平成29年(2017年)沖縄遺骨収集奉仕活動

1月12日(木) 故具志八重さんのお墓参り、新設された「台湾之塔」慰霊巡拝

今年も無事にここ摩文仁之丘に立つ事が出来ました。明日から例年通り遺骨収集に取り組める事が何よりも嬉しく感じます。(^o^)

当ウエブサイトをご覧下さっている方ならご存じのように、昨年43回実施をもって金光教沖縄遺骨収集奉仕活動が終了してしまいましたからね。これまでは金光教の皆さんにおんぶに抱っこで、何もかも依存しつつ遺骨収集に取り組んで参りましたが、今年からはそうはいきません。全て自分で段取りし、各機関へ連絡する、手続きをする、報告するなどの手続きを自ら行わなければなりません。

即ち一から十まで、全部自分たちで手続きをしなければ、一歩だって先に進めないという訳です。昨年参加させて頂いた第43回金光教沖縄遺骨収集奉仕活動の終了後、埼玉県の自宅に戻ってからは、しばらくは「来年は出来るのだろうか…」と不安になり、鬱になりかけました。(^^;)

鬱になりかけたというのは、少しオーバーな表現でしたが、皆さんもそうでしょう。34年間続いた習慣を変えよと言われても、ハイ解りましたと簡単に思考回路を変えられるはずもありませんよね。という事で、漠然とした不安な気持ちが長く続いたので、このままではいけないと思い、摩文仁にある遺骨収集情報センターのNさんに電話を掛けて、「来年も遺骨収集をやりたいのですが可能でしょうか」というお問い合わせをしたところ、「金光教の皆さんがやっていた事と同じようにやって頂ければ大丈夫ですよ」という暖かなお言葉を頂きました。(^o^)

遺骨収集の実績を重ねた金光教沖縄遺骨収集の信用力は、絶大なものがあるという事ですよね。という事で、遺骨収集情報センターのNさんのお話を伺った後は、不安感も消え去り、来年への期待値も高まり、本番に向けてコツコツと準備を続け、こうして無事に一年ぶりに摩文仁の丘に立つ事が出来ました。

那覇空港に到着し、金光教那覇教会にご挨拶に伺いました。それから林先生、松永さん、そして私の三人で故具志八重さんのお墓参りをする為に、車で出かけました。毎年このお墓参りが最初のイベントとなります。さあ今日から事故の無いように気をつけて、「ご遺骨一柱見つける」事を最大目標として、11日間頑張ります。松永さんを始めとする参加メンバーの皆さん、最後までよろしくお願いします。m(_ _)m

故具志八重さんのお墓参り

2017年1月12日/遺骨収集の様子no.1

故具志八重さんは、サトウキビ畑の先に見える墓所の一角に安置され眠りについています。 金光教那覇教会の林先生が、私たちと一緒に具志八重さんのお墓参りをしたいとの事で、林先生、松永さん、そして私の三人でお墓参りしました。墓前では林先生は簡略ながらご祈念して下さいましたから、具志八重さんも喜んで下さったのではないかと思います。ここに改めて、故具志八重さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。

「国立沖縄戦没者墓苑」

2017年1月12日/遺骨収集の様子no.2

金光教那覇教会の林先生を、具志八重さんのお墓参りの後に那覇教会までお送りしてから、私と松永さんの二人は摩文仁に参りまして、具志八重さんのお墓参りと同じく恒例となっています「国立沖縄戦没者墓苑」にて手を合わせました。

本日は私と松永さんの二人ですが、後日には戦没者慰霊への志を同じくする数名の仲間が摩文仁にやって参ります。その馳せ参ずるメンバーを代表して、そして日本を守るために大東亜戦争を戦い抜いた方々の児孫である同世代を代表して、今年も金光教の皆さんが語るところの三つのお陰(健康・時間・金銭)を蒙り、無事にこうして激戦の地摩文仁に立てたことにまず感謝し、悲しくも沖縄戦で果てた二十万余の戦没者に対し、心からの慰霊の言葉を申し述べました。そして願わくば、ここ摩文仁に未だ眠る、誰にも看取られることなく戦野に果てた戦没者一柱が見つからんことを祈願致しました。

2017年1月12日/遺骨収集の様子no.3

昭和54年(1979年)に創建された「国立沖縄戦没者墓苑」ですが、創建後38年が経過して参拝所を中心に傷みがひどくなったようで、この度建て替えとなるようです。ちなみに納骨堂は真っ黒になっていた石灰岩の表面が見事に磨かれて、荘厳な石造りの納骨堂が復活しました。今次改修工事は今年の春に始まりましたが、基礎工事の段階で不発弾が見つかりその対応と措置に、かなりの時間を要したと聞いていますが、来年1月に来た時には、もしかしたら新しい参道と参拝所が完成しているかもしれませんね。楽しみに待つことにしましょう。

「台湾之塔」

昨年の内に摩文仁の平和祈念公園内に、大東亜戦争における台湾出身の戦没者を顕彰・慰霊する「台湾之塔」が竣工、建立されたと聞き及んでいましたので、「国立沖縄戦没者墓苑」参拝の後に訪ねてみようと計画していました。

まずは「台湾出身の沖縄戦戦没者まつる塔が完成」と題する沖縄タイムスの記事をご覧下さいませ。

【台湾出身の沖縄戦戦没者まつる塔が完成】 糸満・平和祈念公園

「沖縄タイムス」2016年6月26日

【糸満】台湾出身戦没者をまつる「台湾之塔」の竣工式が25日、糸満市摩文仁の県平和祈念公園内で行われた。関係者ら約50人が参加して完成を祝い、戦没者に手を合わせた。

同公園内にはこれまで台湾出身沖縄戦戦没者をまつる塔はなく、日本台湾平和基金会や台日交流協会を中心に寄付を募り、昨年12月から建設を進めてきた。建設場所は沖縄戦で亡くなった航空関係者の慰霊搭「空華の塔」を管理する沖縄翼友会から提供を受けた。

日本台湾平和基金会の許光輝理事長は「日本と台湾の平和や友好を発展させる場所にしたい。文化や歴史の面でも交流を深めたい」と完成を喜んだ。

「沖縄タイムス」から転載させて頂きました

繰り返しますが、昨年6月25日に「台湾之塔」が竣工・完成しました。日本台湾平和基金会や台日交流協会を中心に広く寄付を募り、「空華の塔」を管理する沖縄翼友会から場所の提供を受けてここまで来ました。完成したのは塔だけであり、参道や植栽植物等の施工はこれからのようですが、ひとまず同塔が完成したという事で、日本人として、かつての同胞でもある台湾の皆さんと共に、心より祝意を表したいと思います。(^o^)

台湾と言えば世界でも有数の親日国で有名ですよね。6年前の東日本大震災の時も、世界の中で最も多くの義援金を送ってくれたのが台湾でした。その総額は実に200億円にのぼりました。台湾の人口や物価を考えると、台湾の人々は大変な金額を送ってくれたのです。これには日本人の一人として、改めて心より感謝申し上げる次第です。

日本人と台湾人は民族的資質においても、とても似通っていますので価値観の共有が容易ですし、何より安全保障上の観点から同じ隣接する島国国家として、また貿易国家として同盟関係を構築する意義は十分にありますので、日台間の同盟関係が一日も早く構築される事を願うところです。

ところで、沖縄タイムスの記事が指摘しているように、これまで台湾出身沖縄戦戦没者をまつる塔はありませんでした。建立された碑文にも書かれていますが、「当時台湾から勇んで参戦した20万余の軍属軍人の内、約3万柱の戦没者と1万5千余人の行方不明者は…」と書かれていますように、20万余の台湾人が参戦して下さり、結果として45,000人余りの方々が戦死或いは行方不明になられたにも関わらずです。

これは日本国の政治の不在、不作為を嘆かずには居られません。大東亜戦争当時の台湾人は日本人と同胞でした。日本が台湾を併合したからですが、そうした状況下、 台湾の人達は積極的に日本軍への参加を希望してくれました。『台湾と日本・交流秘話』(展転社)によれば、台湾に対しては1942年から陸軍特別志願兵制度が実施されまして、その年の募集人員は1020人だったのですが、志願者はなんと42万5961人で、競争率は418倍です。1943年の1008人の募集に対して60万1147人が応募したのです。競争率は約600倍でした。

1944年には海軍志願兵の募集も始まり、陸軍は従来の倍以上の2497人を募集したのに対して40万人以上の応募がありました。なかには是非とも合格したいと、血書嘆願する青年が相次いだそうです。これほどの熱情を持って日本と共に大東亜戦争を戦ってくれたのでした。欧米列強の植民地支配ではこうした事態はあり得ないでしょう。例えばイギリスの植民地であるインドでは、何度も飢餓が発生するほど、インド国民は搾り取られ搾取され続けるなどそれは酷い扱いを受けました。

そんな非人間的な酷い扱いを受けたインド国民が、イギリスの為に自らの命を賭けようと思うでしょうか。一方で日本の台湾や朝鮮統治は併合であり、日本国民と同等の権利を持つ国民となったのです。日本陸海軍は、当時の少年の絶対的な憧れの対象であった少年飛行兵への門戸を、台湾や朝鮮出身者にも等しく開いたのです。

建立された「台湾之塔」についても、碑文を読んで頂ければ得心しますが、先の大戦に台湾から参戦し散華された軍人軍属などの御霊を慰霊・顕彰する碑であるとしています。即ち台湾の人々は、日本が負けたにも関わらず日本軍とともに戦ったことを「功績・善行」と前向きに捉えて下さっているのです。台湾の人達と戦争観を共有しながら強敵米英と戦った事を誇りに思いますし、台湾の人達のこうした姿勢を、私たちは未来永劫忘れず記憶に留め置きたいですね。

「台湾之塔」

2017年1月12日/遺骨収集の様子no.4

新設された「台湾之塔」が見えてきましたね。この土地を提供したのは、航空関係者の慰霊搭「空華の塔」を管理する沖縄翼友会(玉那覇徹次会長)です。ちなみに「空華之塔」(くげのとう)は、沖縄並びに太平洋航空戦に散華した先輩、同僚や、これらと運命を共にした航空機材の冥福を祈ると共に、再建日本の航空発展を祈念するのを趣旨として建立されました。土地を提供した「沖縄翼友会」のウエブサイトを下に貼っておきましたのでご覧下さいませ。

2017年1月12日/遺骨収集の様子no.5

「台湾之塔」です。立派な塔が完成しましたね。ご覧のように台湾国本島をモチーフにして表現しています。「台湾之塔」という文字は、台湾総統の蔡英文氏による揮毫です。塔名の左側にそのように記されていますね。ちなみに蔡英文政権はシナ共産党と距離を置き、日米との関係を重視している事から潮目は変わったと言えるでしょう。これを機に日台は接近していかねばなりません。そしていつの日か台湾国という独立国家として国連に加盟し、日本とも国対国の対等の外交関係を結べる日が来ますように祈念したいですね。(^o^)

2017年1月12日/遺骨収集の様子no.6

大東亜戦争において台湾から参戦し散華された軍人軍属などの御霊を慰霊・顕彰する碑が完成した今、改めて当時台湾から勇んで参戦した20万余の軍属軍人の内、約3万柱の戦没者と1万5千余人の行方不明者の方々のご冥福をお祈りしたいですね。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

2017年1月12日/遺骨収集の様子no.7

台湾語による「慰霊碑碑文」です。漢字を追うと、それとなく意味は伝わってきますね。

2017年1月12日/遺骨収集の様子no.8

こちらは日本語による「慰霊碑碑文」です。ギリギリ読めますが、下にテキストを起こしておきましたのでご覧下さいませ。同塔は一般社団法人 日本台湾平和基金会と特定非営利活動法人 台日交流協会が主体となって設立されたのが見てとれます。

【慰霊碑碑文】 台湾之塔建立にあたり

台湾之塔は、先の大戦に台湾から参戦し散華された軍人軍属などの御霊を慰霊・顕彰する碑であります。本来在るべき摩文仁の丘に戦後70年もの間、建てられずにいた事に心を痛めた日台両地の有志に浄財を集めることにより建立されたものです。

当時台湾から勇んで参戦した20万余の軍属軍人の内、約3万柱の戦没者と1万5千余人の行方不明者は、共に我々の同胞でした。時代が変わろうと、人が自らの命を犠牲にして他者を救わんとした行為は、民族や国家の如何を問わず、人道の範として称され語り継がれなければなりません。

建立地となったこの土地は、「戦時中の御恩返しの一端となり日本と台湾の交流・日台親善の懸橋ともなれば是に過ぎるものはない」として、沖縄翼友会より提供されました。このように日台間の恩義により結ばれる絆が、アジアと世界の人々の希望と成らんことを願ってやみません。

此処に台湾之塔の建立をもって御霊の安らかんことを願い、この塔を訪れる全ての人々が先人の恩義に優る交流を心掛けられる事を祈念致します。

2016年8月15日
一般社団法人 日本台湾平和基金会
特定非営利活動法人 台日交流協会

2017年1月12日/遺骨収集の様子no.9

「台湾之塔」は摩文仁の丘の中でも標高の高い位置に建立されています。ご覧のように眼前には太平洋の大海原が広がっています。ご覧のように敷地も広いですよね。塔が完成したことから、これから順次参道や植栽などのレイアウトも霊域に相応しいように整備されていくことでしょう。

《書籍ご紹介》
台湾にまつわる書籍をご紹介させて頂きます。

「この命、義に捧ぐ」

門田隆将著 集英社 平成22年(2010年)初版

門田氏のノンフィクションでの筆力には、いつも感動を覚える印象があります。時は大東亜戦争が終結して4年後の1949年、シナ大陸において国共内戦で敗走に敗走を重ねた国民党軍は、ついに大陸を離れ押し寄せる共産党軍と廈門・金門島を挟んで対峙するに至りました。10月24日からの古寧頭の戦いでは、国民党軍はシナ共産党軍の2万兵力を壊滅させ、ここにシナ共産党の台湾侵攻は挫折したのです。まさかの信じられないような奇跡の大逆転勝利となった金門海峡における戦いの背後に、内蒙古の日本軍司令官・根本博中将が、国民党軍の顧問として作戦指導を行っていたのです。金門海峡における戦いに、国民党軍がもしも負けていれば、台湾も確実にシナ共産党独裁政権に飲み込まれて、地図も赤く染められていた事でしょう。即ち内モンゴル、チベット、そしてウイグルの地におけるシナ共産党による少数民族抹殺の悲劇が、そのまま台湾民衆の悲劇となるのです。

こうしてみると、大東亜戦争敗戦に伴い根本博中将が指揮してのシナ大陸からの日本国居留民引き上げといい、戦後における彼の行動と軌跡は日本武士道の真髄を見る思いが致します。埋もれた歴史の中から日本の英雄を掘り起こして下さった門田氏に感謝です。

2017年1月12日/遺骨収集の様子no.10

「台湾之塔」にり隣接する場所にあった掲示物で、ユニークだったので撮影してみました。掲示板に書かれている通り、ここで蝶のオオゴマダラの餌であるホウライカガミの木を育て、オオゴマダラの幼虫を育てるのを目的としているようです。

蝶であるオオゴマダラは、東南アジアに広く分布し、日本では喜界島、与論島以南の南西諸島に分布するそうで、季節を問わず繁殖するので1年中見ることができるそうです。また成虫の期間も長く、羽化してから数ヶ月、条件がよければ半年ほど生き続けるそうですから、寒い冬の沖縄で遺骨収集している際にもよく目にしますよね。

2017年1月12日/遺骨収集の様子no.11

写真の写真の蔓のような植物がオオゴマダラの餌であるホウライカガミのようですね。

《過去の写真ご紹介》

2017年1月26日/遺骨収集の様子no.12

平成24年(2012年)の遺骨収集作業中に見つけたオオゴマダラの蛹です。上の写真と同じですから間違いないですね。撮影場所は何と壕の中です。壕の中には餌などある筈もありませんから、どのような経緯で壕内のこの撮影場所まで這ってきたのか不思議でなりません。

「高摩文仁グスク」

2017年1月12日/遺骨収集の様子no.13

「高摩文仁グスク(たかまぶにぐすく)」と書かれていますね。この周囲一帯は、中世の遺跡である古いグスクがあった場所のようです。この掲示がある場所は、平和祈念公園最奥部の「黎明之塔」の少し手前に設置されています。ちなみに糸満市からここ摩文仁までの地域一帯は、沖縄本島全体の中でも、際だって古城の多い地域として知られています。

例えば高摩文仁グスクから西側を見ても、ガーラグスク、米須グスク、石原グスク、波平グスクなどが規則正しく並んでいます。これはこの地域一帯の石灰岩で構成される平坦面が、活断層活動により切断された傾動地塊となっているからであり、結果として古城の南側が緩やかな傾斜となり集落が発展し、北側の断層崖の崖上にグスクが立地するという共通性があります。

これは与座の東西に連なる断層崖、また「魂魄の塔」から喜屋武岬灯台まで連なる断層崖も同じ事が言えます。南側は緩やかな傾斜面、北側は断層崖という地形ですね。

お城と言えば大概高台にあります。またお城のある所には、付近に必ず湧き水や川が流れています。沖縄守備軍が構築した陣地壕も将兵への新鮮な水の補給を意識して配置された事は間違いありません。こうした理由から、古城のあった場所、或いは古城の近くに守備軍陣地を構築するのは必然であったとも言えるでしょう。

ちなみに高摩文仁グスクとしての残存する遺構は、僅か数メートルの切石積の石垣がのこ残るのみとなっていますが、ロケーションが糸満市喜屋武の具志川グスクに似て素晴らしい眺望ではあります。

2017年1月12日/遺骨収集の様子no.14

鹿児島県の慰霊塔「安らかに」です。「高摩文仁グスク」の遺構として残存する切石積の石垣は、鹿児島県の慰霊塔「安らかに」の背後にあります。

2017年1月12日/遺骨収集の様子no.15

松永さんが見つめている背後の石垣が「高摩文仁グスク」の遺構として残存するものです。写真の上の方には構築物がありますが、歩道になっており、「勇魂の碑」や「黎明之塔」へ到る通路になって居ます。推測するにわざわざ橋にしたのは、この「高摩文仁グスク」の石垣を保護する為だと考えられますね。その証拠として橋脚に注目して下さい。右側の橋脚はコンクリート製で、石垣のある左側は、石垣を保護するかのように橋脚を設けていません。

2017年1月12日/遺骨収集の様子no.16

写真左側の雑な野面積みの石垣は、一つの推測ですが公園整備の際に積まれた石垣で、写真中央から右側の布積みの石垣が「高摩文仁グスク」の石垣ではないかと推測されます。勿論右側の布積みの石垣自体も、そのほとんどが戦後再構築されたものに違いありません。なぜなら摩文仁に第三十二軍司令部があると判断した米軍は、艦砲砲撃などでで摩文仁89高地を徹底的に破壊し、月世界のように白い石灰岩の小山にしてしまったのですから。

2017年1月12日/遺骨収集の様子no.17

歩道橋の下から、振り返って撮影してみました。

2017年1月12日/遺骨収集の様子no.18

歩道橋の下をくぐり撮影しています。奥に進むにつれて石垣の高さも僅かな高さになります。

2017年1月12日/遺骨収集の様子no.19

歩道橋を越えたあたりの石垣です。この辺の石垣の色も、通常の石灰岩の劣化による変色とは違い、砲撃の際に付着した黒煙なのかとても黒っぽいし、雰囲気的に米軍の攻撃による破壊を免れて、戦前から残存する石垣のような印象です。あくまで印象だと断っておきますが…。また石垣の高さが1メートルぐらいしかありません。これでは敵からの防御は出来ませんから、上の方にはもっと高く石垣があったのかも知れません。

2017年1月12日/遺骨収集の様子no.20

石垣の一番奥です。この先は北側に位置しますが、今度は崖になっています。そんなに高い崖ではありません。高摩文仁グスク全体で、場所により違いますが、3~5メートルぐらいの崖になっています。ですから敵からの防御という意味では、この東方に面する石垣側の防御態勢が城の防衛力を示す事になるでしょう。

2017年1月12日/遺骨収集の様子no.21

写真は第三十二軍司令部が入っていた壕の通気口の一つです。米軍による摩文仁攻略の最終曲面で爆雷を投げ込まれ、近くに居た日本軍将兵の多くが犠牲になりました。

「勇魂の碑」

2017年1月12日/遺骨収集の様子no.22

「勇魂之碑」が見えてきましたね。摩文仁の奥まった場所、展望台の近くにありますが、通路に面していることから、見落とす可能性は低いと思います。

2017年1月12日/遺骨収集の様子no.23

「勇魂之碑」です。第三十二軍司令部の将兵と軍属約六百人を祀った鎮魂碑です。「勇魂之碑」の左側には、「第三十二軍司令部戦没者名碑」が設けられていました。沖縄守備軍第三十二軍司令部の指揮下で、沖縄を守るため、祖国日本を守るため、六万五千人余りの他府県出身軍人と二万八千人余りの沖縄県出身軍人と軍属が、渾身の限りを尽くして雄々しく戦い、そして散華されたことを長く語り伝えたいですね。

米国軍事評論家 ハリソン・ボールドウイン氏は次のように論評しました。
「太平洋戦争(大東亜戦争)中、日本軍で最も良く戦ったのは、沖縄防衛部隊である。また太平洋戦争において日本の名将を二人あげるとすれば、陸軍の牛島と海軍の田中である」(注記:田中とは第二水雷戦隊司令官の田中頼三海軍中将です)

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

2017年1月12日/遺骨収集の様子no.24

少し見にくいですが、大きな岩の下に書かれている碑文によれば、「牛島軍司令官、長参謀長、両将軍之墓跡」と記されています。

「黎明之塔」

2017年1月12日/遺骨収集の様子no.25

第三十二軍司令官牛島満中将と参謀長長勇中将を祀る「黎明之塔」です。揮毫は戦後総理大臣となった吉田茂氏です。この慰霊塔の近くには沖縄を守る第三十二軍の最後の司令部壕がありまして、6月23日黎明午前4時30分、司令官牛島満中将と参謀長長勇中将は自刃して果てました。またこの「黎明の塔」は、裏側から見ると司令官牛島満中将が割腹自決を遂げる姿になっていると言われています。

「黎明之塔」は摩文仁之丘の最も高い場所にあり、正式には摩文仁岳と呼ばれる標高は89メートルの位置にあるそうです。またこの付近一帯は高摩文仁グスクの跡地でもあり、鹿児島県の慰霊塔付近に、往時を偲ぶ石垣が残されています。

第三十二軍司令官牛島満中将と島田叡(あきら)沖縄県知事にまつわる話として、次のような会話がありました。
6月16日沖縄県庁の島田知事が「轟の壕」を後にして、牛島満中将と参謀長長勇中将をこの司令部壕に訪ねて来ました。島田知事は「最後の行動を共にさせて頂きたいので、この壕に居らせてほしい」と頼まれたそうですが、牛島満司令官は「自決するのは我々だけでよろしい。知事は行政官で戦闘員ではないのだから、ここで死ぬ必要はありません」と言われたそうです。牛島満司令官は島田知事が司令部壕に居ると、危機が迫った時に自決しかねないと思われたようで、結果として司令部壕から東側200メートルぐらいの場所にある軍医部の壕に入るように勧められ、そのように軍医部の壕に移られたそうです。(「沖縄の島守 内務官僚かく戦えり」田村洋三著より)

第三十二軍司令官牛島満中将と参謀長長勇中将のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

2017年1月12日/遺骨収集の様子no.26

碑文です。なんとか読めますか。年々劣化していますね~。(^^;)

沖縄および沖縄近海の制海・制空権を失い、本土などからの補給路を遮断された沖縄守備軍は、昼夜を分かたず打ち込まれる砲爆撃に耐え、孤立無援の中で、昼間は陣地壕に潜み、肉弾攻撃的な夜襲にて奪われた陣地を奪還するという、限られた戦い方しか出来ませんでしたが、日本軍将兵はそれに良く耐え戦い抜いたと言えるでしょう。

米軍は進軍するに際し、準備砲撃として、守備軍陣地の背後を徹底的に砲撃したといいます。これは、守備軍の補給路を断つという意味であり、道路も寸断され大きな穴だらけの荒野を、前線まで重い砲弾一発でも運ぶのは困難を伴うというのは、私達にも十分理解できるところです。このように米軍は沖縄守備軍の補給路を断った上で、守備軍陣地に向け進軍してくるのです。沖縄守備軍の、補給が途絶するか寸断された前線では、驚くことに戦死した米兵の武器や食料なども持ち帰るなどして食いつなぎ、戦闘を継続していったといいます。

沖縄戦での日米両軍の戦力比は、総合すれば1対30にも達するといわれたのです。勝てる戦争でないのは誰の目にも明らかだったのかもしれません。結果的に沖縄守備軍は敗北を喫してしまいましたが、1対30というようなような、その圧倒的な物量があり、無尽蔵の補給の裏付けがある完全武装の米軍に対し、日本軍将兵の肉弾攻撃に頼るこの類をみない敢闘精神は、もっと高く評価されるべきであり、実に賞賛に値するものであるといえるでしょう。

思えば、太平洋戦域の将兵はもちろん、沖縄守備軍も同様に一部の職業軍人を除き、前線で死闘を展開した多くの兵士が、徴兵制により招集された人達だったのです。軍隊に入る前は農夫であったり、サラリーマンであり、職人さんであったろうし、沖縄県民の壮青年であり、沖縄の将来を担うと目されていた若き男女学生たちだったのです…。これは大東亜戦争の目的意識を全ての国民が共有していたからこそ桁外れの国威となったと言えるでしょう。

第9師団の台湾への抽出。第84師団の派遣中止。水際作戦から持久作戦への転換に伴う、戦列の再配置と既存の構築陣地からの撤退などなど…。大本営の作戦変更などにより、防備体制の再構築に多大な時間を割かねばなりませんでしたが、そうした状況の中で沖縄守備軍第三十二軍は、圧倒的な砲爆撃で攻めてくる米軍に、歩兵と巧妙に連携した砲火網を組織し、米軍をしばしば撃退したし、「洞窟戦法」で粘り強く戦ったといえるでしょう。

航空特攻をより効果的に運用するために、本島の飛行場確保も重要ではありましたが、飛行場を守るためにわずか一週間そこそこで玉砕するよりも、洞窟陣地を拠点として粘り強く戦い、敵に出血を強要し、少しでも長く米軍を沖縄に留め置く…。第三十二軍長勇参謀長は、本土決戦への時間を稼ぐという強い決意を、「われ本土の捨て石とならん」という言葉で、関係各兵団に表明したのです。

そしてその言葉通り、沖縄守備軍第三十二軍は、硫黄島の栗林忠道中将率いる小笠原兵団の陣地構想と同じである、内陸部縦深防御方式に叶う強固な洞窟の築城に励みつつ強い敢闘精神をもって、圧倒的な弾雨に耐え粘り強くその目的を実現していったのです。

米軍による沖縄攻略は、約一ヶ月と見込まれていましたが、守備軍の頑健な抵抗により、米軍側に硫黄島の二倍近い戦死者を出させると共に、支援する高速空母機動部隊も同時に釘付けにするという、米軍の沖縄攻略後の作戦行程を、大幅に遅延させることに成功したのです。戦後、沖縄守備軍第三十二軍は、米国から「太平洋戦争中、日本軍で最も善く戦ったのは、沖縄防衛部隊であった」と、最大の評価を受けた事からも言えるように、牛島満司令官、長勇参謀長を始めとする沖縄守備軍第三十二軍将兵は、歴史に刻まれるべき優れた敢闘精神を持って、与えられた任務を十分に果たしたと言えるでしょう。

沖縄戦末期の6月18日、自刃の5日前ですが、第三十二軍司令官牛島満中将が大本営と直属上司の第十方面軍司令官安藤利吉大将宛てに次の決別電報を送りました。

大命を奉じ、挙軍醜敵撃滅の一念に徹し、勇戦敢闘、ここ三ヶ月、全軍将兵鬼神の奮励努力にもかかわらず、陸、海、空を圧する敵の物量制しがたく、戦局まさに最後の関頭に直面せり。

隷下部隊本島進駐以来、現地同胞の献身的協力の下に、鋭意作戦準備に邁進し来り、敵をむかうるにあたっては、帝国陸海軍部隊呼応し、将兵等しく、皇土沖縄防衛の完璧を期せしも、満、不敏不徳の致すところ、事志と違い、今や沖縄本島を敵手に委せんとし、負荷の重任を継続し能わず。

上、陛下に対し奉り、下国民に対し、真に申しわけなし。ここに残存手兵を率い、最後の一戦を展開し、一死以て御詫び申し上ぐる次第なるも、ただただ重任を果たし得ざりしを思い、長恨千載に尽くるなし。

最後の血闘にあたり、すでに散華せる数万の英霊とともに、皇室の弥栄と皇国の必勝とを衷心より祈念しつつ、全員あるいは護国の鬼と化して、敵のわが本土来寇を破壊し、あるいは神風となりて天翔り、必勝戦に馳せ参ずる所存なり。 戦雲碧々たる洋上なお小官統率下の離島各隊あり。何卒よろしくご指導賜りたく、切に御願い申し上ぐ。

ここに平素のご懇情、御指導並びに絶大なる作戦協力に任ぜられし各上司、各兵団に対して深甚なる謝意を表し、遙かに微哀を披瀝し以て決別の辞とする。

(第三十二軍司令官牛島満中将辞世の句)
秋待たで枯れ行く島の青草も 皇国の春に甦らなむ

矢弾尽き天地染めて散るとても 天がけりつつ皇国護らむ

(6月18日/参謀長長勇中将の辞世の句)

醜敵締帯南西地 飛機満空艦圧海 敢闘九旬一夢裡 万骨枯尽走天外

《書籍ご紹介》
第三十二軍司令官牛島満中将と参謀長長勇中将、そして八原博通大佐の作戦計画立案や指導の様子、「沖縄県民斯く戦へり…」という感動的な電文を送信した大田實海軍中将に関わる記述。また日米双方から俯瞰した沖縄戦そのものの意義や戦況に関わる著書をご紹介します。

「沖縄に死す 第三十二軍司令官牛島満の生涯」

小松茂朗著 光人社 平成13年(2001年)初版

「豪胆の人 帝国陸軍参謀長・長 勇伝」

阿部牧郎著 祥伝社 平成15年(2003年)初版

「沖縄決戦」 高級参謀の手記

八原博通著 読売新聞社 昭和47年(1972年)初版

「沖縄悲遇の作戦」 異端の参謀八原博通

稲垣 武著 光人社NF文庫 平成16年(2004年)初版

「沖縄県民斯く戦へり 大田實海軍中将一家の昭和史」

田村洋三著 光人社NF文庫 平成19年(2007年)初版

「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉伊東孝一の戦い」

笹 幸恵著 Gakken 平成27年(2015年)初版

「10万人を超す命を救った沖縄県知事・島田叡」

(株)ポプラ社 平成26年(2014年)初版

「私の沖縄戦記 前田高地・六十年目の証言」

外間守善著 角川書店 平成18年(2006年)初版

「船舶特攻の沖縄戦と捕虜記」

深沢敬次郎著 元就出版社 平成16年(2004年)初版

「特攻に殉ず 地方気象台の沖縄戦」

田村洋三著 中央公論新社 平成16年(2004年)初版

「沖縄かく戦えり」

浦崎 純著 徳間書店 昭和42年(1967年)初版

ここからは、米軍側から見た沖縄戦です

「沖縄 米海兵隊地獄の7日間 シュガーローフの戦い」

ジェームス・H・ハラス著 猿渡青児訳 光人社 平成19年(2007年)初版

「沖縄 陸・海・空の決戦」

B・M・フランク著 加登川幸太郎訳 産経新聞社出版局 昭和46年(1971年)初版

「特攻 空母バンカーヒルと二人のカミカゼ」

マクスウェル・ティラー・ケネディ著 中村有以訳 ハート出版 平成22年(2010年)初版

「ペリリュー・沖縄戦記」

ユージン・B・スレッジ著 伊東 真/曽田和子訳 講談社学術文庫 平成20年(2008年)初版

2017年1月12日/遺骨収集の様子no.27

「黎明之塔」から西側の摩文仁海岸線及び東シナ海を見ています。

2017年1月12日/遺骨収集の様子no.28

「黎明之塔」から東側の摩文仁海岸線及び太平洋を見ています。

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