平成17年(2005年)沖縄遺骨収集奉仕活動
- 2月18日(金)南部戦跡の慰霊碑・慰霊塔を巡拝
- 2月19日(土)第32回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
- 2月20日(日)第32回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
2月20日(日) 第32回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
今朝は5時に起床しました。早めに起きて今日の天気を把握し、昨日撮影できなかったひめゆりの塔の撮影の可能性を探ることにしたのです。雨が降っていないことを期待してホテルの外に出てみたのですが、昨日に続き雨が降っていました。
そもそも朝から夕方まで終日雨が降っていたという状況は、20年来沖縄に通いつめて初めての経験でしたね。今年になってから、関東平野はもちろん日本列島全体が例年以上の雨や雪が降っています。ここ沖縄も同じ天候が続いています。沖縄の人が驚くほど今年は雨が多いと語っていましたね。
雨は降っているもののひどい雨ではないので、今朝もとりあえずひめゆりの塔に早めに到着し、到着した時点で撮影するかどうかの判断をすることにしました。今朝はホテルでの朝食を食べてから出発することにしました。時間的にはそのように行動しても十分に時間は確保されます。
昨日はホテル朝食を、サンドイッチに変えてもらいましたが、朝食バイキングとの落差があまりにも大きく、遺骨収集でしっかり行動するためにも、朝から栄養のある食事をしっかりやっておこうという気持ちに変わりました。バイキング形式の食事は大好きなので、今朝もかなり豪華に食べましたよ。そして7時に摩文仁を目指してホテルを出発しました。
ワイパーの動きからも、今朝は比較的雨脚が弱いことがわかります。短時間なら傘無しでも撮影できると確信し、ラストチャンスでもある今朝はひめゆりの塔で撮影をしてみることにしました。なにしろ、日中のひめゆりの塔はかなりの人混みとなるのが通例で、とてもゆったりと撮影できる状況にありませんからね。撮影と共に、ひとりだけで静かに壕の周辺などを散策し、当時学徒らが隠れていた時に思いを馳せてみたいと常々考えていました。
雨で車の通行も少なめなのか、あっという間にひめゆりの塔前に到着しました。撮影機材を準備して慰霊塔前に向かっていきました。ひめゆり学徒隊などが看護業務を行っていたこの豪周辺は、比較的平地であり縦穴壕という事もあり、比較的早い時期に敵軍の偵察機などに発見されてしまったのではないかと推測されます。
今は静かにたたずんでいる、この小さな縦穴壕も当時米軍のガス弾攻撃を受けたときには、壕内部では悲惨な叫び声とうめき声などが悲しい響きとなって大地までこだましたに違いありません…。
沖縄で慰霊塔巡りをしていますと、多大な犠牲者を出した壕などのすぐ横に慰霊塔を建立するというパターンもよく見かけます。私はそのような場所では、慰霊の気持ちを捧げるとともに、心静かにして当時の悲惨な戦況に思いを馳せ、彼ら彼女らの悲惨な結末を出来る限り共有するように努めています。
撮影も終了し、雨のなか傘を差して壕の周辺を散策したりしながら、静かなひとときを過ごしましたが、集合時刻も少しずつ迫ってきているので、後ろ髪を引かれつつもカメラを担いで駐車場に向かっていきますと、団体観光客とすれ違いました。 ラッキーでした。もう少し遅く到着していたら、静かな雰囲気の中での散策はできませんでしたね。
集合場所へはゆとりを持って到着しました。今朝も昨日に続き雨模様ですが、集まっている人たちは一年ぶりに参集したという熱き思いが強いのか、雨の中テキパキとそれぞれが準備を進めています。
いつも通り朝の御祈念を終えた後、那覇教会のH先生が班ごとの収集地域などの説明に入りました。昨日の続きをする班もありますが、私たちの班も含め三つの班が具志頭(グシカミ・グシチャン)の海岸線を探索する事になりました。H先生の解説によりますと、沖縄戦の時の沖縄県知事は島田氏ですが、島田氏の御遺骨はいまだ発見されていないそうです。
沖縄戦生存者などの証言などから次のような経過までは判っているようです。島田知事は6月19日に摩文仁の軍司令部の壕(現在の黎明の塔の建っているすぐ下のところにあります)に挨拶に訪れています。おそらくお別れの挨拶だと思われますが、現在それ以降の消息が解っていません。
ただ、それ以降島田知事と思われる人物を具志頭の海岸線で見つけ言葉を交わしたという日本兵で、沖縄戦を生き延びた方がいます。その日本兵の語るところによると、島田知事が具志頭の海岸線から数十メートル入ったところの岩陰で腰を下ろしているところに、偶然日本兵が遭遇したとの事です。
島田知事は日本兵に次のように語ったと言います。「私は沖縄県知事の島田です。私は疲れ果て動けなくなりました。私が持っている黒砂糖は必要なくなったので、あなたにあげます…。」などと語ったというのです。知事の横には短銃が置かれていたそうです。日本兵は、黒砂糖を受け取りその場を離れたと言います。それ以降島田知事の消息は一切不明のようです。
この話は、黒砂糖を受け取った日本兵が戦後、島田知事と遭遇した場所を探しに具志頭の海岸線を探し回ったそうですが、激しい艦砲射撃などで地形がかなり変わっていて、結局その場所は探せなかったと言います。H先生は、出来れば個人的にも島田知事の御遺骨を探し出したいとの思いが強いと語っていました…。
H先生の解説も終わり、私たちは乗用車に分乗して具志頭の海岸目指して車は発進しました。20分も経ずに海岸の駐車場に到着しました。 海の方に目をやりますと、今は引き潮の時なのか、かなり沖合までゴツゴツした岩などが連なっていました。
海岸には砂浜がわずかな幅であり、すぐに断崖とよべるような岩肌の斜面が数十メートルかいや百メートル以上は急な岩肌が続いているようです。山肌は中低木の木々に覆われていますが、戦時中はどのような山肌だったのでしょうか。ここ具志頭の海岸線も沖合からの艦船から激しい艦砲射撃が浴びせられたと言われています。
今は静かな遠浅の海岸線には巨岩がゴロゴロしており独特の景観です。
今日の探索地域の山肌に向かって朝の御祈念をしました。
車から降りて身支度の最終チェックなどをしていると、すぐ横に地元の方2人が乗った乗用車が停車していましたが、私に声をかけてきました。「そのような格好で何を始めるんですか?」と質問してきました。私は「これからこの山に入って遺骨収集をするんですよ」と答えました。「ここいら一帯の山に何度も入っているが、遺骨がいっぱいあるよ」。「本当ですか?もっと詳しく教えていただけますでしょうか…。」
班長を呼んで詳しく状況を聞くことになりました。そして色々と御遺骨のある場所などの情報を語ってくれました。
この海岸線で御遺骨を見たという地元の人の説明を聞いています。
しかし、沖縄の言葉も含まれており、今ひとつコミュニケーションがとれません。現地の人はしばらく語り続けましたが、私たちが中々理解してくれないと悟ったのか、私が案内しましょうと語りました。そして、とうとう彼を先頭に二百メートルほど道路を歩いて進み、この辺の崖下に御遺骨があるよと語りました。
私たちは、丁重に感謝の言葉を述べました。彼らは、夜の仕事をしており仕事を終えて、海岸でしばし休憩をしていたとのことですから、貴重な時間を私たちに提供してくれたのですからね。情報提供していただいた海岸縁を探索した結果は、彼らが見つけたという御遺骨は、沖縄では古くから行われていた風葬という儀式により葬られた、昔の御遺骨である事が判りました。
ここいら一帯に結構風葬として御遺骨を葬っている場所が結構目につきました。戦時中は、風葬の壕などに日本兵や県民が隠れて避難していたという事もあり、米軍の攻撃対象となってほとんどが、何らかの攻撃を受け破壊されてしまいました。風葬の御遺骨は、大きな瀬戸物で出来た容器に入れていたものですから、そのほとんどが破壊され砕かれた為に、御遺骨は四散してしまったケースも多いです。
風葬の場所がたくさんあるこの地域を探索していると、一カ所の風葬の場所で、明らかに風葬の御遺骨とは別の、沖縄戦で亡くなられたと思われる御遺骨が、ある事が判りました。御遺骨は、風葬の御遺骨と混在している状況でした。このパターンはよくあるケースです。風葬の場所に逃げ込んで、攻撃を受けその場所で亡くなられた…。一般的に風葬の御遺骨と沖縄戦で亡くなられた人々の御遺骨とは、ほとんど例外なく分別できます。同じ人骨でも色や艶、肌触りに大きな違いが見られます。
その場所は数人で引き続き収骨することになり、私たちは思い思いにあちこちを探索して回りました。
白く見える御遺骨は今も残る『風葬』により埋葬されたものです。瓶が見えますが戦前のもので割れずに残っているのは非常に珍しいですね。
この海岸沿いの岩場は大きな岩などが連なり複雑な隙間を作り出しており、人が隠れられる空間は無数にありました。私たちはその隙間のひとつひとつライトを照らしながら、御遺骨を探し求め前進していきました。
私は目の前に大きな黒い固まりがあることに気づきました。それは艦砲により発射されたと思われる巨大な弾丸の一部でした。かなり錆びついていますが砲弾の形をとどめ、直径は15センチ以上はあったであろうと推測できるレベルです。このような巨大な破壊力を持つ砲弾がこれでもかと言うほど、この海岸線の断崖に打ち込まれたと思うと…。そしておびただしい人々がそれにより傷つき死んでいったと思うと…。
今日はすでに手榴弾も一個発見しました。ここ具志頭では、この地で激戦が展開された事を明らかにする遺品は、今でも数多く目にすることができます。
海岸線には隠れるのにはもってこいの壕が無数にありました。
艦船から発射された大きな砲弾の一部です(白いゴミ袋に広げています)。
手榴弾も何個か見つかりました。その他兵隊さんの遺品もありました。
皆でかなり広範囲の探索を行いましたが、風葬の場所から発見された御遺骨以外は発見されなかったようです。昼食をとる時刻となって参りましたので探索をやめ、駐車場横にあるテラスのような場所で食事をすることになりました。食事をしていると野良猫が数匹よってきました。朝の時点で気づいていましたが、かなりの数の野良猫がいるようです。ガリガリにやせている風でもなく、海岸に遊びに来た人たちから餌などをある程度もらっているのだなと感じました。
いずれにしても、とても寒い思いをしながら昼食を食べ続けました(^^;)。これほど寒い日中は初めての経験だと思います。今年の冬は全国的にかつてない厳しい寒さが続いており、温暖な沖縄も例外ではありませんでした。動いた方が暖かいのではないかという事で、早々と午後の探索を開始することにしました。午前中とは反対側を探索することになりました。
海岸の砂地を歩いて進みました。砂地のすぐ境目にある大きな岩陰に弾丸などがたくさん残っているのを、先頭を歩いていた人が発見しました。砂地の一角に、爆弾の内部に詰め込まれている無数の鉄の玉が、不発だったようで砂地に固まって錆び付いていました。
おびただしい数の鉄玉ですが、おそらくひとつの砲弾に入っていたものでしょう。これら鉄玉は着弾とともに四方八方に人を殺すべく飛んでいきます。最初に落下した爆弾の直撃を避けられたとして、次にはこの無数の鉄玉がものすごいスピードで襲いかかってきます。岩陰に隠れていても、鉄玉が岩から跳ね返って襲いかかってくる可能性も高いです。
実際にこの爆弾がたくさんの人々がいる所に着弾したなら、ことごとく人々を殺戮し地獄の世界へと瞬時に導くでしょう。とても非人間的な殺戮爆弾だと感じました。このような爆弾がおびただしい数の弾丸が、米艦船から発射されたのです。どれぐらい凄い威力かを示す格好の展示物がすぐ近くにありました。写真をご覧ください。個々の鉄玉が岩に食い込んでいます。この鉄玉は、現在は錆びていますがこの岩陰に無数の箇所突き刺さっています。
不発弾のようです 爆発と同時に四散すべき小さい弾丸がたくさん見られます。
弾丸が岩肌にめり込んでいます 凄い貫通能力を感じました。
突き刺さった鉄玉を抜こうと試みましたが、錆びていることもあり容易に抜き取れるものではありませんでした。このような鉄玉が散弾銃から発射される鉄玉のように、無数自分に向かって飛んでくることを想像すると…。戦争とは非情な殺し合いなのだなと改めて認識させられます。
それにしても、この具志頭の海岸線は隠れるのに都合のよい壕が無数にありました。私たちはそのほとんどをくまなく探索して進みました。
中にはロープを使わないと降りられないレベルの縦穴壕もありましたが、沖縄在住のアメリカ人であるロンさん親子が、率先して捜索困難な壕に対しアプローチするので、私たちが出会った全ての壕を探索して進む事が出来ました。
明らかに日本軍の陣地を構築した形跡が残る岩陰です。
話がそれますが、ロンさん親子の遺骨収集に対する真摯な行動力には心から感心します。ロンさんのお父さんの方は、すでに15年以上にわたって翁を遺骨収集に参加しているはずです。沖縄で会社を持っている実業家という話ですから、軍人軍属ではないようです。彼らなりの思い入れがあって、この沖縄遺骨収集奉仕に参加されているのでしょうが、その思い入れの全てが行動に表れているので、私たちも彼らに心から敬意を払いたくなってしまいます。
話を戻しまして…。
本日の遺骨収集もまもなく終了するという頃に、わずかではありますが御遺骨が発見されました。高さ60センチほどで広さは畳2畳程度の空間のある壕でしたが、明らかに過去遺骨収集が為され、その取りこぼしの御遺骨と思われますが、金光教の遺骨収集はより細かい御遺骨を収集する方針ですから、ここでも再度徹底的に収集する事にしました。
兵隊さんの軍靴などの一部もけっこう見受けられます。明らかにここで亡くなられた兵隊さんがいた事は間違いありません。細かい骨が少しずつ発見されます。班長が、同じ班員として同行している小学生二人に、見せてやってほしいとの申し出があり、壕内で大人二人が作業していましたが、小学生二人を招き入れました。
軍靴などの遺留品を見せ、遺留品から導き出される推理などを交えて、考えられる当時の戦時状況などを話してやりました。彼ら彼女らも一生懸命土砂をかき分け、何個かの脊髄の骨などを発見しました。
穴蔵に潜り込みながら、砂まみれになりながら…。懐中電灯で遺骨を探す…。教室で開く教科書では得られない貴重な体験に、彼らも戦争の本質を垣間見たと心に留めてもらったらすばらしい事ですね。
雨で泥んこになりながらの作業でした。全身泥だらけです。
各地に散って遺骨収集を二日間にわたって続けた各班員も、三々五々本部テント前にかえって参りました。沖縄在住のご婦人方が湯茶の接待を毎年行ってくれています。今年ほど寒い遺骨収集の時は無かったので、帰着してからの暖かいお茶やサーターアンダギー、黒砂糖などは心も体も温めてくれます。
今年の遺骨収集を総括すれば、遺骨そのものは多く発見する事は出来ませんでした。雨によりジャングルを歩き回る事の困難さが拍車をかけて、私たちの集中力を低下させた可能性もありますが、参加された皆さんは本当に二日間寸暇を惜しんで奉仕活動に取り組みました。
私たちが手に持つクマデのひと掻きひと掻きが大地の清めにつながると思えてなりません。私たちは遺骨を探すことを目的としていますが、沖縄戦で亡くなった御霊様と痛みを共有するという目的もまた併せ持つのです。具志頭の無数にある壕に住まう御霊様も、私たちが探索に来てくれたことをきっと喜んでいてくれると確信し、また来年も必ず参りますからねと沖縄の大地に向かって語りかけました…。