平成24年(2012年)沖縄遺骨収集奉仕活動
- 1月27日(金)松永氏と摩文仁海岸線調査
- 1月28日(土)遺骨収集事前調査・摩文仁清掃奉仕 (準備作業)
- 1月29日(日)摩文仁清掃奉仕
- 2月11日(土)故具志八重さんのお墓参り
- 2月12日(日)「沖縄県遺族会」の沖縄遺骨収集奉仕活動に参加
- 2月13日(月)松永光雄氏と摩文仁南斜面で調査
- 2月14日(火)国吉氏に未調査現場を案内して頂く、午後現地調査
- 2月15日(水)5人で摩文仁南斜面を調査
- 2月16日(木)林先生他3人、与座岳斜面で予備調査
- 2月17日(金)4人で摩文仁南斜面を調査、午後「平和学習」サポート
- 2月18日(土)第39回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
- 2月19日(日)第39回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
2月14日(火) 国吉氏に未調査現場を案内して頂く、午後現地調査
天気予報では、今日の最高気温が25度と予想され、本島でも初の夏日となる予想です。これは沖縄では4月上旬の気候になるという話ですから、冬の世界からやってきた私は初夏のように暑く感ずるかもしれませんね。今日で沖縄滞在4日目、今のところ体調は良く、まだまだ気合い十分な状況です。(^o^)
今日は四国の徳島から篠原先生と信者さんで岡幸さんという方がお見えになり、一緒に遺骨収集調査を予定しています。話を聞けば、金光教の遺骨収集奉仕活動日である18日・19日は、奥様の一周忌だそうで、参加が不可能という事で、その前にどうしても慰霊の気持ちを込めてジャングルに入りたいというお話があり、すでに調査に入っている私たちに声をかけていただいたという経緯があります。
という事で、本日は四名で遺骨収集調査を実施することと相成りました。事故に気をつけ、終日がんばって取り組みましょう。(^o^)
集合場所である摩文仁に行く道すがら、本日は「糸洲第二外科壕」を訪ねてみました。(^o^)
「糸洲第二外科壕」
国道331号線です。積徳高女学徒看護隊が居た糸洲壕の看板を目印にすると場所を特定しやすいと思います。「糸洲第二外科壕」は写真左手の坂道を登って、概ね100メートル先の右側にあります。解りにくいので注意深く右側を探して下さい。
稜線に沿う林の中に「糸洲第二外科壕」があります。ご覧のように車一台ぐらいなら駐車するスペースもありますね。
近づいてみますと「陸軍病院第二外科壕」という石碑がたっています。この石碑を目印にすると良いですね。献花してから撮影しました。献花してあるところの山肌に壕があります。この「糸洲第二外科壕」は、6月18日米軍による馬乗り攻撃を受け、多くの死傷者がでました。
壕に穴が開けられていました。以前はしっかりと土盛りされて穴なんて見えないようになっていました。誰かが土砂を除けて中に入ったものと思われます。
入り口から壕内を撮影しています5メートルぐらい奥に石棺のようなものが見えます。この壕はこれまで長く土盛りされ封鎖されていましたから、内部を見るのは私も初めてです。
石棺のそばにやって来ました。土を掘り返した跡があり、その雰囲気はまだ最近のように感じました。ごく最近誰かが中に入って遺骨収集を行った可能性がありますね。
国吉氏に未調査現場を案内して頂く
集合場所である旧奉賛会事務所前に出向くと、すでに篠原先生と岡幸さんは到着しており、なんと遺骨収集の大ベテラン国吉さんと一緒に居るではありませんか。聞けば国吉さんは、最近ここ摩文仁のV字谷で遺骨収集を行い、あらかたの収集を終えたので、資機材を取りに来たという話です。偶然そこで篠原先生と会ったという事ですね。
嬉しい事に国吉さんは、「まだ手つかずの壕があるけど良ければ案内するよ」と語っていただきました。私たちに二言はありません。喜んで紹介していただこうという話になりました。また「戦没者遺骨収集情報センター」の吉田さんも帯同する事となり、一緒に現地調査をする事と相成りました。
という事で、それでは一緒に国吉さんの後についていきましょう。レッツラゴー(^o^)
(今後の事もありサイトでは地名を明かせません。ご了承下さいませ。)
国吉氏に未調査現場を案内して頂く
【A地点】
小高い丘の上にやって参りました。周囲はご覧のように墓地になっています。
壕を前にして、国吉さんがこれまでの経緯を説明して下さいました。ありがとうございます。
上の壕入り口がある以上、下の壕入り口があるはずだ。
一枚前の写真は上の壕入り口の前で撮影しましたが、国吉さんによりますと、もう一カ所の穴、下の壕入り口を探すべく3日間この写真の下あたりで調査したけど見つからないと語っていました。ウ~ン。国吉さんが見つけられないものを、俺たちが見つけられるはずが無い…。どうしよう。とりあえず、上の壕入り口から調査することにしました。
国吉さんが、身元が特定できた遺品を発見し、ご遺族にお届けした事に関わる写真を見せてくれました。国吉さんは、このようにかなりの数の身元判明の遺留品を発見しています。
【B地点】
ここは国吉さん自ら調査に着手しており、私たちに紹介するという場所ではありせんが、近いから見て行きなさいという事で見学させていただきました。ご覧のように防空レーダーサイトがありますから、おおざっぱな場所は解る人にはすぐ解りますが、撮影した場所は、特定されないようにかなり離れた場所から撮影しています。ご了承下さいませ。
国吉さんは、「この一帯は摩文仁防衛のために構築した軍の壕が数多くある」と語っています。
ちょっと解りにくいのですが、この写真は、前方からこちら側の山側に向け塹壕が掘られていたが、写真手前あたりで止まっている。この手前の土盛りは沖縄戦当時米軍が埋めた可能性がある…。直感でそう感じとった国吉さんは、この土盛りを掘り起こしてみようと決心し、一人で数日間掘り進めたそうです。そしてついに…。壕入り口が目の前に現れたのです。
これが国吉さんが発見した壕入り口遺骨収集の様子です。縦穴のように見えますが、これはそれだけ土盛りの高さがあるという事ですね。沖縄戦当時は水平な壕入り口だったと思えます。それにしても、この壕入り口を発見した国吉さんは、本当に偉大だと思えます。おそらく私たちなら、この場所をみてもそのまま通過しただけで終わった可能性がありますからね。
軍関係の遺留品も続々と発見されているようです。これから学生さんなど大勢の人たちに参加してもらい、大規模に内部を調査するという話です。
国吉さんが中を案内して下さるそうです。一緒に入ってみましょう。
5メートルほど前進したところで入り口を撮影しました。立ってあるく程ゆとりはありませんが、それなりに広い壕内通路となっています。
今度は壕の奥の方を撮影しました。両サイドにある土は、砲撃により衝撃で落盤したものと、戦後落盤したものと、二つの理由でこのように堆積しているものと推測されます。
ここが壕の一番奥深い部分です。入り口から概ね20メートルぐらいでしょうか。入り口から一直線の壕である事が解りました。落石したと思われる土石だ沢山堆積しています。横に展開する空間が無いことから、厳しいですね~。
木の杭でしょうかね。構築壕であるのが見てとれますね。
かなり深いですが、試掘していますね。まだ沖縄戦当時の地盤が出てこないようですから、かなりの土石を運び出さなければならい状況ですね。
松永さんが指さしているところは、紛れもなく沖縄戦当時の岩肌ですね。
日本軍のヘルメットの一部ですね。星のマークがよく見えます。
【C地点】
埋没壕があるというので来てみました。この風景解る人にはすぐ解ってしまうかな。
写真奥に見える穴がそれです。
ご覧のように、正に埋没壕となっています。
頭から突っ込み撮影してみました。大変でした。埋没した…。埋められた…。とても運び出せない大きな岩も見えます。何とも表現のしようがありません。土石を上に持ち上げなければならないという点が、作業の困難さを想起させます。どれくらい土石を搬出すれば良いのかの見当もつきません。ムムム~ッ。どうしよう~。
「白梅之塔」で昼食
時刻もお昼を回ったので、私たちは「白梅之塔」に行って昼食をとる事にしました。結構日差しもあり、日陰がほしいというような気象状況もありまして、勝手知ったる「白梅之塔」という訳です。広い駐車場があり、もちろんトイレもありますからね、助かります。(^o^)
「白梅之塔」およびその近隣
県道54号線から100メートルぐらい入ったところにある「白梅之塔」全景です。何度訪れてもこの静かなたたずまいは変わりません。常に清掃がなされ管理が行き届いているのにいつも感心しています。このような素晴らしい景観がこれからも長く保持されてほしいですね。
数え切れないぐらい訪問しています「白梅之塔」です。この慰霊塔は四代目で、塔の形は「壕の中から太陽を求める。日の光を求める」といったイメージで制作されたということです。「白梅の塔」には、県立第二高等女学校校長以下、職員生徒、同窓生など105名が祀られています。ご冥福をお祈りします。m(_ _)m
ご覧のようにごく最近こんなに沢山の千羽鶴が届けられたみたいです。実際凄い数の千羽鶴ですね~。ビックリしました。
これが初代の「白梅之塔」です。石碑というのが正しいかもですね。
「白梅之塔」の裏側に回ってみますと、平成4年に建立したと書いてありました。今から二十年前に完成したのですね。
「南禅廣寺」の石標です。「白梅之塔」敷地に隣接して設けられています。
「南禅廣寺」です。簡素なたたずまいですね。「白梅学徒看護隊自決之壕」の碑の横にあり、壕口からは降りることも可能です。裏手にも壕の穴が見えます。
「白梅之塔」前の道路の坂道を上がっていくと、「山形之塔」「真山之塔」などいくつかの慰霊塔や石碑、そして白梅之塔に関わる通称「上の壕」があります。
「歩兵第三十二連隊終焉之地」と書かれた石碑がありました。
これは石碑の横面に書かれている文言です。
石碑の裏側です。問題なく読めますね。歩兵第三十二連隊は奮闘し終戦の日まで戦い抜いたのですね。初めて知りました。
「白梅之塔 上の壕」と書かれた石碑です。ちょっと読みにくいので書いてみますね。「左の縦穴は、沖縄戦当時軍の物資置場であったが、白梅学徒看護隊の仮眠所でもあった。昭和二十年六月二十二日米軍の攻撃を受け、軍人、白梅隊員および一般住民が死傷した。 昭和六十三年六月 白梅同窓会」
ここがその「上の壕」です。竪穴と書き記されていますが、ちょっとした横穴といった風情で、壕と呼べるのか疑問に思えるぐらいの印象でした。物資置き場といっても、大量の物資を置くスペースはありません。こうした露天に近い状況下で、白梅学徒は仮眠をとっていたのですね。
写真左側のこんもりした森の中に「上の壕」があります。写真右側に最近森を整地し地肌が出ている場所が見えますが、整地作業に伴いかなりのご遺骨が出土したようです。「戦没者遺骨収集情報センター」の吉田さんが教えて下さいました。
A地点調査
私たちは昼食を食べ終えると、さっそく国吉さんが未調査の壕だとするA地点にある壕内部の調査を開始しました。国吉さんにはこれまで沢山の情報を提供していただきましたが、そのいずれもがハードルが高くて容易に着手できない事例が多いので、今回もそのハードルの高さを気にしながらも、調査・収集が可能がどうかをしっかりと見極めたいと思います。(^o^)
A地点調査遺骨収集の様子
私たちは調査に先立ち、篠原先生によるご祈念を行い、この壕で亡くなった方々のご冥福をお祈りしました。ご覧のように壕入口は国吉さんが刈草を積み上げ見えないようにしてあります。
さあ作業開始です。枯れた草を除けていきます。
かなり大量の枯れ草を除けまして、壕入口が見えてきました。
壕入口には大量の生活ゴミが捨てられていますね。ゴミのために這って中に入らねばなりません。ゴミが無ければ立っては入れると思われるぐらい開口部は大きいです。
7メートルぐらい壕内に入って入口方向を撮影しました。
激しい攻撃を受けた様ですね。壕内壁面が煤で真っ黒です。この壕は上と下に入り口がありますから、下の入り口から攻撃されその黒煙が上まで登ってきたと思われます。壕入口から10メートルぐらいは緩やかな下り坂でしたが、ここからご覧のように急激に下っています。土石もかなり浮いており、壕への攻撃を受けた際に、内壁が落盤した可能性もあります。いずれにしても複数人この急坂を下りていくと落石により怪我をする恐れがあるために、私が一人だけ降りていくことにしました。
急激に下り始めて20メートルぐらいの所でしょうかね。穴は更に狭くなっていますがまだ前進できそうですから、このまま進んでみます。下の開口部が不明である以上、ガスが滞留している可能性もありますから、臭い等に注意しながらの前進です。
ウ~~~ン残念、ここまでの様です。落盤しており、ご覧のように写真の手前までは煤で黒ずんだ壁面でしたから、壁面の煤が完全に消えていますから、表面が剥離して落盤したと思えます。いずれにしても写真を見る限りもっと前進できそうですがやはり無理なようです。穴が横穴なら私は強引に前進するでしょう。しかしながら穴が急勾配で下っていますから、半分逆さになるような姿勢ですから、前進して後ずさりで戻る事が不可能です。頭から突っ込んで後退出来なくなったら、偉いこっちゃです。足にロープを括り付けて引っ張りあげてもらわねばなりません。
この撮影最終地点で、壕入口からどうでしょうか、40メートルぐらいでしょうかね。この壕がある小山の麓に川が流れていますが、その河川敷に下の壕入口があるとすれば、まだ10メートルか20メートルは下っていると見込まれますが、よく観察すると心なしか穴の勾配が緩くなっているようにも見えます。大きな岩も落盤していますから、このあたりは下の壕入口への爆雷攻撃等の影響を受けているのかもしれません。
A地点につきましては、入口に捨てられているゴミを全部撤去すれば、ゴミの下からご遺骨が発見されるかもしれませんが、いずれにしても「下の壕入口」を発見しないことには、作業の着手は難しいですね。超ベテランの国吉さんが三日がかりで探したけど見つからないという「下の壕入口」を、私たちが探しきれるかどうかが大問題ですね~。
いずれにしても、国吉さんに紹介していただいた三カ所の未調査地点につましては、事案は持ち帰り林先生に伝える予定です。
摩文仁南斜面で調査
A地点の調査を終えた私たちは、摩文仁南斜面で昨日同様に調査をすることになりました。松永さん、篠原先生、岡幸さん、そして私の四名です。事故の無いように十分注意して作業に当たりましょう。(^o^)
摩文仁南斜面で調査
調査場所は昨日私たちが探した場所と隣接する場所にしました。
ご遺骨を探す篠原先生です。
お茶碗の破片が出てきました。
篠原先生と岡幸さんです。
篠原先生です。
篠原先生は「このあたりは金光教で何度も入っとるね」と語っていました。実際に私も少なくとも二度はこの付近で遺骨収集和しているのを記憶しています。最もこの摩文仁で金光教が入っていない場所は無いのではと思えます。
だいぶ日も傾き、ジャングル内も薄暗くなってきたので、皆さんが作業を終え海岸に出てきました。ご覧のように天気は快晴でしたから、雨の心配をすること無く、存分に集中力を持って取り組むことが出来ました。
金光教の遺骨収集奉仕活動の日は奥様の一周忌という事で参加できないため、篠原先生と岡幸さんのお二人で、昨日沖縄に到着し、本日は終日遺骨収集関連作業に取り組みました。聞けば篠原先生76歳、岡幸さん82歳という事です。聞いてびっくりしました。そんなお年を召しているなんて、作業の動きから想像すら出来ませんでした。篠原先生も相当長く遺骨収集奉仕活動をされており経験が長いですからね。本日は本当にお疲れ様でございました。明日もよろしくお願いします。ありがとうございました。(^o^)