令和02年(2020年)沖縄遺骨収集奉仕活動
- 1月08日(水)故具志八重さんのお墓参り、戦没者遺骨収集情報センターご挨拶
- 1月09日(木)与座及び周縁地で調査・遺骨収集
- 1月10日(金)与座及び周縁地で調査・遺骨収集
- 1月11日(土)与座及び周縁地で調査・遺骨収集
- 1月12日(日)(申し訳ありません。非公開での調査・遺骨収集を実施しました)慰霊巡拝
- 1月13日(月)(申し訳ありません。非公開での調査・遺骨収集を実施しました)慰霊巡拝
- 1月14日(火)(申し訳ありません。非公開での調査・遺骨収集を実施しました)
- 1月15日(水)(申し訳ありません。非公開での調査・遺骨収集を実施しました)
- 1月16日(木)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月17日(金)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月18日(土)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月19日(日)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 2月15日(土)金光教那覇教会による遺骨収集
1月09日(木) 与座及び周縁地で調査・遺骨収集
【戦争遺跡としての壕所在の表現について】
当サイトの写真掲載では、いきなりジャングルの壕口からスタートしたり、ジャングルの中に入った状況から写真説明をスタートさせる事が多くなります。と言いますのも、海外からメールが来て、「貴サイトにおける壕などの戦争遺跡の所在を可能な限り正確に教えてほしい‥‥」
などの問い合わせが入る事が多くなりました。当然何度も断っていますが、どうやらヨーロッパには第一次世界大戦や第二次世界大戦の関係国に関わる、戦争遺跡を紹介するサイトなどが存在する様です。組織としての問い合わせが来ますからね。そうした戦争遺跡紹介サイトで掲載されている遺跡や壕などを、探して見て回ると言う需要が結構あるのかも知れません。
と言う事で私達が関わる事となる壕などの戦争遺跡については、ネット検索されて所在が特定されない様に、写真の説明書きも細心の注意を払いつつ表示する事としました。ご理解をお願い致します。m(_ _)m
本日から作業開始です。天気予報は曇り時々晴れで、降水確率0パーセント、最高気温20度との事で、最高のコンディションとなりました。ありがたいです。頑張ります。(^o^)
与座及び周縁地で調査・遺骨収集です
と言う事で、いきなり壕口です。(笑)
早速調査開始です。壕口から少し降りて中の様子を観察すると、かなり奥まで入って行けそうなので、入ってみる事になりました。また安全確保の為にロープを張ろうという話になりました。(^o^)
ヒェ~~!! 壕口の近くに米軍が放った艦砲砲弾が転がっていました。(^^;)
信管は外れていますね。信管を除いた寸法が約450mmです。
砲弾の直径は錆びて若干太くなっているかも知れませんが、約110mmです。
早速金光教の遺骨収集と同じ様に赤テープでマーキングしました。(^o^)
それでは入ってみましょう。
若干狭いですが、何とかなるでしょう。
何だこれは?????
どうやら、住宅の排水樋を用いて鍾乳石の氷柱から垂れる水滴を集め、それを例えばバケツなどに流し込んで飲用水としていた‥‥。事が考えられます。一切私達は手を加えていません。沖縄戦当時作られたそのままの姿です。
島尻における戦闘は6月に入ってからですから、梅雨の最中であれば、この壕は急斜面下にあるので、何人もの兵士の喉を潤せる水量は確保出来たかもですね。
鍾乳石の氷柱に巻き付けられた配線の様子です。
70余年の歳月を経て、電線の被覆絶縁ビニールは劣化して剥げていますね。
電線の様子です。
電線の様子です。
南部戦跡遺骨収集会のメンバーは、確かにここ摩文仁で、ご遺骨や戦争遺品を探しています。皮相的にみれば確かにそうですが、それだけが目的ではありません。即ち沖縄戦を戦い抜いた将兵や県民の方々を慰霊すべく、そうした方々が居られたであろう壕などに入り、戦いの場としての空気を、そして彼らが流したであろう血と汗を共有しつつ、沖縄戦当時に思いを馳せ慰霊する‥‥。と言う事も合わせて、私達メンバーの皆さんは行っているのです。
人は生きていく為には絶対水が必要ですが、南部島尻に逃れた諸部隊の方々は、軍に頼れず自前で水を確保しなければならなかったはずです。実際に目の前に樋を設置し、多分電話線だと思われますが固定していたりしていますから、飲料水の確保に苦慮していたのでしょう。よく観察しますと、樋が落ちない様にする工夫が随所に見られます。
どれくらいの飲料水が確保されたのかは知る由もありませんが、こうした自前の設備を見るにつけ、電話線の一巻き一巻きを将兵が手作業で行ったのだ‥‥。その事だけで電話線がやけに愛おしく感じます。満足な食糧、満足な飲料を確保出来ず、空腹と喉の渇きに耐えて戦い続けた人々に思いを馳せると、ごく自然と目頭が熱くなります。私達は頭を垂れない訳には参りません。
沖縄戦当時、沖縄における水事情はどうであったのか少し調べてみました。沖縄戦当時の県民人口は約60万人でした。そして昭和19年3月から20年2月まで、陸続と第三十二軍諸部隊が上陸して来ます。その総兵力は軍人約10万と軍馬二千余頭と言われています。トータル70万人分の飲料水は勿論、ご飯を炊く為には大量の水が必要です。また毎日で無くとも風呂にも入らねばなりません。こうした生活用水も膨大な水量となるはずです。
沖縄では、古来から水を得る為に苦労した歴史があると言えるでしょう。年間降雨量は約2,300mmと全国平均からみると比較的多いのですが、大きな河川がなく、また降雨量も梅雨期と台風期に集中するなど、渇水に苦しんだ歴史があります。私が沖縄に来始めた30年ぐらい前は、各住宅の屋上には必ず水道タンクが設置されていたものです。何時断水しても良いように、沖縄には必須の設備でした。因みに断水については、ダム等の整備が進み、現在は大幅に改善されていると聞きます。
沖縄の上水道事業も昭和8年から開始されました。那覇と名護で始まったとされています。しかしながら、その上水道設備も昭和19年の、いわゆる十・十空襲により全て破壊され、灰燼に来してしまいました。そうなのです。昭和20年4月の沖縄戦突入の時点で、沖縄には上水道設備がゼロだったのです。軍民合わせて70万の方々は、天水や川水、そして湧水に頼りながら戦う事態となっていたのです。これだけを持ってしても、必要な水の確保に多大な人員を割かねばならないのが見て取れますね。
軍には防疫・給水部隊がありまして、沖縄に派遣された諸部隊のうち、第二十四師団では、金井軍医少佐率いる「師団防疫給水部」がありました。また第六十二師団では、藤井軍医中佐率いる「第27野戦防疫給水部(球5753)」がありました。
防疫給水部隊の任務は、そ字のごとく伝染病対策、即ち防疫が第一の任務です。将兵に赤痢やマラリアなどの伝染病が蔓延したら、戦う事も出来ませんから、防疫は極めて重視された任務でした。また給水も重要です。濾過された安全な水を将兵に供給しなければなりません。この様に防疫と給水が主な任務でしたが、沖縄戦に突入すると戦傷者の救護と治療も行われました。防疫・給水部隊の指導部は、軍医と衛生兵で構成されていたからです。防衛省戦後資料 [B03-5] によれば、同隊は6月11日までに、戦傷重傷者二千名の救助を行ったと記されています。
平成27年(2015年)糸満市束辺名にある、「第二十七野戦防疫給水部隊壕」(ウマウトゥーシーガマ)を慰霊巡拝した際の写真がありますのでご紹介します。
《過去の写真ご紹介》
【第二十七防疫給水部隊壕(ウマウトゥーシーガマ)/平成27年(2015年)】
道路から50メートルぐらいでしょうか、林の中の道を進むと目的の「防疫給水部隊壕(ウマウトゥーシーガマ)」
がありました。しかしご覧のように、壕周囲の草木が綺麗に刈られ、鉄パイプと落下防止ネットが貼られていましたので下りることは出来ない様です。この壕で近々国による遺骨収集が始まるとの事の様ですから、その準備作業段階なのでしょう。因みに国吉勇さんは、この壕に何度か降りている様です。
壕底部にも足場板が設置され、いつでも遺骨収集が出来るスタンバイ状態の様です。それにしても開口部も結構広いですね。これだけ広いと開口部の偽装も難しかったかもしれません。壕の深さはどうでしょうか。10メートルは無い印象ですが、それに準ずる深さがあると思えますし、勿論絶壁なのでハシゴなどの機材が無いと下りられそうにありません。また良く観察すると横穴も幾つかありそうな雰囲気ですよ。元々あった自然の縦穴壕を横穴を掘る形で構築したものと推測されます。資料には北側に一カ所出入り口があるという記述がありますね。この束里の稜線下には構築壕が至る所にありますので、稜線に幾つも構築された壕との連絡通路が必ずあると思えてなりません。
因みに「第二十七野戦防疫給水部隊壕」のあるこの一帯は、戦時資料によれば、上里グスクを含む守備軍最後の重要拠点の一つに数えられていますから、この付近でも最後まで激しい戦闘が続けられていた可能性がある地域です。
「第二十七野戦防疫給水部隊本部終焉之地 故陸軍大尉伊藤欽弐戦死之地」の碑です。昭和44年3月建立となっています。伊藤欽弐軍医大尉は同隊の副官でした。第二十七野戦防疫給水部の部長は、軍医中佐藤井英太郎です。防衛省戦後資料 [B03-5] によれば、「陣地死守配置二就ク陣地ハ敵重戦車ノ猛攻ヲ受ク、部隊長以下全員敵重戦車群ニ突入壮烈ナル戦死ヲ遂ゲタリ(昭和二十年六月二十二日)」 と記録されています。沖縄戦が終結する前日に、壕内に集結する残存部隊員五十余名は、十名ぐらいの編成に分かれ、壕前に陣取る重戦車群に突入し散華されたのでした。私達は散華された部隊員のご冥福をお祈りしました。
第二十七野戦防疫給水部隊(球5753)は第32軍隷下の軍直属部隊で、伝染病等の疾病対策と安全な飲料水の確保が主な任務でした。季節によっては同部隊は任務を遂行する上で、安全な飲料水の確保、運搬、貯蔵等に、大変な苦労を強いられた可能性がありますね。
防疫・給水は戦場では誠に地味な任務ですが、戦場で部隊を維持・展開する上で、将兵の食料と飲用水の確保は決定的に重要です。特に水は現地調達となり毎日何千リットルというボリュームで、浄化殺菌して病原菌が含まれない安全な水を各部隊の将兵に供給し続けねばなりません。また集団で行動する将兵の一人が伝染病に感染すれば、部隊が全滅する可能性もある訳ですからね。何処の戦場であろうとも、疾病対策の警戒を緩めるわけには参りません。
第二十七野戦防疫給水部隊将兵は、銃を持って敵を攻撃することはありませんが、沖縄で伝染病を発生させない疾病対策、或いは浄化殺菌された安全な飲料水の確保という、極めて重要な使命を果たさんと、弾雨をかいくぐり命尽きるまで、戦場を縦横に駆け巡ったに違いありません。
亜熱帯気候に属する沖縄県は、昔からマラリヤ、フイラリヤやアメーバー赤痢そしてハンセン病などの疫病地域として認知されていました。東南アジア諸国の戦場もそうでしたが、沖縄戦の渦中でもマラリヤやアメーバー赤痢などの伝染病蔓延の可能性が極めて高かったのです。実際に戦いの中で荒井警察部長はアメーバー赤痢に苦しまれましたし、沖縄戦末期には米軍の収容所でマラリアが蔓延し猛威を振るい、折角生きて捕虜になったのに収容所でマラリアにやられて病没された方が大勢居たのです。
過去写真掲載はここまでです。
「沖縄県の洞穴(GAMA)を案内するサイト(沖縄洞窟探検&ガマ案内)」 http://okinawacaving.art.coocan.jp/ と言うサイトがありまして、防疫給水部隊壕(ウマウトゥーシーガマ) の壕内の様子が写真に収められているのでご紹介します。やはり防疫給水部隊壕は壕底に降りると、複数の横穴がある様です。また壁面が黒く煤けていると言う記述もありますから、激しい馬乗り攻撃を受けた可能性もあります。
《サイトご紹介》
少し脇道に逸れてしまいましたが、元に戻ります。(^^;)
松永さんが先陣を切って降りていきました。
次の人降りてオッケーと声が掛かりました。
豊澤さんが降りていきます。
豊澤さんがやっと入れるぐらいの狭さです。でも何とか降りられそうです。
結構厳しいですね。
無事に難関を突破しました。
底部に到達しました。数人が滞在できる空間があります。艦砲砲撃ではびくともせず、直撃弾を受けない限り安全な壕だと感じました。クマデや金属探知機で調査しましたが、ご遺骨や遺品は見つかりませんでした。
鍾乳石の氷柱が欠けていました。この壕に入った将兵が危ないからと欠き取ったのでしょう。
この鍾乳石の氷柱も欠き取られています。欠き取られた部分に戦後70余年で、ご覧の様に5cm程の氷柱が形成されていました。
壕内の鍾乳石の様子です。自然の造形は凄いですね。
昼食を食べ終え、午後の作業開始です。午前冒頭で集合写真を写さなかったので、遅ればせながら撮影しました。午後も頑張っていきましょう。少数精鋭のプロ集団です。右から照屋さん、三浦さん、松永さん、福岡さん、そして豊澤さんです。(^o^)
安全確保の為にロープを用いて崖を降りました。
クワズイモが見えますね。若干湿気の多い場所の様です。
壕や人が隠れられる場所などを慎重に探していきます。
松永さんが何か見つけた様です。
小さいですが穴が見えますね。
結構穴が開いています。
こっちも穴が開いています。
この場所から降りられないか、岩を退けてみる事にしました。
さあ穴を開ける作業開始です。
皆で協力してドンドン岩を退かしていきます。
松永さんが「壕の底が見える。場所を選べば何とか降りられそうだ」と言いました。
穴にカメラを入れて撮影しました。壕底まで4mぐらいあるでしょうか。
ここから降りる事になり、早速松永さんが降りて行きました。
20mぐらい離れたこの壕口から松永さんの声がします。
松永さんは結局自身が降りた場所から、東側20mぐらい離れたこの場所から地上に戻って来ました。壕は底部で長細く繋がっているようです。
「そっちから光が見えた」と松永さんが語ります。
松永さんの言う方向の開口部を見ています。見た限りここからも降りられそうです。
松永さんが新しいルートから降りていきます。
続いて豊澤さんが降りていきます。
まずまず問題なく降りられます。
5m程降りたところで、開口部を見ています。
まだ降りられますね。
坑木かなと思ったら単なる枯れ木の様です。この壕は坑木は全く必要ないと感じます。
ご遺骨がありました。
間違いなく人骨です。部位は両端が無いので特定は難しいです。鉄の塊は砲弾ではなく、発煙筒などでしょうかね。ちょっと解りかねます。
壕は岩盤と岩盤の割れ目に人間が行き来出来る空間があるという印象です。そして東西二方向に坑道は続いています。まずは松永さんの居る西側に進んでみましょう。
写真右側にロープが写されています。松永さんがこの壕について一番最初に降りた場所です。
ヒェ~~! 松永さんはここを降りたのですね~~。ちょっと怖い、真似できない~。(^^;)
割れ目の鍾乳石と言う雰囲気ですが、凄い風景です。
ご覧の様に所々光が差し込んでいます。日中は真っ暗という状況では無かったと思われます。
上ばかり見ていましたが、足下を見れば軍靴がありました。
これも軍靴ですね。
蓄電池の部品でしょうかね。
福岡さんが降りてきました。
〇
軍靴や割れたお茶碗が見えますね。
遺品を探す福岡さんです。結構岩が散乱していますね。
缶詰の空き缶ですね。
小さな瓶がありました。
割れ目の幅が少しずつ狭くなって来てますね。まだ問題なく進めます。
まだ進めます。
缶詰の空き缶が一個見えます。
同じく缶詰の空き缶が一個見えます。
上を見るとこんな感じです。堅固な鍾乳石の壕ですから、落盤の危険性はほぼ無いと言えるでしょう。何枚か鍾乳石の造形を見てみましょう。
凄いの一言です。
凄いです。
感動的ですらありますね。
壮大です。
女性のおっぱいに見えるのは私だけでしょうか。(^^ゞ
これも凄いです。
ご覧の様に細かい石がゴロゴロしています。
蓄電池の部品ですね。
地面は結構掘れますね。
本日の調査作業は終わりです。発見したご遺骨のみ壕から上げました。
線香を手向け、このご遺骨を始め、壕内で亡くなられた戦没者のご冥福をお祈りしました。
皆さんで手を合わせご冥福をお祈りしました。