平成27年(2015年)沖縄遺骨収集奉仕活動
- 1月16日(金)故具志八重さんのお墓参り
- 1月17日(土)遺骨収集事前調査(林先生他4名)
- 1月18日(日)第9回摩文仁清掃奉仕、遺骨収集事前調査(林先生他6名)
- 2月07日(土)束里の構築壕と摩文仁で遺骨収集
- 2月08日(日)「沖縄県遺族連合会」の遺骨収集奉仕活動に参加
- 2月09日(月)摩文仁の沖縄守備軍第三十二軍関連壕で遺骨収集
- 2月10日(火)午前単独で、午後四名にて摩文仁で遺骨収集
- 2月11日(水)松永さん中里さん吉井さん福岡さんと摩文仁で遺骨収集
- 2月12日(木)福岡さんと二人で、遺骨収集範囲の表示作業
- 2月13日(金)吉井さん福岡さん田中さんと摩文仁で遺骨収集
- 2月14日(土)第42回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
- 2月15日(日)第42回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
2月12日(木) 福岡さんと二人で、遺骨収集範囲の表示作業
今日の天気予報は、午前が降水確率60%と厳しいですが、午後は晴れ間もあるとの事です。確かにホテルを出発する時は軽い雨が降っていましたが、雰囲気的には回復傾向にあると見ました。今日も頑張ります。
今朝の慰霊巡拝は、「山雨の塔」「萬華之塔」、そして「梯梧之塔」の三カ所です。それではご一緒に参拝しましょう。(^o^)
「山雨の塔」
糸満市宇江城にある「山雨の塔」です。「山雨の塔」は喜屋武防衛陣地の内側に位置し、付近には真壁集落や真栄平集落があります。写真の様に平坦な場所に慰霊塔はあります。塔に向かって左側20メートルぐらい離れた場所にある壕は、「暗川」という意味で「クラガーガマ」と地元民は呼ぶそうです。
「山雨の塔」は、昭和37年(1962年)に建立されたもので、第24師団(山部隊)を率いた雨宮中将と幕僚や兵士500余柱が合祀されています。中央の塔が雨宮中将、両脇の塔が部下の幕僚を表し、部下である幕僚が雨宮中将を助けている形を象徴しているそうです。
御霊様のご冥福を心より祈念申し上げます。m(_ _)m
「歩兵第二十二連隊軍旗奉焼之地」と書かれています。
【慰霊碑碑文】
大東亜戦争の局運急を告ぐるや昭和十九年八月遙か北満より雨宮巽中将の銃ぶる山兵団長躯沖縄の布陣に参加す翌二十年四月一日上陸せる米軍を迎撃血戦三ヶ月に及んで刃折れ弾尽き六月三十日兵以下幕僚等此の地宇江城跡に於て自刃悠久の大義に生く茲に南方同胞援護会の助成を得て碑を建て永くその偉烈を傳う
昭和三十七年十月 財団法人沖縄遺族連合会
地面に置かれた碑石です。同部隊に所属して戦没された兵隊さんの御遺族(お母さん)がこの石に刻まれた碑文をこの境内に置かれたものと思われます。碑文はほぼ読めますね。
慰霊塔敷地のすぐ隣にある「暗川」という意味で、地元では「クラガーガマ」と呼ばれている壕です。「ガー」ですから川となっている訳ですが、壕口に湧く水は不思議にも、壕の奥に向かって流れています。この「クラガーガマ」は第24師団が陣地として使用していましたが、米軍の馬乗り攻撃により、壕内で亡くなった日本軍将兵は、一説には千人とも二千人とも言われているそうです。また最後には雨宮中将もこの壕で自決されました。
※ちなみに現在は「クラガーガマ」は鉄柵が設けられ立ち入り禁止となっています。この写真は鉄柵の中に手を差し入れて撮影しています。
平成19年(2007年)金光教の遺骨収集により、「クラガーガマ」から発見された御遺骨をご紹介させて頂きます。
目を見開きしっかりと見届けて下さいませ。
「クラガーガマ」から発見された御遺骨
御霊様に申し上げます。
戦争の悲惨さを指し示す為に、御遺骨を頭骨と共にサイトに掲載させて頂きました。なにとぞ御了承下さいませ。御霊様におかれましては、安住の地に安らかに御鎮まり下さいますようお願い申し上げます。私達は目をそらす事なく30秒以上この御遺骨を見つめなければなりません。また
私達は戦争により起こりうる悲惨さを、この目でしっかり見届けておかなければなりません。
【平成19年(2007年)2月18日金光教遺骨収集にて発見・収骨】
御霊様のご冥福を心より祈念申し上げます。m(_ _)m
「萬華之塔」
「萬華之塔」です。この慰霊塔は真壁集落の北東に位置し、道路を挟んで反対側には「JA 糸満市集出荷場 真壁支所」という倉庫のような大きな建物がありますので、目印にされると見つけやすいかもしれません。「萬華之塔」以外にも守備軍に関わる数多くの慰霊塔・慰霊碑が立ち並んでいる事から、この付近では喜屋武陣地における激戦が展開され、玉砕する兵団が多かったものと推測されます。
「萬華之塔」は昭和26年に建立されましたが、現在の慰霊塔は平成15年に立て替えた塔です。初代の塔は、戦後真壁部落の住民が付近に散乱していた約1万9千人余りの戦没者ご遺骨を勤労奉仕により収骨し、また寄付により納骨堂を建てたものだそうですよ。また金光教那覇教会の林先生は、毎年沖縄慰霊の日に合わせて、同塔で慰霊祭を執り行っています。
「萬華之塔」の寄付芳名録という事になるでしょう。五円とか十円とか書かれています。同塔は昭和26年に建立されましたが、昭和26年といえば、まだまだ食べるものにも事欠く時代でした。そんな状況の中で真壁集落の人たちは地域に散乱するご遺骨を収集し、寄付を募り「萬華之塔」を建立し、そして慰霊塔を守り続けて下さったのですね…。
よく見ると「弗」という文字も見えます。「ドル」でなく「弗」ですから、何か時代を感じさせますよね。もうひとつ沖縄では米国占領時代 「B円」(ビーえん)という貨幣が使用されていた時期があるんですね。
「砲兵山吹之塔」です。こちらは野戦重砲兵第一連隊(球第4401部隊)連隊長山根忠大佐以下、戦没将兵739名が祀られています。昭和41年(1966年)6月、同連隊の生存者によって建立されたそうです。
「萬華之塔」や「砲兵山吹之塔」の解説文が書かれています。かなり長い文章です。慰霊巡拝の折りにはぜひ読んでみて下さいませ。
独立重砲兵第百大隊(球18804部隊)の鎮魂碑です。
「馬魂碑」です。沖縄戦では沢山の軍馬が動員されましたが、亡くなった軍馬の慰霊碑なのですね。沖縄戦では本土から沢山の軍馬が搬送されましたが、一方でここ沖縄の在来馬もその多くが軍馬として動員されたそうです。ちなみに真壁にはもう一カ所「馬魂碑」がありますね。
「萬華之塔」の右側には、ご覧のような舗装された歩道があります。この歩道を50メートル程進むと大きな壕があります。
アンディラガマ(真壁千人洞)
壕が見えてきましたね。壕の名前は「アンディラガマ」(真壁千人洞)といいます。
アンディラガマ(真壁千人洞)の壕口です。結構大きく口を開けていますね。一人ですから、あまり深くは入れませんが、少しだけ中に入ってみましょう。
15メートルぐらい中に入ったところです。平和学習などで使われているのでしょうかね。路面は固結していますし、一筋の道がキッチリ出来ています。写真奥右側へと洞窟は続いています。もう少し入って見ましょう。
馬乗り攻撃を受けた跡でしょうか。壁面がかなり黒ずんでいますね。
壕入り口を撮影しました。一人ですから、これ以上深く入るのは止めましょう。
ご覧のように一カ所に遺品が集められていました。遺品を見る限り、守備軍兵士と共に避難民の方々も居られたと推測されますね。
壕の更に奥を撮影しましたが、暗くなってしまいました。かなり奥深いとは聞いていますので、何時か機会があれば最奥部まで調査してみたいですね。ちなみにここから100メートル以内にあると思われる、第二十四師団野戦病院分院だった「アンガーガマ」は、一度最奥部まで調査したことがあります。
福岡さんと遺骨収集範囲の表示作業
今日は福岡さんと二人で、14日(土曜日)、15日(日曜日)に実施される金光教の遺骨収集の為に区域を仕切るためにロープ張りをおこないます。福岡さんの肩に掛けてあるバッグの中にナイロンロープが入っています。という事では、本日は遺骨収集作業は実施しない予定です。それでは福岡さん、よろしくお願いします。
当該地域にやって参りました。私がバッサバッサと斬り込み隊の先陣を切るように道を切り開きます。頑張りますよ。参加記をご覧になっている皆様も、私のペースについて来られるなら、ぜひついて来て下さいね。速いですよ~。
今まで通った事のないルートも道を作る予定です。ルートは単にナイロンロープを張るだけでなく、人が通れるように枝葉を全て取り払いますので結構大変ですよ。枝葉を取り払えば払うほど、当日参加者の皆さんが楽に当該現場に到着できますからね。アッそれから、参加者を危険に晒すわけには参りません。一定以上のリスクあるルートは設けません。どうしても危険な場所を通ることになる場合は、その危険部分だけロープを展開し、落下等危険を防止する措置を講じます。
瀬戸物の瓶がありますね。爆風で割れてしまったのでしょうか。
逆光に写る風景が美しいですね。そんな景色に見とれている余裕はありません。先を急ぎましょう。
オー、二股に分かれています。右に行ってみましょう。一瞬の判断が大切ですよ。自分を信じて…。
問題なく通れますね。
まだまだ行けます。行け行けどんどん。
見晴らしの良い場所に出ましたね。今のところ頭と実際の方向感覚は合っていますので問題ありません。位置関係もしっかり把握しています。
アダンではないのでトゲは無いのですが、結構やっかいな根といいましょうか枝といいましょうか。通りにくいですね。この様な場合は、若干枝を落とさせて頂きます。
ここを入って見ましょう。
隠れるにはここも良い場所ですね~。
壕を出ますとご覧のように見晴らしの良い場所に出ました。
再び壕に入りました。壕と言うより岩の割れ目かな。前進してみましょう。
出ましたね。更に登って見ましょう。
また同じような岩の割れ目があります。行けそうですね。
行けます。行けます。
幻想的な雰囲気ですね~。しばし立ち止まっていたい雰囲気です。
前に岩があり、ここも良い隠れ場所ですね~。大勢入れますよ。
下にも壕がありますが、パスして先を急ぎましょう。
岩の割れ目ですね。
問題なく進めますね。直進しま~す。
ワオッ、凄い。艦砲の不発弾です。デカいですね~。
メジャーを当ててみますと、信管部分は脱落して無いので、本体部分だけの寸法となりますが、ちょうど60センチありますね。これほど長い砲弾は初めて見ました。福岡さんも初めて見たと語っていました。ちなみに砲弾には赤テープが巻かれていますから、昔金光教の遺骨収集で発見されテープが巻かれたという事になります。金光教は少なくともここ13年間はこの地域で遺骨収集奉仕活動をしていませんから、13年以上前にテープは巻かれた事になりますね。
砲弾の直径は約20センチですね。それにしても、これだけ肉厚の鉄が爆発と共に四散するのですから、その破壊力はとてつもなく強大でしょうね。
日本陸軍軍装品の一つでしょう。皮製でベルトに装着するようになっていますね。