平成30年(2018年)沖縄遺骨収集奉仕活動

1月16日(火) 故具志八重さんのお墓参り、故真喜志康一さんのお墓参り

羽田空港を飛び立った飛行機は、11時過ぎに無事に那覇空港に着陸しました。冬なのに珍しく滑走路北側からアプローチしての着陸だったので、暖かな南風が吹いているかもしれないと感じつつ、機外に出てみれば予想通り晴れて暑いくらいの気温です。那覇の最高気温予報は23度でしたが、手元の温度計ではすでに26度を指していますよ~。

コートを着ていたので、コートやセーターなどを全部脱いで、すぐに半袖姿になりました。それでも汗ばむくらいですね~。(^o^)

空港ビルに松永さんが、すでに待っていて下さり無事に合流しました。これから毎年恒例の具志八重さんのお墓参りをする為に知念方面に向かいます。

具志八重さんのお墓参り

2018年1月16日/遺骨収集の様子no.1

サトウキビ畑の先に見える集団墓所のとある一角に、故具志八重さんは安置され眠りについています。近年は金光教那覇教会の林先生と共に具志八重さんのお墓参りをするのが慣例となっていましたが、林先生はお仕事があるという話で、今年は松永さんと共に二人での参拝となりました。

具志八重さんは沖縄戦当時、沖縄陸軍病院に勤務しており、米須の第三外科壕では看護婦長として負傷兵の看護に当たった方です。米軍による第三外科壕に対する馬乗り攻撃で、壕内にいた多くの学徒隊や陸軍病院関係者が亡くなられましたが、奇跡的に助かった一人でもあります。

こうした経緯もあり、戦後は自らの悲惨な戦争体験を語り継ぐなどの平和活動にも取り組まれました。そうした中で沖縄戦当時軍医見習士官として第三外科壕で勤務していた故長田紀春氏と共に、生存者の証言を集めた『閃光の中で 沖縄陸軍病院の証言』(長田紀春・具志八重編/ニライ社)を出版しました。

また松永さんにとりまして具志八重さんは、遺骨収集や平和学習を行うきっかけを作って下さったとても大切な方でもあります。松永さんが具志八重さんを今でも如何に尊敬しているか!。松永さんとの会話の中で具志八重さんの話が登場すれば、それは容易に察することができます。ここに改めて松永さんと共に具志八重さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

故具志八重さんは沖縄陸軍病院第三外科の婦長でしたが、第三外科壕内での米軍によるガス弾攻撃を受けた瞬間や、その後の生き地獄となった壕内の生々しい様子、そしてご本人の奇跡的に生還した様子などを本の中で証言しています。

「閃光の中で 沖縄陸軍病院の証言」

長田紀春・具志八重共著 ニライ社 平成平成4年(1992年)初版

「閃光の中で 沖縄陸軍病院の証言」のなかで、故具志八重さんが著述された、第三外科壕への米軍のガス弾攻撃の箇所を引用させて頂きます。

【ガス弾投下】

翌未明、壕入り口で男の声で「出て来なさい」と何度も呼びかけていた。皆黙って動かないでいたら、突然壕の中にガス弾が投げ込まれた。真白い煙が壕内一杯に立ちこめて息が苦しくなった。むせて咳が出てくるのを無理にこらえ、奥へ奥へと手探りで這って進んでいる間に意識を失ってしまった。気づいたのが何時間後か、何日たったのかわからなかった。あたりを見回すと今まで壕の入り口を被うていたソテツやツタ、アダン等は全部砲弾で焼き払われて禿げ、岩肌が大きな口を開け、風通しのよくなった岩の上に仰向けに倒れていた私の顔に明るい太陽がまぶしくそそいでいた。

左横を見ると、どこから入手されたのか、防毒マスクをした婦長が倒れていた。マスクの間や下腹部あたりから蛆がはいまわっているのを、ただボーッと見つめているだけだった。

沖縄の六月は小満芒種といって、無風の暑さはすさまじいほどきびしいものであるが、特に空気の全く動かない壕の中の高温多湿は想像以上で、戦死した者や生きていても負傷した傷口は腐るのが早く、死臭がわかるのか、どこから来るのか蛆がすぐはいまわってきた。

気がつくと私も左足首をねんざして立てなくなっていた。戦場での足の負傷は死を覚悟しなければいけない。皆に迷惑はかけられないと思い、婦長の傍に横になった。野原秀子看護婦が私の横で不安そうに見守ってくれていた。しばらく横になっていたが、ふと、母が疎開で別れる際に「お前一人残して行くのがつらい」と言った言葉を思い出し、「どうせ死ぬなら外の新しい空気を吸ってから死のう」と夜になるのを待ち、野原看護婦のすきをみて、重い足を引きずりながら梯子を昇り始めた。手摺は星明かりで雪のように白い。目の錯覚だと思い触ると、それは蛆であった。梯子の途中で戦死していた通信兵の屍体から湧き出たものとわかった。

その横を通り、出口に近づくと、そこには老婆の足が木の根から岩に引っかかり壕の中に逆さにつり下がっていた。死体の長い白髪より髪の毛か蛆かが落ちていくのを見ながら出口に出た。そのとたん待ち構えていたらしく機銃で右大腿部を撃たれたため、完全に歩けなくなってしまった。でも壕の後方の崖を這って降り、キビ畑の傍の溜水を腹一杯のんでキビ畑の中に隠れて、照明弾のあがるのをみながら散発的に聞こえる砲弾の音でうとうとし始めた。

【捕虜となる

夜が明けた。いきなり初めて見る赤い顔の敵兵が目前に立っていた。敵兵は負傷していることを知って治療しようとしたが断って座り続けた。間もなくトラックに他の住民と共に乗せられ、名城ビーチか瀬長の砂浜かよくわからない所へ降ろされた。

(以下省略)

「閃光の中で 沖縄陸軍病院の証言」から転載させて頂きました

【具志八重さん死去 沖縄陸軍病院で看護婦長 93歳】

「琉球新報」平成23年3月8日

沖縄戦当時、沖縄陸軍病院の第3外科で看護婦長として負傷者の治療に当たった具志八重(ぐし・やえ)さんが6日午後5時52分、肺機能低下のため那覇市内の病院で死去した。93歳。那覇市出身。告別式は8日午後2時半から3時半、南城市佐敷字仲伊保470の2、日本キリスト教団佐敷教会で執り行われる。喪主は甥・石川悟(いしかわ・さとる)氏。

具志さんは戦前から保健師として活動。戦後も生き残った看護師、保健師、助産師の有資格者に登録を呼び掛けたり、結核患者の療養環境の整備や、母親学級の開始など焼け野原になった沖縄の保健医療行政の基盤づくりに尽力。退職後は「沖縄いのちの電話」のボランティアとしても活動した。保健師活動の一方で、戦跡の案内や自らの戦争体験を語るなど平和活動を積極的に行った。

沖縄陸軍病院第3外科で軍医として働き、戦後、具志さんと一緒に生存者の証言を集め出版した長田紀春さん(90)=那覇市=は「医療者としてたくさんの犠牲者を見てきたという戦争体験が、戦後の活動、平和運動につながっていた。長い間のご尽力に感謝したい」と話した。

県看護協会の奥平登美子会長は「看護職の育成に貢献し、離島などの駐在保健師の基礎づくりをした。温厚で誠実、統率力に優れた人で、一貫して住民の側に立ち健康福祉に尽力した人だと聞いている。ご冥福をお祈りしたい」と述べた。

「琉球新報」から転載させて頂きました

【[訃報]具志八重さん死去 米軍のガス弾投下証言 93歳】

「沖縄タイムス」平成23年3月8日

沖縄戦で旧沖縄陸軍病院の元第三外科婦長を務め、戦後、戦争体験の証言などに尽力した具志八重(ぐし・やえ)さんが6日午後5時52分、肺機能低下のため那覇市内の病院で死去した。93歳。那覇市東町出身。自宅は那覇市小禄4の7の20。告別式は8日午後2時半から3時半、南城市佐敷仲伊保470の2、日本キリスト教団佐敷教会で。喪主はおい悟(さとる)氏。

1933年に県立第二高等女学校を卒業。45年、沖縄戦に動員され、旧沖縄陸軍病院の元第三外科婦長を務めた。77年保健婦を退職。戦跡の案内や戦時中に第三外科壕(糸満市伊原)で米軍によるガス弾投下の被害に遭ったことなどを証言した。82年、国連で開かれた軍縮特別総会に参加。92年には長田紀春さんと共に「閃光(せんこう)の中で―沖縄陸軍病院の証言」(ニライ社)を編集した。

「沖縄タイムス」から転載させて頂きました

戦没者遺骨収集情報センターでご挨拶

2018年1月16日/遺骨収集の様子no.2

午後二時過ぎに戦没者遺骨収集情報センターに到着しました。本日から13日間ここ沖縄で遺骨収集に取り組ませて頂くので、まずはご挨拶という事でお訪ねました。

2018年1月16日/遺骨収集の様子no.3

戦没者遺骨収集情報センターの看板です。この看板は一枚板が用いられており、設置された当時は白木の色鮮やかな看板でしたが、設置後すでに7年が経過して、趣のある看板になって参りました。思えば平和祈念公園の一角に戦没者遺骨収集情報センターが設立されて7年が経過したのですね。本当に歳月の経過は早いです。

当ウエブサイトでも戦没者遺骨収集情報センターが開設された事を、平成24年(2012年)2月13日の参加記記事の中で紹介していますので、ここに改めて転載してみましたのでご覧下さいませ。(^o^)

【戦没者遺骨収集情報センターが開所】

「沖縄タイムス」2011年8月2日

情報センター
県は1日、糸満市摩文仁の平和祈念公園で沖縄戦の遺骨収集を支援する戦没者遺骨収集情報センターの開所式を開き、本格運用を始めた。県はこれまで遺骨収集は「戦後処理の一環で国の責務」としてきた。しかし、戦争体験者の高齢化で情報収集が困難になる中、国の全額補助を受けて遺骨情報を一元化、民間団体に収骨に必要な機材の経費を補助するなど連携を強め、遺骨収集体制の構築を目指す。

センターの本格稼働により、遺骨収集ボランティア団体や県、市町村が別々に持っていた埋没壕やガマなど遺骨収集作業に関する情報をデータベース化する。

骨ボランティア収集で必要となる移動用のバスやレンタカーの借り上げ料のほか、傷害保険料、弁当代、磁気探査委託料などの一部も補助し、民間の遺骨収集を後押しする。

遺骨収集体制については戦後66年がたつ中で情報収集の難しさなどから、国や県、市町村、民間が連携した体制づくりを求める声が上がっていた。センター機能により、戦争当時使用していた埋没壕やガマなどの調査による情報収集、戦争体験者への聞き取り、現場確認や関係機関との連携も期待されている。

一方、歯や指の骨だけが見つかった場合、国がDNA鑑定を実施する意向を示したことを受けて、県は県内外の遺族のDNAデータの蓄積についても国と連携できるよう検討している。

同センターの本年度運営費約1100万円は国が全額負担し、県が財団法人県平和祈念財団に業務を委託した。現在は職員2人だが近く3人体制に拡充する。7月1日から業務を始め、情報提供がすでに3件寄せられているという。同センターへの情報提供は電話098(997)4123。

「沖縄タイムス」から転載させて頂きました

ご紹介した沖縄タイムスの記事にもありますように、「センター機能により、戦争当時使用していた埋没壕やガマなどの調査による情報収集、戦争体験者への聞き取り、現場確認や関係機関との連携も期待されている」という点がとても重要であると思いますね。

如何でしょうか、開設で期待された初期の目的について過ぎ去った七年の歳月に思いを馳せ、関係者の皆様は使命の重さを感じつつ、成し遂げた成果を振り返り、とても感慨深いものがおありだと思います。

戦没者遺骨収集情報センターは沖縄における遺骨収集の最重要拠点であり、文字通りセンター機能をより一層深める為にも、私達のように遺骨収集に携わる末端のメンバーが、より心を一つにして戦没者遺骨収集情報センターに集い、そしてもり立てていかねばなりません。

その上で一人一人が戦没者慰霊という目的意識と志をしっかり持って遺骨収集に取り組み、この艱難の大地でもある沖縄から、誰にも看取られることなく亡くなられた戦没者のご遺骨を一柱でも多く収容するなど、戦没者遺骨収集情報センターと共に歩み、最終目標たる沖縄戦戦没者の慰霊と鎮魂に繋げたいですね。(^o^)

2018年1月16日/遺骨収集の様子no.

建物内部の様子です。平和祈念公園案内所を兼ねていますから、いろんな展示品が並んでいます。写真中央奥は遺骨収集に関わるコーナーとなっています。また右端の部屋が戦没者遺骨収集情報センター事務室です。所長さんをはじめスタップの皆様が詰めている部屋ですね。(^o^)

昨年の遺骨収集奉仕活動は、これまでの活動の中で最高に充実し、且つ実り多い奉仕活動となりました。と言いますのも、私のウエブサイトを通じて、沖縄にお住まいの真喜志さんという方からお問い合わせを頂きまして、八重瀬町のとあるジャングル帯の所在を紹介して頂きました。そのジャングル帯は独立混成第四四旅団工兵隊兵士であった真喜志さんのお父さんが、島尻での戦闘で一定期間滞在された陣地壕があるというので、私達が現地に出向き捜索した結果、主要骨が揃う完璧なる完全一体のご遺骨発見に至ったのです。

まだお読みになっていない方はぜひご覧下さい。昨年の参加記のうち 1の18日(水)八重瀬町安里で真喜志氏と共に調査、具志頭で遺骨収集 から経緯が詳細に記述されています。そしてその後の経過として、戦没者遺骨収集情報センターの御協力により記名遺品が発見された事から、DNA鑑定の道が開かれ、結果としてDNAが一致し御遺族が特定されまして、御遺骨は73年の歳月を経て故郷にお帰りになったのです。

沖縄作戦に参加した主な陸軍部隊は、第三十二軍隷下の第二十四師団、第六十二師団、そして独立混成第四十四旅団でしたが、真喜志さんのお父さんは、独立混成第四十四旅団隷下の独立混成第四四旅団工兵隊(球7073/村本福次隊長)に所属していた兵士だったのです。主に工兵隊指揮班の人事係助手という立場で、陸軍兵長という階級でした。任務は他の司令部との伝令役も多く島尻での戦闘では危険が伴う任務だったようです。

真喜志さんのお父さんはフルネームで真喜志康一さんですが、すでに享年85歳でお亡くなりになっています。生前は毎年6月の慰霊の日に暑い陽射しが照りつける中、バスを利用して慰霊参拝を続けられたり、所属部隊長である村本福次隊長や戦友の甲斐勇一曹長の御遺族を「萬朶之塔」にご案内したり、御遺族と手紙などを通じて連絡を取り続けられたそうです。

お父さんにとって村本福次隊長や戦友の甲斐勇一曹長の遺骨収容は終戦以降における最優先の懸案であり、戦友の屍が眠る埋没壕の調査を県や厚生省に何度か掛け合ったそうですが、諸般の事情により慰霊の塔建立のみで我慢していたという経緯があります。そうしたお父さんの願いや志を真喜志さんは、ごく自然に無意識レベルで受け継いだのだと思います。親の背中を見て育つ子供のようにです。そうした引き継がれた志があったからこそ、昨年私達を現場に誘って下さったのだと思わずにはいられません。

こうした経緯で、昨年ご案内頂いた地域で主要骨が揃う見事な完全一体の御遺骨発見に至りました。しかしながら私達の収骨作業では、記名遺品の発見に至らず、ああ、このまま無名戦士として沖縄国立戦没者墓苑に安置されるのみか…。と無念の涙に沈んでいましたが、そこに信じられないような吉報が舞い込んできたのです。

私達が沖縄を離れた二日後、1月24日(火曜日)の夜9時半を過ぎた頃でしたが、戦没者遺骨収集情報センターの中野さんから電話があり、「第一報としてお伝えしますが、回収して下さった遺品を調べたところ、名前が書かれているものがありまして、「村本福次」と書かれています。この方はご存じかもしれませんが、独立混成第四十四旅団工兵隊の隊長である村本福次大尉だと思われます。…」と連絡を下さったのです。

今でもこの結末は信じられないのですが、こうした奇跡とでも呼ぶべき事態があって、発見御遺骨の氏名が推定されるに至り、DNA鑑定をする道が切り開かれたのです。御遺骨はDNA鑑定をする為に記名遺品と共に、戦没者遺骨収集情報センターから沖縄県庁を経て、厚生労働省に送られました。

それ以降厚生労働省の担当者と連絡を取りつつDNA鑑定結果を待ちました。昨年12月に厚生労働省HPに、法医学・歯学専門家、警視庁科学捜査研究所員らで構成される第21回戦没者遺骨DNA鑑定会議が開かれたと掲載されていたので、懇意にさせてもらっている担当者に、当該事案について開示可能な範囲で結果を教えて下さいとお願いしたところ、御遺族とのDNA照合の結果が一致した事を告げられ、「御遺骨は荼毘に付されたあと、記名遺品と共に御遺族にお届けする事になります」と教えてもらいました。

こうして私達が真喜志さんと共に発見した御遺骨は、無事に故郷で待つ御遺族の元へお帰りになるという、とても嬉しい結末となったのです。ちなみに沖縄県においては、戦没者遺骨DNA鑑定で身元が特定された事例はとても少なくて、村本福次隊長の特定は5例目であるとの事です。

真喜志康一さんのお墓参り

2018年1月16日/遺骨収集の様子no.4

ここが真喜志家のお墓です。写真にお二人写されていますが、右側が真喜志さん、左側は松永さんです。独立混成第四四旅団工兵隊(球7073/村本福次隊長)に所属していた、真喜志さんのお父さんである真喜志康一元陸軍兵長がここに眠っています。私は昨年来の安里における真喜志さんと共に行った遺骨収集活動の様子と、亡きお父さんこそが熱望されていた村本福次隊長の郷里への帰還をご報告し、感謝の念と共に本当にお疲れ様でございました、有り難うございました。と頭を垂れました。
※真喜志様の掲載許諾を得ています。

PAGE TOP