はじめに

このサイトを靖国の杜に鎮まれる英霊に捧げます

遺骨収集ご用奉仕 それは 敗者の尊厳を守りぬくための旅路
遺骨収集ご用奉仕 それは 先人の為し得た偉業を慈しむための旅路
遺骨収集ご用奉仕 それは 歴史の真実を掘り起こすための旅路
遺骨収集ご用奉仕 されどもそれは 悲しい再会 ――

―― 遺骨収集とは、終章のない慰霊の旅 ――

『南部戦跡に膝をつきて』サイトをお訪ね下さいまして、ありがとうございます。(^o^)
皆様は、『遺骨収集』という言葉から何を連想しますでしょうか。人により湧いてくるイメージに違いがあるでしょうし、戦後の生まれ育った年代によっても、少しずつ違う印象を持たれているかもしれませんね。

遺骨収集を実施する地域などについては、一般的には東南アジア方面の主に日本軍玉砕地域である北マリアナ諸島のサイパン島やテニアン島、ソロモン諸島のガダルカナル島、ブーゲンビル島そしてトラック諸島などを連想される方が多いと思います。また東南アジア以外の他の地域としては、ロシア(旧ソビエト連邦)のシベリア地方や、2006年に公開された映画「硫黄島からの手紙」でも注目を集めた、東京都でもある太平洋上の硫黄島を思い起こされる方もいらっしゃるかもしれません。

そうした中で、私たちが現在も続けている遺骨調査・遺骨収集地域が、沖縄本島の南端部、摩文仁を含む沖縄戦跡国定公園内ですと言われましたら、「まさか…」と思われる方が多いのではないでしょうか。

例えば沖縄本島の南端部にある糸満市には、映画化され知らない人は居ないと思える “ひめゆり学徒” が祀られる『ひめゆりの塔』がありますが、その『ひめゆりの塔』から10分ほど車を走らせますと、広大な敷地を有する『沖縄平和祈念公園』などもありますね。沖縄南部観光をされた方々は、概ねこの『ひめゆりの塔』と『沖縄平和祈念公園』の二つの主要観光スポットを訪れているのではないかと思います。

終戦から50回目を迎えた平成7年6月、沖縄平和祈念公園内の太平洋を望む丘の上に『平和の礎』という名の、沖縄で戦死した20万人以上にのぼる全戦没者の名前と出身地を記載した石碑が建設されました。
沖縄戦戦没者の御遺族で、沖縄戦で亡くなられた叔父さんやお父さんの名前を探しに訪れた事があるという方がいらっしゃるかもしれません。

驚くことに、沖縄南部観光では有名なこれら主要観光地の道路路肩のすぐ横にある雑木林などから、遺骨が現在でも発見され続けているのです。すぐには信じられない方も多いと思いますが、一見華やかな南国リゾートとして名高い沖縄の、沖縄戦戦場であった証としての現実がここにあります。

今でも沖縄県では、時折不発弾が発見されたというテレビニュースが流れる事がありますよね。その爆弾の撤去をする為に、近隣住民が一時的に避難したなどという記事を目にしますが、この事も沖縄が正に戦場であった証左でもあります。

大東亜戦争の末期、沖縄では硫黄島に次いで激しい地上戦が展開され、沖縄県民を巻き込んだ激しい戦闘が日米間で繰り広げられました。その沖縄戦における戦死者の数は、幾種類かの推計がありますが、およそ20余万人と推計されています。これだけの人々がわずか三月余りの期間のなかで戦死されたのでした。

こうした戦野に果てた戦死者の遺骨収集についてですが、戦勝国のアメリカが沖縄を支配していた時代、すなわち沖縄を訪れるにはパスポートが必要だった時代は、組織だった遺骨収集を実施するのは認められませんでした。アメリカ兵などの戦没者は、駐留軍により丁重に一人一人に十字架が立てられ葬られているというのにです…。

悲しいかな日本側の戦死者の屍は、戦後長く沖縄の山野に野ざらしのまま放置しておかざるを得ませんでした。しかしながらそんな困難な状況の中でも一部の人達は、許可されない事を承知で粘り強くアメリカと交渉しながら、沖縄各地で細々と遺骨収骨作業を続けていたといいます。

昭和47年(1972年)5月15日沖縄返還協定により、戦後27年間にわたるアメリカの沖縄支配に終止符が打たれました。沖縄が日本に返還されたは言え、アメリカ軍基地が広大な敷地を占有したまま存続を続けているのは、誠に不快な思いに至りますが、施政権の返還により一応は沖縄の歴史に新たな一歩が刻まれたのでした。こうした経緯を経て沖縄が本土復帰した事により、沖縄での遺骨収集の機運が高まりました。

そして現在に至るまで、沖縄では遺骨収集をするために多くの団体や組織が繰り返し訪れ、戦場となった沖縄各地で山野に放置されたままの遺骨の収集作業が続けられたのです。現在でも複数の団体や個人単位で、ハブなどの蛇が冬眠している冬の期間に、コツコツと遺骨収集を継続されているというのが現状です。

しかしながら何十年も継続して遺骨収集が続けられてきたのだから、満足出来るレベルで沖縄遺骨収集が終結に近いかと申しますと、皆様には信じられないかもしれませんが、まだまだ山野には未収骨の遺骨がたくさん存在すると断言せざるを得ないのが現状なのです。

戦後60余年を経ても、沖縄県の山野には未だ収骨されずに眠る御遺骨が多数存在します。また戦場となった東南アジア各地のジャングル内には、日本軍将兵の未収骨の御遺骨が、未だ数十万柱という規模で野ざらしにされたままになっていると言われています。そうした状況のなかで、「御遺骨が自然消滅していく前に、私たち児孫の手で収骨してあげたい」 という機運もまた根強く存在します。

遺骨収集をメインテーマとしているこのサイトでは、沖縄における遺骨収集の現況を余すところなくご紹介してまいります。そして当サイトでは、「遺骨収集をやってみようかな」という尊い結論に至った方々の為に、十分なフォローをしていきたいなと考えています。遺骨収集を始めるには、まだ服装と装備を調えねばなりません。多くの危険が潜むジャングルに対応する服装の準備から始まって、遺骨収集作業に必要な道具とか、作業効率をアップさせる為の装備の紹介等も併せて行っています。

それから善意の遺骨収集ボランティア活動なのに、ケガや事故を起こしてしまったというのでは、予期せぬ悲しい結末となってしまいますので、ジャングル内に潜む危険を回避する為の詳細な解説なども掲載されていますから、これから遺骨収集をやってみようという未体験者の方は、「遺骨収集の諸注意点」等も併せて必ず精読して下さいませ。

遺骨収集とは、終章のない慰霊の旅

ここで述べるまでもなく、大東亜戦争は日本国の自存自衛の戦いでした。アジアを侵略し尽くした欧米キリスト教文明は、アジア最後の独立国である日本に矛先を向けてきましたが、日本軍将兵は強敵米英に対し、アジアを守るため、祖国日本を守るために死力のかぎりを尽くして戦って下さいました。

しかしながら戦野にそして海原に、未だ放置される御遺骨…。「われ太平洋の防波堤たらん」と身命を賭して戦って下さった将兵の、悲しくも未だ山野に放置されたままの御遺骨は、私たち日本人の父母であり祖父母でもあるのです。

来る日も来る日も風雨に打たれ、すでに六十余年の歳月を経てしまいましたが、遺骨収集とは “終章のない慰霊の旅” であるとも言えますから、今からでも十分に間に合います。戦場に果てた戦没者の御遺骨を、一柱でも多く私たち児孫の手で拾い上げてやりましょうよ。

間もなく消えゆく運命にある戦野に放置されたままの御遺骨が、わずかでも形を残す今のうちに、どうぞあなたの血の通う暖かい手で、拾い上げ抱きしめてやってくださいませ。そして叶わなかった故郷へお帰り頂きましょう。

昭和16年(1941年)12月大東亜戦争に突入し、昭和20年(1945年)8月敗戦を迎えましたが、戦後60余年を経て尚、沖縄県の山野にいまだ収骨されずに眠る御遺骨、あるいは東南アジア各地の激戦地・玉砕地に野ざらしにされたままの御遺骨…。現在の平和と繁栄は、祖国の安泰を願って戦い、戦場にて非業の死を遂げた戦没者の礎の上に築かれました。

沖縄県で住民が住む地域での地上戦が展開されたという事実も風化の一途を辿っていますが、南部戦跡の山野に野ざらしにされている御遺骨に住まう御霊は、果たして戦争は終わったと納得出来ているでしょうか?。

私達は祖父母や父母が、自らの尊い命をなげうって私達を守って下さり、そして日本の国体を守り抜いた事実を、感恩の念と共に日本人として永遠に記憶に留めおかなければなりません。

"沖縄を含めた大東亜戦争全戦没者の御遺骨を最後の一柱まで探し尽くす!"

勇敢に戦い抜いた日本軍将兵の児孫である私達は、こうした姿勢で遺骨収集に取り組むことこそが、大東亜戦争で非業の死を遂げられた戦没者と、ご遺族の尊厳を守ることにつながると確信しています。

《 御遺骨の写真を掲載させて頂いております 》

沖縄戦で非業の死を遂げられた方々の遺骨収集を、早く完結させなければならないとする方針と、その道程が限りなく遠いと思える現在の状況を、このホームページをご覧頂く皆様に、正しく理解して頂くためには、また視覚的に理解を深めていただけるような解説をする必要もあり、御遺骨の写真を掲載させて頂いております。 (^^;)

御遺骨の御霊様と、御遺骨の帰りを郷里にて待つ御家族の皆様には、誠に申し訳ありませんが、そうしたサイトの主旨を御理解していたき、御遺骨の写真を"必要最小限に絞り"掲載させていただいたという事で、ぜひ御了承を賜りたいと思います。 m(_ _)m

写真掲載された御遺骨は、サイト管理人を含めた大勢の参加者の手作業により地面を深く掘り返し、探し出した御遺骨です。収骨に際しては危険や困難を伴う事も多いです。壕の中から大量の土砂をバケツリレーで壕外に運び出して、遺骨の収集を進める事も多々あります。

御遺骨は、四散した細骨をも拾い残さぬよう、慎重できめの細かい収骨作業により丁重に集められました。収骨後は、付着した泥や苔などを除去したりと、御遺骨の尊厳を守りつつ、丁重に清掃を行っていますのでご安心下さいませ。

その上で金光教の慰霊方式に則り、丁重に「沖縄戦全戦没者 現地慰霊祭」を執り行なわせていただいた後、御遺骨は沖縄県に引き渡され、最終的には摩文仁之丘にある国立戦没者墓苑に安置される手はずとなっている事を御報告申し上げます。

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