平成16年(2004年)沖縄遺骨収集奉仕活動

2月15日(金) 第31回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加

遺骨収集活動二日目も、那覇市内の宿泊先ホテルから一路平和祈念公園目指して、車を走らせました。便利なもので、カーナビを利用しますので本当に助かっています。もしもカーナビが無かったら、幹線道路しか走れず余分に時間がかかっている事でしょう。

現地では、初日と同じように朝の御祈念を全員で行った後、班ごとに予定地域での収集活動に散っていきます。私達も、車に分乗して平和祈念公園内の昨日と同じ場所に到着しました。そこで一班だけの御祈念をしてジャングルの中に入っていきました。 一班は、昨日の収集の続きという事になります。まだ全体の半分の土砂も運び出していませんので、少なくとも午前中はそこで継続作業となる見込みです。

あまりに膨大な土砂を運び出さなければならないために、壕内を40メートルも運ぶのではなく、現地を探索して別の方法がないか検討する事になりました。やはり大勢集まると、知恵も湧いて参ります。収集場所は、15メートルぐらいの崖の下に位置していますが、上からロープを垂らして布バケツを引き上げ、上で御遺骨の選別を行った方が効率がよいことが判りました。崖上のその位置にも何とか道を切り開いて、進める事が確認出来ました。少なくとも壕内を移動させるよりも少人数で効率よく作業を進めることが出来そうです。(^o^)

皆で協力してルートを作り、うまくロープも垂らして準備万端整えました。言葉では簡単ですが、ハッキリ言ってかなり苦労しました。しかし、重機などの運搬器具を使うわけにもいきません。人力以外に頼ることは出来ません。出来上がった態勢のなかで、皆で協力して作業を進める事になります。

収集現場で土砂を布バケツに入れ、それをロープに括り付け、合図と共に崖上でロープを持つ人がロープを力一杯引き上げます。上で布バケツの土砂を白布に移して、その空の布バケツを再び下に戻すという作業を繰り返します。分担した役割を皆が一生懸命請け負って、順調に作業を進めることが出来ています。

収集現場の深いところは60センチ程掘り下げたでしょうか。かなり深いところまで御遺骨が埋まっています。収集現場の奥の方は、上から土砂や雨が落ちてきており、長い歳月のなかでかなり土砂が流入した模様です。また、御遺骨は散乱しており手榴弾などにより自決した事も十分考えられます。そんな事もあり、広範囲の土砂を運び出す事に繋がっています。

かなりの御遺骨と、三角定規などの遺品も多数発見されています。年々これら遺品などによる氏名特定は難しくなっていますね。その点が非常に残念でなりません。もしも兵隊さんが100年間腐らない認識票などをつけていれば、御遺骨はかなりの数が故郷に帰れるのになといつも思っています。

午前中は一班全員で協力して、ひたすら土砂の搬出・土砂の中から御遺骨や遺品の分別を続けました。結果あらかたの土砂の搬出を終えて、作業完了の見通しが立って参りました。

新たな場所で御遺骨発見!

昼食を挟んで、午後からは引き続き同じ作業をする人と、私を含めた若い人数人で新たに御遺骨を見つけるべく、探索に出かける人とに分かれることになりました。

4人ほどで捜索しながらジャングルを進み30分ほどしてから、ある壕の入り口にたどり着きました。ここは、壕内の入り口にあたる部分ですが、私が昨日捜索している時にこの壕で小さな隙間から、兵隊さんが使ったと思われるポシェットのような革製の縦横10センチほどのケースが見えていました。

隙間から2メートルほどの深さに、そのポシェットは落ちていました。中にもしかしたら兵隊さんの使っていた物や書類などが入っているかもしれません。何とかして手に入れたいと思いましたが、隙間が細いために人間が入るわけにはいきません。考えた末、樹木を切って棒を手に入れ、先端部にカギ型の木を取り付ければ引っ掛けて上げる事が出来ると考えました。カギ型の部分を持参していた針金で縛って見事、「カギの棒」は完成しました。何でも持ってくるものだなと、この時ばかりは嬉しくなりました(^o^)。

棒を細い穴に挿入して、5分ほど格闘してなんとか引っ掛け上げる事ができました。そして、期待して中を見ましたが残念ながら、物品は入っていませんでした。ポシェットそのものは、革製で兵隊さんの腰ベルトに装着していたもののようです。このポシェットの落ちていた場所は、落ちていた場所そのものは少し広い場所となっており、そこの部分に何とか到達出来ないかなと一生懸命潜り込める場所を探しましたが、どうみてもそんな場所はなさそうなので、諦めて別の場所に移動しました。

昨日そのような顛末があった事を、一緒に探索していた皆さんに説明して、底部に潜ることが出来れば御遺骨発見の可能性が高い旨説明しました。私は、説明を終えてそのまま前進しながら探索を続けました。しばらくすると、ある人が御遺骨を見つけたと声を上げて伝えに来ました。発見場所は、私が御遺骨の存在の可能性があると指摘した場所からでした。

信じがたいことに、発見者は私が入ることは出来ないと断念したところなのに、なんと底部に侵入するルートを見つけたというのです。何という根性でしょうか。見つけたいという強い思いが、新規ルートを発見する事に繋がった事は間違いありません。

私が見つけ得なかったルートを発見したという事で、私は発見者を絶賛しました。発見場所は、かなり巨岩が入り組んでおり結果的に3メートルほど岩の隙間の底部にありました。御遺骨が三体ありました。骨の量はかなり少なくなっていますが、かつて収集が行われた形跡はありませんでした。

御遺骨は表面には少ししか見えません。しかし、少しでも見えていたことが発見に繋がりました。死亡原因と推定されるのは、艦砲射撃による爆発で、壕内での岩石が破壊され、大きい岩石の落下による圧迫死と推定されます。御遺骨のある場所は狭く、人間がかがんでやっと動ける程度の狭い空間となっています。二人がやっと入れる空間でもあります。巨岩がゴロゴロと入り組んで積み上がった空間となっており、改めて艦砲射撃の破壊力の凄まじさに怒りを覚えるほどです。

そして、パズルを解くように複雑なルートを通らないとこの場所に至ることは出来ません。ここも空間が狭くて、土砂を運び出さない事には作業する場所さえ確保出来ませんでした。布バケツを利用して、土砂は上に運び出すことになりました。二人が直接収集して、バケツリレーをする為に上に二人待機して、さらに地表面で白布を広げて二人以上で御遺骨を分別する事になりした。 応援を求めるために、一人午前中の収集場所に戻っていきました。

二人が遺骨収集を進めており、応援者を含めて搬出態勢が出来たところで、土砂を順次上に運び上げました。土砂にはかなり細かい御遺骨が含まれていました。上下に搬出ルートを作っている為に、上に位置する人の足元の岩が崩れ下に落ちてきました。下に居る人は当然ビックリしました。さっそく落っこちそうな岩はあらかじめ撤去した事はいうまでもありません。

壕内の作業は、本当に危険と隣り合わせで作業を進める事も多いですね。長年大きな事故は発生していませんが、慎重に危険度を見極めながら作業を進めないと意外な事で事故に繋がるかもしれません。収集最終日は、慰霊祭があるので少し早めに作業を切り上げて、集合場所に戻らねばなりません。作業は完結していませんが時間も迫ってきたので、一応作業を終了して、残った作業は来年に持ち越しとなりました。

私達はその壕を出て、午前中作業した場所に戻りました。午前中の場所での遺骨収集もちょうど完了したようで、皆で現場単位の慰霊祭を班長が主導して執り行いました。

御遺骨発見場所でミニ慰霊祭を挙行

遺骨収集の様子1

私たちは二日間にわたり膨大な土砂を地表に運び上げ、細骨を漏らさず拾い上げました。この洞窟で果てなければならなかった日本軍将兵の苦難に想いを馳せ、私たちは出来る限りの慰霊の心持ちを表出しました。60余年の歳月本当にお疲れ様でございました。m(_ _)m

ミニ慰霊祭も終え、これで本年の遺骨収集作業そのものは終了です。来年も引き続き作業をする壕の位置などをしっかり頭に記憶し、来年はまずその壕を完全に収集する事になります。過ぎてしまえばあっという間の二日間でした。一年間で二日間の遺骨収集奉仕、決して多すぎる時間ではありませんが、それぞれに生活があり仕事もあります。たとえ二日間でも、集中して取り組めばかなりの成果が上げられる事は間違いありません。

「また戻ってきますよ!」と大地に語りかけ、沖縄のジャングルを後にしました。

遺骨収集二日目の最終日は、作業を少し早く切り上げて慰霊祭を執り行うことになります。あちこちに分かれて活動していた人々も、所定の時間が近づいて来ましたので集まって参りました。ほとんどの人が、服などが汚れていますし、疲れた表情をしています。けれど皆無事に二日間の勤めを無事に果たしたという安堵感で、ホッとした表情も併せて見せていますね。皆が接待所に準備されているサーターアンダギーなどを頬張りながら、収集の様子やジャングル内での出来事などを笑顔混じりに話し合っています。

またある人は、『お清め』の作業が少し遅れ気味なので、手伝ったりしています。そして御遺骨を見ながら、その御遺骨の於かれた状況などを推測して、戦時の亡くなられた人達の悲惨な逃避行を、我が身の出来事のようになりきって、悲しき御遺骨の結末を嘆いたりもしていました。

定刻が来たので、この度参加した全員で金光教の方式により慰霊祭を執り行いました。二日間だけの収集とはいえ、今回もかなりの量の御遺骨が発見されました。お清めされた御遺骨は段ボール箱に整然と入れられて、祭壇の上に置かれました。

祭主は、教職者である沖縄県那覇教会のHさんが勤めます。それぞれの御祈念は、私にとりまして相変わらず理解出来ていませんが、御霊の慰霊と祖先賛辞を含むことだけは理解しています。御祈念の言葉は同じでなくとも、私は沖縄戦で亡くなられた御霊様の心安良かなれと、私流に心の中で祈る事にしています。

確かに、発見される御遺骨は毎年減り続けている事も事実です。しかし、まだまだ発見され続けている事も事実なのです。私達は、御遺骨の発見がゼロであったなら喜んで遺骨収集の完結を語り、遺骨収集の終了を宣言するでしょう。でもその日は、少なくともあと10年以内には訪れそうにありません。

地図で見る沖縄南部の摩文仁の丘周辺は、本当に狭い範囲であります。しかし、実際にその南部地域のジャングルに入ったなら、その広大さに圧倒されることでしょう。二日間で捜索出来る範囲は知れたものです。その範囲から推計すれば、後何十年かかるかの見当もつきません。

慰霊祭も無事に終わり、私達二人は具志Yさんにお別れの挨拶をしました。私の妻は、二日間で何度も具志Yさんと話をする機会を持ったこともあり、今回が初対面とは思えないほど今も話が弾んでいるようです。

そして具志Yさんは、すごく私の妻と意気投合したとみえて、具志Yさんも著者の一人となっているある本をプレゼンとしてくれました。本の名前は、『閃光の中で 沖縄陸軍病院の証言』という名前です。推測するに、著者の一人として何十冊か家に置いてある蔵書の一冊を、妻のためにプレゼンとしてくれるという事だと思います。私達は、今は絶版となっていて、とても大切に保存されていた本を頂いたのだと感じました。

沖縄の戦争の悲惨さをいつまでも記憶に残すために、そして米兵による暴行事件や軍事ヘリコプターなどの事故、そして誤爆などの住民の巻き添えに日々さらされている沖縄県民の一番の願いである米軍などの軍事基地のない平和な島にしたいという願いを、私達が引き継いでくれるのではないかという期待も込められているに違いないと私は直感しました。

過ぎてしまえば、慌ただしくもあっという間に過ぎ去った三日間でした。一年間で、たったの三日!。少ないからこそ集中して取り組む三日間でもありました。

今は帰りの機中にあり。今年は妻が初めて遺骨収集に自らの意志で参加してくれた事もあり、私は二つの出来事に満足し満たされた気持ちで、飛行機の座席に座っています。ひとつは、自ら発見した御遺骨を初参加の妻に見せることが出来た事。ひとつは、遺骨収集を通じ沖縄の持つ歴史と、沖縄の課題とを妻と共有出来た事。

もしかしたら、私が発見した御遺骨の御霊様は私達と同じ席に腰掛けているかもしれないと思いながら…。
出来ればそうあってほしいと願いながら、機中での眠りにつきました…。

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