平成18年(2006年)沖縄遺骨収集奉仕活動
- 2月14日(火)仕事を終え慌ただしく事務所を出発
- 2月15日(水)単独で摩文仁之丘南斜面に入り遺骨収集
- 2月16日(木)摩文仁・糸満等で終日情報収集
- 2月17日(金)摩文仁で初参加の若者4人と遺骨収集
- 2月18日(土)第33回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
- 2月19日(日)第33回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
2月15日(水) 単独で摩文仁之丘南斜面に入り遺骨収集
今回の遺骨収集では、三つの主要な課題に取り組みました。
1,若き学徒隊の目線で摩文仁を見つめる
いつかは実行してみたいと思っていたのです…。
今回の三つの課題のうち最も重視するのは、この中学生である若き学徒隊や鉄血勤皇隊の隊員になりきって、彼ら彼女らの目線で摩文仁を歩いてみることでした。
過去に参加した全ての遺骨収集奉仕は、遺骨を探すという目線で摩文仁を見つめてまいりましたが、ずっと以前から自分自身の心を沖縄戦の渦中にタイムスリップさせ、沖縄戦という過酷な運命に翻弄された若き学徒隊の目線で、摩文仁を見つめてみたかったのです。
それにはどうしても、集団ではなく一人でジャングルに入る必要があったのです。今回、長年の夢だったことがついに実現の運びとなったのでした。さて、その結末はいかに…。
2,遺骨収集する日数を増やす
何故今年から、沖縄での滞在日数を増やしたか?
それは、金光教の沖縄遺骨収集奉仕では初めてではないかと思われますが、昨年二日間での収集御遺骨が例年と比較して激減したのでした。
そのわずかばかりの収骨された御遺骨を前に、おそらく金光教の林先生をはじめとして、多くの関わっている人たちが、少なからずショック受けたのではないかと感じました。そのわずかばかりの御遺骨に、私自身も大きなショックを受けました。
確かに御遺骨に巡り会える機会は年々減ってはいましたが、収集団全体としては必ず何処かの班が、多くの御遺骨を収集していたので、全体として収集量はそれなりのレベルが維持されていたのです。
長年遺骨収集に関わっていて、収集される御遺骨が減少している要因について、ひとつ確信を持って言えるのは、御遺骨は収骨され尽くしたのではなく、骨がもろくなり急速に土に帰り始めたのだと…。
戦後60年以上も経過して、夜露の当たる場所からの収骨は激減していることからも、それは確信を持って言えることです。
そうです。“急がねば” ならないのです。あと10年もすれば、ほとんどの御遺骨は消えてしまうでしょうし、遺品も限りなく土に帰ってしまうでしょう。
あと10数年で 沖縄戦の悲惨なる残像 は、この摩文仁から消え去ってしまうのか…。
かなり強い危機感おぼえながら一年間を過ごしました。
ヨシ! 今年から10年間は、沖縄での滞在日数を増やし、悔いのない遺骨収集活動をやろう!。結論として今年から向こう10年間は、沖縄での滞在日数を増やすことにしたのです。
確かに御遺骨や遺品が土に帰るのは、自然の摂理ではあります。
しかし、たとえ小骨一本でも、我々児孫の手で探し出したい…。可能なかぎり我々児孫の手で、慈しみの心をもって拾い上げてやりたい…。
そうする事こそが、私達を守るために自らの命を賭して戦ってくれた戦没者と、そのご遺族の尊厳を守ることにつながるのだ。
戦後60年以上も経過して、いまだ山野に御遺骨が散乱するという荒涼たる光景は、あまりにも悲しい…。
戦争という極限状況の結末は、民族の持つ特性を見事に暴き出すと言うことか…。
いずれにしても繁栄の陰に巣くう、貴い犠牲の上に今があるのだという感恩報謝の心の忘却は、「胆識あるリーダーの不在」に収斂されるであろうが、我々もまた他を責めるだけではなく、自らを行動の渦中に投げ入れなければならないのです。
夜露にさらされた御遺骨や遺品は、日に日に土に帰っていく…。もう一度思い起こしたい “急がねば” と。
3,摩文仁岳南斜面に湧き出る泉を見つける
喜屋武や摩文仁は、井戸や湧き水の少ない場所でした。
南部地域には、逃れてきた民間人や日本兵が数万人規模でひしめいていましたが、当然の事ながら水の確保が、戦況を左右するほどに深刻な問題となっていたのです。
湧き水の少ない摩文仁ですが、南斜面に一カ所泉のわき出る場所があり、沖縄戦の体験記などの本にもたびたびその泉が登場します。
毎日朝夕方同じ時間帯に一時間ぐらい米軍の砲撃が止む時間帯があったといいます。その時間帯になると、壕などに潜り込んでいた兵隊や民間人は、水や食糧を求め、或いは移動の為に急いで活動を開始しました。
しかしながら、水場を破壊するのは戦争に勝つための常道ですから、摩文仁のその泉も激しい爆撃にさらされてその付近は石灰岩のはげ山と化していて、米軍の艦艇からは丸見えになっていたといいます。
希少な水飲み場であるその泉だけは、いつでも米兵による狙撃にさらされ、付近は死体の山が築かれ、摩文仁で最も死者の出た場所であり、死体を避けて水くみに行くのが大変だったといわれるぐらいでした。
実は私も遺骨収集を始めて間もないころに、その泉を見たのです!。
ただ当時は、飲み水が避難している人々にどれほど大切な存在だったかに思いを馳せることも出来ず、ただ単に湧き水が出ているなといった程度しか認識していなかったのでした。ご免なさ~いm(_ _)m。
自動販売機に囲まれて暮らしている人間には、想像も出来ない世界だったのです…。
遺骨収集を毎年継続するようになり、後に知る事となったのですが、沖縄戦では水を飲みたいが為に命を落とした人が、数えきれないほどいたという話を繰り返し聞くようになりました。
そのような経緯もあり、いつの日か再びその泉を見つけて、そこで心を込めて慰霊を行いたいと強い願望が発生していました。
「摩文仁岳南斜面の泉を見つけること」、これがいつの日か必ず実現させたいと思う目標です。
暗いジャングルの中で…
何度も入っている摩文仁ですが、単独で入ると驚くほどに静寂であることがわかりました。耳を澄ますと海岸に打ち寄せる波音が少し聞こえる程度です。鳥はあまり居ないのでしょうか。聞こえてきません。
静かすぎて暗すぎて…。怖いぐらいの雰囲気で…。これが単独で入った最初の印象でしょうか~。
御霊が彷徨っているからでしょうか、言葉では適切な表現が見つかりませんが、光の陰影が強く、怖くて暗い場所からは目をそらせたくなる雰囲気です。
「出来れば御霊と直接言葉を交わしたい!」、常識的にそれはかなわぬ願いであることは承知していますが、ここ摩文仁のジャングルに入ると、もしかしたらそれは可能かもと思えるほど、重い空気を感じます。
それにしても、このジャングルの中で転倒事故などを起こしてしまったら、どれほど関係者に迷惑をかけてしまうか計り知れません。もしかして、発見してもらった時には白骨化していたりして…。(^^;)
遺骨収集関係者にご迷惑をお掛けしないためにも、絶対事故は起こさないという方針で、ジャングル奥深くへ歩みを進めました。
摩文仁岳南面の崖の様子
20メートルから40メートルの断崖が連なっています。降りるルートは限られています。
上の写真の反対側から撮影。こちらもすごい崖となっています。
静かなたたずまいの太平洋を望む海岸線も、沖縄戦では激しい砲爆撃にさらされました。
海岸線付近には、砲爆撃で崩れたと思われる岩石が積み重なっています。
ジャングルの中に入ると暗いですよね。こんな暗いところを一人で歩きました。 (^^;)
枝葉が縦横に茂っていますが、当時は無かったと想像することも遺骨収集では大切です。
摩文仁南斜面に入る方法は、私の知る限り二カ所しかありません。ひとつは、「沖縄師範健児之塔」付近から入る方法です。
このルートが最も一般的ではないでしょうか。ただこのルートは十分に注意しないと広大であるが故に、元の場所に戻るのはかなり困難が伴うという点です。
50メートル前進して、元の場所に戻ろうとしたら戻れなかった!。摩文仁のジャングル内では、こういった事例は常につきまといます。
100メートル前進したら、例外なく元の場所に戻るのは困難を伴極めるでしょう。
もうひとつのルートは「国立戦没者墓苑」付近から岩場や壕内を通って降りていく方法ですです。
私が把握しているのはこの二つだけです。他にルートはあるかも知れませんが、ごく限られたルートしか無いことは明らかでした。
ですから、いまだ遺骨収集団が歩いてない新ルートや未発見の壕が存在するとみて間違いありません。
数数えきれないほど多くの人々が、この摩文仁岳南斜面に遺骨を収集するために入りましたが、私が2年前にまとまった御遺骨を発見したように、同じような未発見の壕は必ずや複数個あると私は推測しています。
特に艦砲射撃による破壊で、全壊・半壊の埋もれてしまったような壕は、必ずあると今でも信じています。
時折腰を折って、遺骨が存在する可能性のある場所を、ガサゴソとクマデで掻いて探はしましたが、今日は遺骨を収集することを目的としていませんから、基本的に立って歩みを進めました。
ジャングルを進みながら、壕内も5カ所ぐらい入って捜索しながら前進し、1時間ぐらい経過したでしょうか。平成16年にまとまった御遺骨を発見した場所の近くを通ったので、発見した場所に行って手を合わせることにしました。
懐中電灯無くては作業も出来なかったその壕では、発見時大量の土砂を運び出しての大変な作業が終日続きました。
今ふたたび壕内を懐中電灯で照らしてみると、土砂を掘り起こして二年しか経過していないのに、土をほじくり返したという雰囲気は消え失せ、地表の凹凸は何事もなかったかのように周りの風景に溶け込んでいました。
この海岸の波音が微かに聞こえるだけの穴蔵で、6人から8人規模の日本兵の遺骨が収集されたのでした。
その時は、初参加の私の妻も同じ班でしたので、私は発見したあと妻を呼んでまだ収集作業前の、沖縄戦当時からそのままの御遺骨を妻に見せる事が出来たのです。
妻は泣きながら二三の質問を私にしてきましたが、互いに多くを語ることなく、しばし呆然と御遺骨を見つめるだけでした …。
薄暗い岩場を降りて、戦いは止みこうして波音だけが聞こえる壕内にたたずみ…。
それにしても、この壕で亡くなった日本兵の死因は、何だったのでしょうか?。生き延びる可能性は無かったのでしょうか……。
艦砲の直撃が無かったとはいえません。巨岩が折り重なる堅牢な壕ではありますが、上部には隙間があり光が差し込んでいます。そこから砲弾が飛び込んできたかもしれませんし、跳ね返りの鉄片や岩石が飛び込んできたという事も十分考えられます。
とにかく艦砲の破壊力と爆風はとてつもなく大きいですし、砲弾片や岩石の破片をもの凄いスピードで四方に飛散させ、二次的な跳ね返りでも人間を深く傷つけます。
ですから、壕内に隠れる場合は、直撃を避けることはもちろん、跳ね返りの飛び込んでくる砲弾片や岩石を防ぐ位置に身を伏せていないと、命が危ないという事になります。壕内だからと、安心しきってしまうのはとても危険な事なのです。
それから砲爆撃以外に、更に日本兵や避難民の命を危険にさらした、米軍の攻撃方法もありました。
ここ摩文仁岳が米軍の主要な攻撃対象になったころは、砲爆撃よりも効果的な火炎放射器で地表面をことごとく焼き払う作戦に出たのです。
個々の塹壕や洞窟はもちろん、摩文仁岳岩山や海岸の絶壁めがけて、飛行機からガソリンを撒き散らし、焼夷弾を投下し摩文仁一帯を火の海にして、付近に隠れていた多くの日本兵や避難民を焼死させたり、ひどい火傷を負わせました。
また、摩文仁絶壁から米軍兵士がガソリンの入ったドラム缶を投げ落とすのを何度も目撃されています。
米軍は一週間に30万リットル以上のガソリンを燃やし、米兵に「残虐非道なやり方だが、非常に効果的なやり方だった。」といわせたほどなのです。
この米兵の証言に従えば、婦女子を含む避難民は、殺虫剤を散布されたアブラムシのように、"効率良く"あの世に行かされたらしい。
こうした非人道的な戦術に怒りを覚えるものではあるが、米軍は硫黄島の戦い以降「日本人全員が攻撃対象」という極秘指令を出していた事が、現在では史実として明らかになっています。
実際に作戦は極秘指令に沿って実行されたとみてよいでしょう。でなければ全国の市街地を焼夷弾で火の海にできるはずはないし、広島・長崎に原子爆弾を落とせるはずもないのだから…。
2年前の収集している時には、時間的にゆとりがないために、壕内に留まりこのようの静かに当時の状況に思いを馳せることは、十分に出来ませんでしたが、今日は時間がたっぷりあるので、壕内に留まり静かに海岸方面を見つめて、当時の日本兵や避難民の逃避行に思いを馳せています…。
一時間もジャングルを歩くと、いよいよ私自身の心も沖縄戦当時にタイムスリップしてきましたね(^o^)。
ここからは学徒隊員になりきり 「ここからどうやって水を探すか」 という課題をもって、少し歩いてみることにしました。
今立っている壕内から、別のルートで外に出てみようと、可能性のある岩場をよじ登ってみました。
当然の事ながら、壕内は複数の出入り口があった方が安全ですから、別ルートを探すべく、十分ほど奮闘しましたが、すべての隙間が人が出入りするには少し狭くて、入ってきたところを出る以外に方法はありませんでした。
20分ぐらい試行錯誤したでしょうか、腰ベルトも外して細身になって試みましたが、新たなルートは発見できず、結局来たルートを通って地表に出ました。
摩文仁岳南斜面は、所々絶壁となっており、先へ進めなくなってしまうこともしばしばです。
この時も、崖の上に出てしまい引き返そうと思ったその瞬間、崖の中腹に横穴がある事に気づきました。この崖も現在ではかなり樹木も繁茂していますが、当時はここいらあたりは激しい艦砲射撃により、石灰岩の岩山同然になっていました。
現在繁茂している樹木を消してみると、間違いなく人間がそこに歩いて行けそうなルートがありそうなので、ジャングルの樹木をかき分け崖を降りていきました。
危険を顧みず三十分ほど奮闘したでしょうか(^^;)、ついに念願のその横穴に到達することが出来ました。
横穴壕の入り口は、幅3メートル、高さ1メートルといったところです。かなり奥が深いことが見てとれます。
今日は一人なので、壕内をあまり深く入っていくと酸欠などの危険度が増すので、一応20メートル以上深くは入らないことにしていました。
ここは、先が見えないほど奥が深い壕のようなので、学徒隊員や日本兵が隠れるにはもってこいの場所でした。横穴壕入り口付近は、崖の上にあるので太平洋が一望でき、素晴らしい眺望です。
沖縄戦当時、目の前に広がる太平洋をどのような気持ちで眺めたのでしょうか…。三千以上もの艦船が海上を埋め尽くしたといわれます。目の前に広がる戦艦からは、巨大な破壊力を持つ四十五センチ砲が雨あられと降り注ぐ…。
こちらは小銃や手榴弾しか持ち合わせていない…。崖の上には米兵がいて、人影が動けば狙撃してくる。しかも水や食糧も底をついている…。
当時に思いを馳せながら、組織的戦闘能力はすでに無く、戦うというよりも命を明日に繋ぐつなぐ困難さが思い起こされます。「ここで死ぬことになるのか…。」
当時の学徒隊員や日本兵は、どのような思いでこの壕の入り口に立ち海岸を見つめていたのか…。
この壕はとても奥が深く、懐中電灯を照らしても先を照らしきれていません。20メートル以上深くは入らないことにしていたので、更に先に進むことはせず、懐中電灯を消してみました(^^;)。
コッ怖い……。真っ暗だ(当たり前か(^^;))。この暗さを写真に納められないのが残念だ(^^;)。
さすがに20メートル近く深くはいると、入り口の光も全く見えなくなっていた。
遺骨収集では、壕内で蓄電池がバラバラになり部品化した物をよく見かけます。南部に避難してきた初期のころは、蓄電池などを利用した照明器具も有ったのだろうが、発電設備も次第に使い物にならなくなったのではないだろうか。
マッチやロウソクにしても、湿気たり濡れたりしたら使い物にならない。そして、当然のことだがそれらは使えば使うほど減っていき、いつかは無くなる。
壕内を真っ暗にしてわかることだが、どのような形状をしてるいのか解らない壕内を、手探りで進むのは、かなり難儀なはずだ。
今ここから、懐中電灯無しで入り口まで進んでみよと言われれば、おそらくヘルメット越しの頭突きを10回は食らうだろう(^^;)。
真っ暗だと、例えば垂直に降りたり上ったりする場合は、手や足の掛け場所さえ見えない。従って、乳飲み子や小さい子供などがいたら、そして高齢のお年寄りなども、理想的な壕であっても中にはいることさえ出来ないはずだ。
また、手や足そして体に損傷があって身動きが不自由だったら…。
緊張の連続のためか、いつになく疲労感が増したので、この壕の入り口に腰を下ろし、しばし太平洋の波音を聞いていました。
時刻もお昼を回ったので、ついでにこの場所でお昼ご飯を食べることにしました。コンビニで買ったおにぎりでしたが、お腹が空いていて美味しかったですね(^o^)。
疲れてきたときに、甘い御菓子などを食べると、また元気が湧き出てくるような気持ちになりますよね。昨日買い求めたサーターアンダギーも一緒に食べました。
しばし食休みをした後、「沖縄工業健児の塔の近くに、海岸へ至る降り口がある」 という話を林先生からお聞いていたので、そのルートも把握しておく必要があると感じ、午後はそちらに向かってみました。
国立戦没者墓苑横から沖縄工業健児の塔に至るまで、平和祈念公園内を歩くのはもったいないので、公園の縁を歩き下に降りるルートが更にないか確認しながら、歩みを進めました。
立ちはだかる雑木林や雑草をかき分け進んだので、距離として200メートルぐらいなのに、塔前に到達するのに1時間を要してしまいました(^^;)。
しかし、ここで解ったことは以前から言われていたことですが、下に降りるルートは本当に限られているという事ですね。
見落としがなければですが、この1時間歩いた区間は下に降りるルートは無いと断言できそうです。
という事は、当時でも状況は同じはず。まして当時は危険を避けるため昼間は壕内に身を潜め、行動するのはもっぱら夜という事らしいから、摩文仁の崖上と下とに、行き来するのも容易ではなかったはずです。
沖縄工業健児の塔前にある降り口は、比較的容易に発見できました。ただそこは、とてつもなく断崖だったのです!。
まず女性の力では降りられないでしょう。力を入れて踏ん張って降りなければならない程、足を置く岩と岩の間隔が広いのです。
悪戦苦闘しながらも、無事に高さ20メートルぐらいの崖を降りることが出来ました(^o^)。
私はこの辺りはまだ一度も訪れる機会がありませんでしたね。
摩文仁から具志頭に至る海岸線の中間辺りなので、この辺もかなり避難民や兵隊が逃げまどっていたに違いないでしょう。
この海岸線を沖縄の人たちは「ギーザバンタ」と呼びます。そして米兵らは、この海岸線を「シューサイドクリフ(自殺の断崖)」と呼びました。陸上からは火炎放射器で焼き尽くされ、また戦車により狙撃されたり、海側からは艦砲が火を噴き…。多くの避難民が、ここから身を投げたといいます…。
崖下に無事に降りてヤレヤレと思いながら、今度は横に歩みを進めたらすぐに、手榴弾二個が半分土に埋まった状態で、目の前に現れたのでした。触ると危険なので、写真に納めてその場を離れました。
崖を降りて横に移動するにもかなり困難がつきまといましたね。降りた部分も全体としてかなり急傾斜となっていたのです。
午後2時を回っていたので、夕方5時までこの近辺を中心に移動してみることにしました。少し移動して大小の岩場に差し掛かってくると、周辺部の地形はかなり複雑になってきました。30メートルも進むと、帰る道さえ解らなくなってしまうというような(^^;)……。
夕方までに、かなり広範囲に移動してみたが、正直に話しますと、夕方になって上に上がるまでに二度ほど、自分の位置が解らなくなってしまい、方向感覚を失ってしまったのです。
やばいと思いました(^^;)。位置関係を失わないように、周辺部ではなく崖上の風景を記憶しながら、前進していったがあまりにも似たような風景が続き、記憶した風景ポイントが混在してしまい、方向を見失ってしまったというわけです(^^;)。
何処であっても、上に上がれば必ず崖上に上がれるという事であれば、なにも心配する必要はないですが、一カ所しかない登り口を見失ったら怖いですよね!。
沖縄工業健児の塔の東側海岸線と断崖も、上から俯瞰すると単純な稜線に見えるが、ジャングルの中に入るとかなり複雑でした。
何らかの形で、降りた場所を表示しておく必要を強く感じた次第です!。この教訓は次の機会に活かしていきたいと思う。
「沖縄工業健児之塔」の崖下での探索
この海岸線を米兵らは「シューサイドクリフ(自殺の断崖)」と呼びました。
陸から追いつめられ海からは艦砲が火を噴き、多くの避難民がここから身を投げました。
(^^;)
爆撃か火炎放射器の攻撃か……。岩がススで黒くなっていました。
爆撃か火炎放射器の攻撃か……。ここも岩が黒く焦げていました。
編み上げ軍靴ではなさそうですね。いずれにしてもここで一人亡くなったという訳です。
女性が履く靴底でした。摩文仁での女性靴はきわめて珍しいですね。私も初めて見ました。
よく見ると靴と缶詰の一部が埋もれているのが見えますね。
セルロイド製の石鹸箱です。上の写真の近くにありました。
名前等は彫り込まれていませんでした。
手榴弾が二個半分埋もれた状態でありました。
自重で少しずつ沈下するのが主因ですが、年月の経過を感じさせますね。
方向を見失わないように注意しながら歩みを進め、無事に最初に降りた崖の下に到着(^o^)。崖を上に登って5時過ぎには無事に平和祈念公園の東端部にあがることが出来ました。
5時といえばまだまだ明るいので、30分ほど崖上の壕や岩陰を探索する事にしました。
平和祈念公園の端部といえる場所ですが、このような人が行き来する通路などのすぐ横というのは、意外と見落とされがちで、御遺骨発見の確率が高い場所といえるでしょう。
それにしても、崖上に上がったとたんに、急に蚊が飛び交うようになりました(^^;)。沖縄ではもう当たり前のように蚊が飛んでいるのですね。
それにしても今日は熱かったです~(^^;)。おそらく25度は越えたのではないでしょうか。
毒蛇のハブも18度になると、冬眠からさめて活動を開始するといわれているので、なんか怖いですよね~(^^;)。
6時になったので作業打ち止めとしました。この時刻でも公園内ではまだまだ観光客が行き交っていましたね。
平和祈念公園内の様子
平和祈念公園内から見たギーザバンタの海岸線です。奥の方が具志頭方面です。
平和祈念公園内から見た摩文仁之丘の様子です。
ハイビスカスなども今が盛りと咲いていました。 (^o^)
『平和の礎』中央通路から見た各石碑の様子です。
公園南端部から見た『平和の礎』と、奥の建物は平和祈念資料館です。
単独行という事で、方向を見失い焦ったりしたりとかなりの緊張を強いられましたが、予想通り実り多い一日と相成りました(^o^)。
数多くの壕に潜り込み懐中電灯を消してみて、壕内の暗さを実感できたことが最大の驚きの体験だったでしょうか。
避難民にとっては、壕内といえども決して安泰な場所ではありませんでした。砲爆撃はかなりの確率で避け得たにしても、爆弾や爆雷、そして黄隣弾・ガス弾やガソリンを流し込まれ…。「馬乗りされたら終わり。」という事も避難民はよく知っていました。
壕内に入り、実際にそのような攻撃を受けたらどのような心境になるのだろうか…。
そして、水や食糧も尽きて、喉の渇きが苦しい…。お腹がペコペコ…。
あくまで遺骨収集ではなく、逃げまどう学徒隊や勤皇隊員になりきり、彼ら彼女らの目線で摩文仁をさまよってみました。
もちろん、当時のいつ死ぬかもしれないという、恐怖感に怯えながらの逃避行の絶体絶命的な深刻さを、そして飲み水や食べ物を入手するあてもなく、よほど死んだ方が楽といえる程の渇きの苦しさを、同等レベルで体験する事は出来るはずもありません。
しかし、どのような心構えであれ摩文仁に住まう御霊は、一人の人間が彼ら彼女らの逃避行の足跡を辿り、ジャングルの中をさまよい歩いてくれたこと自体を、少なからず喜んでくれたと思えてなりません。
「もう一度水をお腹一杯飲んでから死にたい…」
自動販売機に囲まれ生活している私達には、とうてい理解しがたい本能的な欲求…。
死線をさまよい苦悩した、若き中学生でもある鉄血勤皇隊員や学徒隊らの、辛く悲しい逃避行を少しでも理解すべく、私は単独で摩文仁をさまよい歩きました…。
今となっては砲爆撃こそありませんが、あなた方が逃げまどった岩陰に、そして暗い壕内に身を潜めてみました…。
あなた方が刻んだ苦難と飢えの苦しみを、ほんの少しでも追体験するために。そして、あなた方の悲しみを分かち合うために…。