平成24年(2012年)沖縄遺骨収集奉仕活動

2月12日(日) 「沖縄県遺族連合会」の遺骨収集奉仕活動に参加

沖縄に滞在中は、毎朝六時頃はホテルの周囲を散歩するのが常です。喜んで散歩するというのではなくて、朝とにかく身体を動かしてみる。毎朝繰り返されるその朝一番の身体の動きによって、今日は体調が良いか悪いかの、だいたいの体調が解るんですよね。

朝起きて動いてみないとその日の体調が把握できないというのが、まずもって老いたる証拠な訳ですが、身体の体調の善し悪しで、その日の行動を一定のレベルで規定するのは、遺骨収集などのような危険な作業では、必ずや考慮しなければならない事であると思えます。

では今朝の調子は?
昨日到着したばかりで、作業そのものをやっていない事から、体調はとても良いですよ。(^o^)

今朝の散歩時は少し雨が降っていました。多少濡れはしましたが、寒くないので風邪を引くような事は無いでしょう。朝六時まだ外は街灯も無く真っ暗ですが、一年ぶりにホテルの周りを散歩して歩きました。

「沖縄県遺族連合会」の遺骨収集に参加

今日の行動予定ですが、松永さんと相談して沖縄県遺族連合会主催の遺骨収集奉仕活動に参加させていただくことにしました。

「沖縄県遺族連合会」は、沖縄戦による戦没者遺族を取りまとめる組織として昭和27年(1952年)2月10日に「琉球遺家族会」という名称で発足しました。その後沖縄の本土復帰など歴史的な変遷と共に、何度か組織替えを経て現在の名称「沖縄県遺族連合会」になり今日に至っています。

朝は雨がパラパラと降っていましたが、予報通り日が昇ってくるにつれて雨は上がりまして、日差しもある快適な気象状況となり、絶好の遺骨収集日和となりました。

それでは糸満市荒崎海岸で実施された「沖縄県遺族連合会」主催による遺骨収集の一日を追いかけてみましょう。(肖像権に触れないよう、可能な限り参加者を正面から撮影しないように務めました。ご了承下さいますようお願いします)

「沖縄県遺族連合会」の遺骨収集

「沖縄県遺族会」遺骨収集の様子1

金光教の遺骨収集奉仕活動と同じように、参加者の出身地域ごとに班が編成され10人から20人ぐらいのグループとなって行動するようになっているようです。ヘルメットは主催者側で準備しておらず、帽子を被る人なども居て、自己責任で服装装備は調えているという印象です。「沖縄県遺族連合会」の遺骨収集奉仕活動の歴史も長いですからね、遺骨収集経験者の、いわゆるベテランさんは相当いらっしゃるものと推測されます。

「沖縄県遺族会」遺骨収集の様子2

荒崎海岸ですから、ほとんど危険な場所はありません。砂場ではもちろんありませんが、ご覧のようにほぼ平坦で岩がゴツゴツしている草地といった所を探していきます。

「沖縄県遺族会」遺骨収集の様子3

松永さんが「塚」のように岩が積み上げられている場所を掘り出しました。沖縄戦当時戦没者を土葬するのに、穴を掘って埋める余裕は無く、死体の上に土石を盛ったという話を良く聞きますから、そうした場所では無いかと観たようです。

「沖縄県遺族会」遺骨収集の様子4

かなり掘り進めました。沖縄戦当時の地面に到達したと思えますが、ご遺骨の発見はなりませんでした。このように一生懸命頑張って掘り進めて、成果ゼロというのは良くある話で、こんな事でめげては居られませんよ。すぐに気持ちを切り替え、他の場所に移りましょう。(笑)

「沖縄県遺族会」遺骨収集の様子5

荒崎海岸は場所によってはご覧のようにアダンのジャングルとなっている場所があります。このような所こそ未だご遺骨が眠っている可能性があるわけですが、それではこの場所を探すとなるととてつもない労力を要することになります。

「沖縄県遺族会」遺骨収集の様子6

見て下さい、この太い根(茎かな?)。このような収集困難場所が結構ありますね。

「沖縄県遺族会」遺骨収集の様子7

ジャングルに入って一時間ぐらい経過した頃でしょうか、ご遺骨が発見されました。腕の橈骨が見えます。もちろん私が発見したのでは無いですよ。ごく平坦な大きな岩の岩陰にご遺骨はありました。軍靴の一部があった事からご遺骨は兵隊さんの可能性が高いですね。

「沖縄県遺族会」遺骨収集の様子8

ほぼ時を同じくして、10メートルぐらい離れた場所でもご遺骨が発見されました。大腿骨頭が見えますね。俄然私たちは忙しくなりましたよ。(^o^)

「沖縄県遺族会」遺骨収集の様子9

ご遺骨の周囲をよく観察すると、岩陰に瀬戸物のお皿がありました。可能性としてご遺骨は兵隊さんで無く避難民の可能性が高いと推測されますね。

「沖縄県遺族会」遺骨収集の様子10

ご遺骨が発見された二カ所共にまず簡単な慰霊を行ってから作業に入りました。御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

「沖縄県遺族会」遺骨収集の様子11

戦後67年、長かったけれどやっと見つけてもらえましたね。良かったね。

「沖縄県遺族会」遺骨収集の様子12

奥に写っているお二人が最初のご遺骨を発見しました。岡山県から参加されたそうです。

「沖縄県遺族会」遺骨収集の様子13

掘り進めていますが、細かい骨が若干見つかっているようです。

「沖縄県遺族会」遺骨収集の様子14

二カ所目のご遺骨発見場所でも、枯れ木を除けていくと細かいご遺骨が続けて発見されました。

「沖縄県遺族会」遺骨収集の様子15

ご遺骨を破損しないように慎重に作業が進められていきます。

「沖縄県遺族会」遺骨収集の様子16

二カ所目で収集作業をしている様子です。大きな岩にへばりつくようにして戦没されたというのが見てとれますね。

「沖縄県遺族会」遺骨収集の様子17

大腿骨と思われる埋まっていたご遺骨が掘り出されているところです。

「沖縄県遺族会」遺骨収集の様子18

不発の手榴弾が出てきましたね。これは米軍の手榴弾だと言われています。

「沖縄県遺族会」遺骨収集の様子19

大腿骨に続き、脛骨も出てきましたね。足の骨は太いので残存しやすいという事でしょうね。

「沖縄県遺族会」遺骨収集の様子20

作業を終え、線香を手向け皆さんで戦没者に手を合わせました。ご冥福をお祈りいたします。

「沖縄県遺族会」遺骨収集の様子21

参加者の一人が「ハブ捕獲器」を持っていたので見せてもらいました。写真はハブを捕獲する様子を実演している所です。恩納村ではハブが年間300匹も捕獲されるのだそうです。恩納村から参加されたその人は、「男だけど恩納村」なんて駄洒落を言ってました。(笑)

「沖縄県遺族会」遺骨収集の様子22

ジャングルを進むと民家がありました。台風による被害でしょうか、屋根がひん曲がっていますね。昨年はすごい台風がやってきたと言いますから、その時の被害かもしれません。

「沖縄県遺族会」遺骨収集の様子23

完全一体のご遺骨が発見されたという報を受け、発見現場に駆けつけました。大きな岩陰で発見されました。方向としては岩陰は東を向いていると思われます。

「沖縄県遺族会」遺骨収集の様子24

ほとんど収骨されていますが、まだ少し残っているようです。頭骨なども見えますね。

「沖縄県遺族会」遺骨収集の様子25

水筒がありました。これにより間違いなく日本軍将兵のご遺骨と思われます。

「沖縄県遺族会」遺骨収集の様子26

戦後67年経過していますが、ご遺骨は極めて脆くなっているものの、露出していた割にはご遺骨の残存率は高いと思われます。岩陰の窪みにあって、直接的に雨にさらされなかったのが良かったのかもしれません。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

「沖縄県遺族会」遺骨収集の様子27

一日の作業を終え皆さんが集合場所に戻って参りました。お疲れ様でした&参加させて下さいましてありがとうございました。

「沖縄県遺族会」遺骨収集の様子28

収骨されたご遺骨の様子です。完全一体を含め数カ所でご遺骨が発見されました。収骨されたご遺骨を前に、皆さんが思い思いに手を合わせていました。
戦没された皆様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

「沖縄県遺族連合会」が主催する遺骨収集奉仕活動に初めて参加させていただきました。私自身はご遺骨を発見できませんでしたが、金光教以外の遺骨収集奉仕活動をつぶさに見学させていただいた事により、得るものも多くありました。

かなり近い場所の二カ所でご遺骨が発見されたと書きましたが、ご遺骨が収集し終えた後、松永さんは私に 「二カ所とも僕たち歩いたよね。」と語りかけてきました。

私も「そうですね。間違いないです。二人とも歩いています。」

遺骨収集のベテランを自認する私たちが発見できず、まだ比較的経験の浅い年配の方がご遺骨を発見した…。繰り返しますが、本日得た一番の教訓を言葉に書き記すと、「私と松永さんは、成果を急ぐあまり、よく探索しないまま前進を繰り返しているのではないか」という事になります。

遺骨収集の体験者ならご理解いただけると思いますが、視線が1メートルぐらい違っただけで、地肌の見え方はかなり違って見えますから、私たちと発見者とがほぼ同じコースを辿ったわけでは無いと申し開きもできますが、近い距離で二カ所とも見落としたとなると、単なる偶然で片付けられる問題では無いように思えます。

二カ所のご遺骨発見者は、男性と女性で、それぞれが年配のお年を召した方々でした。遺骨収集体験者なら理解してもらえるでしょうが、年配の方は体力が無いので先を急ぐのでは無く、一カ所をじっくり掘り進める傾向にあります。ですから体力に任せてグイグイと前進していく方々よりも、そうした “じっくり派” の方々のほうがご遺骨発見率は高いのでは無いかと言う印象を殊の外強くした次第です。

「成果を急ぐのではなく、また有るとか無いとか疑念を持つのではなく、可能な限り無心になってクマデを動かす」ことの大切さを改めて思い知らされました。本日の尊い教訓は、明日からの遺骨収集作業に生かしていきたいと思います。ありがとうございました。

海岸線を歩く

「沖縄県遺族会」による遺骨収集奉仕活動も無事に終了し荒崎海岸で解散となりまして、ほとんどの参加者が往路乗ってきたバスに再び乗って平和創造の森公園内の駐車場まで送迎してもらう事になるわけですが、時刻もまだ午後三時という事もあり、私たちは海岸沿いに徒歩で帰ることにしました。(^o^)

海岸線を歩く

海岸線の様子1

私と松永さんの二人は主催する「沖縄県遺族会」による、平和創造の森公園まで乗せてくれる送迎バスには乗らずに、海岸沿いにリーフ上を歩いて帰る事にしました。

摩文仁之丘が遠くに見えますね。写真は引き潮時の遠浅の海岸と言う風に見えますが、実は松永さんのすぐ目の前は断崖絶壁なのです。そうした目線でよく見ると、手前半分ぐらいに雑草が生えていて、奥側の半分は引き潮時にリーフが露出した状況であるのが解りますね。

海岸線の様子2

参加記に何度か登場していますが、「ひめゆり学徒散華の跡」です。私たちは手を合わせ散華された学生さんのご冥福をお祈りしました。この碑のある窪地周囲で16名が銃撃され、そして自決して亡くなりました。その悲劇は6月21日起きたといいますから、あと数日他の手段で遊弋しつつ生き延びていてほしかったです。そうすれば全員が助かっていたかも知れませんからね。

海岸線の様子3

「ひめゆり学徒散華の跡」を遠くから俯瞰しています。隠れるための深い穴などは無いので、艦砲が炸裂したら強烈な爆風で多くの避難民が吹き飛ばされたでしょうね。

海岸線の様子4

「ひめゆり学徒散華の跡」から程近い場所に、リーフに降りられる場所を見つけました。ラッキーです。ごく希に見る岩の割れ目を早期に発見出来ました。すぐには降りられないと思っていましたから嬉しいです。

海岸線の様子5

海岸のリーフ上から撮影しました。ご覧のように崖は峻立して絶壁を為しているので、どこでも降りられるという事では無いですね。波による海食でこうした切り立った崖になったのでしょう。

海岸線の様子6

ご覧のようにリーフの海原が広がっています。引き潮だからこそ実行出来る冒険の旅です。東に向かって歩みを進めていますので、摩文仁之丘が少しずつ大きく見えるようになってきましたね。到達目標は1km程先にある平和創造の森公園の海岸です。そこには階段があり難なく道路まで戻れるようです。

海岸線の様子7

引き潮で露わになった岩肌には、ご覧のように小さな貝がびっしりと付着していました。当然の事ながら、全部生きているのですよね。

海岸線の様子8

おっとっと。ごめんなさい。居残りの魚が、私たちの足音にビックリして、海水の無い場所へ飛び出してしまいました。海水のある場所へすぐ戻してやりました。

海岸線の様子9

砂浜です。不思議なのですが海岸線の所々で、ご覧のように砂浜となっています。これは荒崎海岸全般に散見される現象です。年月を経て細かく砕かれた岩が小さくなればなるほど、このような砂浜が形成されるという事でしょうかね。

海岸線の様子10

こちらは砂浜と呼ぶには粒が大きいですね~。良く見ると、珊瑚礁のかけらなんですね。それも長い間に削られて丸くなっている粒が多いです。

海岸線の様子11

更にアップしてみますと、珊瑚礁のかけらと共に、小さな貝も目立ちますね。いろんな色のもの、いろんな形状のもの、驚くほど種類が多彩です。時間をかけて探すのも楽しそうですね。(^o^)

海岸線の様子12

私の靴が写っていますが、それが目的ではありません。靴の先に黒っぽい物がありますね。岩礁に溶け込むかのように埋まっている鉄片です。艦砲砲弾の破片でしょう。靴は砲弾破片の大きさを知って頂くために写しました。戦後67年を経ていますが、埋まっていると言う事は、鉄片が沈んだのか‥‥。大渡海岸の患者壕見学に際しても、数多くの埋め込まれた砲弾破片を目撃しています。

海岸線の様子13

こんな大きな鉄の塊もありました。これもまた砲弾の破片でしょう。この鉄塊は砂浜を行ったり来たりで、角が取れ丸みを帯びているのが印象的ですね。

海岸線の様子14

「名も知らぬ 遠き島より 流れ寄る 椰子の実一つ…」。誰もが知っている島崎藤村作詞の童謡『椰子の実』ですよね。どこかよその国から流れ着いたのかどうかは定かでありませんが、漂着していた椰子の実を割ってみました。松永さんの話によりますと、椰子の実の汁は飲み、白い果肉部分は醤油などで炒めものにして食べるそうですよ。

海岸線の様子15

海岸線をずいぶんと歩いてきました。断崖絶壁まだまだ続いています。摩文仁之丘も一段と大きく見えるようになって来ました。まだ登り口は見えていませんが、あと100メートルほど前進すると、平和創造の森公園の端部に到達する見込みです。

海岸線の様子16

ついに平和創造の森公園の端部、隣接する道路に登る為の階段がある場所に到達しました。荒崎海岸からだいたい1kmぐらいあるいた計算になりますね。摩文仁も更に大きく見えるようになってきました。(望遠側で撮影したので大きめに写っています)

海岸線の様子17

沖合にカメラを向けますと、何十人と沖合に出て何かをしています。サーフィンを持っていないので、潜水を楽しんでいる方々かも知れませんね。

海岸線の様子18

平和創造の森公園横にある階段を発見しました。私達も階段を登ろうとした時、冷蔵庫が放置されているのに気づきました。メイドインコリアでした。ヒェ~。もしかして韓国で捨てられた粗大ゴミが、海流の乗って荒崎海岸に漂着したのかな~。海岸というのはいろんな面を見せてくれて楽しいですね。

海岸線の様子19

階段を上り広場にある駐車場から撮影しました。潜水を楽しむ人達かな? こちらに向かって歩いて来ます。ご覧のようにこの時間ではまだまだ引き潮が続いていますね。

海岸線の様子20

駐車場からもう一度摩文仁之丘を撮影しました。今度は標準レンズで撮影しましたから、裸眼と同じ大きさで摩文仁之丘は見えている状態です。摩文仁高地は第三十二軍司令部があると米軍に知られてからというもの、連日痛々しいほど激しい空爆を受けたと、こうした離れた場所からも、そうした一方的な攻撃風景がよく見えたという証言がありましたね。

無事に山城にある平和創造の森公園内にある駐車場に到着しました。今日は「沖縄県遺族会」主催の遺骨収集奉仕活動に参加させていただきまして、貴重な教訓を得ることが出来ました。

現在沖縄ではいろんな団体が遺骨収集奉仕活動を展開していますが、団体それぞれがいろんな流儀、考えを持って真摯に取り組んでいるのが良く理解できました。ありがとうございました。これからも機会を見つけて、これまで参加したことの無い団体の遺骨収集奉仕活動にも積極的に参加してみようという思いを強くしました。お邪魔で無かったら、ぜひお願いいたします。

「南北之塔」

私が松永さんに、糸満にあるホテルに帰る途中で、「南北之塔」に寄って手を合わせて帰りますと伝えたところ、一緒に行こうという話になりまして、二人で『南北之塔』に向かいました。

金光教の遺骨収集奉仕活動により、「南北之塔」横のアバタ壕内で発見された遺留品からご遺族が特定され、遺留品が届けられましたが、感激したご遺族は以降毎年金光教の遺骨収集奉仕活動に参加されていましたが、病気により体調を崩され遺骨収集奉仕活動参加が難しくなってしまいました。その事を知った私は、「黄色い石鹸箱」というご縁もある事から、以降ご遺族の代理になったつもりで、「南北之塔」での慰霊参拝を続けているのが現状です。という事で「南北之塔」には相当な回数訪れています。平和記念公園で花も買い求めてありますから準備万端ですよ。(^o^)

『南北之塔』は県道250号線沿いにある真栄平集落の背後にある小山の一角にある「アバタ壕」の入り口手前に「南北の塔」はあります。

沖縄戦末期の真栄平では多くの沖縄県民と日本兵が犠牲になりました。収容所から戻った区民らま、まず屋敷内や道路・田畑に散乱する遺骨の収集から始めねばならなかったといいます。

集落の端に積まれた遺骨や遺体を「アバタ壕」に「真栄平納骨堂」として埋葬。昭和41年に区民や県外の元日本兵や遺族らの寄付で同塔を改築し「南北之塔」と命名しました。改築に伴い壕内に納められていたご遺骨は平和記念公園に移されたという話です。塔名の「南北」は、北は北海道、南は沖縄まで全ての犠牲者に思いを馳せ、哀悼の意を込めた命名であると聞いています。

【慰霊碑碑文】

沖縄戦終焉の地、ここ真栄平は最も悲惨な戦場と化し、多くの犠牲者を出した所である。当時の人口は九百人の中、生存者はわずか三百人余りであった。沖縄の戦後は遺骨収集から始まったと言われ、収容所から帰った区民も直ちに屋敷内や道路、田畑、山野に散らばっていた遺骨の収集をはじめた。

この塔には、真栄平周辺で戦禍に倒れた区民をはじめ、中南部からの避難民、軍人等、数千柱の身元不明者の遺骨が納められ、その御霊が祀られている。

この塔は終戦間もない昭和21年、真栄平納骨堂として、世界の恒久平和の願いを込め、真栄平区民によって建立された。昭和41年、真栄平遺族会や篤志家のご芳志を受けて改築を行い、現在の南北の塔が完成された。

毎年6月23日には、戦没者のご冥福をお祈りするとともに、平和の尊さを子々孫々に伝える行事として慰霊祭が行われている。

平成元年3月 真栄平自治会

(1992年撮影)

アバタ壕の様子

「アバタ壕」における金光教遺骨収集奉仕活動では、御遺骨の発見と共に大きなドラマがありました。信者さんである右上に写っている栗平さんが、「M」 という名が記された 「黄色い石けん箱」をこの壕内で発見したのですが、驚く事に、栗平さんと石けん箱に記されたMさんとは、同じ部隊に所属した戦友だったのです。

「黄色い石けん箱」 を御遺族にお返ししようと、栗平さんを始め、金光教のご本部、伊方教会の品川先生、銀座教会の石原氏などの懸命な調査により、ついに遺族が特定されました。この壕内で戦死したMさんの息子さんご夫妻が、東京に住んでいる事が判明し、遺品である「黄色い石けん箱」は、奇跡的に御遺族の元へ帰ることが出来たのです。

「父の戦友であった栗平様をはじめ、多くの方々のご厚意により、私を捜し出して下さり、銀座教会で私の手元に遺品を返して下さったのが、母の法事の前日でした。法事の日に兄弟親戚に見せ、皆で涙しました」 と、御遺族が語っていたのが印象的でした。

この写真は、遺族である息子さんご夫妻が慰霊のために、黄色い石けん箱が発見された「アバタ壕」を訪れた際に撮影したものです。 (一番左に写っている男性と写真中央右寄りに写っている女性が御遺族です)

黄色い石けん箱を発見した戦友の栗平さんや、左側に写っている沖縄戦で戦った石原さんが、沖縄戦当時の日本軍の戦況や米軍による馬乗り攻撃された際の、壕内の惨劇の様子を遺族に説明しているところです。御遺族の胸中は、大病して訪沖出来なくなるまでの10数年間、金光教沖縄遺骨収集奉仕団の一員として、毎年遺骨収集活動を継続された事に、それがよく表出されていると思えます。御遺族は、その熱意溢れる奉仕活動のなかで、多くの御遺骨を発見されました。

毎年参加されていた御遺族も、大病してのち院長の訪沖制止勧告にも、「無理をしない」事を条件に許可してもらい、ジャングルの中をゆっくり歩く程度でしたが、金光教沖縄遺骨収集奉仕活動に参加し続けました。形はどうであれ、晩年は病を抱えながらも、沖縄遺骨収集奉仕活動に参加し続けたいという真摯な姿勢が、とても印象的に私の脳裏に焼きついています。

「南北之塔」

「南北の塔」の様子1

昭和41年に改築された「南北之塔」の現在の様子です。写真奥に「アバタ壕」が見えます。

「南北の塔」の様子2

「南北之塔」のある丘の位置から、摩文仁方面を俯瞰しています。この丘がかなり標高が高いのが見てとれますね。

アバタ壕の様子3

「アバタ壕」入り口です。奥行きは40メートルぐらいでしょうか。壕は斜めに下ってカーブを描いていますから、壕内部は思いの外広く感じます。

アバタ壕の様子5

破壊された遺骨安置室。驚きました。墓破りが行われたのでしょうか。

「アバタ壕」は厳密に言えば二つの壕があり、入り口付近でそれは分かれていました。長年一カ所の穴の入り口は、セメントで固められており壁面を破壊しない限り中には入れないようになっていました。

ところが今回訪問したときには、そのセメント部分が破壊され、ご覧のように破壊されたセメントの一部が積み上げられているというような光景になっていました。真栄平の区民の皆さんがこのことを知っているならよろしいのですが、知らなかったとしたら…。何とかしてこの事実関係を地元の方と会って確認したいですね。

アバタ壕の様子6

破壊された入り口の、穴の開いた部分からなるたけカメラを深く入れて撮影したものです。ご覧のようにかなり深くなっているのが見てとれます。私も初めてこの穴の内部を観察することになりましたが、よ~く中を見ると、作業したという痕跡があり、徹底して収骨したという印象を受けました。

アバタ壕の様子7

「アバタ壕」の通常の内部に入り、ほぼ底の位置から入り口を撮影しました。壕の上部は巨大な岩盤で覆われていますから、艦砲砲弾で破壊されるような事はありませんが、ご覧のように入り口開口部は結構大きいです。米軍歩兵がやってきたら、すぐに見つかってしまうでしょう。

アバタ壕の様子8

「アバタ壕」の一番の底を写しています。大雨の時には、壕入り口からではなく壕内部からわき水が発生して、一番深い所に一時的にせよ池が出来るようですね。

アバタ壕の様子9

大きな岩がゴロゴロ散乱しています。壕天井は一枚岩ですから、天井が崩れたという事では無く、入り口付近の柔らかい胃岩盤が崩れて下に落ちてきたという印象です。

アバタ壕の様子10

この白い細い線は何かなと思いましたが、種から発芽した茎の部分でした。(^o^)

入り口から入り込んだ雑草の種子が、ここまで流れ落ちてきて、わずかな光を頼りに発芽したものと思われます。

アバタ壕の様子11

壕内部全体的に黒煙が付着している状態です。そうしたなかで部分的ですが、激しく焼けている場所があります。燃えやすい物質があった場所がこのように焼けたと言うことでしょうかね。

アバタ壕の様子12

お茶碗などもまだ散乱しています。お茶碗以外にも遺留品は結構見つかりますね。

アバタ壕の様子13

こちらは、ベルトの金具でしょうかね。戦後67年、こんなに錆びてしまうものなんですね。

アバタ壕の様子14

壕の一番奥深いところを撮影しています。わずかながら湧き水があり、鍾乳石が形成されていますね。白く光っているのは岩の表面が濡れていたり水滴だったりしている所です。

アバタ壕の様子15

松永さんによると、このような鍾乳石のある場所は、思いの外ご遺骨が埋め込まれているケースが多いのだそうです。にわかには信じられませんが、戦後67年経過していますから、何ミリかの相応の鍾乳石がご遺骨を被覆してしまうのだそうです。

アバタ壕の様子16

一番広いと思われる空間を撮影しています。何度かの遺骨収集が実施された事もあり(金光教も実施しています)、岩がゴロゴロしていてあまり広く感じませんが、かなりの収容人員であったと思われます。大雨が降った場合は、沖縄戦当時も壕の底の部分に水が貯まっていたと推測されますから、もしかしたらあまり水には困らなかったかもしれませんね。

アバタ壕
アバタ壕の様子17

少し解りにくいのですが、黒っぽい細々したものを撮影したのですが、コウモリの糞です。天井を見渡しましたが、本日はコウモリのコロニーなどは見当たりませんでした。

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