令和04年(2022年)沖縄遺骨収集奉仕活動

1月17日(月) 慰霊巡拝

今日の天気予報は「雨のち曇り」で、予想最高気温17度、降水確率は70%、60%です。雨の一日になりそうですが、壕内での作業となるので大丈夫! 本日朝の慰霊巡拝は、「八重瀬の塔」「白梅学徒看護隊之壕」「富盛の石彫大獅子」を訪ねました。

また本日の調査・遺骨収骨作業は非公開となっていますので、作業記録の開示はありません。ご了承下さいませ。m(_ _)m

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.1

東風平町字富盛にある「八重瀬の塔」は、緩斜面のこの写真の左手にあります。大きな道路は県道52号線ですね。「八重瀬の塔」は駐車場が無いのが苦労する点です。

「八重瀬の塔」

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.2

「八重瀬の塔」が見えてきました。同塔は県道52号線沿いにあります。近くには八重瀬公園への分岐点もあり、また同慰霊塔も全く見えない事から、思いのほか見落としやすい場所かも知れません。

所在地ご紹介

「駐車場・トイレは、八重瀬公園の施設を利用します」

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.3

参道は途中で踊り場がありました。霊域が広く草地も多いですが、手入れがしっかり為されているという印象です。

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.4

東風平町字富盛にある「八重瀬の塔」です。昭和24年(1949年)6月建立され昭和43年5月に現在の姿に改築されました。また近年にも大規模なリニューアル工事が施工されました。ですからご覧のように、比較的塗装も白さを維持しています。同塔は、戦後富盛集落の方々が付近に散乱するご遺骨1500余柱を集めて祀ったものです。特筆すべきは、現在でも富盛集落の方々が主体となって、諸費用も地区負担で慰霊祭を斎行されているとの事です。ありがたい話ですよね。

下掲の碑文をお読み頂くと解りますが、「八重瀬の塔」は元々終戦後東風平村(八重瀬町に合併する前の村名)の方々が、この地付近より遺骨を収集し同塔に納めた経緯があり、守備軍の慰霊塔ではありません。ただ八重瀬岳から具志頭グスク跡までを独立混成第44旅団が布陣していた為に、同旅団将兵のご遺骨も多数含まれている可能性は高いです。

南部地域には集落毎に納骨堂と慰霊碑があるのが一般的ですよね。そうしたなか、碑文には、「東風平村民が遺骨を収集した」と刻まれていますが、主に富盛集落の住民が収骨作業に携わったとされています。富盛集落の方々の収容所からの帰村は、昭和23年(1948年)6月でした。帰村後、富盛集落の各戸より一名が参加して遺骨収集して、カマスで収骨所に運ぶ「骨拾い作業」をされて納骨した経緯があるようです。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.5

碑文です。汚れて読めないのでテキストに起こしてみました。 ※碑文では、1,500柱と記載されていますが、その後2,050柱と確認されたようです。

八重瀬の塔 碑文

首里戦線より撤退せる残存部隊とともにこの地に結集せる第二四師団隷下各部隊は南進を続ける優勢なる米軍に対し,勇戦奮斗傷病兵に至るまで善戦よくその任を全うせるも昭和二十年六月上旬この地に玉砕し悠久の大義に生く

終戦後東風平村民はこの地付近より一,五〇〇柱の遺骨を収集し慰霊塔を建立せしも,このたび南方同胞援護会の助成を得てあらたにこの地を画し塔を改修し,八重瀬之塔と名づけて永くその功を伝え英魂を弔う

昭和四三年三月 財団法人 沖縄遺族連合会 

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.6

慰霊巡拝を終え、参道を降りてきましたら、県道52号線を挟んで向かい側に小高い丘がありました。丘の上は、勢理城跡と「富盛の石彫大獅子」が鎮座する場所となっています。

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.7

八重瀬公園駐車場に到着しました。すでに公園内ですから安心して駐車出来ますし、トイレも完備されています。

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.8

八重瀬公園駐車場から山側を写しています。「白梅学徒看護隊之壕」を慰霊巡拝する前に、この写真の左手に進み、山稜の中に入ってみましょう。

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.9

八重瀬嶽山稜の裾に入ると、すぐに門中の拝所がありました。ご覧のように、骨壺を納める場所が無いのでお墓では無いと思いますが、「○○門中」と彫られた石碑が立っていました。その門中石碑のみは最近設置されたと言う印象を受けますから放置されたお墓ではないと思います。その他の石組みなどを観察しますと、もしかしたら沖縄戦で破壊されたままの状態‥‥。と言う感じも受けます。実際はどうなんでしょうかね。

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.10

ご覧のように、山裾に小道が出来ており、しばらく進むと岩の斜面に穴が開いていました。人が問題なく入れる寸法の壕口でしたから、興味本位で登って確認しましたら数人入れるぐらいの壕空間でした。深くは無いです。沖縄戦では、八重瀬嶽は最要衝の地であり激戦が展開されましたから、この壕にも兵士が入って米軍に応戦した可能性がありますね。

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.11

ご覧のように、小道がまだ続いていますね。更に奥に行ってみましょう。知らない所に行くのはワクワクしますね。(^o^)

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.12

しばらく進むとお墓がありました。門中墓のようです。場所柄、富盛集落の方々のお墓が、ここ八重瀬嶽の山裾には沢山あるのかも知れませんね。

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.13

ここから先は小道も無くなり、普通のジャングルが続いているようなので、ここで引き返しましょう。今回は特に目立った発見はありませんでした。残念~。

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来た道を戻っています。ご覧のように、小道が出来ているのが解りますね。門中の方々がお墓参りで通るだけでは、こんな道にはなりませんから、色んな人達がこの小道を通行しているのでしょう。

「白梅学徒看護隊之壕」

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.15

東風平町富盛にある八重瀬公園駐車場に車を止めて山側を見るとご覧のような風景が目に入ってきます。「白梅学徒看護隊之壕碑」も写し込まれていますね。「白梅学徒看護隊之壕」に纏わる説明板もありますので、ぜひ一読してみてください。

それでは「白梅学徒看護隊之壕」を慰霊巡拝しましょう。この壕は第二十四師団隷下の第二十四師団第一野戦病院(山3486部隊)と言う部隊が病院壕として構築したものです。沖縄戦当時は「手術場壕」や「上の壕」と呼ばれていました。ご覧の中央にある階段を登り、道なりに30m程進むと壕口があります。

所在地ご紹介

「駐車場・トイレは、八重瀬公園の施設を利用します」

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.16

慰霊碑・塔前に設置されている説明板ですね。「白梅学徒隊足跡図」も添えられ、文章も簡潔に記述されているので解りやすいですね。ギリギリ読めますが、テキストに起こしてみました。沖縄戦に於ける白梅学徒看護隊の軌跡が理解できると思います。

白梅学徒隊(沖縄県立第二高等女学校)

沖縄県立第二高等女学校の前身は、1905年(明治38年)那覇市に設立された女子講習会(同年私立那覇女子技芸学校となった)で、その後変遷を経て、1928年(昭和3年)に沖縄県立第二高等女学校になりました。

1945年(昭和20年)3月24日、生徒たちは東風平村(現八重瀬町)富盛の八重瀬岳に置かれていた第二四師団第一野戦病院に配置されることになりました。生徒の仕事は、負傷兵の看護や手術の手伝い、水汲み、飯あげ、排泄物の処理、死体埋葬などでした。

その後、5名の生徒が具志頭村(現八重瀬町)新城の自然洞窟(ヌヌマチガマ)の新城分院に配置されましたが、米軍が迫ってきたため、6月3日、分院は閉鎖されました。6月4日、病院長から野戦病院の解散命令が下され、生徒達はそれぞれ数名ずつ班をつくって南部へと向かいました。

6月9日、一部の生徒は国吉(現糸満市)に到着。18日に国吉一帯で米軍による猛攻撃が始まり、辺りは一大殺りく場と化し、21日と22日に壕が馬乗り攻撃を受け、多数の死傷者を出しました。国吉に行かなかった生徒たちは、砲弾が炸裂する中で死の彷徨を続け、ほとんどの生徒が6月下旬に米軍に収容されました。

平成28年3月 沖縄県子ども生活福祉部平和援護・男女参画課 

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.17

現地には白梅学徒隊に関わる大きな掲示板がありまして、こちらは「白梅学徒隊の軌跡」です。ギリギリ読めますでしょうかね。

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.18

「第24師団第一野戦病院と白梅学徒隊」のタイトルで解説が為されています。白梅学徒隊の全体像が解りますので、少し見にくいですが読んでみて下さいませ。(^o^)

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.19

「白梅学徒看護隊之壕碑」が左手に見えます。それでは階段を登りましょう。30m程奥まったところに「白梅学徒看護隊之壕」があります。

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.20

階段を登り終えて壕口までの道すがら、左手にはご覧のように大きな岩の割れ目があるのですが、日本兵が隠れている可能性があると、下の駐車場辺りから火炎放射攻撃を受けたのでしょうか、岩肌が真っ黒になっている場所が複数箇所あります。

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.21

ここも岩肌が真っ黒ですね。

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.22

ここも岩肌が真っ黒です。昔にさかのぼるほど岩肌の黒さは際立っていましたが、歳月の経過と共に色あせて行くのを感じています。

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.23

沖縄戦当時に思いを馳せながらゆっくり歩むと、奥まった場所に折り鶴やら黄色い看板などが見えてきましたね。階段を上り終えますとご覧のような狭い通路になります。地面は学校のグランドのように平らで歩きやすくなっていますが、沖縄戦当時はゴツゴツした狭い道であったかも知れませんね。この先にあるのは手術壕ですから、この通路部分にも主に夜間担架などで運ばれてくる戦傷患者が手術を待つ間、寝ながらに苦痛に耐えて並んでいたとの証言もありますし、もっと悲劇的なのは、手術を待っている間に亡くなられた将兵も居られたと、白梅学徒看護隊の方々の証言もありました。ですから、ここは単なる壕口への通路ではなく、血と涙と苦悩が染みこんだ通路だと言えるでしょう。

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.24

折り鶴とか「立ち入り禁止」の看板も見えて来ました。この辺りも岩肌に張り付くように、手術を待つ将兵が並んで居られた事でしょう。

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.25

ここが、第二十四師団第一野戦病院(山3486部隊)が病院壕として構築した壕です。沖縄戦当時は「手術場壕」や「上の壕」と呼ばれていました。同野戦病院には、この「手術場壕」と呼ばれた壕と、下の「本部壕」とを併せて、軍医・衛生兵・看護婦など200人以上が配置されていました。そこに白梅学徒隊員46名も加わり、手術の手伝いや看護、汚物の処理、死体埋葬などの困難な作業に従事したのです。壕に入ってすぐ右側に手術室がありますね。左側は坑道になっていて、公園内の説明書きには「奥行きが30mで通り抜けが出来る」と書かれていますが、これは病床が設けられていた区域の距離だと思います。壕口と壕口間の坑道距離は50m以上はあると思いますからね。いずれにしても、坑道の壕壁に二段式の病床が設けられ、患者収容能力は70名程であったようです。

この壕で、沖縄県立第二高等女学校生徒で編成された白梅学徒隊が24時間体制で交代しながら看護活動を続けたのです。彼女らの任務は、手術に際しての照明を持つなどの補助作業や、傷病患者への包帯交換や食事、そして排泄介助などの世話、衛生材料などの洗濯、そして本部壕からの飯上げや手術で切断された手足の処分や汚物処理など多岐にわたりました。そうした白梅学徒隊の看護活動は、米軍の急速な南部侵攻に伴い、6月4日に第一野戦病院院長による解散命令が下されるまで同壕で続けらました。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

壕口に立ち入り禁止看板がある以上、壕の中に入るわけには参りません。立ち入り禁止看板がまだ無かった時の、平成30年(2018年)1月17日の参加記で壕内を撮影した写真がありましたので、再掲載します。手術壕内部の様子ご覧くださいませ。

《過去の写真ご紹介》

2018年1月17日/遺骨収集の様子no.8

【平成30年(2018年)1月17日撮影】
壕に入って少し進むと、右側に小さな小部屋のような空間がありますが、この空間が手術室だったと言われています。手術の為のベットその他手術備品などの配置をイメージすると、それほど広くはないですね。手術室がむしろ狭いと感ずるぐらいです。ここで医師が執刀するなか、衛生兵そして白梅学徒隊生徒が介助しながら、戦傷患者が麻酔無しで手足の切断などの手術を受けた事を想像してみると胸が痛くなりますね。

2018年1月17日/遺骨収集の様子no.9

手術室から戻り、本坑道を進んでみましょう。壕入り口からみて左側に曲がっています。

2018年1月17日/遺骨収集の様子no.10

壕は構築壕ですから縦横一間×一間以上の空間があります。坑道の角が四角になっていて構築された壕であるのが解ります。床面は平坦ではなく勾配が結構きついですね。この勾配は、もしかしたら壕内に漏れ出る雨水の排水を考慮したのかも知れません。坑道の左右には二段病床が設けられ、手術を終えた患者さん等が横たわっていたと思われます。

2018年1月17日/遺骨収集の様子no.11

40メートルも進まないうちに、坑道は右側へ直角に曲がっています。ここからは坑道空間は少し狭くなっていますね。奥の方に病院壕のもう一つの壕口が見えますね。ここからの距離は20mから30mぐらいでしょうかね。

2018年1月17日/遺骨収集の様子no.12

一緒に入壕した菊池さんが立っておられるので、壕空間の大きさが解りますね。ギリギリ立って歩ける状況です。

2018年1月17日/遺骨収集の様子no.13

壕の壁面を撮影しています。煤で黒くなっている部分は沖縄戦当時のままの状態です。一面煤が付着している事から、この病院壕も火炎放射攻撃を受けた可能性は高いです。そして左側の白い部分は沖縄戦当時の岩肌が剥落しています。風がよく通り岩肌が乾燥してしまうのか、壕内至る所で同じように剥離しているのが目に付きます。昔はこうした状況にはありませんでしたから、岩肌の風化が進んでいるとみて間違いありません。ただ剥離部の厚みは薄いので、だからといって落盤の危険があると恐れる必要は無いと感じますが‥‥。いずれにしても、壕内の乾燥化は、戦跡の存続を脅かす結果に繋がるのは間違いありません。

ところで南風原の一般公開されている20号壕では、壕の入り口と出口に引き違い戸を設けて気温や湿度を一定に保つように工夫して、壕内環境の安定化を図り、それにより風化による劣化を防ぐ努力をしていますね。

過去写真の掲載はここまでです。

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.26

「白梅学徒看護隊之壕」は、壕口が二カ所あると書きました。裏口とでも言うべき、もう一つの壕口に廻ってみましょう。「白梅学徒看護隊之壕」碑から道路に沿うように、右側へ50mぐらい進むと写真の風景が見えてくるはずです。樹林の中へ写真中央部辺りから入っていきます。この写真風景は駐車場前の道路から見えますのでね。同病院壕の裏口をも見学したいという場合は探してみて下さい。

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.27

樹林の中を20mぐらい進むとご覧の風景が見えてきます。すでに「立ち入り禁止」の看板も見えますね。写真では明るいですが、現地は結構暗い雰囲気で怖いと感ずるかも知れませんが、そのまま前進して下さいませ。(^o^)

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.28

黒い穴が左右二つ見えますが、左側の穴が壕口です。右側のは浅い窪地で壕口のように見えるだけですね。裏口と言えるこの壕口も立ち入り禁止となって久しいです。この壕口は上空を飛ぶ米軍の偵察機やグラマンなどからは絶対に見えない絶妙な位置に口が開いているのが印象的ですよね。

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.29

壕口です。開口寸法も小さめですから、少し屈まないと入れない高さとなっています。奥へ進むと立って歩けるぐらいにはなります。

「愛と鮮血の記録」 沖縄学徒隊の最期

金城和彦著 (株)全貌社 昭和41年(1966年)8月初版

上掲の金城和彦著「愛と鮮血の記録」に、この「手術場壕」や「上の壕」と呼ばれていた壕で看護活動をされた方の手記がありましたのでご紹介します。同著内に「手記・白梅の香りは高し」と題して、沖縄戦当時、県立第二高等女学校四年生であった垣花初代さんが書かれました。

手記・白梅の香りは高し (垣花 初代)

(110頁)
野戦病院
四月も中旬になると、戦闘は日ましに激しくなった。負傷兵が前線から続々と運ばれ、病院壕は超満員となった。もはや、このままでは収容は不可能となり、新垣、与座岳、八重瀬岳に分院をつくって収容することになり、衛生兵、看護婦と共に、私たち白梅部隊からも、二、三名づつ分院に派遣されることになった。

私は、長嶺さん、津波さん、与那覇さんと一緒に、上の壕にある手術場勤務を命ぜられた。壕内には、手足を切断された患者や、全身に包帯を巻いた患者など、はじめての私たちには、気の毒で正視できないやうな重症患者が、五、六十名も収容されてゐた。

長嶺さんと与那覇さんは別の任務に就いたので、この重症患者には私と津波さんの二人が看護に当たることになった。

五、六十名のしかも、重症の患者をたった二人で看護するのは、並大抵のことではなかった。あちらから尿器をせがまれ、こちらから便器を頼まれる。かと思へば、またある患者は傷の手当をしてくれといふ。身動きのできない傷ついた兵士たちは、一日中、ひっきりなしに私たちを呼びつづけた。

一つの体に二本の手ではとても足りないやうな状態だった。

そのうへ、ローソクをともしただけの薄暗い壕内では、毎日のやうに切開手術が行はれた。私たちは、その手術の場に立ち会ひ、手伝いをするのも重要な役割の一つだった。

足を切断される患者が、手術用の鋸でギリギリ音を立てながら切り落とされたり、弾丸の摘出手術があったり、さういふ場面に立ち会ふと、危うく貧血をおこして何回か倒れさうになったが、そのたびに、軍医に励まされて気を取り戻したものだった。しかし、そのやうな手術の場にもやがて馴れてしまった。かうして私たち二人は休むひまもない立ち通しのやうな勤務が続いてゐるなかで、夜、昼の区別なく呻き通しの患者がをり、さうした患者の中へ、また次の負傷者が、といふやうに、もう、全力を挙げて必死に看護にあたっても、どうしようもないほどだった。手がたりないので、二日おきに交換するはずの繃帯は、五日おきになり、一週間にものびた。

患者の傷口は化膿し、ウジが湧いた。

当然のことだったが、もう壕内は、その腐敗した臭気と、暑気に満たされ、普通ではとうてい我慢できないやうなありさまだった。だが私たちは、ただ夢中で働らいた。膿を拭き、ウジをひとつひとつピンセットで取ってあげた。

壕の外にはひっきりなしに砲弾が炸裂してゐた。至近弾がたびたび落下すると、もう今にも壕は圧し潰されるかと思はれるほどだった。

私たちは、その砲弾の合間を縫って患者の汚物の洗濯をするため、壕外に飛び出し、弾跡の水たまりで素早くリゾール水を溶かして汚物を洗った。汚物にたかったウジが、手まで這ひあがってきた。

ある日のこと、負傷兵に交って、前線で活躍してゐる鉄血勤皇隊県立第一中学校隊の生徒さんが、足に重傷を負って運ばれて来た。歯をじっと食ひしばって、痛さを我慢してゐるその姿は、まだ童顔である十五、六才の少年とは思へないほど健気だった。

私は、それから間もなく、アメーバ赤痢にやられてしまった。お手洗ひに何回も通ひながら、必死の思いで頑張ったのだが、とうとう軍医の命令でで、下の壕で治療することになった。そこには、お友だちも四、五名病ひに倒れてゐた。

兵隊さんの看護に当たる身でありながらと、自責の念に苦しめられた私の病ひも、五月上旬にはどうやらよくなって、私は再び勤務についた。

持ち場の仕事に復してみると、負傷者は以前にも増して多くなってをり、仕事はますます忙しくなった。壕内は、破傷風になった患者、瓦斯に侵されて全身紫色に腫れ上がった患者、手足を切断された患者、精神に異常をきたして喚き続ける患者などで、いっぱいであった。

ある時などは、軍医の命令で、衛生兵と一緒に暴れる患者を寝台に縛りつけたこともあった。また切断患者には、手術直後に水をやると死ぬから、絶対に水をやってはいけないと厳重に軍医から注意を受けてゐた。しかし、それらの患者たちは、殊更に水をほしがり、
「看護の学生さん、水を飲ましてくれ。後生だから水を飲ましてくれ」

と、喉をヒイヒイ鳴らしながら訴へるのだった。そんな時、私たちは心を鬼にして、「もうしばらく我慢して下さい。今水を飲むととりかへしがつかなくなりますよ」と言ひきかせるのだが、患者たちは、大声で、「看護隊の娘は薄情者だ」と喚き散らすありさまだった。患者の渇きの苦しみを思ふと気の毒だったし、また、私たちにてっても切ない気持ちだった。

解散命令
そんな毎日を続けながら六月を迎えて三日目、各分院壕に派遣されてゐた衛生兵や看護婦、それに白梅隊の学友たちが帰って来た。聞けば、敵が刻々と迫って危険になったので、分院を処理して本部に引き揚げたとのことである。

すでに軍司令部も首里を撤退し、最南端の摩文仁に移動したといふ話も耳に入った。私たちの病院壕にも、さうした迫ってくる空気がひしひしと感じられてゐた。そんな時、新城の分院から帰って来た学友の新里智子さんが、新城での勤務の様子などを語ってから、真剣な面持ちになって、実は私たちが本部へ引き揚げて来たのは、明日あたり学徒隊が解散になるからだといった。

私はあまりにも意外なこの言葉に、何回も新里さんに確かめたが、どうやらほんたうらしかった。とうとう私はこらへきれなくなって、泣いてしまった。

「軍と共に最後まで戦ふ覚悟でここへ入隊したはずなのに、どうして今ごろになって解散になるのだらう。いったい私たちはこれからどうなるのかしら」

不安と、なにか説明できないやうな悲しさでなかなか涙がとまらなかった。そこへ笠原伍長が来て、「なぜ泣いたりしてゐる。気を落としては駄目だ。敵はもう目前に迫ってをり、それ以外に方法はない。どこにあっても同じことなのだ」と励ましてくれたが、私はとうとう一睡もできなかった。

新里さんの言葉通り、明けて六月四日、早朝から壕内は異常な緊張感がみなぎってゐた。そこへ、「敵の進攻は意外に早く、もはや病院の存続は不可能となった。腹這ひになってでも壕外に出られる者は、今夜を期して全員戦闘に参加する」といふ命令が下った。

壕内は、一瞬シーンとした。極度にはりつめたものが、私の全身をよぎった。やっと “解散” の意味を納得することができた私たちは、一瞬の沈黙から解かれると、早速壕外に飛び出して、棒切れや木の枝などを捜し集めた。それは、戦闘可能な患者たちの松葉杖代用にするものであった。身動きのできない重症患者には、万一の用意に手榴弾が配られた。

午後になって、私たち学徒看護隊は、非常呼集を受けて下の壕に集合した。部隊長が、静かな面持ちで私たちの前に立った。

「御奉公の一念に燃えて、今までみんなよく働いてくれた。本当にご苦労であった。今後とも、最後まで皆と行動を共にしたいのだが、戦局ははもやそれを許さなくなってしまった。これから衛生兵は勿論のこと、動ける患者のすべてが戦闘員となって、敵陣に突入せんとしてゐる。でも、女子学徒隊をその渦中に連れて行くことは、どうしても忍び得ないところである。よって、本日をもって学徒隊は解散する」

私たちは、断られても、断られても、「戦闘員として、是非一緒に参加させてもらいたい」と歎願したが、どうしてもきき入れてもらへなかった。

やがて、金一封と、お米約五升、粉味噌、粉醤油、それに乾パン六袋づつが各人に支給されたが、これは、私たちのこれからの生命をつなぐ食糧のすべてであった。

その夜、私たちは、それまで生活してきた壕と兵士たちに別れを告げて、三、四名づつかたまって壕を出た。

「愛と鮮血の記録」から転載させて頂きました

ここまで、第二十四師団第一野戦病院(山3486部隊)が構築した、沖縄戦当時「手術場壕」とか「上の壕」と呼ばれた壕を見てきましたが、ここからは「本部壕」又は「下の壕」と呼ばれていた別の壕を見てみましょう。

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.30

壕口を写しています。壕口は閉鎖されていますが、第二十四師団第一野戦病院(山3486部隊)が病院壕として、富盛に構築した「本部壕」又は「下の壕」と呼ばれた壕です。よく見ると水道工事で使用する塩ビ管が少し見えますね。壕口を埋める際に用いたものです。例えば木材で壕口を塞ぐと、10年後とかに腐って再び壕口が露出してしまう恐れがありますが、塩ビ管は腐る事がありません。

この壕の所在場所を知っている方は少ないかもですね。この「本部壕」は、収容人員500名と最初にご紹介した説明板には記載されていましたね。500名収容とは結構大きな壕ですよね。

病院長:安井二郎軍医少佐が病院長で以下軍医、衛生兵186名、陸軍看護婦や補助看護婦、そして46名の白梅学徒看護隊員が配置されていました。第三十二軍の島尻への撤退、そして米軍が南部戦線に殺到するなどの戦況の悪化に伴い、6月3日には新城分院や東風平分院に居た白梅学徒も、ここ本部壕に引き上げていましたが、6月4日には本部壕も又閉鎖される事となり、白梅学徒看護隊員にも非常呼集が掛かり、病院長による解散命令が下されました。学徒らは戦野を彷徨するかのように、それぞれ数名ずつ班を作って南部に向かいました。一部の白梅学徒は「白梅之塔」横の病院壕に合流した後に、米軍の馬乗り攻撃を受けて戦没されました。

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.31

壕口に近づいて撮影しました。こちらの方が塩ビ管であるのが良く解りますね。私も以前に三カ所の壕口を見ています。壕口は山稜に等間隔で設置されています。以前は壕口から内部空間が見えました。壕口が、塩ビ管ではなく木の枝などで塞がれていた時代の話です。その時は降りようと思えば降りられた状況でしたが降りる事はしませんでした。壕口から見た内部空間は、直線的で坑道もしっかり幅と高さが確保されていて、キチッと構築された壕である言う印象を持ちました。

本部壕は、元々は壕口が五カ所あったとう話です。内部坑道は縦横に走り、本部をはじめ病室や薬局、そして炊事場等が配置されていました。「下の壕」で調理された食事を「上の壕」即ち手術壕に運んでいたようです。食事の運搬は白梅学徒看護隊員が行いました。食罐5つ6つ肩に掛けて運ぶという、命がけのかなり危険な作業だったようです。

今回は時間が無いので他の壕口を探すのはパスです。ネットで調べても「本部壕」内部の様子は出てきません。私も本部壕の中には入った事がないので、機会があれば見学したいですね。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

2014年6月の琉球新報の記事に、第24師団(山部隊)第一野戦病院本部壕の内部調査が為され、壕の構造の詳細が判明したという記事がありましたので、ご紹介させて頂きます。(^o^)

八重瀬・第一野戦病院本部壕 構造の詳細判明

【琉球新報】平成26年(2014年)6月5日

沖縄戦で白梅学徒隊が看護要員として動員され、戦後、落盤により立ち入りが困難だった第24師団第一野戦病院跡(八重瀬町富盛)の本部壕の内部調査が行われ、構造を詳細に描いた見取り図が4日、公表された。

これまでは元衛生兵が記憶に基づいて描いたスケッチや、1977年に厚生省(当時)が行った遺骨収集の際に作成された概略図などしかなかった。専門家は調査成果について「詳細な見取り図で非常に貴重な戦跡が残っていることが判明した。安全対策を施し、本部壕を保存・活用すべきだ」と話している。

白梅同窓会の依頼を受けた沖縄平和ネットワーク文化財・ガマ部会が2012年12月から内部調査を進めていた。同日、元学徒らに作製された壕内の見取り図や遺留物について説明した。

同窓会の中山きく会長(85)は「ちょうど69年前の6月4日、この本部壕で解散命令が出された。見取り図は私たちの記憶を補うだけではなく、沖縄戦を語り継ぐ上でも非常に重要な資料になる」と話した。

調査結果によると、本部壕の内部は東西約70メートル、南北約40メートルに広がる。八重瀬岳の北の斜面に四つ、北東に一つ、計五つの入り口があった。

それぞれの入り口から坑道が南側(第1~4坑道)と南西側(第5坑道)に延びており、中で東西の二つの坑道に交差し、つながっていたことが確認された。

調査開始時は落盤でどこに入り口があるのかも不明だったが、第2、第4坑道の上部から穴を開けて進入。第3坑道と、第2坑道の南半分を除くエリアを計測し、図面化した。

当時は坑道に沿って負傷した兵士が寝かされており、2段ベッドの骨組みとみられる木材、未使用の薬品アンプル、薬ビン、茶碗、軍靴なども見つかった。

白梅学徒隊は県立第二高等女学校の生徒で編成され、動員された56人のうち、22人が死亡した。第一野戦病院には、ほかに手術場壕(上の壕)、新城分院(ヌヌマチガマ)などがある。

同窓会では本部壕の見取り図などを記載した説明板を近くに設置したいとしている。内部調査後に再び入り口がふさがり、入れなくなっている。(安田衛)

「琉球新報」から転載させて頂きました

《サイトご紹介》

※ 「NHK戦争証言アーカイブス 八重瀬岳の病院壕」には、「本部壕」の見取り図が示されて説明が為されています。一つの壕としては広大な壕となっているのが解ります。ぜひご覧下さいませ。

ここだけの話ですが、八重瀬公園の駐車場横には、死者の遺体を葬る方法の一つとして、沖縄で広く行われていた形態である、「風葬」のご遺骨を見る事が出来るのです。自然界に委ねる「風葬」と言う儀式――それは四年から五年ほどの歳月を要します――を経た遺骨、即ち「風葬骨」が目視出来るのです。「風葬骨」は、現代的な火力が用いられる火葬場での、待っている人達のために急いで焼かれる骨とはまた一味違う印象を受けます。それは尊厳ある処遇の後に自然に帰った骨‥‥とでも呼ぶべきでしょうか。沖縄のジャングルの中には、そうした風葬墓が沢山散在しており、人々が生きていた証として今でも目撃できますが、そのいずれもがジャングルの中に立ち入らないと見る事は出来ません。その点で言えば、ここは道路脇にあるのですから、これ程簡単に見られる場所は沖縄にあってもここしかありません。八重瀬公園駐車場に車を停められた方は、徒歩10秒ですから、ぜひ立ち寄って見て下さいませ。(^o^)

その風葬骨はどのような経過を経ているのか? それは、亡くなられた人の遺体を土葬や火葬といった方法で埋葬するのではなく、四年から五年ほどの長い歳月を掛けて遺体を自然界の雨風に晒す――それは大きな亀甲墓の中や野外の岩などで仕切られた空間であったりします――ことで、骨以外の肉体を朽ち果てさせた後に、改めてご遺骨だけを「洗骨」と言う名の通り、海水などで残存する髪の毛や皮膚などを洗い流し、骨壺に丁重に収めてお墓の納骨室に安置すると言う手順を経ているのです。この一連の儀式は時間と手間が掛かりますし、初めて体験する人や骨に触った事が無い人は驚かれるでしょうが‥‥。

因みに、沖縄では戦前まで風葬が慣行的に行われていましたが、ほとんどは戦後に廃止されました。ただ離島である竹富町や与那国町などでは、火葬設備がなかったり埋葬する場所が不足している事や、高齢者の間では根強いニライカナイ信仰という民間信仰が、風葬風習の根底にあると言われている事などから、現在も風葬による葬送が選択されているようです。

風葬墓のご遺骨の様子

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.32

この写真は、八重瀬公園駐車場から見える風景を撮影したものです。ごくありがちな普通の風景ですが、沖縄の古墓なのです。駐車場から歩いてゼロ分、しかも風葬骨もしっかり残存しているなどと言うのは、極めて貴重な存在です。何時かは移設もしくは閉じられてしまうのではないか?と推測しています。ぜひそうなる前に、皆様も同地を訪ねられたら一度はご覧くださいませ。気軽に古墓の中を見学できる場所は早々ありません。古来よりの風習の一つが残る、沖縄旅行の貴重な一つの体験として有意だと考えます。因みに、この写真に写されている古墓は30年以上前から今日まで、外も中も一切人為が加えられた形跡がありませんので、所有者不明の古墓になっているのだと思われます。

古墓全体を俯瞰しますと、背後は巨大な岩盤となっているのが解りますね。この背景の岩盤を利用しつつ、手前側は石を積み上げているのが見えます。南部島尻では、よく見られる古墓のスタイルです。元々は手前側に積み上げた石は最上部まで積み上げられていて中が見えないようになっていたはずです。断定は難しいですが、沖縄戦の渦中で石が崩れてしまったのか、戦後の繰り返し襲来する台風などで、石が剥落していったのか‥‥。何十年と修復しないところを見ると、無縁墓になっている可能性もありますね。

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.33

古墓の中を見ています。瓶が見えますね。そして白い風葬骨も‥。私は一個の石も移動していませんよ。30年ぐらい前から古墓の中が見える状態になっているのです。ただ残念ながら骨量は確実に減少していますね。 この古墓の構造は背後のしっかりした岩盤を利用し、前面は石を積み上げてお墓とした様です。内部空間は畳一畳分ぐらいの広さが確保されているのが見て取れます。

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.34

風葬骨も長い歳月を経て、ごく少量になっています。風葬骨の総量は確実に減少していくでしょう。現在でも、大腿骨などの足のとか腕の骨などの大きい骨が残っているだけのように見えます。割れているので瓶の全体像は解りにくいですけど、この大きな瓶は大人の人骨一体分が収納出来る大きさで作られているはずです。写真に写されている瓶は、南部島尻地域で見られる一般的な風葬骨を納める瓶と言えるでしょう。一方沖縄でも首里や中部に行くと、瓶も豪華な装飾が為された厨子甕(ずしがめ)と呼ばれる瓶が用いられたようです。浦添の古墓で一度そうした装飾の施された厨子甕の蓋を見た事があります。

令和元年(2019年)の遺骨収集奉仕活動の初日である1月16日、レンタカーを借りるために予約していたお店に出向くと、懇意にして頂いてる女性店員が話の最後に、「沖縄では『洗骨』という映画をやってるさー」と教えて下さったのです。私が戦没者の遺骨収集をする為に沖縄に来ている事を知っている彼女は、関連している情報として話して下さったのだと思います。と言う事で、翌月の2月に渋谷の映画館に出向き、沖縄の離島・粟国島に残る風習「洗骨」をテーマとした、大切な家族の絆や祖先との繫がりを描いた、照屋年之氏の脚本・監督による映画「洗骨」を見て参りました。(^o^)

因みに、「洗骨」とは、風葬などの方法により遺体のまま数年間風雪に晒した後(この映画では4年後となっています)、脳や筋肉そして内臓などの有機的肉体部分が朽ちて、ほぼ骨皮と毛髪だけになった死者の骨だけを海水や酒などで洗い、今度は厨子甕(骨壺)に入れて本埋葬する葬制です。衛生的な問題やその洗骨作業の過酷さから、沖縄本島では戦後はほとんど見られなくなりました。

「映画.com」https://eiga.com/movie/88744/ には、同映画について次のような解説文がありました。

解説
「ガレッジセール」のゴリの監督・主演で、数々の映画祭で好評を博した2016年製作の短編映画「born、bone、墓音。」を原案に、ゴリが本名の照屋年之名義で監督・脚本を手がけた長編作品。沖縄の離島・粟国島に残る風習「洗骨」をテーマに、家族の絆や祖先とのつながりをユーモアを交えて描いていく。新城家の長男・剛が母・恵美子の「洗骨」のために故郷の粟国島に帰ってきた。母がいなくなった実家にひとりで暮らす父の信綱の生活は、妻の死をきっかけに荒れ果てていた。さらに、長女の優子も名古屋から帰ってくるが、優子の変化に家族一同驚きを隠せない。久しぶりに顔を合わせ、一見バラバラになったかにも思えた新城家の人びと。数日後には亡くなった恵美子の骨を洗う大事な洗骨の儀式が迫っていた。父・信綱役を奥田瑛二、長男・剛役を筒井道隆、長女・優子役を水崎綾女がそれぞれ演じ、筒井真理子、大島蓉子、坂本あきら、鈴木Q太郎らが脇を固める。
2018年製作/111分/G/日本
配給:ファントム・フィルム
監督・脚本:照屋年之

「映画.com」内の「洗骨」解説文を転載させて頂きました

動画ご紹介

「映画『洗骨』公式サイト予告編 DVD&Blu-ray発売中!」

「ありがとうばあちゃん与論島の“洗骨儀礼”洗い清めた骨は守り神▽家族の絆」

洗骨に関連して、遺骨収集をこれからやってみたいと思われる方必見の骨に関する本をご紹介します。(^o^)

《書籍ご紹介》

「骨の名前としくみ事典」 部位別にわかりやすくビジュアル解説

山田敬喜・肥田岳彦監修 成美堂出版社 ?初版

人間の全身には、約206個の骨があるそうです。凄い数ですよね。約という言葉かついているのは、尾骨や種子骨に個人差がある為だそうです。実際にあなたは何個ぐらいご存じでしょうか? 本著は、精密な図譜やイラストを多用し、骨の名称は勿論、連結された骨の位置関係や構造をもしっかり説明文にて解説しています。この本は医療従事者向けではなく骨に対して興味を持たれた方や、教養や健康の為に骨格を学びたいという人に最適な参考書になると感じます。薄暗い部屋で夜な夜なこの本を見ていると、自分でも驚くほど知的好奇心が湧いて参ります。(笑)

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.35

八重瀬公園駐車場横には、ご覧のように下に降りて行く階段があり、昔は駐車場の下側にも遊歩道が東西に延びていました。これらの遊歩道は、木々の茂り具合から適切な管理が為されていないと言う印象を受けますね。因みに、この写真を掲示したのは、金光教の遺骨収集時代に、この写真に写されている部分よりも左側になりますが、下に降りたところでご遺骨を発見しました。大きな岩の付け根にありました。ご遺骨は誰でも巨岩の前に立てば発見できるぐらいの感じで、白い棒状のご遺骨が何本か露出していました。昔に遡るのほどに、ご遺骨は白かったですから発見は容易でした。またその頃は隠れるのに都合の良い大きな岩陰を見つけると、それなりの確率でご遺骨がありましたね。

「八重瀬公園」

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.36

「白梅学徒看護隊之壕」の慰霊巡拝を終えた後、階段を登り、桜並木を写しています。八重瀬グスク跡を含む八重瀬公園は、本島南部では随一の桜の名所として知られていますよね。公園内には約五百本の緋寒桜(ヒカンザクラ)が植えられているそうですよ。「やえせ桜まつり」は、毎年2月の第一日曜日に八重瀬公園内で開催されるそうですよ。ご覧のように、遊歩道階段の両脇には沢山の桜が植えられていますから、満開の時などはさぞ見応えのある桜並木となる事でしょう。私も一度だけ「やえせ桜まつり」を松永さんに連れられて見学した事があります。それでは階段を登って行きましょう。(^o^)

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.37

階段の途中で、ご覧のように門中墓がありました。こうしたお墓は門中の表札があるのが一般的ですが、ここは無いようです。沖縄のお墓の形態は、有名な亀甲墓など複数ありますが、このお墓は「破風墓(はふうぼ)」と呼ばれるお墓だと思われます。

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.38

お墓内部への出入り口は、キチッと塞がれています。封印されていると言えるぐらい見事に閉じられていますね。

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.39

数は少ないですが、緋寒桜も咲き始めていますね。

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.40

この枝も咲き始めていますね。(^o^)

「八重瀬グスク跡」

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.41

階段を登り終えて、少し東に進むと「八重瀬グスク」があった場所に出ました。同グスクの説明板です。一応テキストにしてみました。

八重瀬グスクは一名富盛グスクとも呼ばれ島尻の世の主、八重瀬の按司の居城であったと伝えられ、今から約600年前に築かれたのではないかといわれている。このグスクは標高105mから125mの間にあり、八重瀬岳とは地形的に上・下の位置関係にある。グスクの面積は4,231㎡で内部には石で囲まれた郭があり、本殿跡・蔵当(クラトウ)・物見台といい伝えられたところがある。
現在でもグスク内には「城火の神」「ナカジク火の神」「グスク井泉」と呼ばれる三カ所の拝所・井泉があり、又「カニカマルー」の伝説や民話などが残されており村人たちの深い信仰の場になっている。

平成18年2月1日  八重瀬町教育委員会 

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.42

「本殿跡」ですね。ここに本殿があったとされている場所のようです。

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.43

「本殿跡」の奥の方に歩みを進めますと拝所がありました。「城火之神」と書かれた立て札があります。因みにグスクには水源が付近に必ずありますから、掲示されていた「城ガー」という名称の水源又は井戸を探したのですが、ちょっと見当たりませんでした。何時かは八重瀬グスクの水源を探してみたいですね。

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.44

「本殿跡」の一角に山上に行けそうな登り坂がありました。

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.45

石材で作られたテーブルと椅子が見えてきました。休憩場所と言う事で、周りの景色が良く見える場所なのかも知れませんね。

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.46

八重瀬町にある八重瀬岳山頂と思われる場所を撮影しています。町名の由来となった地でもあります。標高は163mだそうです。一応山ですから山頂と表現しましたが、山頂がある訳ではありません。北側から撮影するとご覧のように山に見えますが、山上には陸上自衛隊八重瀬分屯地という基地があるのですが、その基地内に立てば山はどこにも見えないはずです。

なぜこのような地形になるのかと言うと、この地域一帯の石灰岩で構成される平坦面が、活断層活動により切断された傾動地塊となっているからであり、南側は緩やかな傾斜面、北側は断層崖という地形となります。結果として古城の南側が緩やかな傾斜となり集落が発展し、北側の断層崖の崖上にグスクが立地するという共通性があります。激戦が展開された前田高地なども同じ地形であるのが解ります。

そうした観点で島尻方面を見ると、八重瀬岳から与座に掛けての崖は特徴的ですよね。因みに崖が東西に延び連なっていると言う地形は、「魂魄の塔」から喜屋武岬灯台まで連なる断層崖も同じ事が言えます。こうした崖部分に沿うように古城が幾つも作られました。例えば高摩文仁グスクから西側を見ても、ガーラグスク、米須グスク、石原グスク、波平グスクなどが規則正しく並んでいます。

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.35

ここが八重瀬公園の最も標高が高い場所のようです。早速周りを観察したり、遠くを遠望してみましょう。

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.47

首里や那覇がよく見えますね。望遠にしなかったので目視では小さいですが、おもろまちにあるツインタワーマンションThe EASTとThe WESTも見えていますよ。下の方に見えるのが八重瀬公園駐車場です。眼前に広がる畑から見ると、ここ八重瀬岳山腹との標高差がかなりあるのが解ります。八重瀬岳に布陣する日本軍からは、眼前の畑地を進軍して来る米軍が丸見えと言う状況です。この八重瀬、与座、国吉、真栄里ラインの崖地は守る側が実に有利な地形となっており、米軍戦史を見ても同防御ラインにおける苦戦の様子や戦闘で多大な戦死傷者を出したと記録されています。

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.48

駐車場と多目的広場を結ぶ遊歩道まで戻って来ました。遊歩道の両脇に植えられているのは桜が満開となったら見事だろうなと感じさせる桜並木です。八重瀬公園での桜祭りは地域一番のイベントとして盛大に開催されるとの事で、桜の夜間ライトアップやイルミネーションが施され、厳かな夜景と共に花見を楽しむ事が出来るそうですよ。(^o^)

八重瀬公園は桜の名所で毎年桜祭りが開催されるという話が出ましたので、平成24年(2012年)の遺骨収集で松永さんと共に、第6回やえせ桜祭りを見学した時の写真があるので、ここに転載しご紹介致します。(^o^)

《過去の写真ご紹介》

やえせ桜まつりの様子29

【第6回やえせ桜まつり/平成24年(2012年)撮影】
本土と同じように今年の沖縄はとても寒くて桜の開花も大幅に遅れました。ご覧のように桜は一分から二分咲きといったところでしょうか。

やえせ桜まつりの様子30

天候にも恵まれ大勢の人たちで賑わうさくら祭り会場の様子です。

八重瀬町は東風平と具志頭が市町村合併して生まれました。さくら祭り全体を通して合併した町民の懇親を深めるための演出を強く感じましたね。寒い冬から解放され綺麗な桜の花の下で、子供からお年寄りまで楽しめる各種アトラクションが用意され、イベントに参加したり観覧したりそれぞれの立場で終日楽しめるよう配慮されている印象でした。(^o^)

やえせ桜まつりの様子31

ご存じピーマンですが、大きいですね~。飛ぶように売れていました。

やえせ桜まつりの様子32

子供向けのシーサー作成教室といったところですね。沖縄らしいイベントですね。

やえせ桜まつりの様子33

作業する机の上は大変なことになっていますが、粘土を整形するところからスタートしていますから、完成した時はきっと嬉しいでしょうね。きっと良い思い出になるでしょう。

やえせ桜まつりの様子34

彼らの “作品” を紹介しますよ。可愛い顔をしていますね~。(^o^)

やえせ桜まつりの様子35

ユニークな顔のシーサーが次々に生まれていますね~。

やえせ桜まつりの様子36

子供の発想の豊かさを改めて感じますね。

やえせ桜まつりの様子37

この「シーサーのルーツ」を見ると、シーサーはエジプトがルーツであり、イスラムの中東を経て東南アジア、そして沖縄へと伝わったみたいですね。勉強になりました。

やえせ桜まつりの様子38

歌謡コンテストと銘打ってカラオケ大会が開催されています。皆さん歌がとても上手でしたが、それ以上に司会者の現地語を交えた軽妙な語りで会場を沸かせていた司会者が印象的でしたね。右側に立っている方が司会者です。

やえせ桜まつりの様子39

メインステージ前には、雨に備えてのテント付きの観覧席がもうけられていました。地元のお年寄りなどを招待しているみたいですが、踊りなどのイベント用の服装をしている方も居ましたから、観覧したりイベントに参加したりと見て踊って楽しんでいる雰囲気でしたよ。

やえせ桜まつりの様子40

出店も沢山出店していましたから販売されている食べ物は豊富でしたね。奥の方に見えるのは子供向けのさながら移動遊園地といった感じで、子供が楽しめる施設が設置されていました。

やえせ桜まつりの様子41

獅子舞の様子です。こんなに近くで沖縄伝統の獅子舞を見るのは初めてですが、かなり迫力がありました。

やえせ桜まつりの様子42

よく観察すると独特の動きがあり、この動きのパターンも多かったです。

やえせ桜まつりの様子43

この姿勢も獅子舞君のお気に入りの体勢みたいですよ。(^o^)

やえせ桜まつりの様子44

やえせ桜祭りのメインイベントと思われる大綱引きが始まったようです。東西から大きな大蛇に見立てたと思われる綱を大勢の人たちが担いで登場しました。東西の綱は男綱・女綱と呼ぶらしく、女綱を扱うときは優しく、男綱は粗々しく…。というようなイメージで綱を操るのだそうです。

やえせ桜まつりの様子45

綱は蛇に例えられるのでしょうかね。場内を蛇がクネクネするように練り歩きます。

やえせ桜まつりの様子46

東西の綱がここで合体しましたが、棒が男性のシンボルに見立てどうやら男女の合体をも意味するようです。実際にそのようにアナウンスしていましたが、もちろん神事という意味ですから、神聖な行事という意味です。時間をかけ神妙に作業が進められました。日本の祭りにはそうした男女の絡みを含めた祭りが多いですね。

やえせ桜まつりの様子47

大綱引きは準備が完了した時点で一度休止し、棒術の演舞が始まりました。

やえせ桜まつりの様子48

沖縄は空手が盛んであるのはよく知られていますが、伝統の棒術も様々な武器が登場し、また演舞のいろんな型があるようですよ。

やえせ桜まつりの様子49

複数の団体が参加している印象です。各地域に伝統芸能を守る組織があるのかもしれません。

やえせ桜まつりの様子50

単独で演舞したり、複数人で演舞したり、また動作も実に多彩です。

やえせ桜まつりの様子51

後ろ姿で少し解りにくいのですが、沖縄県自由民権運動の父、謝花昇先生を讃えるデモストレーションです。謝花昇先生「東風平謝花」と称えられて県民の尊敬を集め、地域の英傑として現在でもこのように地元のイベントで顕彰されているのですね。

やえせ桜まつりの様子52

こちらは、汗水節を書いた仲本稔先生を讃えるデモストレーションです。「汗水節」は働く喜びを歌い、社会奉仕を説く沖縄の代表的な教訓歌で、沖縄県人の社会生活向上運動に貢献し、現在でもこうして謝花昇先生と共に地元で顕彰されているようです。

やえせ桜まつりの様子53

やえせ桜祭りのメインイベントである大綱引きが始まりました!。写真では紹介できませんが、見物する町民の皆さんも大きなかけ声を発して、会場が大きな歓声に包まれながら燃え上がりました。(私は決着がつく前に那覇空港に向かいましたが、結果は一勝一敗だったようです。また祭りの最後には、字富盛青年会のエイサーが演舞されたそうです。見たかったな~。)

過去写真掲載はここまでです。

県道52号線を挟んで、八重瀬公園の向かい側にある「富盛の石彫大獅子」も沖縄戦の砲爆撃を乗り越えて残存した歴史的建造物してい名高いですよね。慰霊巡拝では外すわけには参りません。ただ「富盛の石彫大獅子」は富盛の小高い丘の上にあるのですが、この歴史的建造物は偉大ではあるけれど、凄く小さくて私達人間と余り違わない大きさなので、見つけるのが大変です。地図で確認すると、山上の勢理グスクにあるのは直ぐに解りますが、初めて訪れる方は、到達にちょっと苦戦するはずです。(^_^;)

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.49

山上に向けて車を走らせています。県道52号線から見ると、丘の裏側に回りつつあると言う位置関係になりますね。山上は勢理グスクです。ここから歩いて登っても良いのですが、ハブが怖いのでそれは止めておきましょう。ここまでは、大概順調に来るはずです。問題はここから先です。小さな交差点や分岐点で、山上側へ山上側へと車を走らせると一発で到達出来るのですが‥‥。

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.50

道すがら、余りに立派なお墓があったので撮影させて頂きました。近年主流となっている「破風墓(はふうぼ)」ですね。棹石や台石、そして墓誌碑で構成される本土の角柱型をベースとした「和型石碑」でも百万円を超えたりしますからね~。写真の墓は外柵や敷地床面など何から何まで石造りです。一戸建ての住宅と見まがうほど大きなお墓のお値段は如何に‥‥。

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.51

富盛の丘中腹辺りをグルッと回って来るとここに到達します。県道52号線から丘を三分の二ぐらい回るでしょうか。ここに至ると坂の上50mぐらい先に専用駐車場があります。私はナビは使わないのですが、ナビを使うと簡単にここまで来られるのかも知れませんね。因みに私がナビを使わないのは、使い続けると何時までたっても道を覚えられないと悟ったからです。ナビを止めてからと言うもの、道順が頭に記憶されると共に距離感も頭に描けるようになりました。頭の中に立体的な地図が描かれるようになると言う訳です。便利な物にはメリットだけでなくデメリットも付随するのですね。

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.52

辻とでも呼ぶべきこの場所には石の祠があり、「中間之御嶽(ナカマヌウタキ)」と言う名の拝所がありました。富盛集落には三つの御嶽があるようです。この中間之御嶽(ナカマヌウタキ)から遠くない場所に、他の二つである比良宇之御嶽(ヒラウヌウタキ)、比嘉森之御嶽(フラムイヌウタキ)があるそうですよ。機会があれば訪ねてみたいですね。

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.53

コンクリートで舗装された坂道を登って行くと、ご覧のように右側に駐車場が見えてきます。駐車場は近年整備されました。昔は無かったので、この道路の端に駐車する以外の手はありませんでした。

「勢理城/富盛の石彫大獅子」

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.54

「勢理城(ジリグスク)」の石碑がありますね。石段や石の橋を渡ると同グスク跡がある山上に到達します。同グスクは富盛集落の西側の標高約90mの石灰岩丘陵にあります。周囲は崖状の地形になっているのが印象的です。山上の現在は広場となって郭には、石積み等のグスク遺構は見当たらないとの事です。

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.55

八重瀬岳を写しています。山上右側に崖のようになっている部分がありますが、その辺りが標高が最も高い位置と推測されますね。現在の八重瀬岳山上南側の緩斜面には陸上自衛隊八重瀬分屯地があります。ご覧のように、自衛隊の居住棟と思われるコンクリート製建物が少し見えていますね。

八重瀬岳を東端とする、東西6km程続く島尻陣地帯の山脈のながで、一番高い山が眼前にある八重瀬岳です。標高は163mです。標高90mの富盛の丘から見ても、八重瀬岳はそびえ立つように見えますから、更に下となる畑が散在する場所から見ると、正に見上げるように八重瀬岳が見えるはずです。その標高差は実に90mもあると言われ、攻める米軍の進軍状況が丸裸のように日本軍には見えていた事でしょう。攻め上る米軍側から見てその山稜の格好から、米兵はこの山を〝ビッグアップル・リッジ〟と呼んだそうです。

平成31年(2019年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.51

【沖縄県公文書館所蔵】
分類名:米国陸軍通信隊 沖縄関係
撮影地:(東風平町富盛)
撮影日:1946年 1月
写真解説:【原文】 Yaeju Dake Escarpment.
【和訳】八重瀬岳の急斜面

平成31年(2019年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.52

【沖縄県公文書館所蔵】
分類名:米国陸軍通信隊 沖縄関係
撮影地:
撮影日:1945年 6月14日
備 考:第96歩兵師団
写真解説:【原文】Riflemen of the 2nd Battalion, 381st Regiment of the Tenth Army's 96th Division, peer cautiously ahead as they advance across the summit of Yaeju-Dake escarpment (Big Apple Ridge) on Okinawa.
【和訳】警戒しながら八重瀬岳(ビッグアップル・リッジ)の頂上目指す第10軍第96歩兵師団第381連隊第2大隊のライフル兵。

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.56

「富盛の石彫大獅子」とご対面です。実に三百年以上前に据え付けられた石彫大獅子に、久しぶりのご対面です。(^o^)

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.57

この大獅子は、火除け(火返し)として、第二尚氏王朝の第11代尚貞王 (在位:1669~1709年) の時代の尚貞王21年(1689年)に建立されたものです。高さ141.2cm 長さ175.8cmで1つの岩から彫られおり、沖縄に現存する石獅子としては、最大且つ最古のものとされているようです。当初は牙があったそうですが、欠けてしまったようです。実際によ~く見ると、欠けたと思われる部位が確認できます。

大獅子はフィーザン(火山)といわれる八重瀬岳(嶽)に向けて蹲踞しています。沖縄各地にある村落祭祀上の目的で作られた獅子の中でも最大最古のものであり、民族資料としても貴重なものであるといわれています。 1974年には沖縄県指定有形文化財に指定され,今は町のシンボル的存在となっています。

同石獅子の設置由来は、市のウエブサイトによりますと、「当時村中に不審火が多いことで困っていた富盛村の住民が、久米村の蔡応瑞(大田親雲上)に風水を占ってもらった結果、八重瀬岳が原因だと判明されました。その対処として山に向かって獅子を建てると良いとの助言を受けて設置されたと伝えられています」と書かれていますね。

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.58

沖縄戦当時の富盛の大獅子88

比べて見て下さい。
米軍側が撮影した沖縄戦の写真です。「富盛の石彫大獅子」の周囲で、八重瀬岳に布陣する日本軍守備隊の動向を監視しているところです。

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.59

弾痕の跡が一致している様に見えますね。

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.60

こちらも、弾痕の跡が一致している様に見えますね。

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.61

反対側も弾痕跡が沢山ありますよ。

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.62

弾痕跡があちこちありますね。そして深い弾痕跡です。

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.63

こちらも深いですし、丸く抉られた弾痕跡ですね。

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.64

山上は「勢理城(ジリグスク)」の城内と言う事になると思いますが、ご覧のように平らな芝地になっています。昔はこの広場も怖いぐらいに暗かったです。と言うのも広場の周囲に樹木が沢山植えられていて、それがまた大きな木でしたから、結果として暗い空間となっていました。写真前方をご覧下さい。太く枯れた木が倒れていたり、株元が枯れていたり‥‥。が目立ちますよね。パッと見た限り、枯れたから切り倒したと言う印象を受けます。

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.65

枯れた木を一本写してみました。一方で風で飛んできた種から発芽したと思われるパパイアの木も写されています。

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.66

パパイアです。パパイアはパパイア科パパイア属の常緑小高木です。摩文仁海岸線でも、大きく育ったパパイアの木を二カ所で見ています。高さ4mぐらいに成長していましたね。パパイヤといえば、熟した果実はトロピカルフルーツとして有名ですが、沖縄ではまだ青い未熟果を「青パパヤー」と呼び、沖縄伝統の島野菜の一つにも数えられ多様な料理に使われているそうですよ。

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.67

「勢理城(ジリグスク)」の城内広場から東側を撮影しています。攻める米軍は、ここ八重瀬岳付近は第二十四軍団隷下の第九十六師団が、そして眼前の低地を具志頭に向けて同隷下の第七師団が進軍した地域です。写真右側のちょっとした小高い丘が樹林帯となって見えていますが、そこに携帯電話の電波塔が二本かなり近い位置関係で建っているのが見えますね。その電波塔の左100m以内の場所に、ヌヌマチガマがあるのです。またその小高い丘の反対側にはガラビガマがあり、両ガマは一つの繋がった洞窟であり全長約500mあるとされています。私も両壕内をヌヌマチガマ側から縦走した事がありますが、アップダウンが激しく長さが1kmぐらいに感じた記憶があります。同ガマは、沖縄戦が始まる前は第二十四師団(山部隊)歩兵第八十九連隊第二大隊の野戦病院として利用されていました。地上戦の激化に伴い八重瀬岳の第二十四師団第一野戦病院では患者の更なる収容が出来なくなった為に、新城分院として開設され多い時には千名もの傷病兵が収容されたようです。同分院には沖縄県立第二高等女学校の学徒隊、戦後の呼称である白梅学徒隊も五人が派遣され、傷病兵の看護活動に従事しました。

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.68

野菜の無人販売所があったので撮影させて頂きました。場所は与座の上与座という地域で、県道52号線に面していました。よく見ると半間ほどの幅でボックスが設けられ、区切られているのが解ります。野菜が置いてある棚は北側を向いていますから、直接太陽光線を浴びない分、野菜の劣化が抑制されると感じますね。

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.69

まずはこの販売所です。キャベツが沢山並べられています。撮影時刻は午後6時頃ですから、今日はあまり売れなかった‥‥。そう言う事もあります。めげずに明日に期待ですね。(^o^)

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.70

料金を投入するポックスです。簡単には壊せない印象ですね。

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.71

こちらは生産者名が表示されています。こちらはキャベツと共に茎のホワイトブロッコリーが陳列されています。

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.72

やはりこちらも少し売れた‥‥。と言う印象です。茎のホワイトブロッコリーの一袋は凄く大きいですよね。本当にお買い得だと感じます。

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.73

料金を投入するポックスです。やはり簡単には壊せない印象です。丸い穴はお金を投入しやすくて良い感じです。

令和4年(2022年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.74

二種類の野菜が陳列されていますが、島野菜と言った雰囲気で、名前はちょっと解りませんね。

日中の作業は、非公開での調査・遺骨収集を実施しました。ご了解下さいませ。m(_ _)m

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