令和04年(2022年)沖縄遺骨収集奉仕活動

1月22日(土) 摩文仁海岸線で調査・遺骨収集

今日の天気予報は「晴れのち曇り」で、夜には雨の降り始めるそうです。予想最高気温22度、降水確率は40%、70%です。日中は持ってもらいたいですね。本日朝の慰霊巡拝は、「サイモン・B・バックナー中将戦死の跡碑」「栄里之塔」「野戦重砲兵二三聨隊慰霊碑」「沖縄工業健児之塔」「沖縄平和祈念堂」「島守の塔」を訪ねました。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.1

まず目指すのは「サイモン・B・バックナー中将戦死の跡碑」です。見つけにくいと思われますが、頑張って探して下さい。住所としては糸満市真栄里です。木々が茂るこの小高い丘は交差点の近くにありますので注意深く周囲を観察してみて下さい。「サイモン・B・バックナー中将戦死の跡碑」は、目の前の階段を上るとあります。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.2

階段は途中で踊り場がありますね。慰霊塔が見えてきました。

所在地ご紹介

「駐車場・トイレはありません。路上駐車となります」

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.3

霊域で最初に目にするのは二つの碑で、左側の地面に埋められているように見える碑が「陸軍第24軍団大96師団歩兵383連隊長エドウィン・T・メイ慰霊碑」で、右側の直立している碑が「米国陸軍准将クローディアス・M・イーズリー追悼碑」です。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.4

こちらは、「陸軍第24軍団大96師団歩兵383連隊長エドウィン・T・メイ慰霊碑」です。ちょっと名前しか読めません。(^_^;)

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.5

こちらは、「米国陸軍准将クローディアス・M・イーズリー追悼碑」です。写真では反射で解りにくいのですが、同碑は英語と日本語で碑文が刻まれています。日本語では「米国陸軍准将クローディアス・M・イーズリー 1891年‐1945年 1945年6月19日 この地に於いて戦死す」と書かれていますね。戦死した日付が19日となっている事から、サイモン・B・バックナー中将が戦死した翌日に、同じように狙撃されて戦死しました。与座で日本軍陣地に対する戦闘指揮中に、日本軍陣地から発射された二発の機関銃弾によって前頭部を撃たれての即死だったようです。

「サイモン・B・バックナー中将戦死の跡碑」

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.6

小さな階段を登ると「サイモン・B・バックナー中将戦死の跡碑」の霊地になりますね。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.7

「サイモン・B・バックナー中将戦死の跡碑」です。サイモン・B・バックナー中将は米第十軍の司令官で、沖縄戦も終末が近づいた昭和20年6月18日に守備軍による砲撃で戦死したのです。米軍が沖縄占領を宣言する6月21日から見ると、僅か三日前と言う段階での米軍最高位指揮官の死でした。

同日午後1時15分頃、観測所で戦闘指揮中に沖縄守備軍が放った砲弾がこの観測所の真上で炸裂し、吹き飛ばされた岩石の一つがバックナー中将の胸部を直撃したのです。バックナー中将はその場に崩れるように倒れ、十分後には絶命したとされています。

「沖縄戦は峠を越した。後は最後の追い込み戦だけだ」とバックナー中将は、6月15日に語っています。また同日訪れた観測所は第二海兵師団第八海兵連隊の前線観測所でした。警備が手数と見られていますし、軍装からも高い地位にある将官であると解る出で立ちであったようで、客観的に見て油断があったとみるのが順当かも知れません。因みにこの第二海兵師団諸部隊は、4月1日と19日に海上から陽動作戦に参加しただけで、各部隊は一度も上陸していませんでしたが、6月に入ってから最後の戦闘に参加する為に上陸し、真栄里での同隊の進撃状況を視察している所だったのです。

サイモン・B・バックナー中将の遺体は沖縄に仮埋葬されていましたが、終戦後にバックナー中将の故郷であるケンタッキー州のフランクフォート墓地に埋葬されたと言います。

またこの高台には「バックナー中将戦死の碑」が、米軍により昭和27年(1952年)に建てられていましたが、昭和49年(1974年)にキャンプフォスターに移設されたため、昭和50年(1975年)6月に沖縄県慰霊奉賛会(現在の沖縄県平和祈念財団)により、新たにこの高台に建立され現在に至っていると言う状況のようです。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.8

地面に埋め込まれた碑です。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.9

「サイモン・B・バックナー中将戦死の跡碑」です。「米國第十軍司令官 サイモンBバックナー 中将戦死之地」と彫り込まれています。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.10

霊地の一角に建立されている碑です。「諸霊よ安らかに」と日本語で書かれていますね。下の英文も多分、亡くなられた沖縄の人々、アメリカそして日本の人々の諸霊よ安らかに‥‥。と言う意味合いでしょうかね。

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子37

【昭和63年(1988年)撮影】
この写真も、野戦重砲兵第一連隊の中隊長として指揮をとっていた石原正一郎さんから頂いた写真です。石原さんは、昭和61年(1986年)6月18日に建立された、写真の「米、琉、日戦没諸霊安らかにのメモリー碑」についても設置に向けて尽力されました。石原さんは、毎年沖縄の慰霊祭に参加する時には、「バックナー中将戦死之跡碑」にも必ず訪れ、献花し手を合わせていると語っていました。

サイト管理人コメント:
「米、琉、日戦没諸霊安らかにのメモリー碑」が建立されてから二年後に撮影された写真ですので、同碑などはまだ真新しい印象を受けますね。

過去の写真掲載はここまでです。

平成31年(2019年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.46

【沖縄県公文書館所蔵】
分類名: 米国陸軍通信隊 沖縄関係
撮影地:糸満市高嶺
撮影日:1946年 1月
写真解説:
【原文】 Stone with tablet on it showing spot where Gen. Buckner, Jr. was killed.
【和訳】 バックナー将軍が戦死した場所を示す石碑

平成31年(2019年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.47

【沖縄県公文書館所蔵】
分類名: 米国陸軍通信隊 沖縄関係
撮影地:糸満市高嶺
撮影日:1952年 4月28日
写真解説:
【原文】 A memorial tablet which marks the spot where Lt. Gen. Simon B. Buckner, was killed.
【和訳】 シモン B.バックナー中将の戦死した場所に建つ記念銘板

平成31年(2019年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.48

【沖縄県公文書館所蔵】
分類名: 米国陸軍通信隊 沖縄関係
撮影地:糸満市高嶺
撮影日:1952年 4月28日
写真解説:
【原文】 A memorial tablet which marks the spot where Lt. Gen. Simon B. Buckner, was killed.
【和訳】 シモン B.バックナー中将の戦死した場所に建つ記念銘板

サイモン・B・バックナー中将は、沖縄戦における勝敗の帰趨は決したと判断したのでしょう。6月11日付けで、「第三十二軍司令官 牛島満中将閣下へ」と題して降伏勧告文を発出していますが、その文面が第一線の手を経て第三十二軍司令部に届けられたのは、6月17日であったようです。軍使を出されよとする6月12日から五日が経過していたという事になりますね。まずはサイモン・B・バックナー中将から発出された降伏勧告状を見てみましょう。

【降伏勧告親書文】

第三十二軍司令官 牛島満中将閣下へ
牛島将軍、貴下に敬意をこめて、この一書を呈します。貴下は歩兵戦術の大家にして、我々の尊敬を集めるに充分な、立派な戦をされました。私も貴下と同じ歩兵出身で、貴下が孤立無援の、此の島で果された役割と成果に、満腔の理解を持ち、かつ賞讃を惜しまぬもので有ります。

然しながら、すでにこの島の飛行場は、自由に我々の、使用する所となりました。この上貴下が、戦闘を継続して前途ある青年たちを、絶望的な死に追いやる事は、甚だ意義のない無益な事と私は信じます。私は人格高潔な指揮官である貴下に対し、速かに戦をやめ部下の生命を、救助せられる事を勧告します。

明十二日、マブニ海岸沖の軍艦上に我が方の軍使を待期させます。貴軍に於かれても、軍使五名を選び、白旗を持って、同地海岸に差し出される様、切に望みます。 米軍上陸軍司令官 シモン、バックナー中将より

昭和二十年六月十一日 

米軍側から見て戦況の帰趨も見えてきたと言う状況下、第三十二軍司令部首脳がサイモン・B・バックナー中将の18日の真栄里での戦死を、6月21日の夜か翌22日未明に知ったと、下掲の矢原博通著「沖縄決戦」に書かれています。バックナー中将の戦死に対する軍首脳部の反応も含めて一部引用させて頂きご紹介致します。

《書籍ご紹介》

「沖縄決戦」 高級参謀の手記

矢原博通著 読売新聞社 昭和47年(1972年)初版

(277ページ)
アメリカ第十軍司令官バックナー中将の死は、我々にとっては初耳であり、驚愕すべきビッグニュースであった。私は、わが軍司令官の自決に先だち、敵将を討ち取ったことに、無情の愉悦を感じた。沖縄作戦に、わが日本軍が勝ったかのような錯覚を覚えたほどである。むろん参謀長は踊り出さんばかりであった。だが、牛島将軍はと見ると、一向に嬉しそうになく、むしろ敵将の死を悼むかの如く、私どもが喜ぶのが当惑そうである。以前我々が将軍の面前で、人の批評をした際、困ったような顔をされるのが常であったが、それと同じである。私は今更ながら、将軍は人間的には偉い人だと、襟を正さずにはおられなかった。

「沖縄決戦 高級参謀の手記」から転載させて頂きました

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.11

日米で激烈な戦闘が続いた国吉集落方面を見ています。視界の先には「白梅之塔」や、8月28日に軍旗を奉焼し翌日鉾を納めたと言う「歩兵第三十二連隊終焉之地碑」などがあります。

「栄里之塔」

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.12

「栄里之塔」の全景です。住所としては糸満市真栄里ですね。見通しの効く道路の交差点の一隅にありますので、結構見つけやすいと思われます。因みに交差点の反対側には、先ほど慰霊巡拝した「サイモン・B・バックナー中将戦死の跡碑」がありますので、是非両塔を慰霊巡拝される事を推奨致します。

所在地ご紹介

「駐車場・トイレはありません。路上駐車となります」

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.13

「栄里之塔」です。昭和27年(1952年)3月に建立、そして昭和43年(1968年)3月に改装されました。「栄里之塔」には、この付近に布陣した第二十四師団(山部隊)の、主に歩兵第二十二連隊将兵と住民約12,000余柱が合祀されています。

ぎりぎり「栄里之塔」と読める文字が、後世の人間として何とかしたいなという思いを抱かせます…。真栄里一帯は6月中旬頃最も激しい戦闘が展開された場所ですが、戦後この付近に散在する御遺骨を、真栄里部落の住民が収骨し慰霊塔を建立したものです。

沖縄の納骨堂全般に言える事ですが、昭和32年に日本政府が当時の琉球政府に委託し、那覇市識名に「戦没者中央納骨所」を建設しました。同年以降、各地に収められている戦没者のご遺骨は、「戦没者中央納骨所」への転骨が推進されていったのです。この「栄里之塔」も、かつては大きな納骨堂がありました。転骨すると集落の慰霊の場が奪われるとして住民達が反対した為に、沖縄遺族連合会は、南方同胞援護会からの助成金を用いて新たな慰霊塔を建立し、そこに象徴としてのごく少量のご遺骨を残したと言う経緯があるようです。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.14

碑文です。ギリギリ読めますが文章化してみました。

【栄里之塔 碑文】

歩兵第二十二連隊は第三十二軍の左第一線部隊として真栄里付近に布陣し、南進を続ける優勢なる米軍に対し熾烈なる砲火をあびせ遂に米軍司令官バーグナー中将もこの地に戦死す。

住民とともに勇戦奮闘せる我が軍は物量を誇る米軍の攻撃に抗しきれず善戦空しく昭和20年6月17日玉砕し悠久の大義に生く。

終戦後真栄里部落民は本戦闘に協力せし住民並びに将兵の遺骨12,000柱を収集し栄里之塔を建立せしもこのたび南方同胞援護会の助成を得てあらたにこの地を画し塔を改修し永くその遺烈を伝え英魂を弔う。

 昭和四三年三月 財団法人沖縄遺族連合会

令和3年(2021年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.55

歩兵第二十二連隊(山3474部隊)は、首里戦線における幸地での激戦が特に知られていますよね。北海道の歩兵第八十九連隊や山形の歩兵第三十二連隊と連携し、地形を生かした防御戦闘により米軍に多大な出血を強いたのです。5月27日からの第三十二軍司令部と全軍の撤退に際しては、退却する守備軍の退却援護を命じられていました。島尻での戦闘では、6月11日米軍第一師団の猛攻で小禄の海軍部隊が全滅すると、隣接して配備についていた歩兵第二十二連隊も壕を馬乗り攻撃され死傷者続出するも残存兵は真栄里に転戦布陣し、米陸軍最精鋭師団の鋭鋒を挫いたのでした。歩兵第二十二連隊第一大隊長小城大尉は、「ここが、我々の最後の陣地だ。我々は、ここで死ぬ」と訓示し、歩兵第二十二連隊将兵も呼応し最後の一兵まで手榴弾を投げ続け徹底抗戦をしたと言います。

歩兵第二十二連隊旗を託された本田昇少尉は、6月24日に宇江城の二十四師団司令部に後送のうえ奉焼したとの事です。現在クラガーガマの横には「山雨の塔」が建立されていますが「第二十二連隊軍旗奉焼の地碑」もありますね。また糸満市真壁にあるタヂリガマに歩兵第二十二連隊(山3474部隊)本部があったと言う事で、同壕から900m程離れた位置にある「萬華之塔」敷地内には、歩兵第二十二連隊の戦時における名称である「山3474部隊慰霊之碑」が建立されています。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.15

「栄里之塔」の西側を見ています。先ほど慰霊巡拝した「サイモン・B・バックナー中将戦死の跡碑」がある丘ですね。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.16

「栄里之塔」の東側を見ています。糸満市字真栄里にある「歩兵第三十二連隊終焉之地碑」に書かれている、「ここより西北西470mの低地で軍旗を捧焼した」場所は、この写真の範囲に写されているのでは無いかと個人的には思っています。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.17

「栄里之塔」の東側を見ています。遠くの左手には「白梅之塔」などがある方角ですね。この辺りはご覧のように平坦ですから、縦横に米軍戦車が行き来したと言います。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.18

真壁の県道54号線を走っていると目に入ったので撮影させて頂きました。樹種はガジュマルだと思われます。ご覧のように、1本の木で整形しているのが素晴らしいですよね。(^o^)

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.19

大渡の国道331号線を走っていると目に入ったので撮影させて頂きました。糸満市の南端部にも、こうした太陽光パネル設置が目に付くようになりましたね。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.20

次に目指すは「野戦重砲兵二三聨隊慰霊碑」です。国道331号線上の糸満市大度にある交差点「大渡」に目立たないながらも、小さな案内板があります。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.21

これですね。ちょっと小さすぎませんか。(^_^;)

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.22

交差点「大渡」から市道に入って、50m程坂道を進むと左側に同碑の霊地が見えてきます。コンクリート製の高い擁壁がその霊地です。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.23

コンクリート製の擁壁をアップしました。擁壁に根を張っていた樹木、恐らくガジュマルだと思われますが、枯らす事を前提としたのでしょう深く切られていますね。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.24

ガジュマルはやはり強いですね。息を吹き返して成長を再開させています。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.25

「野戦重砲兵二三聨隊慰霊碑」は、この階段から上がっていきます。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.26

ステンレス製のしっかりした手摺なのに、こんなに潰れています。トラックなどがユータンしようとしてバックでぶつけたのでしょうが、昨年からそのままとなっています。

「野戦重砲兵二三聨隊(球3109部隊)慰霊碑」

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.27

「野戦重砲兵二三聨隊慰霊碑」です。野戦重砲第23連隊は昭和17年4月25日に満州国東満総省梨樹鎮において編成された部隊でした。昭和19年8月31日に沖縄守備隊第三十二軍の軍直轄部隊として動員下令され、昭和19年10月22日に、十・十空襲の焼け跡が生々しい那覇港に到着しました。第三十二軍司令部直轄の軍砲兵隊で連隊長は神崎清治大佐で、部隊の通称名は球3109部隊です。連隊は本部及び2個大隊から編成されています。また各中隊には九六式十五糎榴弾砲が4門が配備され、牽引する為の6トン牽引車が4両、ほか自動貨車34両などが主要装備であったようで、沖縄戦当時は最新鋭の機甲部隊と呼ばれていたそうです。

同部隊は、連隊本部を前田高地に置き、第一大隊は首里を基幹とする石嶺周辺に陣地を構築し布陣しましたが、第二大隊は予備として島尻地区に陣地を構築しました。

第一大隊は、4月1日の米軍上陸から中旬にかけて首里戦線での嘉数高地や前田高地などで、南下する米軍と真っ正面から激闘を演じた部隊です。第二大隊も4月5日島尻地区から与那原西南の前線に転戦、第六十二師団と戦闘共同に入りました。

5月末の第三十二軍司令部の首里撤退に伴い、首里戦線で壊滅的打撃を受け南部に撤退していた第一大隊も八重瀬岳に転戦、第二大隊も呼応して八重瀬岳の戦闘に参戦。そして6月中旬には両大隊の残存兵は、当初の第二大隊の島尻陣地であった小渡(現在の大渡)に集結しました。この時、使用可能な火砲は二門だったと言います。そして6月19日夜に部隊長神崎清治大佐を先頭に敵前切り込みを敢行し玉砕。残存傷病者は部隊解散になったとの事です。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

所在地ご紹介

「駐車場、トイレはありません」

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.121

慰霊碑に碑文が刻まれていますね。読みにくいので、テキストに起こしてみました。ご覧下さいませ。

【野戦重砲兵二三聨隊慰霊碑 碑文】

この碑は、太平洋戦争中最も激戦であったと謂われる沖縄戦において本土防衛のため、祖国日本の勝利と、家族の安泰を念じ、終始勇敢に戦って散華した野戦重砲兵第23聯隊(球3109) 戦没将兵の霊を祀ったものである。部隊は、旧満州国より転進、沖縄本島各地に展開し、友軍歩兵部隊の戦斗によく協力、再三に亘り米軍の進出を阻み、軍直轄砲兵としての任務を全うし、この地で玉砕したのである。その遺勲を永遠に称えるとともに、戦友よ、安らかにと願い、ここに関係者一同相協力して、これを建立した。

昭和53年 3月19日 野重二三戦友会・戦没者遺族一同

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.28

野戦重砲兵二三聨隊慰霊碑がこの地に建立されているのは、同聯隊の終焉がこの地であった事によります。慰霊碑のモチーフとして重砲の砲弾が碑の両側に立ち、台座中央部には写真に写されているように、「力」の字が彫られ、その文字を四角く囲っています。これは部隊長である神崎清治大佐の頭文字のカを取ったとの事です。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.29

海岸線がすぐ近くにまで迫っているのが解ります。写真は大渡米須海岸から遠くは荒崎海岸を遠望しています。同慰霊碑は海岸まで600mぐらいの位置にありますが、遠望される一帯はほとんど隠れる場所が無いのが見てとれますね。野戦重砲兵二三聨隊の慰霊碑がこの場に設けられた経緯は不明ですが、近くには玉砕の舞台となった「独立高射砲27大隊本部壕」もある事から、また慰霊碑が壕でない平地に建立されていることからして、ひとつの推測として部隊の最後の痕跡を記した場所に設けられたのかもしれませんね。

因みに眼前にある畑は10年ぐらい前はありませんでした。採石場として採石された後として深さ10m以上の広大な穴があったのです。今はこうして畑となっていますが、埋め戻されたと言う事ですね。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.30

大渡集落方面を写しています。こちらの写真の中に「独立高射砲27大隊本部壕」があります。左手の樹林帯の中にあります。また広範囲に太陽光パネルが設置されているのが見えますね。これらもごく近年に設置されたものです。本島南部地域でも太陽光パネルが年々増設されていると感じます。

「沖縄工業健児之塔」

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.31

「沖縄工業健児之塔」を慰霊巡拝しました。同塔は摩文仁平和祈念公園内の東側に位置する平和祈念資料館の東側に隣接してあります。同塔は車道から見えるので発見しやすいと思われます。立地はと言いますと、海岸沿いの崖上にあり背後に木々が茂っていますから海は見えないのですが、潮風と共に波音も聞こえてくる場所にあります。平和祈念公園内ですから、近くには展望台もあります。

所在地ご紹介

「駐車場はありません。トイレは近くにあります」

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.32

「沖縄工業健児之塔」です。近年改装工事が為されて、慰霊塔の中では比較的良好な状態を維持しています。7本の柱は7人の武士を表し、柱横に連なりスクラムを組ませ協力を象徴していると言うモニュメントです。7本の柱にしっかりと守られていますね。

同塔は大東亜戦争中、沖縄、その他の地域で戦没した沖縄県立工業高等学校の同窓生、職員、生徒167名が祀られています。同校は、沖縄戦では、生徒97名が動員されました。生徒達は鉄血勤皇隊や通信隊を組織するなどして戦闘に参加し、88名が犠牲となりました。学徒隊の中では最も高い戦没率であったとされています。

軍の解散命令が出た後に、慰霊塔の背後にある壕内で学徒が自決したとされている事から、私も同塔背後を徹底的に調査したことがあります。その結果壕はありませんでした。あるのは亀裂です。深い所では4メートルぐいらはあるでしょうか。そんな亀裂が100メートルぐらい続いていました。亀裂の最終局面で一カ所壕がありましたが、その場所はこの「沖縄工業健児之塔」からかなり離れていますので、背後という事には当たらないと思います。調査の結果平成20年(2008年)ですが、頭骨も含めて一柱見つけることが出来ました。この「沖縄工業健児之塔」から40メートルぐらい離れた場所でした。遺品としてはかなりしっかりした鉄兜のみが見つかっています。学徒隊との関連を裏付ける遺品等は発見されませんでした。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.33

「沖縄県立工業健児鎮魂之塔」説明文です。テキストに起こしてみました。因みにこちらの塔名は「鎮魂」と言う文言が加入してありますね。

【沖縄県立工業健児鎮魂之塔】

太平洋戦争の末期、昭和一九年三月、大本営は沖縄守備隊第三十二軍を新設し、政府は五月二二日戦時教育令を公布。米軍機動部隊の沖縄攻略に備えて、飛行場、港湾等各種陣地構築に一般市民、各中等学校生、さらに小学生までも動員した。同年十二月、軍命により第五砲兵司令部(球九七〇〇部隊)が工業学校生徒に無線・有線・暗号等の特訓し、昭和二十年二月各部隊に配属。学校では鉄血勤皇隊を組織、米軍機動部隊の上陸に備える。同年三月二三日、米軍機動部隊艦載機による空爆で沖縄戦の火蓋が切られ、遂に昭和二十年四月一日米軍沖縄本島中部西海岸に上陸。水平線まで埋め尽くす艦艇による艦砲射撃等で日米両軍による国内で唯一住民を巻き込み山野が変貌する熾烈な地上戦が六月下旬の戦闘終結までの三ヶ月間続く。日本軍は米軍の圧倒的優勢の前になすすべもなくこの最南端一帯に撤退。学徒通信兵も当該地に転戦するが、同年六月十九日米軍に包囲され、その夜、敵陣に突入を決行。奮戦空しく散華。沖縄戦で、教頭、教職員、学徒隊では各中等学校中最も多くの義税者を出す悲惨なものとなった。この実情を後世に語り継ぐため、工業学徒通信隊最期の地に慰霊塔を建立する。

尚、この塔造形の意義は、背面に建つ七本の柱(健児)が一本の大貫によって、貫(団結)かれ、がっちりとスクラムを組んで碑身(平和)を護り、碑身上部の雲間には平和のシンボルの鳩三羽を飛ばす。又、教職員や学徒隊、そして通信隊員の名前を彫り込んだ名盤台天端の三つの変形菱形板には、それぞれ赤、黄、青の三原色を彩色し、その臍(へそ)を結び台上の三点で踏張って、この地上からあらゆる戦争をなくし、世界の永遠の平和を守ることを誓うとしている。

昭和三十七年十一月建立 
沖縄県立沖縄工業高等学校 
沖縄県立工業學校遺族会 
沖縄県立沖縄工業高等学校同窓会 

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.34

例の白い説明文です。ギリギリ読めますね。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.35

沖縄県立工業高等学校の戦没された学徒の名が刻まれています。そして通信隊員の名前を彫り込んだ名盤台天端の三つの変形菱形板は、説明板に記述されていたように、「それぞれ赤、黄、青の三原色を彩色し、その臍(へそ)を結び台上の三点で踏張って、この地上からあらゆる戦争をなくし、世界の永遠の平和を守ることを誓うとしている」と言う意味が込められているのですね。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.36

小さな碑が霊地内の左端に設置されていました。碑文は概略「昭和20年6月4日、午前7時摩文仁百六番地徳村氏の屋敷内で艦砲の直撃を受け、沖縄県立工業高等学校の学徒九人が即死した‥‥。四人の記名と五人が氏名不詳である」と記されています。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.101

沖縄県立工業健児鎮魂之塔の左側に展開する芝地を写しています。樹林帯も見えていますが、幅は狭くて約30mぐらいの樹林帯が帯のように連なっていまして、樹林帯に先は崖になっています。晴れてのどかな公園風景ですが、この写真に写されている範囲内で頭蓋骨を含む完全一体の御遺骨を発見しました。

その場所は芝地と樹林帯の境目、概ね写真の左手ですが、柵が見えていますよね。そこは沖縄県立工業健児之塔から見ると約50mぐらい東に移動した場所辺りなのですが、芝地から3mぐらい入った所にある壕で、私は頭蓋骨を含む完全一体の御遺骨を発見したのです。平成20年(2008年)第35回沖縄遺骨収集奉仕活動での成果でした。過去の記録としてご覧下さいませ。

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子11

岩の割れ目から壕に入りしばらく前進すると、日本軍将兵が被っていたヘルメットがありました。こんな大きな遺品がそのままという事は、まだこの壕は誰も調査していないと感じた私は胸が高鳴りました。急がず目を凝らして極めて慎重に奥に進んでいきました。

遺骨収集の様子12

壕はどんどん狭くなりましたが、ヘルメット発見場所から2mぐらい進むと、人間がやっと入れるような隙間でしたが、遂に御遺骨を発見しました。丸く崩れていない頭蓋骨や大腿骨が見えます。その他小さな骨も奥の方に掛けて散乱しています。また岩に隙間が見えますね。一部の御遺骨は下の空間にある壕に落ちていました。それら全て収骨してみると完全一体の御遺骨と宣言して良いボリュームとなりました。

遺骨収集の様子13

発見御遺骨のあった場所の手前側は下に穴があり、そこにも壕と呼べる空間がありました。写真は今にも下に落ちそうな脛骨です。足の細かい骨等は皆下に落ちていました。

遺骨収集の様子19

収骨する皆さんが全力で記名遺品を探しましてメガネ二個が出てきましたが、残念ながら身元を特定する遺品はありませんでした。メガネが二つ出てきました。べっ甲で作られています。べっ甲で作られたメガネは珍しいような気がします。箱のようなものは「マッチ」と思われますが、驚くことに箱の部分は金属でできていました。また本部に送った土砂からキセルの金属部分も発見されていましたが、氏名の特定は出来なかったようです。また近くではサーベルも発見されましたが、腐食が酷く記名があるとは思えませんでした。

この御遺骨のあった場所は公園芝地から3mジャングルに入った場所です。このように公園からジャングルに入って直ぐ。道路からジャングルに入って直ぐ‥。こうした「○○から入って直ぐ」の場所は、御遺骨発見に向けての極めて穴場的場所であると強調したいです。例えば道路からジャングルに団体で入る場合をイメージして頂くと解るのですが、こうした場合大概道路からジャングルに入るに際して、「入りやすい場所から一列縦隊で入る」事がとても多いのです。このように道路から入って一直ぐの場所は、とても見落としが多い場所と言えるでしょう。

過去写真掲載はここまでです。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.37

「沖縄工業健児之塔」の左横から背後に掛けて、立派な遊歩道が完成していました。昨年の同塔慰霊巡拝の際に、塔の背後がやけに明るいなと見渡しましたら、樹木を切り払い整地作業らしき工事が行われているのに気づきました。ですからこの遊歩道は令和3年のうちに完成したのでしょう。折角ですから、新しい遊歩道を歩いてみましょう。その前に、下掲で昨年撮影したこの辺りの工事の様子をご紹介します。

《過去の写真ご紹介》

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.102

【令和3年(2021年)1月17日撮影】
良く見ると「沖縄工業健児之塔」の背後にあるジャングルが切り払われていました。到着した直後、背後がやけに明るいなと感じたものです。なぜ切り払われてしまったのか‥‥。考えてみましたが不明です。(^^;)

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.103

切り払われてしまった所にフィッシャー(岩の割れ目)があります。このフィッシャーは、平成20年(2008年)に完全一体のご遺骨が発見されたフィッシャー部分に通じているのです。この長いフィッシャーは当時金光教の遺骨収集で徹底的に捜索も為されています。それでは写真でフィッシャーを追ってみましょう。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.104

「沖縄工業健児之塔」側から撮影しました。フィッシャーが続いているのが見えますね。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.105

まだ続いています。鉄柵も見えて来ましたね。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.106

写真の左側まで全部フィッシャーは続いています。この写真の左手辺り、公園の敷地から3mぐらいジャングルに入った場所からご遺骨は発見されたのです。

過去写真掲載はここまでです。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.38

それでは、真新しい遊歩道を歩いてみましょう。まずは素晴らしい眺望ですね。(^o^)

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.39

平和祈念資料館裏で遊歩道は分岐しているようです。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.40

分岐しました。Uターンするように東の方向に向きました。とても人が登り降り出来ないような絶壁と言える崖が続いているのが解ります。確かに急峻な崖なのですが、遠望する崖の少なくとも三カ所から崖下に降りられるルートがありますね。また崖の最奥部は極めて急峻な崖になっていますから、慶座絶壁(キーザバンタ)と思われる方も居られると思いますが、同絶壁は更に300m程東に進んだ場所になります。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.41

新設された階段を下に降りて行きます。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.42

階段下の平坦部は平和祈念公園の一部ですから、新設された遊歩道と階段は、階段を降りきると終了という事になりますね。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.43

新設された階段を降りきると、東に向かって見ましょう。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.44

遊歩道のその先が緩斜面になっているのが解ります。その先には古墓群があるので行ってみましょう。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.45

緩斜面を降りると、ご覧のように、数基ですが崖下を利用して設けられた古墓群があります。写真中央辺りも石垣が積まれ、墓入り口も小石が積まれているのが見えますね。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.46

不完全な石垣となっている場所も、戦前は古墓であったと思われます。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.47

ここも古墓ですね。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.48

そしてここも古墓ですね。ここから先も崖は続いていましたが、古墓はここで終わりでした。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.49

古墓群に対向する海側に、実は崖下に降りられるルートがあるのです。折角ですから立ち寄ってみましょう。もう見えてきましたね。(^o^)

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.50

道になっていますね。実際ここまでは公園内ですし、革靴やハイヒールであっても、誰でも来る事が可能ですから、絶壁を間近に見られると言う事で、立ち寄られるのだと思われます。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.51

崖下に降りて行く場合は、ここを降りていく事になります。結構急峻ですが、急峻な部分は約15mです。途中に手榴弾が二個岩の間に置いてある事から、日本軍将兵も多分夜間だと思いますが、この崖を登り降りしたに違いありません。急峻な崖ですが、適度に手を掛ける岩、足を乗せる岩があるので、危険であると言う印象は薄いです。ですから浮き石だけには注意して、岩にしっかりと手を掛けて進めば女性でも登り降り可能です。実際に金光教の遺骨収集時代は、複数人の女性がここを登っています。(女性が降りるのは見た事がありません) 因みに、摩文仁はほとんどが急峻な崖となっていますから、崖下に降りるルートは限られています。ここを基準にすると西側については、次に崖下に降りられるルートは約500m先となります。また同じく東側で、次に崖下に降りられるルートは約350m先となります。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.52

崖下に降りるのではなく、眺望を楽しむと言う意味では、迫り出した岩の上に立つと、この立ち位置で絶壁下の様子や東シナ海の景観を楽しむ事が可能です。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.53

西側を見ています。急峻な絶壁が続いているのが解ります。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.54

東側を見ています。東側はあまり見通せませんね。潮が引いた時に姿を現すリーフ(サンゴ礁)は現在水中にあるので、今は満潮気味であると言えますね。白い波が立っている辺りがリーフの境目辺りでしょう。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.55

古墓と崖上の景観観察を終えたので戻りましょう。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.56

スロープがありますね。来る時は階段を使いましたが、帰る時はスロープを利用しましょう。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.57

スロープをゆっくり登り、平和祈念資料館横に出ました。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.58

振り返って、登ってきたスロープを見ています。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.59

「沖縄工業健児之塔」の裏手にも遊歩道があるのが見えますね。車も同塔横に駐車しているので、写真の遊歩道に行ってみましょう。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.60

写真の草むらは、昨年は工事中だった場所です。大きな樹木は全部切り倒されて草むらになりました。樹木を切り倒したのは、遊歩道から東シナ海がよく見えるようにする為でした。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.61

フィッシャー(岩の割れ目)はどうなっているのかな? と目をやると‥‥。金網が被せてありますね。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.62

フィッシャー(岩の割れ目)の全てに金網が設置されたようですね。フィッシャーは深い所では3mとか4mあるので転落したら即死もあり得るでしょうから、安心は安心ですね。因みに、この辺りのフィッシャーは金光教の遺骨収集で徹底して調査・収集が行われましたから、再調査の必要は無いと思われます。(^o^)

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.63

多目的広場の先に白い塔が見えますが、「沖縄平和祈念堂」ですね。訪ねてみましょう。(^o^)

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.64

沖縄平和祈念堂の真下までやって参りました。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.65

白いお堂は「沖縄平和祈念堂」ですね。昭和53年(1978年)10月に竣工しました。建物の中には 高さ約12m、幅が約8mもある、人間の祈りの姿を象徴した座像、沖縄平和祈念像が鎮座しています。沖縄平和祈念像は、沖縄出身の芸術家山田真山画伯(1885~1977)が、全戦没者の追悼と世界平和を希う沖縄県民の心を一身に担い、全生涯を捧げて制作されたとの事です。宗教や思想、政治や人種、あるいは国を超えて、すべての人が戦没者の慰霊と平和に力を合わせて行こうという事を、10本の指を合わせた合掌の形に表現されたそうです。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.66

前庭に見える鐘撞き堂は「平和の鐘」と呼ぶそうです。高さが9mもある鐘楼ですが、戦没者の鎮魂と世界平和の祈りを込めて、昭和53年の開堂時に平和祈念堂の理念に賛同されたライオンズクラブ国際協会337複合地区から寄贈された施設だそうです。

「戦いに散った魂を鎮め 人類の悠久平和を誓い この平和の鐘は とはに絶えることなく ここ摩文仁の丘より 四方に響きわたる 万人の祈りをこめて」の銘文が刻まれています。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.67

ここで手を合わせました。ここからでも高さ約12m、幅が約8mもある、人間の祈りの姿を象徴した座像、沖縄平和祈念像が鎮座しているのが見えますよ。残念ながら写真ではよく見えないですね。(^_^;)

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.68

沖縄平和祈念堂の案内板ですね。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.69

沖縄平和祈念堂での慰霊巡拝を終えました。広い芝地がありますが「式典広場」ですね。式典広場まで行ってみましょう。沖縄戦終結の日とされる6月23日の慰霊祭は、毎年式典広場で執り行われます。背後に見えるのが摩文仁之丘ですね。沖縄守備軍第三十二軍は89高地と呼んでいました。牛島満司令官と長勇参謀長が指揮を執った司令部壕も丘の先端部にあります。現在では突端部あたりに「黎明之塔」が建立されています。

因みに、摩文仁之丘のうち各県の慰霊塔が建ち並ぶ一帯は、沖縄戦当時は摩文仁集落の人達の段々畑であったそうで、米軍の摩文仁における掃討戦は、その摩文仁東側の段々畑から戦車を先頭にジリジリと守備軍司令部壕に迫ったといいます。また各県の慰霊塔が並ぶ一番奥には、鹿児島県の慰霊塔「安らかに」がありますが、その辺りは琉球時代に摩文仁グスクがあったそうです。現在でも往時を偲ばせる石垣がそのまま残されていますね。と言う事で、昔はこの高台から見ても立派なお城の建物が見えていたかもしれませんね。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.70

平和祈念資料館を見ています。左手にひときわ高い建物があり窓もありますが、そこが展望室ですね。そこから見る景観は圧巻ですよ。ぜひ一度訪ねてみて下さい。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.71

式典広場の右側にはお土産屋さんが軒を並べていますね。お土産屋さんの端部には平和祈念公園の警備部が常駐しているのですが、その横で金光教の遺骨収集のうち、運営委員会による大規模な遺骨収集が平成14年(2002年)に終わりましたが、翌年の平成15年(2003年)から金光教の那覇教会主催による遺骨収集が続けられましたが、その本部テントが設営されていた場所でもあります。懐かしい場所ですね。(^o^)

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.72

この広い芝地が式典広場です。広いですね~。先ほど慰霊巡拝した沖縄平和祈念堂方面を俯瞰しています。式典広場はその名の通り、沖縄戦の組織的戦闘が終結した6月23日には、この式典広場で政府主催の沖縄全戦没者追悼式が挙行されます。また更に摩文仁之丘が遠望されます。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.73

式典広場の最奥部にある建造物は、「平和之丘モニュメント」です。沖縄戦当時、住民達が逃げ込んだガマを再現したという話です。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.74

平和之丘モニュメントは半地下になっていますね。正にガマを再現したという雰囲気です。

「島守の塔」

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.75

「島守の塔」です。同塔は平和祈念公園内の各県の慰霊塔が建ち並ぶ地域の入り口にあたる場所に位置していますし、規模も大きいですから見落とす事が少ないと思われます。平和祈念公園内を慰霊巡拝される方は是非立ち寄って下さいませ。(^o^)

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.76

「島守の塔」と彫られた碑の裏面を撮影しました。島田知事は兵庫県出身ですから、出身地縁の自治体が寄贈されたのですね。

所在地ご紹介

「駐車場・トイレは、平和祈念公園内の施設を利用します」

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.51

「島守の塔」の説明文です。読めますね。島田沖縄県知事の遺体は未だ発見されていないと記されています。「島守の会」が主体となり、消息を今も探しているとの事です。私はこの説明文で、一般財団法人「島守の会」の存在を知りました。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.77

島田沖縄県知事と荒井沖縄県警察部長をはじめ戦没県職員468柱を祀る 「島守の塔」です。写真奥のジャングル内に軍医部壕があるわけですが、島田知事と荒井警察部長の消息は、軍医部壕を出た所で途絶えているために、ゆかりの軍医部壕前に慰霊塔を建てました。私達も遺骨収集にやってくると、国立戦没者墓苑への参拝と共に必ず立ち寄るのがこの『島守の塔』です。

「島守の塔」の名称は、県下の公募で寄せられた七百余通の中の一等入選作から命名されたといいます。 塔の除幕式と第一回慰霊祭は、昭和26年(1951)6月25日に行われました。島田知事夫人の美喜子氏をお迎えし、5000人近い沖縄県民も参列して式典は執り行われたそうです。

摩文仁には50を超える慰霊碑、慰霊塔が建立されていますが、その中でもいち早く県民の浄財により『島守の塔』は建立されました。 その事からしても、20万余人もの沖縄県民を県内外へ疎開させ、また県民の食料備蓄が三ヶ月しかなかったものを、台湾から三ヶ月分もの米の移入を実現するなどした、沖縄戦前後における島田知事、荒井警察部長、そして県職員への沖縄県民の感謝の気持ちが、『島守の塔』の早期建立を実現させたのかもしれません。そして両氏は、いわゆる内地出身であるにも関わらず、戦後から現在に至るも沖縄県民の敬慕を集めていると言えるでしょう。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.78

「太平洋戦争沖縄県職員戦没者御芳名碑」です。同職員戦没者468名の名前が彫られています。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.79

「島守の塔沿革碑」です。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.80

詩歌碑です。仲宗根政善先生の詩ですね。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.81

詩歌碑です。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.82

詩歌碑です。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.83

詩歌碑です。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.84

戦没した島田沖縄県知事、県庁職員468名を祀っている「島守の塔」です。

大阪府の内省部長の地位にあった島田氏は、内務省の命による第二十七代沖縄県知事就任について、この話を断ることもできる地位にいましたが、「俺が(沖縄へ)行かなんだら、誰かが行かなならんやないか。俺は死にとうないから、誰かに行って死ね、とはよう言わん」と、神戸弁で沖縄県知事就任を即決したといいます。文官は軍人と違って、殉職を予想しての任官はそうそうあるものでは無いはずですが、島田氏は沖縄の困難な時局を背負う覚悟で引き受けられたのだと思います。拳銃と青酸カリを懐中に忍ばせ、死を覚悟しての沖縄入りと思われます。昭和20年1月31日赴任、そして6月下旬に島田知事は消息不明となりました。知事在任期間およ五ヶ月…。予期された殉職のその日まで、多くの仕事を成し遂げた五ヶ月でもありました。

一方県外疎開などの県民保護に邁進した荒井警察部長は、在任ちょうど二年で殉職されました。荒井警察部長は立場上東京で開かれる全国警察部長会議に行く機会が何度かありましたが、会議より県民疎開の仕事が大事だと、結局就任以来沖縄本島から出ることはありませんでした。ご家族は郷里である栃木県に引き上げさせていましたから、上京の機会を利用すれば家族との面会もできたにも関わらずです。また荒井警察部長は、壕を転々とする頃から不衛生な壕生活などが原因と思われる、赤痢になってしまったようです。激しい下痢に悩まされ、壕内でも横になっている事が多かったといいます。

島田沖縄県知事が43歳、荒井警察部長が44歳で殉職されました。島田叡沖縄県知事、荒井退造警察部長のお二人は、沖縄の戦時体制下における沖縄県民の生命を守るべく、車の両輪のごとく共に力を合わせ献身的に、困難な状況下での60万県民の保護という戦時県政業務すなわち疎開政策と食糧不足対策に尽力されたのです。前任の知事時代は、色々と問題があり疎開業務がすスムーズに進まなかったようですが、特に二人が軍と協力して推し進めた沖縄県民の県内外疎開政策により、沖縄戦を生き延びた県民は二十万人にも達したのです。

島田知事は、6月9日米軍による島尻掃討戦が迫る中、「轟の壕」内で同行の県職員・警察官に対し、「どうか命を永らえて欲しい」と訓示し、県及び警察組織の解散を命じたのです。島田知事は、生きて生還しようとは考えておらず、解散を命じた以降、死に場所を求めて荒井警察部長と共に、摩文仁の第32軍司令部壕を訪ねたといいます。

島田知事は、沖縄守備軍第32軍牛島満司令官に、「行動を共にさせていただきたい」と頼みましたが、牛島司令官は「自決するのは我々だけでよろしい。知事は非戦闘員なのだから、死ぬ必要はない」と諭したと言われています。島田知事は牛島司令官が勧めた「軍医部の壕」に移動したと言います。

牛島軍司令官は6月23日に軍司令部壕で自決し、沖縄戦の組織的戦闘は収束しました。そうした中で、通説が幾つかありますが、島田沖縄県知事と荒井警察部長の二人は、所在が確認されている摩文仁之丘にあった「軍医部の壕」を25日か26日に出た後、その数日後荒井警察部長は、アメーバ赤痢が悪化して亡くなり、島田知事は摩文仁南斜面の自然壕でピストル自決したと見られています。

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.58

階段を登ってみましょう。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.85

階段の右手を撮影しています。トウツルモドキが大繁茂していますね。遺骨調査地域でこんなトウツルモドキ群に遭遇したらヒェ~~と言う感じですね。

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.59

霊域最上部には「沖縄県知事島田叡 沖縄県警察部長荒井退造 終焉の地」と書かれた塔が建立されています。沖縄戦当時、この附近に「機関銃の銃座」があったとされています。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.86

階段を登り切った場所から振り返って撮影しています。先ほどの沖縄平和祈念堂や式典広場もよく見えますね。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.87

「終焉の地碑」の裏手を撮影しています。ご覧のように、裏手はV字谷になっていて、このV字谷は各県の慰霊塔西端にあたる鹿児島県の「安らかに碑」辺りまで続いている巨大な谷でもあります。因みにV字谷の底に降りる事は可能です。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.88

今度は、V字谷の西側を見ています。こちら側は側面に窪みはありますが、「軍医部の壕」のような奥深い壕はありません。このV字谷も一見わかりにくいですが、慰霊祭に使用された物品が大量に捨てられていて、露天の範囲については、遺骨収集をするのは困難だと思えるほどゴミが堆積しています。まずゴミを片付けないことには、沖縄戦当時の地盤には絶対にたどり着けないでしょう。

私達は、島田知事と荒井警察部長のお二人が最後の時を過ごされたと言われる、「軍医部の壕」を見つける事が一つの目標となっています。未だ果たせてはいませんが、いつの日か必ず見つけたいと念じています。碑の背後のV字谷部分は土砂が、すぐに降りられるぐらいに堆積していますが、この土砂は慰霊碑を建立する際に出た残土ではないかと私は疑っています。この土砂に埋もれた範囲内に「軍医部の壕」があるのではないかと推測しています。

『沖縄の島守』(田村洋三著/中央公論新社)によれば、「島守の塔」裏手にあるとされる「軍医部の壕」について次のような記述がありますので、転載させて頂きました。

【摩文仁之丘の軍医部壕内見取図】

摩文仁之丘の軍医部壕内見取図

さて、島田らを迎えたころの軍医部壕は、どんな様子だったか。大塚は著者の取材ノートに壕内の略図(挿図22)を書きながら、説明してくれた。

「あの辺には軍司令部のほか、経理部、獣医部、法務部などが、それぞれ壕を構えていましたが、軍医部の壕が一番狭く、お粗末でした。

雨が降りますと、やんでからも三時間はポトリ、ポトリと雨漏りがするので、奥の方はいつもジトジト濡れていました。
そんな所に軍医部長の篠田重直・軍医大佐以下36人が、すし詰め状態で入っていました。そこへ知事以下4人を受け入れたのですから、一層狭くなりました。

あの壕は九師団が台湾へ去った後、島尻へ配備された山部隊(第24師団)が掘っておいたもので、入口に機関銃の銃座がありました」

島守の塔は下に島田知事以下の戦没県職員を祀る慰霊塔、背後の数十段の石段の上に島田と荒井の終焉の地を示す石碑が立つ二段構えの造りになっているが、銃座は上の碑の場所にあった。

「銃座の後ろは坂になっていて、突き当たりに横長の二十畳敷きぐらいの大部屋がありました。天井の高さは1メートル50センチぐらいで、かがんで入らねばなりませんでしたが、そこに軍医部の下士官や兵30人ぐらいが寝起きしていました。

この部屋に降りる坂道の途中の左手、胸ぐらいの高さの位置に、もう一つの鍾乳洞に通じる人一人がやっと入れるぐらいの穴がありました。

その鍾乳洞で我々は命拾いをするのですが、それは後でお話しするとして、大部屋の右奥を左手に曲がると、幅2メートル、奥行き10メートルぐらい、天井は大部屋より低い細長い部屋がありました。将校三人はそこに居ました。島田さんたちも、ここへ入って頂きました。

両方の壁際に、どこから持ってきたのか、体の幅ぐらいの湿気よけの木製の簀の子を敷きまして、縦二列に寝ていました。

配置は一番奥から左、右に篠田軍医部長と鈴木軍医中佐、二番目が私と島田知事、三番目が県庁職員(仲宗根官房主事と思われる)と荒井警察部長…という順序になっていました。つまり私と島田さんは通路を挟んで隣り合わせでした。」

「沖縄の島守」から転載させて頂きました

「銃座の後ろは坂になっていて、突き当たりに横長の二十畳敷きぐらいの大部屋がありました。天井の高さは1メートル50センチぐらいで、かがんで入らねばなりませんでしたが、そこに軍医部の下士官や兵30人ぐらいが寝起きしていました。

この部屋に降りる坂道の途中の左手、胸ぐらいの高さの位置に、もう一つの鍾乳洞に通じる人一人がやっと入れるぐらいの穴がありました」

この大塚氏の証言は実に具体的でリアルなので、大いに私たちを喜ばせてくれるものですが、この文面を頼りに「軍医部の壕」を捜しても、残念ながらどうしても見つかりません。

いずれにしてもこれまで何度がチャレンジして徹底的に「島守の塔」周辺部の壕発見を目指して精査しましたが、「軍医部の壕」に該当するような内部構造を持つ壕に出会うことはありませんでした。

《書籍ご紹介》
島田沖縄県知事と荒井警察部長の軌跡について、更に詳しく知りたい方はぜひお読み下さいませ。(^o^)

「沖縄の島守 内務官僚かく戦えり」

田村洋三著 中公文庫 平成18年(2006年)初版

「10万人を超す命を救った沖縄県知事・島田叡」

TBSテレビ報道局『生きろ』取材班著 (株)ポプラ社 平成26年(2014年)8月初版

島田知事と荒井警察部長に関わる記事がありましたのでご紹介します。

【住民に「生きろ」沖縄戦時の島田知事、顕彰の動き広がる】

「産経新聞」平成27年5月2日

太平洋戦争末期に沖縄県最後の官選知事として住民保護に尽力し、本島南部で消息を絶った島田叡氏を顕彰する動きが広がっている。命日とされる6月26日には那覇市で顕彰碑が除幕され、出身地の兵庫県との交流会も予定される。国に命をささげることが礼賛された時代、住民に「生きろ」と呼び掛けた島田氏のメッセージが戦後70年を経て再評価されている。

米軍の上陸が迫る1945年1月、島田氏は大阪府内政部長から沖縄に第27代知事として派遣された。44年10月の空襲で那覇は壊滅的な被害を受け、前任者は東京に出張したまま戻らなかった。

当時、県人事課にいた板良敷朝基さん(97)は「死を覚悟して沖縄に来られたはずなのに、非常に穏やかな表情だった。この人となら運命を共にできると思った」と振り返る。

着任後、食糧確保のため自ら台湾に渡り、県民約10万人の日本本土などへの疎開を陣頭指揮。日本軍が首里の司令部放棄と南部への撤退を決めると、知事も職員らとともに糸満市の「轟の壕」に移動した。だが米軍の猛攻は収まらず、壕で県庁を解散。同市摩文仁の陸軍司令部壕に向かい、消息を絶った。43歳だった。

旧日本軍は「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓から、住民にまで集団自決を強要していた。だが島田氏は県庁を解散した際、県警察部職員の山里和枝さん(88)に「米軍は女性と子どもには手を出さないから、最後は投降しなさい。必ず生き抜いて、戦後の沖縄のため尽くしてほしい」と言い残したという。

戦後、戦没職員とともに「島守」とたたえられた島田氏。主人公にしたドラマの影響もあり、有志でつくる団体が2013年から顕彰碑建立への協力を呼び掛け始めた。

賛同の署名は3万に上り、建立のため沖縄県内外から600万円以上の寄付が集まった。島田氏が学生時代に野球に打ち込んだことから、那覇市の球場近くに建立される。那覇市で開かれる兵庫県との市民交流会には、井戸敏三知事も出席する方向で調整している。

「産経新聞」から転載させて頂きました

【終戦間際の沖縄県警察部長荒井退造 職に殉じた「栃木の偉人」】

「産経新聞」平成27年6月11日

郷土史研究家が功績伝える

終戦間際、戦況が厳しくなった中、沖縄県警察部長として県民の疎開を進め、沖縄では知らない人がいないと言われる荒井退造(たいぞう)(1900~45年)。最後は職に殉じ、沖縄本島最南端に当時の知事とともに石碑が建てられたが、出身地・宇都宮ではほとんど知られていない。荒井の偉業を伝えるため、20年研究してきた宇都宮市の郷土史研究家、塚田保美(やすみ)さん(83)が13日、同市内で講演する。

講演は13日午後1時半、同市竹林町のトヨタウッドユーホームすまいるプラザ「オトスクホール」で開かれるが、反響は大きく、既に予約で満席となった。

■7万3000人を県外疎開

荒井は旧清原村出身。旧制宇都宮中学校(現宇都宮高校)を卒業後、苦学して高等文官試験に合格。内務省官僚として警察の要職を歴任した。そして、昭和18年7月、沖縄県警察部長に就任。現在の県警本部長に当たる重責で、沖縄が戦場になる危機が迫っていた。県民の疎開に取り組んだが、当時の知事は状況を楽観視し疎開に消極的だった。塚田さんは「それでも荒井の信念は変わらず、最悪の事態を想定して動いた」と話す。

「まつげに火が付いてからでは遅い」。状況を打開するため19年6月、県庁職員、警察官の家族700人を疎開させて機運を高め、第2、第3次疎開を実現させた。10月の沖縄大空襲、12月の知事の突然の上京、転任と事態は混迷。20年1月にようやく新しい知事に島田叡(あきら)(1901~45年)が赴任した。以後は島田と二人三脚で奔走し、20年3月までに7万3千人を県外に疎開させた。

4月1日には米軍が沖縄本島に上陸。県外疎開が不可能になった状況でも戦闘が激しい島南部から北部へ15万人を避難させた。「合わせると20万人以上を救ったことになる」と塚田さん。6月9日には警察警備隊解散となるが、「警察官の職務は忘れるな」と訓示した。「その後も毎日のように警察官が避難誘導中に殉職している。荒井の訓示に忠実だった」。塚田さんは警察官の行動に感銘を受けたという。

日本軍の抵抗は沖縄本島南部へと追い詰められていく。荒井は赤痢が重くなっていた。6月26日、島田に抱えられるように、島南端の摩文仁(まぶに)の森へ入っていく姿を目撃されたのを最後に2人の遺体は見つかっていない。

戦後、摩文仁の丘(同県糸満市)には島守の塔が建てられ、2人の終焉の地を示す碑がある。

■顕彰へ機運高まる

塚田さんは約20年前、荒井の長男、紀雄さんが書いた「戦さ世(ゆう)の県庁」(中央公論事業出版)を手にする機会があり、荒井が宇都宮高校の先輩であることを知った。「細々と研究を続けてきたが、世に出す機会がなかった」。平成25年の「宇高同窓会報」に寄稿する機会が巡り、大きな反響を得た。「宇高だけの誇りではない。栃木県の誇り」。そんな声も寄せられ、出身地・宇都宮で荒井を顕彰する機運が高まった。塚田さんは「荒井の名を残すため何をやるか、これからの課題」と話している。

「産経新聞」から転載させて頂きました

映画ご紹介

ドキュメンタリー映画「生きろ 島田叡-戦中最後の沖縄県知事」予告編

調査・遺骨収集作業開始です

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.89

作業開始です。場所は昨年から引き続いている場所ですね。昨年壕口の前で吉井さんがご遺骨を発見しました。左側の三浦さんが作業している辺りでしたね。それ程深くない場所からの発見でしたから、その時に「来年は少し範囲を広げてこの辺りをやろう」と言う話になっていたのです。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.90

福岡さん頑張っています。短時間のうちにかなり掘りました。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.91

「ご遺骨だ~」と福岡さんの声。作業開始してから10分も経過していません。お~。手足の長い骨ですね~。ご覧のように、地表に露出こそしていませんが、やはり浅い所に埋まっているご遺骨でした。慎重に掘り出しましょう。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.92

掘り出しました。骨端部が残存していないので、断定しにくいのですが、大腿骨の可能性が一番あるように感じます。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.93

福岡さんが、二つ目のご遺骨を発見しました。一つ目のご遺骨とは1m以上離れていました。これは大腿骨だと思います。ですから最初に発見されたご遺骨も大腿骨の可能性が高まりました。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.94

遺骨収集作業においては、序盤でご遺骨が発見されると、後の作業スピードは格段に上がるのが常です。福岡さん三浦さんお二人で、あっという間にご覧のように大量の土砂を移動させました。表面は大きな岩が多く堆積していると言う面を加味しても、このスピード感は驚くばかりです。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.95

ここからは細かい岩が多くなって来ていますから、ゆっくりペースになるでしょう。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.96

吉井さんは、お一人で少し離れた場所で作業しています。ご覧のように、こちらはまだ表面の大きな岩が除け切れていない状態であるのが見て取れますね。吉井さんの眼前になぜこれ程大量の岩があるのか‥‥。これは艦砲弾の砲撃を繰り返し繰り返し受けたからに違いありません。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.97

福岡さんの眼前には、大きな岩が完全に無くなりましたね~。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.98

「ご遺骨だ~」と福岡さんの声。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.99

骨の全体が見えました。下肢の腓骨でした。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.100

これは足の指の骨ですね。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.101

丸い骨が見えます。迷わずに大腿骨頭と言う事になります。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.102

一々取り上げませんが、細かいご遺骨も発見されています。三浦さんがまた見つけました。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.103

福岡さんの遺骨収集の七つ道具と言えるピンセットと小さなプラスチック製容器です。福岡さんは驚くほど小さなご遺骨を、これで見つけていきます。元々目も良いのでしょうね。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.104

慎重に慎重に、土砂を除けていきます。ご遺骨が見つかった層レベルでは特に慎重になります。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.105

吉井さんの作業現場です。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.106

現時点での、福岡さんの小さなプラスチック製容器の様子です。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.107

三浦さんが下顎のご遺骨を発見しました。(^o^)

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.108

ご遺骨発見です。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.109

「ご遺骨発見」と吉井さんの声。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.110

吉井さんが手の上に乗せて見せてくれました。結構大きいですが、突起が損傷しているので、胸椎腰椎どちらかと言ったところですね。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.111

こちらは腰椎でしょうね。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.112

吉井さん、福岡さん、三浦さんの配置がよく解る写真です。この写真の範囲で全てのご遺骨は発見されました。直径7mぐらいの円の中で発見されたと言う事になります。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.113

吉井さんです。脊椎腰椎がすでに三個発見されました。脊椎腰椎は吉井さんの所だけで見つかっていますね。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.114

福岡さん、三浦さんです。こちらも引き続き細かいご遺骨が見つかっています。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.115

現時点での収骨状況です。大きいご遺骨は全て足の骨ですね。これらのご遺骨が直径7mぐらいの円内で発見されているので、小銃などで狙撃されたと言うよりも、艦砲弾など至近弾炸裂で肉体が四方に吹き飛んだ可能性があると感じます。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.116

ご覧のように、下顎の他に頭蓋骨も二点見つかました。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.117

脊椎腰椎も五点見つかりましたが、全部で24個ある訳ですから、まだまだ見つからなければなりません。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.118

写真では解りませんが、雨が降ってきました。沖縄では通り雨も多いので、そのうち止むでしょう。とりあえずご遺骨にビニールシートを掛けました。ご遺骨を水に濡らすとDNA鑑定に悪影響が出ますからね。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.119

福岡さん、三浦さんです。あまり変化が無いように見えますが、着実に掘り進めています。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.120

現時点での収骨状況です。遺品類も増えてきました。右側の白布に注目です。何よりも鉄の破片も増えてきました。やはり激しい砲爆撃がこの地に降り注いだと思えます。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.121

下顎や頭蓋骨の一部ですね。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.122

円の中心に向かってきましたから、三人が近づいて作業するようになりました。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.123

三浦さんです。小さなクマデですよね。これは小さいが故に狭い範囲を集中して見られるメリットがあるように思います。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.124

慎重に慎重に。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.125

今は雨が止んでいますが、ジャングル内が暗いので、ヘッドライトは皆さん点灯したままで作業しています。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.126

ご遺骨発見! また大腿骨かな?

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.127

慎重に。斜面なので大変です。(^_^;)

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.128

上の岩が崩れないように支えながら、下の岩を除けていきます。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.129

白布にご遺骨を安置しました。やはり大腿骨でした。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.130

アップしました。大腿骨ですね。大腿骨頭も写っています。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.131

この小さく丸い骨は、膝蓋骨ですね。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.132

今は小休止タイムなのですが、福岡さんは休めません。どうしても動いていまいます。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.133

作業再開です。時間も迫っていますから、残り時間頑張りましょう。(^o^)

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.134

岩が堆積しているのが見て取れますね。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.135

「不発弾かも」と福岡さんの声。本当だ~。大きそうだな~の声。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.136

すぐに判明しました。不発弾ではありませんでした。鉄製の何かですね。蓋かも?

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.137

根をほぐしている吉井さんです。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.138

今は雨も止んでいますが、ジャングル内が暗いので、三浦さんのヘッドライトも、極めて有効だというのが見て取れますね。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.139

三人が三様に作業しています。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.140

根が沢山ありますね。木には申し訳ないのですが、痛みを堪えてもらいたいと思います。ごめんなさい~。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.141

現時点での収骨状況です。鉄の遺品も増えてきました。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.142

三人が三様に作業しています。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.143

大きな岩は協力して移動させます。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.144

三人が三様に作業しています。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.145

現時点での収骨状況です。ご遺骨も少しずつ増えています。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.146

鉄の破片もまた増え続けています。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.147

ご遺骨発見! 下顎の骨ですね。今度は歯もあります。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.148

新たに下顎の骨が発見されたと言う事で、このご遺骨発見場所には、二人の戦没者が居られる事が判明しました。これまで発見されたご遺骨は、二人分としてはまだまだ少ないです。二人分のご遺骨が、この辺りに散在している可能性が高いです。何としても全てのご遺骨を見つけ出したいですね~。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.149

ご遺骨や遺品が無いか、しっかりと斜面を見つめる三浦さんです。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.150

吉井さんと福岡さんです。「二人居られたとはビックリした。来年も引き続きこの場所で頑張りましょう」と言う意見で一致しました。そろそろタイムアウトのようです。引き上げ準備に入ります。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.151

本日の最終的な収骨状況です。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.152

本日の最終的な遺品類や艦砲弾の破片と思われる鉄片類です。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.153

ご覧のように、下顎が二つ発見されました。この収骨現場には二名の戦没者が居られるようです。二つの下顎の「下顎頭」や「筋突起」に注目です。大きさが随分と違いますね。大人と子供ぐらい違うような印象です。又は男性と女性ぐらいの差があるような気がします。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.154

ご覧のように、下肢の骨が多いですね。

令和4年(2022年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.155

大腿骨と腓骨ですね。大腿骨頭は二個あるように思います。

作業が終わりました。
私達は緩やかな斜面を登り始めました。過去の戦場から現実社会に戻るために (^_^;)

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