令和02年(2020年)沖縄遺骨収集奉仕活動
- 1月08日(水)故具志八重さんのお墓参り、戦没者遺骨収集情報センターご挨拶
- 1月09日(木)与座及び周縁地で調査・遺骨収集
- 1月10日(金)与座及び周縁地で調査・遺骨収集
- 1月11日(土)与座及び周縁地で調査・遺骨収集
- 1月12日(日)(申し訳ありません。非公開での調査・遺骨収集を実施しました)慰霊巡拝
- 1月13日(月)(申し訳ありません。非公開での調査・遺骨収集を実施しました)慰霊巡拝
- 1月14日(火)(申し訳ありません。非公開での調査・遺骨収集を実施しました)
- 1月15日(水)(申し訳ありません。非公開での調査・遺骨収集を実施しました)
- 1月16日(木)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月17日(金)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月18日(土)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月19日(日)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 2月15日(土)金光教那覇教会による遺骨収集
1月10日(金) 与座及び周縁地で調査・遺骨収集
本日の天気予報は曇り時々晴れで、降水確率午前午後共に10パーセント、最高気温21度との事で、昨日に続き最高のコンディションとなりました。ありがたいです。頑張ります。まず朝一番で「波上宮」「殉職警察職員慰霊之碑」「沖縄県護国神社」「世持神社」を慰霊巡拝します。その後非公開の調査・遺骨収集奉仕活動です。ご免なさい。(^o^)
「波上宮」
那覇市若狭の旭ヶ丘公園内にある波上宮に到着しました。この鳥居は二つ目で、最初の鳥居は50メートルほど坂道を下った場所にあります。車で来られた方は駐車場との位置関係で、この鳥居を最初にくぐることになると思います。私は波上宮参拝は二度目なので、駐車台数は多くないのですが(多分20台ぐらい駐車可能)、駐車場の存在は知っていたのでその点は気が楽でした。
二の鳥居一礼してから参道を進むと沖縄独特の赤瓦建築様式が印象的な社が見えてきました。午前9時を過ぎた頃撮影したので、境内には誰も居ませんでした。波上宮の背後にある波の上ビーチという海岸から見ると良く解るのですが、波上宮の奥津城は大きな岩の上に鎮座するという、極めて神秘的な雰囲気を醸し出しているのが印象的です。ちなみに波上宮は「なんみんさん」の名で親しまれ、お正月や節分、5月17日の例大祭などは終日多くの参拝者で賑わうそうですね。また向かいの波之上臨港道路まで登ると、今度は海側から絶景の波上宮を眺めることができますので、時間に余裕のある方は回ってみてください。
神社には「狛犬」と「獅子」が鎮座していますよね。この像は左側にあり、口が閉じている事から「狛犬」でしょうかね。沖縄らしい姿、色合いで制作されています。この狛犬は、沖縄のシーサー作りの名人、故「島常賀」さんの作品です。島常賀さんの狛犬作品は、海洋博記念公園、空港や博物館 等に飾られたり、記念切手の図柄にも使用されているそうですよ。(^o^)
ここ波上宮の正式名称は、「旧官幣小社沖縄総鎮守波上宮」と呼ぶようです。「当宮は、古く沖縄独特のニライカナイ信仰(海の彼方より幸福を持ち来る神々に祈る)に始まる。その後この聖地に…」と書かれていることから、創建はかなり古そうですね。
波上宮は、琉球八社の筆頭だそうです。琉球八社とは、明治以前琉球国府から特別の扱いを受けた八つの官社で、波上宮・沖宮・識名宮・普天満宮・末吉宮・八幡宮・天久宮・金武宮を指すそうです。まだ波上宮しか参拝していませんが、機会を見て全神社に参拝したいですね。
また波上宮は沖縄県のパワースポット三選にも選ばれているのは良く知られていますね。特に恋愛系のパワースポットとして有名です。良縁結びのご利益もあるそうですよ。そして波上宮で神前結婚式を上げられます。実際に以前参拝に訪れた際には、祭壇の前での神前結婚式が執り行われていまして、しばし時間を忘れて見学した事もありました。(^o^)
波上宮本殿の左側に二つの小さな社がありました。案内板には左側の社が「世持神社(旧郷社)仮宮」、そして右側の社が「浮島神社(旧県社)仮宮」と書かれています。
まずは左側の「世持神社(旧郷社)仮宮」から見ていきます。立札の由緒書きには、「沖縄を救い繁栄をもたらした三恩人を沖縄救祖と仰ぎ昭和十二年に祀る(創建)以来世直しと殖産振興の神社として広く崇敬さる」と記されています。
世持神社とは昭和12年(1937年)に創建され、社名の「世持」は「豊かなる御世、平和なる御世を支え持つ」を意味する沖縄古語であるとの事です。奥武山公園にあった世持神社は沖縄戦で社は燃えましたが、戦火を逃れたご神体は戦後沖縄総鎮守の波上宮に預けられました。戦後那覇市は奥武山公園内に社を再建することを決めており、社殿は奥武山、神体は波上宮にあるという状態になっているようです。
次に右側の「浮島神社(旧県社)仮宮」です。立札の由緒書きには、「宝徳3年、尚金福王時代、国相懐機が長虹堤の築堤に当り二夜三昼祈願し、神助により完成。天照大神に奉じて長寿宮奉称、朝野の尊崇をあつむ」と記されています。
それでは浮島神社の本宮は何処にあるのか! ネットで調べてもよく解りません。(^_^; 戦前長寿宮であった社名を浮島神社に改めましたが、戦後に長寿宮の祭神・天照大神を祀ることになりましたが、浮島神社は借地問題で立ち退きを迫られ、波上宮へ移転する羽目になりまして、仮宮のまま現在に至っているようです。因みに大昔の那覇は浮島であったようです。首里とは「長虹堤」という海中道路で結ばれていたようなのです。那覇が浮島だったというのは驚きですよね。「長虹堤」で検索してみてください。いろんな画像が出てきますよ。(^o^)
明治天皇の銅像です。下には碑文があり、明治天皇銅像建立の由来が書かれています。
思はざる病となりぬ沖縄をたづねて果さむつとめありしを
昭和天皇の最後の願いは、全国巡幸で唯一残された沖縄訪問でした。昭和62年は秋に沖縄で国体が開催される年でしたから、国体1巡目の最後となる沖縄国体出席でその機会をようやく得たのです。昭和天皇の初の沖縄訪問実現に向け宮内庁では水面下での準備が着々と進められていました。昭和天皇もまた4月の誕生日の会見で、「念願の沖縄訪問が実現することになったならば、戦没者の霊を慰め、長年の県民の苦労をねぎらいたい」と訪問への希望を述べられていました。しかしながら9月に入り昭和天皇は体調を崩してしまい、沖縄訪問一ヶ月前に腸の手術をする流れとなり、昭和天皇の沖縄初訪問はついに実現しませんでした。冒頭の詩は、昭和天皇の沖縄訪問中止を発表した際の心情を詠まれたものです。
【慰霊碑碑文】
※この碑文はご名代として訪問された皇太子ご夫妻が、天皇のお言葉として代読されたものです。
昭和天皇のお言葉
さきの大戦で戦場となった沖縄が、島々の姿をも変える甚大な被害を蒙り、一般住民を含む数多の尊い犠牲者を出したことに加え、戦後も長らく多大の苦労を余儀なくされてきたことを思うとき深い悲しみと痛みを覚えます。
ここに、改めて、戦陣に散り、戦禍にたおれた数多くの人々やその遺族に対し、哀悼の意を表するとともに、戦後の復興に尽力した人々の苦労を心からねぎらいたいと思います。
終戦以来すでに四十二年の歳月を数え、今日この地で親しく沖縄の現状と県民の姿に接することを念願していましたが、思わぬ病のため今回沖縄訪問を断念しなければならなくなったことは、誠に残念でなりません。
健康が回復したら、できるだけ早い機会に訪問したいと思います。
皆には、どうか今後とも相協力して、平和で幸せな社会をつくり上げるため、更に協力してくれることを切に希望します。昭和六十二年十月二十四日
昭和62年の訪沖を断念して以降も、昭和天皇の側近たちは陛下の悲願をかなえたいと思っていました。昭和天皇が「健康が回復したら、できるだけ早い機会に沖縄を訪問したい」と何度も口にされていたからです。陛下のご負担を軽くするために、那覇から摩文仁までヘリで往復し日帰り日程なども検討されました。昭和62年と言えば昭和天皇が崩御される一年半前の出来事です。こうした経緯を経てあれほど念願されていた昭和天皇による沖縄訪問はついに実現しませんでした。
しかしながら、日本の元号も令和となりまして、202年ぶりに生前退位された上皇陛下は、昭和天皇に負けないぐらいに沖縄に強い思いを寄せられていました。その思いは訪問回数にも表れており、皇太子時代も含めて合計11回沖縄を訪問されているのです。そして「日本人として忘れてはならない4つの日」として、終戦記念日、広島・長崎への原爆投下の日と共に、沖縄戦終結の日(6月23日) を挙げておられ、お子様達にその旨を語り伝えておられるのはよく知られている話でもあります。日本国民たる私達も、上皇陛下のそうした志やまなざしをいつの時も硫黄島と並び激戦が展開された沖縄に向けたいものです。
波上宮界隈は、その昔首里や那覇の人達の、そぞろ歩きにお勧めの、のどかさや夕涼みを満喫するのに絶好の場所として有名だったそうです。地図を開いてみますと、波上宮前を走る県道47号線の向かいの地は辻という地名で、現在は風俗街として知られていますが、1526年尚真王時代から大東亜戦争沖縄戦による空襲で焼失するまで、遊郭として栄えた場所でもあるようです。遊郭というのは語らずともご承知の通りで、東京には江戸時代から戦後の昭和32年まで、吉原遊廓というのがあったそうですね。
ここで一冊の本をご紹介したいと思います。沖縄戦に関する本は年間数冊程度購入し続けています。多い年は十数冊購入する事もありまして、そのいずれもがネット検索で探し、これはという本を購入して、沖縄戦をそして沖縄そのものを学び続けてきました。ある時ネット検索していると沖縄戦に参戦した将兵の戦記本に交じって、沖縄出身の一人の女性の生き様を描いた「新編 辻の華」(上原栄子著)という本が目にとまりました。
著者である旧姓上原栄子さんは、上掲の波上宮に隣接する辻遊郭で遊女として働いていた方で、数え年4歳の時に辻遊郭に売られて来て大人になるまでそこで育ちました。そして十・十空襲や沖縄戦により辻遊郭は灰燼に帰してしまい、三千人居たとされる遊女は四散の憂き目に遭う事態となってしまいました。そうした激動の戦前戦後史に翻弄されたながらも、4歳の時に辻遊郭に売られから、辻遊郭の復興を願い戦後の混乱した社会を力強く生き抜いた彼女自身の、波瀾万丈の一代記だと言えるでしょう。
遊郭と聞けば、とかく搾取とか場末の悲惨さとかがつきまといますし、男が支配する世界というイメージがありますが、辻遊郭は大きく違っていました。驚く事に遊郭の運営に携わる男性はかつて一人もおらず、実に400年余年もの長い間、女性の力のみで築かれた世にも珍しい花園だったのです。また義理・人情・報恩が辻の三原則であり、暮らしの信条にしていたと言います。信じられない程の純な心と報恩、そして遊女に似合わぬ人間としての誇りを持って生きている事に心が打たれました。特に痛く胸に響いたのは、子供が親に売られるのが当然のような時代にあって、我が子を売って当座の生活をしのぐより術がなかったであろう父母に対して、孝養を尽くす事を持って報恩したと言うのです。「ウヤフワーフジ」(親先祖)に孝行を尽くすという生活習慣が沖縄では根付いていたにしてもです。
物が溢れ金さえあれば何でも手に入るという豊かな社会に生きる私達は、心もそれに比例するように豊かになったと言えるでしょうか。現代は自分の子供を売るなど考えられませんが、かつて貧しさが普通であった時代の人々の生き様や考え方、そうした社会で身を寄せて暮らす人々の揺るぎない絆を垣間見るのも無駄ではありません。沖縄の過去史として捉えるのではなく、貧しくとも誇りを持って生きるとはどういう事かという視点に於いて、恵まれてはいるけれど「誇りを持って生きる」という言葉が死語になっているところの、今を生きる私達こそ読んでみたい一冊です。(^o^)
《書籍ご紹介》
「新編 辻の華」
上原栄子著 時事通信社 平成22年(2010年)初版
この本を読み始めた時、力強い筆致に圧倒されグイグイと引き込まれました。これは遊郭という普通の社会では垣間見る事のない、裏社会の実体験が赤裸々に綴られているという面もありますが、社会からの差別という目線に耐え、花街に内包される社会秩序は、抱親様(アンマー)を筆頭とする、実に秩序立った女性だけの社会で、義理・人情・報恩を暮らしの信条とし、実に人間味溢れる穏やかな雰囲気の中で、お互いを信頼し尊重しあう生活を営んでいたという事柄が新鮮でもあり驚きの連続でした。花街で生きる事に誇りを持っている遊女らを描写しつつ、辻を、そして沖縄をこよなく愛した琉球女性の生き様を活写した上原栄子さんの一代記となっています。
「殉職警察職員慰霊之碑」
波上宮の二つ目の鳥居横から横に逸れて、旭ヶ丘公園方面に歩みを進めるとご覧のような風景になります。奥まった所に「殉職警察職員慰霊之碑」が見えてきましたね。(^o^)
コンクリート製の石段を登ります。
昭和29年(1954年)11月に建立された「殉職警察職員慰霊之碑」です。沖縄戦開戦前の十・十空襲や沖縄戦戦没者を含み、且つ現在までの警察職員殉職者の慰霊顕彰碑です。昭和29年(1954年)11月に建立された「殉職警察職員慰霊之碑」です。沖縄戦開戦前の十・十空襲や沖縄戦戦没者を含み、且つ現在までの警察職員殉職者の慰霊顕彰碑です。
「島守之塔」のところで述べましたが、島田沖縄県知事と荒井沖縄県警察部長は、沖縄戦の混乱で県庁が解散するまでの約5ヶ月間、戦時下での沖縄県民の疎開政策と食糧不足対策に尽力しました。二人が推し進めた疎開政策により、沖縄戦を生き延びた沖縄県民は二十万人にも達し、沖縄戦犠牲者が日米双方で約二十万人であることを考えると、もっと高く評価されても良いと思えます。
荒井沖縄県警察部長は、轟の壕に滞在中だった頃から、胃腸障害と消化器伝染病であるアメーバ赤痢になっていたとの事で、摩文仁へは病を押しての移動となり、心身共に厳しい状況にあったと言えるでしょう。無事に摩文仁に到着した荒井沖縄県警察部長は、1945年6月26日、島田沖縄県知事と一緒に摩文仁の軍医部の壕を出たのを最後に消息不明となったままです。島田沖縄県知事と同様に御遺骨も発見されていません。その意味でも荒井沖縄県警察部長のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
「沖縄の島守 内務官僚かく戦えり」
田村洋三著 中央公論新社 平成18年(2006年)初版
著者である田村洋三氏は、沖縄戦について数冊出版されており、その全てを購入済みです。氏の著作は綿密な現地調査による徹底した情報収集にあります。元読売新聞記者にして、”生涯一記者” を自認する著者だけあって、現地調査に重点を置き、足で記事を書いていると言えるでしょう。氏の執筆の課程では、必ずと言って良いほど取材対象の核心を知る人物に出会いますし、大いなる協力を得るに至るのは、他ならぬ氏の熱情が至らしめる必然であるとも言えるでしょう。
著者自身がこの本は共著であると言うほど、知念堅亀氏との出会いは大きかったようです。知念氏は自ら沖縄戦で九死に一生を得た方で、沖縄戦の民間研究者ですから、同氏との出会いにより、県庁行政が担われた14の壕の全てを明らかにする事となったのです。著者が語るように、「県民の安全を願いながら、県民に戦争への協力を求めなければならない、二律背反に苦しみつつ、自らの使命に徹して職に殉じた県首脳や職員の姿を明らかにしたかった」と語る程に、沖縄戦に於けるこれら県首脳や職員の動向が詳細に綴られています。
平和祈念公園内に、島田沖縄県知事と荒井沖縄県警察部長をはじめ戦没県職員468柱を祀る「島守の塔」があります。 同著は沖縄戦に於ける、島田叡沖縄県知事と荒井退造沖縄県警察部長の二人をメインとして、随伴する県職員の方々の軌跡を明らかにしています。まず島田沖縄県知事は沖縄戦の僅か二ヶ月前に赴任、「俺が(沖縄へ)行かなんだら、誰かが行かなならんやないか。俺は死にとうないから、誰かに行って死ね、とはよう言わん」と、なり手のない沖縄県知事を受諾。在任五ヶ月たらずの間に、20万余人もの沖縄県民を県内外へ疎開させ、また県民の食料備蓄が三ヶ月しかなかったものを、台湾から三ヶ月分もの米の移入を実現するなど、全力で県民行政に取り組みましたが、43歳で摩文仁之丘近辺で消息を絶ちました。
そしてもう一人である荒井沖縄県警察部長は、島田氏よりも一年七ヶ月前に栃木県から赴任、県民の県外疎開など県民保護のレールを敷き、その上で島田沖縄県知事と共に、沖縄守備軍との調整、折衝を含め全力で県政に取り組まれました。荒井沖縄県警察部長もまた同じように、44歳の若さで摩文仁之丘近辺で消息を絶ちました。荒井沖縄県警察部長についての著作は、この本以外には見当たりません。ぜひご一読を推奨いたします。
【終戦間際の沖縄県警察部長荒井退造 職に殉じた「栃木の偉人」】
「産経新聞」平成27年6月11日
郷土史研究家が功績伝える
終戦間際、戦況が厳しくなった中、沖縄県警察部長として県民の疎開を進め、沖縄では知らない人がいないと言われる荒井退造(たいぞう)(1900~45年)。最後は職に殉じ、沖縄本島最南端に当時の知事とともに石碑が建てられたが、出身地・宇都宮ではほとんど知られていない。荒井の偉業を伝えるため、20年研究してきた宇都宮市の郷土史研究家、塚田保美(やすみ)さん(83)が13日、同市内で講演する。
◇
講演は13日午後1時半、同市竹林町のトヨタウッドユーホームすまいるプラザ「オトスクホール」で開かれるが、反響は大きく、既に予約で満席となった。
■7万3000人を県外疎開
荒井は旧清原村出身。旧制宇都宮中学校(現宇都宮高校)を卒業後、苦学して高等文官試験に合格。内務省官僚として警察の要職を歴任した。そして、昭和18年7月、沖縄県警察部長に就任。現在の県警本部長に当たる重責で、沖縄が戦場になる危機が迫っていた。県民の疎開に取り組んだが、当時の知事は状況を楽観視し疎開に消極的だった。塚田さんは「それでも荒井の信念は変わらず、最悪の事態を想定して動いた」と話す。
「まつげに火が付いてからでは遅い」。状況を打開するため19年6月、県庁職員、警察官の家族700人を疎開させて機運を高め、第2、第3次疎開を実現させた。10月の沖縄大空襲、12月の知事の突然の上京、転任と事態は混迷。20年1月にようやく新しい知事に島田叡(あきら)(1901~45年)が赴任した。以後は島田と二人三脚で奔走し、20年3月までに7万3千人を県外に疎開させた。
4月1日には米軍が沖縄本島に上陸。県外疎開が不可能になった状況でも戦闘が激しい島南部から北部へ15万人を避難させた。「合わせると20万人以上を救ったことになる」と塚田さん。6月9日には警察警備隊解散となるが、「警察官の職務は忘れるな」と訓示した。「その後も毎日のように警察官が避難誘導中に殉職している。荒井の訓示に忠実だった」。塚田さんは警察官の行動に感銘を受けたという。
日本軍の抵抗は沖縄本島南部へと追い詰められていく。荒井は赤痢が重くなっていた。6月26日、島田に抱えられるように、島南端の摩文仁(まぶに)の森へ入っていく姿を目撃されたのを最後に2人の遺体は見つかっていない。
戦後、摩文仁の丘(同県糸満市)には島守の塔が建てられ、2人の終焉の地を示す碑がある。
■顕彰へ機運高まる
塚田さんは約20年前、荒井の長男、紀雄さんが書いた「戦さ世(ゆう)の県庁」(中央公論事業出版)を手にする機会があり、荒井が宇都宮高校の先輩であることを知った。「細々と研究を続けてきたが、世に出す機会がなかった」。平成25年の「宇高同窓会報」に寄稿する機会が巡り、大きな反響を得た。「宇高だけの誇りではない。栃木県の誇り」。そんな声も寄せられ、出身地・宇都宮で荒井を顕彰する機運が高まった。塚田さんは「荒井の名を残すため何をやるか、これからの課題」と話している。
「産経新聞」から転載させて頂きました
沖縄の島守 荒井退造の業績しのぶ
【とちぎテレビ】令和02年(2020年)9月23日
宇都宮市出身で、太平洋戦争末期の沖縄戦で多くの沖縄県民の命を救った荒井 退造の生誕120年を記念するシンポジウムが19日、宇都宮市で開かれました。
荒井 退造は今から75年前、日本における唯一の地上戦とされる沖縄戦で当時、沖縄県の警察部長として沖縄県民の疎開に力を尽くし、20万人以上の命を救いました。
この「島守」シンポジウムは、今年生誕120年の荒井 退造の人物像を紐解き、多くの人に命の尊さや平和の大切さを伝えようと開催されました。
シンポジウムの中では荒井 退造と最後の官選知事、島田 叡などを描いた映画、「島守の塔」で監督を務めた五十嵐 匠さんによる基調講演が行われました。
さらに栃木と沖縄、島田 叡の出身地である兵庫県との交流を深めようと、元宇都宮高校校長の齋藤 宏夫さん、元沖縄県副知事の嘉数 昇明さん、それに神戸新聞の小野 秀明さんがパネリストとして登壇しました。
映画「島守の塔」は、現在新型コロナウイルスの影響で撮影を休止していて、2022年の公開を目指しているということです。
「とちぎテレビ」から転載させて頂きました
殉職された警察官の氏名が列記されています。沖縄戦前のいわゆる十・十空襲や沖縄戦で殉職された警察官を含む、明治12年(1879年)に県警が創設されて以来今日まで、犯罪捜査や暴力団抗争などに巻き込まれるなどして亡くなられた殉職警察官140名が祀られているとの事です。現在でも記名が続けられていますから、今後も殉職警察官総人数は増えていく事でしょう。ちなみに殉職警察職員慰霊祭は現在でも継続されており、毎年10月頃執り行われているようですね。殉職された警察官の氏名が列記されています。沖縄戦前のいわゆる十・十空襲や沖縄戦で殉職された警察官を含む、明治12年(1879年)に県警が創設されて以来今日まで、犯罪捜査や暴力団抗争などに巻き込まれるなどして亡くなられた殉職警察官140名が祀られているとの事です。現在でも記名が続けられていますから、今後も殉職警察官総人数は増えていく事でしょう。ちなみに殉職警察職員慰霊祭は現在でも継続されており、毎年10月頃執り行われているようですね。
「當局の依属を體し謹みて潤色す」という詩が刻まれていますね。
1954年11月吉日に建立されたと記されています。
「沖縄県護国神社」
「沖縄県護国神社」が見えてきましたね。同神社は那覇市の奥武山公園内にあります。
右側に碑がありますね。近づいてみましょう。
読めますね。「志司毛大主御世」と書かれています。ちょっと意味は解りません。(^^;)
沖縄県護國神社二の鳥居です。
沖縄は旧暦を採用しているのはご存じの通りです。旧正月は毎年移動しますので、その点が少しやっかいですが、それはともかく2020年の正月は1月25日から始まりますね。つまり後二週間ほどですから、神社側も初詣客の受け入れ準備完了といったところでしょうか。沖縄県護國神社は初詣にとても人気の場所との事ですよ。(^o^)
「沖縄県護國神社傷痍軍人夫婦像」です。
本殿のある敷地内に入ってまいりました。
左右に鎮座するのは「狛犬」と「獅子」です。そして沖縄県護国神社正殿です。同正殿は、昭和11年に招魂社として創建され、昭和14年に護国神社と改称され現在に至っています。日清日露戦争以降、大東亜戦争までの国難に殉じられた軍人・軍属、そして一般住民、並びに本土出身の御英霊を祀っている神社です。
立派な建物ですね。今回の南部戦跡遺骨収集会による作業において、慰霊のに志が果たせますようにしっかりと祈願してまいりました。(^o^)
「世持神社」
「世持神社」は奥武山公園内にあります。それでは最初の鳥居から入って参拝してみましょう。
最初の鳥居から50メートルほど進むと、今度は直角に曲がります。「世持神社」が見えてきたようです。
「世持神社」に無事到着しました。
世持神社は昭和12年(1937年)に創建され、沖縄県内唯一の郷社(当時)に列せられ、世直しと殖産振興の神社として県内の砂糖業界・農林業界・教育界から崇敬を受けました。奥武山公園にあった世持神社は沖縄戦で社は燃えましたが、戦火を逃れたご神体は戦後沖縄総鎮守の波上宮に預けられました。戦後那覇市は奥武山公園内に社を再建することを決めており、社殿は奥武山、神体は波上宮にあるという状態になっているようです。
沖縄県神社庁のホームページには、「世持神社」について次のような記述がありましたので転載させて頂きます。
世持神社由緒】
沖縄を救い繁栄をもたらした3恩人を沖縄救祖と仰ぎ昭和12年に祀る。 以来、砂糖業界、農林業界、教育界各関係者を中心に世直しと殖産振興の神社として広く崇敬される。「世持(よもち)」とは、沖縄の古語で「豊かなる御世、平和なる御世を支え持つ」との意味。 その後、昭和14年に県内唯一の郷社に列せられたが、戦火によって破壊された。更に立地上の理由で戦後占領米軍が社地への再建造営を禁止したため、移転創立計画中の境内地を失い、昭和27年より那覇市大道にて奉斎。昭和33年、「社団法人世持神社」として琉球政府の認可を受け、昭和47年の祖国復帰にあたっては「宗教法人世持神社」として承認を受け、現在は波上宮の境内地に仮宮を設けて祀られている。
【御祭神】
具志頭文若命(蔡温)
野国総管命
儀間眞常命【御祭神三恩人の功績】
三恩人の多岐にわたる功績については、広く知られているところだが、まず野国総管については、中国から「甘藷(イモ)」を導入したことがあげられる。一六〇五年(万暦三十三・中国暦)、進貢船で帰国する際、鉢植えにして持ち帰り、故郷の北谷間切野国村(現嘉手納町)や野里村で栽培したといわれている。毎年台風が襲来し、農作物に甚大な被害の出る沖縄にとって、地中で生育し、台風の被害の少ない「イモ」の導入は、人々にとって大きな福音だったといえるだろう。 次に儀間真常の功績については、イモ作の普及、製糖法の導入普及、木綿織りの導入普及があげられる。野国総管からイモを譲り受けて国中に普及させた。一六二三年(天啓三)には領地の真和志間切儀間村の村人を中国に送って製糖法を学ばせ、同村から順次各地に普及させた。また一六〇九年(万暦三十七)に島津侵入を受けて尚寧王が鹿児島へ連行された際には、お供として鹿児島に行き、そこで木綿に着目し、帰国にあたって種子を持ち帰って栽培、その後木綿布を冬の防寒用の衣類として普及させた。
また、蔡温は王府時代の沖縄を代表する大政治家で、四十年間も三司官の要職に就いていた。この間、中・北部の植林などの林政、羽地大川を始めとする大小数十の河川の改修及びそれを通しての漁業の振興、更に検地から耕地の手入れや農民の心構えなど、広く農政について、多岐にわたる施策を行った。蔡温の施策は、その後長く沖縄の農業、林業の指針となった。
このように、野国総管、儀間真常によって導入普及された「イモ」は、その後長く沖縄の人々の主食と成り、儀間真常の導入した製糖法は沖縄糖業の基礎となり、沖縄第一の換金作物・商品として王府財政を支え、県財政を支え続け、現在に及んでいる。蔡温の農政・林政は、野国、儀間の仕事をうけて、それを確立し、発展させたといえるだろう。
「世持神社」の右側にある鳥居と碑です。
午前の作業開始です
本日は三人での作業です。右から福岡さん、豊澤さんです。頑張っていきましょう。(^o^)
早速作業開始です。安全の為ロープを垂らしました。
壕口はこんな感じです。昨日のうちに降りやすいルートを見つけたので楽ちんです。
下へ下へと降りていきます。
早いです。昨日行き来していますから要領を得ています。
遺骨収集では、どうしても下ばかり見がちですが、目線の上側を見る事も大切ですよ。(^o^)
さあ本格的な調査が始まりました。この壕は長細い形をしていますので、まずは東側の空間から攻めていきます。
早くも何かを見つけた様です。
金属探知機が激しく反応しています。
鉄製の鍋の様ですよ。
30cmぐらいの岩の片面が黒く焦げています。鉄製の鍋もあった事から、この辺りにかまどがあった様ですね。因みに壁天井の岩が黒く煤けているという状況ではありません。炊事ぐらいでは広範囲が煤で黒くなると言う事は無いようです。壁天井の岩が真っ黒になるのは、やはり火炎放射攻撃や爆雷等を投げ込まれいと、そうはならないと感じます。
福岡さんも地面を掘り進めています。
壕の底面はまだずっと下の様です。
かまどがあった場所は土が黒くなっていますね。
どんどん掘り進めています。
豊澤さんの前にある土砂は、戦後上から流れ落ちた可能性が高いです。
少しずつ空間が狭くなって来てますね。
上方を確認しています。
上方を確認しています。複数箇所光が見えるとの事です。
福岡さんは場所を替えて、西側の長細い壕空間に移りました。
ご覧下さい。壕底が階段状に石積みされているのが見て取れます。沖縄戦当時そのままだと思われます。福岡さんは一段一段沖縄戦当時の階段を復元するかの様に、遺品が無いか調べつつ片付けながら下に降りていきます。
これまで見つかった戦没者遺品を壕から外に出して並べました。ご遺骨そのものは、昨年見つかったご遺骨以外見つかっていません。
豊澤さんも壕の西側に移りました。
軍靴などが次々に見つかります。また壁面をご覧くださいませ。煤が付いていますから、ここでも煮炊きしたのかも知れませんね。
一見かすがいに見えますが、鍋の取っ手の様です。
少しずつ露出してきました。
出ました。やはり鍋の取っ手でした。この辺りで煮炊きした様です。
豊澤さんが作業しています。
福岡さんです。階段状になっている場所からかなり下まで降りてきました。
福岡さんが階段状になっている場所で見つけた小銃弾や薬莢などです。
ご覧の様に薬莢が破裂した様に破壊されています。これはどういう理由なのでしょうか?
作業を続ける福岡さんです。
壕の上を見ています。それなりに光が射していますが、壕底はそれ程明るくはありません。
壕上部から光が差し込んでいるのが見えますね。
この時点までに見つかった遺品です。
石けん箱です。兵隊さんの身近な携帯品ですから、名前が書かれている確率の高い遺品です。残念ながら表も裏も記名はありませんでした。
福岡さんは場所を替えて、一番奥まった所に移動している所です。かなり狭い縦穴を降りようとしています。
縦穴の下はこんな感じです。まだまだ人が移動出来る空間が続いています。
おっと福岡さんが下に来ました。穴の手前にも少し空間がある様です。
福岡さんのライトで照らされている場所が一番奥です。
縦穴部分から振り返って壕口方面を撮影するとこんな感じです。
縦穴の上を撮影しています。
縦穴の一番狭い部分はこんな感じです。
縦穴の少し手前はこんな感じです。驚きの造形です。
土は水が運んできた泥という印象です。穴も開いています。雨水がどっと流れ込むのでしょうか。
一番奥まった場所で作業する福岡さんです。
缶詰の空き缶がありますね。
金属探知機の反応がありました。
昔はこんなのがありましたよね。がま口の金物という感じですよね。
ここにも缶詰の空き缶があります。もう形が崩れています。
結構土があります。戦後流れ込んだ印象です。
豊澤さんが作業している場所に行ってみましょう。
豊澤さんが珍しい瓶の蓋を見せてくれました。昔はこんな感じの取っ手のついてガラス瓶にお菓子や飴が入っていましたよね。
このビール瓶に似たガラス片も戦前のメーカーの瓶です。「DAINIPPON BREWARY」と描かれていますから、大日本麦酒の瓶ですね。瓶底には星のマークが描かれていましたから、軍が将兵の為に調達したビールという事でしょう。
ガラス片が沢山出ています。ビール瓶も飲料水を入れていたでしょうし、青い瓶の破片も見えますが、瓶のカーブの形状から、こちらは一升瓶でしょう。一升瓶は広く流通していたのでしょう、軍民共に持ち歩いた様で、南部戦跡のあちこちで見かける瓶でもあります。後茶碗類も結構出ていますね。これらの遺留品から、数多くの将兵がこの壕に居たと推測されます。
狭い縦穴があった場所の上に、人が通れる空間があるのを見つけた福岡さんが、登ってみるという事で挑戦している所です。
何とか登れそうですよ。
無事に登れました。遺品やご遺骨がないか調べています。
豊澤さんが作業しています。
豊澤さんが一人で黙々と作業しています。
この時点までに見つかった遺品です。
この時点までに見つかった遺品です。
二つ写されています。多分革製なのですがかなり薄い生地です。こんな薄い革が残っていた事が驚きだと感じて撮影しました。
これは布地だと思われます。もしそうだとすると、三十年以上遺骨収集を続けてきて、初めて布地を見た事になります。全ての遺留品に言える事ですが、昔に遡るほど戦没者遺品は終戦時に近い形状を維持したまま残存していましたが、布地はそうした昔に遡っても一度も見た事がありません。極めて希少な遺品だと思えます。生地の荒さ、持ってみての厚み等々から推測すると、綿製の袴下か、襦袢(シャツ)の生地の様な印象です。
これら遺品も地上に出して、皆さんの意見を聞く事にしましょう。
戦没者遺品で軍靴が多いですね。きっと大勢入って居たのでしょう。残念ながらご遺骨は、少ししか発見されていません。と言う事で、この壕は遺骨収集は既に終わっていると思えます。
また何か見つかった様です。
豊澤さんの所はまだまだ遺品が出る様です。
そろそろ作業終了の時刻となりました。この時点までに見つかった遺品です。
福岡さんの様子を見てみましょう。
福岡さんが作業しています。
明日も作業が続くので、発見した戦没者遺品はそのままにしておきます。
日が傾いたのでしょう。上から差し込む光も少し弱くなった印象です。