平成19年(2007年)沖縄遺骨収集奉仕活動
- 2月13日(火)朝早く自宅を出発/読谷村方面慰霊巡拝
- 2月14日(水)南風原文化センターと南部戦跡慰霊巡拝
- 2月15日(木)単独で摩文仁之丘南斜面に入り遺骨収集
- 2月16日(金)地元情報により旧知念村で事前調査&遺骨収集
- 2月17日(土)第34回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
- 2月18日(日)第34回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
2月15日(木) 単独で摩文仁之丘南斜面に入り遺骨収集
那覇市内のホテルにいつも宿泊しますが、いろんなホテルを体験したいという事で、毎年同じホテルには宿泊しないようにしているのです。
今回宿泊したホテルも初めて泊まるホテルですが、場所は新都心といわれる「おもろまち」にありました。
新都心と呼ぶだけあって、沖縄らしくなく、東京の都心部にいるような錯覚を覚えましたね~。早朝の散歩のときや、夜の夕食前後にホテル周辺部を探索しましたが、本当に驚きの連続でしたし、賑やかに人々が行き交っていましたね。
こうして毎年毎年沖縄の新しい顔を見つけたり、また伝統的な沖縄の慣習を知ることもあったりと、少しずつ少しずつ沖縄に関する知識が蓄積されていくのですね。
今日は昨年に続き、単独で摩文仁のジャングルに入る予定です。
8時半過ぎには平和祈念公園に到着しました。道具などを装着して準備を整え、おばちゃん達がいる生花売り場で花を買い求め、まずは国立戦没者墓苑に向かいました。今日一日が無事故でありますことを願うと共に、御霊様のご安泰を祈念しました。
今日は晴天の素晴らしい気象状況です。単独行動は今日一日だけですので、体力が続く限り頑張って探索を続けたいと気合いを入れましたよ。
国立戦没者墓苑
平和祈念公園内で生花を販売しているおばさん達です。おばちゃんとの会話の内容から推測するに、どうやら私を覚えてくれているようですよ。 (^o^)
沖縄戦終焉の地"摩文仁之丘の太平洋を望む高台に国立戦没者墓苑はあります。
遺骨納骨堂は琉球トラバーチン石1000個余りを、琉球古来の積み上げ方式で積んであります。
放置ゴミ
放置ゴミ???
英霊が眠る"沖縄戦終焉の地"摩文仁之丘と何の関係があるの???
疑問に思われる方も多いでしょうが、実は平和祈念公園内には大量の放置ゴミがあちこち存在するのですよ。
とても信じがたい話ですが摩文仁之丘で、複数箇所にゴミが放置されている事が確認されています。
実際にすでに「黎明の塔」直下の崖下にも大量の生活ゴミが捨てられていましたが、金光教の遺骨収集でそのゴミも袋に詰めて回収されたのです。私はその現場には立ち会いませんでしたが、驚くほどの大量の生活ゴミがあったそうですね。
そしてさらに驚くことに、その大量のゴミの下から御遺骨が発見されたのです…。
そうした経緯もあり、金光教那覇教会の林先生は摩文仁に存在する全ての放置ゴミを回収し、そのゴミの下を探索して御遺骨が無い事を確認する必要があると熱く語ります。
17日から始まる金光教の遺骨収集でも、放置ゴミを回収する手段を模索したいと語っていましたので、私が摩文仁の崖下に降りて放置ゴミの位置関係やゴミのボリュームなどを事前調査することにしました。
以前の調査でも国立戦没者墓苑前の崖下ではないかと、大まかな位置関係は把握されていますので、更に正確な位置を特定すべくその方法を考えました。
その結果、「愛媛の塔」のところが最も崖に突き出た位置にあるので、そこから棒を伸ばし棒の先端にビニールのヒモをつけて(ビニールのヒモには重りをつけます)、ダラ~と下に長く垂らします。私が摩文仁の崖下に降りてそのビニールのヒモがどのあたりで見えるかをまず確認する事にしたのです。
さすが中澤君ですね~。どうしてこんなに知恵が働くんでしょう~。。
「平和の礎」から少し外れたところに、崖下に降りるルートが出来ているので、まずそこから下に降りていきました。
再びこの降り口に帰ってきたときに、この降り口ポイントを通り過ぎて道に迷わないようにする為に、降り口から50メートルほとビニールのヒモを伸ばして木に縛っておきました。こうすることにより、降り口を通り過ぎて焦ったり無駄足を踏むことがないですからね(^o^)。
「愛媛の塔」からこの降り口までの距離は、直線で400メートルぐらいです。
普通に歩けば5分もかからない距離ですが、若干御遺骨なども探しながら進んだこともあり、垂らしたヒモの下に到達したのは、1時間以上経過した頃でした(^^;)。
いずれにして草木の生い茂る、かなりのダウンヒルコースでしたよ。
崖下に垂らしたヒモの位置から、更に50メートルほど前進すると、まず最初の放置ゴミがある場所に到達しました。
木がなかったので上から落とした 崖下を移動するという事で、道に迷うという心配はまずありませんでしたが、ルートは想像以上に難コースであることが解りました。
「このルートをゴミを手で持って運ぶというのは現実的でないな」。例え人海戦術でやったとしても、相当な人数でなければ…。
やはり放置してあるゴミの場所から、崖の上に向かって吊り上げる方式でないと難しいのでは…。
林先生に報告するために、放置ゴミの様子をカメラに写したり、位置関係を目に焼き付けたりと、現場の状況を出来る限り把握する事に努めました。
摩文仁崖下の放置ゴミの様子
海岸線沿いにある「愛媛の塔」から西側を展望しています。
海岸線沿いにある「愛媛の塔」から東側を展望しています。
砲爆撃で発生したと思われる黒いススが付着しています。
ここも黒いススが付着しています。
「風葬」という洗骨した御遺骨を安置してある場所です。積み上げた石の上から中をのぞくと、たくさんの御遺骨が安置されていました。
ルート上最も手こずったのがこの場所でした。トゲがあるので痛くてなかなか前に進めませんでした。
前進を阻まれたというのが理解して頂けるでしょう~。
摩文仁の崖の上を見ています。写真ではわかりにくいのですが、垂らしておいたビニールが見えましたよ。ヤッタ~。
放置ゴミが堆積してある場所です。ゴミがある所だけ「ポトス」が繁茂しています。考えるにゴミの層が厚く、下から木が生えないので蔓植物の独断場となったようです。
「ポトス」が我が天国といわんばかりに繁茂しています。
蔓を除けるとお弁当のトレーが目につきます。建設廃材も多く目につきました。
放置ゴミの位置が確認できたことから、今来た道を再び遺骨を探しながら時間をかけて帰っていきました。
想像以上に時間が経過して、昼が近づいていたので摩文仁丘突端部にある「黎明の塔」横の展望ベンチで、早お昼を食べることにしました。
おにぎりなどのお昼ご飯を食べ終え、食休みとして30分ぐらい椅子に座っていようと思ったのですが、寒いんですよね。もちろん汗をかいていましたから、昼食前にシャツを着替えたのですが、それでも寒いのです。
天気は晴れ時々曇りといった気象状況でしたが、やはり冬は冬ですよね。
寒くてもコート等の衣服は持参していないので、午後の探索の暖気運転も兼ねて、すぐ近くにある「黎明の塔」と直下の牛島中将と長参謀長が自決した壕に行ってみることにしました。
この「黎明の塔」と壕は数えきれないほど訪ねていますが、おそらくこれからも数多く訪ねることになるでしょう。
この壕で指揮を執る牛島中将は、6月22日大本営に向け決別電を打ったのです。
そして6月23日未明、軍装の牛島中将と白装束の長参謀長は武士道に則り自決の座に座りました。剣道5段の坂口大尉が介錯したと言われていますね。
そして遺体は89高地の断崖下の前もって準備された墓穴に埋葬されました。
自決した司令部壕には鉄格子が取り付けられていますので、あまり深くは見えませんがかなり奥まで続いているようです。また、この壕は出入り口がもう一カ所あるという話がありますので、いつの日かその出入り口から中に入ってみたいですね。
摩文仁の日本軍司令部壕
第32軍終焉の地摩文仁之丘の日本軍司令部壕跡です。この壕内で6月23日未明、第32軍牛島中将と長参謀長が自決を遂げました。
壕入り口横には「第32軍司令部終焉の地」と書いてありますね。
鉄格子の中から撮影しました。かなり奥行きはありそうです。
摩文仁之丘南斜面で遺骨収
午後からは遺骨収集に専念することにしました。事故が発生しないように慎重に行動することはもちろんです。
「黎明の塔」付近の高台からは、摩文仁之丘南斜面がほぼ一望できますね。ジャングルの中に入ると位置関係の把握が難しいですが、展望する風景の中で一応のルートを頭にたたみ込み、ある程度の距離感と、風景の特徴と位置関係を出来る範囲で記憶しておきます。
今回は、篠原さんが発見したルートを使ってまず摩文仁崖下に降り、そこから横に移動して「健児の塔」から海岸に至るルートまで前進し、そこから海岸線に一度出て、海岸線づたいに巨岩のところまでいってそこから再びジャングルに入り、「南冥の塔」もしくはその付近で作業終了となるルートを設定しました。
疲労度も考慮して、概ね4時間程度のルートを設定しました。
展望台からは摩文仁之丘南斜面が一望できますよ。海岸線沿いの巨岩が連なる部分までの範囲で探索することにしました。
遺骨収集で最も危険なこと、それは「自分の位置が解らなくなったとき」なのです。
その理由は焦るからです。
これは団体行動でも周りに誰もいなくなった時なども同じです。人は焦りがあるときに、前後の判断力を失い慎重さが欠ける動きになってしまうのです。ですから、今回も崖下から海岸線までの50メートルほとの範囲に黄色いビニールのヒモを張りました。
そうすれば、前進できなくなったとき、あるいは道に迷ったとき戻ってくれば、黄色いビニールのヒモに必ず当たるのです。結果としてパニックになるのを防ぐことが出来ますね(^o^)。
この摩文仁之丘南斜面は、あらゆる遺骨収集団体が何度も何度も入っているのですよね。ですから、普通に歩き探索してもまず御遺骨には出会えません。
今回は、ジャングルの草木が繁茂する部分を西に前進することにしました。海岸に近づくほどもの凄く草木が茂り、前進がままなりません。
このような前進困難な場所こそ私が初めて通のに違いないと、前進にかなりの時間を要しましたが、匍匐前進しながら注意深く地面をクマデで掻きながら進みました。
またあちこちに壕があるのであまり深く入らないように注意しながら、内部の探索を行いました。
戦後60余年経過して、雨露にあたる地表面での御遺骨発見は、本当に少なくなりました。今でも発見される御遺骨のほとんどは、壕内などの雨露に当たらない所での発見がかなりの割合を占めています。
ですから、より限られた御遺骨を効率よく探すという観点ならば、壕だけをターゲットとして探索するほうが、発見率は高まる可能性がありますよね。
ただ10年とか20年前の遺骨収集では、壕内だけでなくごく一般的な平地の部分やちょっとした小岩の陰などからも御遺骨は発見されていましたので、どこでも取りこぼしの御遺骨が発見される可能性があるという視点で、探索を進めていくという事も必要です。
特に摩文仁之丘南斜面は、砲爆撃が何度も何度も行われた場所です。遺体の上に砲爆撃による土石が覆い被さり、その上にまた遺体の山が築かれ、そこにまた砲爆撃による土石が降り積もる…。こういう事が何度も重なって、岩石の下にはまだまだ御遺骨が眠っていると思えてなりません。
私達が行う遺骨収集は、あくまで地表面の探索であり、露出している御遺骨の収集を行っていると言うことです。
ある意味土石に埋もれた御遺骨は、摩文仁であってもまだ手付かずだとも言えるでしょう。
その意味でも、私達は摩文仁之丘を数多くの御霊が眠るその上を歩いているという事をいつの時も忘れないようにしたいものです。
摩文仁之丘南斜面の様子
海岸線に近づくほど、草木が繁茂している事が今回良くわかりました。
切り立った崖が複雑に入り組んでるので、しっかりと位置関係を把握して前進していきます。
砲爆撃により岩がススで黒ずんでいます。いたるところで目撃されます。
摩文仁之丘南斜面の崖下は、岩が複雑に切り立っていています。
大きな穴を開けた壕がありましたが、一人なので危険を避ける為パスしました。 (^^;)
日本軍の手榴弾です。兵隊さんは自決用と攻撃用に最低2個は持っていたようです。
この壕は中がかなり広かったです。
空き缶がありましたので、日本軍将兵が滞在したと思われます。
艦砲弾などにより巨岩が崩れたのではないかと思われる所が多数あります。
左側は枯れた木で、右側は艦砲の不発弾です。両方とも枯れ木に見えますよね。
このように狭い出入り口は、砲爆撃をかなり防いでくれそうですね。
壕内部の様子です。遺留品はありませんでしたね。
壕内部の様子で。
壕内部の様子です。
今探索しているルートは初めて経験するルートですが、摩文仁之丘にある第32軍司令部壕の崖下には、かなりの数の壕が点在しているのが良くわかりました。当時は、敗走した日本軍将兵があちこちの壕に分散して入っていたのではないですかね。
摩文仁に司令部があり、牛島中将と長参謀長が隠れているという情報は、米軍にも伝わっていたようでして、記録によると徹底的にこの摩文仁は砲撃されたようです。
ですから、摩文仁から「南冥の塔」あたりまでの間には、数えきれないほどの遺体が散乱していたと言われています。
壕の中で息を潜めて、艦砲射撃に耐えていた人々は、どのような思いで爆撃の中で過ごしたのでしょうかね…。
この段階で、どれくらい前進したかは解らなくなっていました。
ただ、もう少し前進すれば「健児の塔」から海岸に至るルート部分に出ることは間違いないと感じていましたので、特別不安になる事はありませんでした。
そしてさらに二三の壕を探索したりしながら前進していきましたら、やはり予想通り「健児の塔」から海岸に至るルートに無事に出ました(^o^)。
ここまでおよそ150メートル横に移動してきたという事になります。意外に少ない距離ですよ。実際の体感としては、300メートルぐらい移動したのではないかと感じましたので、やはりジャングルは容易には前進できていないという事ですね。
こうした感覚的なことは、体験を積み重ねないとつかめない面も多々ありますので、こうして得た感覚は大切にしていきたいですね。
「健児の塔」から海岸に至るルートの途中には、湧き水が出ている場所があるのです。地元ではこの井戸を「チンガー」と呼ぶようですよ。
摩文仁は井戸や湧き水の少ないところとして知られていました。いろんな資料を渉猟しても、どうやら二カ所しか無かったと思われます。
実際に摩文仁を歩いても、湧き水はまず見かけませんね。
ですから、この湧き水は沖縄戦当時多くの将兵と民間人の命をつなぐ糧となったことでしょう。
戦争では食糧を備蓄している場所や水場を爆撃で破壊するのはあたりまえの話ですから、この水場も相当な砲撃を受けたのではないかと想像できます。
「水をお腹いっぱい飲めれば死んでもいい」
こうした追いつめられた気持ちで、狙撃されるのを覚悟でこの水場にやってくる人がたくさん居たのではないでしょうか…。
実際戦記ものを読んでみましても、井戸の周りは歩けないほど屍が山積みとなっていたといった記述が散見できます。
住民は夜になるとこの井戸をめがけて殺到しましたが、米軍はこの井戸を徹底的に爆撃し機銃掃射し続けました。井戸の中にも屍がころがり、井戸水は赤い色をしていたといわれています。
自動販売機に囲まれて生活している私達には、命と引き替えでもいいから水を飲みたいといった心情は、とても理解の及ぶところではありませんが、南部に逃避している人々は兵隊や民間人に関わりなく、水と食糧の不足に苦しんでいた事が偲ばれますね(^^;)。
摩文仁之丘中腹にある湧き水
沖縄戦当時、摩文仁一帯では貴重な湧き水だったと思われます。「井戸は使わないと死んでしまう」という言葉通り、この湧き水もちょっと元気がないですね。
「金井戸川」と書いてありますね。昔は川とよべるほど湧水量が多くて、井戸から溢れた水は、川となって流れ出たと言う事でしょうかね。
ご覧のように川がありました。水路の両脇が石垣になっています。一部埋もれたりしていますが、ご覧のように沖縄戦当時も水路があったようです。
湧き水場の近くには、爆撃によるススで黒くなっている場所がありました。
クイズですよ。沖縄戦当時、この「ユウナ」という植物の葉は何に使ったでしょうか???。答えは、トイレットペーパーとしてお尻を拭くのに使いました~。
湧き水のほとりで小休止をとり、しばし沖縄戦当時のこの水場での出来事などに思いを馳せました…。
今では想像も出来ないことですが、この周りには数えきれないほどの死体が散乱していたという事に…。
ここで亡くなった多くの人々にご冥福をお祈りして、立ち上がり歩道を海岸に向けて歩き出しました。
歩道の途中には、沖縄戦当時にトイレットペーパーとしてお尻を拭くのに使った草の葉が繁茂していましたよ。複数の人からその話を聞いていますので、間違いはないと思います。
現在はポケットティッシュなどの便利なものがありますが、当時の逃避行の中で紙そのものも持っていなかったでしょうから、葉はとても重宝したのではないでしょうかね(^o^)。
歩道を少し歩くと海岸に出ました。砂浜も幅広くはありませんでしたが少しありましたので、海岸に出てしまえば歩きやすかったですね。
海岸に出たことにより、自分の位置もはっきりと確認できました。ここからまた歩むルートも、概ねすべて視界の中にありますので、これからはそれほどの不安もなく探索できるでしょう。
まずは海岸沿いにそびえ立つ巨大な岩を目標に歩みを進めました。巨岩の麓からその連なる崖下に沿ってまずは探索する予定です。
砂浜をしばらく歩くと、巨岩の麓にやって参りました。ただ問題はこの砂浜から、その巨岩の麓にどうやって進むかが問題なようです…。
すごいブッシュです(^^;)。ブッシュ大統領ではありませんよ。藪という意味です。「迷惑」という意味では同じか~。(笑)
実際のところ、かなり難儀しましたよ…。ジャングルというのは、入ってしまえば比較的歩きやすいのですが、どこでもそうですが少し入るまでが一番大変なんですよね。
何度か試行錯誤して、やっとこさ巨岩に至る足がかりを見つけました。そしてついに巨岩の袂にたどり着いたのです。
ここまで結構ハードだったので、少し給水タイムを取ったあと、いよいよジャングルに入っていきました。このジャングルは初めて入る所でした。
摩文仁にある展望塔から見た限り、ここいらあたりの地形は単純なので、迷うことなどないと感じていましたが、実際にこうして入ってみるとかなり地形は複雑となっていましたね。
よほどの事がない限り迷うことは実際には無いでしょうが、油断は出来ないなと感じました。
そしてそれにも増して、よりジャングルとしての険しさが倍増しているという印象です。とにかく凄いです。熱帯性の植物の蔓なのか根なのか、はたまた混在しているのか…。
そして大小の壕がいたるところにありましたね。
ここいら一帯では、とにかくもの凄い人たちが砲爆撃で死んでいったのです。実際に金光教の遺骨収集でも、この辺から遺骨収集をするたびに御遺骨が発見されました。
人が隠れるのに都合がよい大小の壕が本当にたくさんありました。
そして砲爆撃で破砕されたと思われる大小の岩石もゴロゴロといたるところに転がっています。いや積み重なっているという表現が正しいかもしれません。
何度も何度も爆撃されて、破壊された岩石が積み重なっていったのです…。
ですから、これら大小の岩石の下にはいまだ多くの御遺骨が眠っているに違いありません…。
再びジャングルへ
海岸線に出ました。今は引き潮のようですね。
海岸から東側の方向を見ています。
海岸から西側の方向を見ています。あの巨岩の麓を目標に歩みを進めました。
だいぶ巨岩に近づいてきましたよ(^o^)。でもここからが大変でした。
やりました。かなり大変でしたが、ついに巨岩の懐に入りましたよ。
巨岩部分から摩文仁之丘山頂付近を見ています。「黎明之塔」横の赤い屋根の展望塔なども二カ所見えますね。
巨岩を廻っていくとすぐに違った風景となります。
ジャングルを上から見たという風景です。
切り立った巨岩が二つ連結しているといった状況でした。
ここからいよいよジャングルに入っていきますよ。
枝なのか根なのか……こんな風景がしばらく続きます。
ここを突破するのに1時間はかかりますね。さすがの私もこの横を通りましたよ。
もちろん歩くだけでは駄目ですよね。遺骨を探しながら歩みを進めます。
大きい岩がとにかくゴロゴロと沢山ありました。
そしてちょっとした壕もいたるところにありましたね。
この壕は遺留品等は発見できませんでしたが、とにかくあちこち壕があります。
「南冥之塔」
びっくりするほどのジャングルでしたが、特別方向感覚を失うというアクシデントもなく、このまま前進すれば「南冥の塔」付近に出るなと思いながら探索を進めていましたら、予想通り塔が見えてきました。
ひどいジャングルでしたから、体力を消耗し正直かなり疲れました…。
塔の階段に腰掛けて、少し給水タイムをとりました。
摩文仁之丘の上の部分には、壕陣地があるので日本軍将兵がたくさんいましたので、摩文仁の崖下や海岸線付近には、民間人が隠れる場所を求めてひしめいていたと思われます。
この「南冥の塔」周辺は、くりかえしになりますがとにかくおびただしい数の屍が散乱していたと言われています。ここには将兵や民間人など合わせて12,000柱の散乱した御遺骨が集められ祀られているのです。
南冥の塔
「南冥の塔」です。写真奥に壕が見えますね。
壕内の様子です。それほど奥行きは無く入り口も大きいことから、入っていても安全性も低かったと思われます。
「沖縄師範健児之塔」
いや~さすがに疲れました。(^^;)
集中力を持って探索している間は、疲れているなんてまったく感じませんが、こうしてジャングルから出て小休止するといっぺんに疲れが出てきます。
ジャングルに入ってから約4時間経過しました。さすがに集中力もこれで尽きたようです。
まだまだ明るいのですが、これ以上集中力が欠けた状態で遺骨収集を継続しても、かえって危険なので止めることにしました。
今日は残念ながら御遺骨を発見することは出来ませんでしたが、摩文仁之丘の西側を重点的に探索できたことから、新たに把握した事柄も多く、非常に有益な遺骨収集であったと感じました。
そしてもちろん無事故で作業を終えることが出来て安堵しています。
帰りの道すがら「沖縄師範健児之塔」に寄っていくことにしました。
この塔もかなりの頻度で訪ねていますね。
沖縄県師範学校の校長先生と職員20名と生徒285人が祀られています。
生徒は沖縄戦が始まろうとする昭和20年3月、軍命により動員され「鉄血勤皇師範隊」を組織したのでした。そして激しい戦いのなか守備軍と行動を共にして数多くの犠牲者を出したのです。
犠牲者は全生徒の55%にも及んだそうです。中学生の年齢の若き人たちが、戦火に倒れていったというわけですよね。
「沖縄師範健児之塔」に立ってみてビックリしました。塔の周辺部にあった樹木が切り倒されていたのです。以前はうっそうと茂る林の中にあるというイメージでしたが、周辺部が切り倒されたことにより、塔には太陽が降り注ぐような明るい雰囲気となっていました。
摩文仁は米軍により徹底的に爆撃されましたから、記録写真を見ても戦後この「沖縄師範健児之塔」が建立された頃はまだ岩石がゴロゴロして樹木もほとんど生えていない荒涼たる風景の中に塔は建てられていました。
それが今ではうっそうと茂る森林となっていたのです。今はこうして再び樹木は切り倒されたので、しばらくは明るい雰囲気の中参拝が出来るでしょうね。
「沖縄師範健児之塔」
塔の周辺部の樹木は切り倒されたので、かなり明るい雰囲気となっていました。
沖縄県師範学校の校長先生と職員20名と生徒285人が祀られています。
こちらは「沖縄師範健児之塔」の右側にある「平和の像」です。守備軍管理部壕の上に建立され"友情・師弟愛・永遠の平和"を象徴的に表しています。
「沖縄師範健児之塔」に至る道すがら寒緋桜が咲いていました。
駐車場にはブーゲンビレアが満開になっていました。
「梯梧(デイゴ)之塔」
駐車場に戻ってみると、まだ夕暮れには時間があるので、二つの慰霊塔を訪ねることにした。
「梯梧(デイゴ)之塔」と、昨年は訪ねてみたけれど発見できなかった「ひめゆり学徒散華之跡」の二カ所です。
「ひめゆり学徒散華之跡」については、林先生に案内してもらったので、場所が特定されたのです(^o^)。
「梯梧(デイゴ)之塔」も毎回のように訪ねますね~(^o^)。
「ひめゆりの塔」は皆さんが御存知で、観光バスが連なって訪ねますが、こちらの「梯梧(デイゴ)之塔」はその存在が霞んでしまうほどに静かなものです(^^;)。
というわけで、私だけでも「梯梧(デイゴ)之塔」を応援したいと…。
今年訪ねて見ると、一部新たに碑が建て直されていましたね(^o^)。
全体的に慰霊塔の管理が十分でなく、寂しい印象を持つ塔が多い中、こうして維持管理が為されていると感ずる時は、なんとなくホッとした一時を与えてくれますね。
この「梯梧(デイゴ)之塔」は私立の昭和高等女学校の職員3名、生徒57名が祀られていますね。
昭和25年8月元校長八巻太一氏及び父兄や同窓生によって校庭跡に建立しましたが、昭和49年6月糸満市字伊原のゆかりの地に移されたのでした。
静かに手を合わせ、次の目的地である「ひめゆり学徒散華之跡」を目指しました。
「梯梧(デイゴ)之塔」
「梯梧(デイゴ)之塔」の全景です。
この"梯梧の塔に捧ぐ"碑が建て直されていましたね。
「梯梧(デイゴ)之塔」説明碑文です。
沖縄昭和高等女学校説明碑文です。
ひめゆり学徒散華之跡
平和創造の森公園を過ぎ、束里にある清掃工場の横を通り、海岸線の松林の中をしばらく進むと、海岸に出る駐車場がありました。
そこに車を止め、少し歩くと荒崎海岸に出ました。
荒崎海岸の近くには「魂魄の塔」があることからもお解りのように、この海岸線にはおびただしい数の遺骨があったといわれています。
想像するに、その犠牲者のほとんどは民間人ではないかと思われますね。
南部地域を南へ南へと逃れてきて、ここ荒崎海岸に追いつめられたのですから、恐らく吹きだまりのように民間人が草陰にひしめいていたのではないでしょうか…。
砂浜でなく、ゴツゴツした岩場を50メートルほと進むと、「ひめゆり学徒散華之跡」がありました。ひめゆり学徒隊の一部は、この荒崎海岸まで逃避行を続けてきたというわけです。
碑文を見てみますと、6月21日職員・生徒合わせて14名がこの地で自決し、2人がこの付近で亡くなったと記されていました。
碑のある場所は、壕などではなくちょっとした窪みに過ぎず、ここで肩を寄せ合うように亡くなったのですね…。
「ひめゆり学徒散華之跡」
「ひめゆり学徒散華之跡」から東側の方向を見ています。遠く摩文仁之丘がかすんで見えますね。
「ひめゆり学徒散華之跡」から西側の方向を見ています。隠れる場所も少ない様子。遠くまで荒涼たる海岸線が続いています。
「ひめゆり学徒散華之跡」の碑文です。「島はてに華と散りにしいとし子よ夢安らけく眠れとぞ祈る」と刻まれていま。
「巌かげに一すじの黒髪乙女ごの 自決の地なり波もとどろに」と刻まれています。
レストラン『Cure Heart』
夜は林先生と共に、林先生の息子さんが経営するレストランに出向いて食事をしました(^o^)。
場所は国際通り南端にある那覇市役所の横にありました。
『Healthy Dining Cure Heart』( ヘルシーダイニングキュアハート)
店名の前に「癒食同源」というキャッチフレーズをつけていましたね。
その名に能わず、店内で出された数多くの料理は、間違いなく美味しかったですし、体に優しい手作り料理をたくさん頂きました(^o^)。
今日の午前中に摩文仁之丘の崖下の放置ゴミの状況を林先生にご報告しました。
林先生は、すでに「黎明の塔」横での大量の放置ゴミを片づるという経験がありますので、それらのゴミの袋詰めや搬出がどれくらい大変な作業であるかは、十分に認識されていました。
おそらくは「黎明の塔」横の時よりは、搬出面において摩文仁之丘の崖下のほうが、はるかに困難さを伴うのは明らかですので、どのように放置ゴミを搬出するか…。
課題は多々ありますが、どのような困難をも乗り越え摩文仁之丘を本来の意味で霊地としなければならないと、林先生のご意見をお聞きしながら意を強くした次第です。
レストラン『Cure Heart』
お店は那覇市役所の横にありました。皆様にもお勧めのお店です。