令和04年(2022年)沖縄遺骨収集奉仕活動
- 1月12日(水)故具志八重さんのお墓参り、戦没者遺骨収集情報センターご挨拶
- 1月13日(木)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月14日(金)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月15日(土)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月16日(日)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月17日(月)慰霊巡拝(申し訳ありません。非公開での調査・遺骨収集を実施しました)
- 1月18日(火)慰霊巡拝(申し訳ありません。非公開での調査・遺骨収集を実施しました)
- 1月19日(水)慰霊巡拝(申し訳ありません。非公開での調査・遺骨収集を実施しました)
- 1月20日(木)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月21日(金)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月22日(土)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月23日(日)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
1月20日(木) 摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
今日の天気予報はズバリと「晴れ」です。予想最高気温18度、降水確率は0%、0%です。今日は四日ぶりにジャングルに入りますが、雨の心配は不要との事で安堵しています。本日朝の慰霊巡拝は、「南北之塔」、「捜索二十四聯隊慰霊之碑」を訪ねました。
「南北之塔」は、県道250号線沿いにある真栄平集落の少し外れた場所にあります。同塔は是非訪れて欲しい慰霊塔ではありますが、初めての方は容易に発見できないでしょう。私も最初は苦戦しました。元より案内板は一切ありませんからね。ルートとしては、県道250号線から向かう事になりまして、県道からは複数の入口がありますので到達ルートは若干違ってきます。いずれにしても、同塔は真栄平集落の背後、緩い斜面に沿うように存在しますので、目標物として、そうした緩斜面でクワデーサーの樹木を含む一塊の森を探して下さい。その一塊の森は単独で存在しているので、見つけさえすれば外れは少ないような気がします。早期発見出来る事を祈りま~す。(^o^)
「南北之塔」の横には「アバタ壕」があり、米軍の馬乗り攻撃で大勢の人達が亡くなった壕でもあります。より広範には、沖縄戦末期の真栄平では多くの沖縄県民と日本軍将兵が戦禍に倒れました。沖縄戦後、収容所から戻った真栄平区民らは、まずは屋敷内や道路・田畑に散乱する遺骨の収集から始めねばならなかったと言います。
真栄平集落の端に集められたご遺骨を「アバタ壕」に「真栄平納骨堂」として納め埋葬しました。昭和41年には、区民や県外の元日本兵や遺族らの寄付で同納骨堂を改築し、改めて「南北之塔」と命名しました。また改築に伴い壕内に納められていたご遺骨の一部は平和記念公園にある国立戦没者墓苑に移されたという話です。
真栄平付近一帯は、北海道を拠点とした第24師団歩兵第89連隊の将兵が最期を遂げた地でもある事から、塔名の「南北」は、北は北海道から南は沖縄まで、全国の戦没した将兵・住民を等しく祀ってあげたいと言う地元の人々の強い願いが込められているとの事です。
「南北之塔」
この写真は農道から撮影しています。即ちこの風景に出会ったら成功です。上掲で “緩斜面でクワデーサーの樹木を含む一塊の森を探して下さい” と書きましたが、そんな雰囲気ですよね。同塔の背後にも農道がありますが、そちら側から接近した場合でも、塔こそ見えませんがクワデーサーの樹木を含む一塊の森として見えるはずです。因みここからでも、「南北之塔」は見えていますね。
沖縄の人々は真栄平を「メーデーラー」と読むんですよね。30年以上前の話ですが、私達が「真栄平(まえひら)にある南北之塔」と沖縄の人に訪ねても意味が通じず、南北之塔の所在が一向に解らないという時期がありました。今では笑い話ですけどね~。(^o^)
霊地には二つの慰霊塔・碑があり、「南北之塔」と「捜索二十四聯隊慰霊之碑」が並ぶように建立されています。
「クワデーサー」の木が植えられています。和名はモモタマナ(桃玉名)です。同じ沖縄でも離島ではクバディサーと呼ぶ地域もあるそうです。沖縄では珍しく紅葉する落葉樹でもありますね。眼前のクワデーサーも、三十年ぐらい前は小さな木でしたが、毎年グングンと大きく育っています。沖縄では紅葉する樹種が少ないですが、クワデーサーは紅葉の筆頭かも知れません。ただ今年はあまり紅葉していない状況ですね。
「クワデーサー」は、葉がおお大きいので木陰を作るという事でしょうか、沖縄では古くから村落の集会所や墓地などで植えられています。また果実は食用になりますし、何よりヤシガニの好物だそうですよ。沖縄では死者の魂を鎮める木とも言われ、この木を “人の悲しみや涙を飲んで育つ木” と言われていているそうです。松永さんも「人の泣き声を聞いて成長する」と仰っていました。「クワデーサー」は、平和の礎にも沢山植えられています。平和の礎に、かくも多く植栽されているのは、陽射しの強い時節に参拝に訪れた方々へ日陰を提供するという意図を持った心遣いでしょうかね。
落ちたクワデーサーの葉ですね。沢山落葉となって霊地を埋めています。
なんだろう? と思われた方も多いと思いますが、クワデーサーの実ですね。落ち葉の中にポツンと一個ありました。ヤシガニの好物だそうですよ。(^o^)
「南北之塔」
「南北之塔」です。真栄平では、特に沖縄戦末期に於いて多くの避難民と日本軍将兵とが犠牲になりました。そして戦後に収容所から戻った区民らは、まず屋敷内や道路・田畑に散乱する遺骨の収集から始めねばならなかったといいます。集落内から収集されたご遺骨をアバタ壕内に安置したそうです。そこを区民等は「真栄平納骨堂」と呼びました。そして昭和41年に、区民や県外の元日本兵や遺族らの寄付金により最初に建立された慰霊塔を修繕・改築し「南北之塔」と命名しました。改築に伴いアバタ壕に安置されていたご遺骨の多くは、平和記念公園の国立戦没者墓苑に移されたという話です。
真栄平一帯は、北海道を拠点とした第二十四師団歩兵第89連隊の将兵が最期を遂げた地でもある事から、塔名の「南北」は、北は北海道から南は沖縄まで、全国から動員され戦没された将兵、そして地元住民を等しく祀ってあげたいという、地元の人々の強い願いが込められていると言います。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
所在地ご紹介
「駐車場・トイレはありません。路上駐車となります」
「南北之塔」の碑文です。テキストに起こしました。
【南北之塔 碑文】
沖縄戦終焉の地、ここ真栄平は最も悲惨な戦場と化し、多くの犠牲者を出した所である。当時の人口は九百人の中、生存者はわずか三百人余りであった。沖縄の戦後は遺骨収集から始まったと言われ、収容所から帰った区民も直ちに屋敷内や道路、田畑、山野に散らばっていた遺骨の収集をはじめた。
この塔には、真栄平周辺で戦禍に倒れた区民をはじめ、中南部からの避難民、軍人等、数千柱の身元不明者の遺骨が納められ、その御霊が祀られている。
この塔は終戦間もない昭和21年、真栄平納骨堂として、世界の恒久平和の願いを込め、真栄平区民によって建立された。昭和41年、真栄平遺族会や篤志家のご芳志を受けて改築を行い、現在の南北の塔が完成された。
毎年6月23日には、戦没者のご冥福をお祈りするとともに、平和の尊さを子々孫々に伝える行事として慰霊祭が行われている。
平成元年3月 真栄平自治会
「捜索二十四聯隊慰霊之碑」
「捜索二十四聯隊慰霊之碑」です。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
「捜索二十四聯隊慰霊之碑史」碑文です。テキストに起こしましたのでご覧下さいませ。句読点ではなく一文字の空白で段落を表しているので、少し読みにくいかも知れませんが、原文ママで表示しました。
【捜索二十四聯隊慰霊之碑史】
昭和19年7月連隊に動員下令、同年10月17日駐屯地満州東安省密山を出発 同年8月3日沖縄本島到着読谷山村字波平に駐屯波平瀬名波長浜に至る海岸線に陣地構築 同年12月沖縄防衛作戦変更により連隊は島尻郡真栄平に異動連隊本部を真栄平にき大度より米須に至る海岸線に向い陣地構築国の防衛に任ずるも 同年20年4月1日米軍嘉手納より波平に至る海岸線より上陸連日激戦を転回 同年4月24日首里防衛戦参加のため連隊は辨ケ岳後方大名部落に転進連日棚原西原幸地掛久保宮城方面に斬込隊を出動させ多大な戦果をあげ部隊個人感状数多く受け前田方面えの夜襲17戦辨ケ岳での陣地戦と勇戦敢闘せり同年 5月29日軍は 島尻地区の新防衛線に後退連隊は師団後退の後衛部隊として最後迄敵と対時良く任務を達成最後の引上部隊として真栄平陣地に後退同年 6月 1日配備完了連日斬込隊を敵陣に出動さす同年 6月18日175.5 高地えの夜襲占領翌19日同陣地で連隊主力をもっ平に至る海岸線より上陸連日激戦を転回同年 6月21日真栄平66高地陣地に於いて連隊長以下残余の将兵連隊長自ら兵の銃を取り敵を激撃全員壮烈な戦死をとげた連隊長以下戦没将兵 400名と連隊と運命を共にした真栄平住民連隊医務班看護婦炊事班勤務の炊事婦防衛隊員等約 200名の英霊に 子々孫々に至る迄慰霊の誠を捧げ2度とあの悲惨な戦争を起こしてはならない永遠の世界平和を念じここに象徴の碑を建立した
捜索二十四聯隊山三四七八部隊
生存者 陸軍伍長 渡部 満
「捜索二十四聯隊戦没者碑」です。
ご覧のように、個人の慰霊碑も数多く並んでいます。
「アバタガマ」
写真では解りにくいですが、アバタ壕の壕口を写しています。
「アバタガマ」入り口です。壕口は小さいですよね。同壕は戦後一時期、仮納骨堂として地元集落に散在していたご遺骨を収めた場所でもありました。壕の奥行きは曲がっている事を加味して40メートルぐらいでしょうかね。壕は斜めに下ってカーブを描いていますから、壕内部は思いの外広く感じます。また川というほど水流はありませんが、梅雨の頃には水も湧き出るのではないかと推測される水流の痕跡があります。
それでは「アバタガマ」に入って見ましょう。壕口からは結構な急勾配となっているので、特に雨の後などで言える事ですが、革靴等では滑りますから要注意です。
壕口から少し入った場所から撮影しました。緩斜面に大きな岩が 一個埋まるようにありますよね。そこまでは比較的緩斜面なので楽に行けます。慰霊巡拝で訪れた際は、その岩の部分までは比較的安全に降りられますし、見晴台のように壕内部が展望出来る場所でもありますから、ぜひそこまで降りて参拝してくださいませ。
壕口から3mぐらい降りると左側には、ご覧のように、セメントで固めたような場所があります。セメントはまだ白い事から、近年セメントで固められたのが解ります。元々ここは壕口でしたが、壕口をセメントで固めて入れなくしたと言う状況です。金光教の遺骨収集の時に聞いたのですが、この壕内に納められているご遺骨は、身元が判明している区内戦没者のご遺骨なので、壕内には立ち入らない事と注意されていた場所でもあります。
壕口付近で撮影している間に、ご覧のように、急速にカメラレンズが曇ってしまいました。そうなんです。壕の奥から生暖かな風が吹き上げてくるのです。カメラレンズの温度上昇を待ちましょう。
壕内部の真っ正面の様子です。壕の底部でもありますが、結構広いですよね。天井面は堅固な一枚岩の岩盤となっているので、艦砲など集中砲火を浴びてもびくともしませんね。左右には写真に収まっていない壕空間部分もあるので、人々が滞在出来る幅は、凡そ40mぐらいはあるはずです。一つの懸念は、壕内部右側には、冬場は乾いているのですが水が流れ出る痕跡があるので、沖縄戦当時は梅雨時でしたから、もしかしたら壕底に水が湧き出ていた可能性もあると思います。
今は比較的整然としている壕内の様子ですが、令和2年(2020年)の巡拝から壕内は整然となりました。散乱していた岩や土砂が比較的綺麗に片付けられたのです。大勢での集中的な遺骨収集が為されたようです。令和元年(2019年)と比較するとよく解るのでご紹介します。
《過去の写真ご紹介》
令和元年(2019年)に撮影した同じ場所の写真です。ストロボ光で撮影しましたが、岩や土砂が散在しているのが見て取れます。何十年もこの状態でしたから、壕底が整然と片付けられた事にビックリしています。
過去写真掲載はここまでです。
壕底の右側部分を写しています。ご覧のように、壕底は大きな岩もなく整然となっています。昔は岩だらけでした。写真右側は更に壕空間が続いています。
壕底の左側を写しています。左側はここで行き止まりとなっています。昔と比べ、この辺りも小岩が無くなり整然としていますね。
《過去の写真ご紹介》
※ 「アバタガマ」における金光教遺骨収集奉仕活動では、御遺骨の発見と共に大きなドラマがありました。
信者さんである右上に写っている栗平さんが、「○○○○」という名が記された 「黄色い石けん箱」を、昭和56年の遺骨収集奉仕活動において壕内で発見したのですが、驚く事になんと石けん箱に記された名前の兵士と栗平さんとは、昭和19年8月まで北九州市の小倉にある北九州防空隊に所属した戦友だったのです。その戦友は同年8月末に転属となり、以降連絡は途絶しましたが、二年前に戦友会を催す案内状を送ったところ、戦友の長男さんから「父は沖縄で戦死しています」との通知が届いていた事を発見し、早速黄色い石けん箱発見のお知らせをしたとの事でした。
そうした経緯がありましたが、その前段として「黄色い石けん箱」をぜひ御遺族にお届けしようと、戦友である栗平さんを始め、金光教のご本部、伊方教会の品川先生、銀座教会の石原氏による懸命な調査が行われたようです。そうした懸命な努力を含めて、遺品である「黄色い石けん箱」は、38年ぶりに無事御遺族の元へ帰ることが出来たのです。
「父の戦友であった栗平様をはじめ、多くの方々のご厚意により、私を捜し出して下さり、銀座教会で私の手元に遺品を返して下さったのが、母の法事の前日でした。法事の日に兄弟親戚に見せ、皆で涙しました」 と、御遺族が語っていたのが印象的でした。
この写真は、遺族である息子さんご夫妻が慰霊のために、黄色い石けん箱が発見された「アバタガマ」を訪れた際に撮影したものです。一番左に写っている後ろ姿の男性と、写真中央右寄りに写っている女性が御遺族です。
黄色い石けん箱を発見した戦友の栗平さんや、左側に写っている沖縄戦で戦った石原さんが、沖縄戦当時の日本軍の戦況や米軍による馬乗り攻撃された際の、壕内の惨劇の様子を遺族に説明しているところです。
ご遺族の○○さんは翌年から金光教の遺骨収集奉仕活動に参加されるようになりました。御遺族の○○さんは、その熱意溢れる奉仕活動を長年続けるなかで、多くの御遺骨を発見されもしました。
ご遺族の感謝の念は、○○さんが大病されて医師の勧告により訪沖出来なくなるまでの10数年間もの長きにわたって、金光教沖縄遺骨収集奉仕団の一員として、遺骨収集活動を続けられた事に、それがよく表出されていると思えます。病気が悪化し最後の段階では、病を抱えながらも身体が動く限り沖縄遺骨収集奉仕活動に参加し続けたいという、真摯な言動と姿勢がとても印象的に私の脳裏に焼きついているのです。
「南北の塔」のある霊地から南方向を見ています。大渡海岸辺りが真っ正面と言う感じで、ここから大渡海岸までおよそ2.5kmです。ここからは太平洋の大海原が展開しているのですね。また地形的に海に向かって緩やかに下っているのが解りますね。また写真右寄りに束里の清掃工場の白い煙突が見えますね。
調査・遺骨収集作業開始です
今日はほぼフルメンバーが参加される事となりました。
沖縄戦戦没者のご冥福を祈った後は、集合写真で皆さんをご紹介しています。右から吉井さん、NPO法人沖縄鍾乳洞教会理事長の山内さん、松永さん、そして福岡さんです。また後ろに居られるのは三浦さんです。山内さんと松永さんは、私達が先日入った壕内に大きな鍾乳石の氷柱が一柱立っているのをご紹介しましたが、山内さんと松永さんにその話をしたところ、見たいとの事で本日ご案内する運びとなりました。
今からジャングルに入ります。
目的の壕には複数のルートから行ける事を確認しています。ですから本日は、一番平坦なルートと思われるこのルートを選びましたが、結構アップダウンがありますね。(^_^;)
目的の壕に入りました。松永さん等を案内しています。
目的の鍾乳石の氷柱にご案内しました。氷柱のユニークな形状に山内さんも驚いていました。この氷柱が形成されるのに万年の単位が必要との話でした。因みに山内さんは洞窟探検の専門家で、南城市玉城前川にある約30万年の歳月を経て創られた全長5,000mもの長さを誇る「玉泉洞」を発見された方でもあります。
山内さんもまた、この壕の大きさに関心を持たれ、摩文仁随一の大きさですと説明すると驚かれていました。また短い時間ですが、山内さんの経験された洞窟探検の話を少し聞けたので嬉しかったです。(^o^)
山内さんひ一通り壕内を探索されて、30分程でお帰りになりました。ありがとうございました。(^o^)
山内さんを最寄りの道路までお送りして、戻ってきたら壕の外で三浦さんが崖下を探索していました。三浦さんが居られる地盤面は、直径20mぐらいの範囲が10m以上の深さで落盤したように見えますよね。因みに巨大な鍾乳石の氷柱がある場所は、三浦さんが居る場所の、左右に坑道が伸びている構造となっており、その大きさが解ろうというものです。壕口間の距離をみてもその巨大さが目視出来ると言う状況です。
サイト管理人も再び壕内に入りました。吉井さんと三浦さんに壕内の状況を把握してもらうために、一緒に壕内で探索作業を続けましょう。
福岡さんが居ませんね。更に奥に居られるのかな?
福岡さんが居られました。
金属探知機の反応があるとの事で掘っているようです。
福岡さんが作業している直ぐ横には、革製の遺品がありますね。形状からして将校用背嚢とかであるかも知れませんね。
軍靴が二足ありますね。
少しずつ移動しながら探索作業を続け、壕を出る時は別の壕口から出る事にします。
福岡さんが木材を見つけました。坑木はこの壕には必要ありませんから、他の用途で壕内に持ち込まれたと思われます。
印象深い鍾乳石の氷柱ですね。
福岡さんが探索しています。
この鍾乳石の氷柱も凄いですね。
氷柱の下の方を撮影しました。
更に近づいて撮影しました。どうしたらこんな形状に仕上がるのでしょうか‥‥。実に不思議ですよね。今は岩肌も完全に乾いている状況です。
軍靴がありますね。
残念ながら、ご遺骨はまだ一片も発見されていません。
何カ所か土の部分を掘ってみましたが、ご遺骨発見には至りませんでした。そろそろ時間なので壕の外に出ましょう。本日のメイン作業は別の所にありますからね。
懐中時計を見つけた壕がありましたよね。今日はその壕を徹底して調査する予定です。ここから300mぐらい離れていますから、まずは全員でその壕に向かいます。蔓植物が茂るジャングルを抜けなければならないので、時間が掛かるでしょう。
目的の壕に到達しました。先日ご紹介した通り、この壕から沢山の軍装遺品が見つかりましたよね。ですから、もしかしたらこの壕で無くなられた将兵も居られたかも知れません。平和祈念公園で買い求めた生花を手向けて、まずは全員で戦没者のご冥福をお祈りしました。
作業の第一段階は、岩を積み上げる予定地の探索作業をする事ですね。そうした場所にご遺骨や遺品が無いことをしっかり確認します。福岡さんがそのチェックをして下さっています。
福岡さんと三浦さんの眼前の場所が、岩を積み上げる場所となります。
まずは大きい岩から積み上げていきます。大きい岩は特に手前側に積むと、奥に細かい岩を投げ入れても、手前に落ちてこないので石垣作りがスムーズに運びます。
まずは大きい岩を優先して移動します。
大きい岩をどんどん運びます。
お~。あっという間に大きい岩が片付いてしまいましたね~。(^o^)
効率よく探索作業を行う為にも、下準備は大切ですし丁寧にするのが肝心ですね。
大きな岩を積んだ所はこんな感じです。小さな岩は奥の方へ放り投げればオッケーですよね。
岩を移動する作業もほぼ完了したので、探索作業の開始です。皆さんが思い思いの場所に散って、クマデなどでご遺骨や遺品を探し出しました。
吉井さんはクマデなど作業用に、二種類の道具を準備されたようです。
皆さんが思い思いの場所で、そして思い思いの姿勢で探索作業を開始しました。
三浦さんです。三浦さんは膝をついての作業です。サイト管理人も膝が痛くないのかなと怪訝に思いましたが、三浦さんの膝をよ~く見て下さい。黒っぽい物が見えますよね。実は黒いプラスチック製の膝当てがついているのです。ズボンに膝当てが最初から取り付けてあると言う事で、そう言うズボンが売られていると言うのは初めて知りました。(^o^)
一段下の坑道にある、比較的原型を留めている軍靴です。すでに先日発見していた遺品ですが、これから上の壕口まで持ち上げます。
同じく、一段下の坑道にある遺品類ですね。これらも漏れなく持ち上げる予定です。
ここが、一段下の坑道へ降りるための入り口です。移動出来る岩は無いので現状以上に坑道を広げられない事から、坑道の大きさは沖縄戦当時も同じ形状であったと思われます。
一段下の坑道へ降りるための入り口から、外を見るとご覧のような感じになりますから、一段下の坑道に居ると至近弾を浴びても、安全性は格段に上がるのが解りますね。
狭い坑道を降りると、今度はご覧のように、水平に移動する事となります。
一段下の坑道で探索作業をしている福岡さんを、上にいるサイト管理人が福岡さんを撮影しています。
同じく上から福岡さんを撮影しています。福岡さんが岩の割れ目を見ていますが、人間が入れる寸法ではないようです。
福岡さんが一段下の坑道にある遺品類を持ち上げてくれました。サイト管理人が上で受け取ります。
福岡さんが上げた遺品類を三浦さんが受け取ります。
すでに発見されていた遺品類を上げた後は、福岡さんが更に土を掘って遺品を探します。
上から土砂が落ちたのでしょうか、結構土が堆積しているようですね。
福岡さんはとても目が良くて、小さなボタンなどもすぐに見つける眼力があります。
「あ~」と福岡さん。何か見つかったようです。
大きな耳かきのように遺品が出てきました。初めて見ました。
耳かきのように物は、ご覧のように長さが約12cmありますね。耳かきではなく、薬を調合する道具でしょうか?
これまでに収集された遺品類です。
角度を変えて撮影してみました。
原型をかなり留めている軍靴ですね。軍靴の色合いも目で見た色合いとほぼ同じです。デジタル写真は色温度が違って記録される場合がありますが、この軍靴の写真の色温度は適正です。軍靴は牛革製である陸軍の昭五式編上靴だと思われます。綿糸で縫製されていますが、縫製部はまだしっかりしていますね。アルミ製のハトメ五個は、左足のみ残存しています。靴底の鋲もかなり残存しています。
同じく、真上から撮影してみました。
ガラス瓶も二個見つかりました。
被甲(ガスマスク)の連結管が写されていますが、非常に柔軟性が維持されている事に驚きを隠せません。これは非常に珍しいと思います。もう一つは、飯盒の蓋ですね。相当劣化が進んいてボロボロですね。
右側は、前にも書きましたが弾薬盒(弾薬パウチ)の蓋部分だと思われます。側面に設けられた金属リベットと蓋を留める革帯が見えています。左側の革製品は、戦闘用ヘルメットの内装材ですね。ヘルメットにこの部材が三個使われています。
色んな種類のボタンが出てきましたね。各種ボタン類と被甲(ガスマスク)に使用される、雲母のように材料で製作された曇り止め板ですね。この曇り止め板もまた、戦場で数多く見つかる遺品でもあります。
はとめハトメ類ですね。
細長い容器で、一つはガラス製、もう一つは金属製と思われます。金属製容器も蓋がされています。蓋は錆びて開ける事は出来ませんでした。ガラス瓶は逆に蓋がありませんでした。
ガラスや陶製容器も幾つか見つかりました。
石けん箱も見つかりました。残念ながら記名はありませんでした。以上でこの壕での探索作業は終了です。壕を移動します。
次の壕に移動しました。壕と書きましたが、ご覧のように、巨大な岩盤の下にある空間での探索作業となります。すでに三浦さんが作業しています。
福岡さんは岩盤の下ではなく、外部に着目して岩を除けて沖縄戦の痕跡を探しています。実際に壕内などは繰り返し調査収集されますが、外は見過ごされやすいですね。福岡さんの前に堆積する岩石は、艦砲弾などの砲撃で、上から破壊された岩石が落ちて堆積したものですから、そうした岩を除けるとご遺骨や遺品が見つかる可能性が高いと思います。
吉井さんは、人が一人入れるぐらいの窪地を探索しています。
この地域は巨大な岩盤の下に、ご覧のような空洞が出来ています。こうした石灰岩の空洞化は、ここだけでなく、かなり広範な場所で見られる現象です。そしてこうした空洞により、沖縄戦を生き延びたと言う将兵や避難民も多かった事でしょう。そう思えるぐらい数多く散在しています。
三浦さんがクマデを用いて地面を探索しています。
吉井さんです。岩穴の延長線上で土砂を掘り起こしています。
福岡さんが作業しています。福岡さんの前には数人が入れる壕が口を開けています。
福岡さんが壕の中に入って探索作業をしています。
吉井さんも、この堆積した土砂の中から遺品が出ているようです。
右側の壕で福岡さんが、左側の壕内で三浦さんが作業しています。
福岡さんが作業している壕の様子です。ご覧のように、結構広い空間であるのが解ります。天井は一枚岩の岩盤ですから、至近弾さえ浴びなければ安全な場所ですよね。ここでボタンなどが沢山見つかっていますから、金光教の青テープこそありませんが、恐らくご遺骨も沢山あったのではと推測しています。
三浦さんが作業している壕も、至近弾さえ浴びなければ安全な場所と言えます。また写真右側には石垣のように岩が積み上げられています。これは遺骨収集の時に積み上げたと言うよりも、ここに避難してきた将兵や避難民の方々が爆風よけとして積んだのではと思われます。
積み上げられた石垣の背後には、ご覧のように、地下に潜る壕口が見えています。この壕口を守る為に石垣を作ったのですね。
壕に入ってみました。奥行きはあまりありませんでしたが、それなりの広さがありますね。
吉井さん、福岡さん、そして三浦さんが収集した、現時点での収集された遺品類の様子です。
襦袢(シャツ)のボタンが多いですね~。よく見ると色んな種類のボタンがありますね。
赤いのも穴が開いていますから、ボタンだと思われます。女性が着ていた服のボタンでしょうか? その左には地下足袋のコハゼが写されていますね。また赤いボタンの上側に、アンプルの先が写されていますね。これは本当に小さな物ですが、こんなのも見つけてしまうのですね。皆さんの集中力に脱帽ですよ。(^o^)
櫛がありました。櫛や赤いボタンがあったと言う事で、この壕には女性が居られたと断定して良いですね。
三浦さんが作業しています。
福岡さんが作業しています。この壕は横穴と呼べそうな空間ですが、ご覧のように、かなり広いです。更に奥がある事から何十人と入れそうですよね。
吉井さんが作業しています。地盤は土が主体ですから、居心地は最高に良かったかもしれません。地盤も少し勾配がありますが、水が流れたような形跡はないので、雨の日も居心地は良かったかもです。
現時点での収集された遺品類の様子です。
襦袢(シャツ)のボタンが更に増えました。
吉井さん、福岡さんがそれぞれの場所で作業しています。
三浦さんが作業しています。
壕の全面はご覧のように、低いレベルで開口しています。ですから至近弾を浴びると、ここは厳しいですね~。襦袢(シャツ)のボタンが多い事から、艦砲弾の破片を浴びて無くなられた将兵が多かったかも知れません。
福岡さんです。金属探知機の反応も結構ありますね。金属の遺品も多くなってきました。
三浦さんが作業しています。
吉井さんが作業しています。
現時点での収集された遺品類の様子です。
銃剣が発見されました。金属探知機の有用性を再認識しましたね。銃剣は歩兵にとって侍の刀と同じように重要なものとされ、小銃を持つ持たないに関係なく兵士に一挺ずつ支給されたと言います。ですから遺骨収集でも、この銃剣をベルトに吊り下げる革製品も結構な確率で目にする事となります。
ご遺骨発見です。(^o^)
頸椎に含まれる骨ですが、喉仏と言われたりしていますよね。
バックルも数が増えてきました。やはり多くの将兵が亡くなったに違いありません。
紐のような物は金属ですが、何でしょうか?
福岡さんが作業しています。
吉井さんが作業しています。
瓶類も発見されました。
最終的に、この現場で収集された遺品類の様子です。繰り返しになりますが、やはり多くの将兵がこの壕で亡くなったに違いありません。参加者全員で戦没者のご冥福をお祈り致します。