平成27年(2015年)沖縄遺骨収集奉仕活動
- 1月16日(金)故具志八重さんのお墓参り
- 1月17日(土)遺骨収集事前調査(林先生他4名)
- 1月18日(日)第9回摩文仁清掃奉仕、遺骨収集事前調査(林先生他6名)
- 2月07日(土)束里の構築壕と摩文仁で遺骨収集
- 2月08日(日)「沖縄県遺族連合会」の遺骨収集奉仕活動に参加
- 2月09日(月)摩文仁の沖縄守備軍第三十二軍関連壕で遺骨収集
- 2月10日(火)午前単独で、午後四名にて摩文仁で遺骨収集
- 2月11日(水)松永さん中里さん吉井さん福岡さんと摩文仁で遺骨収集
- 2月12日(木)福岡さんと二人で、遺骨収集範囲の表示作業
- 2月13日(金)吉井さん福岡さん田中さんと摩文仁で遺骨収集
- 2月14日(土)第42回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
- 2月15日(日)第42回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
2月7日(土) 束里の構築壕と摩文仁で遺骨収集
11時過ぎ、無事那覇空港に到着しました。(^o^)
思い起こせば、昨年は遺骨収集本番の前日に、首都圏を衷心に大雪が降りまして(雪国からみれば僅かな積雪ですが…)、羽田空港を中心に930便余りが欠航になったのでした。幸いに私の乗った便は、少し遅れる程度で羽田を離陸しましたが、誠にもって際どいタイミングでの沖縄入りとなりましたが、今年は天候については全く心配無く安心のフライトでした。(^o^)
今年も沖縄滞在は9日間となりますが、天候についても特に恵まれそうですよ。昨年は週間天気予報では、傘マークがほとんど全日並ぶという異例の事態でしたが、今年の週間天気予報では、逆にほとんど傘マークが無いですね。このような好天が続く年は10年に一度ぐらいの確率ですよ。予報が当たってくれれば作業もはかどり嬉しいです。
戦没者遺骨収集情報センターにご挨拶
再び沖縄にやって参りました。本番時は長丁場の9日間遺骨収集奉仕活動が続きますので、作業開始する前に私と松永さんとで「戦没者遺骨収集情報センター」にご挨拶を兼ねて訪問しました。
束里で遺骨収集&調査
沖縄守備軍第三十二軍に課された使命は、国家の興廃安危に関わるとして、米軍を牽制抑留し、そして出血を強要しつつ要地を確保し続けるという、戦略持久、又は持久防禦の方針で沖縄戦を戦い抜きました。
主戦場としての前田・仲間に連なる首里の複郭陣地帯撤退後は、真栄里、与座岳、八重瀬岳、具志頭を前縁とする喜屋武半島陣地帯に後退し、天然の要塞を形成している、東西約8キロ、南北約4キロの新しい陣地により最後の抗戦を試みんと、6月5日払暁までには沖縄守備軍全軍が、喜屋武半島陣地帯新陣地に集結を終えたようです。
ここ束里は、その喜屋武半島の新陣地帯の中に位置しており、小高い山並みが続くその稜線下には、沖縄戦開戦前にすでに第二十四師団築城隊により、賢固な構築壕を幾つも作ってありました。弾薬や糧秣の備蓄も怠りなく運び込まれていました。
沖縄守備軍の計画では、10万人もの兵士を地下に潜らせる壮大な計画がありましたから、束里だけでなく、嘉数高地以南には、至る所に築城隊により構築壕が作られました。今日は松永さんの案内で、束里にある数多い構築壕の中の一つに入ってみるようですよ。それでは参加記をご覧の皆様もご一緒に、沖縄戦に備え準備された構築壕の中に入ってみましょう。(^o^)
私達は車を農道の路肩に止め、徒歩で100メートルほど先にある壕に向かいました。道の両側には野菜畑がありまして、写真のこれはサツマイモ畑ですね。沖縄戦当時も同じように南部一帯にはサツマイモ畑やその他の野菜畑が広がっていた事でしょう。沖縄ではサツマイモを唐芋と呼ぶのかなと漠然と思っていましたが、違っていて紅芋(又は紫芋)と呼ぶそうですね。芋の色は黄色ではなく紫色をしています。現在は読谷村が紅芋の産地となっているようです。
沖縄戦が始まってからというもの、農村の人達は陣地構築などに駆り立てられ、手が回らないので、農作物の手入れは月明かりや星明かりの夜間行われたといいます。その農民の流した尊い汗が、避難する同胞を飢えから救ってくれたといいます。沖縄戦当時、村役場の達しもありましたが、地元の部落常会の申し合わせで、どの畑からも野菜を自由に採って食べて良いことになっていたと言います。これは農民の積極的な申し出もあったようですね。これにより南部を行き交う避難民は、生きんが為に盗むという暗い気持ちを味わうことなく、日々の糧を得ることができたのです。
また「沖縄はニューギニアなどと違い、甘藷(サツマイモ)とサトウキビがあるから、戦が始まっても心配ない」と言われていたそうです。実際にその通りで、かなりの部分サツマイモとサトウキビが避難民を飢えから救ってくれたと言えるでしょう。
林の中に入ってきましたが、まだかすかに道らしい雰囲気があります。
完全に山の中に入ってきましたし、勾配も強くなってきました。
この角度では入り口は見えませんが、どうやらここが目的の壕のようですよ。
壕入り口にて記念撮影をしました。四名にてこれから構築壕に入ります。
これが壕入り口です。開口部の最初は伏せながらやっと入れるという大きさです。馬乗り攻撃により、山の斜面から大量の土砂が落ちてきたから、入り口が狭くなっているのではないかと私達は推測しました。
10メートルほど中に入り、入り口方向を撮影しました。
入り口から見ると、左右に壕空間が延びています。左右どれくらいの長さがあるのかは、松永さんも解らないそうです。この写真は入り口から見て左側、つまり東側を見ています。
そして、この写真は入り口から見て右側、つまり西側を見ています。ちなみに西側は少し危険そうな雰囲気なので、深くは入らず引き返しました。入り口から見て、左右の分岐点付近が、すごく損壊や落盤が激しい状況です。恐らくは入り口から爆雷攻撃などを受けたのでしょう。
という事で東側に進んでみることにしました。
坑木も現存していますね。この付近はまだ落盤が激しいですね。
ご覧下さい。坑木ですが丸太ではなく、製材した角材となっていますよ。驚きですね。5月末の首里撤退以降に急ごしらえされた構築壕なら、とてもこんな丁寧な作業はできるはずもありません。この坑木だけ見ても、この壕は米軍が本島に上陸する以前に構築された陣地に違いありませんね。
東西約8キロ、南北約4キロの喜屋武半島は、地形の上からも自然の要塞でした。真栄里、与座岳、八重瀬岳、具志頭の山岳地帯に守られ、背後は断崖となり海に面していますからね。そうした要衝に米軍が本島上陸するまでの数ヶ月の間に、第二十四師団が中心となり至る所に陣地を構築し、弾薬や食料を大量に貯蔵していたという事が戦記にも複数記録がありますので間違いないと思われます。こうした構築壕などの築城作業には、数え切れないほど大勢の沖縄の人たちが関わりました。謙虚な奉仕の精神と、寡言黙行の県民性が、十分に食料と水が提供された訳でもないのに、このような全島に無類の要塞を築き上げたのでした。
倒れた坑木ですが、これも角材です。また壕の奥の方は坑木は設置されていないので、壕入り口付近のみ坑木が設置されていたようです。おそらく壕入り口を攻撃された場合に落盤して塞がれないように補強したという印象ですね。
坑木を固定したかすがいがありました。
ここも落盤が激しいですね。構築壕とは思えないほどです。
落盤が激しいので、遺留品を見つけるのは難しいと思えましたが、それでも時折露出している沖縄戦当時の遺品を目にする事ができました。
茶碗の破片や軍靴、その他金物など、よく見るといろんな遺留品が目につきます。これだけ大規模な構築壕ですから、組織的な遺骨収集は為されていると思われます。遺留品の配置を見ても、あるていど集められているという印象を受けます。
奥に進むにつれて落盤の状況も緩和され、少し身を屈めれば歩けるようになってきました。構築壕という雰囲気も出てきましたね。
「文字ではないか」という事で一生懸命解読に努めましたが、判読できませんでした。参加記をご覧になっている皆さんは、いかがですか。文字として読めますでしょうか。
まだまだ落盤した状況が続きます。ニービというのかな、石灰岩ではなく固い粘土質の土といってもよい状況ですから、艦砲砲弾を頭上にまともに受けた結果かもしれません。
遺留品が集められていました。軍靴やその他いろんなものがあると見てとれます。
軍靴の靴底ですね。やはり靴底が一番多いです。
手榴弾に似ていますが、形状は少し大きいですね。これは信管の装着された89式重擲弾筒用89式榴弾だと思われます。
これは印象深い写真ですよ。写真の壁天井に注目して下さいませ。壁と天井それぞれが二種類の色をしているのが印象的ですね。よく見て下さいませ。白っぽく見える壁と天井部分は、沖縄戦当時のままの壁天井だと思われます。一方飴色になっている壁と天井部分は、沖縄戦当時の馬乗り攻撃で、あるいは戦後の経年劣化により、落盤したり剥離したりした部分だと思われます。
壕入り口から50メートル近くは奥に入っていると思われますが、頭でイメージした距離と実距離は、たいがい実距離の方が短いですから、50メートルは進んでないかもしれません。それはともかく、ここまで来ると落盤している状況は全くなくて、ご覧のように壕の壁天井は白っぽい色、つまり沖縄戦当時のままの壁天井となっているのが見てとれますね。
「爆風は思いの外、壕の奥まで届かない」とよく言われますが、この光景を見ると、その指摘が正しいのが理解できますね。この壕の入り口付近における激しい落盤状況が嘘のように、壁や天井が沖縄戦当時のまま残されているという印象を受けます。ご覧のように奥に進めば進ほど立派な構築壕である事が解りますね。築城隊の皆さんが県民の皆さんと共に、主に手作業でここを掘り進んだのですね。この目の前に広がる空間の土砂をもっこなどでぜ~んぶ外部に運び出したという点だけをみても、目まいがするぐらいの労力が投入されたのが見てとれます。本当に本当にお疲れ様と、ねぎらいの言葉を掛けたい思いが募ります。また同時に、自分たちの手で日本を守るのだ…。という強い気概が伝わってくる思いが致します。
ご覧のように、壁面には至る所に小さな溝が掘られています。これはロウソクなどの明かりを置いた場所だと思われます。
この写真は解りやすいですね。小さな溝の上が煤で黒ずんでいるのが見てとれます。
更に奥に進むと、ご覧のように完全に落盤している状況でしたから前進できませんでした。もしかしたら違う出入り口の近くとなっており、ここも激しく馬乗り攻撃を受けて落盤した状況なのかもしれません。何時か機会があったら外から観察してみたいですね。という事でここで引き返しました。引き続き壕内をくまなく観察していきます。
トイレがありました。直線的な坑道に横穴を掘るような形で、トイレが設けられていました。横穴は立って歩ける高さがありました。写真の横穴を2メートルほど進むと右側の窪んでいる部分がトイレとなっています。トイレ部分は落盤もなく、とても綺麗な状況で残されていました。それではトイレに近づいてみましょう。
ここがトイレです。幅が80センチぐらい、奥行きは50センチぐらいです。このようなトイレが二カ所設けられていました。
焦げ茶色に変色している部分は、当時おそらく大小便があったところなのでしょう。床のレベルの壁に注目して下さいませ。よく見ますと、少し溝が掘られていますから、もしかしたらその部分に板を渡して、大便をしやすくしていたという事も考えられますね。溝を掘った理由はそれ以外考えられませんからね。
松永さんが、大便をする姿勢を示して下さいましたが、板を渡してない場合は、こういう姿勢で排便した可能性もありますね。アッそれから、沖縄戦当時はトイレットペーパーなどという便利な商品はありませんでした。では大便の後、お尻はどのように拭いたか…。答えは下にあります。
ユウナ(オオハマボウ、大浜朴、右納)ですね。ユウナは常緑の小高木ですけど、この写真の場合は背がまだとても小さかったです。南部戦跡では自生しているので見る事も多いですね。沖縄戦当時は、このユウナの葉がトイレットペーパー代わりに利用されていたといいます。使ったことは無いのですが、ちょうど手頃な大きさですよね。遺骨収集でジャングルに入り、野○される場合は、どうぞご利用下さいませ。(笑)
トイレの前には、ご覧のようにロウソクなどの明かりを置く場所がありましたから、それなりに明るい状況下で使用できたと推測されます。
帰り道も皆さん思い思いに遺留品などを捜しながら歩いています。
珍しい物があるという事で呼ばれましたが、小銃の薬莢が破裂したものらしいです。推測では馬乗り攻撃による激しい熱風により、破裂したのではないかという推測に落ち着きました。
少し探すと御遺骨も出てきますね。肋骨はハッキリと判別できますね。
オ~~~。オオゲジが居ました。結構デカいですよね~。壕内でよく見る小動物の一つです。
これはコウモリの糞ですね。一番奥まった部分まで前進してみましたが、この壕ではコウモリは見かけませんでした。
天井部分のみが落盤して飴色になっています。
壁面に大きな溝がありました。ここは明かり取りを置いたのではなく、他の目的で溝を掘ったのかもしれませんね。
指さしている部分に注目です。釘のような物が、あちこち打ち込まれています。推測では発電した電気を配線する際に、電線を固定したものではないかという話になりました。
これも釘です。ここは壁ですね。当然のことながら、比較的高い部分に釘は設置されています。
壁や天井に打ち付けられていたと思われる釘も落ちていました。長さ6センチありました。結構太いですよね。大工さんが使う普通の釘とは元々用途が違うのかもしれません。
壕入り口近くになると、再び落盤が激しくなってきました。
ご覧のように壁が剥離し浮いてきています。やがて内側に倒れるのでしょう。同じような現象はこの壕のあちこちに見られました。天井の落盤や壁の剥離は、馬乗り攻撃の影響が壕表面を脆くしたからなのか、あるいは壕自体も戦後70年経過していますから、経年劣化によるものなのか…。
いずれにしても、この壕のように人工的に掘られた構築壕では、経年劣化としっかり向き合っていかないと、遺骨収集を実施するに際して、危険性が増してしまうという問題点があるように思います。今後の検討課題として、しっかり向き合っていきたいと思います。
12時を過ぎたので壕の外に出ました。広い内部空間でしたから、酸欠の心配は全くありませんでした。
琉球豆柿の葉に蛾が止まっていました。中里さんの話では、琉球豆柿は実に毒があり、子供の頃魚獲りに使ったことがあるそうですよ。(^o^)
ナナホシキンカメムシがいました。(^o^)
金緑色の美しい金属光沢で、正に黄金色に輝くカメムシ君ですね。色合いから離れていてもすごく目立ちます。あまりに目立ちすぎて、天敵のターゲットになりはしないかと心配されるほどです。ちなみに本種は触れても悪臭を放つことはないそうですよ。
とてもユニークなナナフシモドキ君も居ました。(^o^)
一方でこちらの虫は目立ちませんね~。草むらに居たらまず気づかないでしょう。誠に地味そのものです。ナナフシはにはいろんな種類がありますが、これはナナフシモドキのようです。ナナフシモドキは擬態昆虫で熱帯性の昆虫ですから、東南アジアやアマゾンに多く生息しているようですが、意外にも本州でも見られるようです。
この昆虫は実に面白い形態をしていますよね~~。中里さんが草むらの中に居るのを発見したわけですが、私はナナフシモドキという虫を見たことがないので、中里さんが草むらの中を指さして、「ほらここに居るよ」と何度いわれても容易に発見できませんでした。
草むらの中に居るのを撮影しても識別できないと思われたので、ゴム長靴に止まらせて撮影しました。ナナフシモドキは擬態昆虫ですから、さすがに今は黒色にはなっていませんが、緑色ですとか、枯れ木と同じような茶色っぽい色合いにもなるようです。参加記をご覧になっている皆様も如何でしょうか~。夜行性で昼は枝葉に擬態している、こんな姿のナナフシモドキ君が、草むらに居てもまず発見できませんよね。
追記:
今年の六月頃、ナナフシ君(正確な種類は不明です)が我が家の花壇に居る事を発見しました。枯れ木色に擬態していましたが、ビックリしました。今年沖縄でナナフシモドキ君を見たせいで、観察眼が増した事が発見に繋がったものと思われます。(^o^)
「沖縄決戦」 高級参謀の手記
八原博通著 読売新聞社 昭和47年(1972年)初版
前線に於ける戦列部隊の退却ほど難しいものはないと言えるでしょう。第三十二軍司令部は、東西約8キロ、南北約4キロの喜屋武半島こそ、軍が最後の戦いを試みんとする場所として、五月下旬首里からの退却作戦を実施しました。
その成否は…。といいますと、大成功だったようです。こうした経緯で、本日午前中に入った束里の構築壕も、首里撤退後の最終決戦の拠点陣地として、作戦に用いられた可能性が極めて高いですね。
5月下旬になると沖縄に雨期が訪れますが、守備軍は雨期の到来を待っていました。米軍の戦車や飛行機の活動が衰えるからです。退却攻勢に際しての実施案は、上掲の「沖縄決戦」によりますと、次のようなものでした。転載させて頂きます。
【退却攻勢】
第一、喜屋武半島防御部署の概要
1,具志頭、八重瀬岳、与座岳、国吉、真栄里の線をもって、軍の新主陣地帯の前線とする。
2,混成旅団は、具志頭付近より八重瀬岳に亘る間に陣地を占領する。
3,第二十四師団は、右は混成旅団に連撃し、与座岳を経て、真栄里に亘る間に陣地を占領する。
4,第六十二師団は、軍の背面海岸正面の守備に任じつつ、兵力の整頓、休養を行い、随時陸正面随処に、応援し得る態勢を整う。
5,軍砲兵隊は、主力をもって真栄平付近以東の地区に陣地を占領し、随時随処に、主火力を集中し得る如く準備する。戦闘準備の重点は、第二十四師団正面とする。
6,海軍陸戦隊は、軍主陣地中央部に位置し、軍の総予備隊となる。
第二、首里戦線より、新防御陣地への退却部署の概要
退却の一般の方針は、退却作戦の原則に従い、一挙に喜屋武陣地帯に後退するのを主眼とした。しかし、軍本来の作戦目的が、本土決戦のため戦略持久するにあるので、新陣地線に至る約十二キロの間の、地形的要線ならびに無数に存在する洞窟を利用して、ドイツ軍のいわゆる地域的持久抵抗を実施せんとする意図も相当濃厚である。その概要は次の如くである。
1,第二十四師団および混成旅団の主力は、X日夜、現戦線を撤退する。わが主力の後退を秘匿し、かつ努めて長く現陣地内において敵の追撃を阻止するために、一部の部隊を残置する。残置部隊後退の時期はX+2日と予定する。
2,軍砲兵隊はX-1日夜後退する。一部砲兵を、退却地域内に縦深に配置し、軍主力の後退を援護するとともに、第一線各兵団の行う地域的持久抵抗に協同する。
3,小禄地区海軍根拠地隊は、長堂北側高地以西国場川南岸の線を占領し、軍主力の退却を援護する。退却の時機は、軍司令官後命する。
4,第二十四師団は、有力なる一部を、津嘉山東西の線、ならびに饒波川の線に各配置し、敵の追撃を遅滞せしめる。これらの部隊は、右翼方面においては、第六十二師団主力、左翼方面においては、海軍部隊と、それぞれ密接に連繋を確実ならしむるために、津嘉山に、軍情報収集所を開設する。右両部隊退却の時機は、X+4日夜と予定するも、軍司令官後命する。
5,第六十二師団は依然現任務を続行し、与那原方面の敵の撃攘に努め、己むを得ざるも極力その追撃を阻止し、軍の退却作戦を容易ならしめる。
6,各兵団の退却地域の境界を、左の如く定める。第六十二師団、第二十四師団間。宮平、神里、東風平、与那城の線(線上は第二十四師団に属す)、第二十四師団、混成旅団間。松川、国場、嘉数、小城の線(線上は混成旅団に属し)、小城以南の地域は共用し得ることとする。
7,軍司令部はX-2日夜、まず津嘉山に後退し、X日夜、摩文仁南方89高地に移動する。
8,X日は、5月29日と予定する。
「沖縄決戦」から転載させて頂きました
梅雨入りしてからというもの、沖縄特有の豪雨により、敵戦車、飛行機、艦艇の活動力が減殺されており、軍の退却行動は順調に進み、6月5日頃までには、東西8キロ、南北4キロの喜屋武新陣地に集結を終えました。
退却時の損耗は1万、終結し終えた残存兵力は3万人と推計され、沖縄守備軍第三十二軍は、喜屋武新陣地内に全軍の約一ヶ月分の糧秣を準備し、各部隊、各個人が携行したものを加算すると、倍加する見通しであったようです。喜屋武新陣地に依る激闘はご存じの通りです。詳細はいずれ機会を見てご紹介したいと思います。
摩文仁にて遺骨収集
束里の構築壕を無事に出ましたが、まだ時間が午後3時を廻ったところなので、引き続き摩文仁で遺骨収集に関わる調査をする事になりました。
昨年の話ですが松永さん達が、摩文仁で大腿骨などの御遺骨を発見したそうです。しかしながらよく観察すると、その骨はとても新しそうに見える事から、沖縄戦戦没者の御遺骨には見えなかったと言います。そこで遺骨収集情報センターを通じて警察に見てもらった結果、やはり戦後の御遺骨であるという事になったそうです。つまりその御遺骨は、事件か事故で、或いは自殺により摩文仁のジャングル内で白骨化したのではないかという訳ですね。
と言う事で昨年のその御遺骨発見場所、場所は平和祈念公園内の国立戦没者墓苑裏手ジャングル付近になりますが、そこに行って他にまだ御遺骨があるのか無いのか再調査する事になりました。松永さんの話では、発見されたその数本の御遺骨は崖下付近にあったそうです。昨年は時間が無くて崖上の方はまだ見ていないという事ですから、御遺骨発見場所の崖上側を重点的に調査する事になりそうですね。
平和祈念公園の駐車場に車を止めて、徒歩で目的の場所に向かいました。写真は新築された売店ですね。
売店の裏にある建物です。公園の管理資材置き場となっているようですが、ここに戦没者遺骨仮安置室があります。この建物も売店と同時に新築されましたね。
戦没者遺骨仮安置室です。この中に一年間に収骨された御遺骨が安置されています。中を見たことがないので広さは解りませんが、外見からして四畳半から六畳ぐらいの広さでしょうかね。おそらく棚が整然と並んでいるのでしょう。
発見された御遺骨についてですが、御遺骨は焼骨すると遺族を特定するためのDNA鑑定が困難になる事から、NPO団体の要請もあり、沖縄県では平成25年から焼骨を停止しているようです。国も御遺骨のDNAデータベース化を推進する方針を示していることもあり、遺族特定のために保管を継続する方針に転換したようです。となると御遺骨は増える一方ですから、ここだけではなく他の場所にも安置する場所を県側で確保したようですから、今後は複数箇所で御遺骨を安置する事になりそうです。
国立戦没者墓苑です。昭和54年に創建されたもので、参拝所の建物は老朽化が進み、屋根等などに亀裂がある事から、現在はご覧のようにフェンスで囲まれて立ち入り禁止となっています。改築等は今年度中を予定しているとのことですから、来年には新装成った参拝所がお目見えすることでしょう。
ちなみに右側に見える初代納骨堂は、沖縄産の琉球トラバーチン石一千個を用いて、沖縄古来の方法で積み上げられているそうですが、昨年石の表面を研磨した事から、新築のような綺麗な石組みになりましたね。
摩文仁ジャングルに入る前に、私達も国立戦没者墓苑で献花・焼香しました。沖縄戦戦没者の皆様のご冥福を心より祈念申し上げます。m(_ _)m
さあそれでは御遺骨発見場所に向かいます。事故の無いように気をつけて前進しましょう。
巨大な岩の亀裂部分に沿って下っていきます。この風景は見覚えがある…。という方がいらっしゃったとしたら、それは凄い事ですよ。そうなんです。このルートは過去三度ほど、神奈川県鎌倉市にある栄光学園の生徒さんを対象に、この先にある巨大な壕で平和学習が行われましたが、その壕に至るルートなんですね。
この辺りが中間点でしょうかね。ここまでは楽ちんコースですが、これから先に何カ所か難所があるのです。
難所の一つ目です。非常に狭い岩の割れ目を下っていくのです。
難所も無事通過しました。この先に壕がありますので、ご一緒に入って見ましょう。
壕に入りましたね。岩の割れ目にあるような壕です。地面付近は、雨が降ると平和祈念公園内の側溝に集まった雨水が流れてくるので、川のようになるみたいで、いつも雨水と共に流れてくるビニールゴミが至る所にみられます。
壕全体としては数百人は収容できそうなとても大きな壕です。また非常に複雑な形状をした壕でもありますね。人によっては迷うかもしれません。それだけこの付近は、“岩の亀裂” が縦横に走っているという事ですね。
壕の出入り口が見えてきました。この壕は出入り口だけでも五カ所あります。前文で書きましたが、それだけ複雑な壕なんですね。ちなみに金光教でも20年以上前ですが、この壕は何度か集中的に調査しています。
壕から出ましたね。壕が長いせいか、光がやけに嬉しい気持ちになりました。
「この辺りに御遺骨があった」と、中里さんが説明して下さいました。この付近にご遺骨が無いか、皆で手分けして一定時間探しましたが、新たな御遺骨の発見はありませんでした。確かに御遺骨発見場所は、崖のすぐそばですから、なるほど崖上から落ちてきたという可能性も十分にありそうです。
崖の上に登って見ようという話になりました。が、ご覧下さいませ。といいつつ崖上を撮影したのでは、普通の風景の撮影になってしまいますから、崖の勾配を把握して頂けるように撮影してみました。ご覧下さい、崖の勾配を。ほとんど垂直に近いという勾配ですよ~。ここを登るんですか~。(^^;)
もしもこの急勾配が岩肌だったら、登坂はほとんど不可能ですが、幸いに低木ながら木が生えているので、「枝に手を掛けながら登れば行けるんじゃなか」という無責任な意見があり、(^^;) 私は「オイオイ」という気持ちになりましたが、多数意見で登ることになりました~。(^^;)
登坂予定は20メートル。そのうち半分ぐらい登ったでしょうか~。勾配を表現するために、この方向で撮影しています。左側の斜めになっている部分が、崖の勾配を表しています。凄く急な傾斜を登っているというのが理解してもらえると思います。一つ安心なのは、落ちても多分木に引っかかる可能性があるという事でしょうかね。(笑)
崖の上に出ました。(^o^)(^o^)(^o^)
無事に全員登り終えました。目測で20メートルぐらい登ったでしょうかね。おっと風景を楽しんでいる場合ではありません。崖上から御遺骨が落ちてきたという予測を検証するために、崖上一帯を皆で手分けして御遺骨を探しました。結果としては一片の御遺骨も発見できませんでした。という事で、崖下で発見した大腿骨などの御遺骨は、崖上から落ちてきたものではないという事になりました。
となると他の選択肢、例えば海難事故による死者の御遺骨という視点でみると、この御遺骨発見場所が標高30メートルぐらいあり、台風等の大波で運び上げられたとは考えられませんので却下となり、残るは例えば野犬や他の動物が、他の場所から遺体の一部を咥えて来て、この現場で食べた…。というような推理しか思い浮かびませんね~。
いずれにしても、松永さん達が発見した御遺骨発見場所では、他の御遺骨が残置している可能性がありますので、この付近一帯ではそうした視点でも遺骨収集奉仕活動をする必要があります。ちなみに、金光教の来年の遺骨収集は、この場所を含む、この地域を調査・収集する予定ですから、来年の遺骨収集で発見されるかも知れません。
残念ながら、更なる御遺骨の発見は成りませんでしたが、崖上に御遺骨は無かったというのも一つの成果ですからね。十分に意義のある調査であったと思いますよ。という事で、帰路につくことになりましたが、「来た道を帰るのは芸が無い」という事で、別のルートから帰ることになりました。このように往路復路を別ルートにすれば、二倍の見聞ができるという事になりますから、皆様にもお勧めです。
登坂ルートの難易度は、往路復路同程度ですね。事故の無いように、気をつけて登っていきましょう。
写真で見るよりも勾配のきつい難所の一つです。一歩一歩確実に踏み込んでいきましょう。
公園の管理区域が近づいて来ましたが、最後の50メートルぐらいは、木々が生い茂り周囲の様子が全く見えませんのでコンパスは不可欠です。多くの人が経験していると思いますが、ジャングルではコンパスがないとあらぬ方向に行ってしまいますからね。今回もロスのないほぼ直線状態で踏破できました。いつも切込隊長みたいな事をしていますが、これがまた楽しいんですよ。(^o^)