平成27年(2015年)沖縄遺骨収集奉仕活動
- 1月16日(金)故具志八重さんのお墓参り
- 1月17日(土)遺骨収集事前調査(林先生他4名)
- 1月18日(日)第9回摩文仁清掃奉仕、遺骨収集事前調査(林先生他6名)
- 2月07日(土)束里の構築壕と摩文仁で遺骨収集
- 2月08日(日)「沖縄県遺族連合会」の遺骨収集奉仕活動に参加
- 2月09日(月)摩文仁の沖縄守備軍第三十二軍関連壕で遺骨収集
- 2月10日(火)午前単独で、午後四名にて摩文仁で遺骨収集
- 2月11日(水)松永さん中里さん吉井さん福岡さんと摩文仁で遺骨収集
- 2月12日(木)福岡さんと二人で、遺骨収集範囲の表示作業
- 2月13日(金)吉井さん福岡さん田中さんと摩文仁で遺骨収集
- 2月14日(土)第42回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
- 2月15日(日)第42回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
2月11日(水) 松永さん中里さん吉井さん福岡さんと摩文仁で遺骨収集
今日の天気予報は、晴れ、最高気温19度ですから、結構暑くなりそうです。今日も雨の心配はありません。松永さんによると、今年は沖縄は雨が少ないと語っていました。
今朝の慰霊巡拝は、「陸軍病院第二外科壕」「糸洲の壕(ウッカーガマ)」、そして「轟壕」の三カ所です。それではご一緒に参拝しましょう。(^o^)
私の車の中を公開しま~す。(^o^)
遺骨収集をやられている方なら、作業終了後服がドロドロに汚れたという経験をお持ちですよね。一方で、そのドロドロ服で車の内装を汚してしまい、レンタカー会社に弁済…。なんて事は絶対に避けねばなりませんよね。
ジャーン!! その対策のために、ご覧のようにビニールシートを常用して、椅子等の汚れを防いでいます。写真手前は助手席ですから、まだ誰も座ったことがないので、敷いたときのままですから、とても綺麗です。運転席の方は…。少しくたびれた感じですが、服が汚れている場合は、しっかり椅子を被覆して座るようにしています。今年は雨が少ないから、ご覧のようにほとんど汚れていませんね。(^o^)
この写真は、トランク側のドアを開けて見ています。後部座席を倒して、その上にビニールシートを敷いています。装備品や服装の着替えで、こちらは落ち葉や土などの細かいゴミが沢山トランクルームに落ちてしまいます。そうなるとレンタカーを返す時の清掃が大変ですから、ビニールシートを敷いておけば、後片付けが本当に楽ちんです。ビニールをそのまま車外に持ち出し、サヨナラ~といいながら、ビニールを風になびかせれば、ゴミはぜ~んぶ飛んでいきます。(笑)
ちなみに、このビニールシートは100円で購入したのではありません。100円では防水性能が心配なので、ホームセンターで防水性能を確認した上で購入しました。(^o^)
「陸軍病院第二外科壕」
道路脇のご覧のような林の中に「陸軍病院第二外科壕」別名「糸洲第二外科壕」があります。接続する道路は狭いですが、付近に空き地があり車一台ぐらいなら駐車するスペースもありますね。
「陸軍病院第二外科壕」から南方面を見ています。
「陸軍病院第二外科壕跡」という石碑があります。奥の方に見える穴がその壕です。本日のこの「陸軍病院第二外科壕」の慰霊巡拝により、沖縄陸軍病院に関わる本部・第一外科・第二外科・第三外科の壕四カ所を巡拝した事になりますね。
壕に穴が開けられていました。平成24年以前はしっかりと土盛りされて穴なんて見えないようになっていました。誰かが土砂を除けて中に入ったものと思われます。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
壕の中にはコンクリート製の納骨堂があります。
納骨堂の蓋も開けられていますね。正に墓泥棒にやられたという雰囲気ですが、ここ4年間こうした状況に変化がなく、納骨堂の蓋も開けられたままです。いずれにしてもここから先はどのようになっているのでしょうか。病院壕ですから、かなり奥まであるのではと推測していますが、一人では行けないので、ここから先の様子は見た事はないです。
糸洲の壕(ウッカーガマ)
糸満市糸洲の国道331号線を走っていると、ご覧のような看板が目に入ってきます。この看板見た事あるという方も多いかもですね。ちなみに先ほど巡拝した「陸軍病院第二外科壕」別名「糸洲第二外科壕」は写真左手の坂道を登って稜線を超えてすぐの、概ね100メートル先の右側にありますので、近いですから相互を慰霊巡拝される事を推奨します。
ただし、「糸洲の壕(ウッカーガマ)」は畑が広がるその一角にありますし、駐車場も無きに等しいので路肩駐車となります。このような状況ですから、駐車する車により農道を塞がれたりして、過去に地元農民との間で壕を閉鎖するとかしないとかのトラブルが多発し、実際に一時期閉鎖された時もありましたので、路上駐車する場合の場所選びは慎重に御願いいたします。
看板には「山第二野戦病院小池隊最後の地 積徳高女学徒看護隊(糸洲の壕)」と書かれています。「山」とは沖縄第三十二軍第二十四師団(師団長・雨宮巽中将)の通称名です。ここから80メートルだそうですから行ってみましょう。
まず目に入ってきたのは、「第二十四師団野戦病院鎮魂之碑」です。説明文として「この洞窟は第二十四師団山第二野戦病院の跡である。長野富山石川県出身の将兵、現地召集兵並びに従軍看護婦積徳高等女学校看護隊が傷病兵を収容した壕跡である」と書かれています。糸洲の壕はこの碑の背面にあります。
それでは第二十四師団野戦病院であった糸洲の壕に入ってみましょう。
路肩には自生のインパチェンスが咲き誇っていました。
コンクリート製の階段になっていますが、結構な勾配がありますね。
奥へと進み振り返って撮影しました。大きな開口部ですよね。米軍のトンボからよく見えたでしょう。
特に祭壇のような場所が無かったので、この場所に献花して手を合わせました。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
この壕は前年の米軍による奇襲、いわゆる十・十空襲以降から地元部落民により避難壕として使われていましたが、日本軍の戦線後退に伴い、第24師団第二野戦病院糸洲分院壕として、5月下旬から使われはじめ、学徒動員された私立積徳高等女学校の学徒看護隊員も同時に入壕したようです。
結局この糸洲壕も6月20日頃に、米軍による馬乗り攻撃を受け、ガス弾や爆雷を投げ込まれるなど激しく攻撃され、重症患者など100名以上の犠牲者が出た模様ですが、馬乗り攻撃に耐え、この壕内で陣頭指揮に当たっていた山第二野戦病院小池隊長は、6月26日の解散命令に際し、私立積徳高女学徒看護隊の生徒に「決して死んではいけない。必ず生きて家族の元へ帰りなさい」と語ったというのです。
「沖縄戦の学徒隊」 愛と鮮血の記録
金城和彦著 日本図書センター 平成4年(1992年)初版
【沖縄戦の学徒隊】
それから間もなく、壕内に緊張した空気がみなぎり、看護隊に集合の命令があった。
小池隊長は、「長いこと軍とともに行動していただき本当にご苦労であった。しかし、もはや事態はこれ以上皆さんを一緒に行動させることはできない。
兵隊は最後まで戦うのが当然であるが、皆さんは勉強途上にある生徒であり、しかも将来国を背負ってもらわねばならぬ大事な身である。
死ぬことだけが、国に対するご奉公ではない。私にも皆さんぐらいの子供があるが、皆さんを見ていると、自分の子供のように思えて、何としても、一緒に死地に連れて行くのは忍び得ない。
皆さんは、他府県の生徒に比べるとかわいそうでならない。それだけにぜひ生きのびて、沖縄戦を他府県の生徒に知らせてもらいたい」
と訓示し、私たち生徒の一人一人の手をしっかり握って、別れを告げられた。少佐の頬は涙で濡れていた。
やがて小池少佐が30分後に自刃されたことを私たちは知った。
それは、壕外に出た友の一人が、忘れ物をしたことに気づき、壕に引き返したとき、すでに割腹して最後を遂げられた少佐の遺体を見たからだ。
壕外は危険であるから、決して団体行動をとらず、いつでも、二三名ぐらいで行動せよ……。という少佐の言葉を守り、私たちは二三名づつ組を作り、十四五分おきに壕を出た。
私は真栄田さん、仲地さんと一緒に、壕の中で拾った一発の手榴弾をしっかり持って、最後の時はこれで自決する決心で、三人固く手を握り合い、死の脱出に向かったのである。
【積徳高等女学校四年生津波古照子さん「手記・うるまの島の夢破れ」の記述部分】
「沖縄戦の学徒隊」から転載させて頂きました
山第二野戦病院小池隊長は、当初この壕に配属された生徒に対し、驚くことにいろんな理由をつけて50名中25名を家族の元へ帰してしまいました。また居残った25名の生徒に対しても優しく励ましてくれたり、危険に曝さないようにとの特別の配慮が為された事により、この壕での学徒看護隊員の犠牲者は3名に留まりました。
沖縄にあった女子校は、公立私立を問わず7校すべてが、動員命令の対象になりましたが、私立積徳高等女学校徒看護隊は動員64名のうち犠牲者は4名だけという事で、他の学徒隊との比較をしても際だった生存率であったようです。
「轟壕」
国道331号線と交わる県道との交差点近くに、この階段がありますので、この階段を見つければしめたものです。轟壕前の県道も、三年ぐらい前に拡幅工事がなされて、随分と広い道路となりました。相変わらず駐車スペースは乗用車数台しか止められませんが、これまで満杯だった事はないので、乗用車なら確実に壕前に駐車できます。
階段を登ると、写真の様に幅の広い通路となっていますので歩きやすいと思います。徒歩50メートル程度で壕口に達します。
さあここからは階段を降りていきますよ。イメージして下さい。30メートル以上の大きな臼があり、臼の底までは20メートルぐらいあるというような、形は少しデコボコしていますが、ともかくこのような巨大な臼があり、今からその臼の底まで降りて行くことになります。階段はご覧のようにコンクリート製になっていますので、比較的安心して歩けますが、やはり雨の日は要注意という印象ですね。
階段の中間点付近から、壕口を撮影してみましたが、ちょっと見にくいですね~。写真中央よりも少し左よりの部分に黒い穴が見えますよね。その穴がいわゆる轟壕の本来の壕口となります。
壁面には黒い色をした部分も多いです。だいぶ色褪せては居ますが、米軍による馬乗り攻撃を受けた際の黒煙が今もあちこち残っています。
祭壇のような場所があったので生花を手向け、ここで戦没者のご冥福をお祈りしました。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
階段の途中で入り口方面を撮影してみました。臼というには余りに奇形ですが、すり鉢状になっているは理解してもらえると思います。(^o^)
ここが壕口ですね。狭いですよ。人一人がやっと通れるような狭さです。
3メートルほど中に入って撮影しました。ヘルメットを被っていないので、ここで止めました。もうしばらくは狭い通路状態が続きます。壕そのものは1キロ以上の長さがあるとも言われていますので、巨大な壕という事になります。黒いケーブルは農家が設置した取水用のホースです。壕内には川が流れていまして、沖縄戦当時水には困らなかったと思われますが、沖縄が梅雨に入り、それ以降の大雨の時には、壕内に大量の雨水が流れ込み、避難していた民間人が流されたと、平和学習ガイドの松永さんは語っています。
壕口から出入り口方面を撮影しました。
「はいチーズ (^o^)」
今年も生花販売店の皆様と共に記念撮影をさせて頂きました。生花販売店の皆様、いつもいつも暖かい激励の言葉を私達に掛けて下さいましてありがとうございます。花売りおばさん達は年間を通して取り組んでおられますから、寒い冬は勿論、暑い夏などは店頭に立つだけでも本当に大変だと思いますが、健康に留意され頑張っていつまでもお仕事を続けて下さいませ。これからもよろしくお願いしま~す。(^o^)
ついでに サイト管理人の写真で~す。(^o^)
ご無沙汰しております。
お陰様でサイト開設11年目となりました。
サイト管理人が登場するのは、おそらく数年ぶり二度目ですね。
皆様には「南部戦跡に膝をつきて」にいつもご訪問下さいまして有り難うございます。お待たせしてばかりで、いつも迅速にサイトアップが出来なくて恐縮しております。m(_ _)m
エッ 顔が見えないですって。
………
了解です。
下に顔の写っている写真を掲載させて頂きました~。(^o^)
サイト管理人がどこに写っているか当てて下さい。(笑)
摩文仁で遺骨収集
本日の遺骨収集では、まず事前調査の時に私が発見した御遺骨を、今朝お集まりの皆さんに見て頂き、沖縄戦戦没者の御遺骨なのか、それとも自殺・他殺そして事故死等の戦後の遺骨なのかどうかを判定をして頂く事になりましたので、まずはその御遺骨発見場所に向かいました。
本日は、松永さん中里さん、吉井さん福岡さん、そして私の五名で調査と遺骨収集とを行います。皆さんよろしくお願いします。
まずは金光教の今年の遺骨収集地域に向かいます。この場所はジャングルに入ってすぐの所ですから、ご覧のように道があります。今日は晴れの天気なので、ジャングルがとても明るいです。こうした明るい日こそチャンスですから、ぜひ御遺骨を発見したいですね~。
昨年の金光教の遺骨収集奉仕活動では二柱の御遺骨が見つかりましたが、その内の一柱見つかった現場で、皆さんが手を合わせ、ご冥福をお祈りしました。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
それではいよいよ道無き道を進み、御遺骨発見場所に向かいます。
開けた場所に出ました。あと少しで到着です。
御遺骨発見場所に到着しました。現場はこのような開けた場所にあるのでとても明るい雰囲気です。それでは御遺骨のある場所に近づいてみましょう。
この御遺骨が、1月17日(土)の事前調査の時に私が発見した御遺骨です。一番大きな骨は膝から下の脛骨です。
中里さんに遺御骨の状況を観察してもらっている所で、今は下の穴から取り出した骨盤を手に考察しています。中里さんは元警察官で鑑識の仕事もされたそうで、修羅場を何度も見てきたそうです。今回中里さんに見てもらう最大の目的は、沖縄戦戦没者の御遺骨なのか、それとも自殺・他殺そして海難事故死等の戦後の遺骨なのかの判定してもらう事にあります。
脛骨の表面の様子を写しています。この劣化具合からして近年の御遺骨ではないと推測されますが如何に…。
御遺骨発見場所の真上を写しています。ご覧のように大きな岩が覆いかぶさる様にあります。高さおよそ15メートルぐらいでしょうか。上から自殺しようと飛び降りれば確実に死に至るでしょう。私達は飛び降り自殺の可能性があるとして、この岩山に登ってみようと、この巨岩を一周し登れるような場所を探しましたが、結果として人が登れそうなルートは無い事が判明しましたので、この岩の上から飛び降り自殺したという可能性は消えました。
次の可能性としての事故ですが、船舶の海難事故が考えられます。近くの慶良間海域では、年間結構な数の船舶による転覆遭難死があるそうです。私もこれまで何度か海難事故により摩文仁海岸線に漂着した御遺骨を実際に手にとり見た事がありますが、海難事故の場合は、大腿骨とか脛骨そして上腕骨とか、大きな骨が1本あるいは数本が見つかるケースが多いです。そしてその特徴として、骨がとても白く、表面がつやつやしているのが最大の特徴でした。また脊髄とか手足の細かい骨は同時には一切見つからないという特徴もあります。
そうした状況と比較して、今回発見された御遺骨の表面は、それに対局するレベルの、とても劣化した表面となっていますし、細かい御遺骨も散見されます。そして何よりも、台風などの荒天時、この場所まで波に乗って打ち上げられるかどうかを、皆さんで検証しましたが、「この場所まで骨が打ち上げられる可能性は無い」という結論に達しました。(^o^)
この写真は脛骨がある場所の少し南側を見ています。福岡さんが居ますが、この下の方にも、発見後遺骨の一部が落ちている可能性もありますね。
「御遺骨が沢山ある~」と一人が叫びました。(^o^)
な~んだ、発見された脛骨からわずか1.5メートルの所に、腰から上の御遺骨が大量にある事が判明しました。枝葉や枯れ草そして小岩等でカモフラージュされていて気づきませんでしたが、ご覧下さいませ。よく見ると沢山の御遺骨がそのまま見えます。
落ち葉を除けるとご覧のように沢山の御遺骨が見えます。土の中ではなく、戦没後70年経過した地表骨ですから劣化が激しいですね。慎重に応接しましょう。
腕や手の細かい御遺骨を中心に沢山見えますね。(^o^)
本格的な収骨は金光教の遺骨収集で御願いすることになりますので、今は手足等の大きな御遺骨の数を確認し、単独一人なのか複数人なのかの確認をしています。単独一人なら、記名遺品があれば、故郷に帰れる可能性が出てきますからね。(^o^)
吉井さんが御遺骨を観察していますが、御遺骨は単独一人で決定のようです。これで収骨時が楽しみになってきましたよ~。そして何よりも、目の前にある御遺骨は、全体の劣化具合から戦後のものではなく、遺留品が出ても出なくても、沖縄戦戦没者の御遺骨に間違いないと、全員の意見の一致を見ました。
発見された御遺骨は、沖縄戦戦没者の御遺骨に間違いないという結論に達しましたが、では何故、御遺骨が露出した状態でここにあったのか…。
といいますのも、金光教の遺骨収集に於ける過去の記録を調べてみますと、全教あげて大規模に実施された運営委員会時代に、私達が立っているこの地域は、第1回、第21回、第22回、第24回、第25回、第26回の6回も収骨地域として指定され、全教あげて収骨作業が実施された地域なのです。実際にこの付近では、金光教の遺骨収集作業が終わったという目印の青テープが至る所に巻かれています。ですから、誰でも付近を通れば発見できるような、見事に地表に露出した状態で、且つ大きくて目立つ脛骨のような御遺骨が、これまで発見されないまま残されてきたのか不思議でなりませんでした。
この私の疑念を吉井さんの一言が見事に解決してくれました。吉井さんが目の前の植物を指さし、「この木がもっと茂っていて見えなくしていたのでは!」と語りました。そう聞いて、私の記憶の中にある何かが弾けたようです。
この写真の左側にある木といいますか植物に注目して下さい。名称は不明ですが、この蔓性で匍匐性の低木がこの辺り、恐らく畳にして20畳ぐらいの広さですけど、この植物がびっしり茂っている風景がまざまざと私の脳裏に蘇ってきました~。この植物がビッシリ茂っている風景を少なくとも二度は見ている!!。信じてもらえないかもしれませんけど、ビッシリ茂っている風景を、今でもしっかり脳裏に記憶していました。この植物がこの様な広範な規模で繁茂しているのは、摩文仁ではここでしか見られませんから、強く印象に残ったものと思われます。
金光教が最後にこの地に収集に入ったのが、第26回目ですから、それは平成14年で、今から13年前という事になります。という事で13年前の段階では、この植物でビッシリ覆われていたので、遺骨収集でこの辺りに来られた人達も、この付近には無いだろうと素通りされ続けたという事になろうかと思います。
金光教の遺骨収集団以外に、この地域に遺骨収集で入る団体なんてありませんから、この13年の間に、自然界には植生の変化としてよくある事ですが、この植物が徐々に徐々に草勢を無くして植生範囲の規模を縮小していった…。実際に枯れ枝も目立ちますから間違いないと思います。
そしてある年からこの御遺骨がついに露出し始め、今年の1月17日(土曜日)、沖縄戦で亡くなられてから70年目にして初めて、この場所に来た私に発見されたという事になろうかと思います。
この戦没者は、戦死された後、70年もの長きにわたり、この岩の上で来る日も来る日も風雪に打たれ、台風の雨風に洗われ続けました。そしていつの日か誰かが見つけてくれるだろうと待っていたのでした。ですから御遺骨を発見したのは偶然ではないと思えます。御霊様が「もう最後なんだってね。こっちに居るよ」と、私を導いて下さったに違いありません。
改めて戦没された御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
この辺りの畳にして20畳ぐらいの広さで、ご覧の植物がビッシリ茂っていましたが、今はこうして植生下の岩肌や地面が見えたりしています。
ご覧のように茂ると岩肌や地面が全く見えなくなりますし、蔓が幾重にも絡んで、地肌を見ようとしても容易には見ることが出来ません。こうした困難さが、この御遺骨の発見を70年間もの長きに亘り阻止し続けたものと思われます。
よく見ますと、この植物の枯れ枝も目立ちますね。こうして枯れながら少しずつ繁茂する範囲が縮小していったものと思われます。
御遺骨発見場所での対応を一区切りつきました。これ以降は、少し離れた場所で、引き続き遺骨収集を続けます。
小さな穴があり、中を覗いてみると、かなり広い空間がありました。何としても下りてみなければ…。周囲に入れそうな入り口がないか必死に探すも無いので断念!!。
晴れで明るい天気なのですが、皆さん結構ライトを使っていますね。
信じられないかもしれませんが、頭上にある太い枝ば全部アダンですよ。こんな岩場で良く生きてますね~。
これもぜ~んぶアダンです。(笑)
アダンの下は真っ暗です。ライトの照射は必須ですね。
アダンの葉の鋸刃です。切れ味が良さそうですね~。作業時に手や顔を近づける場合は十分注意しましょう。
これは「ニガナ」と言います。苦みがあるのでニガナと呼ぶそうです。ニガナは琉球王朝の時代から滋養食とされた薬草の一種で、健胃剤としても重宝されたようです。沖縄全域に自生しているそうですが、近年は自生株が減ったために、自家栽培も盛んになっているようですよ。栽培といっても、沖縄では根ごと掘り起こして移植すれば、後は放ったらかしでも通年栽培が可能だとの事です。遺骨収集奉仕活動を続けている方なら、「見たことある」という方が多いと思いますね。(^o^)
吉井さんですが、遺品が出てきたそうです。
松永さん福岡さんが、張り付いて探しています。
鉄製であるのは解りますが、これなんの部品でしょうね~。
これも鉄製ですが、何なのかサッパリ解りませんね~。
手に乗せてみました。こんな大きさです。これが何かお解りの方はメール下さいませ。
御遺骨発見場所に隣接する巨大な岩の裾には、隠れるのに都合の良い大きめな穴が複数ありまして、遺品が多く出てくる事もあり、皆さんで集中的に調査する事になりました。
黒い塊は日本軍の手榴弾です。
これも日本軍の手榴弾ですね。戦後70年、さすがに劣化が激しいですね。
吉井さんが指さしている場所に、解りにくいのですが日本軍の手榴弾があります。
缶というのは解りますが、底が浅いですね。通常の食料が入っている缶とは形状とか開け方が少し違って見えますね。
私も初めて見ました。文字はかなり読みにくいのですが、最初に書かれた大きい文字は、「除毒包使用法」と書かれています。ネットで調べてみますと、日本陸軍軍装品の一つで、毒ガス兵器であるマスタードガス(イペリットガス)等の、タンパク質と反応して肌をただれさせる糜爛(びらん)性ガスが皮膚に付着した際に、除洗する為の薬品で、使用法は薬剤を水に溶かして、肌の汚染部分に擦り込むという事のようです。
ここを突き抜けると更に大きな岩の亀裂があります。
ご覧のように巨岩の割れ目ですから、艦砲砲弾の影響は全く受けないと思われます。この奥にも広めの空間がありますので、先に進んでみましょう。
少し広めの空間に居ますが、更に先にはご覧のような開口部が開いていますが、北側にメンしていますので、海からもそして陸からの砲撃も防げる絶好の場所ですね。
食料用の缶詰がありますね。この辺りに兵隊さんが居たようです。
この奥に更に別の部屋があるようです。入って見ましょう。
良い隠れ場所ですね~。
日本軍の手榴弾が二個ありますね。雨露に当たる場所ではありませんが劣化が激しいです。
この場所は隠れるには最高の場所でした。開口部が見えますね。行ってみましょう。
更に先に進んでみましょう。
複雑ですね~。これらも艦砲砲弾の影響で岩が崩れたのでしょうか。?
日本軍の手榴弾ですね。相変わらず劣化が激しいです。
少し解りにくいのですが、日本軍の手榴弾ですね。
現地でこの風景を見たら、独特の色合いなので凄く綺麗です。この雰囲気をぜひ写真に収めたいと記録しました。なぜこの色合いになるのか不思議でなりません。ただこの写真を見ている皆様に理解してもらえますかね~。というのは、残念ですが写真にしてしまうと色あせてしまいます。う~ん、残念。!!
遺品が沢山出てきているようです。
未使用の銃弾が出てきているようです。
こんなに銃弾が見つかりました。カセットに装填されたままの銃弾もありますね。
中里さんの所も遺品が出てきていますね。
吉井さんも頑張っています。
そろそろ作業終了の時刻となったので、吉井さんが居られる場所から、私一人高台に登り偵察です。来たルートとは違うルートで帰ろうとしたわけですが、良いルートが見つかりました。
福岡さんが印鑑を見つけました。左側の物は金属製の印鑑入れですね。
3時間余りの作業でご覧のような遺品が見つかりました。手榴弾については沢山発見しましたが、劣化が激しく持つ事も不可能な物が多かったのでそのままにしておきました。ここにも手榴弾が二個ありますが、ギリギリ持ち上げられた物だけ現場から持ち出したものです。
遺品として展示価値のありそうな物は、松永さんが南風原文化センターに持ち帰る事にしています。また銃弾や手榴弾は、後日この場所の近くで遺骨収集が実施されるので、危険でないように、一カ所にまとめて赤テープを巻き、目立つように岩陰に置く予定です。
中里さんですが、遺品について詳しいですね~。ビックリしました。さすがに元警察官です。脱帽で~す。
調査・遺骨収集作業も無事終わりました。別ルートから帰り始めました。皆さんお疲れ様でした。
すでに帰路についていますが、昨年御遺骨が発見された場所に立ち寄り、皆さんで色々と情報交換している所です。御遺骨と共にとても大きな艦砲砲弾もここで発見されました。
昨年発見された御遺骨は二柱でしたが、もう一カ所の御遺骨発見場所に出たので、気がかりな場所があるという人も居たので、この辺りで少し探してみようという話になりまして、分散して探す事になりました。皆さん熱心ですよね~。
どでかい岩ですよね。この付近はこのような岩場がとても多いところです。
松永さんも壕の中でクマデを振るっていました。
再び帰路につきました。ここは通信隊が居た壕ですが、沖縄から本土に向け最後の電波が発信された場所だと言われています。
ご覧のように激しく攻撃を受け、壁面は未だに黒く焦げているのが見えますね。
ジャングルから全員無事に出る事が出来ました。お疲れ様でした。亀甲墓が見えますが、手前にある二本の木はシクンシ科の「クワデーサー」(和名:モモタマナ、コバテイシ(枯葉手樹))の木ですね。落葉していて説明するのもなんですが…。
同じ沖縄でも離島ではクバディサーと呼ぶ地域もあるそうです。沖縄では珍しく紅葉する落葉樹でもありますね。死者の魂を鎮める木とも言われ、お墓の周囲に植えられることも多いそうです。平和祈念公園内の平和の礎の周りにも植えられていますよね。沖縄でこの木は “人の悲しみや涙を飲んで育つ木” と言われていているそうです。松永さんも「人の泣き声を聞いて成長する」と仰っていました。
これはクワデーサーの実ですね。食べられるとの事ですが、あまり美味しい物ではないようです。ちなみにコウモリの大好物だそうですよ。
「白梅之塔」
「白梅之塔」です。いつ来ても感ずるのですが、清掃が行き届いていますね。
華やかさはありませんが、いつも寒緋桜が私達を出迎えてくれます。
「白梅之塔」は、沖縄県立第二高等女学校職員生徒戦没者を祀る慰霊塔です。沖縄戦に学徒として動員され戦死した22名の白梅隊員をはじめ、戦争が原因で亡くなった教職員12柱、同窓生113柱、計147柱が合祀されています。(1998年6月現在)
「白梅之塔」は何時来ても生花が供えられ絶えることがありません。今回も例外ではありませんが、例年と違い白い花が沢山献花されていました。推測するに、数日前にこの場を拠点に団体による遺骨収集が実施された模様で、恐らく最終日に「白梅之塔」で慰霊祭を執り行った模様です。
吉井さん、福岡さんです。私を含めた三人は数え切れないぐらい「白梅之塔」に慰霊巡拝で訪れ手を合わせています。「今年も来ましたよ」これだけなんですけど、若い乙女らが喜んでくれるような気がしてならないのです…。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
読めますね。白梅学徒看護隊の軌跡が記されています。「同年6月21、22日の両日に亘り、米軍の猛攻撃を受け無念の最期を遂げた」とあります。米第十軍司令官バックナー中将が、前線視察中に日本軍の砲撃により国吉台地で戦死したのが6月18日ですから、碑文の21、22日の両日あたりは、米軍による報復攻撃は凄まじいものであったと推察されます。
また「この辺一帯は、白梅隊員の最も多くの犠牲者が出た所である」という事で、白梅隊戦死者22名のうち10名が戦死した(うち6名は慰霊塔右側にある自決之壕で戦死)、通称ウテル原(ばる)と呼ぶ国吉のゆかりの地に「白梅之塔」が建立されました。 国吉・真栄里地域には、五基の慰霊塔が建立されています。小さな集落にこれだけ慰霊塔がある事からしても、国吉台地がいかに与座に連なる喜屋武防衛陣地の要衝であったかが解りますね。
「沖縄県立第二高等女学校職員生徒戦没者名」です。
初代の「白梅之碑」で、昭和22年1月に建立されたものです。この碑は「戦没された学友たちの供養は私達の責務」として、先生方、同期生、そして同窓生などの尽力と協力により、建立されると共に第1回目の慰霊祭が執り行われたのです。この碑は当初国吉集落の南の丘の上にありましたが、昭和26年に現在の敷地に移設され、同時に現在のような立派な「白梅之塔」が建立されました。現在の塔は三代目です。現地に行かれましたらぜひ、この初代「白梅之碑」を探してみて下さい。すぐに見つかると思いますよ。
碑の裏側を見ています。元教諭金城宏吉さんが詠んだ詩が刻まれています。金城宏吉さんは沖縄戦当時の引率教員のお一人で、教え子の亡骸を見つけようと、自決之壕での遺骨収集もされた方です。
戦後三十五年目の卒業式
沖縄県立第二高等女学校の白梅学徒同期生の間で、「卒業証書を頂けないだろうか」という話が、戦後三十年を経て持ち上がったそうです。そうした経緯もあり、金城宏吉先生の指導を仰ぎながら、6月23日に亡くなった学友たちの墓前白梅之塔で行うという方針が定まりまして、沖縄の「ウスーコー(法事)」は、三十三回忌をもって終わりますので、白梅隊ご遺族の心情にも配慮しつつ、昭和52年の三十三回忌明けの二年後となる昭和54年(1979年)に、戦後三十五年目の節目に、白梅学徒同期生の卒業式が執り行われたそうです。
「白梅 沖縄県立第二高等女学校看護隊の記録」という本の中に、その三十五年目の卒業式の様子が書き記されていますので、引用させて頂きます。(^o^)
「白梅」 沖縄県立第二高等女学校看護隊の記録
白梅同窓会編著 クリエイティブ21 平成12年(2000年)初版
【戦後三十五年目の卒業式】 東恩納 道子(旧姓・東恩納)
(ここまで省略)
1979年6月23日、戦後三十五年目の私たちの卒業式が行われました。開式の言葉は、西平一男先生、司会の仲田史子さん《現・東(昭和17年入学)》の声が、塔の庭に優しく、そして静かに、緑の梢の蝉時雨の中に消えていきました。日出ずる国 みんなみの み空も海も か青なる
懐かしい校歌。しっかり歌っているつもりなのですが、なぜか声になりません。金城先生の張り詰めたお声…。
「卒業証書 安仁屋 俊子 右ハ本校所定ノ学科ヲ…」
稲福全栄校長先生(戦没)が、あの激戦の中を大事に持ち歩かれた校印で、朱色も鮮やかに押印され、「安仁屋俊子」、「上原春江」と戦没した白梅隊員の名前が読み上げられ、御遺族の方が正面に進まれる。いくらか腰の曲がったお父様。そして、白いおぐしのお母様。証書の娘の名をジーッと…。赤いバラをお着けになった胸を震わされ、一筋の涙を1945(昭和20)年3月23日、貴女たち自身で手にした筈の卒業証書の上に。
例年にならい「仰げば尊し我が師の恩」の歌で、広い講堂を在校生に送られ、昭和二十年三月六日、地久節といわれた皇后誕生日が、私たち二十年卒の卒業式でしたが、前年の十・十空襲で、那覇市は九十パーセントが全焼し、私たちのモダンなコの字型の校舎も全焼。空襲後、校長先生方でやっと決めた二十年三月二十三日でした。その前日二十二日の夜中十二時まで、東風平の山部隊との交渉をされた金城宏吉先生の願いも空しく、二十三日から米軍の艦砲射撃が始まりました。今にして思えば、卒業式などできる筈がありませんでした。
時は過ぎました。そう、三十五年も…。
塔に眠る貴女たちと一緒にやる筈だった卒業式。遠く東京から肥後秀子さん(現・肥後)、四国の松江富貴子さん(現・戸梶)と鈴木ヤス子さん(現・久保)、鹿児島から須賀米子さん(現・大川)、福島シズエさん(現・平井)、悦田淑子さん(現・川路)たちが、宮古の大嶺信子さん(現・砂川)、八重山からは大山喜代さん(現・大山)、備瀬秀子さん(現・新垣)渡嘉敷スエさん(現・宮良)たちが出席し、涙、涙で証書を頂いて…。
式はゆっくりと時を刻み、万感の想いを込めて『仰げば尊し』
「白梅」から転載させて頂きました
「わが国の守りは私たちの手で」と健気な決意も新たに、みずから進んで看護隊に志願し、非業の死を遂げられた白梅隊員と共に挙行された念願の卒業式…。
同期生の念願であった卒業式の挙行を待っていたかのように、沖縄県立第二高等女学校の校章や三角定規、そして糸巻き、櫛などが見つかったそうです。これら校章などの遺品は、摩文仁に近い大渡の壕から発見され、これらは同校同窓会会長大嶺勝子さんに届けられましたが、なんと三十五年目の卒業式の前日だったそうです。
校章をその他の遺品を発見したのは、石原正一郎さんという方で、金光教の遺骨収集にも参加されており、私も随分とお話をする機会がありました。
ちなみに石原正一郎さんは、米上陸軍最高司令官サイモン・B・バックナー中将の、南部戦線での戦死に関わる日本軍の砲撃を指揮した野戦重砲第一連隊の中隊長だった方で、戦後は沖縄に通い詰めて遺骨収集に取り組み、すでに南部戦跡で累計六千柱以上のご遺骨を収集された方なのです。
石原さんによる沖縄県立第二高等女学校の校章や遺品を発見し、同校同窓会長にお届けした経緯などが「沖縄・白梅の悲話」(読売新聞大阪社会部編)に記載されていますので転載させて頂きます。
本文では、発見された校章に関する説明や、石原さんの人となりや遺骨収集に掛けるその思い、そして戦没された女子看護隊の純粋さ、至高さに寄せる慈愛に満ちた哀悼の念などが記載されていますので、ご覧下さいませ。
「沖縄・白梅の悲話」
読売新聞大阪社会部編著 昭和55年(1980年)初版
【沖縄白梅の悲話】
(107ページ)
沖縄の悲劇を語り継ぎたいという思いを抱くのは、沖縄の人たちばかりではない。この沖縄シリーズ第一章『白梅』で、沖縄県立第二高女の三十五年ぶりの卒業式を待っていたかのように校章「白梅」が摩文仁の壕から見つかった、と書いたが、発掘されたのは、それだけではなかった。三角定規、おはじき、糸巻き、それに櫛もあった。
白梅隊員、上原初代さんのお宅で、まるで宝物のように大切に守られているこれらの品々を見せてもらったとき、三浦美佐子さんも河内さんも、あの戦いの様から考えて、まさに貴重品ともいえる、これら五つの遺品をだれが、どうして発見したのか、知りたかった。上原さんは「この人が、私たちのために持ってきて下さった、と聞いておりますが」と一枚の名刺を示した。
帰阪してすぐ、河内は東京で、その人、石原正一郎さんに会った。六十二歳。マユが太い。早稲田大学出身。沖縄で玉砕した野戦重砲兵第一連隊の元大尉である。
渋谷区千駄ヶ谷のマンションで、石原さんは、太く、低い声で、校章に、女子学徒兵に寄せる思いを語った。
石原さんは、昭和四十一年から、沖縄南部地区で収骨を続け、その数はすでに六千柱。四十六回沖縄を訪れている。三十三回忌の年、五十二年以降は、野戦病院を重点に収骨した。病院の中で自決させられた兵は、さぞ無念だっただろう、引きずってでも壕から出していたら助かっただろうに、という思いが強かった。
与座、八重瀬岳から摩文仁まで、二十カ所近い病院壕には、まだ数多くの遺骨があった。そして、そのまわりから、櫛、手鏡、裁縫箱、おはじき、鉛筆……少女の持ちものがいくつも出てきた。
「私はね、戦友がね、彼女たちにたとえ、包帯のひと巻きでもしていただいたのだ、心をなぐさめていたのだ、と思うようになりました。そうしますと、あの娘さんたちの小さな、ほんとうに細々としたお品が、もういとおしくてたまらなくなってきましてねぇ、ありがとうございます、ありがとうと口にしながら集めたんです。 校章もそうです。摩文仁に近い大度の壕から出ました。大きな石を二十人がかりで引き揚げました。その下に大人のご遺骨と、校章がありました。そばには少女の歯がありました」
石原さんは、すぐその校章などを同窓会の大嶺勝子会長に届けた。卒業式の前の日だった。「日本の戦史に、彼女たちのことは、全くといっていいほど出てこないんですよねぇ。まして、白梅隊は知られていない。それが残念でならなかったです。
私は必ず、六月二十三日、沖縄の終戦の日、白梅之塔にお参りしています。収骨に連れていっている大学生にも必ず、お参りさせています。若者が手を合わせてあげたら、あの人たち、きっと喜ぶよねって」
河内は、白梅の校章が結びつけてくれた石原さんとの出会いに、百万の味方を得た思いだった。石原さんはつぎつぎと遺品を見せてくれた。名刺ぐらいの鏡はところどころはげ落ちていた。鉛筆は二センチくらいまできれいに削られていた。胸が熱くなり、思わず語りかけていた。
―――ふるさと、沖縄から遠く離れた、平和な時代の東京で、二人の男が、いま、あなたたちのことを思い、偲んでいるのですよ―――と。石原さんは、両手を合わせていた。
沖縄南部で十五年間に六千体も収骨、これからも体の動く限り続けてゆくと石原正一郎さんは、南部の大きな地図をひろげて、日本の沖縄に、まだどれだけの遺骨が眠っているのか、熱っぽく話し始めた。
県の記録によると、昭和三十年までに県民が収骨した数は十三万五千二十三柱。それから四十五年までの十五年間に県は、さらに、二万九千七百六十八柱を納めたという。そして五十一年三月には、未収は、対象十八万八千百三十六柱のうち、二千百九十九柱になったと説明した。しかし、石原さんら民間の手で、五十年から今日まで、六千五十七柱が収骨されている。数が合わない。
「海洋博の年ですけど、摩文仁が心ない人たちの手でね、汚されているのがたまらなくなりましてね、ジュースやビールの空き缶がいっぱいなんですよ。清掃しようということになってね、黎明の塔から北側斜面から入ったんですよ。そしたら、山のような御遺骨ですよ。百三十七柱収骨しました。何万、何十万人という観光客の足元に、それだけ眠ってられたのです。それがいまの日本ですよ。
戦後三十五年たちますとね、もう御遺骨は、三十センチ、四十センチものわくら葉の下にあります。
まず、それをとりまして、地表を出すんですけど、その地表も風化しているんです。お骨のまわりを三メートル四方、掘りまして御遺品を捜すんです。お名前がわかるものは、なんとしても、御遺族にお渡ししたい。それが私の念願なんです。これまでに、百ほどの遺品をお届けしました。その百の御遺族のお顔を忘れることはできません。沖縄には、まだ、お名前がわかっているのに、肉親の手に帰れない遺品が何万とあるでしょう。これだけ豊かな日本が、なぜ、それをしてあげられないのか。考え方の問題じゃないと思うんですよ。日本人の生き方の問題じゃないでしょうかねえ」石原さんは、自費で、時には、心臓の発作で救急車で入院したり、骨折したりしながら、山野に、壕の中に入ってゆく。
「私たちが山野でね、十日前後でね、多いときには何百柱ですよね。三十三回忌には二千柱ですよ。もうないとは言わせません。それを数字をあげろ、なんて役人は言いますけどね。厚生省のお役人なんか、ハブがこわいのか、山野には決して入ってきませんよ。壕内の収骨しか予算がないとか言いましてね。いま、南部ではあちこち採石しているんですけど、もう一回ブルドーザーがくれば、というところに四柱もあったりするんです。かつてね、沖縄の人たちは、占領下の食うや食わずの時代に、るいるいたる遺骨を集めて下さったんです。真壁村にある万華の塔にはね、だれだれ三円、だれだれ五円と寄付した村人の名が刻まれていますよ。塔は十字架なんです。米兵が、納骨堂からシャレコウベをとっては、電気を入れて、おもちゃにしたらしいんです。村人がなんとかしなければと考えたのが十字架を立てることだったんですね。あの戦争で、村も家も、家族も失ったあの人たちが、どんな気持ちでお骨を守って下さったか。私たちはおこたえしなければなりませんよ」
石原さんの太く、低い声も、また、一つの沖縄の声であった。
「沖縄白梅の悲話」から転載させて頂きました
追記:
「白梅 沖縄県立第二高等女学校看護隊の記録」の第十章
白梅の香り永久には、「本土の防波堤となった沖縄」という寄稿文を高岡敏郎さんという方が書いていますが、この方は昭和16年に満州に駐屯していた武部隊に入隊され、九十九里浜に駐屯する部隊で終戦を迎えられました。定年退職後、沖縄戦を知りたいと沖縄に通うようになり、その過程でご紹介した石原正一郎さんとも知り合い、また白梅学徒同期生の方々との交流も深まっていったようです。
高岡敏郎さんは、金光教の遺骨収集にも石原さんと共によく参加されました。結果として私も懇意にしていただき、インターネットの無い時代でしたから、メールなどの便利な手段はなくて、専ら手紙による“文通”を通じて高岡敏郎さんと交流を深めました。文通というのは現代では死語になっているのかな。?
石原正一郎さん、高岡敏郎さん
「南冥之塔」横にあるアバタガマでの一コマです。金光教の遺骨収集により、このアバタガマで発見された黄色い石鹸箱によって御遺族が特定されまして、その御遺族が翌年この壕に慰霊に訪れた時の写真です。
一番左の横顔の方と、中央やや右の女性が御遺族です。一番右側の横顔の人が、黄色い石鹸箱を発見した栗平さんという方で、驚くことに黄色い石鹸箱を持っていた兵隊さんとは同じ部隊の戦友であったそうです。また写真左から二番目のメガネをした方が、沖縄南部で十五年間に六千体もの御遺骨を収集された石原正一郎さんです。またその右側の片膝ついた方が、高岡敏郎さんです。
「萬華之塔」
初代の「萬華之塔」です。手を合わせているのは、沖縄県立第二高等女学校の校章や三角定規、そして糸巻き、櫛などを発見収集した石原正一郎さんです。
石原さんは、これまでに南部戦跡で累計六千柱以上のご遺骨を収集された方でもあります。その遺骨収集に際しては、大学生を大勢南部戦跡に連れてきて、平和学習の意味も込めて共に遺骨収集にあたりました。そうした流れで金光教の遺骨収集にも、長年に渡り深く関与して下さいました。また石原さんとは私も交流を深めさせて頂き、東京のご自宅にお訪ねした事もありました。
写真のように最初に建立された「萬華之塔」には十字架が掲げられていたのをご存じでしょうか?。
なぜその後十字架が設置されたのか?。その理由は驚くことに、米兵が頭蓋骨に電球を入れて照明器具として部屋に飾ったり、本国に帰国する際、"おみやげ"として、納骨堂から頭蓋骨などを持ち去ってしまう事に理由があったのです。納骨堂をこじ開けご遺骨を持ち去るという事件が後を絶たない為、真壁の部落民は心を痛めました。苦肉の策として十字架があれば米軍兵士も持ち去ることをためらうのではないか…。
そんな願いを込めて「萬華之塔」納骨堂の頭上に十字架が設置されたのです。同じ意味で頭蓋骨の盗難防止の為に、初代の「ひめゆりの塔」にも、十字架が掛けられていました。
「砲兵山吹之塔」
「砲兵山吹之塔」です。同塔は、昭和41年(1966年)6月22日建立され、野戦重砲兵第一連隊球第4401部隊、山根部隊長以下739柱、及び配属鉄血勤皇隊員12柱を祀っています。野戦重砲第一連隊の中隊長だった石原正一郎さんが「砲兵山吹之塔」前で手を合わせているところです。
沖縄戦も終局を迎えつつある6月18日、米上陸軍最高司令官サイモン・B・バックナー中将が、南部戦線で日本軍からの砲撃により戦死しましたが、石原正一郎さんはその砲撃の当事者であり、日本軍側で砲撃の指揮をとる立場の連隊中隊長だったのです。
サイモン・B・バックナー中将を祀る「バックナー中将戦死之跡碑」は、「白梅の塔」からほど近い、糸満市真栄里の丘の上にありますが、石原正一郎さんはバックナー中将の慰霊碑建立に積極的に関わり、昭和61年6月18日、「米、琉、日戦没諸霊安らかにのメモリー」を建立しました。
また毎年沖縄の慰霊祭に参加する時には、「バックナー中将戦死之跡碑」にも必ず訪れ献花し手を合わせていたと語っていました。
「砲兵山吹之塔」と石原正一郎さん
沖縄県立第二高等女学校の校章や三角定規、そして糸巻き、櫛などを病院壕で発見し収集され、沖縄県立第二高等女学校、白梅学徒同期生の三十五年目の卒業式の前日に同窓会会長大嶺勝子さんに届けた石原正一郎さんです。
「砲兵山吹之塔」は、昭和41年(1966年)6月22日建立されましたが、石原さんは建立に向けて尽力されたお一人です。石原さんは毎年6月22日に催される「萬華の塔」「砲兵山吹之塔」慰霊祭には、毎年欠かさず参列されるそうです。
「バックナー中将戦死之跡碑」
(昭和63年撮影)
「バックナー中将戦死之跡碑」です。石原さんは「米、琉、日戦没諸霊安らかにのメモリー」(昭和61年6月18日建立)にも尽力されました。
南部視察中におけるサイモン・B・バックナー中将戦死に関わる砲撃の指揮を執った石原正一郎さんの新聞記事を、琉球新報記事から見つけましたので、ここに転載させて頂きます。
【沖縄に通い続け慰霊、収骨続ける/元砲撃隊長の石原さん】
「琉球新報」平成14年(2002年)6月18日
【東京】1945年6月18日、米軍沖縄占領部隊総司令官サイモン・B・バックナー中将が糸満市真栄里の高台で日本軍の砲弾によって戦死した。
57回目の命日を前に、日本側の当事者である当時の野戦重砲第一連隊の中隊長だった石原正一郎さん(85)=東京渋谷区=が中将の死について明かすとともに、44年間通い続けた沖縄への思いを語った。
石原さんが隊長を務める同連隊・球第4401部隊はこの日、真壁村(現糸満市真壁)に配備されていた。昼すぎに「真栄里の丘に米軍幹部の車が集まっている」との報告を受けた。
「双眼鏡で方角と距離を確認し、14人の砲手が作業を進めた。残る砲弾は八発。すべて四キロ先の丘に向け発射。丘はがれきの山だった」と振り返る。
これまで中将は、歩兵銃で狙撃されたとの説もあった。しかし米軍側の戦死記録(米国陸軍省編/外間正四郎訳「日米最後の戦闘」)にも「日本軍の砲弾が観測所の真上でさく裂。吹き飛ばされた岩石の一つが中将の胸にあたり十分後に絶命した」と記されており、石原さんの証言と一致する。
使用されたりゅう弾砲は戦後、米軍が保管していたが、石原さんが「戦友の遺品」として返還を要求。現在、靖国神社境内に展示されている。
これまで事実を公にしてこなかったが、「私ももう85歳。事実を語り残すべきだと思った」と話す。
85年には中将が倒れた高台に慰霊碑を建立。「米軍人が戦友の墓参りをする場を作りたかった」という。またドキュメンタリー作家の上原正稔さんの仲介で現在は、中将の家族と手紙のやりとりも行っている。
体調を崩す2年前まで44年間、6月には沖縄を訪れ、遺骨収集を行い、慰霊祭に出席した。「尊い命を奪われた人々の無念さを思うとやり切れない。沖縄に通い続けたのは、生き残った者として当然やらねばならないことだから」と話す。
「6月23日は、国の慰霊の日にしなきゃいかん」と力を込めて語る石原さん。今年も沖縄へ行くことはできないが、自宅で静かに手を合わせ23日を迎える。
「琉球新報」から転載させて頂きました