平成28年(2016年)沖縄遺骨収集奉仕活動
- 1月29日(金) 故具志八重さんのお墓参り、旧海軍司令部壕慰霊巡拝
- 1月30日(土) 遺骨収集事前調査(林先生他4名)
- 1月31日(日) 第10回摩文仁清掃奉仕、遺骨収集事前調査(林先生他5名)
- 2月13日(土) 金光教遺骨収集の為のルート整備
- 2月14日(日) 金光教遺骨収集の為のルート整備
- 2月15日(月) 金光教遺骨収集の為のルート整備
- 2月16日(火) 金光教遺骨収集の為のルート整備
- 2月17日(水) 初参加の南埜さんと共に遺骨収集(※岩盤崩落あわや大惨事に)
- 2月18日(木) 金光教遺骨収集の為のルート整備
- 2月19日(金) 松永さん吉井さん福岡さん田中さん南埜さんと摩文仁で遺骨収集
- 2月20日(土) 第43回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加(最終回)
- 2月21日(日) 第43回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加(最終回)
- 5月29日(日) 「天地金乃神大祭 併せて沖縄布教五十年記念祭」参加
2月15日(月) 金光教遺骨収集の為のルート整備
本日の天気予報は、曇りで最高気温14度の予報です。冬型の気圧配置になるそうですが、沖縄で14度というのはかなり冷え込むというレベルです。二日前は30度を超えたりと温度変化が激しいので体調管理に留意したいと思います。また昨日も作業に影響ないレベルですが、午後雨が降りました。ですから本日も念のため雨合羽はリュックサックに入れて行動します。
今日は松永さんと二人でルート構築の作業にあたります。メイン作業として東西ルートの崖部分の整備をする予定です。かなりの肉体労働となるはずですから、今日の最高気温14度という予報は、作業には最適かもしれません。今日も頑張ります。(^o^)
ひめゆりの塔へ向かう道すがら、「あれ~、ここは北海道?」と自分の目を疑いました。白い布に梱包された中には牧草が入っているわけですが、雄大な北海道の諸風景で見かけるものでしたから、まさか南国沖縄で同じものを見るなんて、ちょっとビックリした次第です。
ちなみに北海道では家畜の冬の食糧確保を目的として、保存する訳ですから夏から秋にかけて生産するわけですが、沖縄ではこの時期に生産するということは、もしかしたら夏を乗り切るために牧草を保存しておくと言う事なのでしょうかね。夏はあまりに暑いので、牧草も休眠してしまうとかで…。(^^;)
太陽光電池パネルです。ひめゆりの塔へ向かう道すがら設置されていたので撮影しました。太陽光電池パネルは沖縄南部でも大規模な施設が急速に増えている印象があります。
「ひめゆりの塔」
まずは「ひめゆりの塔」に慰霊参拝しましょう。生花販売店で献花用の生花を買い求めました。
敷地内に入りました。奥の方に見える白い慰霊塔が「ひめゆりの塔」です。午前8時過ぎ、まだ早朝である事から観光客は私以外まだ誰も居ませんでした。
黄色味を帯びたタイワンレンギョウが早春の沖縄を飾っています。
右側の慰霊碑は「沖縄戦殉職医療人之碑」です。各地で守備軍に協力し、住民の衛生、保険、ケガなどの治療に従事しながら戦没された医師、歯科医師、薬剤師、看護婦ら50人が祀られています。
緋寒桜が満開です。沖縄に春がやって来ていると実感させるのが、この緋寒桜ですよね。沖縄では北部から南部へと開花が進んでいくので、その点が不思議でなりません。
「ひめゆりの塔」です。右側の石碑もひめゆりの塔と書いてありますが、こちらが初代ひめゆりの塔です。「ひめゆりの塔」本体の納骨堂も平成22年頃リニューアルされました。シンボルとしてのユリの花を大きくした事により、リニューアル以前よりも印象深いモニュメントになりましたね。
「ひめゆりの塔」の命名由来は、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校は併置校であったため、沖縄戦では両校生徒は同一行動をとっていたという経緯もあり、戦後真和志(まわし)村村長であった金城和信氏が中心になって、戦死した両校生徒を祀る慰霊塔建立に際しては、師範学校女子部の校友会誌「しらゆり」と、県立第一高等女学校の校友会誌「おとひめ」から名を取って、この塔を「ひめゆりの塔」と命名したそうです。こうした経緯もあり、戦後になって両校生徒の学徒隊を「ひめゆり部隊」、「ひめゆり学徒隊」などと呼ぶようになりました。
碑文は少し読みにくいですが、ひめゆり部隊の引率教師の一人であった仲宗根政善氏が詠んだ詩が掘られています。
いわまくら かたくもあらん やすらかに ねむれとぞいのる まなびの友は
「沖縄陸軍病院第三外科壕」です。ひめゆりの塔前に出入りしていた大きな開口部が見えます。沖縄陸軍病院は本部・第一外科・糸数分室・第二外科・第三外科に分かれて業務を続けていました。ここはその第三外科の壕として傷病兵を収容していました。底が見えている印象ですが、この壕は二段階になっていますので、壕底は更に下になります。沖縄戦当時は、ハシゴが設置され出入りしていたようです。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
「赤心之塔」は、多くの方々が慰霊に訪れる「ひめゆりの塔」や「伊原第三外科壕」と同じ敷地内にありますが、個人的な慰霊碑が、なぜ同一敷地内にあるのか、その理由を説明させて頂きます。
ひめゆり学徒・職員の多くが亡くなられた「伊原第三外科壕」と呼ばれる壕は、沖縄戦開始の頃は民間人のみが入って避難生活をしていましたが、6月上旬に沖縄陸軍病院が南風原からこの地に撤退して来まして、沖縄陸軍病院がすでに多くの住民が避難していたこの壕に入るに際しては、陸軍病院先発隊の説得によってほとんどの住民は壕を出ましたが、意外にも壕内にそのまま残留した地元住民が居たのです。
その居残った地元住民とは、大田家の子供3人を含む5人の家族でした。子供が居るからという配慮で残留出来たようです。しかしながら安全な壕に残れるという喜びもつかの間、「伊原第三外科壕」は6月19日米軍によりガス弾が打ち込まれ “馬乗り攻撃” が開始されたのです。この攻撃により沖縄陸軍病院職員や従軍看護婦の方々、そしてひめゆり学徒の皆さんと共に、大田家の子供三人と夫の母の四人が壕内で壮絶な死を遂げられ、大田家の生存者は子供達の母であるトシさん唯一人となってしまったのです…。
トシさんはなぜ生存できたのか?。
トシさんは、「伊原第三外科壕」への米軍による19日のガス弾攻撃を受けた時は、偶然にも所用で第三外科壕の外に出かけていました。トシさんは壕に戻ると火炎に包まれている第三外科壕を目の当たりにし、子供達を助けようと壕近くに接近したところで、待ち受けていた米軍の狙撃で負傷してしまいます。
結果として米軍によるこの日の第三外科壕におけるガス弾攻撃により、大田家は掛け替えのない9歳、5歳、3歳の三人の子供と、夫の母を一度に亡くすと共に、防衛隊に招集されていた夫一雄さんも前線で戦死され、沖縄戦終結時、太田トシさんは、太田家唯一人の生存者となってしまったのです。
戦後の消炎の臭い醒めやらない昭和23年、大田家唯一の生存者であるトシさんとご兄弟で、亡くなったご家族5名の死を悼み、このゆかりの地に「赤心之塔」と命名し建立したものです。揮毫は仲宗根政善先生、刻字はトシさんの弟である徳元さんでした。
「赤心之塔」と金光教那覇教会の林先生とは、とても深い係わりがありますのでここでご紹介させて頂きます。
具志八重さんといえば二年前にお亡くなりになりましたが、「伊原第三外科壕」の数少ない生存者の一人でした。具志さんは金光教の遺骨収集奉仕活動に初期の頃から参加されていましたが、その具志さんが、平成6年といいますから今から19年前になりますが、金光教那覇教会の林先生に、「先生こういう慰霊塔があるのですが、お祭りをして頂けませんか」と申し出たそうです。
平成6年といえば戦後50年を経ているわけですが、その年6月19日、まさに大田家の子供達と母の命日に、20人ぐらいの縁者が集い第一回目の慰霊祭が執り行われたといいます。詳細は下掲の写真の中で説明させて頂きますが、爾来今日まで「赤心之塔」前での慰霊祭は続けられています。トシさんは平成7年に亡くなられていますが、以降は有志により今年も6月19日に第21回目の慰霊祭が金光教那覇教会により仕えられる手はずとなっています。
「赤心之塔」
奥の方に見える小さな石碑が「赤心之塔」です。
「赤心之塔」です。大田家唯一の生存者となった母のトシさんは、用事があって伊原第三外科壕から出ている間に米軍によるガス弾攻撃を受け、三人の子供と夫の母を亡くしてしまいましたが、そのトシさんは、「なぜその時にそこに居なかったのか。なぜ子供のそばにいてあげられなかったのか。あの時に一緒に死んでおれば良かった。」が口癖だったそうです。
トシさんの話によりますと、戦後50年間というもの、床に入ると毎夜のように三人の子供が目の前に出てくるというのです。睡眠も十分とれず辛い50年だったと述懐しています。
トシさんの語る「戦後50年間」という意味は、戦後50年を経た平成6年に、金光教那覇教会により、トシさんらご家族が参加されての初めて慰霊祭が「赤心之塔」で執り行われたのです。
その初めての慰霊祭が無事に終わり、トシさんが参加者に向け最後の挨拶に立たれましたが、たった一言「今晩から安眠できます…」と語った後「わー」と叫ぶように泣き崩れてしまい、弟の徳元さんが代わってご挨拶せざるを得なかったといいます。三人の掛け替えのない子供達と夫の母、そして夫をも沖縄戦で失ったトシさんの胸中は如何ばかりか…。
私たちの想像をはるかに超える慟哭の日々であったのだと思えます。今は亡きトシさんそして戦死されたご家族の皆様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
ご覧のように「赤心之塔」はとても小さな慰霊塔です。金光教那覇教会の林先生の話では、塔はとても小さいので祭事を立ってすると見下すようになってしまうので、ゴザを敷き座る姿勢で目線を低くして慰霊祭を執り行っているという話です。
「赤心之塔」の裏側です。戦死された大田家の五人の名前が刻み込まれています。
右側から氏名の説明をさせて頂きます。一番右が、トシさんの夫の母です。数字の十八にも読めますが、カタカナで「ナハ」さんと読みます。二番目がトシさんの夫の「一雄」さんです。三番目からトシさんの三人の子供達の名前で、「義雄」ちゃん、「繁子」ちゃん、「貞雄」ちゃんで、それぞれ当時9歳、5歳、3歳の年齢でした。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
【太田家の御霊に祈り】 「赤心之塔」で慰霊式
「沖縄タイムス」平成25年6月20日
【糸満】68年前の19日、沖縄戦で家族5人が犠牲になった大田家の慰霊塔「赤心之塔」の慰霊式が19日、糸満市のひめゆり平和祈念資料館入り口横の同塔であった。ひめゆり平和祈念資料館の島袋淑子館長ら約10人が出席。金光教那覇教会の林雅信さん(73)が祝詞を読み上げ、み霊を慰め平和を願った。
大田家は米須出身で、1945年6月19日朝、ひめゆりの塔がある伊原第三外科壕で、米軍のガス弾により、ひめゆり学徒らとともに子供三人と祖母一人が犠牲となった。その後、周辺で父親も戦死。生き残ったのは母親トシさん=享年(81)=だけだった。
島袋館長は「68年前の今日、家族が壕でどんなに苦しんで亡くなったか、胸が痛む」。21年前の最初の慰霊式から携わっている林さんは「一緒に死ねばこんな苦しい思いはしなかったとトシさんは苦しんでいた。戦争で子供を亡くした親の深い傷を癒やすためにこれからも続けていきたい」と話した。
「沖縄タイムス」から転載させて頂きました
【犠牲者の冥福祈る】 「赤心之塔」有志が慰霊祭
「琉球新報」平成25年6月20日
【糸満】沖縄戦当時、伊原第三外科壕で民間人として犠牲になった大田さん一家5人を祭った「赤心之塔」の慰霊式が19日、糸満市伊原のひめゆり平和祈念資料館前の同塔で開かれた。戦争体験の継承に関わる有志ら約10人が参加し、犠牲者の冥福を祈った。
同外科壕は、もともと伊原の住民が隠れていたが、戦闘の激化により、日本軍が住民を追い出し、野戦病院として使用するようになったという。大田さん一家は、幼い子供三人を連れていたため、壕に残ることを許されたが、68年前の6月19日、米軍によるガス弾攻撃を受けて、ひめゆり学徒らと共に犠牲になった。母の故トシさんだけが生き延びた。
慰霊式は1993年から始まり、トシさんが亡くなった95年から、有志が執り行うようになった。慰霊式では金光教那覇教会の林雅信さんが祭詞をささげた。
「琉球新報」から転載させて頂きました
「梯梧之塔」
「ひめゆりの塔」に向かって右側の敷地に「梯梧之塔」はありますが、奥まった所にあるので国道311号線からは見えません。写真のお土産屋さんの駐車場の奥にありますので、とても解りにくかったのですが、数年前ご覧のような案内掲示板が設置され、この奥に「梯梧之塔」がある事が周知されるようになりました。
お土産屋さんの駐車場の奥にこんもり茂った森がありますが、その一角に「梯梧之塔」があります。このまま歩みを進めてみましょう。
「梯梧(デイゴ)之塔」が見えてきました。敷地としては「ひめゆりの塔」に隣接する場所にありますが、お土産屋さんの駐車場の更に奥にあるので、初めて訪れる場合は見つけにくいかもしれません。
長く続けられている金光教沖縄遺骨収集奉仕活動では、遺骨収集運営委員会が主催する総勢400~500人の参加者で遺骨収集奉仕作業が実施される期間が長く続きましたが、これだけの人々が一度に集合整列出来る広場の確保に苦慮していたのが実情でしたが、「梯梧之塔」前にあるお土産屋さんのとても広い駐車場に本部を設置して活動した年が何度もありました。
お土産屋さんのご厚意により広い駐車場の一角を利用させてもらう事が可能であった訳ですが、本部テントがお土産屋さんの駐車場に設置された年は必ず「梯梧之塔」前で、遺骨収集奉仕活動最終日に執り行われる現地慰霊祭を仕えられるという、思い出深い慰霊塔でもあります。
参道にピンクのハイビスカスが咲いていました。
戦没された60名の職員・生徒を祀る「梯梧之塔」です。
「梯梧之塔」説明碑文です。ギリギリ読めますね。
「梯梧之塔」沖縄昭和高等女学校説明碑文です。ギリギリ読めますね。
お二方が詩を詠まれていますが、右側の詩を詠まれた藤岡豊子氏は、第62師団(石部隊)を率いた藤岡中将の奥様です。その事を教えて下さったのが、他ならぬ梯梧同窓会長照屋ヒデ様でした。
経緯をご紹介しますと、照屋ヒデ様から私宛にお手紙を頂きました。お手紙を頂いたのは今から27年前となりますが、二枚の便箋にびっしり書き込まれた文面の中に、「故藤岡中将の御令室様が参拝に御出下さいまして、丁度梯梧の花が咲く時節でございましたので、その花をご覧になりお寄せ下さいました。…」と書き記されていました。
なぜ照屋ヒデ様からお手紙を頂いたのか。その理由はお手紙を頂いたその年、今から30年前ですが、遺骨収集を終えた翌日、有志が集まって梯梧之塔及びその周囲の清掃を行いました。その清掃の様子を金光教の遺骨収集奉仕活動では大変な功績を残された石原正一郎氏が照屋ヒデ様にお伝えしたようなのです。その結果照屋ヒデ様から清掃作業に関わる感謝の意を表するお手紙が私の所に届けられたという経緯です。文面には卒業証書を手にする事なく花の命を落とされた同窓生への追慕の念が、昨日の出来事のように鮮明に書き記されていました。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
《過去の写真ご紹介》
「梯梧之塔」での金光教現地慰霊祭の様子です。1990年2月に撮影したものです。祭壇に安置された段ボール箱の中には、お清め作業により綺麗に清掃されたご遺骨が納められています。二昔前ともなりますと、二日間の遺骨収集でこんなにもご遺骨が発見されていたのですね。
この年の遺骨収集奉仕活動では、二つの記名遺品が発見され(三角定規と記名された認識票)、二つともご遺族の元に届けられるという印象深い出来事がありました。
《過去の写真ご紹介》
「梯梧之塔」での金光教現地慰霊祭の様子です。1990年2月に撮影ですから、今から26年前に撮影された写真という事になります。林先生や大庭さんをはじめとする関係者の皆様がとても若い姿で写し込まれているのが印象的ですね。この慰霊祭の時は旧私立沖縄昭和高等女学校関係者の皆様も多数参列されていました。
遺骨収集ルート整備
昨日作業を終えてから、金光教那覇教会に報告を兼ねて、縄ばしご等の資材を受け取りに行って参りました。林先生も作業が順調に進んでいる事に喜んで居られました。
本日は終日松永さんとの二人だけの作業となります。松永さんには連日作業に当たって頂き頭が下がります。本当にお疲れ様と言いたいですね。本日は若干の危険作業も伴いますので、事故の無いように注意しながら、今日も一日頑張りましょう。(^o^)
西側ルート崖部分に縄ばしご設置
今日の午前中の作業は、西側ルート崖部分に縄ばしご設置する事です。写真は公園の歩道部分から撮影しましたが、まずここから崖部分まで道を作り、崖部分に縄ばしごを掛けるという手順で作業を進めます。
縄ばしご完成です。まだ手摺りもなくて未完成ではありますが、縄ばしごそのものは設置されました。何度か歩いてみましたが、結果は良好です。これなら70歳台のご高齢の参加者でも、それほど手こずる事なく行き来できそうですよ。勿論本番では、崖側に安全を確保するための補助をする方を複数人立て、崖から転落するなどの事故を防ぐようにする予定です。
参加記に何度も登場している、ひめゆりの塔の向かいにあるお店ですよね。思いの外観光客の人たちは居なくて、多く地元の方が立ち寄っています。この付近で昼食を食べる方は、ぜひ立ち寄ってみて下さいませ。
今日のお昼ご飯は、沖縄料理の「てびち」です。とても美味しかったですよ。
東側ルート崖部分の難所を整備
写真中央あたりが、東側ルートの入り口となります。奥の方にアダンが繁茂している一帯がありますが、そこは大体道として完成しています。今から公園入り口から道を作っていきます。
アダン帯に入りました。若干の補助作業をしながら道をより歩きやすくして行きます。
東側ルートで一番の難所がここです。もう少し前に出て下さい。
おそるおそる出てみますと、こんな感じです。高低差2.5メートルぐらいあると前に書きましたが、上から見ると身長分嵩上げされますので、より一層高低差があり、ここから落ちたら死ぬとも思えませんが、上から見た限り、本当に降りられるの?という印象が湧いて参ります。
私たちなら問題なくここを行き来出来ますが、「70歳台の参加者でも安全に行き来できる」という課題をクリアー出来なければ、道として使えません。私と松永さんは思案に暮れてしまいました…。
二人で考えたアイデアは…。と言いますと、聞いて下さい。作戦名として、「アダン枝葉落とし込み作戦」を思いついたのです。(笑)
そうです、アダンをこの崖下に大量に落とし込んで、段差を無くしてしまおうという作戦です。勿論ゼロにする必要はありません。崖上1メートルぐらいは手足が掛けられる場所が沢山ありますので、下の方の1.5メートルぐらいをアダンで埋めてしまえば、この崖部分は安全に行き来できるようになるはずです。それでは作戦開始~。(^o^)(^o^)(^o^)
松永さんと私は、本日までに通路構築で切り落としたアダンの枝葉が、通路部分に置いてあるので、それらの枝葉を片っ端から、ちょっと重いですが引きずって来て、崖下に落とし続けました。なんか子供の頃のいたずらっ子の遊びみたいで楽しかったですよ~。(^o^)
ナナホシキンカメムシがいました。金緑色の美しい金属光沢で、正に黄金色に輝くカメムシ君ですね。色合いから離れていてもすごく目立ちます。あまりに目立ちすぎて、天敵のターゲットになりはしないかと心配されるほどです。(笑)
ちなみに本種は触れても悪臭を放つことはないそうですよ。
うわ~、凄い。アダンは嵩張るので、多く落とさなくともドンドン嵩上げされました。いずれにしても段差が大幅に緩和されました~。人間の知恵は偉大ですね。(^o^)
上から見たらこんな感じです。バッチシだと思いますよ~。崖上1メートルぐらいは、ご覧のように全く問題なく行き来できます。
※二日前の様子
この写真は13日、つまり二日前の同じ場所の写真です。アダン落とし込みにより、いかに段差が解消されたかが見てとれますね。(^o^)
※自然保護という観点から、アダンという植物を大量に切り倒すのは問題だと思われる方がいらっしゃるかもしれませんが、アダンは一二年で原状回復するレベルまで植生が回復します。私はこれまで30年に亘りそのアダンの強靱な生命力を目の当たりにして参りました。ですからアダンについては、過剰な切り倒しという罪悪感は一切ありません。あしからず。
※あくまでも、やがて土に帰る植物を投げ込むのであって、半永久的に残る土砂を投げ込むのとは一線を画していると判断していますが、アダンを投げ込む通路部分については、落とし込む前に、沖縄戦当時の岩肌を露出させるまで周囲から飛んできたと思われる土を払いのけ、しっかりと遺骨収集を済ませ、御遺骨の不存在を確認してから作業を開始しましたので、やりたい放題やっている、或いは今後の遺骨収集をやりにくくする無謀な行為だ、などと見なさないように御願いいたします。
そもそもこの摩文仁海岸線は、慶座絶壁(キーザバンタ)から大渡まで約3kmありますが、金光教が遺骨収集を止めれば、後は誰も遺骨収集しなくなると思いますよ。最近の10年間では沖縄遺骨収集の主軸である国吉さんが、3回ほど遺骨収集団体を引き連れて、摩文仁で遺骨収集をされたという情報がありまます。その国吉さんは御年77歳になられました。これまで60年間遺骨収集に従事されましたが、今年ついに遺骨収集からの引退を宣言されたのです。国吉さんの引退は、新聞記事にもなった程ですから、国吉さんの引退はとても象徴的であり、戦後の潮目の変わる時期に至っているとも言えますね。
ついでに申しますと、沖縄遺族連合会も遺族がご高齢になられたという理由で、昨年の遺骨収集をもって終了するに至りました。残された金光教も本年実施の43回をもって幕を閉じます。つまりラストチャンスである2月20日・21日に収骨されなかった沖縄戦戦没者の御遺骨は、まだ数百柱は存在すると見積もられるも、ここ摩文仁海岸線にほぼ確実に残置される事になるでしょう。残念な話ですが…。私はその残置される御遺骨が何よりも不憫でなりません…。
作業終了です。試しに登って見ましょう。お尻が写っていますが悪意はありませんからね。ごめんなさい。
「70歳台の参加者でも安全に行き来できる」という感触が得られなければ成功とは言えません。松永さんの体感では、なかなかいい感じだという話です。ちなみに松永さんの意見として、安全ロープがあれば尚良いという事で後でロープも垂らしておく事にしました。
松永さんの目の前に、枯れて数年が経過している枯れ木がありますが、根の部分も含めて無い方が登りやすいという事で撤去する事になりました。
枯れてからまだ年数と年数が浅いようで、岩に食い込んでいる根を切り離すのに手間取りました。結局全て撤去出来そうにないので、枯れた株は可能な限り小さくして、ルートを少しずらす事にしました。全体で30分ぐらい掛かったでしょうか~。大変な作業でしたが、格段に登り降りが楽になりました。嬉しいです。
西側ルート崖部分の縄ばしごに安全ロープ設置
西側ルート崖部分の縄ばしご設置場所に戻り、縄ばしご部分に落下防止の為の安全ロープを設置しました。
いい感じですよ。ロープに全体重を掛けても結束部が外れない事を確認しています。
松永さんの提案で、更に二重に安全ロープを設置する事にしました。本番では縄ばしごの崖側に複数人がサポートで立つことにしています。これにてほぼ確実に滑落は防げそうですね。これで本番の時に雨が降ってもうろたえることは無くなりました。良かった。
西側ルートのもう一つの難所を整備
ここは西側ルートの崖下部分では唯一の滑落の危険がある難所なのですが、ついに問題を解決し難所ではなく、ただの通りにくい場所になりました。安全ロープ使用により、岩場の何処を通るのかという誘導もほぼ万全です。ご覧下さい。昨夜那覇市のホームセンターで購入したものですが、アルミ製の脚立を置く事により、一気に問題点を解決しました。滑落の危険性もゼロになりました。頭は使うためにあるというのを実感しました。
後は写真中央の部分だけです。ここは砂時計のくびれた部分と同じように、ギリギリ人間が通れるというような狭さです。
この砂時計のくびれた部分に対し、私たちはどのような知恵で対応したか…。私たちが考えた作戦は「石工作戦」です。(笑)
沖縄で一度でも遺骨収集した方ならウンウンと肯いて下さるでしょう。沖縄の石灰岩は突起が凄くて、角に当たると「痛い」と声を出したくなるほどとても痛いんですよね~。ですから切り傷擦り傷も発生しやすいです。そこで石工が使う大きなハンマーを松永さんが持って居ると言う事で、本日持参して頂き、その石工ハンマーで石灰岩の突起部分を叩いて回ったのです。腕の筋肉を使う作業なので、これもまた時間の掛かる大変な作業でしたが、交替しながら作業を続け、岩面をご覧のような突起のないサラサラした表面にしてしまったのです。
通路としての空間面積は、それほど広くなった訳ではありませんが、何よりも痛い思いをしなくて済みますし、服も引っかかりにくくなりました。また突起が無くなった為に意外なほど通行しやすくなりました。これらをビフォーアフターを知る私たちも強く実感する事となりました。本番では、ここを通る人たちが、汗を流しながらハンマーを振るって作り上げた通路であるとは気づかないでしょうが、私たちはより通行しやすくなったと実感出来ただけで嬉しくなりました。ヤッターという高揚感を感じます。(^o^)