令和04年(2022年)沖縄遺骨収集奉仕活動

1月14日(金) 摩文仁海岸線で調査・遺骨収集

今日の天気予報は「曇り」で、予想最高気温17度、降水確率は10%、10%です。昨日に続き雨の心配は不要と思われますが、今日も寒い一日になりそうですよ。本日朝の慰霊巡拝は、「轟の壕」「沖縄陸軍病院第二外科壕」「山第二野戦病院小池隊最期の地 積徳高女看護隊(糸洲の壕)」「独立高射砲27大隊本部壕」を訪ねました。

「轟の壕」

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.1

ご覧のように、駐車場は国道331号線に接する形で数台駐車するスペースがありますのでご安心下さい。但し「轟の壕」の駐車場である‥‥。みたいな表記はありませんが、この上り坂奥にある農家の駐車場とも違うような気がします。いずれにしても、この駐車場に何度も停めていますが、注意されたと言うような事は、これまでに一度もありませんでした。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.2

「轟の壕」は国道331号線(名城バイパス)に隣接して交差点の角に、ご覧のようにな階段があります。案内板とか掲示板は無いので交差点が一つのキーワードです。駐車場はこの階段の左手にありますから、駐車したらまずこの階段を上っていきます。因みに、この階段も道路の拡幅工事に伴い一新されました。階段を登り切ると、50mほど小道を前に進むと壕口となります。また「轟の壕」は修学旅行での平和学習をする場ともなっているらしく、壕に隣接する道路に大型観光バスが連なって駐車している光景を目撃する機会も多いですね。

所在地ご紹介

「駐車場は、轟の壕への階段の左側にあります。トイレはありません」

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.3

階段を上り終えるとご覧のような道が現れます。そして50mほど進むと壕口となります。迷う事無く壕口に到達出来ますので、安心して前進して下さい。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.4

説明碑が見えてきましたね。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.5

自転車がありますね。サドルには透明プラスチックの箱が被せてありますから、放置自転車では無いようですね。この近くには家は無いはずですが‥‥。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.6

「轟の壕」です。と言いましても、窪地(ドリーネ)を下に降りて行く事になりまして、壕に入るのはまだまだ先です。壕は自然洞穴で、全長約100メートルほどの長さがあり川が流れています。地表部の見える部分と川が流れている壕部分との高低差は20mから30mぐらいでしょうかね。沖縄戦当時の轟の壕の内部構造については、「上の壕」「下の壕」と呼ばれていましたが、戦後は地下1階~地下3階と呼称するようです。今私が立っている窪地の降り口が地上1階として、川が流れている坑道部分が地下3階と呼ぶようです。ですから目の前の階段を降りて行くと、まずは地下1階と呼ばれる場所に到達するようです。

ガジュマルが行く手を阻み、またその他の木々が生い茂るなど窪地の様子もここからは見えませんが、沖縄戦開戦当時も同じように木々が生い茂り、天然に偽装されていたようです。島田叡知事以下の県庁首脳部がこの轟の壕に移動して参りましたが、先遣隊として知事一行よりも一足早くこの壕に入った後方指導挺身隊佐敷分遣隊長の伊芸徳一は、「中央の岩盤上には大きな雑木が数本繁り、丘の中腹からも、節くれだった古木の梢がその頭をのぞかせていた。(中略)ひろげる枝々が、円筒型の口を蔽い、天然の偽装となって役立ち、壕内千数百人の戦争に怯える人達を無慈悲な鉄火の脅威から守ってくれていた」(「沖縄の島守 内務官僚かく戦えり」田村洋三著から引用)と語っています。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.7

窪地を少し降りていきますと、ある程度見通せるようになりました。ご覧のような光景になっていますから、窪地になっているのがハッキリ解るようになりますね。ちなみに階段はコンクリート製になっていますので、比較的安心して歩けますが、やはり雨の日は要注意という印象ですね。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.8

最初の拝所が見えてきましたね。拝所は複数あるようです。ここが現代で呼ぶところの地下一階でしょうか。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.9

拝所です。右側の石柱に「とうるるち」と書かれていますが、この轟の壕の名前を沖縄の方々は、このように呼ぶそうです。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.10

もう一つの拝所です。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.11

拝所の隣に奥へ行けそうな通路がありますね。行ってみましょう。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.12

道のようになっていますね。壁に黄色いペンキで矢印が描かれていますが、ここで道に迷うなような事は無いと思うけど‥‥。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.13

ここが突き当たりですね。拝所から20mぐらいでしょうか。ここにも黄色いペンキで矢印が描かれています。

令和3年(2021年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.33

この写真は壕口の近くを撮影しています。写真中央辺りに壕口が見えますね。修学旅行生は左側に写されている手摺でガードされた通路を行き来しています。この写真で注目して頂きたいのは、壕口の手前の右側地面をご覧下さいませ。水こそ流れていませんが、現状を観察しますと枯れた沢みたいになっているのが解ります。想像するに大雨が降ると、ここは沢のように水が流れて壕口に入っていくと推測されます。先ほど壕口から出入りした坑道部分は、大雨の時にはきっと川のように水が流れた事でしょう。沖縄の梅雨入りは関東よりも約一ヶ月早いゴールデンウィーク明け頃に梅雨入りして、一ヶ月半ほど続くのが通例です。沖縄戦当時の梅雨明けは6月5日だったと言われています。ですから、この梅雨の期間は壕口からかなりに水量が川のようになって流れ込んだと思われます。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.14

写真中央部に黒っぽく小さな壕口が写されていますね。沖縄戦当時は「下の壕」、戦後の呼び名である地下3階への入り口となる場所です。「下の壕」への出入り口はここ一カ所だけのようですがの、壕内部を流れる川下から外に出たと言う証言もあるようです。

戦時中は最も多い時で軍民合わせてむ千人は超えて入っていたと言われています。「轟の壕」には島田叡(あきら)知事をはじめ沖縄県県庁が6月5日(諸説あります)に移動して参りました。

6月5日から「轟の壕」で県庁業務が開始されましたが、島田知事は6月15日(諸説あります)には警察部も含めた沖縄県県庁を解散すると宣言したのです。掃討戦を展開する米兵は戦車を先頭に刻一刻と島尻に迫っていたのでした。県庁職員の方々も壕外で業務もまともに出来ない状況下、解散宣言はやむを得ない決定であったと受け入れられたようです。そうした意味で「沖縄県庁最後の地」とも呼ばれます。

因みに6月16日(諸説あります)、島田知事は摩文仁の司令部壕に向かうため「轟の壕」を離れました。島田知事と荒井警察部長の軌跡、特に轟の壕以降の動向詳しく知りたい方は、下掲の「沖縄の島守 内務官僚かく戦えり」田村洋三著をご覧下さいませ。

《書籍ご紹介》

「沖縄の島守 内務官僚かく戦えり」

田村洋三著 中公文庫 平成18年(2006年)初版

「10万人を超す命を救った沖縄県知事・島田叡」

TBSテレビ報道局「生きろ」取材班著 (株)ポプラ社 平成26年(2014年)初版

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.15

一歩一歩壕口に近づいていますが、この写真は窪地(ドリーネ)の、今ご紹介した拝所がある場所の向かい側を撮影しています。写真の平坦な部分が、現代で呼ぶところの地下二階でしょうか。よく見ると階段状に道が出来ているのが解ります。向かい側のこの辺りも結構な人々が上り下りしているようですね。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.16

壕入り口が見えてきましたね。今日は階段部表面が乾いているので、滑る心配はほとんどありませんが、雨の日の訪問は地面がとても滑りやすいです。何しろ直径約30mのドリーネ(窪地)に降った雨の多くが、この壕口目掛けて流れ込むのですからね。轟の壕に避難していたのは、老人や女性が多かったようですし、沖縄戦当時は時節が梅雨時であり、壕口の急勾配と共に土の急斜面と言う事で、壕の出入りは本当に危険で大変だったと思われます。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.17

壁際にまた拝所がありました。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.18

間もなく壕に入りますが、こうして見ても壕口は驚くほど狭いですよね。とは言っても昔から見るとかなり大きくなりました。近年になって恒常的に修学旅行生の平和学習をするようになってから、生徒の安全を考慮して通行しやすいように広げられました。それでもまだご覧のように狭い状況には変わりはありません。壕内に入る場合は、汚れても良い服装、そして手袋とヘルメットは必須です。ライトも勿論必須ですが、欲を言えば懐中電灯ではなく、両手が使えるヘッドライトが良いのですけど、予算の面で難しいかもですね。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.19

壕の中に入りました。写真のこの辺りが最も狭い部分です。数年前に拡幅され、そして突起物なども削られて丸くなり、開口空間は凄くスマートになりました。併せて床面も可能な限りセメントで固着され、階段みたいな段差が設けられて、とても歩きやすくなりました。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.20

最難関な場所は数メートルです。少し下ると高さは同じように無いのですが、幅はご覧のように徐々に広くなってきます。天井面をご覧下さいませ。よく見ると煤で黒ずんでいるのが見えますね。「轟の壕」は、6月18日から米軍による激しい馬乗り攻撃が始まりました。ガソリンの入ったドラム缶に爆薬を仕掛けたものを落とし込むなど、執拗な馬乗り攻撃は三日三晩続き死傷者が続出したそうですが、そうした攻撃の残像が今も残されていますね。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.21

右側に拝所がありました。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.22

ここまで来ると流れる川の水音が大きく聞こえます。河川敷が見えてきました。河川敷と言うのも妙な気持ちになりますが、紛れもなく川があるので河川敷ですよね。現代で呼ぶところの地下三階と言う事になります。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.23

轟壕の壕底に到着しました。沖縄戦当時は「下の壕」と呼ばれていた場所です。また戦後は地下3階と呼ばれている場所です。洞窟の長さは100mぐらいあるとの事です。また沖縄戦当時は轟の壕に最大時で千数百人が居たとされますが、ほぼ縦走してみた体感として、全員が立っていたとしても、千数百人と言う人数は恐らく収容出来ないと言う印象を受けました。思いのほか人が居られる平坦な地盤が少ないのです。そうした意味で、沖縄戦当時の6月24日25日の両日に、約600人の避難民が救出されたと記録されていますが、こんな狭い空間に600人が暮らしていたこと自体に驚きましたから、川の中にある岩の上に身を置いていた方なども居られたかも知れないと思いました。

因みに轟の壕は地元の方々はカーブヤーガマと呼ぶそうです。カーブヤーとはコウモリの事で、昔はこの壕内にコウモリが沢山生息していたそうです。私はかなりの回数入っていますが、コウモリを見たことは無いですね。平和学習が頻繁に為されていると言う事で、コウモリ君達にしてみると安息の地では無くなったと言うことですね。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.24

やはり川の水量が少ないですね。ご覧のように、小川の中にある岩の頭が結構見えていますね。第一外科壕や陸軍病院本部壕の水位も、例年と比べて低かったですよね。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.25

この写真は降りてすぐ右側を撮影しています。こちらが水上という事になります。どちらかというと水上側の方が乾燥していて居心地は良かったとされています。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.26

拝所がありました。丸っこい鍾乳石を祀っているような雰囲気ですよね。沖縄戦に由来する遺物なのか‥‥。それ以上の事は解りませんね~。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.27

まだ奥へ行けそうですね。でも一人なので、ここで止めておきます。因みに、更に川上に概ね600mぐらい進むと、山第二野戦病院小池隊長最後の地、積徳高女学徒看護隊の壕として知られる糸洲の壕に到達するらしいです。糸洲の壕に流れている水が、こちらの轟の壕に流れ来ているようです。両壕は距離的にそれ程遠くはないですね。人が通れるぐらいの坑道だとも聞いていますから、本当であれば、いつの日か縦走してみたいですよね~。(^o^)

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.28

下流側を見てみましょう。ここは農家の採水ホースで転ばないように

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.29

ここは沖縄戦当時、「下の壕」と呼ばれていた場所で、この辺りも大勢の人々が居たのでしょう。洞窟空間の高さは十分あり立って歩く事が可能ですが壁側に近づく場合は頭上も警戒しなければなりません。ここでは全く光を確認できません。また洞窟で川が流れている場所は酸欠事故は起こらないとされていますので、この洞窟内は酸欠の心配は不要と言う事ですね。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.30

また地面をご覧下さい。壕内ですから雨が降る訳でもないのに地面が濡れています。特に奥の方は水溜まりになっていますね。。氷柱状鍾乳石から水がしたたり落ちて、地面を濡らすからだと思われます。今現在は冬ですから雨の少ない時節にも関わらず地面が濡れているのですから、もしも時節が梅雨時なら‥‥。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.31

この石臼は昔からここにありますね。沖縄戦当時の物と思われます。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.32

川の流れです。水量が少ないですね。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.33

壁際に拝所がありました。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.34

川に沿って拝所がありました。ご覧のように、造形物はセメントで作られ色を塗ったと言う印象を受けます。意味合いは全く解りませんね~。

氷柱状鍾乳石の先端部をご覧下さいませ。何かキラキラしていますよね。これは水滴が光っているのです。これは即ち氷柱状鍾乳石は成長を続けていると言う事になりますね。洞窟によって違いはあるでしょうが、地表からあまり深くない洞窟は、雨が降ると氷柱状鍾乳石からしたたり落ちる水滴量は確実に増すでしょうね。因みにこうした水滴があちこちから落ちる壕で遺骨収集の作業をすると体中がびしょ濡れになります。これは体験した人なら解りますが、想像を超えて不快ですよ。ですから沖縄戦当時この洞窟で過ごした避難民の方々も、飢えと共に何もかもが生きるために我慢我慢の日々だった事でしょう。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.35

川の壁面を撮影しています。壁が真っ黒になっているのが解ります。壕口から火炎放射攻撃を受けた結果なのか、壕内で煮炊きした為の煤なのかは不明ですね。鍾乳石の氷柱がある場所は、煤で黒くなっていないので、現在ご覧のように、黒くなっている場所のみが、氷柱から水滴が落ちてないので、沖縄戦当時の煤をそのまま現在に残している‥‥。と言う事は考えられると思います。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.36

アップしました。黒くなっている場所には鍾乳石の氷柱が、ほとんど無いのが解ります。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.37

下流へ向けて少し前進してみました。一人なので、これ以上深入りはしません。ご覧下さい。写真が白っぽく写っていますよね。これ霧なんですよ。普通の川でも寒い早朝に、ご覧の減少が現れる事が多々あります。未明の時間帯に空気が冷えきっているところに、比較的暖かな川の水が流れていると、霧が発生するのです。それと同じ現象が、洞窟内でも見られると言う訳ですね。水は空気と比べて4倍くらい比熱が高いです。それは「水は空気と比べて4倍くらい冷めにくい」と言う事ですね。写真をよく見ると、壕空間の真ん中辺りから下が白っぽく写されています。そうなんです。霧は真ん中から下だけに漂っているのです。風があれば撹拌されるのでしょうが、無風なので霧がある部分と無い部分の境界が目でも見えるんですよ。(^o^)

轟の壕の最奥部にある池の調査をした事があります。松永さんが、轟の壕の中にある池を調査してみたいと以前から語っていたからです。轟の壕では、大雨の時に壕内に大量の雨水が流れ込み、壕内に避難していた民間人が流されたという情報があるのだそうです。ですから、もしかしたら池の中に流された人達のご遺骨が沈んでいるかもしれないと言うのです。という事で、虫取りネットのような道具を持参して、壕内にある池を調べた時の写真があるのでご紹介致します。

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子28

【平成22年(2010年)2月19日撮影】
さすがに夕方6時を過ぎて外は暗くなってきましたが、どうせ壕内は真っ暗だから問題ないか~。(笑)
轟壕の階段を下りていきます。松永さんが手にしているのが、捕虫ネットがついた棒です。念のためお伝えしておきますが、これから壕内にセミやカブトムシを取りに行くのではないですからね。

遺骨収集の様子29

壕内の天井にはご覧のようなツララがたくさん見られます。気の遠くなる年月が経過して出来たものです。

遺骨収集の様子30

壕内の様子を松永さんが私たちに説明をしてくれているところです。何千年何万年の時が洞窟を作り、ツララを生成します。壁面もよく精査すると化石が多く見られるそうです。

遺骨収集の様子31

台風や大雨の時に、壕内に流れるこの川が氾濫して、避難民が流されていったという話があるそうです。

遺骨収集の様子32

ここが御遺骨がまだあるかもしれないと推測される池です。(池の撮影は失敗しました)
この付近は台風や大雨の時は、水浸しとなりしばらくの期間立ち入り出来なくなるそうです。

遺骨収集の様子33

池は縦横10メートル以上の大きさがあります。深さはそれほど深くない印象です。

遺骨収集の様子34

捕獲ネットを取り付けた棒を池の中に入れてみることにしました。

遺骨収集の様子35

池の中の底をすくい、ヘドロをかなりの量上げましたが、遺品や遺骨は発見されませんでした。遺品などが見つかれば、後日継続調査する予定でしたが、30分ほど皆さんが交代で棒を操作しましたが、結局遺品や遺骨は全くありませんでしたので、棒が届く範囲をすべて探索したのち、見切りを付けて作業を終えました。

過去の写真掲載はここまでです。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.38

さあ帰りましょう。今来た道を戻ります。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.39

外の光が見えてきましたね。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.40

お~。やはりホッとする瞬間ですね。(^o^)

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.41

壕口に到達しました。本来なら降りてきた道である右側に得る階段を上っていくのですが、それだと面白くないので、壕口から今度は左側を上って行きたいと思います。左側だと、こんな感じの場所を上って行きます。道もありますからね。迷う事もありません。地面が固結していますから、結構大勢の人達が通行している雰囲気です。

令和3年(2021年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.34

修学旅行生が行き来する通常のルートを撮影しています。階段が見えますね。写真中央部辺りが複数の拝所がある場所となります。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.42

岩盤が迫り出して庇のような形状となっていますね。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.43

所々掘った穴みたいな場所がありますが、これらの場所は雨は凌げますが、砲弾が炸裂したらひとたまりもないですね~。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.44

壕かなと思いましたが、壕ではなく凹んでいるだけですね。写真左側の地面をご覧下さい。土がしっかりと固まり道が出来ているのが解ります。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.45

ここも壕とは呼べませんが、岩陰にへばりつけば隠れられそうですね。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.46

ここも少人数ながら隠れるスペースが若干ありました。ただ壕とはとても呼べず、ちょっとした穴と言う感じですね。轟の壕の資料によれば、この岩陰辺りに佐藤喜一特高課長が居られたと記されています。佐藤特高課長は、沖縄戦当時宮城県出身の警察官僚として、首里陥落後は轟の壕で業務を遂行していまして、壕に居た佐藤特高課長と共に警察・県庁職員らが「住民が壕を出るのを認めてくれ」と、陸軍軍人を説得したとされている方で、結局、六百人余りの避難民が米軍に投降し命をつないだとされています。そんな身を挺して避難民を救おうとした佐藤特高課長が、至近弾を浴びれば全員即死みたいな、こんな危険な岩陰に滞在していたとは‥‥。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.47

轟の壕の窪地に降り始めた場所が近づいて参りました。窪地壁面の状況も上り坂となっています。この斜面を上りきると、解説板がある平坦な場所に出ると思われます。窪地(ドリーネ)の全周の様子を知りたいので、このまま前進して見ましょう。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.48

ヒェ~。家庭ゴミや粗大ゴミが捨てられていますね。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.49

家庭ゴミが多いですね~。前進しても前進してもゴミが現れます。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.50

農家の園芸資材であるビニールシートとかですね~。これらのゴミの下にご遺骨がある可能性がありますよ。戦後一度も掘り返されてない可能性がありますからね。

「沖縄陸軍病院第二外科壕」

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.51

「陸軍病院第二外科壕」に向かいます。国道331号線から脇道を100メートルぐらい進むと、小高い稜線の切り通しありまして、その切り通しを過ぎると、この写真の場所に出ます。右側のみ注視して進めば大丈夫です。専用駐車場では無いと思われますが、写真ではトラックが一台駐車しています。同じ位置に駐車すれば問題ないと思われます。また駐車場に関しては、40メートルぐらい手前側にある「シーサー屋」専用駐車場に止めさせてもらうのも有りだと思います。と言う事で、駐車場はありますのでご安心くださいませ。

所在地ご紹介

「駐車場は、近くにある「シーサー屋」の駐車場を利用させてもらいます。トイレはありません」

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.52

「陸軍病院第二外科壕」の石碑と壕口が見えてきましたね。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.53

「陸軍病院第二外科壕」です。「陸軍病院第二外科壕」と書かれた石碑と共に、第二外科壕の壕口が見えますね。同壕は糸洲集落の外れにある事から、「糸洲第二外科壕」と呼ばれたりもします。この壕は陸軍病院壕として使われていました。ひめゆり学徒隊も引率教諭と共に、ここで看護活動を続けたのです。この壕は6月18日に米軍に発見され馬乗り攻撃を受けましたが、動ける人は夜間に脱出し第一、第三外科壕方面に逃れた事から、学徒等は間一髪で脱出に成功したと言われています。第二外科長・目源逸医大尉は自決し、翌19日未明、佐藤医少佐は、各科長に斬込み、及び国頭方面に突破を下令し、生存者を率いて斬込みを敢行しました。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.54

以前はこの壕開口部は閉ざされていましたが、何者かにより壕口が開けられ中に入れるようになりました。しかしながら、壕口は土を盛って塞いだという雑な状況でしたから、昔から30cmぐらいの小さな穴が開いていて、何時も壕の中が見えるような状況ではありました。ある年から壕口から人が入れるぐらいに拡張され、壕内を見ると土が掘り返され、遺骨収集作業をした形跡がありました。

壕は糸洲集落が近いことから、古墓であった場所を拡張した可能性もありますね。出入り口は二カ所あります。またこの壕口の右側は切り通しの道路となっていますが、拡幅の際に斜面に人が通れるぐらいの大きな穴が開いたという話ですが、切り通しの道路を作る際に潰されたという情報も聞いた事があります。ただその開口部が「陸軍病院第二外科壕」と繋がっているかどうかまでは知り得ていません。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.55

それでは中に入ってみましょう。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.56

壕口から2mぐらい中に入ると、ご覧のようにコンクリート製の納骨室が、壕内の広い空間を埋めるように設置されています。ここからは納骨室に沿って左に進みます。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.57

納骨室の蓋の部分をよく見ると、手前側のコンクリートがハンマー等で打ち砕かれ、鉄筋が露出し錆び出しているのが見えます。何者かが固定されていた蓋をハンマーとかバールを用いて、こじ開けて中にあるご遺骨を持ち去ったかも知れません。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.58

納骨室の中を見ています。少し解りにくいのですが、開口部上の部分を見て下さい。納骨室の奥の方は土盛りが無いのが見て取れますね。因みに納骨室の中にある土砂は、納骨室のすぐ横を掘った際に出た土砂を投げ入れたと考えられます。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.59

この写真は納骨室のすぐ横を撮影しています。ご覧のように、何者かが遺骨収集する為に、深く掘ったとみられる場所です。掘った土砂は周辺に積み上げるのではなく、納骨室の中に投げ入れたと考えられます。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.60

この写真は納骨室の背後を写しています。壕口から、この写真の奥まった部分までが、この第一外科壕のほぼ全ての空間と言う事になります。病院壕としては、あまりに狭いと感じざるを得ません。完全に横に寝ている患者なら10名がやっと収容出来るぐらいの広さしかありません。写真奥の左側に坑道があり、坑道の先は別の壕口があるので、もう少し前進してみましょう。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.61

納骨室を超えて奥まで来ました。ここもご覧のように、地盤が深く掘り返されていますね。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.62

写真は、納骨室の奥へ到達した後に、東側を撮影しています。東側とは、切り通しがあり道路がある方向ですよね。この写真を見た限り、東側に向けて壕の坑道があったようには見えませんね。埋めたと言うような形跡もないです。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.63

納骨室の奥で、今度は西側を撮影しています。ご覧のように、狭いですが、坑道が伸びているのが見えますね。二個目の壕口もありますから、迷わず行ってみましょう。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.64

坑道を4mぐらい進むと、坑道は左に曲がりました。曲がったらすぐに行き止まりです。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.65

そして上を見上げると、ご覧のように壕口がありました。ここは陸軍病院壕ですから、銃眼とは違う意味で壕口が設置された可能性が高いです。壕口をよく見ると、壕口の下側は比較的小さな岩が積み上げられているのが解ります。現在の壕口は人の出入りは無理ですが、沖縄戦当時は壕口がもう少し広かったのでしょう。難なく出入り出来るぐらいの広さがあったのかも知れません。因みに、通常の壕は二カ所以上出入口を設けて、一カ所が攻撃を受けたら、違う壕口から脱出すると言うような話も聞きますが、この壕口は本来の壕口とあまり離れていませんね。ですから一カ所の壕口が攻撃されたら、もう一つの壕口から逃げろ‥‥。的な説明はキツいですね~。(^_^;)

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.66

「沖縄陸軍病院第二外科壕」から外に出ました。二つ目の壕口を探して見ましょう。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.67

距離が近いですから、すぐに見つける事が出来ました。写真中央部に壕口があります。本来の壕口から15mぐらいでしょうか。樹林が無かったら、二つの壕口は目と鼻の先にあるように感じるはずです。こんな穴が、落とし穴みたいに存在して良いのか? 壕口の上側が少し盛り上がっているので、多分壕口付近は歩かないと思います。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.68

「沖縄陸軍病院第二外科壕」の慰霊巡拝を終え外に出ました。同壕がある場所から東側を見ています。緩斜面は畑となり、樹林帯の北側に崖があると言う地形となっています。本島南部ではよく見られる地形ですよね。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.69

今度は西側を見ています。こちらは急斜面となっているせいか、畑ではなく樹林帯となっています。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.70

白い車が私が借りているレンタカーです。「沖縄陸軍病院第二外科壕」慰霊巡拝に際しては、この「シーサー屋」さんの駐車場に止めさせてもらってます。「沖縄陸軍病院第二外科壕」から50mぐらいの距離にあるのでとても便利です。凄く近いですしね。朝早いですから、ご迷惑にはなっていないと感じます。勿論、車を止める時に、地元の方が歩いていたりしたら、明るく「おはようございます」とご挨拶するのは必須でしょう。(^o^)

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.71

「シーサー屋」と言う標柱もありますね。この施設は、糸洲集落の方々が執り行う年中行事などで、御願(ウグヮン)で廻る拝所の一つだそうです。施設として駐車場があり、休憩所としての東屋と拝所と思われる家屋もあります。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.72

同所のシンボルツリーと言えるガジュマルの木ですが、今年は元気がありませんね~。ちょっと心配です。平和祈念公園内駐車場にある巨大なガジュマルの木も枯れていたし‥‥。沖縄は昨年天候不順だったのかな?

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.73

「シーサー屋」と言う拝所です。棚の上には、幾つかの香炉も置かれていました。何を祀っているのかは解りませんね。建物内の左下にも、香炉らしき物が置かれています。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.74

拝所の様子です。五基かな? 香炉が置かれていますね。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.75

ここにも三基の香炉が置かれています。香炉は寄進されて設置される流れのようです。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.76

次は「糸洲壕(ウッカーガマ)」を目指します。「沖縄陸軍病院第二外科壕」とは国道331号線を挟んで反対側にあるので、両戦跡を同時に訪ねるのも有りだと思います。写真の道路のうち、左右に走る大通りが国道331号線です。ここは交差点でもあります。この交差点は、「轟の壕」入り口の交差点から、国道331号線を東に500m程進むとこの交差点になります。

ご覧のように、車が走っていますが、車の前に狭い道路が奥の方に伸びていますよね。その狭い道を100mぐらい進んでから右折するとすぐに「糸洲壕」に到達します。Uターンするような形になりますかね。「沖縄陸軍病院第二外科壕」からとても近いですよね。

「山第二野戦病院小池隊最期の地 積徳高女看護隊(糸洲の壕)」

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.77

この看板は、国道331号線から視認出来るように設置されています。「山第二野戦病院小池隊長最後の地 積徳高女学徒看護隊(糸洲の壕)」と書かれています。この交差点を探し当てれば、後は大丈夫です、必ず到達出来ます。

※現在「糸洲壕(ウッカーガマ)」は閉鎖され立ち入り禁止となっています。

所在地ご紹介

「駐車場・トイレはありません。路上駐車は場所を慎重に選んで下さいませ」

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.78

「糸洲の壕」は眼前の狭い舗装道路を80mほど直進します。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.79

80mほど進むと、ご覧のように、右折する砂利道が現れますから、そちらに曲がります。曲がってから50mほど進むと、目的の「鎮魂の碑」や「糸洲の壕」がある場所に到達します。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.80

碑が見えます。駐車場は無いので、この付近の迷惑にならない場所に駐車する以外に手はありません。また人の気配を感じて、近くの農家が飼っている犬が間違いなく吠えるでしょう。ですから手短に慰霊巡拝を終える事が肝心だと思います。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.81

左側の碑が付近の公共工事に伴い、平成29年(2017年)に改築された「鎮魂之碑」です。この碑の下に糸洲の壕(ウッカーガマ)があります。同壕は第二十四師団の第二野戦病院でした。沖縄戦開戦時は豊見城城跡にあった第二四師団の第二野戦病院(山3487部隊)が、第三十二軍司令部の南部撤退に伴い、5月27日頃移動して来ました。私立積徳高等女学校生徒で編成された積徳部隊は、3月31日に同師団第二野戦病院に編入されたものです。

二つの慰霊碑が建立されていますが、右側の「鎮魂の碑」は、ここで亡くなられたご遺族が建てられた慰霊碑みたいですね。「仲村家」の亡くなられたご家族の記名が見えます。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.82

第二十四師団山第二野戦病院の慰霊塔ではなく、ここに病院壕があったと言う碑ですね。碑文はギリギリ読めますが、テキストに起こしてみました。

鎮魂之碑碑文

此の洞窟は第二十四師団山第二野戦病院の跡である。長野富山石川県出身の将兵現地防衛召集兵並に従軍看護婦積徳高等女学校看護隊が負傷兵を収容した豪跡である

この糸洲の壕(ウッカーガマ)は、爆雷やガス弾を連日投げ込まれるなど、米軍の執拗な馬乗り攻撃を受け、重症患者を中心に犠牲者が出ましたが、壕内外含めて、私立積徳高等女学校の学徒看護隊員の戦死者はごく少数に止まりました。米軍による南部掃討戦も収束傾向にあった6月26日解散命令が出た事もありますが(これは小池隊長が意図的に解散命令を遅らせたという話です)、第二十四師団小池隊長は「決して死んではいけない、必ず生きて家族のもとに帰りなさい…」と学徒看護隊員一人一人の手を握り言われたそうですから、そうした訓示が生徒を勇気づけたのかもしれません。因みに、小池隊長ご自身は、解散命令を発出し学徒看護隊員を送り出してから、壕内で自決されました。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.83

この壕で亡くなられた「仲村家」の鎮魂の碑です。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.84

農家の畑を撮影しています。この畑では長年トウモロコシが栽培されていましたが、今年はサトウキビ畑になっていました。こうした変化も記録として残しておきましょう。(^_^;)

「糸洲の壕(ウッカーガマ)」

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.85

※現在「糸洲壕(ウッカーガマ)」は閉鎖され立ち入り禁止となっています。

「糸洲の壕(ウッカーガマ)」は、ここから降りて行くのですが、ご覧のようにススキが茂って前に進めません。3m程進むと立ち入り禁止の看板が掲げられています。残念ながら、壕見学が再開される見通しは無いと思えます。

《過去の写真ご紹介》

2017年1月22日/遺骨収集の様子no.5

【平成29年(2017年)1月22撮影】
この写真は「鎮魂の碑」があった場所を撮影したものです。ご覧のよう工事中で碑は何処かに移動されてありませんでした。工事は地下5~6メートル程の所に下水道管でしょうか、太い配管が設置されようとしています。本来の「糸洲の壕」入り口は、こんもりとした木々の下にあると思われます。しかしながら気のなるのは、「糸洲の壕」の洞窟空間の方向を考えますと、もしかしたら掘削された空間と重複している可能性があり、工事範囲に洞窟空間が露出してしまえば、残念ですが埋め戻された可能性もありますし、一方でもしかしたら下水配管の下を洞窟空間が通っていて温存された可能性も無きにしも非ずです。高さ的に非常に微妙です。いずれにしても、壕へ至る階段が立ち入り禁止になっているので、現在の「糸洲の壕」がどうなっているのか何とも言い様がありません。(^^;)

過去の写真掲載はここまでです。

糸洲の壕(ウッカーガマ)の壕内部を撮影した写真がありますのでご紹介致します。古い年代から三カ年掲載させて頂きました。(^o^)

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子39

【平成19年(2007年)2月14日撮影】
写真奥の柵が国道ですから、国道から入ってすぐの所にありました。周辺部は畑となっており、見学者が多いことから農家との間でトラブルもあるようですね。松永さんが語っていました。(^^;)

遺骨収集の様子40

狭い通路を降りていくと少し広い場所がありました。まだ壕内に入る一歩手前と言う状況でしたが、ストロボでの撮影となりました。修学旅行生でしょうか。大勢の生徒さんがガイドさんの話に耳を傾けていました。

遺骨収集の様子42

壕内でまず水上の方向を撮影しました。水量が多く水かさがあるせいか、人が通れるような道は無いようです。それにしても凄い水量の水が流れています。沖縄戦当時は、梅雨時を挟んでいますから、壕内を流れる水量も今よりも多かったかもですね。

遺骨収集の様子41

床面はかなりぬかるんでいいますね。ぐちゃぐちゃです。運動靴などでは最悪の事態となります。(^^;) 可能なら長靴で入ることをお勧めしますよ。ご覧のように、水量も豊富な小川が流れていますね。近隣農家は、ここから農業用水を取水しているようです。

過去写真掲載はここまでです。

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子2

【平成20年(2008年)2月13日撮影】
畑が広がる一角に「糸洲の壕」入り口があります。駐車場は乗用車レベルでもわずかしか確保されていないので迷惑にならないよう注意したいですね。

遺骨収集の様子3

壕へ降りる階段の道すがら、ご覧のような仕掛けがありました。「ねずみ取り」ではなく、これは「ハブ取り」のようですよ。松永さんの話では、沖縄のハブは冬眠の形態はとりますが休眠に近いとの事で、二三日暖かい日が続くと動き出すそうですよ~。

遺骨収集の様子4

「糸洲の壕」の少し入ったところから、入り口方向を見ています。壕開口部はかなり大きいですね。壕口の偽装は無理だったでしょう。ホースのようなものは、農家が取水しているパイプです。

遺骨収集の様子5

壕内でまず水上方向を見ています。こちらの水上方向にも兵隊さん達が大勢居たそうですよ。この壕の様に、水のある壕は全く水の無い壕と比較して生存率が高かったそうです。

遺骨収集の様子6

下流方向を見ています。人が歩ける地盤と言う意味で、この辺りが一番広いですね。この壕は、第二十四師団山第二野戦病院でしたから、この辺りに重症患者が寝ていたのでしょうか? 因みに、水面にブロックが並べられていますが解りますかね。水が少ないときには、そのブロックの上を歩いた方が、壕の奥へ移動しやすいとの話ですよ。

遺骨収集の様子7

平和学習ガイドの松永氏と、右側女性は南部戦跡の真実を知りたいと帯同したNさんです。松永氏にとってはこの壕は「仕事場」ですからね。詳しい情報を持っている事に私達は驚きました。

遺骨収集の様子8

ちょっとわかりにくいのですが、この窪みは「かまど跡」ですね。鉄鍋などを設置して、ここでご飯や汁物などを煮炊きしたと思われます。

遺骨収集の様子9

「かまど跡」の近くには、水瓶らしき破片や食器の破片が、そのままに沢山残されていました。

過去写真掲載はここまでです。

《過去の写真ご紹介》

2016年2月19日/遺骨収集の様子 NO.9

【平成27年(2015年)2月11日撮影】
「鎮魂の碑」です。この碑の下に糸洲の壕(ウッカーガマ)があります。

2016年2月19日/遺骨収集の様子 NO.10

「鎮魂の碑」碑文です。読めますね。第二十四師団(山部隊)は、長野・富山・石川県出身の将兵が多かったのでしょう。

2016年2月19日/遺骨収集の様子 NO.11

この狭いスロープと階段を降りると「糸洲の壕」(ウッカーガマ)があります。それでは一緒に降りて見ましょう。

2016年2月19日/遺骨収集の様子 NO.12

例年この辺りに宿根草とも言えるインパチェンスが咲き誇っていましたが、今年は全く咲いていませんね。咲いてないというより、インパチェンスの株が見当たりません。どうしたんでしょうか。

2016年2月19日/遺骨収集の様子 NO.13

ここが壕口となります。第二十四師団の第二野戦病院として利用されました。壕口は二カ所あると言われていますが、私はまだもう一カ所の入り口から入った事はありません。何時の日にか、その壕口からも入ってみたいですね。

2016年2月19日/遺骨収集の様子 NO.14

壕入り口で献花し手を合わせました。

2016年2月19日/遺骨収集の様子 NO.15

壕に少し入った所から振り返ってみますとこんな感じです。壕口はかなり大きくて、米軍に容易に発見されたでしょう。実際に、米軍は数日間激しい馬乗り攻撃を続け、壕口付近を中心に犠牲者が続出した模様です。

2016年2月19日/遺骨収集の様子 NO.17

壕内に20mほど進んで、まずは水上側を撮影しました。黒く太い線のようなものが這っていますが、農家が設置した取水ホースですね。今年は川の水量が少なくて、川に沿って歩ける道がハッキリ見えますね。流れる水も止まったように見えています。何度か壕内に入っていますが、水量が多くて川沿いのあぜ道が見えない年もありました。

2016年2月19日/遺骨収集の様子 NO.16

この壕は水が流れ、煮炊きや給水には困らなかったと思われますが、他方湿気が高いので梅雨の頃の壕生活は悲惨だったと推測されます。実際にすぐにカメラレンズが曇ってきたほどですからね。冬の乾燥している時期でこうした状況ですから、梅雨時の看護活動であった積徳高女学徒達も湿気の多い壕生活により、風邪を引いたり、下痢や発熱する者が続出しましたが、戦傷者が続々と運び込まれる状況下で、自身の不調は横に置いて看護活動に従事したと言います。

過去の写真掲載はここまでです。

この壕は前年の米軍による奇襲、いわゆる十・十空襲以降から地元部落民により避難壕として使われていましたが、日本軍の戦線後退に伴い、第24師団第二野戦病院糸洲分院壕として、5月下旬から使われはじめ、学徒動員された私立積徳高等女学校の学徒看護隊員も同時に入壕したようです。

結局この糸洲壕も、沖縄戦も終局が近い6月20日頃から、米軍による馬乗り攻撃を受け、ガス弾や爆雷を投げ込まれるなど激しく攻撃され、重症患者など100名以上の犠牲者が出た模様です。

数日に渡る馬乗り攻撃に耐え、この壕内で陣頭指揮に当たっていた小池隊長は、第三十二軍司令部からの病院解散命令を受けた際も、この状況下で解散命令を出すのは危険だと判断して軍命を握り潰したのです。そして牛島第三十二軍司令官と長参謀長の自決の報を受け、日本軍の組織的抵抗の終焉を確認した上で、6月26日に解散命令を出したのです。

小池隊長は、6月26日の解散命令に際しての最後の訓示で、私立積徳高女学徒看護隊の生徒一人一人の手を握り、労りの言葉を掛けると共に、概略「捕虜になるのは恥ではありません。本当の恥は死ぬことです。なので決して死んではいけない。必ず生きて家族の元に帰り、この凄惨な戦争の最後を後世の国民に伝えて下さい」と語ったと伝えられています。小池隊長は、解散命令を出した後、壕内で割腹自決を遂げたそうです。

「沖縄戦の学徒隊」 愛と鮮血の記録

金城和彦著 日本図書センター 平成4年(1992年)5月初版

上掲の金城和彦著「沖縄戦の学徒隊」に、この第24師団第二野戦病院糸洲分院壕で看護活動をされた方の手記がありましたのでご紹介します。同著内に「手記・うるまの島の夢破れ」と題して、沖縄戦当時、積徳高等女学校四年生であった津波古照子さんが書かれました。

手記・うるまの島の夢破れ (津波古 照子)

(194頁)
こうして敵弾のなかを、私たちは患者に附き添ひながら、波平、座波、高嶺、真壁と通りすぎ、やっと目的の摩文仁村糸州の壕(天然の洞窟)に到着することができた。

壕内はかなり広かったが、下は深さが二、三尺もある水が溜まり、上には鍾乳石がいっぱい垂れ下がってゐた。その壕の尖端は、海に続いてゐるとのことだったが、私たちの落ちつく場所は水の溜まってゐる一番下の方だった。私たちは戸板などをその水の上に敷き、そこで生活することになった。

この壕にやってきてからも、戦傷者はひっきりなしに運ばれてきた。私たちは、この患者の看護、治療に当たるかたはら、夜になると国吉、前里方面まで、食糧蒐集に行った。

弾雨の中での食糧集めは、それこそ命がけだった。ある時はぽっかり口をあけた弾痕の水たまりに落ちこみ油と垢にまみれた服をびしょ濡れにして、髪も顔も泥だらけで、やっと帰ってきたこともあった。

水がたまってゐる湿気の多い壕生活のなかでは、いつのまにか体の抵抗力が弱まるのは当然だった。

風邪をひく者や、下痢をし続ける者や発熱する者がでた。それでも私たちは、患者を抱へながら一所懸命がんばった。とくに、水虫と足の水腐れには、ほとんど全員が悩まされた。

かうした最悪の状態のなかで、小池隊長が、やさしくはげましてくれたのは、何よりも嬉しかった。

ある日、食糧蒐集のため糸数部落に行ったとき、師範学校女子部の仲村スエさんと比嘉園子さんに、ひょっこり出合った。あまり突然のことで、私ははじめ声も出なかった。二人は近くの壕にゐるといふのだが、お互ひに任務中なので、ゆっくり語り合ふこともできないまま別れた。話し合へば、お互ひに、言ひ尽せないさまざまな話があっただらうが、それにしても、この出合ひの数分が、それっきり二人との永久の別れになってしまった。

もう南部一帯に敵が侵入するやうになり、私たち従軍看護婦が、運よく一人の負傷者もなくここまで来てゐることは、まったくの奇蹟とでもいへるほどだった。

六月十日頃には、すでに敵は高嶺、国吉の線に迫ったので、兵士は毎日のやうに斬込み攻撃に出て行った。白鉢巻をきりりと締めた兵士が、

「一足さきに靖国神社へ参ります」

さう挨拶すると、私たちは、「特攻隊の歌」や「海行かば」、そして最後に「君が代」で送るのだったが、兵士たちは言葉の通り、ふたたびこの壕に戻るものは一人もゐなかった。

六月も中旬を過ぎるころになると、敵は病院壕の上にある高地を占領して幕舎を立ててゐるらしく、時折鑿岩機らしい音がきこえてきて私たちのゐる壕の破壊をたくらんでゐるようであった。

そして、計画通り攻撃がはじまった。

六月二十日ごろ、壕内にはガス弾や手榴弾が投げ込まれ、入口近くにゐた人は、ばたばた斃れ、患者たちは死んでいった。その数は百名ほどにのぼった。

私たちは、攻撃のたびに、ガーゼを水に浸して鼻や口に当てたり、ときには直接顔を水に突っ込んだりして、やっと命を保った。しかし、翌日から毎朝八時ごろになると、

「投降せよ。もし応じないと壕にガソリンを流し込んで燃やすぞ」

といふ敵の勧告がくり返されるやうになった。壕内には屍臭がみち、何ともいへぬ腐敗した臭ひで、息も詰るやうだった。食糧も次第に乏しくなった。最後には、三合の玄米と二袋の乾パンだけとなった。もう先の運命は見えてゐた。

――― 最後を立派に飾りたい ―――、いまは死所を得ることだけが、ただひとつの願ひであった。

ある日、私たちは小池隊長に申し出た。

「隊長殿。私たちも斬込みに参加させて下さい。お願ひします」

それは、私たちの心からの歎願だったが、小池少佐は首を振り、

「みんなの気持ちはよくわかる。しかしまだ時機ではない。もう暫く待て」

と諭すばかりだった。私たちは、やむなく時機を待つ他なかった。

だが、私は、どうしてもぢっと待ってゐることに耐へられなくなった。真栄田さんと相談してとにかく外の様子を見ることにした。壕内では、その日も斬込隊が編成されて出発するとこであった。二人はこっそりそれについて壕を出た。

長いこと外気に触れなかった二人にとって、外の空気は爽快だった。兵隊たちは、敵陣指して真直ぐ進んで行く。私たちも後からついて行った。

やがて部落の入口にさしかかった。突然五十メートルぐらゐ前方で照明弾が上がったと思ふとすざましい大音響が起った。思はず地面に伏せたその瞬間、ヒューと風を切って耳のそばを敵弾が通過した。迫撃弾だった。私は、真栄田さんの手を摑んでゐることを感じた。われに帰って二人が無事であることに気づくと、急いでそばにあった溝に身を隠した。

身を隠しながら、前方を見ると、兵隊の姿はもうどこにもなかった。さっきの敵弾で吹き飛ばされたにちがひない。私たちは、溝の中でぢっと息を殺して敵の様子をうかがった。どうやら砲弾の音も鎮まり、やがて東の空がほんのりと明るくなってきた。もうすぐ夜が明けるのだ。明るくなっては大変だ。二人はあわてて壕に引き返した。

それから間もなく、壕内に緊張した空気がみなぎり、看護隊に集合の命令があった。小池隊長は、

「長いこと軍とともに行動していただき本当にご苦労であった。しかし、もはや事態はこれ以上皆さんを一緒に行動させることはできない。兵隊は最後まで戦うのが当然であるが、皆さんは勉強途上にある生徒であり、しかも将来国を背負ってもらわねばならぬ大事な身である。死ぬことだけが、国に対するご奉公ではない。私にも皆さんぐらいの子供があるが、皆さんを見ていると、自分の子供のように思えて、何としても、一緒に死地に連れて行くのは忍び得ない。皆さんは、他府県の生徒に比べるとかわいそうでならない。それだけにぜひ生きのびて、沖縄戦を他府県の生徒に知らせてもらいたい」

と訓示し、私たち生徒の一人一人の手をしっかり握って、別れを告げられた。少佐の頬は涙で濡れていた。やがて小池少佐が30分後に自刃されたことを私たちは知った。それは、壕外に出た友の一人が、忘れ物をしたことに気づき、壕に引き返したとき、すでに割腹して最後を遂げられた少佐の遺体を見たからだ。

壕外は危険であるから、決して団体行動をとらず、いつでも、二三名ぐらいで行動せよ……。という少佐の言葉を守り、私たちは二三名づつ組を作り、十四五分おきに壕を出た。

私は真栄田さん、仲地さんと一緒に、壕の中で拾った一発の手榴弾をしっかり持って、最後の時はこれで自決する決心で、三人固く手を握り合い、死の脱出に向かったのである。

【積徳高等女学校四年生津波古照子さん「手記・うるまの島の夢破れ」の記述部分】

「沖縄戦の学徒隊」から転載させて頂きました

山第二野戦病院小池隊長は、当初この壕に配属された生徒に対し、驚くことにいろんな理由をつけて50名中25名を家族の元へ帰してしまいました。また居残った25名の生徒に対しても優しく励ましてくれたり、危険に曝さないようにとの特別の配慮が為された事により、この壕での学徒看護隊員の犠牲者は3名に留まりました。

沖縄戦当時、公立私立を問わず7校全ての女子校に対して、動員命令が発令されました。私立積徳高等女学校徒看護隊は動員64名のうち犠牲者は4名だけという事で、他の学徒隊との比較をしても際だった生存率であったようです。大正7年(1918年)に沖縄家政実科女学校として創設された積徳高等女学校は、戦後は復興されず、28年の歴史に幕を閉じ廃校となりました。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.86

次は「独立高射砲27大隊(球12517部隊)本部壕」を目指します。写真中央部、国道が曲がる辺りの右側が、同壕へ至る入り口となります。写真は、いきなり国道331号線を写していますが、同壕前には適切な駐車場がありません。迷惑の掛からない場所に駐車しなければなりませんが、この写真の手前側に唯一私有地ながら、迷惑にはならないと思える車を駐車する場所があるのでお勧め致します。自己責任と言う事で、敢えて写真ではご紹介しませんが良い場所です。ご自身でこの写真を便りに探してみて下さいませ。(^o^)

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.87

車を駐車して徒歩で本部壕を目指します。写真の国道がカーブしている辺り右側に、本部壕へ至る入り口があります。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.88

本部壕へ至る入り口が見えてきましたね。

「独立高射砲27大隊本部壕」

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.89

ここが「独立高射砲27大隊(球12517部隊)本部壕」へ至る入り口となります。チェーンが立ち入り禁止と言うような意味合いで設置されている事から、この道は私有地だと思われます。また同壕へ至るまでの途中に門中墓がありますので、眼前の歩道は門中墓への参道であり、そこを通らせて頂くと言う事を頭の隅に入れておく必要があるように思います。舗装面を見ますと、車のタイヤ跡が見えますね。歩道を通ってここまで車で来る事は可能ですが、私達が慰霊巡拝でそれをやると拙いと思いますね。

所在地ご紹介

「駐車場・トイレはありません」

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.90

あれ~。人家も無いこんな場所に、なぜ水道メーターがあるんだ? 以前は無かったですよ。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.91

斜面の木が切り倒されていますね。上に敷地には、閉鎖されましたが展望レストランがありましたから、その関連の工事かも知れませんね。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.92

ここは門中墓への参道です。100m程で門中墓へ至ります。岩肌が凹んでいますが、壕を掘ろうとしたのでしょうかね。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.93

上にある敷地が明るくなっている! 上の敷地は、昨年までは木々で覆われていましたが、撤去されたのでしょうかね。木々の撤去に伴い樹林帯が凄く明るくなりました。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.94

門中墓です。お名前は消してあります。崖をくり抜いて作られたお墓ですね。門中とは、概ね血族を同じくする集団で、同一村内で本家を同じくする人々の事をいいます。ただ家族や親族であっても、他村に移り住んだ人は門中から外されるようです。厳しいですね~。入れてあげてよと言いたいですね。(^_^;)

また親族以外でも門中の本家より、請うて竃の灰を貫い受ければ、加わる事が可能なようです。門中員は相互扶助の生活をなし、死後は一つの墓に納まり永遠に眠ると言う信仰的な繁りで強く結ばれているとの事です。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.95

門中墓から右折して坂を降りていきます。ご覧のように、舗装路面はなくなり、いきなりご覧のような狭い登山道のような小道を降りていく事になります。手摺りがあるので迷う事はないと思われます。道なりに進んで下さい。曇りの日はかなり暗くなり怖い雰囲気となりますが、勇気を持って進んでください。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.96

小道を30m程度下ると左に曲がり、ご覧のように今度は水平移動になります。あれ~。道になっている~。「独立高射砲27大隊(球12517部隊)本部壕」で何か為されたと言う事でしょう。そうでなければ、これだけ整然とするはずがありません。地肌が見えて道になっているのは、大勢の人々が歩いたからだと思えます。

《過去の写真ご紹介》

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.120

【令和3年(2021年)撮影】雑草が繁茂していた昨年の様子です。近年は大体こんな感じで雑草天国でした。

過去写真掲載はここまでです。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.97

平らな場所に出てから40メートルほど直進すると、左側にご覧のような壕入り口が現れます。これが「独立高射砲27大隊本部壕」です。正確には同壕は入り口が二カ所ありますので、その一つのサブの入り口という事になります。それでは近づいてみましょう。

沖縄戦が始まるまでは、この壕において独立高射砲27大隊第二中隊(第三中隊?)が火砲一門を設置して、予備陣地として南方の守りを担っていました。元々高射砲陣地は敵の激しい攻撃に晒されるのを前提としているため、開口部はご覧のようにコンクリートで補強されています。独立高射砲27大隊本部壕は、この壕と右側にもうひとつ大規模な壕があり、二つの壕はつながっていると言われています。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.98

壕口上部はコンクリート製です。型枠代わりに丸太を転がしコンクリートを流し込んで作ります。高射砲を上に向けられるように、勾配がかなりあるのが見て取れます。コンクリート部分をよく見て下さい、戦後70余年を経ていますが、既に10センチ以上成長した鍾乳石が垂れ下がっていますね。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.99

丸太を並べてセメントを流し込み整形したと言うのが良く解る写真です。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.100

壕内部の様子です。それほど広くはないですね。高射砲は壕内部に収納しておいて、射撃する時はレールに乗せて前に出して射撃、速やかに後退させたのでしょう。 また写真右下に穴が見えますが、そこからもう一つの本部壕と繋がっていたと言われています。昔そこから覗いて見た事がありますが、落盤していて進む事はできませんでした。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.101

もう一つの壕と繋がっている坑道口をアップで写しています。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.102

あれ~。壕内の地盤が掘り返されていますね。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.103

コンクリートで巻いた青テープがありますね。金光教は、この壕も調査・収集されたのですね。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.104

それでは大きい方の本部壕に向かいましょう。雑草が刈られ正に道が出来ていますね。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.105

白い案内板が見えてきましたね。本部壕の壕口は左に曲がってすぐにあります。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.106

令和2年(2020年)に設置された案内板です。

「独立高射砲27大隊本部壕」

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.107

ここが「独立高射砲27大隊(球12517部隊)本部壕」です。巨岩が壕口を塞ぐようにありますね。この巨岩は平成23年(2011年)2月17日に訪れた際にはまだ落下していませんでした。平成24年(2012年)2月の時は、同壕に慰霊巡拝しなかったので落石していたか不明で、翌平成25年(2013年)2月15日の慰霊巡拝の時に、初めて落石で壕口が塞がれているのを目の当たりにした‥‥。と言う経緯があります。

壕口までの10mぐらい道のりが、以前は背の高い草木が繁茂している事が多く、壕口が発見しにく状態が続いていましたが、今年は雑草が少なく、しかも道が出来ていますね。壕内を大勢で調査・作業した可能性がありますよ。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子14

【平成23年(2011年)2月17日撮影】
「独立高射砲27大隊本部壕」です。吉井さんが壕の中に入ろうとしている写真です。現在の様に雑草が繁茂していません。実に行き来しやすい状態ですよね。ご覧のように、本部壕までの通路については、昔は驚くほどキチンと整備されていました。松永さんの話では、自衛隊員が手弁当で草刈りや通路整備を行っているという話を聞いた事があります。それはこの本部壕だけではなく他の慰霊塔や碑でも取り組まれていたという事のようです。残念ながら年月の経過で、そうしたボランティア活動も下火になったのでしょうかね。

過去写真掲載はここまでです。

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子11

【平成25年(2013年)2月15日撮影】
三回目のヒェー~~~。(^^;)
壕入り口を見つけたと思ったらご覧下さい。上から落ちたのでしょう。大きな岩が入り口を塞いでいます。この巨岩は、上掲の写真でご紹介したように、平成23年(2011年)2月17日に撮影した時にはありませんでした。また平成24年(2012年)の二つの巨大台風襲来で倒れたのでしょうか、大きな木が倒れ込んでいます。

過去の写真掲載はここまでです。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.108

本部壕壕口の真上を撮影しています。壕口を塞ぐ巨岩は、この崖の何処からか落ちて来たのは確実ですね。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.109

本部壕壕口を塞ぐように鎮座するこの巨岩は、平成25年(2013年)2月15日の慰霊巡拝の時から鎮座しているものです。景観が最悪ですよね。移動出来るものなら移動したいですね~。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.110

巨岩の左側に道が出来ていますね。やはり大勢参加して本部壕の中を調査・遺骨収集が為されたのでしょう。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.111

巨岩を乗り越え、改めてここが「独立高射砲27大隊(球12517部隊)本部壕」です。沖縄戦では独立高射砲第二十七大隊将兵574名のうち、464名の将兵が戦死されたそうです。首里戦線から、この島尻の大渡陣地壕まで、部隊の壊滅と言えるほど大変な犠牲者を出したと言う事になりますね。私はこの場所で手を合わせました。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

「独立高射砲第二十七大隊英霊の碑」が、昔はこの本部壕の真上にあったようです。そこには、今はありませんが「おきなわファミリーランド」という遊戯施設がありました。オーナーのご厚意により無償で慰霊碑や観音像が建立されていたようです。そして恐らく同施設閉鎖に伴ってだと思われますが、平成14年(2002年)2月に同部隊ゆかりの地である島尻郡八重瀬町安里に移転されたとの事です。ここに「独立高射砲第二十七大隊英霊の碑」に書かれている碑文をご紹介します。詳しく書かれているので、同隊の沖縄戦での軌跡が碑文により垣間見えると思います。

「独立高射砲第二十七大隊英霊の碑」 碑文

旧沖縄派遣独立高射砲第二十七大隊(球第一二五一七部隊)は、昭和十九年五月二十日、山口県下関高等女学校にて編成完結、同月二十三日汽車にて下関から鹿児島へ向かい、二十四日仮兵舎第七高等学校(現鹿児島大学)に宿泊、二十八日輸送船「富山丸」にて鹿児島港を出港、途中、徳之島近海にて敵潜水艦の魚雷攻撃を受けるも、六月一日那覇へ上陸、八月一日現地沖縄召集兵入隊、十一月三十日鹿児島県大島郡出身者現役兵入隊、翌二十年二月一日重砲第四連隊先原崎照空分隊を編入し、二十七大隊は、将兵五七四名(大隊本部約一〇〇名、第一、第二、第三の各中隊にいづれも約一五〇名)で編成される。

二十七大隊本部(大滝大隊長)は、那覇市小禄垣花台地、第一中隊(中村中隊長)は、那覇市小禄四八・二高地、第二中隊(内田中隊長)は、那覇市天久台地(四九・五高地)、第三中隊(光本中隊長)は、中頭郡読谷村座喜味城址、照空隊を天久・先原崎、聴測隊を那覇市波之上にそれぞれ配備する。昭和二十年五月、軍の総攻撃に参戦するため大隊本部及び第二中隊の主力は宮城陣地へ、第三中隊は神里へ転進、同月上旬、大隊本部は新川陣地(南風原北側高地)、さらに、大隊本部及び小禄地区に配備されていた第一中隊は具志頭、第二中隊の主力は与座中座付近に転進、同月下旬、第一中隊は小渡陣地に転進、第二中隊、第三中隊も大隊本部と合流するが、この間の戦闘において、第一中隊長負傷、第二、第三中隊長戦死するなど多くの将兵が死傷し、第三中隊将兵で小渡の大隊本部陣地にたどり着いた者は数名であった。

六月十日前後、第三中隊の主力を除き、各隊は小渡の大隊本部陣地に集結し、最後の決戦場として陣地の強化を図るも、この時点で部隊の火砲は一門のみであった。六月二十日、生存者の約半数を数班に分けて夜間敵陣突破切り込みを実施すべく配備中、敵軍との交戦を行うも、大隊将兵に死傷者が続出し、遂に、昭和二十年六月二十三日夜、独立高射砲第二十七大隊は玉砕するに至った。

二七会の調べでは、沖縄戦における独立高射砲第二十七大隊将兵五七四名中四六四名が戦死であった。

合掌 

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.112

本部壕内の様子です。これまで何度も遺骨収集が為されたと思われます。ご紹介した「独立高射砲第二十七大隊英霊の碑」碑文によれば、
「5月下旬、第一中隊は小渡陣地に転進。‥。第三中隊将兵で小渡の大隊本部陣地にたどり着いた者は数名であった。六月十日前後、第三中隊の主力を除き、各隊は小渡の大隊本部陣地に集結し、最後の決戦場として陣地の強化を図るも、この時点で部隊の火砲は一門のみであった。六月二十日、生存者の約半数を数班に分けて夜間敵陣突破切り込みを実施すべく配備中、敵軍との交戦を行うも、大隊将兵に死傷者が続出し、遂に、昭和二十年六月二十三日夜、独立高射砲第二十七大隊は玉砕するに至った」

と書かれている様に、この本部壕は昭和20年6月20日夜に、米軍による馬乗り攻撃で死傷者続出し、23日の夜、大隊は玉砕するに至ったとの事。23日と言えば、牛島司令官と長参謀長が、未明に摩文仁の司令部壕で自決した日でもありますよね。まさに断末魔の島尻戦線と言ったところです。それではご一緒に本部壕の中を巡って見ましょう。この本部壕は真壁千人壕と共に、今でも沖縄戦当時の残像を色濃く残す希少な壕でもあります。皆様もこの本部壕が、如何に凄まじい火炎放射攻撃を受けたか衝撃を受けると思います。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.113

上の写真よりも、少し右側を撮影しました。壕口からの最初の空間は、結構広いですし、天井もこんなに高くしなくても良いのにと思えるほど高いです。何らかの理由で天井を高くしている印象を受けますね。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.114

卒塔婆が数本立っていますね。戦後70余年を経て、洗い流した訳でもないのに、卒塔婆に書かれていたであろう戦没者の戒名などが、見事に自然消滅しているのが印象的です。風雨にさらされる場所ではないのに墨文字が消えてしまうなんて…。70余年の歳月の長さが偲ばれますね。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.115

一本だけ離れた場所にある卒塔婆ですが、こちらはギリギリ文字が残っています。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.116

ご覧のように、最初の広い空間には、二つの出入口があります。右側の出入口の方が開口部が広いので、通常は右側の出入口を行き来したものと思われます。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.117

黒い曲がりくねった棒は、なんと木の根なんですよね。最初見た時にドキッとしました。(^_^;)

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.118

右側の坑道口から中へ入ってみましょう

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.119

頭をぶつけないように屈みながら進みます。坑道が狭いのは、爆風よけを目的にしているからでしょう。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.120

奥の通路部分に出ました。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.121

まずは右側の一番広い部屋です。本部壕の壕口からかなり奥まった場所にあるのに、ご覧のように煤で壁・天井共に真っ黒ですよね。凄まじい火炎放射攻撃を受けた事が解ります。昔この壕に入った時に、坑木として使われていた可能性のある木がありましたが、炭化して炭になっているのを目撃しました。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.122

更に奥へ進んでみました。地面には石がゴロゴロしていたのに、綺麗に片付けられ平らになっていますね。下で同じ場所を、平成23年(2011年)に撮影した写真をご紹介します。地盤が見事に片付けられているのが解ると思います。

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子20

【平成23年(2011年)撮影】
ここは一番奥の部屋といってよいでしょうか。守備地区で壊滅的な打撃を受けて撤退してきた中隊が続々壕内に退避してきた以降は、中に入りきれないほど兵士達で、壕内は満ちていたと言いますから、このあたりも兵士達がすし詰めのように入っていたのでしょう。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

遺骨収集の様子21

これだけ壁面が黒くなっているという状況では、攻撃を受けてからこの壕内から生還した兵士は居ないのでは…。と思われますが、実際にはこれだけ激しい攻撃を受けたにもかかわらず、わずかに生存者が居ました。生存者が居たとは驚くべき事実ですが、壕が入り組んだ構造をしており、爆風は想像するよりも奥に入っていかなかったのではないかと想像されます。

遺骨収集の様子23

遺品がありました。かなり太い木材が炭化しています。壕内が長時間燻り続けないとこのような “炭” はできませんね。ビンの破片が見えますが、水を入れておいた一升瓶でしょうか…。米軍の執拗な攻撃を受け続け、壕内は早くから水が一滴も無くなってしまいましたが、空腹も辛いけど、喉の渇きはそれよりもはるかに辛いという述懐があります。正に死ぬも地獄、生きるも地獄の世界がこの壕内で展開されたのでした。

遺骨収集の様子24

これは軍靴ですね。壕内に靴底はかなりあるのが見てとれます。

遺骨収集の様子25

クロイワトカゲモドキ君が私たちを迎えてくれました。近くに寄っても逃げませんね。「こんにちは (^o^)」って言ったら、流し目でウインクしたように見えました。(笑)

過去写真掲載はここまでです。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.123

場所を移動しました。ここが最初に見た高射砲が設置されていた陣地への通用口ですね。岩がここに集められていますが、本来の坑道はもっと広かったです。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.124

この辺りも煤で真っ黒です。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.125

今度は左側に行ってみましょう。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.126

この辺りも煤で真っ黒です。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.127

壕の外に出ました。写真の雑木林を真っ直ぐ進むと、大渡海岸にでます。その大渡海岸には、「患者壕」がありました。「独立高射砲27大隊本部壕」と「患者壕」との関係を説明させて頂きます。

独立高射砲27大隊本部壕に関連して忘れてはならない事柄として「患者壕」があります。患者壕は現在の大渡海岸最南端部より少し東側に位置しています。本部壕と患者壕との距離は、直線で900mぐらいでしょうか。この壕は同大隊の重傷患者50名余りが収容されていました。沖縄戦末期に同隊が本島南端に追い詰められ、乏しい食料の節約と壕の定員過剰の緩和の為に、もともとは戦死者を埋葬(安置)する場所であったものが、やがて戦えなくなった傷病兵を置き去りにする場所になったと言われています。

傷病兵たちは傷の治療や看護はおろか、水や食料も与えらなかったそうで、死体の腐臭、垂れ流した糞尿の悪臭の中で、傷の痛みや飢えや渇きにもがき苦しんでいたそうです。そうした中で米軍の馬乗り攻撃により、水陸両用戦車からの榴散弾や黄燐弾などあらゆる砲弾を撃ち込まれ、また最後には米軍兵士が崖を上がっての火炎放射攻撃を受けてしまいました。壕内は凄まじい轟音と共に阿鼻叫喚の地獄絵となった様です。

壕内は焼け爛れた死体の山になったまま戦後30年間放置され(頭蓋骨は終戦直後回収されたらしいです)、1970年代になってカビが生えたご遺骨が回収されたと言います。それでは、その患者壕を撮影した過去記事がありますので、再掲載させて頂きます。

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子41

【独立高射砲27大隊の患者壕/平成23年(2011年)2月17日撮影】
ここは大渡海岸南端まで歩いてきて、更に数十メートル回り込んだ場所です。引き潮の時のみ徒歩で来られる場所にあります。目の前にある崖の中央付近に穴があるように見えますね。ここが独立高射砲27大隊の“患者壕”があった場所だと言われています。今からそこに入ってみましょう。

遺骨収集の様子42

少し離れて遠くから写してみました。この付近一帯は、引き潮時なら誰でも容易に到達する事が出来ますが、満ち潮のタイミングをしっかり把握した上で訪ねる事をお勧めいたします。

遺骨収集の様子43

ご覧のように “患者壕” に入るには縄ばしごを登らねばなりません。高さは4メートルぐらいあるでしょう。こうした状況で沖縄戦当時重症患者等をここから運び上げたのか…。この壕は沖合に居た米艦船から丸見えですし、何より患者を引き揚げる困難さが、未だに「本当に患者壕だったのかな」という疑念が未だ捨てきれないのが率直な感想です。

遺骨収集の様子44

吉井さんが登って前に歩き出したところです。開口部周辺はかなり複雑な構造をしていますが、岩盤が一枚岩ではなく比較的もろい団粒構造ですから、執拗な砲爆撃を受けてかなり崩れたのではないかと推測しています。また開口部より下側の岩肌は比較的本来の地色が出て綺麗ですが、開口部より上側半分は煤でかなり黒色に染まっているのが見てとれます。榴散弾や黄燐弾が水陸両用戦車から打ち込まれ、最後は火炎放射攻撃を受けたという事で、内部が激しく焼かれ相当長時間黒煙が舞い上がっていたのではないかと思われます。

開口部付近は台風襲来時には、雨風で岩盤表面が洗い流されると思われますが、そうした状況下で66年も経て尚これだけ岩面が黒いというのに驚きを隠せませんね。高熱により焼却ススが焼付け塗装のように強固に付着しているのかもしれません。

遺骨収集の様子45

ハシゴを登ると岩石を削って平らにしたのではないかと思えるほど、平らな床面となっています。10メートル程奥に入ると、ご覧のように一段高い床面との段差に突き当たります。すべての壁面は強く黒ずんでいます。おそらく火炎放射戦車は海沿いを回ってきて、ここまで到達し壕に向けて火炎攻撃をした可能性が高いです。沖に停泊する米艦船からこの開口部は良く見えますから、もちろん艦砲による砲撃も強烈にあったでしょう。

遺骨収集の様子46

ご覧のように奥に行こうとすると、1.5メートル程度の段差の上に登らねばならない構造となっています。「上の段」の床面も概ね平坦であり、人工的に削ったという印象を受けます。岩盤をよく観察しますと、一枚岩ではないので、掘削は比較的容易だったのではないかと推測されます。ご覧のようにすごく焦げている箇所が多いですね。光は大きな開口部からまだ十分差し込んでいますので、この写真もストロボ無しで撮影されています。

遺骨収集の様子47

上の段に上がってみますと、平坦な床面が結構な面積でありました。天井はほとんどすべて、概ね立って歩けるレベルの高さが確保されています。一度空間が狭くなって、写真の様に奥にもう一度広い空間がありました。広い空間の中央部には現在も使用していると思われる拝所が設けられていました。爆風避け、あるいは壕の爆撃に耐える構造を維持するために、広い空間を連続させないで狭い開口通路を間に挟んだりするのでしょうか?。一枚前の写真にも、空間のど真ん中に柱がしっかりとありました。

遺骨収集の様子48

拝所及び広い空間の右側を見ています。この広い空間は天井が少し低くなっており、少し屈んで歩かないと頭を岩にぶつけてしまうおそれがありました。拝所はコンクリートブロックで構築され縁取られていましたが、ブロックは砲爆撃による破損も全く見られませんし、現在の規格寸法で作られていますから、戦後設置したと思われます。この壕が患者壕という事になりますと、この広い空間に大勢の重症患者が横たわっていたという事になりますね。

遺骨収集の様子49

湿気が高く霞が掛かったように写されています。奥の方には、なにやら四角く切り取られた石が積み上げられていました。明らかに石を積んで塞いだという雰囲気でした。目地はセメントのようなものが詰められていましたので、ゴシゴシと少し削ってみましたが、思いの外柔らかいことから、セメントは含まれていない可能性があり、拝所と同時に設置されたのではなく、戦前から設置されていた可能性が高いと思われます。

遺骨収集の様子50

壕内部から外を撮影してみました。ここに壕がありますと宣言しているような、とても大きな開口部…。米艦船からも望遠鏡を使わずともハッキリと視認出来たはずです。いかがでしょうか。重症患者であったとしても、あなたならこの壕に居続けたいと思いますか。??? (米軍の集中攻撃を受けるまでは、この患者壕の開口部はもっと小さかった可能性はあります)

この患者壕の存在が米軍に知られて最初の攻撃を受けたのは、6月23日前後だと言われています。 この患者壕への最初の攻撃は戦車からでした。最初の攻撃では、戦車砲から戦車砲弾、りゅう散弾、黄燐弾とあらゆる砲弾が、壕内めがけて打ち込まれ、砲弾の炸裂音と硫黄の悪臭と悲鳴とで言葉で表せないほどの地獄絵と化したそうです。

また沖合からピタリ照準を定めた米艦船の巨大な破壊力を持つ艦砲が火を噴き、砲弾は直撃弾として壕内で炸裂…。その時の様子は、この壕に収容されていたおよそ50名の患者の内、たった一人奇跡的に死を免れた兵士により語り伝えられています。

昭和50年、大隊本部壕と患者壕の遺骨収集が戦友会と御遺族により行われ、本部壕には白骨が十数体、患者壕には青カビの生えた50人分の御遺骨が、当時のまま山のように積み重なっていたといいます。しかしながら「戦いの果てに負傷した兵士を患者壕に捨てた」という非難を耳にしますが、誰がリーダーになろうとも、おそらく選択肢は無かったと思えます。大渡海岸および集落裏手ジャングルには、守備軍が構築した大隊本部壕以外の自然壕なんて全くありませんし、患者壕付近一帯の満ち潮時人を寄せ付けない断崖部分を俯瞰しても、“この患者壕よりも安全だと思える壕” は全くありませんでした。選択肢がなかった――。悲しいけれど、これが大渡海岸一帯を調査しての結論でした。

私たち三人は、黒く煤けた壕内の往時の悲惨さに想いを馳せ、戦争の不条理さを改めて噛みしめながら、戦後66年経過した壕内に立ち戦没者との無言の会話をしながら、ここで亡くなられた兵士の皆さんのご冥福をお祈りしました。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

遺骨収集の様子51

この患者壕がいかに苛烈な砲爆撃を受けたか…。患者壕に向けて激しい砲爆撃があった事を想起させる “物” が海岸線浅瀬に残っていました。この引き潮で露出した海岸の岩場に、無数に今も残る砲弾破片と思われる錆びて黒色をした鉄の塊です。驚くほどの数が散在しています。引き潮時に通行可能な患者壕付近の海岸線に散在する、幾多の肉体を貫通したかも知れぬ戦争の残像としての膨大な数の鉄片…。 この地で戦争があったという確かな証として、錆び尽きて消えるまで、少なくとも後100年は残存し続けるに違いありません。

※私の靴を写し込んでおきましたから、鉄片の大きさを靴と比較して下さいませ。砲弾の炸裂と共に、このような鉄片が強烈な爆風・轟音と共に360度全ての方向に飛び散るのですから、爆風を直接浴びると生死を分ける極めて致命的な結末に至る事をご理解頂けると思います。

遺骨収集の様子52

このような鉄の塊が、砲弾炸裂と同時にぶっ飛んでくるのですよ…。

遺骨収集の様子53

海岸に無数に残る砲弾破片その三。

遺骨収集の様子54

海岸に無数に残る砲弾破片その四。

遺骨収集の様子55

海岸に無数に残る砲弾破片その五。

過去写真掲載はここまでです。

ネットを検索していましたら、独立高射砲27大隊本部壕に関連した「患者壕」の内部を撮影した動画がありましたのでご紹介致します。リアルに「患者壕」のある崖や内部が撮影されています。因みに、ご紹介する動画は、沖縄戦当時の「患者壕」としては全く認識されておらず、あくまで動画タイトルに書かれているように、洞窟の中に拝所がある‥‥。と言う視点で撮影されています。その点をご了解の上ご覧下さいませ。

動画ご紹介

「【洞窟探検】干潮の大度海岸を磯歩き!午之方御嶽の真下にある洞窟の拝所は神秘的!」

調査・遺骨収集作業開始です

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.129

昨日福岡さんが発見した懐中時計を、今朝には清掃して持参してくれました。氏名が彫り込まれている可能性の高い時計の背面には、残念ながら記名は無かったようです。ご覧のように、時計の表面もかなり劣化しているのが実情で、彫り込まれた名前でないと目視は不可能でしょう。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.128

懐中時計に結びつけられたメダルのような物は、よく観察すると、中央部分に描かれている図形は、後日調べた結果、ペルー国旗の中央に描かれている図形にそっくりでした。ただ上の三分の一ぐらいは、それと関係ないのですが、見た目が旭日旗に似ていますよね。沖縄戦当時、日本とペルーとの関わりを表す記念メダル的なものでしょうか‥‥。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.130

本日も福岡さんと私の二人です。天候も昨日と全く同じで、曇りですが降水確率は午前午後共に10%と言う事で雨の心配はありません。作業に先立ち、まずは沖縄戦で戦野に果てた戦没者のご冥福を願い手を合わせます。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.131

いつもの流れで、戦没者のご冥福を祈った後は集合写真と言う事になりますが、今日も福岡さん一人ですね。サイト管理人と二人きりですが、よろしくお願い致します。昨日と同じぐらい実りある探索作業にしていきましょう。(^o^)

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.132

早速壕がありました。それ程深くなくて特に何もありませんでした。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.133

ご覧のように、一枚岩と言える岩盤の下に隙間がありますよね。この岩盤の下に壕があるケースが多いので、注意深く地際を探していきましょう。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.134

ぱっと見に軍靴の靴底があるのが見えました。こうした発見は、見つけると言うよりも遺品が勝手に目に入ってくると言うのが正解だと感じます。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.135

今日も険しいジャングル帯を進む事になりますね。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.136

ここも一枚岩の岩盤の下にある壕で、良い感じのする壕でした。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.137

ここにも壕がありました。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.138

何かありそうですよ。降りてみましょう。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.139

ここも壕がありました。入ってみましょう。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.140

足から入ると問題なく入れました。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.141

福岡さんが何か見つけたようです。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.142

何やら出ました。私の革製手袋に乗せました。写真では革製品のように見えますが、ずばり鉄製です。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.143

ひっくり返してみますと、こんな感じです。表と裏を見てもらいました。ずしりと重く厚みのある鉄板のようです。何でしょうかね。一千度に達するナパーム弾で鉄板が溶けた‥‥。と言う可能性もゼロではありませんね。(^_^;)

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.144

ご覧のように、巨大な岩盤の下には隠れ場所になりそうな場所が無数にありますね。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.145

ここも入ってみましたが、何もありませんでした。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.146

蔓植物が前進を阻みます。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.147

今度は登っていきます。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.148

ここも悪くないですね。北向きなので海からの砲撃が防げますし、地面が土なので移動中の小休止なら居心地が良かったはずですね。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.149

相変わらず蔓植物が凄いことになっています。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.150

割れた水瓶ですね。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.151

ここにもあります。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.152

福岡さんがちょっとした隙間を見ています。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.154

崖を下ります。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.155

割れた水瓶ですね。茶色の瓶も見えますね。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.156

この壕も居心地良さそうですね。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.157

福岡さんは崖下に達したようです。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.158

お~。穴だらけですね。崖下にはご覧のように沢山の隠れ場所がありました。時間の許す限り全部入って探索しましょう。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.159

黒いのは鉄の破片ですね。砲弾の破片でしょうか?

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.160

割れた水瓶ですね。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.161

これも小さめの水瓶ですね。この地域一帯は水瓶が多いですね~。人は水なしでは生きられませんから、それだけに将兵や避難民が大勢居たと言う証かもしれません。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.162

巨大な岩盤をよく見ると、煤で黒くなっていますね。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.163

壕口がありますね。後で入ってみましょう。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.164

ご覧のように、ぱっと見ただけで隠れ場所は多くありそうですね。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.165

福岡さんが早速クマデで探索を始めました。

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ガ~ン!! 赤テープ発見。金光教の遺骨収集が這入っていますね~。(^_^;)

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金光教の遺骨収集では不発弾や手榴弾を見つけたら、赤テープを巻いて他者に危険を知らせると言うルールになっていました。また赤テープ劣化具合を見ますと、20年以上経過しているかも‥‥。と感ずるぐらい古いですね。手榴弾そのものは、昭和12年から使われている九七式手榴弾でしょうかね。

因みに自宅に戻ってから金光教の遺骨収集資料集を参照しましたら、この場所も含めた広範な地域になりますが、7回遺骨収集を行っているのが解りました。

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私の靴が写っていますが、ご覧下さい。よく見ると艦砲弾の破片やら何やら色んな遺品が散乱しているのが解ります。

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これは水瓶の蓋かも知れませんね。

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ご覧のように、革製品も多いです。ここは露天で雨に打たれる場所なのに、革製品が腐らずに残っているのですね。驚きです。

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早速壕に入ってみました。

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金光教の遺骨収集が入ったので、ご遺骨は発見できそうにないので、記名遺品を見つけるべく探索をしています。

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金属探知機の反応が強いですね。ここは横穴的な壕なので、艦砲弾の破片などが飛び込んで来ているかも知れません。

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一枚岩の巨大な岩盤ですが、鍾乳石の氷柱も一体化していますね。写真右端には壕口がありますね。

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壕の中に入りました。

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6cmぐらいの鉄の破片ですね。

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まだ下に坑道があるようです。

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ガ~ン!! ここにも赤テープがありました。赤のテープ量が多いので、大きな不発弾があるかも知れないと付近を掘ってみましたが、特に不発弾は見当たりませんでした。

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まだ入れますね。

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更に奥へ行けるかどうか、福岡さんが調べています。

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割れたお皿とか、その他の遺品もご覧のように見えますから、ここにも避難民が居たのは間違いないようです。

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横穴がありますね。

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ここは入れたので、少し入ってみましたが、特に何もありませんでした。

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こちらも特に何もありませんでした。

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こちらも首を突っ込んでみましたが、特に何もありませんでした。

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別の壕に移動しました。ギリギリ人が通れるぐらいの穴ですね。サイト管理人も装備を外して入ります。

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まだ下に行けるとの事です。

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壕の底に到達しました。福岡さんが丹念に探索しています。壕底は四五人は入れる空間がありました。

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壕から出ました。大きな水瓶ですね。

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壕口が見えますね。入ってみましょう。

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4mぐらい降りたでしょうか。巨岩に囲まれ艦砲弾の直撃も無い絶好の場所ですね。

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金属探知機の反応がありますね。

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壕底には数人が入れるスペースがありますね。地面も砂利が敷かれているような感じで居心地も良かったと思われます。遺品は何もありませんでした。

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昨日入った壕は摩文仁随一の広さのある空間でしたとご報告しました。その巨大な壕を進むと別の壕口があったと書きましたが、その壕口がありました。昨日はその壕口を壕内部から見ただけでしたが、今日は地表から壕の中に入ってみました。写真は中に入ってから撮影したものです。

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壕底から私達が入ってきた壕口を福岡さんが見ています。

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昨日も書きましたが、壕の表面を見ると人間の大腸の中に居るような錯覚を覚えますよね。(^_^;)

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鍾乳石の氷柱の様子です。今は完全に乾いています。

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昨日探索出来なかった場所で少し探してみます。

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金属探知機の反応がありますね。

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この部品も良く見かけますよね。将兵が必ず一個は持っている物なので発見する機会も多いと言う訳です。この部品は、被甲(ガスマスク)の付属品で、腰まで浸かるような渡河作戦などで腰まで水に浸かるような場合は、被甲の吸収缶に水が入らないように、写真のクランプを用いてゴム製の連結管を閉じる為に用いる部品ですね。

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早いもので昼食の時間となったので、一旦壕を出ます。

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昼食を食べる場所は、ご覧のように、巨岩に囲まれた窪地と言った風情の場所です。北側を撮影しています。

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今度は南側を撮影しています。ご覧のように、巨岩が迫り出していますから、比較的安全な気持ちにさせてくれる場所ですね。この窪地には沢山の遺品が散乱していますから、ここに居られた将兵や避難民の方々も同じような気持ちになられたのでは無いかと推察します。

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昼からは再び移動する事にしました。蔓植物が繁茂するジャングルを進みます。

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アップダウンが激しいです。山を越える事が目的ではなく、穴を探しながら歩くのが目的ですから中々前に進めません。

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複雑な地形の場所に出ました。可能な限り人が隠れられそうな場所は全部見ていきます。

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この辺りは凄いです。砂利の中を進む蟻の気分です。巨岩が林立して複雑に絡み合い、あちこちに岩の空間があると言う状況ですね。

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福岡さんが「下に水瓶が見える。早く来て」と教えてくれました。

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お~。割れた水瓶が二つ見えます。ただここからは降りられません。凡そ3mぐらい下の壕底に水瓶があるのですが、ご覧のように垂直に切り立った崖状になっているので、ここからすぐに降りられません。よく観察すると他の場所から廻れば降りられそうな雰囲気です。降りる場所を探してみましょう。

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しばしあちこち探しましたが、ついに降りられるルートを見つけました。

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缶詰の缶ですね。岩と岩の隙間にありました。

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水瓶のある場所に降りてきました。ここに水瓶があると言う事は、ここに将兵や避難民の方々が居たと言う事になりますね。空間も結構広いです。

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大きな水瓶ですね。この大きな水瓶が大勢の喉の渇きを癒やしたのかも知れません。

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居住空間もご覧のように結構な広さがありますね。ご覧のように、樹木の根が垂れている事からも、それ程深い壕ではないのですが、艦砲弾の直撃さえ無ければ居心地の良い場所だと感じます。きっと福岡さんの姿勢と同じようにして、大勢の人々がここに居た可能性が高いと思います。壕の出入りもルートさえ解れば、簡単に入れますしね。

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坑道が更に続いていました。全体としてかなり広い空間があります。

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この壕に入る時はルートをあちこち探して入りましたが、複雑な構造をしていて、出入り口は複数ある事が解りました。福岡さんが立っている所も出入り口と言えます。この壕口が一番楽に出入りできるような印象です。

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ここにも水瓶の破片がありますね。

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壕の外に出ました。

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ご覧下さい。またまたここからは降りられませんが、下に大きな空間が見えますよ。どこか降り口を探してみましょう。

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福岡さんが「ここから降りられそうだよ」との事。降りてみましょう。

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写真左側にサイト管理人の靴が写っていますが、福岡さんの周囲には広い空間があるのが解ります。

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遺品がありました。缶詰の缶ですね。数も多いです。

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缶詰の缶が二個並んでありますね。

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福岡さんの腕に置いてみました。腕時計と思われます。沖縄戦当時の国産時計メーカーは、セイコーとシチズンの二社がありましたが、ラインで製造するのではなく手作り製品ですから、相当高価であったと思われ、全ての将兵が時計を持っていた訳では無いと思われます。

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ここにも缶詰の缶がありますね。

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ずっと奥へ続いているようです。前進してみましょう。

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ここも地盤が平坦で居心地の良い環境ですね。

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お皿ですね。

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上を見上げると、明かり取りのように開口部があり外の風景が見えますね。

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缶詰の缶ですね。

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金属探知機に反応があるようです。

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福岡さんがクマデで掘っています。割れたお皿が見えますね。

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金属的な破片が沢山写されています。

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これも缶詰の缶ですね。

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お皿と金物が岩の上に置いてありました。

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缶詰の缶ですね。

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これも缶詰の缶です。開けられているのが見えますね。

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この形状の金物も時折見かけますよね。何であるかはまだ解りません。

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狭いところも漏らさず探索する福岡さんです。

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遺品が色々と出てきますね。

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セルロイド製の石けん箱が出てきました。

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二個目の石けん箱が出てきました。(^o^)

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福岡さんが探索作業をしている壕から一旦出てみました。この壕口はこの壕に入ったところとは別の場所になっています。この辺りの壕は壕口が三カ所も四カ所もある極めて入り組んだ複雑な地形となっているので、方向を見失うと厄介なことになりかねませんね。(^_^;)

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ここは金属探知機が鳴りっぱなしですね。

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珍しい形状の瓶がありました。また色が違うアンプルが三個見えます。

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これは三八式歩兵銃の挿弾子ですね。

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福岡さんが作業している場所は壕口に近いのが解りますね。例えば奥深い壕であったとしても、やはり壕口付近に遺留品が集中していると言うのが現実です。ロウソクなどの明かりを持たない人々であるはずですから、奥深くは行けないのでしょう。地盤が平坦であるこの場所にも多くの避難民が居られたはずです。

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二個の石けん箱が見つかりましたが、残念ながら記名はありませんでした。

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防毒面に使われた曇り止め板を収納する容器ですね。これもまた戦場でよく見かける遺品です。

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これは三八式歩兵銃の挿弾子も二個出てきました。この挿弾子は五発の弾丸を束ねる事が出来ました。挿弾子は真鍮製と鉄製があったと言います。写されている挿弾子は、ひどく錆びている事から鉄製と思われます。

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細かい遺品もあるようです。

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ボタンが出てきました。

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壕の中から壕口を見ています。

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福岡さんの背中が見えています。写真奥の方に壕の坑道は続いています。その奥の方から私達は移動してきました。

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ここは細かい遺品が沢山出ますね。

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襦袢(シャツ)のボタンが出てきました。白いボタンは貝から作られているボタンだと思われます。

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襦袢(シャツ)のボタンも含め、色々出てきましたね。

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丸いリングとかハトメが見えますが、これらは兵士の背嚢に使われていた部品の可能性もありますね。本体の布地は早期に腐熟して無くなったのでしょう。

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新しい壕に移動しました。ここは巨岩と巨岩に挟まれた隙間と言う感じですね。

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ここも割れた水瓶の破片が散乱していますね。

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茶碗もありますね。

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割れていますが大きな水瓶がありました。

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壕を出ました。次の壕を探します。

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壕口を見逃さないように注意深く進みます。

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また大きな岩場が現れました。地際に壕口が無いか丹念に探していきます。

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また壕口を見つけましたよ。入ってみましょう。(^o^)

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良い感じの壕ですね~。

令和4年(2022年)1月14日/沖縄遺骨収集の様子no.269

いい感じの壕でした。私達が良い壕だと感じるところには、大概遺品がありますね。艦砲弾の直撃に耐えられ、すぐに脱出出来たり居住性が良かったり、湧き水があれば尚良しと言うような感じですかね。ご遺骨を探す私達も、すでに戦野を行き交う将兵の気持ちになりきっているのでしょうかね~。(^o^)

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やはり遺品がありますね。

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「お金があった!」と福岡さんの声がします。

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お金は複数個あるようです。慎重に地面を見つめる福岡さんです。

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お~。お金ですね。記章のような物も出てきましたよ。(^o^)

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福岡さんが、また何か遺品を見つけたようです。

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これは何の部品でしょうかね。ちょっと解りませんね。

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壕は奥へと続いていますね。行ってみましょう。

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福岡さんが居られるところで終わりのようです。

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次の壕に移動しました。入れそうですね。入ってみましょう。

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奥へと坑道がありますね。

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ここが一番奥でした。特に何もありませんでした。

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別ルートから外に出られました。

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時刻も遅くなったので、本日の探索作業は終了です。今日も無事故で終えられました。ありがとうございました。(^o^)

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平和祈念公園駐車場に無事戻って参りました。駐車場にあるガジュマルの木を写しています。

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鉢に植えられた植物が見えます。ガジュマルの木の分岐枝の中にありました。木の成長と共に鉢は飲み込まれてしまうかもですね。(^_^;)

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ガジュマルの木を見ていつも思うのですが、これって自分で自分の首を絞めているように見えるのは私だけでしょうか‥‥。(^_^;)

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平和祈念公園駐車場に戻り、洗面所で福岡さんが見つけた記章と思われる遺品を、丁寧に清掃してみました。ご覧のように、ユニークな形状な記章です。小さいので、文字とか記名は無かったです。

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