令和02年(2020年)沖縄遺骨収集奉仕活動

1月18日(土)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集

本日の天気予報は曇り、降水確率午前午後共に10パーセントです。また最高気温17度ですから肌寒いかもです。頑張ります。まず朝一番で「沖縄陸軍病院第一外科壕」「沖縄陸軍病院之塔」「沖縄陸軍病院第二外科壕」「沖縄工業健児之塔」を慰霊巡拝します。(^o^)

「沖縄陸軍病院第一外科壕」

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.1

ご覧の「第一外科壕入口」は、国道331号線沿いに設置されていますので、速度を落として慎重に運転していれば発見できると思いますよ。(^o^)

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.2

国道331号線から150mぐらい農道を進むと、左手にご覧の様な樹木が茂る場があります。ここに第一外科壕があります。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.3

「沖縄陸軍病院第一外科壕跡碑」が建立されている場所は糸満市伊原になりますね。沖縄戦当時は壕の周囲にある樹木等は砲撃で吹き飛ばされたでしょうから、そうした視点で壕を俯瞰してみますと、かなり大きい縦穴開口部が見えますね。穴が見えないように偽装するなどと言う事は不可能だと思えます。恐らく開口部は米軍飛行機からもよく見えたでしょうね。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.4

沖縄陸軍病院第一外科壕について、「ひめゆり平和祈念資料館」の説明書きによりますと、「伊原第三外科壕と共に、南部撤退後に沖縄陸軍病院職員やひめゆり学徒隊が避難していた壕の一つで、最初糸数分室の勤務者が入っていたが、後から第一外科と津嘉山経理部の勤務者が合流した。6月17日、壕の入り口近くに砲弾が直撃し、学徒や病院関係者が死傷。その翌18日に学徒らに解散命令が出され、19日未明に負傷者9名を残し、壕を脱出した」と書かれていました。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.5

まず読めませんので、公式サイトから転載させて頂きました。

【慰霊碑碑文】

ここは陸軍病院第一外科及び糸数分室所属の軍医看護婦、沖縄師範学校女子部、沖縄県立第一高等女学校職員生徒のいた壕である。

米軍の迫まる1945年6月18日夜、軍より学徒隊は解散を命ぜられて、弾雨の中をさまよい照屋秀夫教授以下多くはついに消息をたった。軍医、看護婦患者も同じく死線を行く生死わかれの地点である。

ここで負傷戦没した生徒。

古波蔵満子、荻堂ウタ子、牧志鶴子、石川清子、浜元春子、知念芳、神田幸子、比嘉ヨシ、照屋貞子。

藤野憲夫沖縄県立第一中学校長もここで最後を遂げられた。謹んで記して御冥福を祈り平和を祈願する。

1974年6月 ひめゆり同窓会 

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.6

道路から土のスロープになっていますので、雨の後など滑りやすくなっています。ご注意ください。岩盤が大きくバックリと口を開けていますが、ここは壕口ではありません。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.7

堅固な岩盤とその下側にある粘土層が良く解る状況です。第一外科壕は、こうした堅固な岩盤の下を掘り進めて構築したものです。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.8

巨岩の底部にある献花台が見えてきました。献花台の左側が壕口となります。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.9

この場まで降りてきて祈りを捧げる方が多く居られる証ですね。いつ来ても、折り鶴をはじめとする何らかの物品が献納されています。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.10

ここはまだ壕内ではありません。献花台の左側にある空間を写しています。壕口の横にある場所と言う事で、この辺りには衛生機材や軍事物資が置かれていた可能性もあると推測しています。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.11

ここが壕口です。幅は2mぐらいです。高さはあまりないです。現状は這って進まないと入れない状態ですね。推測ですが、壕の高さについては、上から土砂が落ちて塞いだ可能性があるので、沖縄戦当時はもう少し容易に出入りできる高さがあったのではないかと感じます。いずれにしても、今年は滞留した水が少ないみたいです。壕の中が見えますからね。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.12

最も下に降りた壕口から開口部を撮影しました。壕口は小さいですが、空から見る地表の開口部はかなり大きいのが見てとれます。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.13

滞留した水が少ないので中が見えます。何度も第一外科壕を訪れていますが、こんな事は初めてです。気持ちが高揚しますが、抑えて、抑えて!。壕口は急勾配ですし土が主体なので滑りやすいです。皆様も見学時は誤って中に落ちないでくださいね。(^^;)

《過去の写真ご紹介》

平成31年(2019年)1月27日/沖縄遺骨収集の様子no.14

昨年撮影した壕口の写真です。滞留した水で池のようになっていて、壕内を見る事は全く出来ませんでした。

過去写真掲載はここまでです。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.15

今年は雨が少なかったと聞いていましたが、それを反映するように、壕内も滞留している水が少ないですね。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.16

水位が低いので例年よりも1mぐらい奥に進めました。そのお陰でこれまで撮影出来なかった部分を写せました。写真は壕内の左側の壁面を撮影しています。奥の壁面も若干写されていますね。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.17

この写真は壕内の右側の壁面を撮影しています。如何ですか、左右の壁面を撮影した事により、第一外科壕の大まかな大きさが解りました。

「沖縄戦とガマ(壕)」というサイトに、伊原アブチラガマ(第一外科壕)の配置図・断面図を掲載しているコーナーがありましたのでご紹介します。このサイトによりますと、私が撮影した壕内について、更に奥の方に壕の坑道がある様ですね。いずれにしても、第一外科壕の詳細な説明が為されています。ぜひご覧下さいませ。(別ウインドウで開きます)

冒頭でひめゆり平和祈念資料館の説明書きによると‥。でご紹介した「6月17日、壕の入り口近くに砲弾が直撃し、学徒や病院関係者が死傷」と、書かれている砲弾が直撃した場所は、上掲写真の壕口の直ぐ奥辺りに居られた学徒の方々が死傷したのではないかと見ています。また死傷の規模からして艦砲砲弾が炸裂した可能性があると感じます。砲弾が落下・直撃した場所は、私が撮影する為に立っている場所辺りではないかと思います。それでは砲弾が直撃した直後の様子が生々しく書き綴られている「ひめゆりの少女 十六歳の戦場」(宮城喜久子著/(株)高文研)を引用させていただきます。

流れる血、叫ぶ声

(116頁)
六月十七日の夕方、砲弾が止み、やっと水汲みと食べ物さがしに生徒たちは外に出ました。私は石川先生と玄米を炊きに近くの岩かげに行きました。枯れ草に火をつけようとした、その瞬間です。突然、第一外科壕のあたりで砲弾の炸裂音がしました。

「壕の近くに爆弾が落ちたようだ。すぐ壕に戻ろう!」
先生はそう叫ぶなり、走り出しました。私も、先生の後を追って走りました。

壕の入口近くに大きな砲弾が落ち、あたりは硝煙の匂いがたちこめていました。壕の中は騒然として、さまざまな叫び声が飛び交っていました。恐る恐る中に入ると、入り口近くには折り重なるように人が倒れていました。おびただしい血が流れ、歩くとぬるぬるとすべります。その中を奥へと進みました。そこで目にしたのは、「助けて!」「痛い、痛い!」と泣き叫んでいる学友たちの姿でした。足元には どろどろした血の中に人の体が横たわっていました。ぶるぶると体中が震えました。まさに阿鼻地獄です。

比嘉勝子さんは脚を負傷し、「早く包帯して!」と叫んでいました。そこへ照屋貞子さんが、ひざを負傷し、外から運ばれてきました。牧志鶴子さんは「足がない!足がないよ!」と大声で叫んでいたそうです。鶴子さんは大腿部を取られて亡くなったのです。そのほかに師範予科三年の小波蔵満子さんが即死でした。

師範本科一年の荻堂ウタ子さんは、内臓がとび出すほどの重傷で、師範生に囲まれて倒れていました。「おなかがやられた人が助かることはない。私はいいから他の人を見てあげて」と叫ぶように話しているのが聞こえました。砲弾が落ちた時、壕の外にいた山里幸子(現姓、山田)さんが荻堂さんのところへ行った時は、もう息を引き取る寸前でした。幸子さんと荻堂さんは幼なじみでとても親しい間柄でした。「幸子、もんぺを上にあげてちょうだい。私は三報よ。あなたはきっと生きて、私のお母さんに、ウタは先になると話してちょうだい」と幸子さんに苦しい息の下から話したそうです。「三報」というのは、助かる見込みのない患者ということです‥。

‥。砲弾の破片で顔面を削られた人、かかとをえぐり取られた人、大腿部やひざをえぐられた人‥。あまりの痛さに泣き声をあげる友だちの前でね私たちはなす術もなく、ただうろうろしているばかりでした。出血した人に水をあげると、どっと出血して大変なことになると言われていたので、水をあげることにちゅうちょしましたが、苦しむ姿を見るとたまらなくなり、口元から少しずつ水をたらすようにしてあげました。

「ひめゆりの少女 十六歳の戦場」から転載させて頂きました

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.18

同塔の付近は農地が広がっていて、ご覧のような電照菊栽培も盛んに行われている地域です。

「沖縄陸軍病院之塔」

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.19

道路脇にはご覧のような「沖縄陸軍病院慰霊之塔」という石碑が立っています。結構目立つので見落としは少ないと思われます。ご覧のように案内碑のある場所は整備され整然とした場所となっていますが、二年前までは鬱蒼とした木が茂っていた場所でしたから、この碑も草に隠れてよく見えなかったという状態でした。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.20

「沖縄陸軍病院之塔」の敷地内には、大きな広場があるのが印象的ですね。また昔は大きな木が何本もあり鬱蒼とした雰囲気でしたが、それらの木も適宜伐採されたりして、現在はご覧のように見通しのきく明るい雰囲気となっています。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.21

ギリギリ読めますね。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.22

「沖縄陸軍病院之塔」です。昭和39年「沖縄陸軍病院戦没職員の碑」として建立され、平成6年「沖縄陸軍病院之塔」として再建されました。病院長広沢文吉軍医少将ほか軍人、軍属、医師、薬剤師、看護婦等43名が祀られています。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

2018年1月20日/遺骨収集の様子no.14

碑文です。ご覧下さいませ。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.23

戦没者の死を悼み詠んだ詩ですね。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.24

ゲゲゲッ 気がついたら足下に黒い猫が‥。(^^;)(^^;)(^^;)

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.25

首輪がしてあるので飼い猫だとわかりホッとしました。スリスリしてきます。少しなぜてやりましたが、とにかく人なつっこい猫ちゃんです。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.26

敷地の端に「沖縄陸軍病院本部壕」ありますので、ご一緒に入って見ましょう。ちなみに壕の呼称は山城にある事から、「沖縄陸軍病院山城本部壕」と呼ぶ場合もあります。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.27

「沖縄陸軍病院山城本部壕(山城本部壕)」の説明板です。本説明板は昨年は無かった事から、この一年で設置された様ですね。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.28

これが沖縄陸軍病院本部壕です。大きな木がありますが、もちろん沖縄戦当時は無かったでしょう。ご覧のように開口部がとても大きくて偽装は出来なかったでしょうね。実際に壕に入ってすぐの、写真では左側辺りに艦砲砲弾の直撃を受けて、多くの人々が一瞬のうちに亡くなったり重傷を負いました。沖縄戦当時もご覧のような壕に降りていくスロープがあったようです。スロープに沿って手摺りも設けられていたと記録に残されています。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.29

更に降りていきましょう。右側のスロープになっている部分は、沖縄戦時でも同じような形状をしていたと推測されます。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.30

30mぐらい降りた所から壕の奥側を撮影しました。遺骨収集で何度も岩が穿り返されたのでしょう。とにかく表面のほとんどが岩だらけです。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.31

壕開口部を振り返って見ると、こんな感じです。開口部がバックリと口を開けているのが見てとれますね。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.32

壕口付近の米軍迫撃砲弾が落下した場所を写しています。写真左側辺りに落下したのかな?

《過去の写真ご紹介》

2017年1月26日/遺骨収集の様子no.20

この写真は米軍迫撃砲弾が落下した際に、負傷したり死亡した方々の場所を明示した見取り図です。ギリギリ見えますね。9番が迫撃砲弾着弾点です。左側2番の所で、橋本伍長、兵一名即死、宮原軍曹重傷。4番の所で、中林伍長即死、軍属炊事婦二名即死。5番の所で、院長負傷。と書かれています。着弾点は壕の天井の無い窪地部分でしたので、遮る物がなく広範囲に砲弾破片が飛び直撃したと思われます。

過去写真掲載はここまでです。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.33

ほぼ平坦になりました。ここまで来るともう真っ暗です。更に前進してみましょう。この奥に雨期には水が流れる川があります。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.34

壕は一人で入ってはいけないのですが、外にレンタカーが駐車してありますし、この壕で遭難しても早期に発見してもらえると感じるので、ついつい壕の最奥部まで入ってしまいます。ご覧のように壕の奥の方に進むとかなり大きな池があります。池の周りにロープが張られていました。一昨年設置されたようです。この壕もスロープ部分が整備されたり、この池の前にロープが張られるなどから推測するに、修学旅行生等の平和学習をこの壕でする様になったのかも知れません。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.35

より近づいて池の中を撮影しています。やはり今年は水位がかなり低いですね。雨期には水が流れる川であると書かれていますので、沖縄戦当時の5月6月辺りでは、水が流れていたのかも知れませんね。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.36

池の前から壕口方向を撮影しています。ここからは壕口は全く見えません。壕開口部に艦砲砲撃の直撃を受ければ、ここに居ても被弾する可能性があると感じました。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.37

おやおや、猫ちゃんが壕の中まで追いかけてきました。壕口で追い払ったのですが、後を付けてきたようです。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.38

猫ちゃんに責任はありませんが、暗い壕内で黒猫が居ると、何となく不気味に感じました。これが正直な気持ちです。(^^;)

猫ちゃんが壕から出られなくなった大変ですから、一緒に壕から出て、そこでバイバイしました。と言いつつ最後まで離れようとしませんでしたが、車のエンジン音を聞いてやっと離れてくれました。来年も会えるかな~。(^o^)

「沖縄陸軍病院第二外科壕」

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.39

国道331号線から脇道を100メートルぐらい進むと、小高い稜線の切り通しありまして、その切り通しを過ぎる際に右側を注意深く見て進むと、この写真の場所に出ますから、見落とさないように注意して下さいね。ご覧のように車も一台止めることが出来ます。また40メートルぐらい離れた場所に駐車場もあります。慰霊塔のあるこの場所は、東西に延びる小高い稜線の裾にあたり、前の方には畑が広がっていますし、海も見えます。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.40

「陸軍病院第二外科壕」と書かれた石碑と共に、第二外科壕の開口部が見えてきました。病院壕です。ひめゆり学徒隊も引率教諭と共に、ここで看護活動を続けました。この壕は6月18日に米軍に発見されてしまいましたが、動ける人は夜間に脱出し第一、第三外科壕方面に逃れました。そして19日には馬乗り攻撃を受けましたので間一髪で脱出に成功したと言われています。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.41

「陸軍病院第二外科壕」の右側に設置されている「ぬちどうたから碑」です。「ぬちどうたから」と彫られています。漢字交じりだと「命どぅ宝」と書きます。「命こそ宝」という意味で、沖縄では主に反戦平和運動のスローガンとして用いられるようです。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.42

壕口の背後は、ご覧のような丘陵となっていて稜線もすぐ上にあります。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.43

数年前までは、この壕開口部は閉ざされていましたが、何者かにより壕口が開けられ中に入れるようになりました。最も壕口は土を持って壕口を塞いだという状況でしたから、20年以上前から僅かに穴が開いていて中が見えるような状況ではありました。

壕は構築壕であり、出入り口は二カ所あると言われています。稜線にそって行くと、そのもう一カ所の入り口があるそうです。100メートル以内にあるという話ですから、機会があれば探してみたいと思います。またこの壕口の右側は切り通しの道路となっていますが、拡幅の際に斜面に人が通れるぐらいの大きな穴が開いたという話ですが、切り通しの道路を作る際に潰されたという情報も聞いた事があります。ただその開口部が「陸軍病院第二外科壕」と繋がっているかどうかまでは知り得ませんでした。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.44

それではご一緒に第二外科壕に入ってみましょう。入りとすぐにコンクリート製の納骨堂が設置されています。そして写真を見ると解りますが、納骨堂の蓋がありません。付近を見渡しても、どこにもありません。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.45

納骨堂の蓋の部分をよく見ると、手前側のコンクリートがハンマー等で打ち砕かれ、鉄筋が露出し錆びだしているのが見てとれます。この様子を見ただけで、誰かが蓋をハンマーとかバールでコンクリートを打ち砕き、こじ開けて中にご遺骨を持ち去ったかも知れません。因みに納骨堂の中にある土砂は、納骨堂のすぐ横を掘った際に出た土砂を投げ入れたと考えられます。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.46

これが納骨堂のすぐ横を深く掘ったとみられる所です。掘った土砂を納骨堂の中に投げ入れたと考えられます。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.47

この写真は、納骨堂の奥に壕の坑道が続いているのをお目にかけたくて撮影しましたが、手前に露出があってしまい、奥の方は暗くなってしまいましたが、何となく左側に坑道があるのが解りますかね。私はまだ坑道の奥へ行ったことがないのですが、数十メートル前進すると開口部から外に出られるという話です。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.48

壕のある場所から南西の方向を見ています。解りにくいですが東シナ海が見えていますね。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.49

壕のある場所から西側を見ています。緩やかな丘陵が西へと続いています。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.50

壕のある場所から、今度は東側を見ています。同じ様に緩やかな丘陵が東側も続いています。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.51

ここは糸洲集落の外れです。農地も広がっています。写真はトウモロコシ畑です。見事な成長ぶりなので撮影して見ました。

「沖縄工業健児之塔」

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.52

「沖縄工業健児之塔」です。同塔は摩文仁平和祈念公園内の東側に位置する平和祈念資料館の東側に隣接してあります。海岸沿いの崖上にあり、背後に木々が茂っていますから海は見えないのですが、潮風と共に波音も聞こえてくる場所にあります。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.53

「沖縄県立工業健児鎮魂之塔」説明文です。テキストに起こしてみました。

【沖縄県立工業健児鎮魂之塔】

太平洋戦争の末期、昭和一九年三月、大本営は沖縄守備隊第三十二軍を新設し、政府は五月二二日戦時教育令を公布。米軍機動部隊の沖縄攻略に備えて、飛行場、港湾等各種陣地構築に一般市民、各中等学校生、さらに小学生までも動員した。同年十二月、軍命により第五砲兵司令部(球九七〇〇部隊)が工業学校生徒に無線・有線・暗号等の特訓し、昭和二十年二月各部隊に配属。学校では鉄血勤皇隊を組織、米軍機動部隊の上陸に備える。同年三月二三日、米軍機動部隊艦載機による空爆で沖縄戦の火蓋が切られ、遂に昭和二十年四月一日米軍沖縄本島中部西海岸に上陸。水平線まで埋め尽くす艦艇による艦砲射撃等で日米両軍による国内で唯一住民を巻き込み山野が変貌する熾烈な地上戦が六月下旬の戦闘終結までの三ヶ月間続く。日本軍は米軍の圧倒的優勢の前になすすべもなくこの最南端一帯に撤退。学徒通信兵も当該地に転戦するが、同年六月十九日米軍に包囲され、その夜、敵陣に突入を決行。奮戦空しく散華。沖縄戦で、教頭、教職員、学徒隊では各中等学校中最も多くの義税者を出す悲惨なものとなった。この実情を後世に語り継ぐため、工業学徒通信隊最期の地に慰霊塔を建立する。

尚、この塔造形の意義は、背面に建つ七本の柱(健児)が一本の大貫によって、貫(団結)かれ、がっちりとスクラムを組んで碑身(平和)を護り、碑身上部の雲間には平和のシンボルの鳩三羽を飛ばす。又、教職員や学徒隊、そして通信隊員の名前を彫り込んだ名盤台天端の三つの変形菱形板には、それぞれ赤、黄、青の三原色を彩色し、その臍(へそ)を結び台上の三点で踏張って、この地上からあらゆる戦争をなくし、世界の永遠の平和を守ることを誓うとしている。

昭和三十七年十一月建立 
沖縄県立沖縄工業高等学校 
沖縄県立工業學校遺族会 
沖縄県立沖縄工業高等学校同窓会 

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.54

ギリギリ読めますね。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.55

7本の柱は7人の武士を表し、柱横に連なりスクラムを組ませ協力を象徴していると言うモニュメントです。7本の柱にしっかりと守られていますね。ご覧のように塗装も新しくピカピカに塗られ、新装なった「沖縄工業健児之塔」です。

同塔は大東亜戦争中、沖縄、その他の地域で戦没した沖縄県立工業高等学校の同窓生、職員、生徒167名が祀られています。同校は、沖縄戦では、生徒97名が動員されました。生徒達は鉄血勤皇隊や通信隊を組織するなどして戦闘に参加し、88名が犠牲となりました。学徒隊の中では最も高い戦没率であったとされています。

軍の解散命令が出た後に、慰霊塔の背後にある壕内で学徒が自決したとされている事から、私も同塔背後を徹底的に調査したことがあります。その結果壕はありませんでした。あるのは亀裂です。深い所では10メートルぐいらはあるでしょうか。そんな亀裂が100メートルぐらい続いていました。亀裂の最終局面で一カ所壕がありましたが、その場所はこの「沖縄工業健児之塔」からかなり離れていますので、背後という事には当たらないと思います。調査の結果平成20年(2008年)ですが、頭骨も含めて一柱見つけることが出来ました。この「沖縄工業健児之塔」から40メートルぐらい離れた場所でした。遺品としてはかなりしっかりした鉄兜のみが見つかっています。学徒隊との関連を裏付ける遺品等は発見されませんでした。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.56

沖縄県立工業高等学校の戦没された学徒の名が刻まれています。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.57

沖縄県立工業健児鎮魂之塔の左側に展開する芝地を写しています。樹林帯も見えていますが、幅は狭くて約30mぐらいの樹林帯が帯のように連なっていまして、樹林帯に先は崖になっています。晴れてのどかな公園風景ですが、この写真に写されている範囲内で頭蓋骨を含む完全一体の御遺骨を発見しました。

その場所は芝地と樹林帯の境目、概ね写真中央部ですが、何やら柵のような物が見えますね。その右側20メートルぐらいの場所、そこは沖縄県立工業健児鎮魂之塔から見ると約50mぐらい東に移動した場所辺りなのですが、芝地から3mぐらい入った所にある壕で、私は頭蓋骨を含む完全一体の御遺骨を発見したのです。平成20年(2008年)第35回沖縄遺骨収集奉仕活動ですから、今から11年前ですね。下の写真でその様子をご覧下さいませ。

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子11

岩の割れ目から壕に入りしばらく前進すると、日本軍将兵が被っていたヘルメットがありました。こんな大きな遺品がそのままという事は、まだこの壕は誰も調査していないと感じた私は胸が高鳴りました。急がず目を凝らして極めて慎重に奥に進んでいきました。

遺骨収集の様子12

壕はどんどん狭くなりましたが、ヘルメット発見場所から2mぐらい進むと、人間がやっと入れるような隙間でしたが、遂に御遺骨を発見しました。丸く崩れていない頭蓋骨や大腿骨が見えます。その他小さな骨も奥の方に掛けて散乱しています。また岩に隙間が見えますね。一部の御遺骨は下の空間にある壕に落ちていました。それら全て収骨してみると完全一体の御遺骨と宣言して良いボリュームとなりました。

遺骨収集の様子13

発見御遺骨のあった場所の手前側は下に穴があり、そこにも壕と呼べる空間がありました。写真は今にも下に落ちそうな脛骨です。足の細かい骨等は皆下に落ちていました。

遺骨収集の様子19

収骨する皆さんが全力で記名遺品を探しましてメガネ二個が出てきましたが、残念ながら身元を特定する遺品はありませんでした。メガネが二つ出てきました。べっ甲で作られています。べっ甲で作られたメガネは珍しいような気がします。箱のようなものは「マッチ」と思われますが、驚くことに箱の部分は金属でできていました。また本部に送った土砂からキセルの金属部分も発見されていましたが、氏名の特定は出来なかったようです。また近くではサーベルも発見されましたが、腐食が酷く記名があるとは思えませんでした。

この御遺骨のあった場所は公園芝地から3mジャングルに入った場所です。このように公園からジャングルに入って直ぐ。道路からジャングルに入って直ぐ‥。こうした「○○から入って直ぐ」の場所は、御遺骨発見に向けての極めて穴場的場所であると強調したいです。例えば道路からジャングルに団体で入る場合をイメージして頂くと解るのですが、こうした場合大概道路からジャングルに入るに際して、「入りやすい場所から一列縦隊で入る」事がとても多いのです。このように道路から入って一直ぐの場所は、とても見落としが多い場所と言えるでしょう。

過去写真掲載はここまでです。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.58

写真の左側に写されている辺り、芝地から3mぐらいジャングルに入った壕内で、上掲のご遺骨は発見されました。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.59

ご遺骨が発見された場所は、平和祈念資料館がこんなに近くに見える場所でもあります。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.60

平和祈念資料館の近くに太平洋が見渡せる展望台がありました。その展望台から西側にある平和祈念資料館などを見ています。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.61

今度は東側海岸線を展望しています。写真中央部に絶壁が見えていますが、あそこは慶座絶壁(キーザバンタ)と間違えやすいのですが違います。同絶壁は更に東に800mぐらい行った先にあります。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.62

そして展望台の真南から太平洋を見ています。この摩文仁海岸線のどこかに穴場があると思えてなりません。そうです。まだ遺骨収集されていない場所があると思えてなりません。その場に立たないと直感的なひらめきは出てこないでしょう。何時の日か、その直感が湧き上がる日がある事を楽しみに‥。(^o^)

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.63

展望台から見る「沖縄平和祈念堂」です。沖縄平和祈念堂は、昭和53年(1978年)10月に竣工しました。建物の中には 高さ約12メートル,幅が約8メートルもある、人間の祈りの姿を象徴した座像、沖縄平和祈念像が鎮座しています。沖縄平和祈念像は、沖縄出身の芸術家山田真山画伯(1885~1977)が, 全戦没者の追悼と世界平和を希う沖縄県民の心を一身に担い、全生涯を捧げて制作されたとの事です。宗教や思想,政治や人種,あるいは国を超えて、すべての人が戦没者の慰霊と平和に力を合わせて行こうという事を、10本の指を合わせた合掌の形に表現されたそうです。

「瀬古政秋」氏と刻印

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.64

豊澤さんが認識票を清掃して下さいました。書かれている文字を損傷しないように、注意深く慎重に取り組んだ為に、かなり時間を要したと言います。三枚の認識票の内一枚、一番左の認識票には名前がフルネームで彫られていました。ハッキリと「瀬古政秋」氏と読めます。やりました。同氏は故郷に帰る事が叶うかも知れません。(^o^)

「瀬古政秋」氏を検索する

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.65

平和祈念資料館内にある刻銘戦没者の検索システムを利用して、福岡さんが「瀬古政秋」氏を検索している所です。「瀬古」で検索しても、すぐには見つかりませんでした。しばし焦りましたが、検索ワードの「瀬」の文字の検索範囲を変えて見たところ出ました。

ただ検索で表示されたのは、「瀬古」の瀬の文字の右上の部分が刀に貝になっていました。いずれにしても、まずは表示されて良かったです。文字の一部が違っていますが、まずは平和の礎の該当部分に行って確認してみます。Cの7番目の墓石、一番左の上から16番目に表示されていると記された書面が、プリントアウトされました。この書面を持参していざ出発です。(^o^)

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.66

平和祈念資料館を出て、平和の礎に向かっています。遠くに見えてきましたね。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.67

平和の礎です。数え切れないぐらいのモモタマナ(クヮーディーサー/桃玉名)が植栽されていますね。モモタマナは葉がおお大きい事から、木陰を作るという事でしょうかね。沖縄では古くから村落の集会所や墓地などで植えられています。また果実は食用になりますし、何よりヤシガニの好物だそうですよ。

平和の礎の建設の趣旨は、「沖縄の歴史と風土の中で培われた「平和のこころ」を広く内外にのべ伝え、世界の恒久平和を願い、国籍や軍人、民間人の区別なく、沖縄戦などで亡くなられたすべての人々の氏名を刻んだ記念碑「平和の礎」を、太平洋戦争・沖縄戦終結50周年を記念して1995年6月23日に建設する」との事で、刻銘碑は屏風状に並び、5つ折タイプ69基、3つ折タイプ49基の合わせて118基、刻銘版は,220面に及ぶそうですよ。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.68

ありました~。ただ検索機に表示された様に、「瀬」の字の右上が「刀」に「貝」の字になっています。一般的に使われる「瀬古」の字の戦没者検索では表示されないので、収集された認識票を御遺族にお返しする事が叶えば、最終的に御遺族に確認してみたいと思います。

調査・遺骨収集作業開始です

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.69

調査・収集作業開始に先立ち、沖縄戦戦没者の鎮魂を願い手を合わせました。m(_ _)m

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.70

今日も天気は問題ありません。有り難いです。本日は右から豊澤さん、紅一点の齊藤さん、福岡さん、そして松永さんです。今日も頑張って参りましょう。(^o^)

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.71

午前中は、は二日前の1月16日に下調べしておいた場所での調査作業を行います。さあジャングルに入りましょう。(^o^)

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.72

結構な急斜面ですね。齊藤さんは初日という事で、あまり無理をしないで下さいね。若いから大丈夫かな。(^o^)

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.73

オー。猿もビックリな所業ですね。それにしても注意しないと滑落しそうな雰囲気ですよ。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.74

大きな岩が層を成してゴロゴロしています。これらの岩は、間違いなく米軍による砲撃で石灰岩が剥ぎ取られて散らばったとしか考えられません。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.75

目的の壕に到達しました。先陣を切って松永さんが入っていきます。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.76

と言いつつ、入り口が狭いので容易には入れません。入りやすい場所を探しながら体を入れていきます。沖縄戦当時はもっと容易に出入り出来たはずです。壕上部が急斜面ながら土を含む地表層がある為に、戦後七十余年の歳月で土砂が堆積したと推測されます。因みに壕上部は頑健な石灰岩ですから、あらゆる砲撃に難なく耐えたはずです。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.77

最初の難関は無事に通過しました。下見の時に壕の坑道が横にあるのではなく、垂直方向に伸びているのが判明したので、安全対策としてロープを設置した上で降りていきます。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.78

豊澤さんも私の後に続きます。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.79

背丈以上は降りたでしょうか。ここまでは難なく降りられました。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.80

4mぐらい降りたでしょうか。一寸した踊り場がありました。五人ぐらいは滞在出来るスペースがあります。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.81

沖縄戦当時の缶詰の空き缶と思われます。戦後の慰霊巡拝時の空き缶は、これ程ひどく劣化はしていないので、間違いないと思われます。酒が入っていたと思われる瓶は戦後の物でしょう。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.82

瓶を確認しましたが、酒瓶は戦後の物ですね。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.83

軍靴がありました。片側だけですね。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.84

踊り場から更に降りられますね。私が最初に降りてみました。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.85

松永さんが降りています。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.86

急な岩場ですが、思いのほか足を掛けられる場所はあります。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.87

二人が降りた場所を撮影するとこんな感じです。反対側の岩場を利用すれば、見た目よりも楽に上り下り出来る印象です。ただ灯りがない状態だと、滑落の可能性があり危険危険なので、日本軍将兵は踊り場には居たようですが、ここまでは降りなかったかもしれません。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.88

壕の底に降り立ちました。壕口から10m弱降りたと言う感じでしょうかね。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.89

底は結構広いですよ。三畳間ぐらいは十分あります。そして比較的平坦です。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.90

松永さんは戦後堆積したと思われ土砂を見ながら、日本軍将兵は壕底のここまでは降りなかったかも知れないと推測しました。実際に灯りがあれば問題ないですが、無灯火では一寸厳しい印象です。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.91

酸欠の恐れはありません。立っていると風を感じます。ご覧下さい、岩がバックリと割れていますね。ただ人が出入り出来る程広くは無いので、私達が立っている場所から更に奥へは進めません。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.92

この開口部も人が進めるほど広くは無いので、この開口部から先には行けません。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.93

空間の天井の様子です。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.94

さあそれでは戻りましょう。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.95

あと一息です。壕口の光も見えていますね。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.96

壕口付近に黒焦げになった細かい灰のような物がありました。壁は煤で黒ずんでないので、炊事した場所では無いようです。木材の灰とも違う感じです。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.97

軍靴を壕の中から出しました。またご遺骨がありました。足を構成する骨と思われます。このご遺骨は壕口付近にありました。黒く焦げた灰といい、壕口付近で日本軍将兵が戦死したのかも知れません。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.98

壕口はこんな感じです。壕口は横長で目立ちません。攻めるにも守るにも、発見されにくい場所であったと推測されます。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.99

福岡さんが壕口付近を調査しています。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.100

最終的な収集状況です。脊髄が一個発見されました。腰椎かも知れません。この壕口で一人の将兵が亡くなった可能性がありますね。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.101

ここも調査する価値のありそうな壕ですね。ただ時間が押してきたので、今回はパスです。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.102

ここも調査する価値のありそうな壕ですね。今回はパスです。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.103

ここに壕口があります。少し離れただけで壕口があるとは全く思えません。抜群の隠蔽度です。時間が押しているので、最後にこの壕に入って見る事になりました。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.104

人一人が通れるぐらいの壕口です。素晴らしい場所という感じです。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.105

もう一段降りて行けるようです。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.106

壕の底に到達しました。結構な広さがありますね。堅固な岩盤で囲まれていますから、砲撃を受けてもびくともしない印象です。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.107

割れた茶碗がありました。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.108

鉄製の物がありました。これはよく見ますよね。どの部分なのか一寸解りかねますが‥‥。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.109

午前中に発見された遺骨と遺品です。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.110

発見されたご遺骨です。すでに遺骨収集が為されて、このご遺骨は取りこぼしという事になるのでしょう。この壕口で亡くなられたのは明白ですから、私達は最後にロウソクを灯し、線香を上げて戦没者のご冥福をお祈りしました。

調査・遺骨収集作業開始です

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.111

昼食を食べ終え、午後の作業に取り組みます。午後は右からさん、豊澤さん、吉井さん、福岡さん、そして齊藤さんです。頑張って参りましょう。(^o^)

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.112

さあジャングルに入ります。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.113

一番険しい場所を通っています。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.114

開けた場所に出ました。あと少しで作業現場に到着します。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.115

吉井さんが見つけました。私は最初木の枝を持っているのかなと思いましたが、「中澤さん、重たいよ」と仰るではありませんか。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.116

ご覧くださいませ。木の枝ではなく、手榴弾や榴弾を曲射弾道で射出する擲弾筒もしくは迫撃砲の砲身でした。擲弾筒もしくは迫撃砲は少人数で運用出来ますし移動が簡便な為に、小隊単位、又は砲兵ではなく歩兵の携帯装備であるのが一般的です。同口径の榴弾砲と比べて軽量・コンパクトであるので、ご覧の様に砲身部分とか分解して携行出来るのが一番の特徴でしょうか。と言う事で、摩文仁ジャングル内でこうした砲身が見つかるのは自然な事と思えます。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.117

地面に置くとこんな感じです。木の枝にしか思えませんよね。岩の上だから、まだ枯れ木とは違うという感じがしますが、これが落ち葉や雑草が繁茂する地面だったら誰も武器の一部だと気づかないでしょうね。吉井さんが発見された場所は、ある意味ジャングルを行き来し易い平坦な通路部分で、道の様になっていた場所でした。この通り道は、戦後から今日まで数え切れない程の多くの人達が行き来したでしょうが、だ~れも発見出来なかったという訳ですよ。(^o^)

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.118

ロープだけでは難儀な壕口なので、女性も参加されるという事で脚立を準備しました。これで安心して壕から入れますね。(^o^)

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.119

壕の坑道を降りています。降りる時は、地面を見る姿勢で四つん這いになりながら降りると、滑落リスクが低下し安全に上り下り出来ます。齊藤さんもセオリー通りに、四つん這いの姿勢で降りています。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.120

もう少しで作業現場に到着です。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.121

横一列に並んで攻めようと言う訳ですね。(^o^)

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.122

少し離れて吉井さんと福岡さんが作業します。前日からの続きの場所です。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.123

この時点で見つかった遺品です。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.124

福岡さんが遺品を手にしています。この場所も色々と遺品が出ている様です。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.125

フルイで遺品を探す吉井さんです。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.126

皆さんが頑張って作業している様子です。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.127

この時点で見つかった遺品です。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.128

お金ですね。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.129

ご遺骨も少し出ていますね。一番大きな骨は動物の骨かな?と言う印象もありますが、人間の歯がありましたから、全部動物という訳では無さそうです。因みに沖縄戦では二千頭以上の軍馬が本土から運ばれ、戦野で軍事物資の運搬などに使役されました。そして悲しくもその全てが砲弾に撃たれ死にましたが、瀕死であったり死んだ少数の馬は解体し調理されて、将兵の貴重なタンパク源として分け合って食べたそうですよ。また農家では豚とか山羊を飼っていたので、そうした家畜を将兵が購入したり、山野に放たれた豚や山羊を捕まえて、将兵の間で食べたたと言う話も戦記本には登場します。と言う事で、発見されたご遺骨に動物の骨が混じっているケースもままありますが、そうした視点で発見されたご遺骨を見極める必要がある様に感じます。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.130

皆さんが思い思いの場所で作業しています。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.131

松永さんのお友達の

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.132

この時点で見つかったご遺骨です。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.133

日本軍将兵の襦袢(シャツ)のボタンですね。少しずつ数が増えています。この下着のボタンを大量の土砂の中から見つけるのは、相当な集中力がないと見つけられません。ボーとしていると、まず見落とします。それだけに、この壕内で作業しているメンバーは、恐らく驚くほどの集中力で取り組んでいると断言できます。(^o^)

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.134

この時点で見つかった遺品です。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.135

作業している皆さんの様子です。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.136

福岡さんが作業しています。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.137

フルイに土砂を入れ、フルイを振って遺品が無いか調べ、そして土砂を捨てる‥‥。遺骨収集とは、壕の中でも外でも、こうした繰り返し作業が多いです。遺骨収集とは、実に地味で単調な肉体労働なのです。戦後七十余年も経過すると遺骨収集を続けていても、心ときめく発見などは早々ありません。それだけに正直に語ると、どうしても飽きが来てしまいがちです。まして成果無しなら、そうした気持ちをより増幅させるのが常です。

そうです。生活の為の仕事ではなく、何時でも止められる単なる奉仕活動であるが故に、飽きずに続けるには揺るぎない志が必要なのです。ここに集っている人達こそは、単なるボランティア活動という範疇を超えて、遺骨収集と言う奉仕活動こそが生きがいと感じている人達に思えてなりません。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.138

齊藤さんが何か見つけた様です。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.139

炊事をしたと思われる煤で黒くなっている部分です。この付近からいめ

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.140

来年の為に壕の奥を調べようと思います。(^o^)

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.141

上がったり降りたりしながら壕は奥へ奥へと続いています。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.142

ここも比較的広い空間です。兵士が横になって眠るには良い場所ですね。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.143

ここも難なく降りられました。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.144

ここも入れました。中は結構広いです。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.145

ここが突き当たりと言えそうです。現在遺骨収集作業をしている場所から、この突き当たり部まで、感覚的には四十数メートルと言った所でしょうか?

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.146

この時点で見つかった遺品です。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.147

新たに色々と発見されました。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.148

左側は防毒面の付属品として携帯した不凍液が入った容器、そして右側は鍵穴がある事から、木箱か何かの鍵穴部の金属部品かも知れませんね。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.149

これは良く見かける形の瓶ですね。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.150

この時点で見つかった遺品です。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.151

新たに一枚見つかり、認識票は合計4枚となりました。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.152

皆さんが黙々と作業を続けています。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.153

地盤が学校のグラウンドみたいに綺麗になりましたね。(^o^)

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.154

齊藤さんが万年筆のキャップ部分が見つかったと見せてくれました。本体の方は既に見つかっていますので、これで完全に一本の万年筆が見つかった事になりますね。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.155

齊藤さんがしっかり清掃してみましたが、残念ながら記名はありませんでした。残念!

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.156

この時点で見つかったご遺骨です。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.157

この時点で見つかった遺品です。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.158

この時点で見つかった遺品です。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.159

この時点で見つかった遺品です。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.160

認識票も四枚となりました。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.161

小銃弾も見つかりました。腐食が激しいですね。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.162

作業場所も壁付近となって来ました。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.163

この時点で見つかった遺品です。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.164

集中力を持って慎重に地面と向き合っています。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.165

陸軍のマークですよね。五光星と言います。非常に小さいですが、何処で使われていたのでしょうかね。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.166

除毒包容器の蓋の部分ですね。これだけでは何だか良く解りませんので、5年前に発見された過去の写真をご紹介します。

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子67

文字はかなり読みにくいのですが、最初に書かれた大きい文字は、「除毒包使用法」と書かれています。ネットで調べてみますと、日本陸軍軍装品の一つで、毒ガス兵器であるマスタードガス(イペリットガス)等の、タンパク質と反応して肌をただれさせる糜爛(びらん)性ガスが皮膚に付着した際に、除洗する為の薬品で、使用法は薬剤を水に溶かして、肌の汚染部分に擦り込むという事のようです。

過去写真掲載はここまでです。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.167

皆さんが黙々と作業しています。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.168

壁際にある岩石を移動させようという話になりました。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.169

福岡さんは一番若いので元気です。(^o^)

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.170

福岡さんが動かそうとしている岩ですが、天然の岩にしては四角すぎますね~。何処からか運び込んだというのも不自然です。削ったにしても、その理由が解りません。(^^ゞ

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.171

岩を除ける範囲を、思い切って更に広げる事になりました。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.172

どんどん岩を放り投げます。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.173

調査作業を再開です。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.174

豊澤さんのヘッドライトは超明るいので、豊澤さんを撮影すると周りが暗くなってしまいます。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.175

松永さんが帯同して下さったのですが、NPO法人沖縄鍾乳洞協会の山内会長がお見えになりました。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.176

山内会長は玉泉洞を発見された方でもありますね。玉泉洞は東洋一の鍾乳洞と言われ、年間百万人が訪れる沖縄有数の観光スポットでもありますよね。昭和42年(1967年)と言いますから、今から53年前になりますが、沖縄がまだ米国の施政権下にあった頃、当時の愛媛大学学術探検部の調査隊山内浩教授によって、玉泉洞の最初の探検・調査が行われ、その全貌が明らかにされたものですよね。

玉泉洞は、30万年という気の遠くなるような歳月を経ての、芸術作品とも言える自然の創作品です。鍾乳石の数は100万本以上で国内最多と言われ、全長は5000メートルで国内最大級です。現在890メートルが公開され、残りのエリアは研究用として保存されているそうですよ。(^o^)

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.177

発見された遺品の数々を見て頂きました。因みに松永さんもNPO法人沖縄鍾乳洞協会の理事を務められています。同教会では年間を通して各種の活動を行っているみたいです。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.178

沖縄戦についてもよく調べられていて、発見された遺品について、色々な見解と感想を述べて頂きました。ありがとうございました。(^o^)

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.179

この時点で見つかった遺品です。本日の調査作業も無事終了です。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.180

さあ壕から出ましょう。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.181

全員無事に外に出ました。

令和年(2020年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.182

あと少しです。皆さん、お疲れ様でした。(^o^)

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