平成18年(2006年)沖縄遺骨収集奉仕活動
- 2月14日(火)仕事を終え慌ただしく事務所を出発
- 2月15日(水)単独で摩文仁之丘南斜面に入り遺骨収集
- 2月16日(木)摩文仁・糸満等で終日情報収集
- 2月17日(金)摩文仁で初参加の若者4人と遺骨収集
- 2月18日(土)第33回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
- 2月19日(日)第33回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
2月17日(金) 摩文仁で初参加の若者4人と遺骨収集
明日の土曜日から金光教の遺骨収集奉仕活動が始まるが、それに先立ち本日は東京から来た4人の青年と共に、摩文仁岳一帯で遺骨収集活動を行います。4人とこうして一緒に遺骨収集をやる事となった経緯は、昨年12月上旬にリーダー格であるSさんから、一通のメールを頂いたのが事の始まりでした。
Sさんからの丁重な文面には、「御面識もない方に突然このような申し出をいたしますのは大変御無礼とは承知しておりますが、遺骨収集の事で幾つかお伺いさせていただきたく存じます。」という文面で始まっていました。Sさん自身もまだ遺骨収集の経験はありませんが、太平洋戦争で亡くなられた戦没者の未収骨の御遺骨が、海外を中心に100万余柱にものぼる現状を憂い、ご自身も遺骨収集活動を展開したいというお考えになっており、具体的な行動予定もすでに出来上がっているとの事。
NPO法人として遺骨収集活動を組織的に行い、東南アジアを中心に早期の遺骨収集を実現させたいという、遠大な構想を持っているようです。目指す目標の広大さに驚くと共に、すでにかなりの情報を持っており、文面には逆にこちらが教えられるような情報も含まれていました。検索などいつもの情報収集の過程で、私の沖縄遺骨収集に関するホームページに出会ったようです。そして思い切って私にメールを出してみたという訳ですよね。
彼から頂いたメールの末尾にはつぎのような記述がありました。『私は、国も見捨てた状況で遺骨が一人朽ちてゆく現状を思うと、同じ日本人として心から悲しく、情けなく感じます。できれば私はあの辛く苦しい時代に生きた日本軍の兵士たちが、その苦しみの万分の一であったとしても「ああ、助けにきたのか。よかった。今の日本人のために死んだ甲斐があった」と、そう思ってくださったとしたらと考え、何とか動いてゆかねばと思っている次第です。』
この文面により私の対応は決定しました。「浅薄な動機でなく本物だ!」出来る限りの協力をしようと…。
何度かメールをやりとりした後、彼ら仲間内だけで1月中に摩文仁のジャングルに入ってみたいという希望があるようなので、一度お会いして遺骨収集のポイントなどを話してくれませんかという要望が寄せられたので、一度事前にお会いすることになりました。新宿区のJR高田馬場駅近くにある喫茶店で待ち合わせをしました。遺骨収集時の服装や装備品を把握してもらうためには、言葉では十分に理解できないのではないかと危惧し、私はほとんどの装備を自宅から持っていってお見せすることにしました。かなり重たくて難儀でしたが、実際の装備品などを目の前にして、Sさんも良く理解できたと思いますね。彼はしきりに大切なポイントなどをメモに書いていました。
一方、メールでも遺骨収集のポイントなどを知ってもらうべく送受信を繰り返しました。抜粋ですが、ここに私が発信したメール文を転載してみます。
遺骨を捜すのが遺骨収集の目的ですが、戦後60年経過して、山野に放置されている遺骨も激減しています。私たちも、今年の遺骨収集では、まとまった御遺骨は発見できませんでした。収骨される御遺骨は、年を経る毎に激減していることを実感しています。
そのうえで、遺骨収集で大切なことは、遺骨が見つからなかったから今回の遺骨収集は無意味な行動だったと悲観する必要はないという事です。
遺骨収集に行くことは “慰霊の旅に行く” ことと認識する必要があります。
遺骨収集とは、遺骨という宝物探しに行くのではないという点だけは、しっかりと認識しておいて下さいね。
遺骨収集は、その性質故に年配の方々の参加が多いわけですが、参加への考え方は実に多様であるという印象を持っています。世代の違いなど参加するご自身の立場により、参加動機なども大きく違ってくるというのが大きな特徴ではないでしょうか。
私が遺骨収集を始めた経緯は、ホームページにてご存じの事と思いますのでここでは省略致します。
私の遺骨収集への取り組む考え方は、長年の経験の中で多少の変化はありましたが概ね一貫しています。すなわち 遺骨収集とは慰霊の旅である というのが私の主要な考え方です。
我々には沖縄の歴史を第二次大戦以前に戻す能力を持ち合わせてはいません。戦死した人々を生き返らせることも不可能です。
大切なのは戦跡の地に立ち、岩陰や壕内など戦死者がたどった足跡をさぐり、自身も岩陰に隠れ、暗い壕内に身を潜め…。戦没者と共に悲しみを共有する事にこそ、遺骨収集の意義があると考える次第です。
この考え方を他の人々に押しつけるつもりはまったくありません。大切なのは、取り組むその意志を、形の見えるものにおくのか、見えないものにおくのかという点であると思えてなりません。
「遺骨収集」 という言葉自体に問題を含む可能性もありますね。
御遺骨に出会えるかどうかは運しだいであり、発見する事に執着過ぎると、遺骨収集の本質からはずれる恐れがあると強調したいです。
信心深い人ほど見つかる確率が高いなどという事もありませんし、なによりリーダーは、見つけられなかった人が肩身の狭い思いをしなければならない事態は、なんとしても避けなければなりません。
遺骨収集は、自分自身の善意を外部に向かって表明する為でなく、非業の死を遂げた御霊と悲しみを共有する事にこそ真の意義があるという点を強調したいと思いますね。
この微妙な感覚は、Sさんも摩文仁のジャングルに入れば、きっと容易に理解していただけるものと確信していますよ(^o^)。
とはいいましても、精神論だけで遺骨収集は語ることもできないのも事実ですよね。金光教の遺骨収集でも、そのへんの事情に違いはなく、見つければ素直に喜びを表現しますし、二日間まったく御遺骨に巡り会えなかったなら、解っていてもそれなりに落胆をして帰路につく事になります。
誰でも、せっかく遺骨収集に出かけるのなら、自ら御遺骨を発見し収集してきたいと思うのも人情ですよね。
決して私の自慢話として捉えてほしくないのですが、毎年遺骨収集に参加させていただいて、いつの頃からか私の遺骨発見率は、かなり向上していきました。もちろん、これは御遺骨のボリュームではなく頻度という意味です。
ただ漠然と毎年参加していたのではなく、経験の積み重ねや他の参加メンバーの体験談などから、多くの貴重な発見ノウハウを見いだしていったのです。
どの世界にもあるように、遺骨収集の場でもまた職人技が存在するのですよ。
体得した収集ノウハウの中には、言葉に置き換えるのが難しい微妙な部分がかなりあります。しかし、可能な限りより多くの御遺骨を発見する為の、重要なポイントを4点に絞り述べてみたいと思います。もちろん、この4点のほかにも多くの細やかな要件が絡むことはご承知おき下さいね。
1,遺骨収集に数多く参加する。
あまりにもあたりまえな話で恐縮ですが(^^;)、「誰でも最初は初心者だ」 という言葉もあります。最初から達人になれるはずもありません。さすがに、御遺骨は里山のキノコ狩りのように簡単に見つけることは出来ません。最も大切なことは、多く経験を積むという事につきますね。経験を積むことにより、ジャングルの地肌にほんのわずか露出している骨が、瞬時に目に飛び込んでくるようになるでしょう。
2,楽なコースを歩かない。
摩文仁之丘は、戦後数え切れないほどの団体が遺骨収集で入っています。つまり同じ場所を何度も何度も人が歩いて、何度も何度も捜索が行われているという訳です。そのような何度も何度も探し歩いた同じ場所を、これまた同じように歩いても、新たに御遺骨が発見される可能性はあまり無いと見るのが順当ですよね。
例えば、遺骨を捜すために前進しようとしている時に、目の前に三つのルートがあったとします。一つは、平らな歩きやすい草原が広がっている部分、二つめは大きな岩がゴロゴロとたくさん突き出ていて、簡単には前に進めない部分、三つ目は熱帯特有に植物が先が見えないほど茂っており、ホフク前進でしか前に進めないような歩行困難な部分の三種類のルートがあるとします。
ここでSさんに問うまでもなく、疲れてきたり体力に自信が無く、また無理の出来ない体調などであったなら、平らな歩きやすいルートを進みがちになるのは、よ~く理解できますよね(^^;)。
つまるところ、歩きやすい楽なコースはすでに誰かが歩いているとみて間違いはないでしょう。人の歩いた後をいくら一生懸命捜しても、発見できる可能性は低いと見なければなりません。
逆に言えば、人が歩けないようなルートを進めば、新たな発見につながる可能性が高い事を意味していますよね。
私はといえば、目の前に広がる楽なルートから歩行困難なルート複数の中で、あえて最も歩行困難な人が一度も歩いてないと思えるルートを進むようにしているのです。
このような歩きにくい所ばかり前進するのは本当に疲れますが、一方で御遺骨発見の可能性はかなり高くなる事はご理解していただけるものと思います。
3,逃げまどう日本兵や避難民になりきる。
沖縄戦では、気の遠くなるような膨大な弾薬が、沖縄の大地に降り注ぎました。鉄の暴風ともよばれるほどすさまじいものがあったようです。摩文仁のジャングルに入ってみると、艦砲射撃の巨大な破壊力に背筋が寒くなる思いがいたします。米軍は本島中部から沖縄を分断し、日に日に島尻へと戦線を前進させました。海岸線からはおびただしい数の戦艦から、艦砲射撃で岩盤もろとも破壊してきます。そんな摩文仁の地で、敗残兵は今日の命をつなぐため、安全な場所を求め岩陰や壕などに必死で逃げます。
一方、身の安全は確保されても、水と食料がなければ生きていかれません。摩文仁岳周辺は、井戸や湧き水が少ないことでも知られていましたが、何らかの方法でそれらを手に入れなければなりませんね…。逃避行ですから携行する量も限られ、まめに補給しなければなりません。
大切なのは日本兵や逃げまどう沖縄市民の心情になりきり、どの場所で艦砲射撃を避け、どのようにして今日の食料や水を確保するか…。 目の前の地形を見ながら、ただ今爆撃があったらどこに逃げ込むか…。
つまるところ、時代を沖縄戦の渦中にタイムスリップし、自身が戦場の日本兵などになりきって、目の前に展開する地形を読むという事が大切です。
自分が逃げ込みたいと思った場所…。そこに御遺骨が散乱している可能性がありますよ。
4,終戦当時の地形をイメージする。
私のホームページに『御遺骨発見現場の様子』というコーナーがありますね。Sさんもお読みになったと思いますが、縦穴壕の底部に横穴があるという事を、私が発見してあの多くの御遺骨の発見につながったのでした。あの多量の御遺骨を前にして、金光教の幹部の方は、「この御遺骨は中澤さんだから発見できた」 といって頂きました。確かに、あらゆる団体が捜索に入っている摩文仁で、あれだけまとまった御遺骨が発見されたのは、今となっては非情に希なことなのです。
解説文にありますように、戦後60年経過して、縦穴壕であるが故に多量の落ち葉や土砂が流れ込んでいました。遺骨収集で大切なのは、終戦時の地形はどのようであったかを推測することが大切なのです。
「この土砂は戦後堆積したものに違いない」と推測したからこそ、わずかに見えていた横穴に注目する事が出来たのです。
終戦時の摩文仁之丘は、激しい艦砲射撃により、樹木はなぎ倒され、岩盤がむき出しとなり、摩文仁一帯は白く見えたそうです。
戦後米軍により樹木や植物の種を空中散布したために、現在のようなジャングルとなったようですが、遺骨収集に際し、樹木は砲爆撃で四散し、また焼き払われてほとんど無かったとイメージする事も大切です。
戦後60年経過しているのです。現在繁茂する植物はもちろん、長年堆積した落ち葉なども、取り払った地形をイメージして当時の表層面を推測しなければなりません。
心情的に、どうしても大きな木が茂っていたり、植物が茂っていたりすると、前進しにくいので避けてしまいがちです(^^;)。
前にも記しましたように、そのような所こそ、人が入っていないが故に発見率は高まるのです。いかがでしたでしょうか?。発見率を高めるポイントを、4点ほど紹介させて頂きました。
摩文仁岳南斜面で遺骨収集を開始
打ち合わせどおり、朝8時30分平和祈念公園駐車場に参集し、全員が紹介し合うことが出来ました(^o^)。リーダー格のSさんを除き、初めてお会いする方々です。
私を除いて、一番上は27歳で、一番下は18歳です。若いですよね~。こんな若い人々が、遺骨収集に関心を持ち、自らの意志でやってきて、今にこうして摩文仁の地に立っている…。彼らの行動力に心から敬意を表したいと思いますね。
縁というものの不思議さに改めて感謝しながら、彼らにとっては勿論、私にとっても実り多い一日でありますようにと心から願いました。事前に装備品リストに入れておきましたが、「笛を持ってきていますか?」とか、安全確保のための装備品や服装の最終チェックをしまして、問題ないことを確認して、私達は摩文仁山上に向け移動を開始しました。
私は彼らをまず『国立沖縄戦没者墓苑』に案内しました。『国立沖縄戦没者墓苑』は、「戦没者中央納骨所」を引き継ぎ、昭和54年に創建されましたが、御遺骨がその後も納骨され続けたことから手狭となり、納骨堂は昭和60年に増設され現在の姿となりました。
納骨堂は、沖縄産の琉球トラバーチン1千個を古来の技法を用い、琉球王家の墓を模して作られていて、現在本墓苑には18万余柱の御遺骨が納骨されています。
各種団体が遺骨収集で集めた御遺骨は、年度末にまとめて焼骨し、この『国立沖縄戦没者墓苑』に納骨されます。私達は横一列に並び、思い思いに手を合わせて御祈念を行いました。全員が御祈念を終えたところで、墓苑の端部に異動し、私が簡単なご挨拶と今日一日安全に作業を終える為の注意点などを、少しお話ししました。
国立戦没者墓苑
私達5人の遺骨収集活動は、国立戦没者墓苑で献花することから始まりました。
そしていよいよ墓苑南側より、ジャングルに入っていきました。最初の30メートルぐらいは、かなり草木が茂っており、前進するのに難儀しますが、この部分を越えると岩山ではありますが、歩きやすい部分に出てまいります。
私はここから100メートル程先にある壕に皆を案内することにしていました。もっとも100メートルといっても、ジャングルのこの場所は、移動するだけでもかなりの時間がかかります。
そこは、2年前に遺骨収集に来て、御遺骨が見つかった場所なのですが、午後に発見されたため、捜索完了と宣言できるまで緻密に遺骨を探しきれていないのです。
新たに発見することはないかもしれませんが、一方でまだまだ出てくるかもしれないと思えたのです。
初参加の彼らにも、まず御遺骨がどの様な姿をしているのかを知ってもらうためのも、出来るだけ早く御遺骨を発見する必要があったのです。
ここいらあたりは、かなり入り組んだ構造をしています。一度入ったぐらいでは、とてもこの付近の複雑な構造は把握できないでしょう。
150メートル程先に進めば、ここ摩文仁岳でも最も規模の大きい守備軍の陣地が構築されていた所に出ます。ですから、今から私達が探す壕も、当時はかなりの戦死者が出たものと思われます。
当然の事ながら、この辺はあらゆる遺骨収集団が繰り返し入っています。ですから、他の遺骨収集団とおなじ目線で探しても、見つかることはあまり期待できないでしょう。
前回発見したときもそうですが、艦砲射撃により破壊された巨岩が複雑に入りくんでいる壕内を、危険もいとわず深くそしてサーカス団のような姿勢で、壕奥深くに潜り込んだのです。
通路が複雑であることから、予想以上に時間がかかりましたが、目指す壕前まで無事に到達しました(^o^)。しかし彼らは度肝を抜かれたことでしょう。ここに至るまでにすでに、今まで経験したことのない難ルートを危険と隣り合わせで進んできたからです(^^;)。
巨大な岩陰などを進んで太平洋の見える断崖に出てきました。午前中はここを拠点に活動するので、ここに荷物をまとめて置いておきましょうと話しました。
さあ、いよいよ遺骨収集の開始です!。壕内は手を滑らせれば、7メートル以上落下してしまうような、縦穴となっている危険な場所ですので「慌ててはいけませんよ。移動は必ず自分のペースで!」と伝えて、皆で順次壕内を下に降りていきました。
私達が降りていった様子を、例えばビデオでご紹介出来るなら、その映像を見た人達は一様に驚嘆の声を上げずにはいられないでしょう。
それぐらい複雑に入り組んだ複雑な壕内を移動していくのです。
御遺骨を発見(^o^)
目的の場所に降り立つ前の段階で、私の目の前に御遺骨があるのを発見しました(^o^)。まとまった数はありませんが、脊髄骨などが数個散見されます。石鹸箱のフタも見えますね。
この発見場所よりも上で死亡し、死後御遺骨がパラパラと隙間から下に落ちていった…。その一部が、岩陰に引っかかって止まった…。そのような状況が推測されます。
でもこんなに早く御遺骨を発見できて嬉しかったです。彼らになによりも早く、実際の御遺骨を見てもらいたかったですからね。
私は、手をつけないままの状況を見てもらうことにしました。若者4人が、順番に御遺骨を見ました。中には最後に手を合わせる人もいましたね。
今こうして目の前に御遺骨がある!。それは摩文仁での戦いの最中、悲しくも戦死した一人の兵士が居たのだと!…。
場所が非常に狭いので、遺骨を収集するのは私が行いましたが、遺骨を拠点に移動するのは皆の手で行いました。30分ほど収集作業をして、全ての御遺骨の収集を終えたと判断したので、私達はまた壕の底部に到達するために、壕内を降下していきました。
かなり深いこの壕底部に、私は2年ぶりに到達しましたが、前回は多くの御遺骨が出てきました。早速、二年前の続きの作業をする為に、一緒に降りたもうメンバーに指示を出し、作業の進め方を説明しました。
この壕は、激しい艦砲射撃で巨岩が幾重にも割れて入り組んでいます。私達は持ち上げられる石はすべて一度移動して、御遺骨を探しながら前進していきました。
しばらくするとやはり、小さい指の骨などが出てきましたね(^o^)。探す人、石を移動したり投げ飛ばす人と枠割りを分担しながら、作業を進めました。
大きな骨は前回収骨しましたのでほとんどありませんが、細かい骨は結構出てきました。
私は徹底的に探そうと思っていたので、複雑に入り組んだ岩の間を縫うように移動しながら、前進していくと、思いもよらず海岸の見える所に出てしまいました。
ここは一昨日通った場所に近く、一段上の場所に出ていました。驚きましたね~(^o^)。この場所は建物で言えば3階建ての建物のように、壕が階層をなしていたのでした。
また新たな発見をしたような気分です(^o^)。今私が歩んできたルートは、誰も歩いたことのないルートでした。誰も歩んでないルートこそ、御遺骨の発見につながるのです。
今回の新規のルートに御遺骨はありませんでしたが、このような回数が多ければ多いほど発見率は高まるというものですよ(^o^)。
予定した壕底部での作業も、探し尽くしたであろうと推測し、引き上げることにしました。
リュックを降ろした拠点に、白布を敷いて御遺骨を置いてあります。
しばらくは、御遺骨や遺品を見つめながら、当時の状況に思いを馳せて、思い思いに感想や意見を述べ合いました。
御遺骨発見!
壕内は巨岩が積み重なり複雑な構造となっています。深さは6メートル程度。壕底部には降りず横に入っていきます。砲撃による落石でかなり複雑な構造をしています。
狭い隙間から新たなルートを発見! 新ルートの発見は遺骨発見の可能性を高めます。
壕内では慎重に歩みをすすめます。特に頭に注意。慌てると痛い思いを…。(^^;)
底部の土や岩石を除けて御遺骨を探します。
一昨年はここで御遺骨が発見されました。探索を続けるNさんです。
軍靴の一部が見えます。上から落ちてくる土砂に埋もれています。
脊椎が数個散見されます。軍靴の一部や緑色した石鹸箱も見えますね。
御遺骨に向かい皆で手を合わせて、思い思いに御祈念をしたのち、私が 「黙とう」 と声を掛けました。
黙とうを終えると、献歌として『海ゆかば』と、『ふるさと』の歌を歌いましょうと提案しました。
するとSさんから「出来れば『君が代』も歌ってやりたいのですが…。」という提案があったので、『君が代』を含めた三曲を歌うことにしたのです。
まずは『君が代』を歌いました。
すでに戦争は終わっているのです。慌てる必要もありません。私はできる限りスローテンポで、じっくり歌ってやるように務めました…。
目の前にある御遺骨の兵士は、日本軍の兵隊として、私達を守るために命をなげうって戦ってくれたのです。
今こうして歌うことでしか慰霊の気持ちを表出できない私達ではありますが、感恩報謝の心を込めて歌いました…。
続いて『海ゆかば』を歌いました。
この歌は若い人たちは歌えないだろうなと思っていたら、なんとSさんは歌えると言います(^o^)。それは素晴らしい!、それでは一緒に歌いましょうという事になりました。
『海ゆかば』
海ゆかば 水漬く屍
山ゆかば 草むす屍
大君の辺にこそ死なめ
かえりみはせじ
『海ゆかば』の歌詞は万葉後期の歌人「大友家持」の和歌です。
作曲家「信時 潔(きよし)」氏[1887(明治20年)-1965(昭和40年)]により、昭和12年に国民唱歌として作曲されました。
ちなみに作曲依頼はNHKであり、大日本帝国海軍などではありませんでした。また、大日本帝国海軍の将官礼式用儀制曲『海ゆかば』とは同名異曲という事になります。
『海ゆかば』は、『君が代』と同じように荘重な旋律が特徴ですが、公の為の自己犠牲への決意を静かに表明している歌ですよね。
非常事態の時には、「国家や国民の為に自らの生命を投げ打ってまでも守る」 という極限の思いやりを歌に託したといえるでしょう。
慰霊の歌として最も相応しい曲であると、前々から考えてしました。
目の前にある御遺骨も、明らかに日本軍兵士の御遺骨に間違い有りません。『海ゆかば』の曲を聴いて、少しでも御霊が安らぎを得ていただいたなら、これに勝る思いはございません…。
すでに戦争は終わっているのです。出来る限りゆったりと歌うように心がけました。
最後は『故郷(ふるさと)』の歌を全員で歌いました。
『故郷(ふるさと)』
1 兎追いしかの山
小鮒(こぶな)釣りしかの川
夢は今もめぐりて 忘れがたき故郷
2 如何(いか)にいます父母
恙(つつが)なしや友がき
雨に風につけても 思い出ずる故郷
3 こころざしを はたして
いつの日にか帰らん
山はあおき故郷 水は清き故郷
文部省唱歌(六年)『故郷(ふるさと)』は、作詞高野辰之氏、作曲岡野貞一氏による名曲ですよね。
主催が「金光教沖縄遺骨収集運営委員会」であった時には、最終日の慰霊祭でこの『ふるさと』の歌をよく歌いました。
生きて帰りたかった避難民や日本兵の心情を思うときに…。ほとんどの参加者が、堪えることを忘れ涙ながらに歌っていましたね。
無事に三曲を歌い終え、私達なりの慰霊が出来たと安堵しました(^o^)。
線香・ロウソク、御菓子などを手向け、歌を歌ったりして私達なりに慰霊しました。
午後の探索開始
お昼ご飯を食べ終え、少し食休みしてから、私達は移動を開始しました。
まずは100メートル以上続く壕内の移動から始まりました。
この一帯は壕が複数存在し、また岩割れといいますか、陣地を構築するのに便利なルートが海岸線に沿って走っています。ですから、この一帯は日本軍の最重要拠点であったことに間違いは無いと思われますね。
それだけに、相当激しい空爆を受けたと想像できます。私達が午前中作業した場所も、巨岩がいくつも割れて、壕内をより複雑にしていました。
砲撃で破壊された巨岩をかいくぐり、狭いルートですが懐中電灯を照らしながら壕奥深く下っていきました。
この複雑かつ長大な壕は、人間が入るだけならば500人は入れると思われる巨大な壕です。天井も高く、そして出入り口は左右に一カ所ずつ、上部に一カ所あり、摩文仁岳では最も巨大な壕といえるでしょう。
初参加の彼らには、度肝を抜かれるほどの、衝撃的な体験をしているのではないでしょうか。時折遺品も目に飛び込んできますので、まさに戦場の陣地を思わせます。
30分以上経過して壕を抜け出し、やっと崖下に出て日を浴びることが出来ました。やはり、外に出てみるとホッとしますよね(^^;)。
壕を出ると、彼らも驚きの体験と安心感からか、急に口数が多くなりました(^^)。ベテランである私も同じです。やはりホッとしました(^^)。
私はここが崖下であること、海岸にはもう少しで到達することなどを話し、午後はここいら一帯で捜索する旨伝えました。
同時に他の人の気配を感じ取れる範囲で皆が行動するようにしなければならないし、もちろん、壕に入る場合は、誰かに入る旨伝えてから入るようにしなければならないし、砲弾や手榴弾を見つけたら触ってはいけない等々注意事項も話しました。
ここからは、いわゆるジャングル内で遺骨を探すことになります。ある程度前進したら、それぞれ分散して探すことにしました。
1時間ほど探索してみると、予想通り遺品がたくさん出てきました。九九式歩兵銃のカセットに充填された銃弾が多数見つかりましたし、艦砲の不発弾も目にしました。
御遺骨はすでに収骨されたケースが多いのではないかと思われます。収骨作業をしたと思われるような形跡が随所に見られました。
一方で人が入ったことのない壕も複数発見することが出来ました。印象的だったのは、人がやっと入れるぐらいの壕入り口がありましたので、何とか身を入れることが出来たので、壕の底部に降りてみました。
4メートルほど下に降りましたら、錆び付いた空き缶がたくさんありましたね。開封済みと未開封の缶が同じぐらいあったでしょうか。
また手榴弾も一個地表面に見えました。
人が入った形跡がないので、慎重に懐中電灯で照らしながら、遺骨を探し求めました。これほどたくさんの空き缶があるのは初めて見ましたが、缶を開けたものとそうでないものとが混在しており、食糧を残したまま他の場所に移動したものと思われます。
ここは日本軍拠点のすぐ横の地域ですので、民間人が入り込むのはかなり厳しいと思いますね。実際軍靴など日本兵のものと思われ備品や銃弾、手榴弾、そして艦砲の不発弾などいろんなものを発見することが出来ました。
これらの発見物は、初参加の彼らにも全て見せました。たこつぼと呼べそうな小規模の壕内にも出来るだけ入ってもらいました。彼らは、紛れもなくここが戦場だったのだと衝撃的に感じたことでしょう。
また海岸へと誘導し、海岸線の巨大な岩間も体験してもらいました。この時節の午後は引き潮となっており、巨岩の合間をかいくぐって海面を歩けるようにもなります。
当時は、この海岸ぎりぎりの部分にも大勢の避難民が逃げ込んだといわれていますが、台風などの荒波に洗われたのか、今まで海岸線で御遺骨を発見したというケースはありませんね。
この午後の捜索では、御遺骨の発見はありませんでしたが、初参加の彼らには、砲弾や日本兵の遺品を目の当たりにし、遺骨収集の困難さと共に、沖縄戦そのものを追体験して頂けたのではないかと思います。
巨大な壕と日本兵の遺留品・砲弾など
摩文仁最大級の日本軍の軍事拠点!です。長さ100メートルぐらい、500人は収容できそうな巨大な空間です。
飲料水を汲み置きした場所と思われます。当時は向かいの岩から泉が滴り落ちていたのかもしれません。
巨大な壕を出ると、今度はジャングルが待っていました。もう少し前進します。
このあたりからは靴底などの遺品がたくさん出てきました。
壕内を探索するNさん。手榴弾や缶詰などの遺品にビックリしたようです。
入り口の狭い壕でしたが、壕の底部には手榴弾もありました。
壕内にはたくさんの空き缶が散乱していました。
壕内には御遺骨は無く、無事に脱出していったようです。
よく見て下さい。日本軍の小銃の銃弾が見えますね。
この近くで九九式歩兵銃のカセットに装填された銃弾が多数見つかりました。雨水にあたりながらも、磨けばまだ発射できそうなレベルです。
この機関銃の部品は日本軍のもの?それとも米軍のものかな?。
腐ったヘチマではありませんよ(^^;)、米軍艦砲の不発弾です。置いたタバコの箱と比較してその大きさが解りますね。
来た道と同じルートで、巨大な壕内を今度は上って帰ります。
3時の小休止をはさみ、遺骨の探索は午後5時半まで続けました。知らない場所ならば、もっと早い時間に撤収を開始しないと、日没前に下山出来なくなる恐れがありますが、帰りのルートは解っていますので、この時刻まで探察を続けました。
午後5時半に帰路につき、30分程経過して6時過ぎに、道に迷うことなく平和祈念公園に到達できました。日没時刻の遅い沖縄でも、すでに暗くなり始めていましたね。
5人で夕食を共にしました
駐車場で汗にまみれた服を着替えて、私達は車で10分ほど進んだところにある食堂『よりたけ亭』で晩ご飯を食べることにしました。
この食堂は、観光客向けでなく地元の住民が利用するお店のようで、いろんな沖縄料理のメニューがありました。皆で思い思いに食べたいものを注文して、お腹いっぱい食べました。
疲れた体ですからね。本当に食事が美味しかったですし、食べ終えるころには明日への活力が沸き上がってきました。
食事の前に「ここでの食費は妻がプレゼンとしてくれましたよ」と伝えてあります。遠慮しないで、お腹いっぱい食べて下さいねと。
妻は若い人たちが自らの意志で遺骨収集に参加することに感激し 「一緒に夕食を食べてね」 と、食事の費用をカンパしてくれました。妻から若き4人組への “激励と感謝のメッセージ” が記載された封筒には、食費2万円が入っていました~。ありがとさ~ん。
という訳で、私も含め皆で遠慮なくお腹いっぱい食べることが出来ました~。初めて本格的な遺骨収集を体験した感想なども、若い人たちから聞きながら、ワイワイと賑やかに食事をいただきました。
今日一日お疲れ様! 私達は美味しい沖縄料理をたくさん頂きました。