平成28年(2016年)沖縄遺骨収集奉仕活動

5月29日(日) 「天地金乃神大祭 併せて沖縄布教五十年記念祭」参加

沖縄にやって来るのは、いつも遺骨収集のシーズンといえる1月とか2月なのですが、2月の沖縄遺骨収集に続き再び沖縄にやって参りました。一昨年も7月の真夏の時期に、渡嘉敷島で挙行された金光教那覇教会主催の、「第43回 慰霊巡拝・沖縄海域戦没者慰霊・海域平安祈願祭」参加のために沖縄入りしました。最近は沖縄に縁があって、たびたびやって来るようになりました。(^o^)

那覇空港に到着したのは昨日の夕方でした。仕事の関係もあり、残念ながら観光する時間はありませんでしたが、遺骨収集仲間である地元の松永さんに連絡を入れたところ、夕食を一緒に食べましょうという話になり、昨夜は松永さんに沖縄料理の美味しいお店に案内してもらい、歓談の一時を過ごしました。松永さんありがとうございました。(^o^)

今回の沖縄入りの目的は、本日5月29日(日)に金光教那覇教会が主催する「天地金乃神大祭 併せて沖縄布教五十年記念祭」に参加するためなのです。表題の通り、林先生による沖縄布教五十年を記念するお祭りを天地金乃神大祭と併せて執り行うという事で、私も昨年から参加表明していた事もあり、林先生による沖縄布教の軌跡を顕彰するという意味もある布教五十年記念祭に参加するのを心待ちにしていた一人でもあります。

50年前、つまり半世紀前とは昭和41年になります。この年に林先生は単身沖縄に赴任し、布教活動を開始されたのですね。沖縄入りしてから、まず間借りする部屋を探すのに苦労します。そして苦労の末にアパートは何とか借りられましたが、その後の生計を立てる事と併せて、信者さんを獲得する為の布教活動では言葉を絶するほどの辛酸をなめたと言って良いでしょう。これは推測ではなく、林先生による沖縄での困難だった布教活動の経緯を含めた講演を、私はこれまでに東京・埼玉・群馬で合計三回聴講していますのでね、本当にご苦労されたのだなと言う事をよく理解している一人です。

少し脇道に逸れてしまいますが聞いて下さい。私は金光教の信者さんではありませんが、長くおつき合いさせて頂いてるので、教団の内部事情が少し解るのですが、金光教の布教活動では、例えばチラシを作製して駅前で配ったりポスティングするとか、或いは他の宗教団体が常々やっているように、個別に自宅を訪問して勧誘するとかを一切やらないんですよね~。え~じゃあどうやって信者さんを増やすの? という話に行き着くわけですが、金光教の布教の基本は「勧誘しない」というのが一番の特徴と思えます。ホッ 本当ですよ。(^^;)

この「金光教は勧誘しない」というのは、私は自信をもって語ることができます。なぜなら私は金光教の遺骨収集に33年間参加させてもらっていますので、これまでに数え切れないほどの信者さんと話をしたり、各地を訪問したりと交流を持たせて頂きました。こうした金光教の皆様とのありがたい交流の中で、「中澤さん、ぜひ金光教の信者になりませんか」という声を掛けた人は誰一人として居ませんでした。ゼロです。33年間でゼロですよ!!。これは恐らく他の宗教団体では考えられない事態ではないでしょうか。

また話を元に戻しまして、何が言いたかったのかと問われますと、林先生は沖縄で布教活動に入りましたが、部屋から出て街頭で見知らぬ人にチラシを配ったり或いはポスティングしたり、戸別訪問して勧誘したりしなかったのです。ここまで話を読み進めれば、林先生の沖縄布教が如何に困難を伴っていたかが、これ以上語らなくとも理解してもらえるでしょう。

またまた脇道に逸れてしまいますが、私は信者さんではありませんが、私の妻は四年前から金光教の信者さんです。エ~ッ と思われた方もいらっしゃるでしょうけど、私だってエ~ッ とビックリしましたよ。妻が金光教の信者さんになると私に告白した時は。(笑)

私が信者さんでないのですから、妻に「金光教に入信してみない?」なんて声を掛けた事は一度もありません。また他の金光教信者さんが、妻に陰で勧誘したなどと言う事もありません。あくまで妻のスピリチュアル的なものが、金光教の奥深い教義と共鳴したのでしょう。

先に “金光教の布教の基本は「勧誘しない」というのが一番の特徴と思えます” と私の持つ金光教への印象を書かせて頂きましたが、妻のように勧誘されなくとも自ら手を上げて信奉者となる人が実際に居るわけですよね。ですから大局的に見れば、林先生が那覇教会立ち上げの時には、大変なご苦労に直面し、ノイローゼになってしまうかもしれないほどの辛酸をなめましたが、林先生の奥様の支えが大変な力となった事を抜きにしても、宗教における求道の道程では、安易に勧誘しないからこそ道が開けると言うものなのかもしれません。谷底から這い上がった人間のみが知りうる境地がある…。私は林先生こそ見事にそれを体現された方でもあると思わずにはいられません。

ご本部参拝

【平成21年(2009年)撮影】岡山県浅口市金光町大谷にある金光教の修徳殿前にて妻と共に撮影したものです。私は遺骨収集に参加させてもらっている事への感謝の表明として、これまでに7回ほど本部参拝をしています。この写真は平成21年撮影ですから今から7年前の参拝で、この時は妻を誘っての参拝でした。妻はこの初参拝の時に金光教と金光教奥義に対するスピリチュアル的なものを、彼女なりに印象深く感じ取ったのかもしれません。

信奉者でない私が言うのも何ですが(^^;)、妻は入信後四年の歳月を経て、今では立派な信者さんになりました。金光教の教義のひとつである「神様の喜ぶ生き方をする」即ち「周りの人々の幸せを願い汗を流す」の見事な実践者となっています。

妻の信心による影響は、夫である私まで及んでいます。信奉者ではない私は手を合わせることこそありませんが、金光教的な生き方を指向するようになりまして、その結果として充実した日々を過ごさせて頂いてます。金光教の奥義は、宗教を信奉していない人でも容易に実践できる社会性と普遍性があるように思います。

私が仕事を終え帰宅すると、妻へまず最初に発する言葉は、「ただいま~。今日もお陰の海を泳いできたよ~(^o^)」と、言うのが常となっています。私たちは平凡な日々であっても、数え切れないほどの、大いなるお陰により何事もなく日々過ごさせて頂いていると実感しているからこそ発せられる言葉です。こうした “平凡な幸せ” が自力で為し得たものか、或いは大いなるお陰により為し得ているのか…。この見極めにより感謝の念の度合いが違って参ります。

いつの日か、この世を去るに際しては、脳内が “ありがとうの心で満たされている” という状態で旅立つ!。というのが私たちの究極の目標です。この大目標に向けて、人生において全ての事物・事象に心からの感謝ができる心を育むべく、これからも夫婦共々力を合わせて取り組んで行きたいと願っています。(^o^)

話がずいぶんと逸れてしまいましたが、午前中はフリーなので、首里城周辺を散策し、午後1時から「天地金乃神大祭 併せて沖縄布教五十年記念祭」に参加させて頂くので、12時30分までには開催される沖縄都ホテルに到着するように行動する予定です。

ホテルからタクシーに乗り、8時30分には守礼門にほど近い交差点までやって参りました。首里城は以前に一度見学しているので、ひとつのアイデアとして首里城周辺を散策してみる事にしました。観光コースでない沖縄を垣間見る事ができるかもしれませんよ。裏道を行くって結構ワクワクしますよね。それではご一緒にスタートしましょう。(^o^)

首里城周辺散策

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.1

まずは首里城から遠ざかるように世界遺産でもある玉陵方向に向かいました。写真はシーサーですね。民家の駐車場の横にありましたので撮影させていただきました。シーサーは伝説の獣の像なのですが、一般的には建物の門や屋根に据え付けられていますよね。でもここは地面に据え付けられているという珍しい状況だったので撮影しました。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.2

「一中健児之塔」の案内看板がありました。そうです、まずは朝一番「一中健児之塔」に慰霊参拝します。それでは看板の指示通りに進んでみましょう。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.3

首里の高台から見る那覇市街方面の風景です。首里が沖縄戦当時この辺りは一番の高台である事から、極めて重要な要衝であった事が見てとれますね。

「一中健児之塔」

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.4

養秀会館の敷地に入りました。広大な敷地のようですね。奥の階段を登ると「一中健児之塔」があるようです。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.5

大きな建物ですが養秀会館と言います。沖縄戦当時は沖縄県立第一中学校、そして戦後は首里高等学校と校名が変わりましたが、その卒業生の同窓会館という趣旨の建物のようですね。この学校の歴史は130余年と古い歴史があるようです。本校の前身は、今を遡ること二百十年余り前、琉球王朝第二尚氏15代国王の尚温王が、優れた人材を育成せんと、「海邦養秀」の扁額を掲げ、後に王国の最高学府となる公学校を本校の敷地に創建したのが始まりとされているという事のようです。これにより会館名を養秀会館としたのですね。

現在の沖縄県立首里高等学校は、在校生1,300余名で「海邦養秀」の理念のもと、質の高い文武両道を実践しているという話です。実際に撮影はしませんでしたが、養秀会館の向かいには、弓道場が設けられており、文武両道の一端を垣間見ることができました。

男子学徒隊「沖縄県鉄血勤皇隊第一中隊」(略称:沖縄一中鉄血勤皇隊)についての本が出版されているのでご紹介します。私は読了しています。

「沖縄一中鉄血勤皇隊の記録」 (上)(下)

兼城 一編著 高文研 平成12年(2000年)初版

「沖縄一中鉄血勤皇隊」 学徒の盾となった隊長篠原保司

田村洋三著 光人社 平成22年(2010年)初版

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.6

階段を登ると、平らな広大な敷地が現れました。ご覧のように天気は快晴ですから、階段を登っただけで汗だくになってしまいました~。とにかく暑いです。広い敷地でセンターに参道があり、左側が芝地で右側が駐車場になっています。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.7

「一中健児之塔」です。立派な慰霊塔ですね。養秀同窓会サイトには同慰霊塔について次のよう記載があります。

一中健児之塔は、1950年4月30日に旧沖縄県立第一中学校同窓会の浄財により元同校寄宿舎養秀寮跡に建立された。その後、創立百周年記念事業として養秀会館の建設と同時に一中健児之塔の改修移設が行われ、昭和54年に除幕式、入魂式が挙行された。

一中健児之塔は、正面には、平和を象徴する鳩とそれを支える万人の手をデザインした白・黒・ベージュの大理石の壁面装飾があり、その上に久米島産の二トンもある緑石の一中健児之塔の碑が置かれている。供花台はギリシャ産の二トンの大理石の切石をそのまま使っている。

「一中健児之塔」の揮毫 島袋光祐氏(大正二年卒)
デザイン 喜村朝貞氏(昭和二十六年卒)

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.8

平成14年5月に竣工した刻銘碑です。一中健児之塔の左側壁面の前に建てられ、高さ1.8メートル、横5.5メートルの黒御影石造りで、碑の上段に縁取られた一中の校章の「桜」が金色に輝いているのが印象的ですね。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.9

ギリギリ読めますが、テキストでも掲示しました。

【慰霊碑碑文】

第二次世界大戦の最中、昭和二十年三月二十七日、沖縄県立第一中学校(首里高等学校の前身)においては、米軍の砲爆撃下この地で異例・悲壮な卒業式が挙行され、第五学年生と第四学年生が同時に卒業し、ただちに第三学年生と共に鉄血勤皇隊が編成され、第五砲兵司令部に配属された。また、前年十一月から通信隊要員として教育訓練を受けていた第二学年生は、三月二十八日、少年特別志願兵として電信兵第三六連隊に入隊を命ぜられ、各無線中隊に配属された。

鉄血勤皇隊、通信隊の学徒兵は、郷土防衛の若い血潮を燃やしつつ、陣地構築、通信、伝令、弾薬・糧食の運搬、戦傷兵の輸送その他の任務に精魂を傾け、熾烈な砲爆撃下に決死敢闘、対戦車肉薄攻撃、挺身斬込みに参加し、終始軍の一員としてその責務を遂行した。

非戦闘員であるべき学業半ばの年端もゆかぬ二百有余の学徒兵は、いまだかたい蕾のまま散華した。

先の戦争では、教職員、学徒兵を含め、八百有余の同窓の方々が戦没された。まことに痛恨のきわみである。

昭和十五年の沖縄県立第一中学校創立六十周年記念事業として養秀寮が建設されたゆかりのこの地に、一中健児之塔を建立し、志むなしく斃れた一中健児を追慕し、謹んで御冥福を祈り、世界の恒久平和を希求する。

社団法人 養秀同窓会 

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.10

写真は「一中健児之塔」の裏山を撮影していますが、昭和19年米軍による、いわゆる十・十空襲後、三年生以上で編成された男子学徒隊「沖縄県鉄血勤皇隊第一中隊」(略称:沖縄一中鉄血勤皇隊)でも、自前の壕構築が進められ、今もその壕郡の一部が残存するという話です。この裏山にあるそうですから見学してみましょう。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.11

残存壕郡の案内板がありました。ギリギリ読めますね。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.12

壕に至るこの坂道は、案内板によれば「篠原坂」と書かれています。ここでハッと思いつくのは、この篠原とは人の名前で、沖縄一中の配属将校を務めた篠原保司陸軍中尉の名前である「篠原」ではないかと感じました。違っていたらごめんなさいですが…。

篠原陸軍中尉を顕彰する意味を込めて篠原坂と命名された、という前提で書かせていただきますと、沖縄一中に配属将校として赴任した篠原保司陸軍中尉は、沖縄戦では同高の隊長を務められました。

沖縄一中鉄血勤皇隊の生存者は等しく、篠原中尉を「先生」または「教官」と呼ぶそうです。これは配属将校という立場を超えて、“軍服を着た教育者”として生徒たちの尊敬を集めていた証明であろうと、「沖縄一中鉄血勤皇隊」の著者である田村氏は述べています。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.13

篠原坂を登り終えますと、最初にあるのがこの「銃器庫跡」です。近づいてみますとごく浅い壕でした。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.14

「銃器庫跡」の説明です。読めますね。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.15

「第三小隊壕入口跡」と書かれていますね。草が茂っていて壕の状況はよく解りませんでしたが、こちらは小隊の壕という事で、ある程度奥深い壕かもしれませんね。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.16

「第三小隊壕入口跡」の説明です。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.17

ここから先は立ち入り禁止になっていますね。戻りましょう。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.18

道を少し戻りまして右側に進むと、「教導兵詰所跡」の壕がありました。四畳半もない空間ですが、壁面がかなり黒くなっていますよね。これは沖縄戦当時の焼け焦げた状況を反映しているのかもしれませんね。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.19

「教導兵詰所跡」の説明です。ギリギリ読めますね。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.20

篠原坂から見る那覇市街の様子です。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.21

ハイビスカスの八重咲き種とでもいうのでしょうか。一重よりも豪華な雰囲気に見えますね。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.22

アップするとこんな感じです。綺麗でしょう。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.23

ここが那覇市内の観光には必ずと言って良いほど紹介されている「金城町の石畳道」です。折角ですから石畳道を歩いてみましょう。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.24

500年来の石畳古道と樹齢300年の赤木があるそうですよ。推定樹齢は200年の筈ですが…。案内板が繁華街の呼び込みみたいな、少し誇張されているような印象を受けますが、ともかく行ってみましょう。(笑)

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.25

沖縄らしい趣のある雰囲気になってきましたね。古の琉球の人たちも、この石畳道を行き交ったのでしょうね。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.26

坂が結構きついですが、いい雰囲気ですね~。いずれにしても、500年程の歴史ある石畳を歩けただけで、何か悠久の時を感ずることができましたね。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.27

「大赤木群生地はこちら」と書かれた案内板があったので、石畳道から脇道に逸れてしまいますが行ってみましょう。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.28

ブーゲンビレアが溢れんばかりに咲き誇っていますね。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.29

オ~。趣のある文字で魔よけの印である石敢當(いしがんどう)と書かれていますね~。ウィキペディアによれば、石敢當の効果として次のように書かれています。

沖縄県ではその存在意義や効果が未だに根強く信じられており、当地では丁字路や三叉路が多いことから、現在でも沖縄県の各地で新しく作られた大小様々の石敢當を見ることができる。これらの地域では、市中を徘徊する魔物「マジムン」は直進する性質を持つため、丁字路や三叉路などの突き当たりにぶつかると向かいの家に入ってきてしまうと信じられている。そのため、丁字路や三叉路などの突き当たりに石敢當を設け、魔物の侵入を防ぐ魔よけとする。魔物は石敢當に当たると砕け散るとされる。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.30

露地のような狭い道をクネクネと進みますと、突き当たりに緑豊かな公園がありました。ガイド本には大赤木群生地と書かれている場所で、結構広い公園のようです。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.31

ふむふむ。なるほどね~。霊域という雰囲気が漂っていますね、実際に。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.32

拝所ですね。内金城御嶽と呼ぶようです。私も手を合わせました。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.33

沖縄の昔話で、「鬼餅(ウニムーチ)」というのはよく知られていますよね。この場所がその由来発祥の場所とは知りませんでした。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.34

奥の方に見える巨木が一番太く推定樹齢二百年以上とされる大赤木です。他にも同様の推定樹齢と思われる大赤木があり全部で6本あるそうです。近づけないのが残念ですが、ここから見てもかなり迫力のある木に見えました。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.35

アップしてみました。より迫力がありますよね。いずれにしても推定樹齢二百年以上生きている木ですから、さすがに私も自然に手を合わせていました。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.36

同じ道を戻るのでは面白くないので、ご覧のような風情の散歩道を通って、石畳道に戻ることにしました。良い雰囲気なのですが、ハブが出てきそうで、その点が怖かったです。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.37

石畳道に戻りました。この建物は金城村屋です。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.38

金城村屋の前には、気根を伸ばした大きなガジュマルの木がありました。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.39

首里金城町石畳道についての説明が書かれています。ギリギリ読めますね。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.40

湧き水が出ている場所がありました。金城大樋川と書かれています。ここから川となって流れ出ているという事なのでしょう。沖縄ではこうした湧き水は至る所で目にしますよね。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.41

金城大樋川の説明文です。ギリギリ読めますね。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.42

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.43

日々草が綺麗に咲いていました。本土では一年草扱いの日々草ですが、沖縄では木質化していますから、周年花が咲き続けているのかもしれませんね。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.44

金城村屋はいつもこうして開け放たれているのですかね。床の間には大きな鏡というのでしょうか、展示してありました。写真を見ると祭りの際に空高く持ち上げるようですね。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.45

まだ石畳道は続いていますが、時間が押しているので、ここから先には行かず戻ります。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.46

「いい雰囲気だな~」と思ったので、ハブが居るかもしれないという不安はありますが、また脇道に入って散策しました。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.47

いい雰囲気でしょう。ここから先は、冬だったら間違いなく行きますが、今は夏でハブが出る危険性がありますので、ここで打ち止めて引き返しました。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.48

金城町石畳通りの案内板です。掲示されている石畳茶屋「真珠」さんで昼食を頂きました。見晴らしの良いお店でしたよ。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.49

昼食を食べ終え、この坂道を登ると首里城があるようです。ちなみにここは石畳道ではなく、島添坂・シマジービラという名の坂道だそうです。それではこのまま登っていきましょう。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.50

金城町石畳道の坂を登っていると、見たことのある葉だな…。と思ったら、やはり関東ではよく見ることのできるクワでした。ただ下に説明が書かれていて、「シマグワ」と書かれていまして、沖縄では「クワギー」と呼ぶそうです。関東では養蚕でこのクワが使用されますから、畑に植えられているのを見た方も多いと思いますね。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.51

「シマグワ」の幹の様子です。やはり本土のクワとは枝振り等が少し違いますね。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.52

この坂を登ってきました。写真手前側が首里城です。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.53

こちら側が首里城のある側ですね。写真中央の道を直進すると守礼門があります。今日の目的は典型的な観光コースを巡るのではなく、その観光地の周縁部を回るというのが目的ですから、直進せず右折します。(笑)

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.54

樹木で覆われた斜面を登ると首里城があります。道なりに直進してみましょう。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.55

首里城の城壁が連なっています。ちなみにこの道は立ち入り禁止となっていますので入れませんでした。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.56

首里城の周縁部ですが、住宅地に入ってきましたね。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.57

住宅の庭に大きな花木がありまして、黄色い花が見事に咲き誇っていました。「オオバナアリアケカズラ」ですね。沖縄ではハイビスカスやブーゲンビレアと同じぐらいポピュラーな花木として親しまれているようですから、沖縄では沢山植えられているのでしょうが、開花期がこの時節ですから、2月の遺骨収集シーズンでは、まずお目に掛かることはありませんから、この花木存在にはなかなか気づきません。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.58

民家の屋根越しに首里城の建物が見えます。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.59

首里城の裏手と呼ぶべき場所まで歩みを進めました。歓会門が見えてきましたよ。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.60

歓会門は日常的に出入りしていないようです。階段が草が生えています。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.61

「ゲットウ」に花が咲いているではありませんか。1月2月の遺骨収集シーズンでは見ることのできない光景ですね。このゲットウは旧暦12月8日に、ムーチーと呼ばれる行事に使われますよね。ゲットウの葉で餅を包み蒸したものを仏壇に供えたりして、子供の健康を祈願する風習が沖縄にはあるそうです。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.62

首里城のほぼ真裏までやって参りました。時間も無くなってきたので、更に首里城の周縁部を進みたい気持ちはありますが、打ち切って守礼門まで戻りましょう。戻るに際しては城内を直線的に進む事にしました。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.63

守礼門まで600メートルぐらいありそうです。急いで坂を登ります。すでに汗びっしょりなのに、これでズボンまで汗が染み出てきそうです。い実際そうなりました~。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.64

首里城の北面側を歩いています。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.65

首里城の北面側を歩いています。こうしてみると結構高低差がありますね。こんもり茂る森の中に円鑑池があるのかな。?

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.66

久慶門です。守礼門までもう少しですね。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.67

通常の観光ルートに出ました。ここから先は首里城観光の一般ルート上となりますね。写真奥の方に進むと、歓会門や守礼門があります。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.68

首里城の正門というべき歓会門ですね。通常修理上観光はここから入る事になります。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.69

歓会門を正面に見て、右側に目をやると写真の様なこんもりとした森が石垣の上にあります。この森の茂みを写したかと言いますと、この茂みの中に沖縄戦で破壊されながらも今に往時の姿を残す「忠魂碑」があります。しかしながら当時よりも木々が成長した為でしょうか、ほとんど見えませんので、今から8年前、平成20年(2008年)に撮影した「忠魂碑」を二枚下に掲載させていただきました。

「忠魂碑」とは明治新政府の誕生以降に、日清戦争・日露戦争での戦死者の供養の為に、各自治体で建立した慰霊碑ですから、貴重な歴史建造物と言えますが、目の前にある「忠魂碑」は、なんと変わり果て見るも無惨なお姿に…(^^;)。これは首里一帯が激しく爆撃されたという事実を今に伝えていますね。

首里城公園内にある戦争遺跡

遺骨収集の様子85

【平成20年(2008年)撮影】歓会門のすぐ横の林の中にある「忠魂碑」です。西側から見た様子です。鉄筋コンクリートで造られていますが、土台を含め激しく破壊されています。

遺骨収集の様子86

【平成20年(2008年)撮影】別の角度から見てみましょう。弾痕がたくさん見えます。上部はどの様な形だったかさえ解りませんね。このような悲惨な姿をさらし続け、「忠魂碑」そのものも悲嘆に暮れていると思います。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.70

歓会門方向を見ています。観光客で賑わっていました。発する言葉から推測するに台湾を含めた東南アジアからのお客様が多いような印象です。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.71

沖縄観光では必ず立ち寄る守礼門ですね。順光で撮影するために城内側から撮影しました。守礼門は尚清王時代(1527~1555)といいますから、今から450年以上前に創建された門です。正面から見ますと、屋根の下に「守礼之邦」とは、礼節を重んずる国という意味だそうですよ。

首里城に別れを告げて、沖縄都ホテルに向かいます。道すがらの風景も引き続き撮影しました。(^o^)

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.72

那覇市街方面を撮影しています。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.73

う~~ん残念。カメラではしっかりと与座の電波ドームを捉えたのですが、写真にすると霞んで見つけにくいですね。写ってはいますので見つけてみて下さい。ちなみに首里から与座まで、約9キロメートルです。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.74

タイワンレンギョウですね。新芽がまばゆいばかりに伸び出しています。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.75

個人宅ですが見事に手入れされた花壇といいましょうか、ポットに入れたりハンギングバスケットにしたりと印象深く草花を育てているので、ついつい撮影させていただきました。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.76

沖縄ではよく見かける風景です。ツタのような植物がコンクリートやブロック塀の表面をしっかり緑で覆っています。この構築物もツタがなければコンクリートなどが剥き出しになっているわけですから、その差はあまりに大きいと言えますね。ただ関東ではこの雰囲気のツタ類は無いですね~。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.77

首里城から徒歩で沖縄都ホテルまでやって参りました。とにかく暑いので汗びっしょりです。到着早々に着替えさせていただかなければ…。

「金光教那覇教会 天地金乃神大祭、併せて沖縄布教五十年記念祭」

2016年5月29日/天地金乃神大祭併せて沖縄布教五十年記念祭の様子 NO.1

式典開始前の集合写真撮影です。布教五十年…。半世紀ですよね。林先生と奥様こそが、その歳月の重みを今こそ噛みしめておられるのかもしれません。心より祝意を表させていただきます。本当におめでとうございました。(^o^)

2016年5月29日/天地金乃神大祭併せて沖縄布教五十年記念祭の様子 NO.2

式典会場の様子です。県内外から230余名の方々が参拝に訪れているそうです。

2016年5月29日/天地金乃神大祭併せて沖縄布教五十年記念祭の様子 NO.3

式典が始まりました。拝礼に続き、「神前拝詞」を奉唱しています。

2016年5月29日/天地金乃神大祭併せて沖縄布教五十年記念祭の様子 NO.4

祭員の方々が「神前拝詞」を奉唱しています。

2016年5月29日/天地金乃神大祭併せて沖縄布教五十年記念祭の様子 NO.5

ご列席の皆さんも「神前拝詞」を奉唱しています。

2016年5月29日/天地金乃神大祭併せて沖縄布教五十年記念祭の様子 NO.6

ご列席の皆さんも「神前拝詞」を奉唱しています。

2016年5月29日/天地金乃神大祭併せて沖縄布教五十年記念祭の様子 NO.7

「取次唱詞」の奉唱をしています。

2016年5月29日/天地金乃神大祭併せて沖縄布教五十年記念祭の様子 NO.8

祭主林先生による「祭詞」奏上が始まりました。

2016年5月29日/天地金乃神大祭併せて沖縄布教五十年記念祭の様子 NO.9

祭主林先生が「祭詞」を奏上しています。

2016年5月29日/天地金乃神大祭併せて沖縄布教五十年記念祭の様子 NO.10

イベントの節々で、奏楽の演奏が入ります。

2016年5月29日/天地金乃神大祭併せて沖縄布教五十年記念祭の様子 NO.11

副祭主が玉串を捧げています。

2016年5月29日/天地金乃神大祭併せて沖縄布教五十年記念祭の様子 NO.12

参拝者代表が玉串を捧げています。

2016年5月29日/天地金乃神大祭併せて沖縄布教五十年記念祭の様子 NO.13

参拝者代表が玉串を捧げています。

2016年5月29日/天地金乃神大祭併せて沖縄布教五十年記念祭の様子 NO.14

2016年5月29日/天地金乃神大祭併せて沖縄布教五十年記念祭の様子 NO.15

参拝者代表が玉串を捧げています。

2016年5月29日/天地金乃神大祭併せて沖縄布教五十年記念祭の様子 NO.16

参拝者代表が玉串を捧げています。

2016年5月29日/天地金乃神大祭併せて沖縄布教五十年記念祭の様子 NO.17

奏楽を演奏される人たちです。奏楽について詳しくないので、これ以上書けませんが、神事にはえも言われぬ雰囲気を醸し出す奏楽は無くてはならないものですよね。

2016年5月29日/天地金乃神大祭併せて沖縄布教五十年記念祭の様子 NO.18

よくご覧下さい。コイル巻きの電熱器が見えますよね~。楽器を暖める為に用いているのです。楽器の名称は笙といいまして、演奏する方の膝の前に横に置いてある楽器が笙といいます。演奏している姿は上の写真でご覧下さいませ。

笙という楽器は1300年ぐらい昔からある楽器だそうで、ご覧のように笹竹を沢山束ねたような形状をしていますが、笹竹の付け根に弁があるようなのです。その部分を暖めないと適正な音が出ないという話です。現在は電熱器ですが、昔は炭を起こして暖めていたという話ですよ。暖めながら楽器を運用するなんてビックリですよね~。(^o^)

2016年5月29日/天地金乃神大祭併せて沖縄布教五十年記念祭の様子 NO.19

ご列席の皆さんが、「神徳賛詞」を奉唱しています。

2016年5月29日/天地金乃神大祭併せて沖縄布教五十年記念祭の様子 NO.20

祭員の方々が、最後の拝礼を行っています。

2016年5月29日/天地金乃神大祭併せて沖縄布教五十年記念祭の様子 NO.21

式典も無事に終わり、吉備舞奉納が始まりました。「吉備舞」は吉備楽の曲に舞を振り付けたものを総称した呼称で、岡山藩の楽人であった吉備楽創始者岸本芳秀によって、倭舞(やまとまい)や京舞の要素を取り入れつつ、明治という新しい時代にふさわしい近代感覚を盛り込んで創作されたものですが、金光教では更にアレンジを加えてあるそうです。金光教では、本部の春・秋の御大祭、十二月の報徳祭などで吉備舞が奉納されています。

2016年5月29日/天地金乃神大祭併せて沖縄布教五十年記念祭の様子 NO.22

吉備舞奉納は参拝者の方々に見てもらうというよりも、奉納という言葉からして、神様に見てもらう舞という意味合いなのでしょう。実際に舞の所作はほとんど祭壇側を向いて行われます。

2016年5月29日/天地金乃神大祭併せて沖縄布教五十年記念祭の様子 NO.23

吉備舞の奉納が行われています。

2016年5月29日/天地金乃神大祭併せて沖縄布教五十年記念祭の様子 NO.24

数少ないシャッターチャンスを捉え、ピンボケにならず撮影しました。

2016年5月29日/天地金乃神大祭併せて沖縄布教五十年記念祭の様子 NO.25

吉備舞の奉納が終わりました。

2016年5月29日/天地金乃神大祭併せて沖縄布教五十年記念祭の様子 NO.26

祭主である林先生が「御神伝」を奉読されています。

2016年5月29日/天地金乃神大祭併せて沖縄布教五十年記念祭の様子 NO.27

林先生の親教会である福岡高宮教会の吉川先生が、林先生の沖縄布教に関わる経緯や思い出等を話されました。背後に居られるのが祭主である林先生と、この後に記念講話をされる現福岡高宮教会長の吉川先生です。

2016年5月29日/天地金乃神大祭併せて沖縄布教五十年記念祭の様子 NO.28

式典最後の記念講話をされたのは、福岡高宮教会長の吉川先生です。「神縁まことに不思議にして」と題してお話をされました。

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