと思われますが、その行き来するルートの途中にこの学徒隊が居た壕があり、これは単なる偶然ではないと思われます。鉄血勤皇隊師範隊の特別編成中隊の任務には、軍司令部護衛というのもあったと書き記されていますのでね。

沖縄戦を詳細に書き記した『沖縄決戦』(八原博通著)によれば、「小径を下りつくした脚下の海岸には直径十数メートルの泉があり、その傍らには巨大な奇岩に囲繞された洞窟がある。泉は命の綱とたのむ唯一の給水源で、洞窟は炊事場になっている。戦況急迫した場合、果たして山上の洞窟と断崖下の生命源が連絡を保持し得るや否や…」と書かれています。

これは摩文仁の第32軍司令部の洞窟から見た状況ですから、「直径十数メートルの泉」とは、チンガー(金井戸)を指しているのは間違いないでしょう。また「その傍らには巨大な奇岩に囲繞された洞窟がある」と書かれていますが、チンガーの周囲にある巨大な壕とは、私が指摘する壕以外には見当たりません。炊事場というのは第三十二軍司令部の炊事場という事になろうかと思います。現在この学徒隊が居た壕の上はコンクリート製の階段が整備されていますが、沖縄戦当時も上の司令部壕まで登りやすい地形ではなかったかと推測されます。私も実際の階段の両側で遺骨収集をやった事がありましたが、現在の階段ルートが一番上りやすいルートであると認識した事を覚えています。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.99

「沖縄守備軍管理部の壕」のジャングルを写しています。ご覧下さい。岩場だらけの全く先が見えない、極めて険しいジャングル帯となっています。壕も大小織り交ぜて、数え切れないぐらい無数にあります。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.100

「沖縄守備軍管理部の壕」の正面です。暗く写ってしまいましたね。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.101

壕口手前右側の平らな部分を撮影しています。この場所は至近弾が炸裂したりすると、とても危険場所ですから、将兵や学徒は居られませんが、壕そのものがとても狭いので、この部分に色んな軍需品を置いた可能性がありますね。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.102

壕内部の様子です。写真中央部、奥まった部分をよく見ると光が射し込んでいますね。もう一方の出入り口と言う事になります。と言う事で、とても小さな壕と言えるでしょう。ここが「沖縄守備軍の管理部の壕」と呼ばれる場所です。ブロックが積んである場所は納骨堂です。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.103

ブロックで囲まれているのが納骨堂です。この納骨堂がこの壕内空間の様子を表しているのが解ります。この壕の床はほぼ平面になっているのが解りますよね。壕の天井面はと言いますと、納骨堂のブロックの積み方を見ると解りますが、天井面が斜めになっているのが解りますね。この壕は奥へ行くほど天井面が低くなるのです。その意味で、人が滞在できる範囲というのは、ごく限られた範囲になっていた可能性が高いですね。

因みに、ブロック塀は岩の下に積み上げられている関係で工事の仕上がりが甘く、上端がキチンと埋められていないため、納骨堂内部を見る事が可能です。ですから定点観測のつもりで、ついつい中を見てしまうのが実情です‥‥。納骨堂内部については、30年ぐらい前は満杯レベルで大腿骨や頭骨など大きなご遺骨が山のようになって納められていました。大量のご遺骨を見るのは初めてでしたから驚きを隠せませんでした。しかしながら近年は地面が見えるぐらいに激減しています。

推測するにご遺骨は土の中にあるよりも、一定の湿気がある空間にある方が微生物分解による滅失が早いのではないかと感じます。空間の湿度がカラカラに乾いていれば別でしょうが、この壕内の納骨堂は、この壕内の一番低い部分に設置されていますから、恐らく台風などの大雨の時は水浸しになる可能性もあると思われます。比較的乾燥しているこの時期でも、ここに入ると湿気を感じるぐらいですからね。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.104

「健兒之納骨堂」と書き記されています。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.105

壕内から振り返って壕口を見ています。ご覧のように、眼前には巨岩の壁がありますから、偵察機トンボに壕を発見される恐れはありませんし、この壕口は真東を向いているので、艦砲弾の直撃もありません。ですから壕前に至近弾が落ちない限り、かなり安全性は保てた壕だと言えるでしょう。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.106

納骨堂の右側にご覧のような空間があります。決して広くは無いですが、突き当たりから左側にも空間があります。非常に狭いですし、天井面も低くなっていますから奥に行くほど屈まないと動けなくなります。すでにこの辺りでも、前屈みにならないと頭を打つ可能性がある状況ですね。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.107

地面をご覧下さいませ。写真では解りにくいですね。写真手前から写真奥に向かって、川底のように雨水が流れた痕跡がハッキリと現れています。台風とか大雨の時には、大量の雨水がこの壕の最奥部に流れ込むと思われます。その意味で、沖縄戦末期の梅雨時には、この壕内も水浸しであった可能性が高いですね。極めて居心地が悪い壕であったと推測されます。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.108

天井面もかなり低くなっています。また左右に岩があり幅も狭いですが、奥に空間があるのが解ります。奥へ入ってみましょう。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.109

地面をご覧下さい。雨水流れたと言うレベルを超えて、濁流が流れたと言える痕跡‥‥。ですよね。この壕内には、壕の外のコンクリート製階段辺りは勿論の事、かなり広範な場所に降る雨水が、壕内のこの場所、即ち壕の最奥部に流れ込むようです。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.110

ここが壕内の最奥部です。納骨堂の真裏と言えるでしょう。やはりここでも地面をご覧下さいませ。大量の雨水が流れたような‥‥。水溜まりがあったような‥‥。即ち一時的であっても水浸し状態になるのが解ります。繰り返しますが、沖縄戦末期の梅雨時には、この壕内も水浸しであった可能性が高いですね。居心地は最悪であったと推測されます。

因みに、昔はこの最奥部は、大小無数の岩が散在しゴツゴツした地面でしたが、ある年に徹底した遺骨収集が為されたのでしょう。そうした岩が全て外に持ち出され、ご覧のように平らで居心地の良さそうな地面に変わりました。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.111

場所を変え、この写真は、この「沖縄守備軍管理部の壕」の突き当たりにある別の壕口方面を捉えています。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.112

ご覧のように、岩と岩の隙間のような場所になりますが、若干ですが人が滞在出来そうなスペースがありますね。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.113

ここもそうです。若干のスペースがありますね。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.114

壕口を出ました。フィッシャーとなっているのが解ります。ご覧のように、人が歩ける程度のスペースがありますし、地面も急勾配ながら上り下り出来そうな坂道となっています。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.115

この辺りは岩がゴツゴツしていて、普通の靴だと危険なので、これ以上登っていくのは止めにしますが、この坂道を登りきると‥‥。そうです。「平和の像」の横に出るのです。(^o^)

すでに鬼籍に入られていますが、大田昌秀氏(92歳)は、琉球大学教授として沖縄戦と戦後史研究の第一人者として活躍されると共に、沖縄県知事を二期八年務められ、参院議員などを歴任されました。その大田氏は沖縄戦当時、沖縄師範学校男子部の生徒でした。そして昭和20年3月に第32軍司令部直属部隊として従軍しました。師範隊の千早隊は戦況情報の収集や戦況の宣伝が主な任務でした。千早隊も第32軍司令部の島尻撤退に伴い摩文仁に移動、大田昌秀氏もこの管理部の壕に一時的に滞在した事があります。その時の様子が綴られた文面がありましたのでご紹介します。

《書籍ご紹介》

「丸別冊 最後の戦闘 沖縄・硫黄島戦記」

潮書房 平成元年(1989年)初版

(451ページ)
百メートルほども進まないうちに艦砲の破片で足裏をそがれて、わたくしは歩けなくなった。そこへ迫撃砲の集中攻撃を受け、「生死はもろともに」と言い交わしていた三人は、ちりぢりになってしまった。

ほとんど這うようにしてわたくしは、夜明け近く、軍司令部の管理部の壕までたどりつくことができた。そこは、厚い岩盤におおわれ、砲撃されても比較的安全であった。

だが、敵も考えたものだ。翌二十日、米軍はこの一帯の岩山に飛行機からガソリンを散布したり、ガソリンタンクを落下した後、焼夷弾を落として火攻めにした。文字どおりの地獄絵図が目のあたりにくりひろげられた。

逃げ場を失った敗残兵や挺身隊の女性たちが、狭い壕内で黒焦げになって斃れていった。そこでも奇しくも生きのびたわたしは、死者の腐臭に居たたまれず、二日後の夕方、海へ出た。

疲れ切った体で泳げるはずもないのだが、陸路を歩けないので泳ぐしか道はない。海上の敵艦船から発せられるサーチライトの幅広い光帯が、海上をゆっくりと移していく。敵が、早くも摩文仁部落まで押し寄せてきたので、この一角に追い詰められた人びとは、泳げようと泳げまいと海へ飛びこむしかなかった。

人びとは、弾がこない方へと本能的に移っていったのである。しかし結果は悲惨そのものであった。せっかく、ここまで生きのびてきながら、水死するものが後を絶たなかった。

「丸別冊 最後の戦闘 沖縄・硫黄島戦記」から転載させて頂きました

第三十二軍司令部の食事は、ここ「沖縄守備軍の管理部の壕」から20mぐらい離れた、隣の壕と言えるほど近い「炊事壕」で煮炊きされ、司令部壕まで運ばれました。食事を「炊事壕」から第三十二軍司令部まで運ぶルートは、その日の砲撃状況や当番兵の考えにより違っていたでしょうが、敵艦船に常に見張られている状況下で、可能な限り安全な岩陰を進むと言う意味で、この付近の岩場をまず登って行ったに違いありません。

沖縄戦末期には、その「炊事壕」から第三十二軍司令部壕までの飯上げが如何に危険であったか‥‥。『沖縄決戦』(八原博通著)によれば、「海岸の洞窟で焚いた食事は、敵前百メートルの断崖の道を山頂の洞窟に、挺身斬り込みの要領で当番兵たちが運ぶのである。この危険な任務に服する登板兵たちの表情は、日ごとに深刻になる。参謀長の当番兵の一人が、断崖の中腹で犠牲になったのも、このころであった。‥‥」と書き記されています。

実際に現地をご覧になれば明らかですが、第三十二軍司令部壕の海岸側壕口までの、最期の30mぐらいは急峻な崖を登らねばなりません。しかも岩場では無く土も多くて、極めて滑りやすい土壌帯となっているのです。そして急峻な崖になっているのみならず、遮蔽物は一切ありません。海上の米艦船に丸見え状態なのです。登る姿を見られたら確実に狙撃されるでしょう。

この壕口の急峻な崖について、如何に危険な崖であるかは、『沖縄決戦』(八原博通著)に書かれています。八原高級参謀も司令部壕脱出に際して、この急峻な崖を降りようとした訳ですが、最初の第一歩から転倒し滑落したと記述されています。(397頁)月光の加減で緩やかに見えた断崖は、やはり急峻であった。私は第一歩より転倒し、土砂岩石と一緒になり、非常な速度で二、三十メートル転落した。そのはずみで、右手にした拳銃が一発轟然と暴発した。敵の射弾が八方より集中する。転落しつつ頭、身体、ところきらわず岩石にぶつかる。とうとうここで死ぬるのかと観念する‥‥。と書かれていました。

第三十二軍司令部の食事は、ここから南西方面40mぐらいの場所にある「炊事壕」で煮炊きされ、直線で100mぐらいの所にある司令部壕まで運ばれると書きました。その第三十二軍司令部の炊事壕に、平成27年(2015年)の遺骨収集で内部調査した事があります。その時の写真がありますので、次にご紹介致します。

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子38

【平成27年(2015年)2月9日】
吉井さんが立っている場所について、吉井さんは「もしかしたら歩哨が立っていた場所かもしれない」と語りました。確かに地面が平らになっています。手前側は石を積み上げて壕口通路を確保したように見えますしね。写真では解りにくいですが、吉井さんのすぐ前には壕口がありますので、その可能性はありますね。

沖縄戦を詳細に書き記した『沖縄決戦』によれば、「小径を下りつくした脚下の海岸には直径十数メートルの泉があり、その傍らには巨大な奇岩に囲繞された洞窟がある。泉は命の綱とたのむ唯一の給水源で、洞窟は炊事場になっている。戦況急迫した場合、果たして山上の洞窟と断崖下の生命源が連絡を保持し得るや否や…」と書かれています。

これは摩文仁の第32軍司令部の洞窟から見た状況ですから、「直径十数メートルの泉」とは、チンガー(金井戸)を指しているのは間違いないでしょう。また「その傍らには巨大な奇岩に囲繞された洞窟がある」と書かれていますが、チンガーの周囲にある巨大な奇岩に囲繞された洞窟とは、今私達がたたずんでいるこの壕以外には見当たりません。「沖縄師範健児之塔」の裏手にも壕が幾つかありますが、それは巨大とはとても言えない小さな壕群なのです。そして炊事場というのは第三十二軍司令部の炊事場という事になろうかと思いますので、警備のため歩哨が立つというのも納得できますね。

遺骨収集の様子39

近づいてみますとしっかりと石組みされています。この石を積んだ理由としては、戦後の遺骨収集ではその理由はあり得ないですし、石垣の風合いや劣化具合からして沖縄戦の渦中に積んだとみるのが妥当だと思えます。またこの辺りは何度も遺骨収集に入ったでしょうが、石組みを崩す必要が無かったから、今日まで往時のまま現存していると言えるかもしれません。という考察の上で、衛兵が長時間立つ場所だからこそ、地面を水平にしたという事なのかもしれませんね。

遺骨収集の様子40

それでは一緒に壕に入ってみましょう。

遺骨収集の様子41

結構複雑ですね。吉井さんが先行しています。吉井さん速いですね~。

遺骨収集の様子42

炊事壕に入ってから最初の明かりが見えました。壕口がありますね。人の出入りも十分出来そうです。この壕口は、私達が最初に入った壕口よりも、数メートル高い位置にありますね。

遺骨収集の様子43

ここは広い空間になっていますね。それにしても、やばいですよ。紆余曲折しています。方向感覚に自信のある私ですが、なんか迷子になりそうです。

遺骨収集の様子44

また壕口がありました。出入りするに十分な大きさですね。東側に口を開けていると思われます。二つ目の壕口よりも一段高い位置にある印象です。外部には目の前に巨岩があるので、壕口があるようには見えないと思います。

遺骨収集の様子45

吉井さんが一歩先行して、ルートを見つけてくれています。

遺骨収集の様子46

吉井さんが「遺品があるよ」と声を掛けました。近づいてみましょう。

遺骨収集の様子47

ビール瓶がありました。瓶の裏を見ています。私はアルコールが駄目なので、ビール瓶について詳しくないのですが、アルコール好きの吉井さんが、「このマークは大日本麦酒株式会社の印だね。その昔、札幌麦酒、大阪麦酒、日本麦酒(サッポロ、アサヒ、ヱビス)の三社が合併し誕生。戦後は財閥解体により、朝日麦酒と日本麦酒に分割された」と語ってくれました。と言う事で、沖縄戦当時の瓶のようですよ。

遺骨収集の様子48

ここも広い空間になっています。それにしても複雑な壕ですね~。そして文字通り巨大な壕である事が判明しました。とても大きな岩の中をくり抜いたように坑道が走り、所々に口が開いている‥‥。そんなイメージの壕である事が解りました。

遺骨収集の様子49

またまた開口部です。人の出入りはギリギリといった所でしょうか。お~。出ようと思えば出られそうです。光が差し込んでいるので逆光になっていて解りにくいですが、ここも広いです。外は障害物が無くて開けた空間がありそうです。何が見えるか開口部に近づいてみましょう。

遺骨収集の様子50

開口部はギリギリ人が出入りできそうです。そして外は開けているなと感じていましたが、見える風景にビックリです。ご覧下さいませ。写真中央に見えるのは「黎明之塔」です。同塔の上から2mから3mぐらいの上の部分ですが、柵も含めて白い塔がハッキリ見えています。また89高地山上も併せて見えていますね。写真では識別しにくいかもしれませんが間違いありません。写真の右下方向に第三十二軍司令部壕がある事になります。第三十二軍司令部壕まで、ここから直線で100mぐらいと語りましたが、あながち間違っていない事が判明しました。現在私達が居る場所は、この巨大な「炊事壕」の真北辺りに居ると思われます。

ここから見る風景は、今はこうして大きな樹木に覆われていますが、沖縄戦当時のように、木々がほとんど全て無かったとしたら、第三十二軍司令部壕の海岸側の壕口が、もしかしたらここから見えるかもしれません。そうだとしたら、有線でなくとも、ここから手旗信号で情報をやりとり出来るかもしれませんね。想像が過ぎますかね~~。(^^;)

遺骨収集の様子51

ここからは少し下に向かっているようです。

遺骨収集の様子52

更に下っています。ここも広い空間ですね。

遺骨収集の様子53

ここが「炊事壕」の一番底の部分と言って良いでしょう。「炊事壕」内部を一巡して来たようですが、ここまで見てきた通り、かなりの巨大な壕である事が判明しました。あちこちに広い空間がありましたし、通路部分も含めれば、かなりの人数の収容力がある事が判明しました。崖上の第三十二軍司令部壕と共に、この壕にも大勢の司令部首脳や直属部隊の兵士が寝起きしたのかもしれませんね。

不思議な現象です。この後最初に入った壕入り口部分に出ました。あれ~~~。何か狐につままれたような印象です。方向感覚を保持したまま、壕内を巡回していたと思っていましたが、全然違っていました。方向感覚に強い私でしたが、方向感覚は長時間壕内に留まると、結構狂ってしまうのですね~。まあ無事に出られたから由としましょう。「炊事壕」の印象としては、巨大な迷路と言った感じを受けました。今回は時間が無かったので、クマデや金属探知機は使用しませんでしたが、機会があればじっくり調査してみたいですね。(^o^)

過去の写真掲載はここまでです。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.116

この遊歩道の階段を登ると「第三十二軍司令部壕」や「黎明之塔」まで行けます。それではこの階段を登っていきましょう。『沖縄決戦』(八原博通著)に書かれている、「海岸の洞窟で焚いた食事は、敵前百メートルの断崖の道を山頂の洞窟に、挺身斬り込みの要領で当番兵たちが運ぶのである」との事ですから、私達もこの飯上げルートを追体験してみましょう。

但し、当番兵達は、この階段が設置されているコースは登らなかったと思います。沖縄戦当時の、このルートは遮蔽物がほとんど無かったからです。現在は木々が繁茂していますが、沖縄戦当時は白い石灰岩の山に変貌していたのです。私が見つけた、ここから東に進む飯上げルートだと、最後の30mのみ敵艦船に露出するだけです。いつか機会があれば、私が見つけた飯上げルートをご紹介したいと思います。

コンクリート製のこの階段の数は凡そ400段あると言われていますし、沖縄県内でも最長の階段だと言われているそうです。それでは登って行きますよ。司令部要員の食事を運ぶ当番兵になったつもりで、飯盒を15個ぐらい背負って登るのです。重量は20kgぐらいですから軽いですが、嵩張りますよ。山上まで直線で約100m。階段は右に左にカーブしていますから延べ130mぐらいあるでしょうか? 途中階段の踊り場が少しありますが、全てが登り階段ですからね。覚悟して下さい。(^_^;)

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.117

最初の直線階段を登り終えると、今度は緩やかに左にカーブしていきます。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.118

勾配も少しキツくなってきました。階段がずっと続いていますね。この辺りでも金光教の遺骨収集が行われました。懐かしい場所です。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.119

まだまだ先は長いです。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.120

お~。階段の終わりが見えない‥‥。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.121

お~。明るくなってきたぞ。先が見えてきたと言う感じですよ。(^o^)

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.122

「黎明之塔」のある崖下まで来ましたね。山上の休憩小屋が見えてきましたね。(^o^)

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.123

遊歩道右側の崖を見ています。遊歩道の幅は約1.5mありますが、こんな道が沖縄戦当時あるはずもありませんから、戦後造成して遊歩道を作ったものと思われますから、その土盛りを造成した状況を観察したかったのですが、雑草が茂っていて写真では、その造成状況が解りませんね~。

写真奥の、柵が崖から出ている部分が、第三十二軍司令部壕口に向かう階段部分の柵ですね。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.124

第三十二軍司令部壕の海岸側の壕口で手を合わせていきましょう。この階段を降りると壕口があります。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.125

ここで手を合わせました。昔はこの手前の柵は無かったのですが、何らかの理由で二重に柵が設けられてしまいました。

「第三十二軍司令部壕」

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.126

昔はこの位置まで入れたと言う事になります。写真右下にある「第三十二軍司令部終焉之地」碑は相当の昔からありますね。 柵の中にカメラを入れて撮影しています。壕口です。八原博通著「沖縄決戦 高級参謀の手記」で、氏は海側に面したこの壕口を「副官部出入口」と表現されていますね。因みに同著では、摩文仁集落側の壕口は、「参謀部出入口」、そして摩文仁山頂にある壕口は、「山頂出入口」などと書き記しています。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.127

司令部壕の壕口上側の岩場を撮影しています。今にも崩れてきそうな雰囲気ですよね~。沖縄戦当時、軍司令部の壕であると米軍に知れてからは、壕口に向けて想像を超える艦砲弾が撃ち込まれたでしょうから、岩盤も緩んでしまいますよね。と言う事で、立ち入り禁止としたのは壕口上側の岩石が崩落する可能性があるから‥‥。その可能性が高いですね。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.128

柵の外側の崖を撮影しています。ここですよ。八原高級参謀が壕脱出に際して最初の第一歩から転倒し滑落したと言う場所です。現在は雑木林となっているので、あまりイメージ出来ません。しかし写真上端の風景は、草木が茂っていて解りにくいですが、この写真の中に10mぐらい崖下の様子が収まっている事から、凄く急な崖であるのはそれとなく解りますね。私は何度かこの崖を登り降りしました。ここはアダンが育つのではなく、雑木林となっている事からも土質が解りますね。突き出た岩が所々ありますが、土が主体の土壌なので、岩がゴツゴツした岩場と違い、滑りやすい状況でした。

それでは、『沖縄決戦』(八原博通著)によれば、八原高級参謀が壕脱出に際して最初の第一歩から転倒し滑落したと言う、その場面を再度引用させて頂きます。 (397頁)月光の加減で緩やかに見えた断崖は、やはり急峻であった。私は第一歩より転倒し、土砂岩石と一緒になり、非常な速度で二、三十メートル転落した。そのはずみで、右手にした拳銃が一発轟然と暴発した。敵の射弾が八方より集中する。転落しつつ頭、身体、ところきらわず岩石にぶつかる。とうとうここで死ぬるのかと観念する‥‥と書かれていました。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.129

階段の下側を撮影しています。ご覧のように、鉄網に石を入れた基礎の上に階段が設けられているのが解ります。つまりこのアルミ製の階段部分を構成する平地部分は、沖縄戦当時は無かったと言う事になりますね。沖縄戦当時の壕口の前に平らな場所はあったのか‥‥。牛島司令官は壕口から約十歩辺りに座したとあります。今こうして体を大きく階段からせり出して下の地面を観察すると、三人の将軍が自決するに相応しいぐらいの平地はあるように見えます。

『沖縄決戦』(八原博通著)によれば、牛島司令官と長参謀長が自決される前の様子を次のように記述しています。
「洞窟の外に出ずれば、月未だ南海に没せず、浮雲の流れ迅く、彼我の銃砲声死して天地静寂、暁霧脚麓より静かに谷々を埋めて這い上がり、万象感激に震えるかの如くである。洞窟出口から約十歩のあたり、軍司令官は断崖に面して死の座に着かれ、参謀長、経理部長またその左側に位置を占め、介錯役坂口大尉がその後方に、私はさらに彼の左後方に立つ。残存の将兵は出口に起立して、大いなる瞬間を待つ」とあります。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.88

【沖縄県公文書館所蔵】
分類名:米国海兵隊
アルバム名:米海兵隊写真資料19
撮影地:
撮影日:1945年 6月27日
写真解説:
【原文】 Gen. Stilwell (center) talks to Marine and Army Generals after inspecting cave in hill #89 which was Japan's 32nd Army General Command Post ( LtGen Ushijima). The cave's mouth can be seen in the background.
【和訳】日本陸軍第32軍総司令部(牛島中将総司令官)の置かれた89高地の壕を視察した後、海兵隊や陸軍の司令官と話すスティルウェル大将(中央)。背後にその壕の入口が見える

サイト管理人コメント:
米軍が第三十二軍司令部壕前で撮影した写真です。壕口前の通路の広さに注目です。この写真を見る限り、刀を振るう介錯人も含めて、自決の為に三名が座する場所はギリギリあるように見えます。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.130

第三十二軍司令部壕の慰霊巡拝を終えて、崖上に上がっていきます。展望&休憩小屋も見えます。あと少しですよ。(^o^)

「勇魂の碑」

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.131

長い長い階段を登り終えると、すぐに「勇魂之碑」があります。摩文仁の奥まった場所、89高地山上近くにあります。参道上に建立されているので、見落とす可能性は無いと思います。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.132

「勇魂之碑」です。第三十二軍司令部の将兵と軍属約六百人を祀った鎮魂碑ですね。「勇魂之碑」の左側には、「第三十二軍司令部戦没者名碑」が設けられていました。沖縄守備軍第三十二軍司令部の指揮下で、沖縄を守るため、祖国日本を守るため、六万五千人余りの他府県出身軍人と二万八千人余りの沖縄県出身軍人と軍属が、渾身の限りを尽くして雄々しく戦い、そして散華されたことを長く語り伝えたいですね。

米国軍事評論家 ハリソン・ボールドウイン氏は次のように論評しました。「太平洋戦争(大東亜戦争)中、日本軍で最も良く戦ったのは、沖縄防衛部隊である。また太平洋戦争において日本の名将を二人あげるとすれば、陸軍の牛島と海軍の田中である」(注記:田中とは第二水雷戦隊司令官の田中頼三海軍中将です)

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.93

【沖縄県公文書館所蔵】
分類名:米国海兵隊
アルバム名:米海兵隊写真資料02
撮影地:
撮影日:
写真解説:
【原文】 Group picture of the staff of the Japanese Thirty-second Army at Okinawa taken in February 1945 prior to the American assault. Numbers identify: (1) Rear admiral Minoru Ota, Commander, Okinawa Naval Base Force;(2) Lieutenant General Mitsuru Ushijima, Commanding General. Thirty-second Army; (3) Lieutenant General Isamu Cho, Chief of Staff, Thirty-second Army; (4) Colonel Hitoshi Kanayama, Commanding Officer, 89th Infantry Regiment; (5) Colonel Kakuro Hongo, commanding Officer, 32d Infantry Regiment; (6) Colonel Hiromichi Yahara, Senior Staff Officer (G-3), Thirty-second Army.
【和訳】1945年2月、米軍の上陸を前に撮影した日本軍第32軍の集合写真。(1)大田実海軍中将、(2)牛島満第32軍司令官、(3)長勇第32軍参謀長、(4)金山均歩兵第89連隊長、(5)北郷格郎歩兵第32連隊長、(6)八原博通高級参謀

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.133

碑文です。読めますね。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.134

「第三十二軍司令部戦没者名碑」です。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.

第三十二軍司令官牛島満中将以下の戦没者名が並んでいます。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.135

福岡県出身の故大坪佳嗣氏の記名もありますね。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.136

少し見にくいですが、大きな岩の下に書かれている碑文によれば、「牛島軍司令官、長参謀長、両将軍之墓跡」と記されています。

米軍が撮影し、現在は沖縄県公文書館が保管している、第32帝国陸軍司令官牛島中将と参謀長長勇将軍の墓に関わる写真を下に転載させて頂きます。ご覧下さいませ。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.95

【沖縄県公文書館所蔵】
分類名:米国陸軍通信隊 沖縄関係
アルバム名:占領初期沖縄関係写真資料 陸軍01
撮影地:糸満市摩文仁
撮影日:1945年 6月28日
写真解説:
【原文】 A Jap prisoner of war stands in front of the graves of Gen. Isamu Cho, Chief of Staff, and Lt.Gen. Mitsuru Ushijima, former Commanding General of the 32nd Imperial Japanese Army, on hill 98. Picture made at request of the Office of Psychological Warfare.
【和訳】98高地にある第32帝国陸軍司令官牛島中将と参謀長長勇将軍の墓の前に立つ日本軍捕虜。心理作戦部隊の依頼で撮影

サイト管理人コメント:
和訳部分に、「心理作戦部隊の依頼で撮影」と書かれいますように、この写真は沖縄守備軍将兵に投降を促すプロパガンダ戦の為に撮影されたもので、真実とは異なる描写が為されている可能性があります。その点を含み置いてご覧下さいませ。

「高摩文仁グスク」

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.137

「高摩文仁グスク(たかまぶにぐすく)」と書かれていますね。この周囲一帯は、中世の遺跡である古いグスクがあった場所のようです。ただグスクの築城時期や築城者は不明のようです。この掲示がある場所は、平和祈念公園最奥部の「黎明之塔」の少し手前に設置されています。ちなみに糸満市からここ摩文仁までの地域一帯は、沖縄本島全体の中でも、際だって古城の多い地域として知られています。

例えば高摩文仁グスクから西側を見ても、ガーラグスク、米須グスク、石原グスク、波平グスクなどが規則正しく並んでいます。これはこの地域一帯の石灰岩で構成される平坦面が、活断層活動により切断された傾動地塊となっているからであり、結果として古城の南側が緩やかな傾斜となり集落が発展し、北側の断層崖の崖上にグスクが立地するという共通性があります。

これは与座の東西に連なる断層崖、また「魂魄の塔」から喜屋武岬灯台まで連なる断層崖も同じ事が言えます。南側は緩やかな傾斜面、北側は断層崖という地形ですね。

お城と言えば大概高台にあります。またお城のある所には、付近に必ず湧き水や川が流れています。沖縄守備軍が構築した陣地壕も将兵への新鮮な水の補給を意識して配置された事は間違いありません。こうした理由から、古城のあった場所、或いは古城の近くに守備軍陣地を構築するのは必然であったとも言えるでしょう。

ちなみに高摩文仁グスクとしての残存する遺構は、僅か数メートルの切石積の石垣がのこ残るのみとなっていますが、ロケーションが糸満市喜屋武の具志川グスクに似て素晴らしい眺望ではあります。

《過去の写真ご紹介》

2017年1月12日/遺骨収集の様子no.14

【平成29年(2017年)1月12日撮影】
鹿児島県の慰霊塔「安らかに」です。「高摩文仁グスク」の遺構として残存する切石積の石垣は、鹿児島県の慰霊塔「安らかに」の背後にあります。

2017年1月12日/遺骨収集の様子no.15

松永さんが見つめている背後の石垣が「高摩文仁グスク」の遺構として残存するものです。写真の上の方には構築物がありますが、歩道になっており、「勇魂の碑」や「黎明之塔」へ到る通路になって居ます。推測するにわざわざ橋にしたのは、この「高摩文仁グスク」の石垣を保護する為だと考えられますね。その証拠として橋脚に注目して下さい。右側の橋脚はコンクリート製で、石垣のある左側は、石垣を保護するかのように橋脚を設けていません。

2017年1月12日/遺骨収集の様子no.16

写真左側の雑な野面積みの石垣は、一つの推測ですが公園整備の際に積まれた石垣で、写真中央から右側の布積みの石垣が「高摩文仁グスク」の石垣ではないかと推測されます。勿論右側の布積みの石垣自体も、そのほとんどが戦後再構築されたものに違いありません。なぜなら摩文仁に第三十二軍司令部があると判断した米軍は、艦砲砲撃などでで摩文仁89高地を徹底的に破壊し、月世界のように白い石灰岩の小山にしてしまったのですから。

2017年1月12日/遺骨収集の様子no.17

歩道橋の下から、振り返って撮影してみました。

2017年1月12日/遺骨収集の様子no.18

歩道橋の下をくぐり撮影しています。奥に進むにつれて石垣の高さも僅かな高さになります。

2017年1月12日/遺骨収集の様子no.19

歩道橋を越えたあたりの石垣です。この辺の石垣の色も、通常の石灰岩の劣化による変色とは違い、砲撃の際に付着した黒煙なのかとても黒っぽいし、雰囲気的に米軍の攻撃による破壊を免れて、戦前から残存する石垣のような印象です。あくまで印象だと断っておきますが…。また石垣の高さが1メートルぐらいしかありません。これでは敵からの防御は出来ませんから、上の方にはもっと高く石垣があったのかも知れません。

2017年1月12日/遺骨収集の様子no.20

石垣の一番奥です。この先は北側に位置しますが、今度は崖になっています。そんなに高い崖ではありません。高摩文仁グスク全体で、場所により違いますが、3~5メートルぐらいの崖になっています。ですから敵からの防御という意味では、この東方に面する石垣側の防御態勢が城の防衛力を示す事になるでしょう。

過去の写真掲載はここまでです。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.138

「黎明之塔」です。摩文仁之丘の最も標高の高い場所、沖縄戦当時は89高地と呼ばれていた場所に建立されています。

「黎明之塔」

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.139

第三十二軍司令官牛島満中将と参謀長長勇中将を祀る「黎明之塔」です。現在の塔は、昭和27年(1952年)6月に南方同胞援護会の助成により建立されたものです。また昭和37年(1962年)10月には改築されました。揮毫は戦後総理大臣となった吉田茂氏です。この慰霊塔の近くには沖縄を守る第三十二軍の最後の司令部壕がありまして、6月23日黎明午前4時30分、司令官牛島満中将と参謀長長勇中将は自刃して果てました。またこの「黎明の塔」は、裏側から見ると司令官牛島満中将が割腹自決を遂げる姿になっていると言われています。

「黎明之塔」は摩文仁之丘の最も高い場所にあり、正式には摩文仁岳と呼ばれる標高は89メートルの位置にあるそうです。またこの付近一帯は高摩文仁グスクの跡地でもあり、鹿児島県の慰霊塔付近に、往時を偲ぶ石垣が残されています。

第三十二軍司令官牛島満中将と島田叡(あきら)沖縄県知事にまつわる話として、次のような会話がありました。6月16日沖縄県庁の島田知事が「轟の壕」を後にして、牛島満中将と参謀長長勇中将をこの司令部壕に訪ねて来ました。島田知事は「最後の行動を共にさせて頂きたいので、この壕に居らせてほしい」と頼まれたそうですが、牛島満司令官は「自決するのは我々だけでよろしい。知事は行政官で戦闘員ではないのだから、ここで死ぬ必要はありません」と言われたそうです。牛島満司令官は島田知事が司令部壕に居ると、危機が迫った時に自決しかねないと思われたようで、結果として司令部壕から東側200メートルぐらいの場所にある軍医部の壕に入るように勧められ、そのように軍医部の壕に移られたそうです。(「沖縄の島守 内務官僚かく戦えり」田村洋三著より)

第三十二軍司令官牛島満中将と参謀長長勇中将のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

所在地ご紹介

「駐車場・トイレは、平和祈念公園内の施設を利用出来ます」

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.140

碑文です。年々劣化していますね~。更には鈍器で擦ったか、石を打つけたのか‥‥。えぐり取られている場所が何カ所もありますよね。慰霊塔そのものも、忘れ去られているかのように、改修工事が為されず‥‥。悲しい事態です。(^^;)

【黎明之塔 碑文】

第三十二軍は沖縄県民の献身的協力を受け力斗奮戦三ヶ月に及んだがその甲斐も空しく将兵悉く祖国に殉じ軍司令官牛嶋満大将並びに参謀長長勇中将等此の地おいて自刃す時に昭和二十年六月二十三日午前四時三十分茲に南方同胞援護會の助成を得て碑を建て永くその偉烈を傳う

昭和三十七年十月 
財団法人沖縄遺族連合會 

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.99

【沖縄県公文書館所蔵】
分類名:戦跡・慰霊
アルバム名:琉球政府関係写真資料
撮影地:
撮影日:1959年 1月
写真解説:
【原文】
【和訳】 自由民主党青年部慰問団(深沢充団長) 糸満 摩文仁 黎明之塔

サイト管理人コメント:
昭和27年(1952年)6月に建立された初代の「黎明之塔」です。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.100

【沖縄県公文書館所蔵】
分類名:戦跡・慰霊
アルバム名:琉球政府関係写真資料172
撮影地:
撮影日:1961年 2月5日
写真解説:
【原文】
【和訳】 日本政府派遣医師団 糸満 摩文仁 黎明之塔

サイト管理人コメント:
見渡す限りの草原が見えます。この写真は昭和36年(1961年)に撮影されました。この頃はまだ国立戦没者墓苑や各県の慰霊塔は全く無かったのですね。写真では、沖縄戦から戦後16年が経過した摩文仁山上の姿が映し出されていますが、ご覧のように草原と言ってもよい状況であり、大きな樹木が全く見当たりませんね。人の背丈を超えるぐらいの樹木も散見されますが、幹が細く、沖縄戦後の16年の間に芽吹いた樹木であるような印象を受けます。ここ摩文仁は第三十二軍司令部があったと言う事で、空から海からと、米軍による徹底した砲撃による集中射を浴びた場所でもありますが、一木一草残らず砲爆撃で吹き飛ばされたのを裏付けるような光景が広がっているのが印象的ですね。

平成31年(2019年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.54

【沖縄県公文書館所蔵】
分類名:戦跡・慰霊
撮影地:
撮影日:1963年 6月
備 考:
写真解説:【原文】
【和訳】糸満 摩文仁 黎明の塔

サイト管理人コメント:
「黎明之塔」は、昭和27年(1952年)6月に南方同胞援護会の助成により建立され、昭和37年(1962年)10月に改築されました。上掲写真は昭和38年(1963年)6月に撮影された事から、恐らく初期のコンクリートブロックで成形され、一本の石柱が立っていたものを、現在の姿に改築した後で撮影されたものと思われます。

沖縄および沖縄近海の制海・制空権を失い、本土などからの補給路を遮断された沖縄守備軍は、昼夜を分かたず打ち込まれる砲爆撃に耐え、孤立無援の中で、昼間は陣地壕に潜み、肉弾攻撃的な夜襲にて奪われた陣地を奪還するという、限られた戦い方しか出来ませんでしたが、日本軍将兵はそれに良く耐え戦い抜いたと言えるでしょう。

米軍は進軍するに際し、準備砲撃として、守備軍陣地の背後を徹底的に砲撃したといいます。これは、守備軍の補給路を断つという意味であり、道路も寸断され大きな穴だらけの荒野を、前線まで重い砲弾一発でも運ぶのは困難を伴うというのは、私達にも十分理解できるところです。このように米軍は沖縄守備軍の補給路を断った上で、守備軍陣地に向け進軍してくるのです。沖縄守備軍の、補給が途絶するか寸断された前線では、驚くことに戦死した米兵の武器や食料なども持ち帰るなどして食いつなぎ、戦闘を継続していったといいます。

沖縄戦での日米両軍の戦力比は、総合すれば1対30にも達するといわれたのです。勝てる戦争でないのは誰の目にも明らかだったのかもしれません。結果的に沖縄守備軍は敗北を喫してしまいましたが、1対30というようなような、その圧倒的な物量があり、無尽蔵の補給の裏付けがある完全武装の米軍に対し、日本軍将兵の肉弾攻撃に頼るこの類をみない敢闘精神は、もっと高く評価されるべきであり、実に賞賛に値するものであるといえるでしょう。

思えば、太平洋戦域の将兵はもちろん、沖縄守備軍も同様に一部の職業軍人を除き、前線で死闘を展開した多くの兵士が、徴兵制により招集された人達だったのです。軍隊に入る前は農夫であったり、サラリーマンであり、職人さんであったろうし、沖縄県民の壮青年であり、沖縄の将来を担うと目されていた若き男女学生たちだったのです…。これは大東亜戦争の目的意識を全ての国民が共有していたからこそ桁外れの国威となったと言えるでしょう。

第9師団の台湾への抽出。第84師団の派遣中止。水際作戦から持久作戦への転換に伴う、戦列の再配置と既存の構築陣地からの撤退などなど…。大本営の作戦変更などにより、防備体制の再構築に多大な時間を割かねばなりませんでしたが、そうした状況の中で沖縄守備軍第三十二軍は、圧倒的な砲爆撃で攻めてくる米軍に、歩兵と巧妙に連携した砲火網を組織し、米軍をしばしば撃退したし、「洞窟戦法」で粘り強く戦ったといえるでしょう。

航空特攻をより効果的に運用するために、本島の飛行場確保も重要ではありましたが、飛行場を守るためにわずか一週間そこそこで玉砕するよりも、洞窟陣地を拠点として粘り強く戦い、敵に出血を強要し、少しでも長く米軍を沖縄に留め置く…。第三十二軍長勇参謀長は、本土決戦への時間を稼ぐという強い決意を、「われ本土の捨て石とならん」という言葉で、関係各兵団に表明したのです。

そしてその言葉通り、沖縄守備軍第三十二軍は、硫黄島の栗林忠道中将率いる小笠原兵団の陣地構想と同じである、内陸部縦深防御方式に叶う強固な洞窟の築城に励みつつ強い敢闘精神をもって、圧倒的な弾雨に耐え粘り強くその目的を実現していったのです。

米軍による沖縄攻略は、約一ヶ月と見込まれていましたが、守備軍の頑健な抵抗により、米軍側に硫黄島の二倍近い戦死者を出させると共に、支援する高速空母機動部隊も同時に釘付けにするという、米軍の沖縄攻略後の作戦行程を、大幅に遅延させることに成功したのです。戦後、沖縄守備軍第三十二軍は、米国から「太平洋戦争中、日本軍で最も善く戦ったのは、沖縄防衛部隊であった」と、最大の評価を受けた事からも言えるように、牛島満司令官、長勇参謀長を始めとする沖縄守備軍第三十二軍将兵は、歴史に刻まれるべき優れた敢闘精神を持って、与えられた任務を十分に果たしたと言えるでしょう。

沖縄戦末期の6月18日、自刃の5日前ですが、第三十二軍司令官牛島満中将が大本営と直属上司の第十方面軍司令官安藤利吉大将宛てに次の決別電報を送りました。

大命を奉じ、挙軍醜敵撃滅の一念に徹し、勇戦敢闘、ここ三ヶ月、全軍将兵鬼神の奮励努力にもかかわらず、陸、海、空を圧する敵の物量制しがたく、戦局まさに最後の関頭に直面せり。

隷下部隊本島進駐以来、現地同胞の献身的協力の下に、鋭意作戦準備に邁進し来り、敵をむかうるにあたっては、帝国陸海軍部隊呼応し、将兵等しく、皇土沖縄防衛の完璧を期せしも、満、不敏不徳の致すところ、事志と違い、今や沖縄本島を敵手に委せんとし、負荷の重任を継続し能わず。

上、陛下に対し奉り、下国民に対し、真に申しわけなし。ここに残存手兵を率い、最後の一戦を展開し、一死以て御詫び申し上ぐる次第なるも、ただただ重任を果たし得ざりしを思い、長恨千載に尽くるなし。

最後の血闘にあたり、すでに散華せる数万の英霊とともに、皇室の弥栄と皇国の必勝とを衷心より祈念しつつ、全員あるいは護国の鬼と化して、敵のわが本土来寇を破壊し、あるいは神風となりて天翔り、必勝戦に馳せ参ずる所存なり。 戦雲碧々たる洋上なお小官統率下の離島各隊あり。何卒よろしくご指導賜りたく、切に御願い申し上ぐ。

ここに平素のご懇情、御指導並びに絶大なる作戦協力に任ぜられし各上司、各兵団に対して深甚なる謝意を表し、遙かに微哀を披瀝し以て決別の辞とする。

(第三十二軍司令官牛島満中将辞世の句)
秋待たで枯れ行く島の青草も 皇国の春に甦らなむ

矢弾尽き天地染めて散るとても 天がけりつつ皇国護らむ

(6月18日/参謀長長勇中将の辞世の句)

醜敵締帯南西地 飛機満空艦圧海 敢闘九旬一夢裡 万骨枯尽走天外

《書籍ご紹介》
第三十二軍司令官牛島満中将と参謀長長勇中将、そして八原博通大佐の作戦計画立案や指導の様子、「沖縄県民斯く戦へり…」という感動的な電文を送信した大田實海軍中将に関わる記述。また日米双方から俯瞰した沖縄戦そのものの意義や戦況に関わる著書をご紹介します。

「珊瑚礁を朱にそめて」 沖縄戦 一砲兵大隊長の手記

仁井 顕著・発 昭和48年(1973年)9月初版

「沖縄に死す 第三十二軍司令官牛島満の生涯」

小松茂朗著 光人社 平成13年(2001年)1月初版

「魂還り魂還り皇国護らん」 沖縄に散った最後の陸軍大将牛島満の生涯

将口泰浩著 (株)海竜社 平成24年(2012年)7月初版

「官牛島満軍司令官沖縄に死す」

小松茂朗著 (株)潮書房光人社 平成28年(2016年)8月初版

「豪胆の人 帝国陸軍参謀長・長 勇伝」

阿部牧郎著 祥伝社 平成15年(2003年)初版

「沖縄決戦」 高級参謀の手記

八原博通著 読売新聞社 昭和47年(1972年)初版

牛島司令官、長参謀長そして八原高級参謀と、沖縄第三十二軍の指揮した八原博通陸軍大佐の著作です。沖縄戦を深く知りたいと思われる方には必須の、第一級著作であると思います。同著を読んでの第一印象は、あたかも八原高級参謀の横に居て沖縄戦を俯瞰できたという点を強調したいです。同著により沖縄戦が目の前で展開しているような錯覚を覚え、気持ちの全てが本の中に入ったように感じた程でした。また一兵士の書いた戦記は一兵士の目線から(この目線で数冊読破しています)、八原高級参謀の手記は指揮官からの目線で書かれた言う意味で貴重な著作であると感じます。

大部の著作には、「序」とか「まえがき」、そして「あとがき」と言うのが大概ありますが、そこにこそ著者の書かねばならなかった動機や書いた事の総括や結論が書き込まれている場合が多いですね。この著作もその例外でなく、そうした八原高級参謀の強い思いが表出しています。それではまず同著の「序」から見ましょう。

「戦後、幾多の史書に、軍が拱手して、アメリカ軍を上陸させたとして、とかくの批判がある。しかしこの時機におけるわが軍の行動について深く掘りさげた論議をあまり聞かないのは残念である」

「実に奇怪な沖縄戦開幕の序景ではある。戦艦、巡洋艦それぞれ十余隻を基幹とする、強大なアメリカ太平洋艦隊。有力なるイギリス艦隊、彼我地上軍あわせて三十万、敵味方の飛行機数千機、そして多数の沖縄県民をまき添えにした陸海空一体の歴史的大会戦の序景にしては、いかにも腑に落ちない異常さである。アメリカ軍は、ほとんど防御のない嘉手納海岸に莫大な鉄量を投入して上陸する。敵を洋上に撃滅するのだと豪語したわが空軍は、この重大な時期に出現しない。沖縄の地上軍は、首里山上から悠然皮肉な微笑みをもってこれを眺めている」

また「あとがき」には次のような記述が見られます。

「私には沖縄作戦全般を通じて、痛憤禁じ得ないものがある。それは現実を遊離して夢を追う航空至上主義と、はだか突撃で勝利を得んとする地上戦術思想とに対する懸命な抗争であった。このような主義や、理想は太平洋戦争の緒戦期には、確かに通用した。しかしその中期、特に後期においては、現実にはもはや幻想となっていた」

「私はこうした先見と洞察のもとに、沖縄作戦の構想を決め、全軍十万の将兵はこの方針に従い、数ヶ月の間戦闘を準備したのである。もちろん軍司令官、参謀長も私の考えを承認されていた。しかるに、敵が嘉手納に上陸するや、大本営、方面軍はにわかにあわてて北飛行場への全軍突撃を命令した」

「しかし、中央の軍に対する攻勢要求は、参謀長の性来の攻撃的性格に油を注ぐ結果となった。そして四月十三日の夜襲、ついで五月四日の攻勢を蜂起し、私の構想は根本的に破壊されたのである。大攻勢が失敗した五月五日夕、軍司令官は直接私を呼びつけ、軍の作戦の失敗と、私の一貫した判断の正当であったことを認め、自今軍全般の作戦を私に一任する旨申し渡された。しかし時すでに遅く‥」

上掲文の文脈通り、八原高級参謀の書かねばならなかった理由が強い筆致で明かされていると感じました。

大部な著作を読破して感じた事は、昭和19年7月に大本営は捷号作戦を発令し、9月末までに3個師団半といえる、第九師団、第二十四師団、第六十二師団、そして独立混成四十四旅団の戦備を完了していました。これは長参謀長の算定した希望兵力であった事から、この時点では第三十二軍として必勝の信念に燃えていたと思われます。しかしながら、あろうことか大本営は第九師団の台湾への抽出を伝えてきました。第三十二軍司令部にとって、これがどれほどの痛恨事であったかは、11月4日に台湾の台北で開催された会議への牛島司令官の指示によく表出されています。

第九師団の抽出は、米軍の鉄量何するものぞと必勝の信念に燃えていた第三十二軍が、一朝にして戦意を喪失する結果となりました。もし第九師団の抽出がなければ、沖縄作戦の様相は一変し、一度や二度は米軍に苦杯をなめさせた可能性があるように思えてなりません。

そしてまた沖縄第三十二軍の戦意を重ねて喪失させる事態が起こりました。第九師団の穴埋めとして第八十四師団の沖縄派遣を第三十二軍に伝えましたが、何と翌日には派遣を中止すると通告して来たのです。第九師団の抽出と第八十四師団の沖縄派遣が一日で中止‥。この二つの事態がダブルパンチとなって、すでに書いたように第三十二軍の戦意が喪失すると共に、上級方面軍や大本営に対して、強い不信感を抱く事となったのです。この二点については、悔やんでも悔やみきれない、大本営の沖縄作戦最大の過失であると感じました。

「沖縄かくて壊滅す」

神 直道著 (株)原書房 昭和42年(1967年)8月初版

著者はまず最初の「はしがき」で、「沖縄戦について、もう概に数多くの戦記や物語が発表されてきた。ある本は悲惨さに重きを置き‥。フィクションに近い想像を逞しうしているもの‥。多分こうであろうくらいの思いつきを、いかにもまことしやかに書いた‥。沖縄戦の体験者が現存しているのに記録が概にそのようである。これから先、記憶の薄れと共にどのようなものが書かれるかと思うと実はたまらないのである」と出版を決意した動機が述べられています。出版の動機が航空決戦と持久戦略との齟齬によるものかと推測されましたが、八原高級参謀との意見の食い違いではないようです。実際に八原高級参謀の手記は5年後に出版されています。

昭和20年3月1日に現地沖縄第三十二軍に赴任しましたが、それ以前に防衛総司令部にて沖縄軍の育成に努めたり、台湾の飛行師団の幕僚として、また沖縄軍と生死を共にするはずの協力飛行部隊の一員として、沖縄守備軍を見守ってきた、としています。沖縄第三十二軍では航空参謀でしたが、第六航空軍参謀(九州)、第八飛行師団参謀(台湾)も兼任していたようです。

同著は沖縄戦の作戦・戦術・戦闘状況の考察で埋め尽くされています。これは当時の周囲への目配りの違いか、或いは執筆の目的による必然なのか不明なのですが、八原高級参謀の手記とは大きく対局を為すものです。それはともかく、神参謀が沖縄で作戦指導に従事したのは正味2カ月半程でした。それは長参謀長の命を受け、大本営や陸海軍航空部隊に実情を話し、もう一度航空作戦を再考するよう依頼する目的で5月30日の夜8時に糸満の名城海岸を出発した事によります。奇跡的に東京への帰還に成功しましたが、その脱出行も詳述されています。

 

「戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦」

防衛庁防衛研究所戦史部著 (株)朝雲新聞社 昭和43年(1968年)初版

この本も大部なボリュームです。正直全部読破していません。全編読破するほど沖縄戦戦況に興味はありません。今のところ事典の同じような形で利用させてもらっています。(^^;)

 

※ここからは初版年の古い順から書籍をご紹介させて頂きます。

「沖縄の最後」

古川成美著 (株)中央社 昭和22年(1947年)11月初版

「沖縄戦秘録 死生の門」

古川成美著 (株)中央社 昭和24年(1949年)1月初版

「赤い蘇鉄と死と壕と」

冨里誠輝著 (株)秋田書店 昭和38年(1963年)8月初版

「沖縄かく戦えり」

浦崎 純著 徳間書店 昭和42年(1967年)初版

「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」

吉田俊雄著 (株)オリオン出版社 昭和44年(1969年)10月初版

「秘録 沖縄戦記」

山川泰邦著 読売新聞社 昭和44年(1969年)12月初版

「沖縄の戦場に生きた人たち」

池宮城秀意著 (株)サイマル出版会 昭和45年(1970年)月初版

「写真記録 これが沖縄戦だ」

大田昌秀著 琉球新報社 昭和52年(1977年)9月初版

「逃げる兵」 サンゴ礁の碑

渡辺憲央著 (株)マルジュ社 昭和54年(1979年)6月初版

「This was The BATTLE of OKINAWA」

MASAHIDE OTA著 NAHA PUBLISHING CO. 昭和56年(1981年)初版

「沖縄・八十四日の戦い」

榊原昭二著 (株)新潮社 昭和58年(1983年)5月初版

「証言・沖縄戦」 戦場の光景

石原昌家著 (株)青木書店 昭和59年(1984年)11月初版

「沖縄戦とは何か」

大田昌秀著 (株)久米書房 昭和60年(1985年)4月初版

「日本軍の沖縄作戦」

沖縄戦史刊行会編纂 月刊沖縄社 昭和60年(1985年)9月初版

「丸スペシャル107号 大和水上特攻 硫黄島/沖縄戦」

(株)潮書房編・著 昭和61年(1986年)1月初版

「沖縄戦前保健婦の足あと」

具志八重・小渡静子編・著 ニライ社 昭和61年(1986年)2月初版

「沖縄旧海軍司令部壕の軌跡」

宮里一夫編著 ニライ社 昭和61年(1986年)5月初版

「沖縄戦アメリカ軍戦時記録」

上原正稔訳編著 (株)三一書房 昭和61年(1986年)7月初版

「沖縄戦に生きて」 一歩兵小隊長の手記

山本義中著 (株)ぎょうせい 昭和62年(1987年)10月初版

「沖縄戦」

佐久田 繁著 月刊沖縄社 昭和63年(1988年)6月初版

「丸別冊 最後の戦闘」

出口範樹著 潮書房 平成元年(1989年)11月初版

「わが部隊かく戦えり」 沖縄戦 真実と美化の激突

飯田邦光著 (株)閣文社 平成4年(1992年)4月初版

「ある沖縄戦 慶良間戦記」

儀同 保著 日本図書センター 平成4年(1992年)5月初版

「閃光の中で」 沖縄陸軍病院の証言

長田紀春/具志八重編 ニライ社 平成4年(1992年)6月初版

「汚名 第二十六代沖縄県知事 泉守紀」

野里 洋著 (株)講談社 平成5年(1993年)12月初版

「沖縄戦・ある母の記録」

安里要江・大城将保著 (株)高文研 平成7年(1995年)2月初版

「沖縄戦トップシークレット」

上原正稔著 沖縄タイムス社 平成7年(1995年)3月初版

「戦場のトンボ」 少年がみた沖縄戦

山城髙常著 ニライ社 平成7年(1995年)6月初版

「沖縄 平和の礎」

大田昌秀著 (株)岩波書店 平成8年(1996年)12月初版

「マッカーサーと征露丸」 ニッポン伝統薬ものがたり

町田 忍著 (株)芸文社 平成9年(1997年)2月初版

「南風原が語る沖縄戦」

南風原町史編集委員会編 沖縄県南風原町 平成11年(1999年)3月初版

「ガマに刻まれた沖縄戦」

上羽修著 (株)草の根出版会 平成11年(1999年)2月初版

「沖縄 近い昔の旅」 非武の島の記憶

森口 豁著 (株)凱風社 平成11年(1999年)9月初版

「沖縄の旅・アブチラガマと轟の壕」

石原昌家著 (株)集英社 平成12年(2000年)6月初版

「わがふるさと沖縄」 琉球王尚家の長女として生まれ

井伊文子著 (株)春秋社 平成14年(2002年)10月初版

「図説 沖縄の戦い」

太平洋戦争研究会編 河出書房新社 平成15年(2003年)6月初版

「糸満市史 戦時資料(上巻)」

糸満市史編集委員会編 糸満市役所 平成15年(2003年)12月初版

「沖縄悲遇の作戦」 異端の参謀八原博通

稲垣 武著 光人社NF文庫 平成16年(2004年)1月初版

「船舶特攻の沖縄戦と捕虜記」

深沢敬次郎著 元就出版社 平成16年(2004年)初版

「特攻に殉ず 地方気象台の沖縄戦」

田村洋三著 中央公論新社 平成16年(2004年)6月初版

「沖縄決戦」

(株)学習研究社 平成17年(2005年)4月初版

「ドキュメント沖縄 1945」

毎日新聞編集局・玉木研二著 (株)藤原書店 平成17年(2005年)8月初版

「沖縄陸軍病院看護婦たちの沖縄戦」

(財)沖縄県女師・一高女ひめゆり同窓会立平和祈念資料館編 平成17年(2005年)12月初版

「私の沖縄戦記 前田高地・六十年目の証言」

外間守善著 角川書店 平成18年(2006年)初版

「ざわわ ざわわの沖縄戦」

田村洋三著 (株)光人社 平成18年(2006年)5月初版

「沖縄戦の絵」 地上戦 命の記録

NHK沖縄放送局編 日本放送出版協会(NHK出版) 平成18年(2006年)6月初版

「沖縄の島守 内務官僚かく戦えり」

田村洋三著 中公文庫 平成18年(2006年)7月初版

「語り伝える沖縄」 命どぅ宝のこころ

安斎育郎監修 (株)新日本出版社 平成19年(2007年)3月初版

「沖縄県民斯く戦へり 大田實海軍中将一家の昭和史」

田村洋三著 光人社NF文庫 平成19年(2007年)7月初版

「沖縄戦集団自決 虚構の『軍命令』」

藤岡寛次著 (株)明成社 平成20年(2008年)1月初版

「今なお、屍とともに生きる」 沖縄戦 嘉数高地から糸数アブチラガマへ

日比野 勝廣著 夢企画大地 平成20年(2008年)3月初版

「沖縄戦記録」

(株)新人物往来社編・著 平成20年(2008年)5月初版

「沖縄戦と民間人収容所」

七尾和晃著 (株)原書房 平成22年(2010年)12月初版

「最後の決戦 沖縄」

吉田俊雄 (株)潮書房光人社 平成25年(2013年)4月初版

「血と水の一滴」 沖縄に散った青年軍医

芹澤健介著 丸善プラネット(株) 平成26年(2014年)6月初版

「10万人を超す命を救った沖縄県知事・島田叡」

(株)ポプラ社 平成26年(2014年)8月初版

「沖縄戦のトラウマ」 心に突き刺す棘

保坂廣志著 紫峰出版 平成26年(2014年)10月初版

「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉伊東孝一の戦い」

笹 幸恵著 Gakken 平成27年(2015年)初版

ここからは、米軍側から見た沖縄戦です

「日米最後の戦闘」

米国陸軍省編 加登川幸太郎訳 産経新聞社出版局 昭和43年(1968年)初版

「沖縄 陸・海・空の決戦」

B・M・フランク著 外間正四郎訳 (株)サイマル出版会 昭和46年(1971年)初版

「沖縄戦 アメリカ軍戦時記録」

上原 正稔訳編者 (株)三一書房 昭和61年(1986年)7月初版

「泥と炎の沖縄戦」

E.B.スレッジ著 琉球新報社 平成3年(1991年)12月初版

「天王山(下)」

ジョージ・ファイファー著 小城 正訳 (株)早川書房 平成7年(1995年)6月初版

「沖縄 米海兵隊地獄の7日間 シュガーローフの戦い」

ジェームス・H・ハラス著 猿渡青児訳 光人社 平成19年(2007年)初版

「ペリリュー・沖縄戦記」

ユージン・B・スレッジ著 伊東 真/曽田和子訳 講談社学術文庫 平成20年(2008年)初版

「特攻 空母バンカーヒルと二人のカミカゼ」

マクスウェル・ティラー・ケネディ著 中村有以訳 ハート出版 平成22年(2010年)初版

「日本兵を殺した父」 ピューリツァー賞作家が見た沖縄戦と元兵士たち

デール・マハリッジ著 藤井留美訳 (株)原書房 平成22年(2010年)初版

ここからは、学徒隊の沖縄戦です

「みんなみの巌のはてに」 沖縄の遺書

金城和彦・小原正雄編著 昭和34年(1959年)4月初版

「愛と鮮血の記録」 沖縄学徒隊の最期

金城和彦著 (株)全貌社 昭和41年(1966年)8月初版

「沖縄・白梅の悲話」

読売新聞大阪社会部編著 昭和55年(1980年)初版

「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」

仲宗根政善著 (株)角川書店 昭和57年(1982年)4月初版

「証言・沖縄戦」 戦場の光景

石原 昌家著 (株)青木書店 昭和59年(1984年)11月初版

「プリンセス・リリイ」

ジョー・ノブコ・マーチン著 新日本教育図書(株) 昭和60年(1985年)初版

「私のひめゆり戦記」

宮良ルリ著 ニライ社 昭和61年(1986年)初版

「沖縄戦の学徒隊」 愛と鮮血の記録

金城和彦著 日本図書センター 平成4年(1992年)5月初版

「ひめゆりの沖縄戦」

伊波園子著 (株)岩波書店 平成4年(1992年)6月初版

「ひめゆりたちの祈り」 沖縄のメッセージ

香川京子著 朝日新聞社 平成4年(1992年)6月初版

「平和への道しるべ」 白梅学徒看護隊の記録

白梅同窓会編・発 平成7年(1995年)6月初版

「ひめゆりの少女 十六歳の戦場」

宮城喜久子著 (株)高文研 平成7年(1995年)初版

「白梅」 沖縄県立第二高等女学校看護隊の記録

白梅同窓会編著 クリエイティブ21 平成12年(2000年)5月初版

「沖縄一中・鉄血勤皇隊の記録(上・下)」

兼城 一編著 (株)高文研 平成12年(2000年)6月初版

「白梅の碑-野戦病院編」

新里 堅進著 (株)クリエイティブ21 平成14年(2002年)6月初版

「沖縄一中 鉄血勤皇隊」 学徒の盾となった隊長 篠原保司

田村洋三著 (株)光人社 平成22年(2010年)12月初版

「少年兵はなぜ故郷に火を放ったのか」 沖縄護郷隊の戦い

宮本雅史著 (株)KADOKAWA 平成27年(2015年)5月初版

「陸軍中野学校と沖縄戦」 知られざる少年兵(護郷隊)

川満 彰著 (株)吉川弘文館 平成30年(2018年)5月初版

ここからは、遺骨収集/ボランティア活動に関わる書籍です

「孤島の英霊」

日本民主同志会編 昭和48年(1973年)10月初版

「駆けつける信仰者たち」 天理教災害救援の百年

金子 昭著 天理教同友社 平成14年(2002年)2月初版

「命どぅ宝」 金光教沖縄遺骨収集記録

金光教沖縄遺骨収集運営委員会編・発行 平成17年(2005年)6月初版

「ぼくが遺骨を掘る人『ガマフヤー』になったわけ」 サトウキビの島は戦場だった

具志堅隆松著 合同出版(株) 平成24年(2012年)9月初版

「ガマ」 遺品たちが物語る沖縄戦

豊田正義著 (株)講談社 平成26年(2014年)6月初版

「遺骨が呼んでいる」 国吉勇さんの遺骨収集人生

豊里友行著 沖縄書房 平成30年(2018年)9月初版

ここからは、人骨に関わる書籍です

「骨を読む」

埴原和郎著 中央公論社 昭和40年(1965年)9月初版

「骨は人を語る」 死体鑑定の科学的最終手段

埴原和郎著 (株)講談社 平成9年(1997年)月初版

「骨が語る」 スケルトン探偵の報告書

鈴木隆雄著 (株)大修館書店 平成12年(2000年)4月初版

「ぜんぶわかる骨の名前としくみ事典」

山田敬喜・肥田岳彦監修 成美堂出版 平成30年(2018年)4月初版

「骨が語る兵士の最後」 太平洋戦争・戦没者遺骨収集の真実

楢崎修一郎著 (株)筑摩書房 平成30年(2018年)7月初版

ここからは、沖縄の慰霊塔・戦跡に関わる書籍です

「沖縄戦戦没者を祀る 慰霊の塔」

大田昌秀著 那覇出版社 昭和60年(1985年)6月初版

「静かに過ぎ去る時とともに」

中谷行雄著 (株)労働教育センター 平成7年(1995年)月初版

「読谷村の戦跡めぐり」

読谷村史編集室編 読谷村役場 平成15年(2003年)3月初版

「沖縄の慰霊の塔」 沖縄戦の教訓と慰霊

大田昌秀著 那覇出版社 平成19年(2007年)2月初版

「沖縄戦と戦争遺跡」 戦世(イクサユー)の真実を伝えるために

沖縄県平和祈念資料館編 (合)沖縄時事出版 平成19年(2007年)10月初版

「沖縄の戦争遺跡」

沖縄県平和祈念資料館編 (合)沖縄時事出版 平成19年(2007年)12月初版

「死者たちの戦後誌」 沖縄戦跡をめぐる人びとの記憶

北村 毅著 (株)御茶ノ水書房 平成21年(2009年)9月初版

ここからは、沖縄の文化・歴史に関わる書籍です

「写真集 望郷・沖縄 第三巻」

州立ハワイ大学ロバートK・境 松井正人 崎原 貢監修 昭和56年(1981年)2月初版

「なぜユタを信じるか」

友寄隆静著 月刊沖縄社 昭和56年(1981年)8月初版

「観光コースでない 沖縄」

新崎盛暉・大城将保 他七名による共著 (株)高文研 昭和58年(1983年)5月初版

「沖縄の歴史と文化」

外間守善著 中央公論社 昭和61年(1986年)4月初版

「琉球王国の歴史」 大貿易時代から首里城明け渡しまで

佐久田繁編著 月刊沖縄社

「時代を彩った女たち」 近代沖縄女性史

外間米子監修 ニライ社 平成8年(1996年)9月初版

「沖縄修学旅行ハンドブック」 学び・調べ・考えよう

平和・国際教育研究会編 平和文化 平成9年(1997年)6月初版

「沖縄からアジアが見える」

比嘉政夫著 (株)岩波書店 平成11年(1999年)7月初版

「沖縄学への道」

外間守善著 (株)岩波書店 平成14年(2002年)1月初版

「沖縄の神と食の文化」

赤嶺政信監修 (株)青春出版社 平成15年(2003年)4月初版

「読谷村文化財めぐり」

読谷村教育委員会 平成17年(2005年)3月初版

「沖縄拝所巡り300」

比嘉朝進会 那覇出版社 平成17年(2005年)6月初版

「熟年 沖縄ゆとりの旅」

(株)林企画工房・仲村麗子編 増田義和 平成18年(2006年)1月初版

「琉球王国のグスク」

中田真二・高橋一正・中田広二著 東京地図出版(株) 平成20年(2008年)7月初版

「沖縄イメージを旅する」 柳田國男から移住ブームまで

多田 治著 (株)中央公論社 平成20年(2008年)8月初版

「沖縄ルール」

都会生活研究プロジェクト(沖縄チーム)著 (株)中経出版 平成21年(2009年)2月初版

動画ご紹介

【日本史】米海兵隊を壊滅させた日本軍の罠 ~2600名以上もの米兵が犠牲になった沖縄・シュガーローフでの戦い~/血染めの丘(前編)

【日本史】米海兵隊を壊滅させた日本軍の罠 ~海兵隊が沖縄戦最悪の被害を受けたシュガーローフの戦い~/血染めの丘(後編)

動画ご紹介

怖すぎて精神異常者続出…米兵を震わせた最強日本軍【シュガーローフの戦い】

動画ご紹介

義号作戦 玉砕覚悟の敵地奇襲 奥山道郎大尉(大佐)ひきいる義烈空挺隊 AIカラー化

第三十二軍司令部の沖縄戦における初期の作戦計画では、米軍上陸地点での水際撃滅作戦でしたが、沖縄戦開戦時には、本島深く縦深陣地を構築し、洞窟陣地に立て籠もっての持久作戦での戦闘となりました。日本軍が常用した水際撃滅作戦から、縦深陣地に依る持久戦への作戦変更です。その新戦術の原形が、昭和19年9月のパラオ諸島ペリリュー島の戦いにあったのですね。このペリリュー島の戦いでは、米軍の指揮官は三日で落とせるだろうと自信を見せましたが、日本軍守備隊は完全制圧まで一ヶ月も頑強に戦い、米軍に多大な人的損害を与えたのです。そのパラオ諸島ペリリュー島の戦いの動画がありましたのでご紹介致します。ペリリュー島は、とても小さな島ですが、島嶼戦と言う事で、沖縄本島と似た部分も多く、また戦況が重なる部分もあるので参考になると思います。

動画ご紹介

【ペリリュー島の戦い】日本陸軍第十四師団と米軍最強部隊の攻防戦

動画ご紹介

【ペリリュー島の戦い】終わりなき持久戦…地獄の戦場に残された戦跡を現地からわかりやすく解説

《書籍ご紹介》

「ペリリュー島戦記」 珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖

ジェームス・H・ハラス著 猿渡青児訳 (株)光人社 平成22年(2010年)4月初版

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.141

「黎明之塔」から見て、東側の摩文仁海岸線及び太平洋を見ています。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.142

「黎明之塔」から真南を見ています。良く見て下さい。海岸に一番近い樹林が、小さな山脈のように連なって壁のようになっているのが見えますね。また手前側には解りにくいですが、崖が左右にずっと続いています。つまり写真中央部辺りは、谷底と言う事になります。写真に写されている範囲に降った雨は、写真右端から50mぐらい先にある金井戸、金井戸川に向けて流れていきます。ですから金井戸付近にクワズイモが繁茂しているのも頷けますね。

また写真に写されている谷底は、当然の事ながら海上の米艦船からは見えません。ですから、私は大渡と具志頭との間を行き来しようとする将兵や避難民は、夜間その谷底を通って往来したとみています。この辺りは避難する壕も沢山ある事から、それは又戦没ご遺骨がある可能性が高い場所であるとも言えるでしょう。断定は出来ませんが‥‥。と言う事で、谷底で遺骨収集をやりたいと思っています。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.143

「黎明之塔」から西側の摩文仁海岸線及び東シナ海を見ています。写真中央部の少し右寄りに、赤っぽく見える樹木がありますよね。遊歩道のトイレがある場所に植えられていた「クワデーサー」です。その「クワデーサー」の少し奥に丸い形をした巨大な岩山がありますよね。その巨大な岩山の袂に「南冥の塔」があります。また写真中央部の少し左寄りに、モクマオウの木が一本あるのが解りますかね。そこが金井戸のある場所です。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.144

摩文仁之丘の北側に位置する摩文仁集落を撮影しています。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.145

摩文仁之丘から北東方面を見ています。写真左側には摩文仁集落も写されていますね。写真中央部には「沖縄平和祈念堂」が見えています。現在の摩文仁は、緑豊かで住戸も増えましたが、摩文仁は昔から「枯れ摩文仁」と呼ばれて、水が乏しく農業に適しない岩盤地帯でした。終戦時の摩文仁は、そんな僅少な土壌も米軍による砲爆撃で吹き飛ばされ、地形は変貌し白い岩肌がむき出すなど、人が住めるような状態では無かったと言います。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.146

それでは帰りましょう。(^o^)

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.147

写真は摩文仁之丘山頂付近にある、垂坑道があったと言われる場所を捉えています。ただこの場所は立ち入り禁止となっているので、私達もここであると現地調査をしたり確認した訳ではありません。ご了承下さいませ。(^_^;) 八原博通著「沖縄決戦 高級参謀の手記」では、「山頂出入口」と記述されている壕口です。

「山頂出入口」から、米軍による馬乗り攻撃を受け、この垂坑道上部から爆雷や手榴弾を投げ込まれ、その際に十数名の死傷者が出た場所でもあります。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.148

「健児之塔」駐車場に戻るに際しては、摩文仁之丘の北側斜面に設けられている、この階段を降りるのが最短で便利だと思います。昔は木道だったので、傷みが酷くて危険でしたが、近年アルミ製階段となり、安心安全の階段に生まれ変わりました。降りてみましょう。(^o^)

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.149

摩文仁集落が写されています。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.150

もう少しで平和祈念公園に降りられますね。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.151

平和祈念公園に出ました。東側を見ています。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.152

今度は西側を見ています。右端の建物はトイレですね。覚えておいて下さいませ。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.153

平和祈念公園に降りたところで、階段を振り返ってみました。階段も直線では設けられない程に急勾配であるのが解りますね。

調査・遺骨収集作業開始です

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.154

平和祈念公園内にある「国立沖縄戦没者墓苑」が見えてきましたね。

「国立沖縄戦没者墓苑」

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.155

「国立沖縄戦没者墓苑」です。本日の作業着手前に訪ねました。昭和54年(1979年)に創建された「国立沖縄戦没者墓苑」ですが、創建後38年が経過して参拝所を中心に傷みがひどくなったようで、参拝棟は平成29年(2017年)に建て替えられました。基礎工事の段階で不発弾が見つかり、その対応と措置に、かなりの時間を要したと聞いています。ちなみに納骨堂は真っ黒になっていた石灰岩の表面が、平成25年(2013年)に表面が削られて本来の白っぽい石灰岩の色合いとなり、荘厳な石造りの納骨堂が復活しました。今は再び黒っぽくなっていますが、それでも昔と比べると白い色合いが残っています。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.28

「国立沖縄戦没者墓苑」は、昭和54年(1979年)に創建されました。昭和32年(1957年)に政府が当時の琉球政府に委託して、那覇市識名に戦没者中央納骨所を建設しましたが、転骨が進み同所が手狭になった為に、摩文仁に「国立沖縄戦没者墓苑」が建設されました。この納骨堂は、沖縄産の琉球トラバーチン1千個が使用され、琉球王家の墓を模した古来の技法で積み上げられています。現在は沖縄で収集された戦没者ご遺骨のすべてが、この国立沖縄戦没者墓苑に納骨されます。

創建された初代納骨堂が戦没者ご遺骨で一杯になった事から、二棟目、三棟目の納骨堂が収骨状況に応じて順次建築されました。ご遺骨は現在でも発見され続けていますし、沖縄でDNA鑑定が始まって以降は、長く続いた戦没者ご遺骨の焼骨は、DNAを破壊するとの理由で中止され、全てのご遺骨は焼かずに保存するという方針になりましたから、将来的には四棟目の納骨堂も必要になるかもですね。

【国立沖縄戦没者墓苑の建立から現在までの経緯】

沖縄戦においては、軍民合わせて18万余の尊い命が失われました。この戦没者の遺骨収集は戦後、いち早く地域住民の手によりはじまり、各地に納骨堂や納骨堂を兼ねた慰霊塔を急造し、収集した遺骨を納めました。

昭和32年(1957年)には、政府が当時の琉球政府に委託して、那覇市識名に戦没者中央納骨所を建設し、納骨してまいりましたが、次第に収骨数が多くなるにつれ、中央納骨所が狭隘となってまいりました。このため、国難に準じた戦没者の遺骨を永遠におまつりするのにふさわしい墓苑を新たに造るべきであるとの要望が沖縄県をはじめ関係遺族等から寄せられ、厚生省(現厚生労働省)の配慮により昭和54年に本墓苑が創建され、中央納骨所から本墓苑に転骨したものです。

しかし、その後、毎年のように約100柱が新たに収集納骨されたことから、昭和60年に後方に納骨堂が増設されました。現在、本墓苑には戦没者18万余柱が納骨されております。

正面の参拝所の屋根は沖縄の伝統的技法により焼かれた赤瓦を使い、紋には桜の花を用いています。納骨堂には、沖縄産の琉球トラバーチン1千個が琉球王家の墓を模した古来の技法で積み上げられています。納骨堂はコの字形となっていますが、これは祖国の平和の礎となられた同胞を温かく抱擁していることを意味しています。

納骨堂に抱きかかえられるように安置されている石棺は福島県産の黒御影石で、どっしりとした万成御影石の台座にのっています。石棺の中には、沖縄の各戦場の象徴遺骨が白木の箱に分骨して納められております。

「沖縄県平和祈念財団サイト」から転載させて頂きました

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サイト管理人が先にジャングルに入りましたが、福岡さんがいきなり「ストップ」と大きな声で叫びました。ビックリしましたが、蜘蛛の巣があったのでした。福岡さんは目が良いですね~。サイト管理人は気付きませんでした。これだけの面積に糸を張るのは相当な時間がかかったでしょう。確かに破壊してしまうのは可哀想ですねよね。大変失礼しました。

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さあ広大なジャングルの中を力強く前進します。今日こそご遺骨に巡り会えますように。

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この辺りもかなりアップダウンがありますね。と言う事は大小の壕があると言う事を意味しています。

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壕がありました。

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また壕がありました。

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ここにも壕があるかもです。近づいて見ましょう。

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壕がありました。

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壕と呼べませんが窪地がありました。岩だらけの場所ですから、次から次へと壕や窪地がありますね。

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複数の割れた水瓶がありました。ご覧のように、岩の付け根辺りには壕口があるかも知れません。

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水瓶ですね。露天に近い状況なのに、かなり原形を留めていますね。

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横にも更に割れた水瓶がありました。

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岩が積み上げられていますね。遺骨収集では岩石の移動作業において、このように積み上げたりしないと思われますから、これは沖縄戦当時、将兵が爆風よけとして積んだのではないかと思われます。

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瓶がありますね。珍しい形状の瓶です。

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福岡さんが壕の奥まった部分を調べています。ご覧のように、至近弾を浴びない限り壕内の居住性は良さそうですよね。

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建物の屋根に用いられる鉄製の樋ですね。今は平らになっていますが、本来は湾曲して雨水を流していたと推測されます。こうした鉄製の樋を見るのは二度目です。一度目は同じく壕内で天井面から滴り落ちる水滴を集める為に天井面などに固定した配置状況を見た事があります。この鉄製の樋も採水に利用していたのかも知れませんね。

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福岡さんが「ここで煮炊きしたかもしれない」と指差します。そう言えば地面の土砂が黒っぽいですね。

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近づいて見ましょう。黒い物は何でしょうか?

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黒い物は布地みたいですね。

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缶詰の缶ですね。ここにも布地が少し見えます。

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ここにも布地がありました。

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近くで見ると炭らしき物も見えます。土も黒っぽいですよね。

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福岡さんが手前から慎重に探索しています。

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大きい石から少しずつ移動していきます。

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お~。やはり布地ですね~。これまで布地の切れ端程度の物は見た事がありますが、これ程多く残存する布地は初めて見ました。感触が繊細で柔らかい布地でした。印象としては、将兵の襦袢とか下着類の薄い布地ではないかと思われます。

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缶詰の缶ですね。

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缶詰の缶の一部と、お皿か何かでしょうか?

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この壕は僅かな隙間しかありませんが、地盤面も平らで居住性は良かったと思われます。

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遺品が色々出てきましたね。

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缶詰の缶ですね。

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この曲線を描く鉄の棒は何でしょうかね?

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ボタンが出てきたようです。

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襦袢(シャツ)のボタンですね。お金も出てきました。

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缶詰の缶ですね。

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缶詰の缶も多いです。

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壕内を少しずつ移動しながら探索しています。

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これは何でしょうかね。缶詰缶の蓋ではないようです。穴の開いた部分が左右二カ所あります。

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ここも何となく煮炊きした場所のような印象ですね。

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缶詰の缶かな。破片がありますね。

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壕は更に奥がありました。入ってみましょう。

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骨片がありました。この写真の中に写されています。

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ご遺骨がありました。岩の上に置いてみました。海綿質の形状がしっかり表出されていますから、動物の骨ではなく人間の骨で間違いありません。

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ご遺骨を膝の上に置いてみました。発見ご遺骨の部位を想像していますが、中々思い描けません。ご遺骨の曲がり具合から、眼球の周りの頭蓋骨?

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壕の外で休憩したら、サイト管理人の足下にご覧のような手榴弾がありました。

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地面から持ち上げたら崩れ落ちて、黄色い炸薬が露出しました。

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発見した手榴弾の周りを見回したら、こんな鉄の塊が出てきました。曲線を描いている事から、もしかしたら艦砲弾の破片でしょうか?

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また缶詰の缶がありました。

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福岡さんがご遺骨を見つけました。骨の両端部が無いので断定は難しいのですが、第一から第三までのいずれかの肋骨の部分と思われます。

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次の壕に移動しました。かなり大きそうな壕に出会いました。入ってみましょう。

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私達が入った場所とは違う場所に、ご覧のように壕口がありました。少なくとも二カ所は壕口があるようです。

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ご覧のように、壕内は結構広いです。そして複雑な形状をしています。

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奇抜な鍾乳石がありました。

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この写真も鍾乳石の氷柱の様子です。

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ここも広い空間です。岩盤の下に大勢の人が入れるスペースがありますね。

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金属探知機で探索しています。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.214

フィッシャーですね。落ちたら最悪です。(^_^;)

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これもユニークな鍾乳石ですね。

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人が登れる空間があり、福岡さんがライトで照らして点検しています。

 
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壕から出ました。壕口付近を探索しています。

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艦砲弾など至近弾炸裂による爆風から身を守るために、岩が積んである場所を発見しました。

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奥には数人が入れそうな空間がありますね。

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地盤も土砂なので居心地は良さそうです。

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ガ~ン。金光教遺骨収集の赤テープがありました。赤テープは相当古そうです。この地域は金光教に調査されている~。(^_^;)

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駄目だ。場所を変えよう~!。

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岩盤の下にご覧のような空間があります。

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更に奥へ入れそうです。入ってみましょう。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.225

結構降りてきましたが、福岡さんの先には、更に坑道があるようです。

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お~。奥は広くなっていますね。

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ご覧のように、かなり広い空間です。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.228

こんな奥深い場所に木材があります。普通にあり得ない場所に木材があると言えます。もしかしたら煮炊き用の木材かも知れませんね。

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坑道は更に奥へと続いていますね。

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ここが最奥部のようです。木の根が一本垂れ下がっていますね。と言う事は、それ程深く降りてはいない可能性がありますね。

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戻りながら探索作業を続けます。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.232

何か不自然に岩が集まっていますね。

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平らな場所で少し岩を除けてみましょう。

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遺品らしき物があるようです。

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福岡さんが「ご遺骨だ」と指さしています。

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ご遺骨が複数出てきましたね。やはりこの広い壕内に将兵が居たのですね。

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水瓶の割れた破片がありました。

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壕口に戻りながら探索しています。

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ここにも水瓶の割れた破片がありました。

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外の光が見えてきました。

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壕口は複数あるのが解りました。

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壕口が十数メートル違うだけで、風景はガラリと変わりますね。驚くばかりです。

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壕から出ました。ここにも壕口があります。入ってみましょう。

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良い感じの壕ですね。

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奥へと坑道が続いています。入ってみましょう。

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結構広い空間に出ました。光が少し入っていますね。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.247

遺品がありました。鉄の破片です。ここにも将兵が居たのですね。

令和4年(2022年)1月15日/沖縄遺骨収集の様子no.248

軍靴もありました。

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ここにも鉄の破片があります。

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これは缶詰缶の蓋ですね。銃剣などで切り抜いたのでしょうか。

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この壕も入った所とは別の壕口から出ようとしています。

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しかも出る為の壕口は三カ所以上あります。

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とりあえず、この壕口から出てみましょう。

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またまた、全く違う風景の場所に出ました。ここはどこ? と言う感じですね。別世界のようです。(^_^;)

壕の入り口と出口が違う場合は方向感覚の喪失が起こり得るので要注意
遺骨収集をされた方なら体験された方も多いと思いますが、壕の中で方向感覚を見失うと言うのは良くある事態です。方向感覚を失う主な理由としては、第一に壕内が複雑で、覚えきれないぐらい坑道が上下や左右に揺さぶられるように展開している場合です。第二に、そうした状況下で、遺骨収集作業に気持ちが集中し過ぎてしまう場合です。これは即ち壕内では時折で良いのですが、坑道を移動中に意識して磁石の北がどちらを指しているかを頭の中に描かないと確実に方向感覚を失う事になります。作業に集中するあまり、その方角の確認作業を怠ってしまったと言う訳ですね。これら二つの要因で、壕内では方向感覚の喪失が起こりやすいです。

そうした中で付け加えて、もう一つ方向感覚を失う原因があります。それは壕に入った時と、出る時に壕口が違う場合です。この様に壕に入った時と違う壕口から外に出る時は、方向感覚を喪失する場合があるのでご紹介致します。このケースの場合は、すでに壕内である程度方向感覚を見失いつつあるのは間違いないところです。その上で、入った壕口とは違う壕口から外に出た瞬間、壕に入った時の風景と違いが大きければ大きいほど、壕口の外の風景が鮮烈に頭の中に飛び込んできますから、この壕に入った際の周囲の風景や、壕内での移動の記憶が、瞬時に薄められ一連の記憶が無かった事にされてしまうからだと思われます。このケースでの方向感覚の喪失は、濃い曇り空であったり雨が降ったりしていて、太陽がどこにあるのか解らない場合に増幅します。

こうしたケースでの方向感覚の喪失は、ジャングル行の中で予期せず起こりうると言う意味でリスクを孕みます。壕口から出た瞬間、一歩間違うとこれまでの歩いてきた軌跡をすっかり失念してしまい、何処に居るかさえ解らなくなります。一旦頭の中の磁石(方向感覚)が揺らぐと、北を指し示す磁石を持っていても、その場の助けにはなりません。次第に頭がパニックになって磁石に依存しようとすると、その方向感覚のギャップに却って混迷が増すばかりの状況に追いやられます。磁石があれば最終的には確実にジャングルから脱出は出来ますが、一度方向感覚が揺らぐと、方向をしっかり認識していた既知の場所に出ない事には、頭の中の揺らいだ方向感覚は正しい状態に戻らない事を頭に入れておく必要があるでしょう。

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壕に入った場所とは、隔絶の風景となっており驚くばかりです。

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複雑な地形でした。壕から出てやっと進めそうな方向を見い出しました。(^o^)

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新しい壕を求めて前進しましょう。

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ここも良い感じの壕ですね。

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ここは壕とは呼べませんが、良い感じの窪地ですね。

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フィッシャーですが、ギリギリ通れそうですよ。入ってみましょう。

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壕に入って間もなく割れた水瓶がありました。将兵や避難民の方々が居た証ですね。

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奥へと坑道が続いています。

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ここが最奥部です。一寸した広場になっていますね。

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私達が入ってきた壕口を振り返って撮影しました。壕口もほど近い絶好の壕であるのが見て取れますね。

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「ご遺骨がある」と福岡さんが声を上げました。

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ご覧のように、ご遺骨や遺品が見えますね。

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鉄の破片が散乱しています。破片はかなり大きいのが多いですから、手榴弾の破片ではないと思われます。

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違う角度から撮影しました。

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こちらは違う場所を撮影しました。鉄の破片が多いです。

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これも鉄の破片ですが大きいですね。

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福岡さんが指さしていますが、人骨ですね。腕の骨である尺骨頭と思われます。

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すでに撮影しましたが人骨ですね。膝から下の骨である腓骨の腓骨頭の部分だと思われます。

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複数の小さな人骨が写されています。

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鉄の破片が複数写されています。大きい物ばかりです。

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地表に露出したご遺骨を白布に収骨しました。

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慎重に探索を進める福岡さんです。

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遺品があると、福岡さんが指さしました。

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お~。万年筆です。キャップですね。

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現時点での収容されたご遺骨と遺品の様子です。

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ボタンがありました。これは貝で出来たボタンと思われます。

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万年筆のキャップです。ぱっと見で名前は無さそうです。(^_^;)

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またご遺骨が出てきました。

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お~。万年筆の本体が出てきましたね。(^o^)

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この壕は出入り口が二カ所あるのが解ります。左上から光が入っているのが解ります。目の前の岩を除けて確認してみましょう。

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ご覧のように、やはり外に出られますね。この壕は二カ所出入り口がある事が判明しました。

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岩陰に奥の方に、更に小さな空間があるのが解ります。

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ご遺骨があった場所をフルイなどを用いて慎重に探索していきます。

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何か発見したようです。

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お~。歯のブリッジですね。歯のブリッジは初めて見ました。昔は顎骨付きの頭蓋骨がよく収集されましたから、歯も生前のそのままの状態で見る事が出来ました。当時歯については虫歯が極端に少ない事に驚いていました。沖縄戦当時の方々は虫歯が本当に無かったですね。ごくごくたまに治療した歯を見ただけでした。

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ゆっくりと慎重に作業を進めます。

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この時点での収骨状況です。少しずつ増えてきましたね。

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発見された歯のブリッジですね。

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万年筆です。持ち帰っての清掃が楽しみです。(^o^)

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ボタンです。左側は貝製品ですね。

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鉄の破片です。大きさから見て手榴弾の破片でないのは明らかです。私達が作業している場所は、直接的に外は見る事が出来ませんが、壕外で至近弾が炸裂して艦砲弾の破片が、壕内に飛び込んでくる可能性はあると思います。壕口はそうした可能性のある形状をしています。

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円形の部品は、被甲(ガスマスク)の取り外し式の丸い金属プレス製のレンズ押えです。

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本日の作業は終了です。ジャングル奥深く入ったので、出るのも大変です。(^_^;)

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先に行けると思って前進していますが‥‥。

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残念~。戻りましょう。(^_^;)

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今度は大丈夫かな‥‥。

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大丈夫ですね。(^o^)

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岩の縁を歩くと蔓植物と格闘しなくて済みますね。

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道路が見えたようです。本日はお疲れ様でした。(^o^)

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発見した万年筆を水で洗ってみましたら、記名はありませんでした~。次に期待です。(^_^;)

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