平成28年(2016年)沖縄遺骨収集奉仕活動

2月16日(火) 金光教遺骨収集の為のルート整備

本日の天気予報は、曇りのち晴れで最高気温14度の予報です。昨日と同じく沖縄としてはかなり冷え込むというレベルです。降水確率は10%という事で、雨の心配は不要という事になりそうですね。

「伊原第一外科壕」

2016年2月16日/遺骨収集の様子 NO.1

「ひめゆりの塔」から国道を200メートルぐらいのところに、写真のような石の標識があります。横道は農道になっていますがおよそ150メートルぐらい進むと左手「伊原第一外科壕」が見えてきますよ。

2016年2月16日/遺骨収集の様子 NO.2

「伊原第一外科壕」に到着しました。沖縄戦当時は壕の上には樹木などは無かったと推測されますから、そうした視点で壕を俯瞰してみますと、かなり大きい縦穴に見えますね。穴を偽装するなどと言う事は不可能だと思えます。米軍飛行機からもよく見えたでしょうね。

2016年2月16日/遺骨収集の様子 NO.3

達筆すぎて少し解りにくいのですが、文字化してみました。一部間違えているかもです。

【慰霊碑碑文】

ここは陸軍病院第一外科及び糸数分室所属の軍医看護婦、沖縄師範学校女子部、沖縄県立第一高等女学校職員生の徒のいた壕である。

米軍の迫まる1945年6月18日夜、軍より学徒隊は解散を命ぜられて、弾雨の中をさまよい照屋秀夫教授以下多くはついに消息をたった。軍医、看護婦患者も同じく死線を行く生死わかれの地点である。

ここで負傷戦没した生徒。

古波蔵満子、荻堂ウタ子、牧志鶴子、石川清子、浜元春子、知念芳、神田幸子、比嘉ヨシ、照屋貞子。

藤野憲夫沖縄県立第一中学校長もここで最後を遂げられた。謹んで記して御冥福を祈り平和を祈願する。

1974年6月 ひめゆり同窓会 

2016年2月16日/遺骨収集の様子 NO.4

「伊原第一外科壕」に慰霊に訪れた方は、この場で手を合わせる方が多いのでしょうね。「ひめゆりの塔」の賑わいからすれば、ここはとても寂しい雰囲気ですが、通路の踏み具合とか、この場の路面状況などを観察しますと、それなりの人たちが慰霊に訪れているというのが見えて、ややほっとした心境になりました。

2016年2月16日/遺骨収集の様子 NO.5

昨年は入り口まで水が貯まっていましたが、今年は降雨量が少ないのか、壕内部の様子を観察することができました。あと2メートルぐらい降りていきたいところですが、滑りやすくなっているので革靴では危険と判断し、この場所での撮影となりました。

2016年2月16日/遺骨収集の様子 NO.6

一番降りたところから降りてきた方向を撮影しました。この壕はご覧のようにかなり大きな開口部となっているのが見てとれます。執拗に米軍の攻撃を受けたのでは無いかと推測されますね。

「沖縄陸軍病院之塔」

2016年2月16日/遺骨収集の様子 NO.7

道路脇にはご覧のような「沖縄陸軍病院慰霊之塔」という石碑が立っています。結構目立つので見落としは少ないと思われます。ご覧のように案内碑のある場所は整備され整然とした場所となっていますが、一昨年までは鬱蒼とした木が茂っていた場所でしたから、この碑も草に隠れてよく見えなかったという状態でした。

2016年2月16日/遺骨収集の様子 NO.8

「沖縄陸軍病院之塔」の敷地内には、大きな広場があるのが印象的ですね。また昔は大きな木が何本もあり鬱蒼とした雰囲気でしたが、それらの木も適宜伐採されたりして、現在はご覧のように見通しのきく明るい雰囲気となっています。

2016年2月16日/遺骨収集の様子 NO.9

「沖縄陸軍病院之塔」です。昭和39年「沖縄陸軍病院戦没職員の碑」として建立され、平成6年「沖縄陸軍病院之塔」として再建されました。病院長広沢文吉軍医少将ほか軍人、軍属、医師、薬剤師、看護婦等43名が祀られています。

2016年2月16日/遺骨収集の様子 NO.10

敷地の端に「沖縄陸軍病院本部壕」ありますので、入って見ましょう。

2016年2月16日/遺骨収集の様子 NO.11

これが沖縄陸軍病院本部壕です。大きな木がありますが、もちろん沖縄戦当時は無かったでしょう。ご覧のように開口部がとても大きくて偽装は出来なかったでしょうね。実際に艦砲砲弾の直撃を受けて、多くの人々が一瞬のうちに亡くなったり重傷を負いました。沖縄戦当時もご覧のような壕に降りていくスロープがあったのかどうかは不明です。

2016年2月16日/遺骨収集の様子 NO.12

少し降りてから開口部を撮影しました。開口部がバックリと口を開けているのが見てとれますね。

2016年2月16日/遺骨収集の様子 NO.13

更に降りていきましょう。

2016年2月16日/遺骨収集の様子 NO.14

底に至ったところで入り口方面を撮影してみました。底面に至るまで緩やかなスロープになっているのが見えますね。

2016年2月16日/遺骨収集の様子 NO.15

壕は一人で入ってはいけないのですが、壕の奥の方に進むとかなり大きな池があるので、ついつい毎年今年の水位はどうかなと調べてしまいます。冬でも結構な水量がありますから、梅雨の頃なら更に水位が高かったかもしれません。ですからこの壕は水には困らなかったと思われます。

2016年2月16日/遺骨収集の様子 NO.16

この一升瓶は昔からこの付近に置いてありました。何故か毎年撮影しています。ペットボトルなんて便利な容器が無かった時代ですから、一升瓶は最も多用された容器だったでしょうね。

2016年2月16日/遺骨収集の様子 NO.17

新しいサトウキビがあったので撮影しました。まだ一年生ですね。(^o^)

2016年2月16日/遺骨収集の様子 NO.18

こちらはサトウキビ二年生といったところでしょうかね。

「ずゐせんの塔」

2016年2月16日/遺骨収集の様子 NO.19

「ずゐせんの塔」です。場所はと言いますと、「平和創造の森公園」への入り口に当たる交差点横に「ずゐせんの塔」はありました。この塔は那覇市首里桃原町にあった同校敷地跡に建立されましたが、後に生徒たちの最期の地となった米須・伊原地域に移すことが検討されまして、結果としてここ米須に移築されたものです。ちなみに隣の敷地には宮崎県の慰霊塔である「ひむかいの塔」が建立されています。

2016年2月16日/遺骨収集の様子 NO.20

塔名碑が交差点、かつ道路のすぐ横に設置されていますから、見落とすことは無いと思われますね。

2016年2月16日/遺骨収集の様子 NO.21

沖縄県立首里高等女学校の戦没職員15名、生徒33名、同窓生56名が祀られています。同校生徒は「瑞泉(ずいせん)学徒隊」と呼ばれましたが、「ずゐせん」は同校同窓会名称「瑞泉」から命名されました。

2016年2月16日/遺骨収集の様子 NO.22

沖縄県立首里高等女学校の生徒83人で編成されたずゐせん学徒隊は、昭和20年3月27日、沖縄守備軍に動員されて第62師団野戦病院に従軍看護要員として入隊しました。同年5月、戦況が急速に悪化したのに伴い、首里の繁多川から、兼城村の武富、現糸満市の米須、伊原へと傷病兵の看護を続けながら転々とした末、6月19日に解散命令が出て、ずゐせん隊員たちは自由行動をするようになったが、時すでに遅く、その多くが悲劇的な最後と遂げることになりました。

2016年2月16日/遺骨収集の様子 NO.23

沖縄県立首里高等女学校の校章が塔に取り付けられていました。

遺骨収集ルート整備

2016年2月16日/遺骨収集の様子 NO.24

本日は左側に居られる福岡さんが合流して下さり、松永さんと、福岡さん、そして私の三人でルート整備に取り組みます。福岡さんは私たちと比べて若いので馬力があります。回廊ルートが一応完成している事もあり、昨年もそうなのですが、福岡さんにルート上に張るビニールテープを持って頂く事になりました。それでは松永さん、福岡さんよろしくお願いします。

2016年2月16日/遺骨収集の様子 NO.25

私が適正だと思うルートを先導し、追尾してくる福岡さんが、手提げバックに入れてあるビニールテープを張り巡らせていきます。

2016年2月16日/遺骨収集の様子 NO.26

本番で参加者の誰もが通りやすいというルートを選んで進みます。例えばご覧のようなアダンの根が張り巡らされている場所は、どの場所にナイロンテープを絡めていくかにより、歩きやすさも随分と違ってきますのでね。慎重にルートの選択をして進みます。

2016年2月16日/遺骨収集の様子 NO.27

目の前の岩場も、ビニールテープを右側に張るか左側に張るかは、その先の進行方向により変える必要があります。

2016年2月16日/遺骨収集の様子 NO.28

福岡さんが手提げバックを持ちながら、ビニールテープを張っている様子です。福岡さんの作業は簡単そうに見えて、とても難しいのですよ。職人的な勘と技が必要なのです。また松永さんの役割はと言いますと、この張られたビニールテープの横を本番では参加者が歩くので、ビニールテープのどちら側を歩くかという点を見極めながら、邪魔になる枝葉を切り落として歩きやすくして行きます。

参加記を作製している段階で、ここから先の写真が無いのに気づきました。カメラの調子が悪くて、撮影したのに記録されなかったという可能性が考えられます。かなりショックを受けています。こんな事は初めてですね。どう考えても機械的なトラブルにより記録されなかったとしか思い当たりません。

いずれにしても記録として残せませんでしたが、三人の頑張りにより円形回廊全てにビニールテープを一日で張り巡らせたのです。一番大変だったのは勿論福岡さんです。福岡さん有り難うございました。結果として本番に向けての準備作業は95%完了させてしまったのですから、大したものだと褒めてやって下さいませ~。

金光教の遺骨収集で、ビニールテープを張り巡らすようになったのは、今年を含めて四年になりますね。ビニールテープを張る事のメリットは、やはり安全が確保される。そして安心して遺骨収集が出来る。これらのメリットは一度でも参加した人なら解りますよね。「ジャングルの出口が解らない」などの自分の立ち位置を見失うと、人は不安感が沸き上がり遺骨収集どころでは無くなります。遺骨収集には最も不適切な精神状態になってしまうのです。ですから何時でも問題なくジャングルから出られる…。そうした安心感があってこその遺骨収集であり、その結果として気持ちの多くを地面に向けられるのです。

これは「遺骨収集=安心感」と言えるぐらい遺骨収集では大切な要因です。遺骨収集は学生の試験勉強と同じぐらい、“気持ち” を前に向ける必要があります。ただ顔を地面に向ければ御遺骨が見つかるというものではありません。不安を抱きながら地面に気持ちを向けるという精神状態では、ただ今目の前に遺骨の一部が見えていたとしても、見えていたとしてもですよ、その御遺骨を見つける事は叶わないでしょう。信じられないかもしれませんが、“不安を抱きながらだと御遺骨が目の前にあるのに見えない” という事態は容易にあり得るのです。繰り返しますが、遺骨収集では安心感は最も大切な要因です。ですから参加者のそうした期待を裏切らない為に、ビニールテープを辿れば、必ずジャングル出口にたどり着く。という展開にしておかねばなりませんね。

それからビニールテープを張ると、そうした安心感も手伝って、ジャングル奥深くに参加者がが入って行ってくれますね。御遺骨発見の可能性が高まるという訳です。例えば昨年なども、ビニールテープが張られた奥深いルート上で、女性が一人でコツコツとクマデを動かして居られるのを目撃し、「こんな奥深く若い女性がたった一人で!!」と私の方がビックリした次第でしたが、ビニールテープは、参加者を奥へ奥へと誘ってくれる、そうした効果が大いに期待できるのです。

ちなみにビニールテープは二年間は作業終了後に撤去していましたが、遺骨収集情報センターにビニールテープの展開状況を見てもらったら、「これは後で使えますね。撤去せずにそのままにしておいて結構ですよ」と言われましたから、それ以降は撤去せずに残してあります。実際に後で不発弾処理等で利用されているようです。ただビニールテープは常に海からの潮風に晒されているので、形として存在していられるのも五六年といったところでしょうね。少なくとも十年は持たないと思われます。

ビニールテープはただ張れば良いというものではありません。意外と難しいです。例を挙げていきますと、まずビニールテープが参加者の邪魔になってはいけません。ルート上を行き来するのに、目の前にあったのでは、跨いだり下をくぐったりしなければなりません。テープに気を取られ路面への注意が削がれてしまうかもしれません。そんな事を何度も繰り返していると精神的にも疲れてしまいます。ですから参加者の邪魔にならないようにしつつ、遠くからでも視認しやすいように目の高さで、参加者に触れない程度に歩く場所の端に展開させます。

次に、ビニールテープは可能な限り直線にする必要があります。ダラ~~と垂れたような展開では、風景に溶け込んでしまい何処にビニールテープがあるのか解らなくなります。自然界には直線は存在しません。ですからジャングル内で、白いビニールテープがビシーーーと直線的に張られていると、0.1秒でテープの存在を認識できます。ビニールテープを直線的に張るというのは、テープにテンションを掛ける必要がありますね。この二つの注意事項を遵守しながらビニールテープを張るというのは、やってみると結構難しいですよ~。

それから細かい事ですが、ビニールテープでは樹木等に縛り付けてはいけません。撤去しないのですから、樹木に縛り付けておくと、木が成長するにつれて、首を絞めるみたいに締め付ける恐れがありますからね。

話が変わりますが、かつて30年40年前に金光教の遺骨収集では、収骨が済んだ場所を青いビニールテープで表示しておきましたが、中には樹木にその青テープを巻き付けてある現場に遭遇します。青テープの部分だけ成長できず、木が苦しそうにしているので、そうした時はその青テープを切り取り解放してやるようにしています。そうした際は、木が「ありがとう」と言ったような気がします。(笑)

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