平成18年(2006年)沖縄遺骨収集奉仕活動
- 2月14日(火)仕事を終え慌ただしく事務所を出発
- 2月15日(水)単独で摩文仁之丘南斜面に入り遺骨収集
- 2月16日(木)摩文仁・糸満等で終日情報収集
- 2月17日(金)摩文仁で初参加の若者4人と遺骨収集
- 2月18日(土)第33回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
- 2月19日(日)第33回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
2月19日(日) 第33回金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
今朝も昨日同様、朝8時30分に集合ということで、参加者が参集しました。すでにテントは設営されていますので、8時30分過ぎ皆さんが揃ったところで、摩文仁岳山頂に向かい全員で朝の御祈念を行い、それから林先生の昨日の経過報告と諸注意事項のお話がありました。
東京から参加した若者4人組は、今日東京に向け帰るとのことで、今朝は参加していません。昨日は彼らも私同様に御遺骨を見つけることは出来ませんでしたが、夕食を一緒に食べた時の感想などでは、初参加の彼らにとっては驚きの連続であり、多くの貴重な体験ができたと喜んでいましたのでね。来年もきっと参加してくれるでしょう~。
私は1班に所属していますが、摩文仁岳南斜面に降りるルートを知っている人が少ないとのことで、そのルートを知っている私が案内するという話になりまして、2班のメンバーと行動を共にする事になりました。
朝の御祈念とミーティング
今朝も、最初に摩文仁岳山頂に向かって朝の御祈念をおこないました。
摩文仁岳の崖下に向け出発!
園内の国立戦没者墓苑までは車で移動し、到着したところで班としての朝の御祈念を行いました。班長の「ケガに気をつけて今日も頑張りまょう」とのご挨拶を終えると、いよいよ列を為してジャングルに入っていきました。
二班には、ご高齢者はいませんが、一番若い方は11歳の女の子!。他にも若い方が何名かいらっしゃいます。メンバーの中には、数日後に受験を控えている方もいらっしゃるとか。そのような時期にあえて遺骨収集に出向いたこと自体がえらいですよね。
合格出来るという確信といいますか、余裕がないと来れませんよ~。(笑)
いずれにしても、若い人たちには、よくぞ遺骨収集に参加してくれましたと言いたいですよね。ぜひ沖縄戦の残像をつぶさに見て頂き、戦争の本質と悲惨さを体感して頂きたいものです。
今から進むルートは、巨大な壕内を通らなければならず、一部とても狭い部分があったり、縦穴が目の前にあったりで、とても困難さが伴うルートですが、ルートは容易に覚えられることから、これからも利用したい道ですね。
ジャングルの中は岩場が主体ですが、長年の落ち葉が堆積しており、足元を注意しながら確定していかないと、捻挫や転倒をする危険性があるので注意を要します。
また立ち木や枝葉につかまろうとしたら、それは枯れ木だったという事もしばしばです。枯れ木に体重を掛けすぎると、結果として大きく転倒してしまう恐れがありますので、これまた要注意です。
100メートル近く進みますと、いよいよ巨岩の合間をぬって下へと降りていきます。高低差は数メートルありますので、落ちたら大変です(>_<)。
「慌てることなく、自分のペースで歩いて下さいね」と語りながら、一列縦隊になりながら歩みを進めました。
まず最初の壕内を通過します。艦砲の激しい爆撃で、巨岩が折り重なっている部分ですが、ひとつひとつの岩が大きすぎて越えるのに一苦労です(^^;)。もちろん、壕内ですから灯りが無くては歩くことも出来ません。
慎重に歩みを進めて、二つめの巨大な壕内を通過する段階になりました。
壕内を10メートル程進むと、最も狭い場所を通過しなければなりません。リュックサックを背負ったままでは通過できませんから、降ろして先送りした後人間が通っていきます。
注意しなければならないのは、その通過する目の前に、縦穴がポッカリと口を開けている事です。そこから落っこちたら大変なことになりますので、私はその最重要ポイントに留まり、十分に注意して歩みを進めるように皆さんに伝えました。
最も危険なポイントを、無事に全員通過する事が出来まして安堵しました。
巨大な壕内を20メートルほど下っていくと、地面はほぼ水平で空間のとても大きな場所に出ます。例えば500人ぐらいは楽勝で壕内に留まれるのではないかと思えるほどの大きさです。
セメントと石で、幅3メートル奥行き2メートル、高さ60センチほどに仕切られた場所があります。可能性としては水を溜めて置いた場所ではないかと思われます。連なる壁面から、泉が湧き出ていたような形跡はありますが、現在は乾いた状況であり、これはあくまで予想です。
底部水平面の出入り口は左右に二カ所。出入り口の被弾の可能性を除けば、壕内は完璧に安全であったと言えるでしょう。
50メートルほど横に移動して、やっと壕の出入り口に到達しました(^o^)。慎重に歩みを進めたこともあり、1時間以上も費やしました。
でもここまでくれば大丈夫! 目の前が探索場所です。全員無事に崖下に到達したと言うことで、小休止をしました(^o^)。
御祈念のあと崖下に向け出発!
2班の皆さんです。入山に際し道願先生の御発声で御祈念を行いました。
巨岩の割れ目など歩きやすい部分を見極めながら歩みをすすめます。
長さ100メートル程の壕の中を通りますが、コース上最も狭い部分です。リュックサックを背負っては通れないので、先に送っておきます。
リュックサックを降ろして、やっと人間が通れるほどの隙間です。すぐ横には縦穴があったりします(^^;)、十分注意して下さいね。
壕の中を40メートル程進むと巨大な空間に出てきます。
しばらく下りが続きます。滑らないように注意して下さいね。
50メートル以上前進して、やっと平らな部分に出てきました。
100メートル近く前進してやっと壕を抜け、崖下に降りることが出来ました。1時間近くかけて全員無事に到着しました(^o^)。少し小休止しましょ。
遺骨の探索を開始しました!
天気予報では、日中は雨が降るとの予報ですが、今のところ曇り空ながら雨も降ってこず、探索には支障ない天候です。
南冥の塔や健児の塔付近と比較して、この崖下はルートも限られていることから、遺骨の探索は少ないとみて間違いありません。
クマデを掻きながら、皆でジャングルの中を動き回りました。
私も皆に負けじと、精神を集中させクマデと懐中電灯を使い分けながら、慎重に探索を進めました。
1時間以上経過しても、誰からも御遺骨を発見したという報は聞こえてきませんが、予想通り遺留品は数多く目にすることができます。強大な壕を本拠地として、ここから多くの日本兵が出て行ったり帰ってきたりしたのでしょう。
多くの遺留品の中で、やはり靴底があると心が痛みます。その場所で、兵隊さんが亡くなったことは間違いありませんからね。壕内で最も多く発見されますし、岩陰などでも散見されます。
時刻もお昼を回ったので、昼食を食べることになりました。崖下の岩場で、思い思いの場所を見つけて腰を下ろしました。
昼食を食べ終えてしばらくすると、道願さんがオカリナで黒人霊歌の定番であり、鎮魂歌でもある『アメージンググレイス』を吹いてくれました。
この歌は古い黒人霊歌が元になっているという話ですが、こうしてオカリナで聞くと、すごく心に染みいってきますね~。ジャングルの中にこだまして、御霊様も一緒に聞いてくれたかもしれませんね。
他のメンバーも、静かに曲を聞き入っていました。
日本兵の遺留品など
壕出口での小休止を終え、ジャングルをもう少し前進します。
数十メートル下は海岸線になっている場所に出てきました。
海岸に近づくほど巨岩が連なるようになり、人の侵入を阻みます。
目の前にある巨岩のほとんどは砲撃の破壊で落石したものと思われます。
よく見ると壕の入り口が見えます。多くの遺品が残されていました。
ちょっと解りにくいのですが、鉄製の部品がありました。
もしかしたら衛生兵が持つカバンの一部では?。
防毒装備の部品と、鉄製ヘルメットの一部と思われる錆びた鉄片です。
かなり錆びついていますが、日本兵が被っていた鉄製のヘルメットです。
『オキシドール丸』と書かれている、高さ5センチ程のガラス瓶です。
おそらくは御弁当箱の一部と思われます。もしかしたら女性用かな?。
大きな壕の中を探索しています。
2月というのに沖縄では、すでに芽吹きが始まっているのですね。
3時の休憩のときに、道願先生がオカリナで"アメージンググレイス"を吹いてくれました。この歌は鎮魂歌ですからね。御霊様も一緒に聞いていてくれたかな…。
静かに"アメージンググレイス"に聞き入るメンバーの皆さん。
お昼も過ぎますと、暗くなった空からは雨が降り出してきました。
しばらく様子を見ながら探索を続けていましたが、雨脚は強くなる一方なので、皆さんが雨合羽を着用するようになりました。
過去の遺骨収集でも、たいがい雨に降られますが、やはり雨が降るとどうしても作業能率とかモチベーションは低下してしまいますね。
岩や地面なども滑りやすくなりますし、転倒事故の発生する確率も増してきます。
引き続き、同じ地域で探索活動を続けていましたが、雨脚が強くなる一方なので、少し早めですが作業を終了して上に上がろうという話になりました。
朝のミーティング時に、Sさんが摩文仁から降りるルートの一方を、テープなどで分かるようにしておいて下さるとの話があったので、私はすでにその下調べに行って、その所在を確認してありました。
班長に、Sさんが白いビニール紐でルートを表示してくれたそちらから帰りましょうと提案し、壕入り口で小休止をしたあと、帰りのルートに進んでいきました。
来るときに通過した巨大な壕を水平に移動し、反対側に出ました。
しばらくジャングルの中を進むと、大きな艦砲の不発弾がありました。すでに赤テープでマーキングされていましたが、この近くですでに三発の艦砲不発弾がある事になります。
この帰りのルートも、来るときのルートと同じぐらい困難な道のりでしたが、壕内は通過しないので、心理的には安心コースかもしれませんね。
いずれにしても、国立戦没者墓苑前の崖から下に降りるルートが、これで二つは確認された意義は大きいですよね。
雨脚が強くなったので帰路につきます
雨脚も強くなる一方なので、少し早めに切り上げて帰ることにしました。
大きな岩は11歳の女の子には大きな山に見えますよね。道願さんが手をさしのべます。
帰るに際し、壕入り口で小休止をしてから帰路につきました。
巨大な壕の中を水平に移動して反対側に出るために進みます。
まだ壕内のように見えますが、無事に地表に出ました。
Sさんが白いビニール紐でルートを明らかにしてくれました。
ルートの周辺部は、巨岩や暗いジャングルが続きます。
腐ったヘチマのように見えますが(^^;)、艦砲の不発弾です。大きかったですよ。
白いビニール紐をなぞるように上に上がっていきます。
ルート上最も危険な場所です。崖下に落っこちたら大変ですよ。ここだけキッチリとしたロープが張られ、大人が子供や女性の通行をサポートしました。(^o^)
少し早めに崖上に上がってきたことから、『ふくしまの塔』の裏手にある壕を見学しようという話になりました。この壕も日本軍の壕で、多くの御遺骨と遺留品が見つかった場所です。何しろここは、第32軍の司令部牛島中将と長参謀長が自決した壕にかなり近いですよね。軍刀なども見つかったという話ですから、かなり重要な拠点ではなかったでしょうか。
そのような重要な拠点ではなかったかという認識から、Sさんのグループが実に4年もの歳月をかけて、壕内を徹底的に探索しました。
私ももちろんこの壕の存在は知っていましたが、入るのは今日が初めてです。出入り口は二カ所あるそうですが、一カ所はロープがないととても入れないとの話ですので、入りやすい方から入り事になりました。
入り口は人がやっと通れるぐらいの空間しかありません。しかもかなり急斜面です。こちらもロープ無しではかなり時間を要するでしょう。内部空間はそれほど広くなく、30人が入れば一杯になるほどの広さです。
全ての表面は探索が行われた雰囲気ですから、遺骨が発見される可能性はありませんが、遺留品は時折目にすることが出来ました。日本兵が使用したと思われる遺留品や、蓄電池の部品なども多く散見されます。
『ふくしまの塔』裏の壕を探索
日本軍の拠点と思われる壕は、この『ふくしまの塔』の裏手にありました。
入り口は人一人がやっと入れる大きさの穴です。
奥の方の落ち葉が堆積している部分は、二つある出入り口のもう一方の口です。
蓄電池の部品などがたくさん見うけられます。
壕内の高さはあまりなく、横に這って歩く感じです。遺留品を発見し皆でその物についていろんな意見を交わしました。
出入り口付近に露出している銅製と思われる容器が見えます。土砂が崩れる恐れがあり、掘り出す事はしませんでした。
金光教現地慰霊祭
私達の2班も、全員が無事に下山しました(^o^)。他の班も、全員集合できたようですので、4時から慰霊祭が執り行われました。雨脚も益々強くなり、時々テントの窪みに溜まる水を掻き出さなければならないほどひどい雨の中での慰霊祭となりました。
金光教那覇教会の林先生が、祭主を務めて厳かに式典は進みました。毎年の事ながら林先生の朗読する文面は、いつものことながら心が悲しくなります。参加したメンバーも全員、おごそかに沖縄戦で亡くなられた人々の鎮魂を祈っていました…。
収骨された御遺骨の様子と金光教現地慰霊祭
ロンさん親子や、1班の方々が探索した病院壕から発見された御遺骨です。焼けこげた御遺骨もあり、何度も攻撃を受けたことを物語りますね。
第9~第11肋骨と思われる骨です。銃弾が肋骨や心臓などを貫通したものと思われ心が痛みますね。
遺骨収集から帰ってきますと、地元参加者の方々がサーターアンダギーや暖かいお茶などを振る舞ってくれます。最高に美味しいですよ。
金光教慰霊祭の祭壇の様子です。
道願さんが『アメージンググレイス』をオカリナで吹いてくれました。
林先生が、長文の祭詞を読み上げています。心にしみる文言が多いです。
慰霊祭の様子です。
慰霊祭の様子です。全員で祈りの言葉を口ずさみます。
今年も昨年に続き、わずかな収骨量で二日間を終えましたが、収骨された御遺骨が多かったか少なかったかは、それほど大きな問題ではありません。
70余名のメンバーが、誠心誠意祈りの心を持って摩文仁や具志頭を歩いたのです。
鎮魂の祈りを込めて、クマデを掻き続けたのです。
米軍の圧倒的な砲爆撃に生身の人間がさらされ、多くの避難民が傷つきそして命を奪われたこの摩文仁の地を…。