平成27年(2015年)沖縄遺骨収集奉仕活動

1月16日(金) 故具志八重さんのお墓参り

飛行機もほぼ定刻に那覇空港に到着しまして、11時過ぎに無事に松永さんと合流しました。「あれ寒い…」これが空港に到着した第一印象でしたが、松永さんによると「ひつじ年は寒い」という言い伝えが沖縄にはあるそうで、実際に今年に入ってから寒い日が多いそうです。遺骨収集という観点では寒いのは大歓迎ですよね。それに沖縄の人が寒い寒いと言っても、内地からやって来た私達からすると、とても暖かな日和なんですけどね~。(^o^)

松永さんとは一年ぶりの再会となりますが、車中でご挨拶と、この一年間における遺骨収集奉仕活動に関わるいろんな情報交換を行いつつ、故具志八重さんが眠るお墓に向かいました。

私も三つのお陰を蒙り、こうして今年も無事に沖縄に到着しました。具志さんの墓前で二人揃ってご挨拶を申し上げ、また今シーズンの遺骨収集の実りある成果が得られますように、そして御霊様が喜ばれる遺骨収集となりますように御祈念させて頂きました。

故具志八重さんのお墓参り

遺骨収集の様子1

故具志八重さんは、サトウキビ畑の先に見える墓所の一角に安置され眠りについています。 私たちは四度目のお墓参りという事になります。墓前に立ちて具志さんの戦渦に翻弄された青春時代と戦後の軌跡とに思いを馳せ、困難に負けず波乱に富む人生を力強く生き抜いた事に改めて敬意を表したいですね。ここに改めて、故具志八重さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m。

沖縄陸軍病院第三外科壕は6月19日の米軍によるガス弾攻撃により、壕内に居た数多くの病院関係者やひめゆり学徒が犠牲になりましたが、故具志八重さんは第三外科壕での数少ない生存者の中のお一人でした。沖縄戦当時、故具志八重さんは沖縄陸軍病院第三外科の婦長でしたが、第三外科壕内での米軍によるガス弾攻撃を受けた瞬間や、その後の生き地獄となった壕内の生々しい様子、そしてご本人の奇跡的に生還した様子などを本の中で証言しています。

「閃光の中で 沖縄陸軍病院の証言」

長田紀春・具志八重共著 ニライ社 平成平成4年(1992年)初版

「閃光の中で 沖縄陸軍病院の証言」のなかで、故具志八重さんが著述された、第三外科壕への米軍のガス弾攻撃の箇所を引用させて頂きます。

【ガス弾投下】

翌未明、壕入り口で男の声で「出て来なさい」と何度も呼びかけていた。皆黙って動かないでいたら、突然壕の中にガス弾が投げ込まれた。真白い煙が壕内一杯に立ちこめて息が苦しくなった。むせて咳が出てくるのを無理にこらえ、奥へ奥へと手探りで這って進んでいる間に意識を失ってしまった。気づいたのが何時間後か、何日たったのかわからなかった。あたりを見回すと今まで壕の入り口を被うていたソテツやツタ、アダン等は全部砲弾で焼き払われて禿げ、岩肌が大きな口を開け、風通しのよくなった岩の上に仰向けに倒れていた私の顔に明るい太陽がまぶしくそそいでいた。

左横を見ると、どこから入手されたのか、防毒マスクをした婦長が倒れていた。マスクの間や下腹部あたりから蛆がはいまわっているのを、ただボーッと見つめているだけだった。

沖縄の六月は小満芒種といって、無風の暑さはすさまじいほどきびしいものであるが、特に空気の全く動かない壕の中の高温多湿は想像以上で、戦死した者や生きていても負傷した傷口は腐るのが早く、死臭がわかるのか、どこから来るのか蛆がすぐはいまわってきた。

気がつくと私も左足首をねんざして立てなくなっていた。戦場での足の負傷は死を覚悟しなければいけない。皆に迷惑はかけられないと思い、婦長の傍に横になった。野原秀子看護婦が私の横で不安そうに見守ってくれていた。しばらく横になっていたが、ふと、母が疎開で別れる際に「お前一人残して行くのがつらい」と言った言葉を思い出し、「どうせ死ぬなら外の新しい空気を吸ってから死のう」と夜になるのを待ち、野原看護婦のすきをみて、重い足を引きずりながら梯子を昇り始めた。手摺は星明かりで雪のように白い。目の錯覚だと思い触ると、それは蛆であった。梯子の途中で戦死していた通信兵の屍体から湧き出たものとわかった。

その横を通り、出口に近づくと、そこには老婆の足が木の根から岩に引っかかり壕の中に逆さにつり下がっていた。死体の長い白髪より髪の毛か蛆かが落ちていくのを見ながら出口に出た。そのとたん待ち構えていたらしく機銃で右大腿部を撃たれたため、完全に歩けなくなってしまった。でも壕の後方の崖を這って降り、キビ畑の傍の溜水を腹一杯のんでキビ畑の中に隠れて、照明弾のあがるのをみながら散発的に聞こえる砲弾の音でうとうとし始めた。

【捕虜となる

夜が明けた。いきなり初めて見る赤い顔の敵兵が目前に立っていた。敵兵は負傷していることを知って治療しようとしたが断って座り続けた。間もなくトラックに他の住民と共に乗せられ、名城ビーチか瀬長の砂浜かよくわからない所へ降ろされた。

(以下省略)

「閃光の中で 沖縄陸軍病院の証言」から転載させて頂きました

故具志八重さんと共に

具志八重さんと我が妻

故具志八重さんと私の妻です。(平成16年2月15日/第31回金光教沖縄遺骨収集奉仕)
具志さんはこの時86歳でした。高齢ではありますが、この頃はまだとてもお元気でしたね。今でも憶えていますが、この時は思いの外、具志さんと妻との会話が弾み、二人で長く話をしていたのが印象的でした。私が毎年のように遺骨収集から帰っては具志さんの話を妻に語り聞かせていた事の影響もあり、今回妻は初めて遺骨収集奉仕活動に参加しましたが、具志さんとお会いするのを楽しみにしていた事は間違いありません。そして妻の具志さんに関わる知識的裏付けが会話を盛り上げた一因であると思います。翌日具志さんにお目にかかった時には、具志さんの著書である「閃光の中で 沖縄陸軍病院の証言」を、妻に署名入りでプレゼントして下さいました。

戦没者遺骨収集情報センター

遺骨収集の様子2

私と松永さんとで作業開始する前に「戦没者遺骨収集情報センター」にご挨拶を兼ねて訪問しました。

「戦没者遺骨収集情報センター」は、平成23年(2011年)、沖縄県摩文仁の平和祈念公園の一角に開設されました。センター開設に伴い沖縄に集う各諸団体の連携の元、遺骨収集奉仕活動が効率的に行われるようになりましたね。

「島守の塔」

遺骨収集の様子3

島田沖縄県知事と荒井沖縄県警察部長をはじめ戦没県職員468柱を祀る「島守の塔」の全景です。写真奥のジャングル内に軍医部壕があるわけですが、島田知事と荒井警察部長の消息は、軍医部壕を出た所で途絶えているために、ゆかりの軍医部壕前に慰霊塔を建てました。「島守の塔」の名称は、県下の公募で寄せられた七百余通の中の一等入選作から命名されたそうです。

遺骨収集の様子4

「島守の塔」の献花台にはいつ来ても生花が絶えないという印象があります。今日もご覧のように沢山献花されていました。「島守の塔」が建立され、除幕式と第一回慰霊祭は昭和26年(1951年)6月25日に行われました。島田知事夫人美喜子氏を本土からお迎えし、5000人近い一般の沖縄県民が参列して式典は盛大に執り行われたといいます。

島田氏は、内務省の命により大阪から赴任しましたが、島田氏はこの話を断ることもできる地位にいましたが、「俺が(沖縄へ)行かなんだら、誰かが行かなならんやないか。俺は死にとうないから、誰かに行って死ね、とはよう言わん」と、神戸弁で沖縄県知事就任を即決したといいます。文官は軍人と違って、殉職を予想しての任官はそうそうあるものでは無いはずですが、島田氏は沖縄の困難な時局を背負う覚悟で引き受けられたのだと思います。

一方、荒井警察部長は、立場上東京で開かれる全国警察部長会議に行く機会が何度かありましたが、会議より県民疎開の仕事が大事だと、結局就任以来沖縄本島から出ることはありませんでした。ご家族は郷里である栃木県に引き上げさせていましたから、上京の機会を利用すれば家族との面会もできたにも関わらずです。

このように島田知事と荒井警察部長は車の両輪のごとく、沖縄戦の混乱で県庁が解散するまでの約5ヶ月間、戦時下における沖縄県民の生命を守るべく、県政業務すなわち疎開政策と食糧不足対策に尽力されたのでした。特に二人が軍と協力して推し進めた沖縄県民の県内外疎開政策により、沖縄戦を生き延びた県民は二十万人にも達し、沖縄戦犠牲者が日米双方で約二十万人であることを考えると、もっと高く評価されても良いと思いますね。

島田知事と荒井警察部長は、6月25日か26日のどちらかの日に、軍医部壕を出たとされています。「壕内で死んだのでは迷惑がかかる」と、死に場所を求めて壕を出たというのが生存者の証言から明らかとなっていますが、ではなぜ軍医部壕に居たのかという理由は次のような経緯があったようです。

島田知事と荒井警察部長は、摩文仁の第三十二軍司令部壕に牛島軍司令官と長参謀長を訪ねた時、「最後の行動を共にさせていただきたいので、この壕に居らせてほしい」と頼んだそうですが、牛島軍司令官は「自決するのは我々だけでよろしい。知事は行政官で、戦闘員ではないのだから、ここで死ぬ必要はありません」と言われ、指示に従い軍医部壕に入ったようです。牛島軍司令官としては、島田知事に軍司令部壕に居てもらうと、危機が迫った時に自決しかねないと思われたようです。それで軍医部壕に入るよう指示したというのが真相のようです。

【住民に「生きろ」沖縄戦時の島田知事、顕彰の動き広がる】

「産経新聞」平成27年5月2日

太平洋戦争末期に沖縄県最後の官選知事として住民保護に尽力し、本島南部で消息を絶った島田叡氏を顕彰する動きが広がっている。命日とされる6月26日には那覇市で顕彰碑が除幕され、出身地の兵庫県との交流会も予定される。国に命をささげることが礼賛された時代、住民に「生きろ」と呼び掛けた島田氏のメッセージが戦後70年を経て再評価されている。

米軍の上陸が迫る1945年1月、島田氏は大阪府内政部長から沖縄に第27代知事として派遣された。44年10月の空襲で那覇は壊滅的な被害を受け、前任者は東京に出張したまま戻らなかった。

当時、県人事課にいた板良敷朝基さん(97)は「死を覚悟して沖縄に来られたはずなのに、非常に穏やかな表情だった。この人となら運命を共にできると思った」と振り返る。

着任後、食糧確保のため自ら台湾に渡り、県民約10万人の日本本土などへの疎開を陣頭指揮。日本軍が首里の司令部放棄と南部への撤退を決めると、知事も職員らとともに糸満市の「轟の壕」に移動した。だが米軍の猛攻は収まらず、壕で県庁を解散。同市摩文仁の陸軍司令部壕に向かい、消息を絶った。43歳だった。

旧日本軍は「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓から、住民にまで集団自決を強要していた。だが島田氏は県庁を解散した際、県警察部職員の山里和枝さん(88)に「米軍は女性と子どもには手を出さないから、最後は投降しなさい。必ず生き抜いて、戦後の沖縄のため尽くしてほしい」と言い残したという。

戦後、戦没職員とともに「島守」とたたえられた島田氏。主人公にしたドラマの影響もあり、有志でつくる団体が2013年から顕彰碑建立への協力を呼び掛け始めた。

賛同の署名は3万に上り、建立のため沖縄県内外から600万円以上の寄付が集まった。島田氏が学生時代に野球に打ち込んだことから、那覇市の球場近くに建立される。那覇市で開かれる兵庫県との市民交流会には、井戸敏三知事も出席する方向で調整している。

「産経新聞」から転載させて頂きました

【終戦間際の沖縄県警察部長荒井退造 職に殉じた「栃木の偉人」】

「産経新聞」平成27年6月11日

郷土史研究家が功績伝える

終戦間際、戦況が厳しくなった中、沖縄県警察部長として県民の疎開を進め、沖縄では知らない人がいないと言われる荒井退造(たいぞう)(1900~45年)。最後は職に殉じ、沖縄本島最南端に当時の知事とともに石碑が建てられたが、出身地・宇都宮ではほとんど知られていない。荒井の偉業を伝えるため、20年研究してきた宇都宮市の郷土史研究家、塚田保美(やすみ)さん(83)が13日、同市内で講演する。

講演は13日午後1時半、同市竹林町のトヨタウッドユーホームすまいるプラザ「オトスクホール」で開かれるが、反響は大きく、既に予約で満席となった。

■7万3000人を県外疎開

荒井は旧清原村出身。旧制宇都宮中学校(現宇都宮高校)を卒業後、苦学して高等文官試験に合格。内務省官僚として警察の要職を歴任した。そして、昭和18年7月、沖縄県警察部長に就任。現在の県警本部長に当たる重責で、沖縄が戦場になる危機が迫っていた。県民の疎開に取り組んだが、当時の知事は状況を楽観視し疎開に消極的だった。塚田さんは「それでも荒井の信念は変わらず、最悪の事態を想定して動いた」と話す。

「まつげに火が付いてからでは遅い」。状況を打開するため19年6月、県庁職員、警察官の家族700人を疎開させて機運を高め、第2、第3次疎開を実現させた。10月の沖縄大空襲、12月の知事の突然の上京、転任と事態は混迷。20年1月にようやく新しい知事に島田叡(あきら)(1901~45年)が赴任した。以後は島田と二人三脚で奔走し、20年3月までに7万3千人を県外に疎開させた。

4月1日には米軍が沖縄本島に上陸。県外疎開が不可能になった状況でも戦闘が激しい島南部から北部へ15万人を避難させた。「合わせると20万人以上を救ったことになる」と塚田さん。6月9日には警察警備隊解散となるが、「警察官の職務は忘れるな」と訓示した。「その後も毎日のように警察官が避難誘導中に殉職している。荒井の訓示に忠実だった」。塚田さんは警察官の行動に感銘を受けたという。

日本軍の抵抗は沖縄本島南部へと追い詰められていく。荒井は赤痢が重くなっていた。6月26日、島田に抱えられるように、島南端の摩文仁(まぶに)の森へ入っていく姿を目撃されたのを最後に2人の遺体は見つかっていない。

戦後、摩文仁の丘(同県糸満市)には島守の塔が建てられ、2人の終焉の地を示す碑がある。

■顕彰へ機運高まる

塚田さんは約20年前、荒井の長男、紀雄さんが書いた「戦さ世(ゆう)の県庁」(中央公論事業出版)を手にする機会があり、荒井が宇都宮高校の先輩であることを知った。「細々と研究を続けてきたが、世に出す機会がなかった」。平成25年の「宇高同窓会報」に寄稿する機会が巡り、大きな反響を得た。「宇高だけの誇りではない。栃木県の誇り」。そんな声も寄せられ、出身地・宇都宮で荒井を顕彰する機運が高まった。塚田さんは「荒井の名を残すため何をやるか、これからの課題」と話している。

「産経新聞」から転載させて頂きました

遺骨収集の様子5

ご覧下さい。「奉納 琉球金物株式會社」と書いてあります。沖縄はその昔、琉球と呼ばれていましたよね。松永さんは、こうした琉球という呼称された物品が残存しているのは、本当に少なくなったと語っていました。

国立沖縄戦没者墓苑

遺骨収集の様子6

昭和54年2月に建立された国立沖縄戦没者墓苑です。松永さんと共に遺骨収集作業開始前に訪れ、沖縄戦で散華された御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げました。

【国立沖縄戦没者墓苑の建立から現在までの経緯】

沖縄戦においては、軍民合わせて18万余の尊い命が失われました。この戦没者の遺骨収集は戦後、いち早く地域住民の手によりはじまり、各地に納骨堂や納骨堂を兼ねた慰霊塔を急造し、収集した遺骨を納めました。

昭和32年(1957年)には、政府が当時の琉球政府に委託して、那覇市識名に戦没者中央納骨所を建設し、納骨してまいりましたが、次第に収骨数が多くなるにつれ、中央納骨所が狭隘となってまいりました。このため、国難に準じた戦没者の遺骨を永遠におまつりするのにふさわしい墓苑を新たに造るべきであるとの要望が沖縄県をはじめ関係遺族等から寄せられ、厚生省(現厚生労働省)の配慮により昭和54年に本墓苑が創建され、中央納骨所から本墓苑に転骨したものです。

しかし、その後、毎年のように約100柱が新たに収集納骨されたことから、昭和60年に後方に納骨堂が増設されました。現在、本墓苑には戦没者18万余柱が納骨されております。

正面の参拝所の屋根は沖縄の伝統的技法により焼かれた赤瓦を使い、紋には桜の花を用いています。納骨堂には、沖縄産の琉球トラバーチン1千個が琉球王家の墓を模した古来の技法で積み上げられています。納骨堂はコの字形となっていますが、これは祖国の平和の礎となられた同胞を温かく抱擁していることを意味しています。

納骨堂に抱きかかえられるように安置されている石棺は福島県産の黒御影石で、どっしりとした万成御影石の台座にのっています。石棺の中には、沖縄の各戦場の象徴遺骨が白木の箱に分骨して納められております。

「沖縄県平和祈念財団サイト」から転載させて頂きました

県営平和祈念公園 式典広場

遺骨収集の様子7

県営平和祈念公園内にあるこの広い敷地は「式典広場」と呼ばれており、その名の通り、沖縄戦の組織的戦闘が終結した6月23日には、この式典広場で政府主催の沖縄全戦没者追悼式が挙行されます。

平和之丘モニュメント

遺骨収集の様子8

式典広場の最前部にある建造物で、平和之丘モニュメントです。

遺骨収集の様子9

平和之丘モニュメントの説明文です。

遺骨収集の様子10

沖縄戦当時、住民達が逃げ込んだガマを再現したという事で、奥まった暗い部分に入って見ましたが、確かに暗くてガマの雰囲気はありましたね。

「南冥の塔」改修工事

遺骨収集の様子11

「沖縄師範健児之塔」や「南冥の塔」に至る参道をよく見ると、どうやら工事をしているようです。

遺骨収集の様子12

「南冥の塔」の改修工事を告知する看板です。確かに「南冥の塔」は全体的にコンクリートを中心に傷みが激しかったですよね。修繕が為された新しい「南冥の塔」は来年には見られそうですから楽しみに待つことにしましょう。

「南北之塔」

今夕は那覇市内にある金光教那覇教会に林先生を訪ねる予定となっていますが、帰る途中の道すがら、「南北之塔」に慰霊巡拝で立ち寄ることになりました。私はこの「南北之塔」には一年に一度は必ず訪れることにしています。ずいぶん昔の話ですが、金光教の遺骨収集奉仕活動により、「南北之塔」横のアバタ壕内で兵隊さんが身につけていた黄色い石鹸箱が発見され、その記名遺留品からご遺族が特定され、ご遺族の元へ石鹸箱等の遺留品が届けられましたが、感激したご遺族は以降毎年金光教の遺骨収集奉仕活動に参加されていました。しかしながらその方が病気を煩い体調を崩された為に、遺骨収集奉仕活動参加が難しくなってしまいました。その事を知った私は、「黄色い石鹸箱」というご縁もある事から、以降ご遺族の代理になったつもりで、「南北之塔」での慰霊参拝を続けているのが現状です。また慰霊巡拝後は必ずその報告を行ってもいます。

『南北之塔』は県道250号線沿いにある真栄平集落の背後にある小山の一角にある「アバタ壕」の入り口手前に「南北の塔」はあります。

沖縄戦末期の真栄平では多くの沖縄県民と日本兵が犠牲になりました。収容所から戻った区民らは、まず屋敷内や道路・田畑に散乱する遺骨の収集から始めねばならなかったといいます。

集落の端に積まれた遺骨や遺体を「アバタ壕」に「真栄平納骨堂」として埋葬。昭和41年に区民や県外の元日本兵や遺族らの寄付で同塔を改築し「南北之塔」と命名しました。改築に伴い壕内に納められていたご遺骨は平和記念公園に移されたという話です。

塔名の「南北」は、北は北海道、南は沖縄まで全ての犠牲者に思いを馳せ、哀悼の意を込めた命名であると聞いています。

「南北之塔」

遺骨収集の様子13

昭和41年に改築された「南北之塔」の現在の様子です。

【慰霊碑碑文】

沖縄戦終焉の地、ここ真栄平は最も悲惨な戦場と化し、多くの犠牲者を出した所である。当時の人口は九百人の中、生存者はわずか三百人余りであった。沖縄の戦後は遺骨収集から始まったと言われ、収容所から帰った区民も直ちに屋敷内や道路、田畑、山野に散らばっていた遺骨の収集をはじめた。

この塔には、真栄平周辺で戦禍に倒れた区民をはじめ、中南部からの避難民、軍人等、数千柱の身元不明者の遺骨が納められ、その御霊が祀られている。

この塔は終戦間もない昭和21年、真栄平納骨堂として、世界の恒久平和の願いを込め、真栄平区民によって建立された。昭和41年、真栄平遺族会や篤志家のご芳志を受けて改築を行い、現在の南北の塔が完成された。

毎年6月23日には、戦没者のご冥福をお祈りするとともに、平和の尊さを子々孫々に伝える行事として慰霊祭が行われている。

平成元年3月 真栄平自治会

遺骨収集の様子14

「南北之塔」の右側奥まった所には「アバタ壕」が見えます。

遺骨収集の様子15

「アバタ壕」です。

遺骨収集の様子16

私達は献花し手を合わせ、「アバタ壕」やこの付近一帯で亡くなられた戦没者のご冥福をお祈りしました。

遺骨収集の様子17

今日は時間が無いので壕内部には入りませんでした。奥行き50メートルはありませんが、空間としてはかなり広いです。米軍の激しい馬乗り攻撃を受け、壕内壁面は煤で真っ黒になっています。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

遺骨収集の様子18

「南北之塔」ではご覧のように、「個人墓碑の移動について」という問題が予てよりあるんですよね。確かにご覧のように個人的に設立した墓碑は無数にあります。これは「アバタ壕」やこの付近で亡くなったと特定された戦没者が大勢いらっしゃるという事でもありますね。

遺骨収集の様子19

ギリギリ読めますね。戦没者の肉親もまた高齢化していますので、より良い解決策が見つかることを祈りたいですね。

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