令和03年(2021年)沖縄遺骨収集奉仕活動

1月13日(水) 故具志八重さんのお墓参り、戦没者遺骨収集情報センターご挨拶

世界に拡散した、武漢コロナの影響を強く感じた旅でした。何より驚いたのはJALの機内に、乗客が40名ぐらいしか乗っていなかった点ですね。飛行機を飛ばす度に赤字が膨らむ‥‥。これは飛行機に限らず、経済的に見れば、私達の社会全般が萎縮しているのが実情です。私も商売をしていて、売り上げの90%以上を失う月もありました。しかしながら、こう言う時だからこそ沖縄に行かねばならない‥‥。

武漢コロナ蔓延状況を鑑み、沖縄行きの中止を忠言して下さる方々の心配りが、心に染み入り誠にありがたいと感じつつも、寄る年波に購うのも難しく終着点までの健康寿命を逆算する事しばし‥‥。沖縄滞在中は、逼迫する病院のお世話には絶対ならないと覚悟を決め、忠言する方々に「誠にご免なさい」とお詫びしつつ、機上の人となりました。

令和3年(2021年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.1

富士山ですね。今年は例年以上に冬の寒さが厳しかったので富士山はどうしているかな?と写してみました。北風の当たる北側よりも反対の南側に積雪が多いように見えます。それだけ強い北風が吹き続けたという事なのでしょう。また付近の山々の稜線を見ても例年以上に白くなっていて、冬が厳しい寒さであった事を想起させます。これら付近の山々の稜線を白くしているものは、積雪という事もあるでしょうが、木々に霧氷が付着して白く連なっているという風にも見えます。

令和3年(2021年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.2

機上から沖縄本島の島尻地域を見ています。飛行機はすでに高度を落としながら着陸態勢に入り右旋回で飛行しています。写真中央部、緑の濃い場所辺りがが平和祈念公園ですね。白い塔である沖縄平和記念堂なども見えています。少し内陸を見ますと与座のレーダーサイトである白いドームなども目視出来ます。第三十二軍の首里撤退以降、南部陣地帯前線であった与座と、第三十二軍司令部が置かれた摩文仁とは距離で僅か4kmです。

遠くには那覇市街も見えます。飛行機が那覇空港に着陸する際、冬型の気圧配置の場合は間違いなく太平洋側から本島南端海岸線に沿うように旋回して、那覇空港への着陸態勢を取る事になりますから、1月2月のこの時節は、多くがこのようなアプローチで着陸態勢に入る事になりますね。

今年はコロナの影響で絶対に本島の島尻すれすれにアプローチを取るに違いないと確信していました。そして実際に摩文仁一帯をどうぞご覧下さいと言わんばかりに、機体も右側に傾斜させ正に地表面を俯瞰するのに絶好のロケーション態勢で飛んでくれます。因みに今回のように本島南端すれすれコースで旋回してくれるのは、着陸する飛行機が渋滞していない場合だけです。着陸の順番待ちがある場合は、着陸の順番が遅いほど旋回航路が南へ南へと移動していきます。ですからコロナ以前では観光客が世界中から押し寄せていましたから、島尻すれすれに飛行コースをとるのは数年に一度ぐらいでした。しかしながら、このように摩文仁海岸線に沿って飛ぶ事が数年に一度程度ですがあったので(コロナ以降のこれからは毎年かな?)、毎年飛行機の予約は早めに、且つ機体のなるたけ前方右の窓側席を取るようにしていました。(^o^)

長く沖縄遺骨収集奉仕活動に携わりたいという方は、この飛行機の席選びもこだわりたいですよ。どういう事かと申しますと、飛行機という高い目線から地表面を眺められるという絶好の機会だからです。「塵も積もれば山となる」の例えのように、回を重ねる程にその効果は積算されて行く事となります。摩文仁一帯をグーグルマップの航空写真画像を眺めている方も多いでしょうが、やはりビールと同じく、“生” にはかないません。(笑)

自分の二つの目で直接見る摩文仁の地表面ですから実際の距離感が感じ取れますし、現時点での地表の活用状況が一目で俯瞰できます。地表面は年々変化しています。また遺骨収集は主にジャングルで展開されますから、道路と緑豊かなジャングルの位置関係、そしてジャングルそのものの地形や傾斜度、そしてその範囲などなど、前日までに観察する場所などポイントを絞っておけば有意な観察をする事が可能です。何よりも、これらの情報は追加料金なしで観察出来るのですから、とてもありがたい話であると言えるでしょう。私達は折角飛行機に乗っている訳ですし、高い料金を支払っているのですから、元を取る努力を怠ってはなりません。(笑)

令和3年(2021年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.3

飛行機は羽田空港離陸後、約三時間程で那覇空港へ着陸します。私は今回初めての体験となりますが、埋め立て面積が約160ヘクタールと、大規模に造成され昨年の3月26日から運用開始となった那覇空港第二滑走路へ着陸しました。写真はすでに着陸し減速している段階で撮影しました。那覇空港上空の雲が少ない事からも解るように、冬型も緩んで北風も弱いらしく安全安心なランディングでした。陸側遠くに航空自衛隊の格納庫群が写されていますから、第二滑走路はかなり沖合に設けられた事が解ります。第一滑走路との距離は実に1310mもあるそうですよ。(^o^)

具志八重さんのお墓参り

令和3年(2021年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.4

墓園の一角にバナナの木がありました。三段着果しているのが見えますが、まだ青々していますから、食べ頃まではまだ少し待たねばならない様ですね。バナナの花はかなり大きいのですよね。葉が枯れていたり枯れかかっていますね。昨年の強い台風でダメージを受けたのかもです。株全体に元気がありませんね。先端部には花の蕾が見えていますが、ご覧のバナナの木は、開花→着果という段階は過ぎたようで、連続的に咲き続く花も終わりが近いようです。

令和3年(2021年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.5

サトウキビ畑の先に見える集団墓所のとある一角に、故具志八重さんは安置され眠りについています。松永さん、福岡さん、そして私の三人で今年は参拝する事と相成りました。

具志八重さんと金光教による遺骨収集との関係も、語れば語るほど長くそして深いです。金光教の遺骨収集は、今から44年前の昭和52年(1977年)から始められましたが、沖縄戦当時は看護婦であり第三外科婦長でもあった具志八重さんは第一回目から、救護班の一員として参加協力して下さっていたのです。そして金光教運営委員会による遺骨収集奉仕活動が終了した第26回目以降も精力的に支援を続けて下さり、お亡くなりになる直前まで参加され元気なお姿を私達に見せて下さいました。

具志八重さんは、戦後は政府立公衆衛生看護学校助教師や保健所勤務をされていた関係で、金光教の遺骨収集でも救護班として参加協力をされました。私達が収骨作業を終えて本部テントに戻ると温かいお茶とサーターアンダギーなどのお菓子が用意されていて、頬張ると疲れた体もたちまち元気を取り戻しますし、ホッとした気分に浸るのが常でしたが、そのお菓子類の多くは、具志八重さんの差し入れだったのです。

具志八重さんは沖縄戦当時、沖縄陸軍病院に勤務しており、米須にある第三外科壕では看護婦長として負傷兵の看護に当たった事はすでに述べました。沖縄戦も末期である6月19日未明、米軍による第三外科壕に対する馬乗り攻撃で、ガス弾の集中投下により壕内に居た多くの女子学徒隊や陸軍病院関係者が亡くなられましたが、奇跡的に助かった数人の内のお一人でもあります。

こうした経緯もあり、具志さんは戦後自らの悲惨な戦争体験を語り継ぐなどの平和活動にも取り組まれました。そうした中で沖縄戦当時軍医見習士官として第三外科壕で勤務していた故長田紀春氏と共に、生存者の証言を集めた『閃光の中で 沖縄陸軍病院の証言』(長田紀春・具志八重編/ニライ社)を出版されました。

令和3年(2021年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.6

具志八重さんの墓参を終えて車に戻ると、ヤモリが車の上に居ました。私は埼玉県に住んでいますが、狭いながらも庭があるので、同じようなヤモリ君は庭に沢山居ますね。因みにヤモリに似た生物でイモリが居ますね。ヤモリとかイモリの名の由来は、水の中に棲んでいて井戸を守っているから井守(イモリ)、家の中に棲んでいて家を守っているから家守(ヤモリ)と言うのだそうです。

車のトランクルームのドアが開いています。目の前のヤモリ君が車の中に逃げ込んだら‥‥。即ち餓死が待っている事でしょう。私達はヤモリ君がトランクルームに入らないように慎重に追い立てました。車の中に入り込むのは絶対避けたいですし、道路側に逃れれば車に引かれて死んでしまう‥‥。と言う状況下、ゆっくりと結構な時間を掛け、歩道を越えてサトウキビ畑側の畑の中に追い立てる事に成功しました。やったー。(^o^)

元ひめゆり学徒であった宮良ルリさんが、8月12日逝去されました。
御冥福をお祈り申し上げます。m(_ _)m

「戦のむごさ伝えた」 宮良ルリさん死去 関係者ら悼む声

【琉球新報】令和3年(2021年)8月17日

元ひめゆり学徒で、糸満市にあるひめゆり平和祈念資料館館長も務めた宮良ルリ(みやら・るり)さんが、12日午前4時6分、老衰のため那覇市内の病院で死去した。94歳。石垣市出身。自宅は那覇市松川。告別式は15日、家族で執り行った。喪主は次男光昭(みつあき)さん。

1945年の沖縄戦当時、沖縄師範学校女子部本科1年だった宮良さんは「ひめゆり学徒隊」として沖縄陸軍病院に動員され、負傷兵の看護に当たった。解散命令後の6月19日未明、伊原第三外科壕(現在のひめゆりの塔の下)で米軍のガス弾攻撃を受け、多くの学友や教師を失った。

戦後は教職に就き、退職後の1984年から資料館建設に携わった。89年の開館以降は証言員として県内外で戦争体験を伝え続けた。2010年4月から11年3月まで同館館長。10年8月には台湾の国立台東生活美学館から招待を受け県内平和資料館・美術館の館長らと共に訪台、体験を伝えた。その後も証言員として活動し、13年に引退した。

同館の普天間朝佳館長(61)は「元気な頃の宮良さんの顔を思い出し、寂しい気持ちだ」と惜しんだ。伊原第三外科壕では、教師4人と学徒38人が犠牲となり、戦後も自分だけ生き残ってしまったという思いを抱えた。「証言員として活動する中で『体験を後世に伝えるために生かされたと思うようになった』と話していた。その思いが心の支えになったのだと思う」と話し、長年の活動をたたえた。

「琉球新報」から転載させて頂きました

元ひめゆり学徒の宮良ルリさん死去 沖縄戦の教訓語り継ぐ 94歳

【沖縄タイムス】令和3年(2021年)8月16日

沖縄戦に看護動員されたひめゆり学徒隊の一人で、糸満市のひめゆり平和祈念資料館の館長も務めた宮良ルリ(みやら・るり)さんが12日午前4時6分、老衰のため那覇市内の病院で死去した。94歳。石垣市出身。自宅は那覇市松川。告別式は15日に家族葬で執り行なわれた。喪主は次男光昭(みつあき)さん。

小学校時代に本を読み聞かせした女性教師に憧れ、石垣島から本島の沖縄師範学校女子部に進学。18歳だった本科1年在学中に沖縄戦に巻き込まれ、南風原陸軍病院で看護業務に当たった。現在のひめゆりの塔(糸満市)にあった伊原第三外科壕に隠れていた際、米軍の攻撃を受け多くの死傷者が出た中、奇跡的に助かった。戦後は故郷の石垣島で教職に就き、生徒に沖縄戦の体験を伝えた。

s1989年に開館したひめゆり平和祈念資料館建設時には、期成会資料委員会の副委員長。開館後は証言員として館内で活動したほか、県内外の講演に出掛けるなど精力的に自らの戦争体験を伝えた。2010~11年には、資料館の6代目館長も務めたが、体調を崩し13年3月に証言員を退いていた。

夫は沖縄国際海洋博覧会沖縄館初代館長の故・宮良徹二氏、息子は元琉球新報社専務取締役の故・宮良健典氏。

「沖縄タイムス」から転載させて頂きました

「私のひめゆり戦記」

宮良ルリ著 ニライ社 昭和61年(1986年)初版

故具志八重さんは沖縄陸軍病院第三外科の婦長でしたが、第三外科壕内での米軍によるガス弾攻撃を受けた瞬間や、その後の生き地獄となった壕内の生々しい様子、そしてご本人の奇跡的に生還した様子などを本の中で証言しています。

「閃光の中で 沖縄陸軍病院の証言」

長田紀春・具志八重共著 ニライ社 平成4年(1992年)初版

軍医見習士官長田紀春氏と第三外科婦長である具志八重氏の共著となっています。沖縄陸軍病院(球18803部隊)は、第一外科(外科)、第二外科(内科)、第三外科(伝染病科)の編成で戦傷患者の治療に当たりました。同著には長田紀春氏と具志八重氏の共著者以外に、36名もの看護婦さんや衛生兵の手記が掲載されています。従軍されたお一人お一人に、その人ならではの沖縄戦があるのだなと感じます。具志八重氏の手記では、6月19日陸軍病院第三外科壕では米軍によるガス弾攻撃で、壕内に居た96名(うち教師5名・生徒46名)のうち、87名が犠牲になりました。具志八重氏は第三外科壕から奇跡的に生還したお一人ですが、そのガス弾が投げ込まれた時の阿鼻叫喚の地獄絵と化した壕内の様子や、生死を別けた壕内のその後の様子を生々しく活写されています。

「閃光の中で 沖縄陸軍病院の証言」の中で、故具志八重さんが著述された、第三外科壕への米軍のガス弾攻撃の箇所を引用させて頂きます。

【ガス弾投下】

翌未明、壕入り口で男の声で「出て来なさい」と何度も呼びかけていた。皆黙って動かないでいたら、突然壕の中にガス弾が投げ込まれた。真白い煙が壕内一杯に立ちこめて息が苦しくなった。むせて咳が出てくるのを無理にこらえ、奥へ奥へと手探りで這って進んでいる間に意識を失ってしまった。気づいたのが何時間後か、何日たったのかわからなかった。あたりを見回すと今まで壕の入り口を被うていたソテツやツタ、アダン等は全部砲弾で焼き払われて禿げ、岩肌が大きな口を開け、風通しのよくなった岩の上に仰向けに倒れていた私の顔に明るい太陽がまぶしくそそいでいた。

左横を見ると、どこから入手されたのか、防毒マスクをした婦長が倒れていた。マスクの間や下腹部あたりから蛆がはいまわっているのを、ただボーッと見つめているだけだった。

沖縄の六月は小満芒種といって、無風の暑さはすさまじいほどきびしいものであるが、特に空気の全く動かない壕の中の高温多湿は想像以上で、戦死した者や生きていても負傷した傷口は腐るのが早く、死臭がわかるのか、どこから来るのか蛆がすぐはいまわってきた。

気がつくと私も左足首をねんざして立てなくなっていた。戦場での足の負傷は死を覚悟しなければいけない。皆に迷惑はかけられないと思い、婦長の傍に横になった。野原秀子看護婦が私の横で不安そうに見守ってくれていた。しばらく横になっていたが、ふと、母が疎開で別れる際に「お前一人残して行くのがつらい」と言った言葉を思い出し、「どうせ死ぬなら外の新しい空気を吸ってから死のう」と夜になるのを待ち、野原看護婦のすきをみて、重い足を引きずりながら梯子を昇り始めた。手摺は星明かりで雪のように白い。目の錯覚だと思い触ると、それは蛆であった。梯子の途中で戦死していた通信兵の屍体から湧き出たものとわかった。

その横を通り、出口に近づくと、そこには老婆の足が木の根から岩に引っかかり壕の中に逆さにつり下がっていた。死体の長い白髪より髪の毛か蛆かが落ちていくのを見ながら出口に出た。そのとたん待ち構えていたらしく機銃で右大腿部を撃たれたため、完全に歩けなくなってしまった。でも壕の後方の崖を這って降り、キビ畑の傍の溜水を腹一杯のんでキビ畑の中に隠れて、照明弾のあがるのをみながら散発的に聞こえる砲弾の音でうとうとし始めた。

【捕虜となる

夜が明けた。いきなり初めて見る赤い顔の敵兵が目前に立っていた。敵兵は負傷していることを知って治療しようとしたが断って座り続けた。間もなくトラックに他の住民と共に乗せられ、名城ビーチか瀬長の砂浜かよくわからない所へ降ろされた。

(以下省略)

「閃光の中で 沖縄陸軍病院の証言」から転載させて頂きました

《書籍ご紹介》

「沖縄戦前保健婦の足あと」

具志八重・小渡静子編 ニライ社 昭和61年(1986年)月初版

《書籍ご紹介》

「沖縄一中鉄血勤皇隊の記録(下)」

兼城 一編著 (株)公文研 平成21年(2005年)初版

この本は題名の通り、沖縄一中鉄血勤皇隊の沖縄戦での軌跡が書き記されたもので、上下冊あり大部の本です。この本の中に具志八重さんも書かれている 「ガス弾」 についての記述がありますのでご紹介します。ガス弾が投げ込まれたという記述は沖縄戦記の中でよく登場しますが、私は長くガス弾とは毒ガスなのかそうでないのか良くわからずじまいで居ました。なかなかガス弾についての情報が得られない中で、この文章に出会い納得したので皆様にもご紹介したいです。

226ページ
「沖縄戦では米軍はガス弾を使用したといわれている。たとえば、ひめゆり学徒隊のいた第三外科壕にガス弾が撃ちこまれ、ほとんどの人が死亡した、ということはよく知られている。このガス弾について、曾野綾子氏は著書『生贄の島』のなかで、これは国際法で禁じられているイペリットやホスゲンなどの毒ガスとはちがって、現在、警察の機動隊などが使っている催涙ガスの一種ではなかったか、と述べている。この種のガスはガスの量が多ければ、空気が希薄になって呼吸ができなくなる、という。米軍は洞窟にとじこもっている日本兵を壕からいぶり出すために、このガス弾をよく使った。

「沖縄一中鉄血勤皇隊の記録(下)」から転載させて頂きました

と書き記されています。そうだったのか‥。と納得のいく記述ですよね。第三外科壕による米軍のガス弾攻撃で亡くなられた方々の多くが、結果として酸欠で呼吸できず亡くなられたと強く推測されます。特に第三外科壕の様に、ある意味縦穴のような空間では、大量に放たれたガスが壕底部に滞留し続けるという可能性が高いです。

話が少し逸れてしまいますが、米軍が沖縄戦で多用したもので、ガス弾と共にナパーム弾というのがあります。この兵器もまた過度な燃焼による空間の酸欠と、1000度を超える耐えがたい熱波によって人を殺していく兵器です。

沖縄の方で沖縄戦当時12歳だったというYさんの話を11年前になりますが聞く機会がありました。Yさんの話によりますと、「ナパーム弾」は別名「油脂爆弾」と呼び、広範囲の面積が一瞬に、そして見事に火の海になるそうです。摩文仁は岩だらけの場所ですが、その岩だらけの場所でも、ナパーム弾を投下すると長時間にわたり岩場が燃えていたといいます。

また「ナパーム弾」の超高熱の火炎を浴びると、薄い皮膚などは簡単にペロッと剥げてしまったそうです。沖縄戦当時、少年だったという方から話を聞く機会がありました。逃避行の途中で靴はどこかに行ってしまい、摩文仁海岸を裸足で逃げ回ったそうですが、ナパーム弾攻撃を受けた経験があり、その方の証言でも、ナパーム弾攻撃の後は、24時間過ぎても岩が熱くて触れなかったと語っていたのが印象的でした。

【具志八重さん死去 沖縄陸軍病院で看護婦長 93歳】

【琉球新報】平成23年3月8日

沖縄戦当時、沖縄陸軍病院の第3外科で看護婦長として負傷者の治療に当たった具志八重(ぐし・やえ)さんが6日午後5時52分、肺機能低下のため那覇市内の病院で死去した。93歳。那覇市出身。告別式は8日午後2時半から3時半、南城市佐敷字仲伊保470の2、日本キリスト教団佐敷教会で執り行われる。喪主は甥・石川悟(いしかわ・さとる)氏。

具志さんは戦前から保健師として活動。戦後も生き残った看護師、保健師、助産師の有資格者に登録を呼び掛けたり、結核患者の療養環境の整備や、母親学級の開始など焼け野原になった沖縄の保健医療行政の基盤づくりに尽力。退職後は「沖縄いのちの電話」のボランティアとしても活動した。保健師活動の一方で、戦跡の案内や自らの戦争体験を語るなど平和活動を積極的に行った。

沖縄陸軍病院第3外科で軍医として働き、戦後、具志さんと一緒に生存者の証言を集め出版した長田紀春さん(90)=那覇市=は「医療者としてたくさんの犠牲者を見てきたという戦争体験が、戦後の活動、平和運動につながっていた。長い間のご尽力に感謝したい」と話した。

県看護協会の奥平登美子会長は「看護職の育成に貢献し、離島などの駐在保健師の基礎づくりをした。温厚で誠実、統率力に優れた人で、一貫して住民の側に立ち健康福祉に尽力した人だと聞いている。ご冥福をお祈りしたい」と述べた。

「琉球新報」から転載させて頂きました

【[訃報]具志八重さん死去 米軍のガス弾投下証言 93歳】

「沖縄タイムス」平成23年3月8日

沖縄戦で旧沖縄陸軍病院の元第三外科婦長を務め、戦後、戦争体験の証言などに尽力した具志八重(ぐし・やえ)さんが6日午後5時52分、肺機能低下のため那覇市内の病院で死去した。93歳。那覇市東町出身。自宅は那覇市小禄4の7の20。告別式は8日午後2時半から3時半、南城市佐敷仲伊保470の2、日本キリスト教団佐敷教会で。喪主はおい悟(さとる)氏。

1933年に県立第二高等女学校を卒業。45年、沖縄戦に動員され、旧沖縄陸軍病院の元第三外科婦長を務めた。77年保健婦を退職。戦跡の案内や戦時中に第三外科壕(糸満市伊原)で米軍によるガス弾投下の被害に遭ったことなどを証言した。82年、国連で開かれた軍縮特別総会に参加。92年には長田紀春さんと共に「閃光(せんこう)の中で―沖縄陸軍病院の証言」(ニライ社)を編集した。

「沖縄タイムス」から転載させて頂きました

戦没者遺骨収集情報センターご挨拶

私達三人は具志八重さんのお墓参りの後、戦没者遺骨収集情報センターにご挨拶する為にお伺いしました。本日から13日間ここ沖縄の摩文仁で遺骨調査・収集作業に取り組ませて頂きますので、同活動の統括部署である戦没者遺骨収集情報センターを訪ね、まずは到着のご挨拶をするのが慣例となっています。

私達メンバー数人は「南部戦跡遺骨収集会」という団体名でセンターに登録した上で活動しています。これまでの沖縄における遺骨収集について一定の評価をして頂けるようになりまして、最近はセンターからの依頼により調査や作業をお手伝いする機会を頂けるようになりました。到着早々にそうした諸作業の打ち合わせを行いました。

また遺骨収集奉仕活動に関わる手続き上の手順や事柄について変更や修正が時折行われるので、そうした変更の有無についても確認し、掌握した上で適正にルールを遵守するように努める為にも、初日に戦没者遺骨収集情報センターをお訪ねするのは必須となっています。

戦没者遺骨収集情報センターご挨拶

令和3年(2021年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.

戦没者遺骨収集情報センター前で記念撮影をしました。右側がベテランの福岡さん、そして左側が沖縄在住の松永さんです。松永さん抜きに私たちの沖縄遺骨収集は考えられません。それぐらい絶大なる力添えを頂いています。いつもありがとうございます。(^o^)

PAGE TOP