平成19年(2007年)沖縄遺骨収集奉仕活動
- 2月13日(火)朝早く自宅を出発/読谷村方面慰霊巡拝
- 2月14日(水)南風原文化センターと南部戦跡慰霊巡拝
- 2月15日(木)単独で摩文仁之丘南斜面に入り遺骨収集
- 2月16日(金)地元情報により旧知念村で事前調査&遺骨収集
- 2月17日(土)第34回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
- 2月18日(日)第34回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
2月16日(金) 地元情報により旧知念村で事前調査&遺骨収集
今日は沖縄在住のKさんという方の情報に基づき、旧知念村の知念半島付近のジャングルに入り、遺骨収集に関する情報の収集をすることになりました。
すでに沖縄に到着している金光教山城教会の篠原先生のグループが主体となり、11名で探索することになったようなので、私も同行させて頂くことにしました。 嬉しいことに、情報提供者のKさんも同行してくれるというのですから、道に迷う心配もなさそうですね。
驚くことにKさんという方は、単独で年間を通して何十回とジャングルに入って遺骨を探し続けている方なのだそうですよ~。夏場はハブがいて危ないのではないかと思いますが、夏も気にせず入るというのですから驚きですよね。遺骨収集については、地元で名の通るベテランさんのようです。
複数の車に分乗して摩文仁から国道331号線で旧知念村役場を目指しました。村役場のある交差点から細い村道に折れて、北に5分ほど走って車は停止しましたね。
この旧知念村付近は、金光教の遺骨収集でも断定は出来ませんが実施したことがないのではないかと思います。
沖縄戦では、守備軍である第32軍は、米軍が湊川から上陸する可能性があると想定して、この旧知念村付近にいくつかの守備軍の陣地を構築したという記載があります。
実際に米軍の第二海兵師団は、4月1日読谷村付近の海岸線から本島に上陸しましたが、それに先立ち陽動作戦として港川に激しい艦砲射撃を加え、今にも湊川に上陸するぞという戦術をとりましたね。
知念半島には複数の慰霊塔が建立されていることからも、沖縄戦の主戦場とはなりませんでしたが、何カ所かで激しい戦闘もしくは砲撃を受けたことは間違いないようです。
私達が降り立ったのは、知念半島の突端に近い場所のようですが、周りの風景はけっこう切り立った山もあったりして、民家もたくさんありましたが、山が連なる場所なんだなという印象でしたね。
車から降りた私達は、身支度を調えKさんに先導されて民家の脇道から、山の中へ入っていきました。
山道を5分ほど歩き、そこから山の中へ入って行くようです。
すぐに壕のような穴がある場所に到着し、Kさんがここに御遺骨があると語りました。すでにKさんが事前に発見したという事で、私達も穴の中をのぞき込みましたよ。
中を見てビックリです。たくさんの頭骨が転がっているではないですか…。
このような風景はあまり見た記憶がありません。たくさんの頭骨は、あきらかに沖縄戦の戦没者であると見てすぐに判断できました。
ただ、ここは風葬の場所でもあることが解ります。穴の中には、土で出来た瓶が複数ありましたし、穴の入り口は石が積み上げられた形跡があるからです。
そして瓶の中には、風葬の習慣に則り洗骨された御遺骨が詰められていました。洗骨された骨は、瓶の外にもたくさん見られます。沖縄戦により、いくつかの瓶が割れてしまったようです。
最も確実な可能性としては、頭骨はここで戦死して屍になったのではなく、この付近で収集された御遺骨を地元の方々が、この風葬の場所に置いたというのが一番可能性が高いですね…。
御遺骨は沖縄戦の戦没者と風葬の骨とが混在していますが、心配はいりません。ほぼ完璧に分別することは可能です。
ただ、風葬の場所であることから、持ち主のいるお墓と言うことになりますので、このまま無断で穴の中に入ると言うことも出来ないと思われます。
いずれにしても、今日は情報収集であり遺骨の収集は実施しません。出来る限りの詳しい情報を持ち帰り、林先生にご報告することになりますね。
メンバー全員で手を合わせ、御霊様の心安らかなれと祈念し、その場を離れました。
御遺骨発見!
穴の深さは5メートルぐらいでしょうか。穴の中にはたくさんの頭骨などがあり、ビックリしました。
たくさんの頭骨などと共に、風葬の骨もたくさん混在していることが見て取れます。外で集められた頭骨などの御遺骨を、この穴に置いたという印象ですね。
いや~~それにしてもビックリしましたね。
近年はあまりまとまった御遺骨を見ていないので、ちょっと衝撃的でしたよ!。
しっかり現地状況をカメラに納め、Kさんや篠原先生と共に次の目的地に向け移動を開始する事にしました。
Kさんが御遺骨を探しながら前進しましょうと提案したので、ここからはクマデで掻きながら探索を続け、ジャングルのなかをかきわけて前進していきました。
私達は主に山裾を歩いて前進しましたが、亀甲墓や風葬の場所と思われる壕や穴がいたるところにありました。
この地域は安座真(あざま)と呼ばれており、山上には安座真城跡があると記されており、城跡を中心としてここいら山裾一帯はこの地域の重要な霊域となっている印象を持ちましたね。
お墓に行き来するための道も広くはありませんが、あちこち連なり連結して奥まで続いています。
従って、遺骨収集の探索といえども、霊域を歩かせて頂いているという姿勢で行動する必要があり、節度ある探索活動をしなければならないと感じましたね。
しばらく道なりに進み、そこからまた山裾に近づくと、Kさんがここでも御遺骨のある場所を指し示しました。
ちょっとした穴がありましたが、よく見ると頭骨が一個転がっていました。肋骨などの骨も少し見えます。
大腿骨などの大きな骨は見あたりませんが、土をほじくり返せば細かい骨は出てきそうな雰囲気でした。
ここは風葬の場所という印象はなく、沖縄戦によりここで一人亡くなったという事でしょう。近づいてみても日本軍将兵か民間人かは、詳細に収集してみないと解らないという印象ですね。
離れるに際し、一人寂しく亡くなった御遺骨に、心でご冥福をお祈りしました。
頭骨が一個寂しそうに転がっていました。どのような理由で亡くなったのでしょうかね…。
ここいらあたりは、地域の霊域であるという印象を持ちましたが、それと共に守備軍の陣地と思われる場所もあちこちありましたよ。
ちょっとした穴に砲弾が置いてあったり、山裾に人工的に掘られたと思われる穴も複数ありました。
そして場所によっては、タコツボのような散兵壕がいたるところに設けられ、それらを繋ぐ連絡通路も縦横に掘られていました。
今現在は、落ち葉などが堆積して、それらの場所も埋もれつつありますが、目視でまだハッキリと確認できる状況でしたね。
それから、途中でKさんが山に自生していたバナナを獲ってくれて、私達は天然のバナナを賞味することが出来ました~。自生するバナナの木があるなんて!さすが沖縄ですよね~。
日本軍の陣地も構築されていました
奥行きはあまりありませんでしたが、人がやっと入れる程の開口部で壕がありました。
中は広くなっており壕の深さは3メートル程です。中に兵隊さんが隠れていたのでしょうか。
巨岩の岩陰を探索する山城教会のメンバーの皆さんです。
小さな壕の中に未使用の砲弾が並べられていました。
山裾の地面スレスレにある壕です。恐らくこの壕も活用されたことでしょう。
内部には遺留品等はありませんでしたが、かなり広い空間がありました。
日本軍が使用した蓄電池だと思われます。
よく見ると砲弾が埋もれています。御遺骨らしきものも見えました。
酒を入れておくものでしょうが、当時は水を入れて使ったかもしれませんね。
同じく徳利のようなものですが、何個か転がっていました。
いかにも天然の要塞と思えるような、巨岩の中腹にポッカリ穴が空いていました。
奥行きのある壕は少なかったですが、ここは結構深かったですね。
篠原さんが小さな壕に入り中の様子を確認しているところです。手彫りの壕みたいです。
鍾乳石みたいに石のツララがぶら下がっていました。
明らかに積み上げたと思われる石組みです。海岸からの攻撃に備えた様子です。
散兵壕と呼ばれるタコツボです。石が組まれていますが歳月と共に土に埋もれていますね。
タコツボをつなぐ連絡通路です。こちらも結構落ち葉などに埋もれています。
ここも落ち葉に埋もれていますが連絡通路だと思われます。
Kさんが自生しているバナナを見つけたので、皆さんで食べました。小さかったですが、熟しているものは美味しかったですよ。
時刻も昼近くになり、Kさんの情報による探索もだいたい終えたことから、区切りをつけ車に戻り昼食を食べることになりました。
今まで探索・調査した場所で、御遺骨のあると思われる場所には、ちょっとした目印をしておきましたので、後日訪ねる場合でもそれほど苦労することなく訪ねることが出来るようにしておきました。
探索した場所を旧知念村と表記してきましたが、2006年1月1日市町村合併により島尻郡知念村(ちねんそん)は、玉城村、佐敷町、大里村と合併して市制施行し、南城市として生まれ変わったのです。私も古い地図を長年使っていたために気づかず、ある人から教えてもらったのですが…。
知念村村役場建物は久手堅に置かれていましたが、合併後は南城市役所知念庁舎となりました。
知念村は沖縄県の村のなかでは非常に歴史のある村で、1908年4月1日島嶼町村制施行により、知念間切が知念村となったようです。
城跡も何カ所かありますし、斎場御嶽は「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として2000年に世界遺産にも登録されるほどの歴史あるところで、王国時代は王国最高の御嶽とされ、国家の最高神職である聞得大君が管理したといわれています。
今回は事前調査ですから、由緒ある諸施設を見学するわけにはいきませんが、いつか旧知念村の史跡などを訪ねてみたいですね。
そうそう、旧知念村付近の森林は、沖縄戦の戦火を逃れた森林も多く、琉球古来よりの森林地帯がまだ現存するという話ですよ。「琉球の森林」をぜひ訪ねてみたいですよね。
沖縄戦の戦火を生き延びたという事で天然記念物の樹木のようです。久手堅(くでけん)とはこの地域の字の名前です。樹木が「アカギ」という名前なのでしょうね。
沖縄戦の為か沖縄ではあまり大木を見かけませんが、確かにこの木は大きいですね。
とつぜんのイモリの写真でビックリされた方もいらっしゃるかな。南西諸島の五つの島だけに生息。沖縄の天然記念物に指定されている「イボイモリ」です。
摩文仁之丘を探索
午前中キッチリ動き回ったので、お昼ご飯は美味しかったですね。道路横に腰を下ろして、皆さんと話をしながら楽しく食事を済ませました。
これからは、また摩文仁に戻り「ふくしまの塔」裏の壕や摩文仁南斜面の探索を行うことになりました。
「ふくしまの塔」裏の壕は、篠原先生のグループが5年にも渡って徹底的に捜索されている壕なのです。一番奥から徹底的に探索し、再びそこを捜索しなくても済むようにしてきたのです。
それでもまだ入り口付近に御遺骨がある事が確認されており、今日もまずそこから遺骨収集を開始することになりました。
全員は入れないので数人だけにしぼり、他のメンバーは摩文仁之丘南斜面で探索する事にしました。
私もこの壕には何度か入っていますが、縄ハシゴがないと昇降は出来ない状況です。
もちろん沖縄戦当時は違った出入り口があったに違いありません。いま私達が昇降する部分は、艦砲による爆撃で落盤してしまった部分を昇降しているのです。
ですから御遺骨となった将兵は、爆撃による壕内の落盤により生き埋めとなった可能性が最も高いと思われます。
実際考えてみて下さい。艦砲の砲弾で一番大きなものが平地に落ちて爆発すると、直径50メートルほどの穴があくといわれているのです。ギョエ~~~ですよね。
ですからたとえ壕内であっても、至近弾として壕付近で爆発すれば激しい衝撃により、かなりの堅牢な岩石もかなり破砕されて落下してしまうのではないかと思えます。
摩文仁之丘南斜面には、艦砲弾が炸裂した為と思われる、巨岩が大きく破砕しているところがよく目につきます。
艦砲弾の巨大な破壊力に、壕内に潜んでいた将兵もかなり不安な中で過ごしたのではないかと推察されますね。
この壕内については、Iさんという方が特に詳しい情報を持っています。
私達もIさんと共にハシゴを使って下に降り、ライトで照らしながら遺骨収集を開始しました。
壕内の壁になっている部分を掘り進むと、すぐに御遺骨らしきものが露出してきましたよ。そして掘り進んでいくとやはり御遺骨だと確認できました。
皆で交替しながら、慎重に御遺骨周りの土を崩していきました。
御遺骨を何点か収集すると、今度は鉄製の棒が出てきまして、これは銃剣の部分だとすぐ解りました。銃剣の先端部がまず見えてきたようです。
という事は、もしかしたらこの銃剣を掘り進んでいくと、日本兵が持っていた小銃が埋もれていることが予見できます。そしてもちろん、小銃を持っていた兵士の御遺骨が…。
いずれにしても、いま発掘中の御遺骨は、落盤による土石に埋もれている訳ですから、もしかしたらこの兵士が壕の底部に居たとすれば、遺留品なども多く出てくる可能性もありますよね。
私達はどれほど小さな遺留品も漏らさず発見しようと、皆さんが集中力を持って発掘にあたりましたよ。
御遺骨発見!
壕内に降りるには縄ハシゴを使って降りる事になります。
御遺骨の存在が確認されました。伏せてライトで探索しているのは篠原さんです。
井上さんが慎重に御遺骨周辺の土石を排除しているところです。金光教の遺骨収集では、御遺骨を出来る限り破損しないように慎重に作業を進めます。
はっきりと御遺骨が見えてきました。上腕骨?と思われます。
上腕骨の下にもう1本ありました。尺骨かもしれません。
そして御遺骨の下の場所には、銃剣がある事が判りました。右側が先端部です。
軍靴の底部や蓄電池などの遺留品も出てきました。
上腕骨・尺骨、その他指の骨などが収集されました。銃剣などの遺留品から、日本軍将兵であることに間違いありません。60余年もの間、壕内の土石に埋もれていたのですね…。本当に申し訳ございませんでした。m(_ _)m
摩文仁之丘南斜面を探索
銃剣を回収すべく、執念深く掘り進みまして、何とか掘り出しました。
そして予想通り銃剣の付け根は、小銃の先端に装着されていたのです。小銃の先も少し掘ってみましたが、銃身もはっきりと確認できました。
ただ、銃剣を回収するためにかなり穴を掘るように掘削したので、これから先は土石を掘り進むペースはかなり鈍化していきそうです。
メンバーの皆さんと話し合った結果、今日はこの段階で打ち止めとし、明日再び対応しましょうという話になりました。
収集した御遺骨や遺留品を持って、皆でまた地表に這いだしていきました。。
摩文仁之丘から南斜面に降りるルートは本当に限られていますが、貴重な一つのルートを篠原さんが見つけたのです。
このルートにより、崖下に降りるのが本当に楽チンになりましたよね。
今回は一部そのルートから降りて、崖の途中から横にそれて断崖のような部分を篠原さんを先頭に遺骨収集を進めました。
ここ摩文仁の崖の途中は、実に複雑に巨岩がゴロゴロと連続してあり、そこへ艦砲による巨岩の破壊も相まって、前進するのも容易でない地形となっています。
戦後を通じて、おびただしい数の遺骨収集団が摩文仁に入りましたが、このような場所はまず入らなかったのではないかと思えるような場所ばかりです。
私達も遺骨収集に没頭して、ケガなどがないように気をつけながら作業を進めました。
皆さんでクマデを掻きながら探索を進めましたが、時刻も夕刻が迫ってきたので、御遺骨は発見できませんでしたが、そろそろ打ち止めにしようという話になり、順次来た道を戻って国立戦没者墓苑の前に出ました。
朝からの遺骨収集&情報に基づく探索が続きましたが、かなり驚きの場面もありました。
まだまだ場所によっては、御遺骨が存在するのだということが、よく理解できましたね。
今日得た情報は、出来る限り詳細に林先生に伝えることになります。明日からの金光教遺骨収集奉仕活動のなかで、すぐに生かせる部分は生かし、手続きを踏んでやらなければならない事は、順次これからの遺骨収集で解決していくという手順になると思います。
摩文仁南斜面の途中から横に移動し、そこから遺骨収集を開始しました。
爆風の直撃を防げると思われる巨岩が連なり、絶好の隠れ場所がたくさんありました。
大小の壕もいたるところにありますね。遺留品もかなり見かけました。
夜は山城教会の皆さんと食事を楽しみました。夕食は篠原先生のグループに招待されたので、山城教会の皆さんと食事することになりました。もちろん、アルコール付きですよ。
山城教会の皆さんとこうして会食するのは初めてですが、毎年グループを拝見していて、結束力が強いことにいつも驚いていました。
今まで掲載した写真でお解りのように、赤いつなぎ服を着ているのですから、それだけで目立ちますよね。遺骨収集活動をしている最中でも、本当にその真剣さが言葉尻から伝わってきていました。
特に篠原さんの遺骨収集に賭ける意気込みは、本当に脱帽ものだと敬服しています。
若い人たちが多いという事もあるでしょうが、いつも和気藹々としていて仲もとても良さそうで羨ましい限りですよ~。
ビールを飲んだり美味しい食事を頂いたりして、楽しい一時を過ごさせて頂きました。
※せっかく皆さんと集合写真を写したのに、ピンとが合っていませんでした。ご免なさ~い。
山城教会の皆さんとこの「小樽食堂」で楽しく会食しました。