平成16年(2004年)沖縄遺骨収集奉仕活動
- 2月13日(金)初参加の妻と南部戦跡を巡拝
- 2月14日(土)第31回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
- 2月15日(日)第31回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
2月14日(土) 第31回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
妻は初めての参加という事もあり、集合時刻よりも早めに集合場所に到着しましたが、すでに多くの参加者が集まっていました。以前は、総参加者400人から500人の規模で遺骨収集を行っていましたが、収集する御遺骨も少なくなってきた事により組織の規模を縮小し、主催組織も沖縄那覇教会に移管して二年目ですが、今年は約70人の参加がありました。前は北海道などからも多数の人が参集しましたが、今回は埼玉県からの私達が一番遠い場所からの参加となったようです。
私達を含め、東京などからの参加者を中心に10名で、『一班』として活動することになりました。遺骨収集の開始を前に、妻にどうしても会わせたい人がいました。具志Yさんという方です。彼女は現在86歳、毎年この金光教遺骨収集奉仕に参加されています。彼女は、ひめゆり学徒隊などがいた避難壕、沖縄陸軍病院第3外科壕からの数少ない生存者の一人です。解散前は、看護婦長として従軍していました。
1945年(昭和20年)6月19日、第3外科壕は米軍による毒ガス弾攻撃を受けました。壕内は悲鳴と嗚咽とで修羅場と化しました。生き残ったのは看護婦25人のうち6人、そして学徒隊51人中5人だけでした。彼女は奇跡的に生き残りましたが、壕の外に這いだしたところで、待ち構えていた米軍兵士の銃撃を受け太ももを打ち抜かれて重傷を負ってしまいました。
現在もその銃弾の破片が体内に残っているそうで、寒くなるとそこが痛むと嘆いていました。私は、そんな彼女から暇があれば沖縄戦の惨状を何度も何度も聞きました。
こうした経緯があり、具志Yさんとは何か親子のような気持ちで私も接していました。ですからち、ご高齢だけに毎年ハラハラしながら、初日の朝まず彼女が来ているかどうか探し回ります。そして、来られている事が判るとホッとしてご挨拶するのが、私の通例でした。
今朝も、彼女を捜し回りました。そして来られていました。年を経る毎に身体も小さくなって、前屈みの角度も増しているように見えますが、やはり沖縄の人らしく小さくとも気持ちは元気そのもの、明るい笑顔で今年も会えたという喜びを分かち合いました。
一年ぶりのあいさつが終わって、私は妻が今年は来ていると伝えて紹介しました。私達は平成2年に結婚し、新居で新しい生活をスタートさせたわけですが、結婚して数日後、具志Yさんから結婚祝いとしてカードと見事なランの花が届けられました。
具志Yさんとは、当時でもすでに親子のような関係を構築していましたが、まさかこのような形でお祝いをいただけるとは夢にも思いませんでした。私は、具志Yさんの話題を日常生活の中で、時々取り上げていましたので、妻もまずそのランの花プレゼントのお礼から話を始め、十年も前から知っていたような雰囲気で会話を続けました。そして、やはり女性同士なんですね。すぐに意気投合して話が弾んでいます。集合時刻となり、集合の合図がありました。それでは、後でゆっくりと話をしましょうという事でその場を離れました。
私達『1班』全員が集まり、挨拶を交わし簡単な紹介をし合いました。規模を縮小してからは、初参加の人は少なくベテランが主体となって活動するようになりましたので、語らずともやるべき事が判っている人達ばかりですから、皆が集まり道具を手にしたなら、時を経ずして探索予定地にマイクロバスなどで移動を開始しました。
今回の探索地は、摩文仁之丘に広がる各県の慰霊塔の南側という事です。眼下には沖縄南端の海岸線も木々の間から見通すことが出来ます。
公園内には各県の慰霊塔の他、国立沖縄戦没者墓苑も目の前にあります。
ここは、平和祈念公園内にありますので、公園内はもちろん整備された道路や草地になっていますが、探索のためにひとたび雑木林を切り開きながら雑木の中に入って行くと、そこはまさしく熱帯ジャングルそのものなのです。遺骨の探索どころか、自分の身体を前進させるのに苦労するほどの熱帯植物が縦横に茂っています。この南端部一帯は、断崖絶壁の岩場も数多く、かなり危険を伴う場所であることは間違いありません。
であるが故に、一般的な遺骨収集団は、事故やケガを恐れ、あまりに危険な場所は避けてきました。ですから、このあたり一帯はまだまだ御遺骨が発見される確率は高い場所なのです。
私は妻に、自分はサッサと探索に駆け回るから、他の班員とはぐれたりしないように周りを見ながら行動するよう伝えました。妻は自分と一緒に行動するものとばかり思っていたようで、その言葉に心細そうに不満を述べましたが、初心者と一緒では時間内フルに探索出来ませんので、冷たいようですが別行動になると告げました。
私自身も、班の行動区から外れてしまうと迷惑をかけてしまう事になるので、行きつ戻りつで他の班員の行動を把握しながら、単独でより広範囲の探索を続けました。探索時最も大切なポイントは、“自分が兵隊もしくは民間人ならどう動くか…” を常に頭に描き山野を見通す事が大切です。その時の基本的考え方は、如何に米軍による攻撃や爆撃から身を守るか!という事です。
当時の戦況は口ではどうでも言えますが、あくまで『首里』を離脱してからは何時の時も逃避行なのです。軍としても個人としても、「組織」と「命」を守るために逃げ回っているのです。「負け戦」という言葉がありますが、それがどれほど惨めで厳しいものであるのかは体験がないので、軽くは語れませんが、まともな食べるものや飲み水もほとんど口にすることが出来ず、着るものもボロボロ、艦砲射撃や銃による攻撃などで少なからず手足に傷を負い、命からがら逃げ回り、今を生き延びることに精一杯で、明日の命の見通しも立たない…。
「ひもじくて苦しくて、生きているより死んだ方がはるかに楽…。」そんな悲惨な逃避行をする人間になりきって、この草木茂るジャングルや巨大な岩陰を鋭い眼力で見通すのです。
ここ摩文仁周辺は、鉄の雨と言われたほどの艦砲射撃による攻撃で草木は吹き飛ばされ、巨大な岩肌が石灰岩特有の白一色の岩肌となって露出していたと言われます。現在の大きく茂る草木のジャングルに惑わされる事無く、当時の凄まじい戦時状況をしっかり頭にイメージしながら探索することが大切なのです。
探索を開始してから1時間も経過したでしょうか。ある縦穴に入ってみることにしました。人間がやっと入れるほどの高さ2メートルの縦穴の底面に降りましたら、そこから横に壕穴が伸びていました。すでに班員が二人ほど中に潜り込んで探索していました。兵隊さんの遺品も見つかっており、御遺骨発見のかなり確率が高いようです。奥が深いので探索には時間がかかると語っていました。
私は、班員とそのような会話をしながら縦穴の底面でしばしクマデを動かしていましたが、よく見ると反対側に少し隙間があるように見えました。とても人間が入って行けるような隙間ではありませんが、直感的に上からの土砂で埋もれていると感じ、掘ってみる価値があると考えました。 一生懸命掘っては土を上に投げ捨てる作業をしばらく続けると、やはり前進出来るスペースがあることが判りました。
何か胸がときめくものを感じました(^o^)。人間が這いつくばって前進出来るレベルまで掘り下げましたら、懐中電灯を手に一気にホフク前進を開始しました。2メートルほど進むと大きく空間が広がっているのが見えました。そして、しばらく進むと立つことが出来ましたし、壕はかなり奥深く展開しているのが見えます。
本来なら、この時点で一度壕内から出て、外の誰かにこの穴に潜る旨伝えて再度潜る必要があります。もちろん、複数の人間が同時に入るのであればその限りではありませんが。
もしも壕内で酸欠やガスにより失神でもしたなら、行方不明となってしまうかもしれません。そうなったら私は行方不明者という事になり、皆に迷惑をかけてしまうことになりますので、壕に入るときは必ずその旨伝えてから入らなければなりません。しかし、この時は何故か胸が高鳴り、その事をすっかり忘れてしまいました。壕内は、少し風が流れていることを感じていました。入り口は二カ所ある可能性があると感じ、酸欠にはならないだろうと考えたこともあり、そのまま誰にも語らず前進することにしました。
兵隊さんの軍靴の一部が散見されます。これら遺品があるところは、御遺骨発見の確率が高くなります。必ず見つかると言うことではありませんが、当時兵隊さんなどが拠点としていた事を示すわけですから、より丹念に探索する価値があるという訳です。入り口からは40メートルほど前進したでしょうか、軍靴や小銃の装填された銃弾は発見されますが、御遺骨は全くありませんでした。そして目の前は、大きく開口部が開かれており太平洋の海原が岩の陰から見えるようになってきました。「残念!」、確率はかなり高いと思ったが捜索された後だったのかなとガックリしかけていたところ、更に横穴が展開しているのが見えました。
そして懐中電灯で前方を照らしましたら驚きました。とても信じがたい光景でした。一柱や二柱ではなく数人規模の御遺骨がそこには散乱していました。もちろん59年前の終戦時のままのはずです。
御遺骨発見!
個人的には過去最大規模の御遺骨発見となりました!。
長年遺骨収集を続けていて、これほどの規模の御遺骨を発見したのは、自分自身でも初めてのことです。御遺骨が折り重なるように積み上がっていました。写真には写っていませんが、写真手前側にも二人分?と思われる御遺骨がありました。私は、この現場状況をすぐに写真に納め、これは相当な時間がかかるなと見積もり、班員全員でキチンとした態勢で、一片の御遺骨も漏らさず地上に上げようと思いました。
地上に這い上がり、大規模な御遺骨を発見した旨、大きい声で他の班員に伝えました。時間がお昼近かったので、本部に連絡したりで体制を整えながら、昼から全員で収集しようと言う事になりました。
私は、妻が近くにいたので昼食前に、一緒に御遺骨を見に行こうと声をかけました。足元に気をつけながら慎重に壕内を進み、まだ手つかずの御遺骨の状況を懐中電灯で照らして妻に見せました。初参加の妻に、自らの発見による御遺骨を見せられる事が出来て本当に良かったと思いました。
戦争を語るのに最も有効なのは、テレビの映像とか本などの文字ではありません。生の戦争の傷跡を見るのが、戦争の真実を知るには最も有効です。御遺骨の存在そのものを見る時に、戦争の悲惨さは最も端的に表れると、私は何時の時も確信しています。戦争の真実を映し出している御遺骨を前に、妻に多くを語る必要はありません。私は、「間違いなく兵隊さんの御遺骨だよ。推定4人から5人の兵隊さんだ…。」とだけ語りました。
妻は御遺骨の方向を見ながら、目頭を押さえ泣いていました。私はこれまでにあまりにも多くの御遺骨を見てきたせいで、今では妻ほどに感情の高ぶりは発現しませんが、私が初めて御遺骨に接した時を思い返すと、妻の気持ちは痛いほど良く伝わってきます…。しばらくの沈黙の後、二人で手を合わせ御霊様のご冥福をお祈りしました。
昼食のおにぎりを食べ終え、午後の作業を開始しました。さあ頑張るぞ。発見された御遺骨の収集は、出来る限り若い人達に掘り取ってもらおうという事になりました。若い世代に、現実に目の前に展開している御遺骨が、紛れもなく沖縄戦という戦争で亡くなられた人達のものであるという事をしっかりと認識しながら、「戦争の真実とは…」の回答を各自それぞれに感じ取ってもらい、現実の戦争が末端部ではいかに悲惨な結末を伴うものであるかを、しっかりと心の中に刻んでもらうのに有効であると考えたからです。
そして、若い人達は交代しながら発見場所から地上まで、約40メートルの道のりを懐中電灯で照らしながら、布バケツに入れた土石類を運び出す仕事にも頑張ってもらう必要があります。この運搬は、出来る限りバケツリレー方式でやるのが、疲労を少なくするのに有効です。
地上では、ご婦人や年配の方々が上がってきた土石類から御遺骨を分別するのに頑張って頂きます。この仕事も大切な作業です。戦後59年も経過して御遺骨もかなり細粒化しています。全ての御遺骨を持ち帰るにはこれ以外の選択肢はありません。皆で協力して、土石類から徹底的に御遺骨を分別していくのです。
まずは、表面に露出している御遺骨を慎重に、白布に移していきます。御遺骨は年月の経過でもろくなっているケースが多く、慌てず慎重に手でつかみ取っていきます。同時に遺品などがあるかを確認しながら収集を進めていきます。表面に見えている御遺骨の収集を終えたら、今度はクマデやスコップなどで土を掘り返しながら御遺骨を捜していきます。
壕内などでは細骨の収骨を終えた土を、その壕内に置いたのでは邪魔になってしまいますので、順次壕の外にチェックを終えた土砂を運び出すのが順当です。壕内が狭く、多くの作業員が同時に捜索出来ない場合は、とりあえず土砂を布バケツ等に移して、その布バケツを地上に運び出し、地上の広い部分に広げて大勢でチェックする事も多いです。
今回も、壕内が狭いのでほとんどの土砂を地上に運び出すことになりました。若い人が直接的な収集にあたり、私は途中の運び役に徹しました。懐中電灯で足元を照らしながら、布バケツに入った土砂を20メートルぐらい運んで、次の人に渡します。私自身、正直相当なエネルギーを使いました。そして疲れました。
もう少し人が居れば、分担する距離などを減らせますが、人数を増やすことも出来ませんので、皆で出来る限り協力して進める以外に方法はありません。地上では、白布を広げて土砂の中から御遺骨や遺品がないか、慎重に土をかき分け捜します。また手榴弾や銃弾などは、布バケツに入れる段階で拾い上げられますので、爆発などの事故などの発生は過去に一度も起きていませんね。
搬出された土砂から御遺骨を分別します
地表での収骨風景です。全員で協力しながら、運び上げられた土砂から、細かい御遺骨を拾い上げていきます。ひとつの小片も見落とすまいと、皆さん真剣に取り組んでいますよ。
軍靴等の革製品と共に、九九式小銃の発射前の実弾が装弾子に納められた状態で数多く出てきました。
時刻も3時半も過ぎましたので、今日はこれで終了し明日も引き続き作業をしましょうという事になりました。皆が一列になって、朝入ってきた道を逆戻りで進みました。40メートルほど進んだら、公園内の芝地に出ました。あっという間に出てしまいましたが、これだけ身近なところにも御遺骨がまだあるという証明ですね。
芝地に出たところで御祈念のお祈りをした後、朝集合した場所に車で戻りました。そこでは、仮設テントの中で主にご年配の方々が、収集された御遺骨の『お清め』作業をしていました。土にまみれた御遺骨などが多いわけですが、ブラシや棒などを使って、御遺骨を綺麗に清掃する訳です。
私は、これは非常に意義のある作業だと考えています。初めて遺骨収集に参加してこの光景を見たときに、金光教の御遺骨を通しての御霊に応接する姿勢を垣間見た思いがいたしました。この作業を外しての遺骨収集は、その意義のほとんどを失ってしまうのではないかと思えるほどです。 私も過去に早く集合場所に戻ったりしたときに、『お清め』を手伝ったりしました。出来れば終日この作業をしていたい気持ちも強いのですが、まだ足腰がしっかり動くうちは、やはり山野のジャングルに入って御遺骨を探し続けるのを優先したいと思います。
集合場所では、地元沖縄のご婦人方が湯茶の接待をしてくださいます。沖縄特産の「タンカン」と「サーターアンダギー」、そして暖かいお茶などを頂くことが出来ますよ。疲れた身体とお腹がペコペコで戻ってきますので、これらは本当に美味しく感じますし、ああ無事に作業が終わったんだなという安堵の気持ちになります。
全員帰着した事を確認しましたら、また皆さんで御祈念をして本日は散会となりました。妻と共に、車に荷物を積み込んで宿泊先のホテルに戻りました。