平成28年(2016年)沖縄遺骨収集奉仕活動

2月14日(日) 金光教遺骨収集の為のルート整備

本日の天気予報は、曇りで最高気温21度の予報です。ですから念のため雨合羽はリュックサックに入れて行動します。今日も昨日に引き続き、松永さんと金城さん、そして私の三人でルート構築の作業にあたります。メイン作業として東側ルートと西側ルートをつなぐ円形の回廊を作る事になると思います。まだ二日目ですから、エネルギーは満タン状態ですから、今日も頑張りますよ。(^o^)

独立高射砲27大隊本部壕

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.1

独立高射砲27大隊本部壕の慰霊巡拝は、事前調査でもご一緒した金城さんと一緒です。まずは国道331号線沿いにある「海の見えるレストラン」を目標にし、同レストランの崖下側に小さな道がありますので、その小道を見つけたらしめたものです。50メートルほど進むと、写真の門中墓前に至ります。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.2

お墓前からは、今度はいきなりご覧のような狭い登山道のような小道を降りていく事になります。手摺りが標識代わりにあるので迷うことはないと思われます。道なりに進んで下さい。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.3

40メートルほど下ると左に曲がり、水平面ほ進む事になります。ご覧のように道はなくなりますが昔道だった生でしょうか、樹木は育ってないので、鬱蒼としてはいますかず、見通しのきく草地となっています。足下に注意しながらそのまま前進します。ちなみにこの時期はハブはいませんから、その点だけはご安心下さい。
ただこうして毎年慰霊参拝を続けていますと、目の前に広がる風景が、年々“人間の関与”が失われ荒涼とした風景に変わっていく姿を見るのは、ちょっと寂しいものがありますね。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.4

進行方向左手を見ながら50メートルほど進むとご覧のような壕入り口が現れます。これが「独立高射砲27大隊本部壕」です。正確には同壕は入り口が二カ所ありますので、その一つの入り口という事になります。近づいてみましょう。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.5

壕内部の様子です。それほど広くはないですね。高射砲は壕内部に収納しておいて、射撃する時はレールに乗せて前に出して射撃、速やかに後退させたのでしょう。また写真中央部に少し黒い部分がありますが、そこからもう一つの壕と繋がっていたと言われています。昔そこから覗いてみましたが、落盤していて進む事はできませんでした。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.6

沖縄戦が始まるまでは、この壕において独立高射砲27大隊第二中隊が火砲一門を設置して、予備陣地として南方の守りを担っていました。元々高射砲陣地は敵の激しい攻撃に晒されるのを前提としているため、開口部はご覧のようにコンクリートで補強されています。独立高射砲27大隊本部壕は、この壕と右側にもうひとつ大規模な壕があり、二つの壕はつながっていると言われています。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.7

コンクリートの状況を撮影しましたが、勾配がかなりありますし、丸太で型枠を構成したというのが見てとれますね。コンクリート部分をよく見て下さい、戦後70余年を経て10センチほどの鍾乳石が垂れ下がって居るではありませんか。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.8

ここが独立高射砲27大隊本部壕のもう一つの壕口です。壕入り口に大きな岩が鎮座していますが、この巨岩は平成24年ですから今から4年前という事になりますが、大きな地震があり、その揺れで上から落石したようです。壕入り口を塞ぐように落ちたので、出入りには少し不自由しています。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.9

壕の中へ10メートルほど入った所から撮影してみました。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.10

壕に入りますと最初の内部空間である、縦横10メートルほどの比較的広いスペースがあります。写真には卒塔婆が写されています。また少し解りにくいのですが、写真奥に黒っぽく写されている部分が、更に奥へ進む為の開口部となっています。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.11

卒塔婆が数本立っていますね。戦後70余年を経て、洗い流した訳でもないのに、卒塔婆に書かれていたであろう戦没者の名前などは見事に自然消滅しているのが印象的です。風雨にさらされる場所ではないのに墨文字が消えてしまうなんて…。70余年の歳月の長さが偲ばれますね。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.12

この開口部から更に奥に進む事ができます。それでは奥に行ってみましょう。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.13

結構深いですよ。下りながら更に進みます。壕の壁天井が煤で真っ黒になっているのが見えますね。以前入っ時には木杭が炭のようになっていたのを目撃したことがありますので、徹底的な火炎放射攻撃を受けたのでしょう。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.14

ここまで来て、右側と左側に分岐しています。この壕は最初の空間については、元々空洞があって門中墓か風葬墓として利用していたのでしょうが、この奥まった部分については、独立高射砲27大隊が中心となって、陣地として構築したものと推測されます。壕全体として分岐も多く複雑な構造となっていますが、雰囲気として手作業での掘削とみられます。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.15

広い部屋の部分から次の部屋に移動するには、ご覧のような穴のような開口部を通ることになります。これはおそらく艦砲などの重爆撃による落盤を防ぐための措置だと思えます。居住区を広い空間にせず、なるため壁で仕切るというのは、私たちが住む住宅の耐震性を増すための措置を考えたら納得がいきますよね。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.16

壕内にはご覧のような戦没者の遺品があちこちに産卵しています。この独立高射砲27大隊本部壕は、戦後早い段階で御遺族の方々が遺骨収集をされたと聞いています。卒塔婆もありますから、海岸にある患者壕と共に収骨は済んでいると思われます。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

「南冥の塔」は、昨年改修工事が進められていましたが、その改修工事が終わったようなので、新装なった塔を見学すると共に参拝しようという事になり、同慰霊塔に向かいました。

「南冥の塔」

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.17

駐車場から100メートルほど階段を下っていくと、ご覧のような案内石塔が見えますので、案内に従って右折していきます。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.18

アプローチの路面も更新されました。歩きやすいようにセメントで舗装されていますよ。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.19

ギリギリ読めますが、テキストに起こしてみましたので、読んでみて下さい。

【解説文】

沖縄戦終焉の地であるこの一帯には、米軍に追いつめられ逃げ場を失った多数の日本の軍人軍属、一般住民が米軍の連日連夜にわたるすさまじい砲爆撃により傷つき、斃れていて、死屍累々といったその様はこの世の地獄絵図かと見まごうような悲惨な光景でした。

この南冥の塔は、沖縄戦に参戦し、その惨状が念頭から離れなかったという日系二世の米兵ヤマモトタツオ氏が中心となり、昭和二十九年九月、この一帯に放置されていた身元不明の兵士、住民の遺骨一万二千柱を集骨して建立されました。

現在、この塔の遺骨のほとんどは沖縄戦没者墓苑に移され、ここには一部が分骨されて祀られています。ここに追悼の意を表し、戦没者の御霊を慰めるとともに、安らかならんことを祈ります。

内閣府沖縄総合事務局 

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.20

階段も新しくなりましたし、幅も少し広くなりましたね。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.21

新装なった「南冥の塔」です。霊域らしい素晴らしい雰囲気となりましたね、きっと御霊様も喜んでおられますよ。 ところで那覇教会の林先生が、沖縄に点在する慰霊塔の前で慰霊祭を最初に行ったのが、この「南冥之塔」だったそうです。慰霊祭の依頼者は、この慰霊塔の墓守をしていたといえる前門家のキヌさんでした。という事で金光教の遺骨収集奉仕活動とこの「南冥之塔」とは、切っても切れない縁があると言えるでしょう。

林先生は、毎年6月23日の沖縄戦終結の日に合わせて、ここ「南冥之塔」で慰霊祭を仕えられています。すでに39年も続けられているそうですから驚きです。毎年本当にお疲れ様でございます。

国立の墓苑は日本全国で千鳥ヶ淵と摩文仁の二カ所しかありませんが、この「南冥之塔」もなんと国立墓苑に指定されており、それがために、林先生が祭主を務める6月23日挙行の慰霊祭には、国の出先機関である内閣府沖縄総合事務局長名で生花が届けられるそうですよ。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.22

日系二世の米兵ヤマモトタツオ氏が、摩文仁を立ち去るにあたり、刻み込んだ碑文は次の通りです。

「銃とらぬ諸人の 御霊永遠に神鎮まりませと 祈りつつ吾れ 此の碑を捧げまつる
一九五四年九月拾四日 沖縄戦参加一米兵」

日系二世の米兵ヤマモトタツオ氏が、沖縄戦の渦中、日本軍を掃討するため摩文仁で作戦を遂行中に、赤ん坊の泣き声がするので、声を頼りに辺りを探してみると、砲弾に打たれ死んでいる母親の血塗られた乳房をまさぐりながら、飢えて泣いている赤ん坊が居たそうです。しかしながら掃討戦の作戦遂行中であり、手当もせずその場を立ち去ったそうです。

やがて戦争も終わり、除隊となって郷里に戻りましたが、その時の光景がたびたび夢に出てくるというのです。それでいたたまれず、単身沖縄にやって来て、前門家の庭にテントを張らせてもらい、現在の南冥之塔がある一帯で遺骨収集を一ヶ月ほど続け、ご遺骨を塔の横にある壕に納めたそうです。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.23

ところで、金光教の遺骨収集奉仕活動の運営を一手に担っていた運営委員会時代に、この解説文に書かれている、日系二世の米兵ヤマモトタツオ氏を、米国からお招きして、南冥之塔前で慰霊祭を…。という動きがありました。

もう何年前になるでしょうか、おそらく25年以上前であったと記憶していますが、少し記憶がぼやけてきていますが…。いずれにしてもヤマモトタツオ氏招聘の足掛かりを掴むべく、米軍及び米軍軍属の方々の、金光教の遺骨収集参加を一元的に任されていた、米軍軍属のブレイ松枝さんという方を通して、米国で新聞投稿をして広く情報を求め、そしてついに日系二世の米兵ヤマモトタツオ氏の所在を突き止められたそうです。

しかしながら、その結果は…。
ヤマモトタツオ氏ご本人は、戦闘疲労症(PTSD)になっており、訪問は止めてほしいと、ご家族から伝言があったと聞いております。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.24

日系二世の米兵ヤマモトタツオ氏が、当初収骨した大量の御遺骨は慰霊塔の横にあるこの壕に納められました。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.25

ご覧のように将兵個人の墓標も幾つか設置されています。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

「沖縄工業健児之塔」

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.26

「沖縄工業健児之塔」です。同塔は摩文仁平和祈念公園内の東側に位置する平和祈念資料館の東側に隣接してあります。海岸沿いの崖上にあり、背後に木々が茂っていますから海は見えないのですが、潮風と共に波音も聞こえてくる場所にあります。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.27

7本の柱は7人の武士を表し、柱横に連なりスクラムを組ませ協力を象徴していると言うモニュメントです。ご覧のように塗装も新しくピカピカに塗られ、新装なった「沖縄工業健児之塔」の塔です。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.28

「沖縄工業健児之塔」の主柱は、7本の柱にしっかりと守られていますね。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.29

鉄血勤皇隊工業隊として戦没された生徒106名の名前が刻み込まれています。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.30

碑文ですが、ギリギリ読めますね。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

遺骨収集ルート整備

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.31

松永さんが指さしているのは、モクマオウです。常緑高木で松に似ていますよね。豪州原産で主に熱帯地方に生息しているそうです。沖縄では防風林としても植えられていますので、見かけた方もあると思います。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.32

本日も昨日に続き松永さん、金城さんと私の三人でルート構築作業に入ります。左側の松永さんは、事前調査の時からそれこそフルに金光教の遺骨収集の為に奔走して下さっています。本当にありがとうございます。また右側の金城さんは正面からお顔を撮影するのは初めてですね。金城さんもまた事前調査の時から、ありがたい事に全力で取り組んで下さっています。いつも本当にありがとうございます。それでは本日も事故に気をつけて頑張りましょう。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.33

ここは西側ルートの崖部分で岩の割れ目です。晴れが続きけば路面は土ですから、とても歩きやすいです。斜面の勾配もそれほど急坂ではないので、安全なコースなんですけどね~。実際に今日は地面もすっかり乾いていて何の問題もない快適な通路となっています。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.34

崖下の部分を写していますが、凄いゴミでしょう~。不法投棄されたゴミなんですよね。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.35

ゴミを観察すると家庭ゴミが多いような印象ですが、工事のゴミも含まれている状況です。このゴミの山も、いずれは沖縄宗教者の会の皆さんに回収してもらうように御願いするしかありませんね。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.36

「沖縄放送局戦没職員慰霊碑」なんていう看板も捨てられていました。これは当然の事ながら、慰霊碑を作り直す過程で、古い看板を持ち帰らずに、この崖下に打ち捨てたという事になるでしょうね。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.37

まずは、今回のルート整備に関連した調査です。今回の遺骨収集では、崖下付近も遺骨収集対象地域になっていますが、この崖下付近は、すでに書いていますが、建物で言うと三階建てのビルに相当する構造となっています。危険な状況としては、2階で収集作業している人が、岩の割れ目から1階に土砂を落としてしまう可能性のある場所が複数箇所あると私は認識しています。そこでそうした、土砂を下に落としてしまう恐れのある場所を危険箇所として、ビニールロープ等で立ち入り禁止にする必要があります。そうした場所を今から見に行きます。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.38

この写真も、下の階に土砂を落としてしまう危険箇所の一つです。写真前方の岩の割れ目の地底部分を通路として人が通る事になりますので、私が立っている場所から土砂を落としたら致死的事故になってしまいます。ですからここは絶対に立ち入り禁止にしなければなりません。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.39

写真の風景も、建物で言えば2階部分に相当します。写真中央の窪地の下には、通路があり人が通ることになります。写真右側を人が通れば、かなりの確率で落石が発生するでしょう。ですから、ここもビニールロープ等張り、落石が発せする恐れがある部分を立ち入り禁止にしなければなりません。

東西ルートを連結する回廊を構築

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.40

西側ルートでは、事前調査の段階で、崖を降りたあと一カ所だけ、砂時計の一番絞られた場所のような、ごく狭い場所があるので、そこを通らないように迂回ルートを探しましたが、探しきれませんでした。そこで今回も引き続き、その迂回ルートを発見するべく、まずは「70歳台の参加者でも安全に行き来できる」レベルの迂回ルートを探す事になりました。理想的にはこの写真前方に進出出来れば一番なのですが、事前調査では駄目でしたし、昨日も発見できませんでした。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.41

ここも駄目。「70歳台の参加者でも安全に行き来できる」レベルとは、段差が70㎝以上あったらまず無理ですからね。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.42

ここも結果として駄目。時間を掛けて探しましたが、理想的なルートが見つからないので、一端断念して先に進む事にしました。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.43

ここは結構よい隠れ場所ですね。ここも回廊ルートに含まれます。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.44

ここも通らねばならないようです。この岩場も私なら楽勝なのですが…。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.45

手足を掛ける場所は十分ある事から、試しにお二方にも降りてもらいましたが、やはり結果は危険という事になりました。また別のルートを見つけねばなりません。イヤ~~。ルート構築は難しいですね~。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.46

巨大な壁に突き当たってしまいました。トホホ。(T_T)

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.47

行きつ戻りつしている私たちですが、ご覧下さいませ。この青テープ!!。この場所での収骨は完了しているというマーキングですよね。二十年以上前にテーピングされたと思われます。生木に巻かれたと推測されますが、その生木も枯れてしまったようです。金光教の遺骨収集団は間違いなく、この場所までやって来たのですね~。当時はビニールテープでルートを作っていませんでしたから、方向を見失えば、四方樹海の中で脱出出来ないという不安があったはずなのに、ここまで進出して来ているという事に驚きを隠せません。やはり先人達は凄いです。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.48

見通しのきく場所に出て、東側に進出できそうです。ヤッター。(^o^)

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.49

しかしながら、見通しがきくとなると、アダンですよ~。またもやご覧のように群生地となっています。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.50

しかし、しかし、しかし、アダンと数え切れないぐらい格闘して来た人なら、“アダンとは馬力で立ち向かうのではなく、知恵で立ち向かう” という方法論を学ぶでしょう。そうです。上の写真のようなアダンが繁茂している場所を、中央突破しようものなら、手や顔面は傷だらけ、体力を使い果たすのが関の山です。そうした悲惨な事態を避けるために、アダン繁茂帯の縁を歩くようにすれば、あ~ら不思議、ごく少ないアダンを切り倒すだけで、容易に前進できますよね。写真は、そのアダン繁茂帯の縁を松永さんが歩いている所を撮影しました。沖縄遺骨収集をされる方は、アダン攻略法の一つとして覚えておいて下さいませ。(^o^)

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.51

写真左側の岩はデカいですね~。上の写真もこの同じ岩なのですが、とにかくデカいです。こんな巨大な岩が航空写真にあったかな~と思うほど巨大です。(沖縄入りする前、途中でも航空写真は、地形を掌握する為に結構見ます)

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.52

この写真は、本日の写真タイトルである「東西ルートを連結する回廊を構築」と記した下にある写真と繋がっている場所と思われます。間違いないと思います。下から見上げると、まるで通行不可能であるのがしっかり見てとれます。ちなみに上から見ると、行けそうな雰囲気なんですよね~。全く余計な時間を消費してしまいました~。繰り返しますが、ルート作りというのはこんなものですよね。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.53

ここにも青テープがあります。全部掲載する訳にはいきませんが、その数が多い事にビックリしています。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.54

この写真の奥の方で、事前調査段階で歩いたルートと合流しました。その事を確認しましたので、ついに東西ルートは回廊で結ばれたのです。 産みの苦しみをタップリと堪能しました。後日ビニールテープを張れば完成です。私たちは昼食を食べるために、一度ジャングルから出る事にしました。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.55

ここは上から落石があるかもしれないと書いた、下の1階に相当する場所ですね。写真の上の方から岩が落ちてきたら即死ですよね。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.56

ここも西側ルートになっています。狭い岩の間を通りますから、太ってる人は無理かも。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.57

ここも狭いですね~。でもここは何とかなります。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.58

間もなく公園に出ます。写真の様な崖が多いので、ルートは本当に限られているのが実情です。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.59

ここは西側ルートで、縄ばしごを掛ける予定の場所です。まずはゴミを撤去する事から始まります。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.60

松永さんが写っていますが、松永さんだ居られる場所も含めて、私が立っている場所まで縄ばしごが設置されるようになるはずです。上から見ると結構な勾配となっていますが、縄ばしごは問題なく設置できると踏んでいます。

午後も遺骨収集ルート整備

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.61

さあ午後の作業開始です。東西ルートは回廊で結ばれました。但し首都圏の圏央道みたいに、一部工事未着工の部分がありますが、圏央道としてはすでに使われているのと同じように、我が遺骨収集摩文仁回廊も、全体としては連結され、一部のみ不通部分がありますが、なんとかなるでしょう。楽観な気持ちで取り組むのも大切ですからね。何しろボランティア活動なのですから。それでは西側ルートの入り口から入って行きましょう。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.62

ほら道らしくなったでしょう~。(^o^)
大切なポイントを書きますよ。こうして道になった場所も、歩く時に「すでに道は成したのだから」と漫然と歩いてはいけません。手に剪定バサミを持って、蔓植物の枝に足を引っ掛けたりしたら、見落とす事なくその蔓を切ったり、道の幅が狭かったら、少し植物を剪定して幅を広くしたりします。勿論浮き石があれば撤去します。本番まで何度もルートを行き来する事になりますが、その通行の度にこれらの作業を繰り返し実施します。そうする事により、本番の時はあたかも登山道のように、高齢者も含めて誰もが安心して通れる道となるのです。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.63

西側ルートの岩の割れ目を降りています。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.64

さてここから未だ未開通部分を調査し、何としてもルートを回廊と結びつけねばなりません。神様~。助けて下さ~い。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.65

この付近は青テープが本当に多いですね。と言う事は、この付近で大勢の日本軍将兵が亡くなったという事ですね。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.66

ここも青テープありますね。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.67

ほらここにも青テープが!!。それぞれの青テープはかなり近い距離に連なっていますから、当時はお互いの収骨現場が見えるような、至る所で御遺骨が発見されたという事ですね。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.68

まずは西側ルートの崖を降りたついでに、午前に引き続き、「70歳台の参加者でも安全に行き来できる」レベルの迂回ルートを探す事になりました。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.69

そして、ついに、ついに、ついに見つけました~。(^o^)
距離にして40メートルぐらいなのですが、七転八倒しつつも、ついに「70歳台の参加者でも安全に行き来できる」レベルのルートを発見したのです。これで円形回廊は完全に連結されました。多少クネクネしていますが、ナイロンテープで誘導しますので、そんな事は問題ではありません。事前調査段階から本日まで見つかりませんでしたから、焦りが無かったと言えば嘘になりますが、駄目なら諦めるという選択肢もまた持ち合わせていませんでしたから、結果としてこうして見つかるんですね~~。ホント不思議です。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.70

探しまくって疲れまくって、そして見つかった後の安堵感もあり、早くも小休止です。(笑)

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.71

小休止を終え、引き続きルート整備に取りかかりました。昨日のルート整備では、急な岩場を降りた写真がありましたが、その部分を避けるために、トウツルモドキと呼ぶ植物が繁茂している、写真中央あたりを突破しなければなりません。いや~、大変ですね~。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.72

明るくなってきたので、トウツルモドキの繁茂帯を突破か。と思いましたが…。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.73

トウツルモドキはまだまだ続いています。この蔓植物は切り開いた人でないと、その困難さは実感できないと思います。本当にやっかいな植物です。アダンよりも始末に負えません。金城さん頑張ってトウツルモドキを切り開いて下さっています。よろしくお願いしま~す。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.74

トウツルモドキ帯は過ぎ去りました。この先で円形回廊と繋がりました。これにて回廊はしっかりしたものとなりました。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.75

回廊の周囲には、岩の壁や、巨岩がゴロゴロありますので、沖縄戦当時の人たちが隠れる場所には事欠きません。本番での収骨作業が楽しみになって参りました。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.76

午前中に一度歩いたアダン帯の縁も、ご覧のように道らしくなりましたね。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.77

夕方になったので帰る事になりました。ここはちょっと近道しています。壕の開口部が見えます。入り口を覗いてみたら、結構なスペースがありました。回廊ルートに近いので、本番では誰かが見てくれるでしょう。

2016年2月14日/遺骨収集の様子 NO.78

ここも近道です。間もなく公園に出ます。松永さん、金城さん、本日はお疲れ様でした~。

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