令和02年(2020年)沖縄遺骨収集奉仕活動

1月19日(日) 摩文仁海岸線で調査・遺骨収集

本日の天気予報は曇り、降水確率午前午後共に10パーセントです。また最高気温18度ですから肌寒いかもです。頑張ります。まず朝一番で「喜屋武/篠原保司陸軍中尉戦死の地」「独立高射砲27大隊本部壕」「沖縄師範健児之塔」「南冥之塔」を慰霊巡拝します。(^o^)

まずは県立一中(現・首里高校)の鉄血勤皇隊と同校の配属将校で、鉄血勤皇隊隊長として学徒兵を率いた篠原保司陸軍中尉が戦没された場所を訪ねてみたいと思います。場所は糸満市喜屋武です。県道3号線上、ヘーランメーという広場のある近くです。

篠原保司陸軍中尉は死して尚、沖縄一中鉄血勤皇隊の生存者を始めとした多くの学校関係者から、“軍服を着た教育者” として、命の恩人と顕彰され続けておられるとの事。早速慰霊訪問してみましょう。

喜屋武/篠原保司陸軍中尉戦死の地

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.1

見えてきました。写真奥の石垣が目標になるかも知れません。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.2

到着です。ここは沖縄戦による激しい破壊を免れて現存する貴重な石垣の塀に到着しました。「沖縄一中鉄血勤皇隊」の著者による調査では、大小堀家の長門だそうです。塀の長さは30メートル余りといったところです。中央付近の石垣が無い部分が正門です。住宅敷地面積はおよそ700平米あるそうです。敷地内には木造平屋建て家屋の他にブロック等で組まれた建物が二つほど点在していました。まずはぐるりと一周してみましたが、当然のことながら破壊された部分と破壊を免れ現存する部分とが混在しているという状況でした。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.3

こうして見ると、沖縄戦で破壊されなかった部分と、戦後補修された部分とが良く解りますね。沖縄では立派な塀のお屋敷を「長門(ながじょう)」と呼ぶのだそうですが、これは沖縄戦による破壊を免れた稀少な塀ですね。長門、正にその名に能わず往時の面影を今に残していました。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.4

ここは正面入り口部分です。ご覧のようにガジュマルの木も残存していました。正面の石組みは「ヒンプン」と呼ばれ、沖縄建築ではよく見られるもので、外からの目隠しという実用的な役割と、沖縄の魔物は角を曲がるのが苦手なため、直進して入ってこないようにという魔除けの意味も込められているようです。

奥に見える建物は戦後建てられたものと思われます。著者の解説によれば、空き家だったと書き記されていますが、現時点の状況は、入り口から見渡した雰囲気では、住んでいないかもしれませんが、どなたかが建物を日常的に使っているという印象を持ちましたし、何らかの管理作業が為されていると感じました。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.5

門を入ってすぐ右側にガジュマルの木が植えられています。ガジュマルは立派に大きく育っています。もしかしたら沖縄戦を生き延びたのかもしれません。この株元の石垣は往時のまま残されたのかもです。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.6

西側角です。篠原隊長率いる一中勤皇隊本部本隊は、この西側角の敷地内塀際に寄り添うように寝ていたそうです。また篠原保司中尉等数人は、奥のガジュマルの木の株元で旅装を解いたと言います。深夜ガジュマル付近で艦砲砲弾か迫撃砲弾が炸裂し、頭部に砲弾破片の直撃を受けた篠原隊長は、一声も発することなく即死されたという事です。著者による聞き取り調査によりますと、篠原隊長が戦死されたのは6月10日頃だと言います。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.7

西側角から西側全体を見ています。沖縄戦で破壊されなかった石垣が、戦後補修される事なく、そのまま残存しているという雰囲気ですね。もしそうだとすると、石垣の黒く煤けているのは、沖縄戦で炎上するなどして焦げたのが、そのまま残っているのでしょうか。?

《書籍ご紹介》

「沖縄一中鉄血勤皇隊」 学徒の盾となった隊長 篠原保司

田村洋三著 (株)光人社 平成22年(2010年)初版

著者である田村洋三氏は、沖縄戦について数冊出版されており、その全てを購入済みです。氏の著作は綿密な現地調査による徹底した情報収集にあります。元読売新聞記者にして、”生涯一記者” を自認する著者だけあって、現地調査に重点を置き、足で記事を書いていると言えるでしょう。氏の執筆の課程では、必ずと言って良いほど取材対象の核心を知る人物に出会いますし、大いなる協力を得るに至るのは、他ならぬ氏の熱情が至らしめる必然であるとも言えるでしょう。

この本は、県立一中(現・首里高校)の鉄血勤皇隊と同校の配属将校であり、部隊結成後は鉄血勤皇隊隊長として学徒兵を率いた篠原保司陸軍中尉のノンフィクションであり、著者の綿密な取材や調査によって、篠原保司中尉は一中鉄血勤皇隊の生存者をはじめとした多くの関係者から、命の恩人とされ顕彰され続けて来た事が本書では紹介されています。篠原中尉が県立一中に配属将校として赴任してから、時には生徒を叱咤し時には励まし、沖縄戦の中では生徒らを理不尽に扱う日本軍将兵らに対し、身を挺して守り続けてきた25歳の若き青年将校の生涯が詳細に記されています。

篠原保司陸軍中尉が戦死された場所を、塀の外から見学させていただきましたが、同著の中では篠原中尉が亡くなられた状況をどの様に書き記されているのか、「沖縄一中鉄血勤皇隊 学徒の盾となった隊長 篠原保司」を見てみましょう。

篠原隊長の最後
この後、豊子はとろとろっとまどろんだらしいが、一発の轟音に眠りを破られた。「いきなりグワーンと頭上のガジュマルで物凄い爆発音がして火柱が立ち、枝や葉が飛び散り、体に降り注ぎました。辺りは硝煙がもうもうと立ちこめ、のどを刺すような強い刺激臭がしました。艦砲弾か迫撃砲弾がガジュマルの木を直撃したらしく、こんもり繁っていた枝が吹き飛ばされ、周囲が少し明るくなりました。まず富原先生が『腹をやられたーッ、もう駄目だ。手榴弾くれーッ、自決する』と叫び、地面をのたうち回りました。父も爆風で耳が一時 聞こえなかったようですが、手早く富原先生のお腹の傷を調べ『脇腹の擦過傷です。死ぬような傷じゃないから、気をしっかり持って下さい』と励ましました。それでも富原先生は『頼むから死なせてくれーッ』と言うので、父は『先生が自決したら、九州に疎開されたご家族はどうなるのですかッ』と声を荒げて叱りました。姉の敏子は右の顎と右肩の肉を少し削がれ、私も右側頭部に破片が入り、血まみれでした」

こんな危急存亡のとき、率先してリーダーシップを発揮するはずの篠原隊長の声はなく、横たわったままだった。隣に寝ていて不思議に思った豊子が「先生ッ」と呼び掛け、体を揺すると、篠原は二度、溜め息に似た呼吸を洩らした後、枕代わりの雑嚢から頭をガクッと落とした。絶命だった。豊子の目撃談。

「夜明けの薄明かりにすかして見ると、日ごろ色白でハンサムな先生の顔は鬱血したように青黒く腫れ上がり、戦闘帽の右こめかみの部分は血で半円形に黒ずんでいました。よくよく見ると、戦闘帽の際の右側頭部に五ミリほどの小さな穴があり、破片はここから入って脳に達し、致命傷になったようでした。一言も発しないままのご最後で、さぞや、ご無念だったと思います」

「沖縄一中鉄血勤皇隊」から転載させて頂きました

「一中健児之塔」

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.8

養秀会館の敷地に入りました。広大な敷地のようですね。奥の階段を登ると「一中健児之塔」があるようです。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.9

大きな建物ですが養秀会館と言います。沖縄戦当時は沖縄県立第一中学校、そして戦後は首里高等学校と校名が変わりましたが、その卒業生の同窓会館という趣旨の建物のようですね。この学校の歴史は130余年と古い歴史があるようです。本校の前身は、今を遡ること二百十年余り前、琉球王朝第二尚氏15代国王の尚温王が、優れた人材を育成せんと、「海邦養秀」の扁額を掲げ、後に王国の最高学府となる公学校を本校の敷地に創建したのが始まりとされているという事のようです。これにより会館名を養秀会館としたのですね。

現在の沖縄県立首里高等学校は、在校生1,300余名で「海邦養秀」の理念のもと、質の高い文武両道を実践しているという話です。実際に撮影はしませんでしたが、養秀会館の向かいには、弓道場が設けられており、文武両道の一端を垣間見ることができました。

男子学徒隊「沖縄県鉄血勤皇隊第一中隊」(略称:沖縄一中鉄血勤皇隊)についての本が出版されているのでご紹介します。私は読了しています。

「沖縄一中鉄血勤皇隊の記録」 (上)(下)

兼城 一編著 高文研 平成12年(2000年)初版

「沖縄一中鉄血勤皇隊」 学徒の盾となった隊長篠原保司

田村洋三著 光人社 平成22年(2010年)初版

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.10

階段を登ると、平らな広大な敷地が現れました。ご覧のように天気は快晴ですから、階段を登っただけで汗だくになってしまいました~。とにかく暑いです。広い敷地でセンターに参道があり、左側が芝地で右側が駐車場になっています。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.11

「一中健児之塔」です。立派な慰霊塔ですね。養秀同窓会サイトには同慰霊塔について次のよう記載があります。

一中健児之塔は、1950年4月30日に旧沖縄県立第一中学校同窓会の浄財により元同校寄宿舎養秀寮跡に建立された。その後、創立百周年記念事業として養秀会館の建設と同時に一中健児之塔の改修移設が行われ、昭和54年に除幕式、入魂式が挙行された。

一中健児之塔は、正面には、平和を象徴する鳩とそれを支える万人の手をデザインした白・黒・ベージュの大理石の壁面装飾があり、その上に久米島産の二トンもある緑石の一中健児之塔の碑が置かれている。供花台はギリシャ産の二トンの大理石の切石をそのまま使っている。

「一中健児之塔」の揮毫 島袋光祐氏(大正二年卒)
デザイン 喜村朝貞氏(昭和二十六年卒)

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.12

平成14年5月に竣工した刻銘碑です。一中健児之塔の左側壁面の前に建てられ、高さ1.8メートル、横5.5メートルの黒御影石造りで、碑の上段に縁取られた一中の校章の「桜」が金色に輝いているのが印象的ですね。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.13

ギリギリ読めますが、テキストでも掲示しました。

【慰霊碑碑文】

第二次世界大戦の最中、昭和二十年三月二十七日、沖縄県立第一中学校(首里高等学校の前身)においては、米軍の砲爆撃下この地で異例・悲壮な卒業式が挙行され、第五学年生と第四学年生が同時に卒業し、ただちに第三学年生と共に鉄血勤皇隊が編成され、第五砲兵司令部に配属された。また、前年十一月から通信隊要員として教育訓練を受けていた第二学年生は、三月二十八日、少年特別志願兵として電信兵第三六連隊に入隊を命ぜられ、各無線中隊に配属された。

鉄血勤皇隊、通信隊の学徒兵は、郷土防衛の若い血潮を燃やしつつ、陣地構築、通信、伝令、弾薬・糧食の運搬、戦傷兵の輸送その他の任務に精魂を傾け、熾烈な砲爆撃下に決死敢闘、対戦車肉薄攻撃、挺身斬込みに参加し、終始軍の一員としてその責務を遂行した。

非戦闘員であるべき学業半ばの年端もゆかぬ二百有余の学徒兵は、いまだかたい蕾のまま散華した。

先の戦争では、教職員、学徒兵を含め、八百有余の同窓の方々が戦没された。まことに痛恨のきわみである。

昭和十五年の沖縄県立第一中学校創立六十周年記念事業として養秀寮が建設されたゆかりのこの地に、一中健児之塔を建立し、志むなしく斃れた一中健児を追慕し、謹んで御冥福を祈り、世界の恒久平和を希求する。

社団法人 養秀同窓会 

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.14

写真は「一中健児之塔」の裏山を撮影していますが、昭和19年米軍による、いわゆる十・十空襲後、三年生以上で編成された男子学徒隊「沖縄県鉄血勤皇隊第一中隊」(略称:沖縄一中鉄血勤皇隊)でも、自前の壕構築が進められ、今もその壕郡の一部が残存するという話です。この裏山にあるそうですから見学してみましょう。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.15

残存壕郡の案内板がありました。ギリギリ読めますね。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.16

壕に至るこの坂道は、案内板によれば「篠原坂」と書かれています。ここでハッと思いつくのは、この篠原とは人の名前で、沖縄一中の配属将校を務めた篠原保司陸軍中尉の名前である「篠原」ではないかと感じました。違っていたらごめんなさいですが…。

篠原陸軍中尉を顕彰する意味を込めて篠原坂と命名された、という前提で書かせていただきますと、沖縄一中に配属将校として赴任した篠原保司陸軍中尉は、沖縄戦では同高の隊長を務められました。

沖縄一中鉄血勤皇隊の生存者は等しく、篠原中尉を「先生」または「教官」と呼ぶそうです。これは配属将校という立場を超えて、“軍服を着た教育者”として生徒たちの尊敬を集めていた証明であろうと、「沖縄一中鉄血勤皇隊」の著者である田村氏は述べています。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.17

篠原坂を登り終えますと、最初にあるのがこの「銃器庫跡」です。近づいてみますとごく浅い壕でした。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.18

「銃器庫跡」の説明です。読めますね。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.19

「第三小隊壕入口跡」と書かれていますね。草が茂っていて壕の状況はよく解りませんでしたが、こちらは小隊の壕という事で、ある程度奥深い壕かもしれませんね。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.20

「第三小隊壕入口跡」の説明です。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.21

ここから先は立ち入り禁止になっていますね。戻りましょう。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.22

道を少し戻りまして右側に進むと、「教導兵詰所跡」の壕がありました。四畳半もない空間ですが、壁面がかなり黒くなっていますよね。これは沖縄戦当時の焼け焦げた状況を反映しているのかもしれませんね。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.23

「教導兵詰所跡」の説明です。ギリギリ読めますね。

過去写真掲載はここまでです。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.24

道すがらシランの華が一面に咲いていました。関東では5月頃咲く花ですよね。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.25

こちらはジャガイモ畑ですね。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.26

そしてこちらはニンジン畑です。立派に育っています。来月辺りで収穫が始まるかもですね。(^o^)

「独立高射砲27大隊本部壕」

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.27

独立高射砲27大隊本部壕に行くには、まずは糸満市大度の国道331号線沿いにある「海の見えるレストラン」を目標にし、同レストランの崖下側に小さな道がありますので、その小道を見つけたらしめたものです。国道331号線からご覧の脇道に入ります。路面は舗装されていますから歩きやすいです。またこの通路は門中墓の参道となっていますので、墓前を通らせて頂いて独立高射砲27大隊本部壕に向かいます。

あ~、キツネだ~!!

キツネが目の前を横断しました~。キツネ君も私の存在に気づいて、こちらを見たので目と目が合いました。間違いありません、犬や猫、そしてタヌキやアナグマ、またイタチやハクビシンとも違います。(^o^)

※キツネは比較的寒い地方に住んでいるはず。亜熱帯の沖縄にキツネが居るのかな‥‥。と思ったので、遺骨収集を終え埼玉の自宅に帰ってから、沖縄にキツネが居るかいないかを検索したら、本来的には沖縄の自然界に居ない様なのです。ただ「沖縄本島でも自然分布以外の流入で生息が確認されている」(ウィキペディア) という記述もありました。いわゆるペットとして持ち込まれたのが自然界で繁殖したと言う事なのでしょう。今はアライグマやニシキヘビだって町中で見つかる時代ですから、沖縄でもマングースと同じく、キツネも生存範囲を広げていくのかも知れませんね。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.28

門中墓です。お名前は消してあります。崖をくり抜いて作られたお墓ですね。門中とは、概ね血族を同じくする集団で、同一村内で本家を同じくする人々の事をいいます。ただ家族や親族であっても、他村に移り住んだ人は門中から外されるようです。厳しいですね。また親族以外でも門中の本家より、請うて竃の灰を貫い受ければ、加わる事が可能なようです。門中員は相互扶助の生活をなし、死後は一つの墓に納まり永遠に眠ると言う信仰的な繁りで強く結ばれているとの事です。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.29

お墓前からは舗装路面はなくなり、いきなりご覧のような狭い登山道のような小道を降りていく事になります。手摺りが標識代わりにあるので迷うことはないと思われます。道なりに進んで下さい。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.30

この辺りは階段になっているはずですが、落ち葉の堆積が凄くて階段とはまるで見えませんね。この辺りまで来ると、段々と一人で歩くのが怖くなりますよ。勇気を出して進みましょう。(^^;)

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.31

階段を30メートルほど下ると左に曲がり、ご覧のように今度は水平移動になります。おやっ道が出来ていますね。直近で誰か入られたようです。因みにこの冬の時期はハブはいませんから、その点だけはご安心下さい。ただこうして毎年慰霊巡拝を続けていますと、目の前に広がる風景が、“人間の関与” が失われ草の丈が伸び、木があちこち増えてやがて樹林となるという変遷の姿を垣間見ると、ちょっと寂しいものがありますね。(T_T)

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.32

これ現状の道が出来ていなかったら、「偉いこっちゃ」です。もしかしたら断念もあり得る程草が茂っています。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.33

進行方向左手を見ながら50メートルほど進むとご覧のような壕入り口が現れます。これが「独立高射砲27大隊本部壕」です。正確には同壕は入り口が二カ所ありますので、その一つの入り口という事になります。それでは近づいてみましょう。

沖縄戦が始まるまでは、この壕において独立高射砲27大隊第二中隊が火砲一門を設置して、予備陣地として南方の守りを担っていました。元々高射砲陣地は敵の激しい攻撃に晒されるのを前提としているため、開口部はご覧のようにコンクリートで補強されています。 独立高射砲27大隊本部壕は、この壕と右側にもうひとつ大規模な壕があり、二つの壕はつながっていたと言われています。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.34

壕の上の様子です。樹木がしっかり定着している事からも解るように、この辺りの地層は堅固ではありません。逆に言えば構築壕を作りやすいとも言えますね。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.35

壕口上部はコンクリート製です。丸太を転がし型枠代わりに使ったと思われます。勾配がかなりあるのが見て取れます。コンクリート部分をよく見て下さい、戦後70余年を経ていますが、既に10センチほど成長した鍾乳石が垂れ下がっていますね。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.36

壕内部の様子です。それほど広くはないですね。高射砲は壕内部に収納しておいて、射撃する時はレールに乗せて前に出して射撃、速やかに後退させたのでしょう。 また写真中央部に少し黒い部分がありますが、そこからもう一つの壕と繋がっていたと言われています。昔そこから覗いてみましたが、落盤していて進む事はできませんでした。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.37

もう一つの壕と繋がっている壕口を拡大して撮影しました。結構大きめの開口部であるのが見て取れます。壁面をご覧くださいませ。昔と比べたら随分と黒色が薄くなりましたが、それでもご覧のように黒い煤が付着しており、激しい火炎放射攻撃を受けた事が想起されますよね。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.38

壕口が見えてきました。昔と比べ結構発見しにくくなっています。昔はこんな事は無かったのですが、遺族会等の活動が収束に向かいつつあるという事でやむを得ない事態ですね。手前に木が切られているのが見えます。やはり誰か直近で訪れましたね。

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子14

平成23年(2011年)に撮影した「独立高射砲27大隊本部壕」です。現在の様に雑草が繁茂していません。実に行き来しやすい状態です。ご覧の様に本部壕までの通路については、昔は驚くほどキチンと整備されていました。松永さんの話では、自衛隊員が手弁当で草刈りや通路整備を行っているという話を聞いた事があります。それはこの本部壕だけではなく他の慰霊塔や碑でも取り組まれていたという事の様です。残念ながら、現在はそうしたボランティア活動も下火になったのでしょうかね。

過去写真掲載はここまでです。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.39

ここが独立高射砲27大隊本部壕の壕口です。壕入り口に大きな岩が鎮座していますが、この巨岩は平成24年(2012年)ですから今から8年前という事になりますが、沖縄で大きな地震があり、その揺れで崖上の巨岩が落下した様なのです。壕入り口を塞ぐように落ちたので、出入りは乗り越えなければならず、若干不自由しています。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.40

ご覧の様に切り口がまだ新鮮な状態です。数日内に切り倒されたという状況でしょぅかね。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.41

沖縄戦における独立高射砲第二十七大隊将兵574名中464名の将兵が戦死されたそうです。この場所で手を合わせました。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

「独立高射砲第二十七大隊英霊の碑」が、昔はこの本部壕の真上にあったようです。そこは「おきなわファミリーランド」という遊戯施設がありました。オーナーのご厚意により無償で慰霊碑や観音像が建立されていた様です。そして恐らく同施設閉鎖に伴ってだと思われますが、平成14年(2002年)に同部隊ゆかりの地である島尻郡八重瀬町安里に移転されたとの事です。ここに「独立高射砲第二十七大隊英霊の碑」に書かれている碑文をご紹介します。同隊の沖縄での軌跡が垣間見えると思います。

「独立高射砲第二十七大隊英霊の碑」 碑文

旧沖縄派遣独立高射砲第二十七大隊(球第一二五一七部隊)は、昭和十九年五月二十日、山口県下関高等女学校にて編成完結、同月二十三日汽車にて下関から鹿児島へ向かい、二十四日仮兵舎第七高等学校(現鹿児島大学)に宿泊、二十八日輸送船「富山丸」にて鹿児島港を出港、途中、徳之島近海にて敵潜水艦の魚雷攻撃を受けるも、六月一日那覇へ上陸、八月一日現地沖縄召集兵入隊、十一月三十日鹿児島県大島郡出身者現役兵入隊、翌二十年二月一日重砲第四連隊先原崎照空分隊を編入し、二十七大隊は、将兵五七四名(大隊本部約一〇〇名、第一、第二、第三の各中隊にいづれも約一五〇名)で編成される。

二十七大隊本部(大滝大隊長)は、那覇市小禄垣花台地、第一中隊(中村中隊長)は、那覇市小禄四八・二高地、第二中隊(内田中隊長)は、那覇市天久台地(四九・五高地)、第三中隊(光本中隊長)は、中頭郡読谷村座喜味城址、照空隊を天久・先原崎、聴測隊を那覇市波之上にそれぞれ配備する。昭和二十年五月、軍の総攻撃に参戦するため大隊本部及び第二中隊の主力は宮城陣地へ、第三中隊は神里へ転進、同月上旬、大隊本部は新川陣地(南風原北側高地)、さらに、大隊本部及び小禄地区に配備されていた第一中隊は具志頭、第二中隊の主力は与座中座付近に転進、同月下旬、第一中隊は小渡陣地に転進、第二中隊、第三中隊も大隊本部と合流するが、この間の戦闘において、第一中隊長負傷、第二、第三中隊長戦死するなど多くの将兵が死傷し、第三中隊将兵で小渡の大隊本部陣地にたどり着いた者は数名であった。

六月十日前後、第三中隊の主力を除き、各隊は小渡の大隊本部陣地に集結し、最後の決戦場として陣地の強化を図るも、この時点で部隊の火砲は一門のみであった。六月二十日、生存者の約半数を数班に分けて夜間敵陣突破切り込みを実施すべく配備中、敵軍との交戦を行うも、大隊将兵に死傷者が続出し、遂に、昭和二十年六月二十三日夜、独立高射砲第二十七大隊は玉砕するに至った。

二七会の調べでは、沖縄戦における独立高射砲第二十七大隊将兵五七四名中四六四名が戦死であった。

合掌 

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.42

ご紹介した「独立高射砲第二十七大隊英霊の碑」 碑文によれば、5月下旬、第一中隊は小渡陣地に転進。‥。第三中隊将兵で小渡の大隊本部陣地にたどり着いた者は数名であった。六月十日前後、第三中隊の主力を除き、各隊は小渡の大隊本部陣地に集結し、最後の決戦場として陣地の強化を図るも、この時点で部隊の火砲は一門のみであった。六月二十日、生存者の約半数を数班に分けて夜間敵陣突破切り込みを実施すべく配備中、敵軍との交戦を行うも、大隊将兵に死傷者が続出し、遂に、昭和二十年六月二十三日夜、独立高射砲第二十七大隊は玉砕するに至った。

と書かれている様に、この本部壕は昭和20年6月23日夜に米軍による馬乗り攻撃で玉砕するに至ったのですね。そう23日と言えば、牛島司令官と長参謀長が摩文仁の司令部壕で自決した日でもありますよね。それではご一緒に本部壕の中に入ってみましょう。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.43

卒塔婆が数本立っていますね。戦後70余年を経て、洗い流した訳でもないのに、卒塔婆に書かれていたであろう戦没者の名前などは見事に自然消滅しているのが印象的です。風雨にさらされる場所ではないのに墨文字が消えてしまうなんて…。70余年の歳月の長さが偲ばれますね。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.44

壕の中へ10メートルほど入った所から撮影してみました。ご覧のように開口部は結構な大きさがあります。偽装はしたでしょうが、危うい大きさですよね。兵員の出入りだけでなく、高射砲もここから出し入れしたのでしょうか? もしそうだとすると、沖縄戦当時は平坦になっていたはずです。しかしかなりの土石で壕入り口の下は山盛りになっています。遺骨収集でこれだけの土砂を壕から出したというのも、少し不自然すぎます。

元々はこの壕は二中隊が高射砲一門を配備して、南方からの攻撃に備えていた予備陣地でした。一門しか配備されていなかったとすると、その一門は最初に見学した壕の中に設置するのが順当であり、この本部壕は人員と軍事物資の出し入れに用いた事となり、壕口はなるたけ小さい方が擬装しやすかったと思われます。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.45

卒塔婆が置いてあるすぐ右側に穴が開いていますが、これは遺骨収集などで塞がれて、ご覧のように出入り出来ない状況です。奥からもこの穴が見えます。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.46

こちらが主通路と言える坑道です。中に入ってみましょう。この中に入ると坑道が分岐された場に出ます。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.47

坑道はこんな感じです。立って歩けない状況です。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.48

10mぐらい進むと壁面に突き当たります。壁面が煤で真っ黒ですね。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.49

突き当たりの右側を見ています。この壕内で一番広い空間です。多くの将兵が居られたのではないかと推測されます。しかしながら壕の奥まで煤で真っ黒ですね。とにかく激しい火炎放射攻撃を受けた様ですね。昔入った時に、木炭になった木材がありましたからね。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.50

突き当たりの左側を見ています。坑道はまだ続いています。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.51

ここにも坑道が続いています。いずれも中を撮影したい所ですが、あまり深く入って事故ったらまずいので、残念ですがここで引き返します。

独立高射砲27大隊本部壕に関連して忘れてはならない事柄として「患者壕」があります。患者壕は現在の大渡海岸最南端部より少し東側に位置しています。本部壕と患者壕との距離は、直線で900mぐらいでしょうか。この壕は同大隊の重傷患者50名余りが収容されていました。沖縄戦末期に本島南端に追い詰められ、乏しい食料の節約と壕の定員過剰の緩和の為に負傷兵を捨てたと表現される壕の事です。もともとは戦死者を捨てる場所であった様ですが、やがて戦えなくなった傷病兵を捨てる場所になったと言われています。

傷病兵たちは傷の治療や看護はおろか、水や食料も与えらなかったそうで、死体の腐臭、垂れ流した糞尿の悪臭の中で、傷の痛みや飢えや渇きにもがき苦しんでいたそうです。そうした中で米軍の馬乗り攻撃により、水陸両用戦車からの榴散弾や黄燐弾などあらゆる砲弾を撃ち込まれ、また最後には米軍兵士が崖を上がっての火炎放射攻撃を受けてしまいました。壕内は凄まじい轟音と共に阿鼻叫喚の地獄絵となった様です。

壕内は焼け爛れた死体の山になったまま戦後30年間放置され(頭蓋骨は終戦直後回収されたらしいです)、1970年代になってカビが生えたご遺骨が回収されたと言います。それでは、その患者壕を撮影した過去記事がありますので、再掲載させて頂きます。

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子41

【独立高射砲27大隊の患者壕/平成23年(2011年)2月17日撮影】
ここは大渡海岸南端まで歩いてきて、更に数十メートル回り込んだ場所です。引き潮の時のみ徒歩で来られる場所にあります。目の前にある崖の中央付近に穴があるように見えますね。ここが独立高射砲27大隊の“患者壕”があった場所だと言われています。今からそこに入ってみましょう。

遺骨収集の様子42

少し離れて遠くから写してみました。この付近一帯は、引き潮時なら誰でも容易に到達する事が出来ますが、満ち潮のタイミングをしっかり把握した上で訪ねる事をお勧めいたします。

遺骨収集の様子43

ご覧のように “患者壕” に入るには縄ばしごを登らねばなりません。高さは4メートルぐらいあるでしょう。こうした状況で沖縄戦当時重症患者等をここから運び上げたのか…。この壕は沖合に居た米艦船から丸見えですし、何より患者を引き揚げる困難さが、未だに「本当に患者壕だったのかな」という疑念が未だ捨てきれないのが率直な感想です。

遺骨収集の様子44

吉井さんが登って前に歩き出したところです。開口部周辺はかなり複雑な構造をしていますが、岩盤が一枚岩ではなく比較的もろい団粒構造ですから、執拗な砲爆撃を受けてかなり崩れたのではないかと推測しています。また開口部より下側の岩肌は比較的本来の地色が出て綺麗ですが、開口部より上側半分は煤でかなり黒色に染まっているのが見てとれます。榴散弾や黄燐弾が水陸両用戦車から打ち込まれ、最後は火炎放射攻撃を受けたという事で、内部が激しく焼かれ相当長時間黒煙が舞い上がっていたのではないかと思われます。

開口部付近は台風襲来時には、雨風で岩盤表面が洗い流されると思われますが、そうした状況下で66年も経て尚これだけ岩面が黒いというのに驚きを隠せませんね。高熱により焼却ススが焼付け塗装のように強固に付着しているのかもしれません。

遺骨収集の様子45

ハシゴを登ると岩石を削って平らにしたのではないかと思えるほど、平らな床面となっています。10メートル程奥に入ると、ご覧のように一段高い床面との段差に突き当たります。すべての壁面は強く黒ずんでいます。おそらく火炎放射戦車は海沿いを回ってきて、ここまで到達し壕に向けて火炎攻撃をした可能性が高いです。沖に停泊する米艦船からこの開口部は良く見えますから、もちろん艦砲による砲撃も強烈にあったでしょう。

遺骨収集の様子46

ご覧のように奥に行こうとすると、1.5メートル程度の段差の上に登らねばならない構造となっています。「上の段」の床面も概ね平坦であり、人工的に削ったという印象を受けます。岩盤をよく観察しますと、一枚岩ではないので、掘削は比較的容易だったのではないかと推測されます。ご覧のようにすごく焦げている箇所が多いですね。光は大きな開口部からまだ十分差し込んでいますので、この写真もストロボ無しで撮影されています。

遺骨収集の様子47

上の段に上がってみますと、平坦な床面が結構な面積でありました。天井はほとんどすべて、概ね立って歩けるレベルの高さが確保されています。一度空間が狭くなって、写真の様に奥にもう一度広い空間がありました。広い空間の中央部には現在も使用していると思われる拝所が設けられていました。爆風避け、あるいは壕の爆撃に耐える構造を維持するために、広い空間を連続させないで狭い開口通路を間に挟んだりするのでしょうか?。一枚前の写真にも、空間のど真ん中に柱がしっかりとありました。

遺骨収集の様子48

拝所及び広い空間の右側を見ています。この広い空間は天井が少し低くなっており、少し屈んで歩かないと頭を岩にぶつけてしまうおそれがありました。拝所はコンクリートブロックで構築され縁取られていましたが、ブロックは砲爆撃による破損も全く見られませんし、現在の規格寸法で作られていますから、戦後設置したと思われます。この壕が患者壕という事になりますと、この広い空間に大勢の重症患者が横たわっていたという事になりますね。

遺骨収集の様子49

湿気が高く霞が掛かったように写されています。奥の方には、なにやら四角く切り取られた石が積み上げられていました。明らかに石を積んで塞いだという雰囲気でした。目地はセメントのようなものが詰められていましたので、ゴシゴシと少し削ってみましたが、思いの外柔らかいことから、セメントは含まれていない可能性があり、拝所と同時に設置されたのではなく、戦前から設置されていた可能性が高いと思われます。

遺骨収集の様子50

壕内部から外を撮影してみました。ここに壕がありますと宣言しているような、とても大きな開口部…。米艦船からも望遠鏡を使わずともハッキリと視認出来たはずです。いかがでしょうか。重症患者であったとしても、あなたならこの壕に居続けたいと思いますか。??? (米軍の集中攻撃を受けるまでは、この患者壕の開口部はもっと小さかった可能性はあります)

この患者壕の存在が米軍に知られて最初の攻撃を受けたのは、6月23日前後だと言われています。 この患者壕への最初の攻撃は戦車からでした。最初の攻撃では、戦車砲から戦車砲弾、りゅう散弾、黄燐弾とあらゆる砲弾が、壕内めがけて打ち込まれ、砲弾の炸裂音と硫黄の悪臭と悲鳴とで言葉で表せないほどの地獄絵と化したそうです。

また沖合からピタリ照準を定めた米艦船の巨大な破壊力を持つ艦砲が火を噴き、砲弾は直撃弾として壕内で炸裂…。その時の様子は、この壕に収容されていたおよそ50名の患者の内、たった一人奇跡的に死を免れた兵士により語り伝えられています。

昭和50年、大隊本部壕と患者壕の遺骨収集が戦友会と御遺族により行われ、本部壕には白骨が十数体、患者壕には青カビの生えた50人分の御遺骨が、当時のまま山のように積み重なっていたといいます。しかしながら「戦いの果てに負傷した兵士を患者壕に捨てた」という非難を耳にしますが、誰がリーダーになろうとも、おそらく選択肢は無かったと思えます。大渡海岸および集落裏手ジャングルには、守備軍が構築した大隊本部壕以外の自然壕なんて全くありませんし、患者壕付近一帯の満ち潮時人を寄せ付けない断崖部分を俯瞰しても、“この患者壕よりも安全だと思える壕” は全くありませんでした。選択肢がなかった――。悲しいけれど、これが大渡海岸一帯を調査しての結論でした。

私たち三人は、黒く煤けた壕内の往時の悲惨さに想いを馳せ、戦争の不条理さを改めて噛みしめながら、戦後66年経過した壕内に立ち戦没者との無言の会話をしながら、ここで亡くなられた兵士の皆さんのご冥福をお祈りしました。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

遺骨収集の様子51

この患者壕がいかに苛烈な砲爆撃を受けたか…。患者壕に向けて激しい砲爆撃があった事を想起させる “物” が海岸線浅瀬に残っていました。この引き潮で露出した海岸の岩場に、無数に今も残る砲弾破片と思われる錆びて黒色をした鉄の塊です。驚くほどの数が散在しています。引き潮時に通行可能な患者壕付近の海岸線に散在する、幾多の肉体を貫通したかも知れぬ戦争の残像としての膨大な数の鉄片…。 この地で戦争があったという確かな証として、錆び尽きて消えるまで、少なくとも後100年は残存し続けるに違いありません。

※私の靴を写し込んでおきましたから、鉄片の大きさを靴と比較して下さいませ。砲弾の炸裂と共に、このような鉄片が強烈な爆風・轟音と共に360度全ての方向に飛び散るのですから、爆風を直接浴びると生死を分ける極めて致命的な結末に至る事をご理解頂けると思います。

遺骨収集の様子52

このような鉄の塊が、砲弾炸裂と同時にぶっ飛んでくるのですよ…。

遺骨収集の様子53

海岸に無数に残る砲弾破片その三。

遺骨収集の様子54

海岸に無数に残る砲弾破片その四。

遺骨収集の様子55

海岸に無数に残る砲弾破片その五。

過去写真掲載はここまでです。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.52

通路上に月桃(サンニン)が沢山自生している場所がありました。月桃の葉はムーチーという旧正月に食べるお餅を包む為に使用されます。ムーチー(餅、鬼餅)は、餅粉をこね、白糖や黒糖で味付けをして月桃の葉で巻き蒸して作る様です。健康や長寿の祈願、そして縁起物として食されるとの事ですよ。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.53

「沖縄師範健児之塔」参道前駐車場にあった木がついに切り倒されてしまいました。今回切り倒されたのはガジュマルの木です。意味が解らないと思いますので説明させて頂きます。良ーくご覧くださいませ。写真中央の黒っぽくなっている部分が元々あった木でした。樹種は不明ですが、枯れてしまいました。数年前に枯れたのです。枯れた原因はガジュマルの木が元々の木を凌駕するようになって、結果として元々の木を絞め殺してしまったという訳です。ここ数年ガジュマルの木が元々の木、つまり枯れてしまった木にまとわりついて生き続けましたが、土地のオーナーが何らかの理由で全部切り倒してしまったという事になります。

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子8

この写真は平成27年(2015年)に撮影したものです。上の写真と同じ木を撮影しています。木をよ~く見て下さいませ。濃い茶色の樹肌をした元々の木は、すでに枯れてしまっています。上部に繁茂している葉はガジュマルの木の葉であり、元々の木の葉ではありません。よく見ますと茶色の木肌に蔓が絡みついるのが見てとれます。ガジュマルの木は蔓の様な枝を出して、元木に着生して行くのです。

ぼんやりと写真を見る限り一本の木に見えますが、ガジュマルの木と絞め殺された元々の木の二本が一体化しているというわけですね。自然界は厳しいですね~。

過去写真掲載はここまでです。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.54

ここが参道入り口ですね。この先に沖縄師範健児之塔や南冥の塔その他の慰霊塔などがあります。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.55

「沖縄師範健児之塔」に向かう参道に写真の緋寒桜がありました。近年は全く元気がありません。これまで三十年ぐらいこの緋寒桜を見守り続けてきましたが、可哀想に近年は元気がありません。かつて勢いよく咲き誇った樹勢と比較して何十分の一程度に花数が減っています。樹勢が衰えた原因として考えられるのが、平成24年(2012年)に巨大台風が二度襲来しました。この場所は遮蔽物がなく、海から塩分を含んだ強烈な風が吹き付け、枝葉が塩を浴びて深刻なダメージを受けたと考えられます。いずれにしても、元の様に元気になってほしいですね。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.56

本葉がちらほらと見えるだけです。新葉の成長点も見えません。枯れないように祈るばかりです。

「沖縄師範健児之塔」

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.57

駐車場に車を留め参道を降りていくと、70メートルぐらい進んだ所にトイレ休憩所があります。そのトイレ前の道が三叉路になっており、「沖縄師範健児之塔」に行く道、「南冥の塔」に行く道、そして海岸に到る道(途中「金井戸」という湧き水が出ている場所あり)の三方向に分岐しています。この分岐から更に50メートル程進むと、眼前にご覧のように「沖縄師範健児之塔」が見えて来ます。一昔前は、樹木が生い茂り、一人で訪ねるのが憚られるぐらい鬱蒼として暗く陰気な雰囲気でしたが、現在は樹木も伐採され明るい雰囲気となっています。

因みに「沖縄師範健児之塔」があるこの場所は、摩文仁のハンタ原と呼ぶ場所にあります。原という名がついているので原っぱになっているのかという事になりますが、さすがに農業が出来るほどの原っぱはありません。遠くから見ると平らなように見えるというレベルでの平坦さです。巨大な岩がゴロゴロありますから、とても平らな場所とは思えないかも知れませんが、周囲が隆起した岩場だらけですから、目の錯覚か原っぱであると見えてしまうのです。その例えは「黎明之塔」から展望して頂ければ一目瞭然だと思います。但しこれは「黎明之塔」から、つまり遠くから俯瞰した情景であり、その「原っぱ」に降りてみれば岩場だらけですから、その場に立てば、例えば北アルプスの剱岳八合目を登っているような印象を持つかもしれません。(^^;)

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.58

昭和25年(1950年)6月に建立された「沖縄師範健児之塔」ですね。沖縄師範学校の野田貞雄校長ほか、戦没職員17名、生徒289名、計307名を祀っています。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.59

ギリギリ読めますね。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.60

沖縄師範健児之塔の由来と鉄血勤皇師範隊の編成が書き記されている碑です。テキストに起こしてみました。

【沖縄師範健児之塔の由来】

この塔は、一九四五年の沖縄戦で散華した沖縄師範学校男子部の野田校長以下職員・生徒の御霊を祀ったものである。

鉄血勤皇師範隊は、三月二十一日沖縄守備軍の命令によって編成された。以来、同隊は軍と共に首里戦線からここ摩文仁の地まで勇戦奮闘し三百十九柱の職員・生徒を失った。誠に痛ましく断腸の思いである。

時は流れて一九四七年、幸運にも生存した当時の在学生が、これら戦没学友の冥福を祈って塔の建立を発起した。戦後の混沌とした世相のなか苦労して募金運動を展開し同窓の先輩諸氏の協力を得て、一九五〇年五月二十五日この塔を完成した。

【鉄血勤皇師範隊の編成】

本部(隊員一六名 戦死一三名)
師範隊の指揮、軍司令部との連絡調整、食料の調達および師範隊の炊飯を担当

情報宣伝隊(隊員二二名 戦死九名)
千早隊とも呼ばれ、軍の情報や戦果の宣伝活動、占領地へ潜入して地下工作活動など

斬込隊(隊員五七名 戦死四六名)
菊水隊とも呼ばれ、敵の背後斬込みによる後方攪乱、軍司令部の歩哨勤務、負傷者の搬送など

野戦築城隊(隊員二四三名 戦死一二二名)
陣地構築や対戦車壕の敷設、主要道路や橋梁の補修や祖絶、弾薬や食料等の搬送など

特別編成中隊(隊員四八名 戦死三六名)
野戦築城隊から選抜して編成され軍司令部護衛、急造爆雷による対戦車攻撃など

現地入隊(隊員七五名 戦死六四名)
一九歳に達した学友が三月一日現地部隊に入隊

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.61

こちらは「沖縄師範学校沿革」です。ギリギリ読めますね。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.62

沖縄師範学校男子部は、昭和20年3月31日に、職員も含めて386名全員が軍名により動員されました。386名の生徒達は鉄血勤王師範隊を編成し、本部、切込隊、千早隊、野戦築城隊、特別編成中隊を組織し、4月1日より守備軍司令部と共に作戦に参加しました。負傷兵の治療の補助、陣地構成、炊事、立哨、情報収集や伝達などの任務を担いました。そして5月下旬より戦況不利になると司令部と共に南部地区へ撤退し、最終的にこの摩文仁の壕まで退却しました。6月19日軍解散命令の出たあと敵軍に斬り込む者、この壕内で自決する者など、多くの犠牲者を出しました。また奥に見える立像は「平和の像」です。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.63

ひめゆり学徒を引率した仲宗根政善氏は、若人の死を悼んで次のように詠みました。

南の 巌のはてまで 守り来て 散りし龍の児 雲まきのぼる

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.64

詩が詠まれています。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.65

碑が建立されていますが、文字等が風化してしまって全く確認出来ません。

「平和の像」

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.66

「平和の像」です。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.67

「平和の像」です。この像は、九死に一生を得て戦場から生還した沖縄師範学校生であった大田昌秀氏、外間守善氏、安村昌享氏らが、後に自らの戦場体験を綴った「沖縄健児隊」を刊行し、それが松竹により映画化された際の印税などを元に、大田氏が中心となって製作建立したものだそうです。像は彫刻家野田氏の作で、向かって右側の少年が「友情」を、中央の少年が「師弟愛」を、左の少年が「永遠の平和」を象徴しているとの事です。

因みに三体の立像の下に碑の説明文があるのが見て取れます。実は最近まで碑文の存在に気づきませんでした。どうしても目線が三体の像に行ってしまうので、雰囲気的に何かの模様かなと思っていました。(^^;)
今回の慰霊巡拝で文言を確認出来ましたから、テキストに起こしてみました。

「平和の像」碑文

昭和二十年三月三十日、第二次世界大戦最中、沖縄師範学校全職員生徒は、軍命により、第三十二軍司令部の直属隊「鉄血勤皇師範隊」として軍に動員された。然るに同年六月二十二日、南西諸島方面軍最高司令官牛島満中将が自決するに及び師範隊は解散するに至ったが、この間、総員四百八十名中三百有餘名が守備軍と運命を共にしたのである。ここに、生存者の手によって「慰霊の塔」が建立されたのであるが、更に大田昌秀、外間守善編「沖縄健児隊」の出版並に同名映画の上映記念事業として、廣く江潮の有志の方々の御後援の下に、この「平和の像」は建てられたのである。若い身命を捧げて散った師友達の冥福を祈ると共に、それらの尊い殉死によって齎された平和への希願を永久に傳えるべく生存者達は心から祈るものである。

発起者 沖縄師範學校生存者 

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.68

平和の像の右下にご覧のように、初代の健児之塔がひっそりと建っています。碑は正確には「健兒之塔」と書かれています。なぜ初代の健児之塔はここに建てられたのかなと思ったら、この石碑の下には沖縄守備軍管理部の壕があり、師範学校男子部の生徒が大勢亡くなった事を金城和信氏が探し当てたからなのですね。

この初代の健児之塔は、終戦後米軍から真和志村(現那覇市東部)村長に任命された金城和信氏が、昭和21年(1946年)4月に「ひめゆりの塔」「魂魄之塔」と共に建立したものですね。金城氏は沖縄戦で最愛の娘二人を失った事もあり、戦後の混乱期にも関わらず、また米軍の遺骨収集の許可が容易に下りないなかで粘り強く交渉を続けるなど、慰霊塔(碑)の建立と遺骨収集を含めた戦没者の慰霊活動に全力で取り組まれました。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.69

詩が詠まれている様なのですが、ご紹介出来るレベルで読めません。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.70

この碑文も判読が厳しい部分もありますがご紹介してみます。
ひとすちにくにをまもらんと わかうとらいのちはてにき え里をたゝさむ  昭和三十九年献 渕上房太郎

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.71

鉄血勤王師範隊学徒が配属されていた「沖縄守備軍管理部の壕」を訪ねてみましょう。首里の司令部壕と比べて、ここ摩文仁の司令部壕は極めて弱小なので、司令部の機構を丸ごと収容する場所はありませんでしたから、摩文仁司令部壕を中心として、あちこちに分散された形で司令部機能を維持したものと思われます。それでは写真中央の階段を降りて行きましょう。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.72

この階段を登ると摩文仁之丘の最も高い場所、沖縄戦当時は摩文仁89高地と呼ばれた場所に建立されている「黎明之塔」、「勇魂之碑」、そして「牛島軍司令官、長参謀長、両将軍之墓跡」に行けますね。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.73

「平和の像」の後ろ側に回るとご覧のような風景になります。小さな壕なのですが開口部は大きいです。壕口は東を向いています。壕口は海上に展開する米軍からは見えません。また米軍機が上から見ても壕口があるとは絶対に見えないはずです。そして階段のある側は巨岩がそびえ立っていますので、「黎明之塔」がある上部からも壕口は全く見えないという実に素晴らしい場所にある壕だと解ります。また壕内はL形になっていて、直撃弾を浴びる可能性も低いです。ここは絶好の避難壕だと感じました。この壕内で昔、遺骨収集をやった事がありまして雑骨が多数発見されました。その時に頭に浮かんだのは、この壕で亡くなられた将兵はナパーム弾にやられたのだろうなと考えました。

ちなみにこの壕がある場所に注目です。と言いますのも「平和の像」横にある階段を登っていくと、摩文仁における第三十二軍司令部壕があります。またこの壕から下に目をやると、40メートルぐらい先には司令部の炊事等を行う第三十二軍関連部隊が入っていたと推測されるとても大きな壕があります。私と吉井さんで確認していますが、立哨兵が立っていたと思われる石組みで造作された半坪ほどの平坦な地面が、周囲の風景に不自然なほどキチンと整地されていた事から、二人でそのように推測しています。話が少しそれましたが、当然重要なその二つの壕を伝令や食料や水を調達するために将兵が行き来したと思われますが、その行き来するルートの途中にこの学徒隊が居た壕があり、これは単なる偶然ではないと思われます。鉄血勤皇隊師範隊の特別編成中隊の任務には、軍司令部護衛というのもあったと書き記されていますのでね。

沖縄戦を詳細に書き記した『沖縄決戦』(八原博通著)によれば、「小径を下りつくした脚下の海岸には直径十数メートルの泉があり、その傍らには巨大な奇岩に囲繞された洞窟がある。泉は命の綱とたのむ唯一の給水源で、洞窟は炊事場になっている。戦況急迫した場合、果たして山上の洞窟と断崖下の生命源が連絡を保持し得るや否や…」と書かれています。

これは摩文仁の第32軍司令部の洞窟から見た状況ですから、「直径十数メートルの泉」とは、チンガー(金井戸)を指しているのは間違いないでしょう。また「その傍らには巨大な奇岩に囲繞された洞窟がある」と書かれていますが、チンガーの周囲にある巨大な壕とは、私が指摘する壕以外には見当たりません。炊事場というのは第三十二軍司令部の炊事場という事になろうかと思います。現在この学徒隊が居た壕の上はコンクリート製の階段が整備されていますが、沖縄戦当時も上の司令部壕まで登りやすい地形ではなかったかと推測されます。私も実際の階段の両側で遺骨収集をやった事がありましたが、現在の階段ルートが一番上りやすいルートであると認識した事を覚えています。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.74

ここが壕口です。と言っても奥の方には反対側の光が見えていますね。と言う事で、とても小さな壕と言えるでしょう。ここが沖縄守備軍の管理部の壕と呼ばれる場所です。

すでに鬼籍に入られていますが、大田昌秀氏(92歳)は、琉球大学教授として沖縄戦と戦後史研究の第一人者として活躍されると共に、沖縄県知事を二期八年務められ、参院議員などを歴任されました。その大田氏は沖縄戦当時、沖縄師範学校男子部の生徒でした。そして昭和20年3月に第32軍司令部直属部隊として従軍しました。師範隊の千早隊は戦況情報の収集や戦況の宣伝が主な任務でした。千早隊も第32軍司令部の島尻撤退に伴い摩文仁に移動、大田昌秀氏もこの管理部の壕に一時的に滞在した事があります。その時の様子が綴られた文面がありましたのでご紹介します。

《書籍ご紹介》

「丸別冊 最後の戦闘 沖縄・硫黄島戦記」

潮書房 平成元年(1989年)初版

(451ページ)
百メートルほども進まないうちに艦砲の破片で足裏をそがれて、わたくしは歩けなくなった。そこへ迫撃砲の集中攻撃を受け、「生死はもろともに」と言い交わしていた三人は、ちりぢりになってしまった。

ほとんど這うようにしてわたくしは、夜明け近く、軍司令部の管理部の壕までたどりつくことができた。そこは、厚い岩盤におおわれ、砲撃されても比較的安全であった。

だが、敵も考えたものだ。翌二十日、米軍はこの一帯の岩山に飛行機からガソリンを散布したり、ガソリンタンクを落下した後、焼夷弾を落として火攻めにした。文字どおりの地獄絵図が目のあたりにくりひろげられた。

逃げ場を失った敗残兵や挺身隊の女性たちが、狭い壕内で黒焦げになって斃れていった。そこでも奇しくも生きのびたわたしは、死者の腐臭に居たたまれず、二日後の夕方、海へ出た。

疲れ切った体で泳げるはずもないのだが、陸路を歩けないので泳ぐしか道はない。海上の敵艦船から発せられるサーチライトの幅広い光帯が、海上をゆっくりと移していく。敵が、早くも摩文仁部落まで押し寄せてきたので、この一角に追い詰められた人びとは、泳げようと泳げまいと海へ飛びこむしかなかった。

人びとは、弾がこない方へと本能的に移っていったのである。しかし結果は悲惨そのものであった。せっかく、ここまで生きのびてきながら、水死するものが後を絶たなかった。

「丸別冊 最後の戦闘 沖縄・硫黄島戦記」から転載させて頂きました

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.75

上の写真の壕入り口から入り、今度は壕の中から外を写しています。大きな開口部です。眼前で直撃弾が炸裂すると甚大な被害が出る懸念はありますが、開口部そのものは東北東を向いているので、海から全く見えませんし、恐らく空を飛んでいる米軍のトンボからも発見されなかったと推測されます。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.76

「平和の像」の下の壕内の様子です。ブロックで囲まれているのが納骨堂です。管理部の壕と付近に散在していたご遺骨を集めて納骨したものと思われます。いつ来ても生花とか飲料が供えられています。一定の人達が入れ替わり立ち替わり参拝に訪れているとしか思えません。また納骨堂前はとても暗いです。ライトが無いと足下を含め危ない状況ですから、恐らくライト持参で参拝されている可能性があります。

ブロックで仕切られた内部は納骨堂になっています。ブロック塀は岩の下に積み上げられている関係で工事の仕上がりが甘く、上端がキチンと埋められていないため納骨堂内部を容易に見られるのです。ですから定点観測のつもりで、ついつい中を見てしまうのが実情です。

納骨堂内部については、30年ぐらい前は満杯レベルで大腿骨や頭骨など大きなご遺骨が山のようになって納められていました。驚くほどの大量のご遺骨を見るのは初めての体験でした。しかしながら近年は地面が見えるぐらいに激減しています。推測するにご遺骨は土の中にあるよりも、一定の湿気がある空間にある方が微生物分解による滅失が早いのではないかと感じます。空間の湿度がカラカラに乾いていれば別でしょうが、この壕内の納骨堂は、この壕内の一番低い部分に設置されていますので、恐らく台風などの大雨の時は水浸しになる可能性もあると思われます。比較的乾燥しているこの時期でも、ここに入ると湿気を感じるぐらいですからね。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.77

納骨堂の右側にご覧のような空間があります。決して広くは無いですが、突き当たりから左側にも空間があります。すでにこの辺りでも、前屈みにならないと頭を打つ可能性がある状況です。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.78

ここが突き当たり部です。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.79

左奥に坑道があるのが見えますね。奥へ行ってみましょう。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.80

ここが突き当たりの左側の一番奥まった空間です。ここでは四つん這いにならないと移動できないレベルで高さがありません。またこの管理部の壕内も床面が綺麗になっています。「南北之塔」の背後にある「アバタガマ」内も綺麗に地面が片付けられていました。壕内の遺骨収集が計画的に行われているのかも知れませんね。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.81

ここからは納骨堂の左側を見ています。そうなんです。この壕は左右二カ所隠れる場所があると言えます。ただここは壕とは言えないでしょう。ご覧のように光が入っているのが見えます。ちょっとした穴という感じです。そうした意味でも、この壕はナパーム弾攻撃かガソリン攻撃に極めて脆弱であったと推測します。

因みにこの写真に写されている地面で、昔そうですね。20年以上前ですが、手足等の細かい御遺骨を大量に収集しました。手足など大きい骨が収骨された後の、残りの小さな御遺骨という事ですね。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.82

まずまずの空間がありますね。数人なら入れそうです。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.83

ちょっとした穴ですから、上を見るとご覧のように空が見えますし、無理なく登れる坂道があります。私の見立てでは、摩文仁高地にある司令部壕と下にある金井戸川という井戸や炊事場壕との行き来は、ここを通ったのではないかと推測しています。この壕の上にある沖縄師範健児之塔が設置してある場所は海から丸見えですし、そこから先は金井戸川に向けて隠れ場所がないのです。一方ここを登っていくと海から見えませんし、少なくとも後30mぐらいは金井戸川に向けて珊瑚礁の岩陰を進む事が可能なのです。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.84

登るとこなん風景です。匍匐前進する事なく前に進めますね。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.85

壕から出て「沖縄師範健児之塔」がある場所から撮影しています。多分ここに写されているどこかに出てくるはずです。試してみたいのですが、一人の場合は危険なので、何時か複数メンバーの時に確認してみたいと考えています。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.86

緋寒桜があった場所まで戻りました。コンクリート製の階段がありますが、左に行くと今慰霊巡拝した「沖縄師範健児之塔」があります。下に降りると「金井戸川」があり、更に降りると摩文仁の海岸に出ます。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.87

「南溟の塔」の案内石碑が→と共に設置されています。この場に立てば恐らく迷わず三方向に進めると思われます。

「南冥之塔」

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.88

それでは案内石碑の矢印の方向に進んでみましょう。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.89

キチンと整備された歩道がありますので、夏などでもハブ等の出没を気にすることなく参拝できると思います。写真奥に「南冥の塔」があります。

突然ですが皆様、この道が無い状態、つまり左右の木々が鬱蒼と茂る状態が画面一杯に連続しているというイメージで見て頂けますか。金光教那覇教会の林先生によりますと、金光教がここ摩文仁で遺骨収集を始めた今から40数年前の頃は、この道は無かったという話ですよ。ですから林先生も、まさかこの奥に慰霊塔があるなんて長く気づかなかったと言います。私達が車を止めた大きな駐車場横にあるお土産屋さんを経営されていた、前門キヌさんという方に案内されて初めて林先生は「南冥の塔」の存在を知ったそうです。その頃の前門キヌさんは「南冥の塔」の墓守をしていたのです。人との縁が繋がって道が開けるという良い事例ですよね。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.90

直進すると白い掲示板が見えてきます。掲示板の右側に「南冥の塔」

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.91

遊歩道の右側にはご覧のような巨大な岩が鎮座しています。巨岩が連なっているこの付近一帯を、地元ではボージャーシーと呼ぶ様です。これら巨岩は「黎明之塔」のある89高地からよく見えますので、良い目印にもなっていますね。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.92

歩道突き当たりには、ご覧のような南冥の塔説明文が設置されています。この説明文も新設されたものですが、すでに結構汚れていますよね。季節によってはスコールと呼ぶべき強い雨も頻発したりしますから、亜熱帯に属する沖縄は年間を通して厳しい環境にあると言えるかもしれません。本文はギリギリ読めますが、テキストに起こしてみました。(^o^)

【南冥の塔解説文】

沖縄戦終焉の地であるこの一帯には、米軍に追いつめられ逃げ場を失った多数の日本の軍人軍属、一般住民が米軍の連日連夜にわたるすさまじい砲爆撃により傷つき、斃れていて、死屍累々といったその様はこの世の地獄絵図かと見まごうような悲惨な光景でした。 この南冥の塔は、沖縄戦に参戦し、その惨状が念頭から離れなかったという日系二世の米兵ヤマモトタツオ氏が中心となり、昭和二十九年九月、この一帯に放置されていた身元不明の兵士、住民の遺骨一万二千柱を集骨して建立されました。 現在、この塔の遺骨のほとんどは沖縄戦没者墓苑に移され、ここには一部が分骨されて祀られています。 ここに追悼の意を表し、戦没者の御霊を慰めるとともに、安らかならんことを祈ります。

内閣府沖縄総合事務局 

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.93

歩道を突き当たると碑の説明掲示板があり、右上に「南冥の塔」が見えてきます。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.94

なんだ~。ホウキとチリトリが置いてありますよ。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.95

「南冥之塔」です。平成26年に改築新装なって、真新しく精々しい雰囲気となっていますね。ところで那覇教会の林先生が、沖縄に点在する慰霊塔の前で慰霊祭を最初に行ったのが、この「南冥の塔」だったそうです。慰霊祭の依頼者は、この慰霊塔の墓守をしていた前門家のキヌさんでした。という事で金光教の遺骨収集奉仕活動とこの「南冥の塔」とは、切っても切れない縁があると言えるでしょう。

林先生は、毎年6月23日の沖縄戦終結の日に合わせて、ここ「南冥之塔」で慰霊祭を仕えられています。前門キヌさんに「南冥之塔で慰霊祭をぜひ…」と相談を持ちかけられたのが昭和51年、今から43年前の話という事になります。これ以降林先生による「南冥之塔」での慰霊祭は、現在まで途切れることなく続けられているそうです。毎年本当にお疲れ様でございます。

「沖縄師範健児之塔」や「南冥之塔」を慰霊巡拝する場合、参道手前にある駐車場に車を止めるのが一般的です。その駐車場横にある住宅にお住まいだった前門家を、「南冥之塔」を語る際には外せません。金光教の遺骨収集は、特に26年続いた運営委員会時代の300人から400人が全国から参集する大規模な遺骨収集活動には発展しましたが、前門光雄さん抜きにそれは為し得なかったと断言しても良いかも知れません。そんな金光教の遺骨収集に於いて掛け替えのない前門光雄さんですが、平成14年(2002年)満50歳の若さで急逝されました。

前門光雄さんのお母様は、「南冥之塔」への道が無かった時代から同塔の墓守をされていた方です。前門光雄さんは子供の頃からお母様に手を引かれて、山野に散在するご遺骨の収集を続けられました。そのお母様と那覇教会の林先生とが出会い、そのお母様の願いにより、「南冥之塔」で金光教の祭式に則った慰霊祭が挙行されるに至りました。そして林先生は前門家と共に遺骨収集活動をする流れに発展して行きました。その後石原正一郎氏や帯同する学生奉仕団も加わり、より規模の拡大した遺骨収集活動として受け継がれていきました。因みに「南冥之塔」前での慰霊祭は現在でも、毎年沖縄慰霊の日に挙行されています。

私も前門光雄さんとは良く話をしました。米軍放出の暗緑色の作業服と編上靴をいつも身に纏っておられましたから、いつもすぐに発見できました。地味で目立ちたがらないタイプでしたから、一見無愛想に見えましたが、沖縄の人の典型と言える様なとても心根の優しい方でした。彼の語る言葉の中で、一番印象に残っている言葉は、「沖縄の心は、おばあの心です」と言うのがあります。この言葉は私だけでなく、多くの参加者が耳にしているかも知れません。前門光雄さん自身を表すような、とても印象深い言葉でした。ご冥福をお祈りいたします。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.96

国立の墓苑は日本全国で千鳥ヶ淵と摩文仁の二カ所しかありませんが、この「南冥の塔」もなんと国立墓苑に指定されており、それがために、林先生が祭主を務める6月23日挙行の慰霊祭には、国の出先機関である内閣府沖縄総合事務局長名で生花が届けられるそうですよ。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.97

日系二世の米兵ヤマモトタツオ氏が、摩文仁を立ち去るにあたり、刻み込んだ碑文は次の通りです。

「銃とらぬ諸人の 御霊永遠に神鎮まりませと 祈りつつ吾れ 此の碑を捧げまつる 一九五四年九月拾四日 沖縄戦参加一米兵」

日系二世の米兵ヤマモトタツオ氏が、沖縄戦の渦中、日本軍を掃討するため摩文仁で作戦を遂行中に、赤ん坊の泣き声がするので、声を頼りに辺りを探してみると、砲弾に打たれ死んでいる母親の血塗られた乳房をまさぐりながら、飢えて泣いている赤ん坊が居たそうです。しかしながら掃討戦の作戦遂行中であり、手当もせずその場を立ち去ったそうです。

やがて戦争も終わり、除隊となって郷里に戻りましたが、その時の光景がたびたび夢に出てくるというのです。それでいたたまれず、単身沖縄にやって来て、前門家の庭にテントを張らせてもらい、現在の南冥之塔がある一帯で遺骨収集を一ヶ月ほど続け、ご遺骨を塔の横にある壕に納めたそうです。

ところで、金光教の遺骨収集奉仕活動の運営を一手に担っていた運営委員会時代に、この解説文に書かれている、日系二世の米兵ヤマモトタツオ氏を、米国からお招きして、南冥之塔前での慰霊祭に参列して頂こう…。という動きが金光教運営委員会で持ち上がりました。

もう何年前になるでしょうか、おそらく25年以上前であったと記憶していますが、少し記憶がぼやけてきています。いすれにしてもヤマモトタツオ氏招聘の足掛かりを掴むべく、米軍及び米軍軍属の方々の、金光教の遺骨収集参加を一元的に任されていた、米軍軍属のブレブル松枝さんという方を通して、米国で新聞投稿をして広く情報を求め、そしてついに日系二世の米兵ヤマモトタツオ氏の所在を突き止められたそうです。 しかしながら、その結果は…。

ヤマモトタツオ氏ご本人は、戦闘疲労症(PTSD)になっており、「訪問は止めてほしい」と、氏のご家族の方が直接語られたと聞いております。こうした事実に当時の私も衝撃を受けた記憶があります。戦争を生き抜いて尚、回復する事のない心の傷の深さに思いを致す時、ヤマモトタツオ氏のいくばくかの忘却への道筋と、心の安らぎとを祈らずには居られません。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.98

慰霊塔の左側に壕がありまして、ご覧の様な開口部が見えます。この壕は摩文仁集落住民の避難壕であった様です。この壕も含めて摩文仁集落の避難壕は、この付近に三カ所あった様です。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.99

壕内の様子です。それほど広くは無いですね。しかしながらこの付近では、かなり大きい壕と言えるかもです。この付近でこの壕よりも広い空間のある壕は一カ所しかありませんからね。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.100

何年か前から壕の底面を大きく掘り起こした状態になっています。写真の通りですね。この壕の壕底がどこなのか見た限り、良く解りません。この壕は堅固な鍾乳石で出来ていますから、壁・天井面の崩落は考えられません。この壕は戦後何度も何度も遺骨収集が為されて、壕底が解らなくなったと考えられますね。

ところで壕の奥の方にベニヤ板が置いてありますね。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.101

壕から出た所にも、ご覧のように段ボール箱がありました。写真には写しませんでしたが、その外にも生活する為の日用品的な物品が置いてありました。昨年からこの様な状態です。

何年か前もこの壕で寝起きするおばさんが居ましたが、今再び誰かこの壕にやって来て滞在しているみたいですね。備品のそろえ方、備品の置き方等を観察すると大きく違っていますので、以前居られたおばさんとは違う、別の人ではないかと推測しています。

因みに前回住んでいたおばさんに聞いたところでは、南城市に自宅があり、時折やって来てこの壕では墓守をしていると言う話でしたし、何日か泊まって帰ると言うのを繰り返しているとの事でした。その話しぶりからして、認知症ぎみのおばあさんが、変な事をしているというような印象は全くありません。キチンとしたおばあさんでした。

因みに今回の方は、備品の種類や揃え方の様子からみて、宿泊まではしていないかも知れません。いずれにしてもこうした霊域で墓守とは立派な行いですよね~。とても真似は出来ません。だってこの壕内で夜寝るなんて、死んでも真似は出来かねますよ~。(^^;)

ただ不思議なのは、墓守をする方が「南冥之塔」だけに現れて、「沖縄師範健児之塔」には現れません。向こうにも寝泊まり出来る壕があります。元々こちらの壕は摩文仁集落住民の避難壕だったので、摩文仁の住人であるなら御遺族だろうと思えますが、前回居られた方は南城市に住まいがあるとの話でしたから、遺族と言うのも断定しかねますよね‥‥。よく解りません。来年会えたら、よく話を聞いときます。(^^ゞ

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.102

壕前には守備軍将兵個人の慰霊碑が数基建立されています。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.103

そして傍らには、冬に開花するツワブキの花が咲き誇っていました。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.104

「南溟の塔」の右側を見ています。巨岩の付け根という事になります。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.105

遊歩道に戻って参りました。写真左側から次の写真辺りは、地面は土ですし平坦になっています。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.106

ここは特にそうですね。緩やかな緩斜面ながら地面は平坦です。ハンタ原と呼べそうな場所がこの辺り一面に広がっているのが解ります。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.107

クロアゲハでしょうかね。可哀想に死骸となっていました。(^^;)

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.108

遺骨収集をされている方々が警戒するクワズイモですね。ジャングル内の移動に際して切り倒しながら進まなければならない事も多いです。その場合は鎌等をなるたけ体から離して振りかざしたり、樹液が四散しないようにズバッと一気に切り倒すなど、樹液を浴びないように注意すれば大丈夫です。またクワズイモを切り倒す際は防護メガネを掛けていればより安心です。

いずれにしてもクワズイモの樹液が皮膚に触れただけでも大変です。特に粘膜に樹液を接触させると悲鳴を上げる事態となります。死に至る毒草ではないので、あまり深刻に捉える必要はありませんが、一度樹液が皮膚に触れる体験してみると良く理解できる所です。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.109

クワズイモの花です。この写真はこの場所で撮影したのではなく、今次遺骨収集で他のジャングル内で咲いていたものをご紹介しています。長年遺骨収集をしていて、クワズイモの花に遭遇するのは非常に希です。元々開花時期が初夏から夏と言いますから、遺骨収集を実施する1月とか2月では季節外れという事もあるでしょうからね。この写真は、その希少なクワズイモの花のご紹介でした。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.110

「南溟の塔」の案内石碑の右側にある樹木です。ご覧下さいませ。一種類の樹木かと思いきや、よく見ると元々あった樹木にガジュマルの木が絡んでいるというのが実相の様です。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.111

そうなんです。ガジュマルの木は別名「締め殺しの木」とも言われています。写真をご覧になってどうでしょうか?。ガジュマルの木が着生した樹木、つまり元々の樹木を強く締め付けているのが見えますね。

「沖縄師範健児之塔」参道前駐車場の一角にあった木も、ガジュマルの木が絞め殺してしまった結果切り倒されてしまったのを、撮影して冒頭でご紹介しましたね。この写真に写されている元々の樹木も何年か先には、可哀想に同じ運命を辿る可能性が高いですね。これはしっかりと追跡調査を続けましょう。(^^;)

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.112

さあここからは金井戸川へ行く遊歩道に入りました。遊歩道か緩斜面で下っています。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.113

エンジェルストランペットです。もう20年以上前から、ここにに生えている元気な花木です。但し今年は花数が極端に少ないですね。因みにこの花は、昔はダチュラという名でした。ですから私もダチュラとつい呼んでしまいますが、今は改名してエンジェルストランペットと呼ぶそうです。大きなラッパ状の花がぶら下がるように開花する熱帯花木ですね。品種によっては夜間、花が香るそうです。

熱帯植物ですが寒さには比較的強く、関東地方のほとんどの地域では地上部が枯れても地下部から芽が出てまた開花します。確かに東京の新宿でも通勤途上ですが、毎年元気に花を咲かせるエンジェルストランペットが植えられています。鉢植えでは大株に仕立てないと花が楽しめず、また風で倒れやすいので庭植えにして楽しむほうがお勧めとの事です。庭植えにして大株にすると、一度に50~100輪ほどのたくさんの花が咲く事があります。通勤途上で見かけるエンジェルストランペットもそうでした。ものすごい花数で壮観でした。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.114

エンジェルストランペットの花です。大きな花が咲きますが、この花は強い毒があるので、扱いには十分注意してください。因みに私も家庭菜園をやっていまして、余った土地にこのエンジェルストランペットを植えまして、それは見事な花々が咲き誇っていました。しかしある日おばさんがやってきて、「このエンジェルストランペットの花粉は強い毒があるので、野菜の花にこの花粉が付くと毒性が転移し危険な野菜になってしまうかも知れないので切って欲しい」と言われました。(^^;)

調べてみるとその通りで、花・葉・樹液すべてに毒があるようです。特に目に樹液が入ると失明のリスクがあります。但し正しい分量で調合すると薬にもなるそうです。これらの事を調べて納得したので、大きな木に成長していましたが、すぐに切り倒してしまいました。庭の花壇に植えるなら何も問題は無いと思いますが、管理作業では要注意です。また花粉が飛散する範囲に畑がないか等、一応見渡して気にした方が良いと思いますね。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.115

遊歩道が左に曲がっています。曲がってすぐ左側に金井戸川があります。ご覧の様にこの辺りも湿地なのでしょうかね。クワズイモが群生しています。

「チンガー/金井戸」

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.116

見えてきました。地元でチンガー(摩文仁のムラガー/金井戸)と呼ばれる井戸です。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.117

チンガーと呼ばれる井戸です。現在は湧水量が少ないと感じますね。沖縄戦を詳細に書き記した『沖縄決戦』(八原博通著)によれば、「小径を下りつくした脚下の海岸には直径十数メートルの泉が…」と書かれていますから、沖縄戦当時と比べて湧水量は僅かとなっています。ただチンガー背面と東側に広大で緩やかな勾配の傾斜面を有していますから、梅雨時などかかなりの水量の湧き水があるのかなと思われます。また摩文仁之丘には井戸は二カ所しかありません。もう一カ所は海岸線に沿って東に1キロメートルぐらい行った先にありまして「ワシチガー」と言います。両井戸ともに米軍に井戸の存在が知られていましたから、チンガーを含めた両井戸への水汲みは決死の行動だっに違いありません。

チンガーの現在の様子ですが、セメント等の構築物は戦前のものか戦後のものかは不明です。昔から井戸は使わないと枯れると言われる事もありますが、正にそのような状況になっています。

沖縄戦解説本などで見るチンガーの項目では、「夜になると兵士や住民が水を求めて殺到したが、米軍による砲撃や機銃掃射で多くの犠牲者が出た。井戸の周りは死体であふれ、その死体をどけてから水をくんだ。しかもその水は血に染まっていた」という表記が為されていたりしますが、井戸の南側は小高い丘になっており、海に居並ぶ米艦船からはチンガーは全く見えません。井戸の畔に立ったとしても海からは一切姿は見えません。ですから井戸の畔に集まった人々を機関銃で直接狙撃する事は出来ません。

チンガーは死の泉として恐れられた事は間違いありませんが、米軍はチンガーの前面に哨戒艇を常駐させていたので、恐らく迫撃砲など曲線を描く砲撃が多用されたのではないか、或いはチンガーの周囲50メートルとか100メートル内に入る人影を狙って機関銃などで狙撃するという状況ではないかと推測されます。いわゆる曲射砲によるめくら撃ちですね。

戦後七十余年を経て、現在のチンガーの周囲は緑豊かな木々が茂っていますが、沖縄戦当時の白い石灰岩の丘陵であった事をイメージすると、井戸の周囲100メートルぐらいを俯瞰しても、思いのほか岩などの遮蔽物が少ないです。夜間に水汲みに成功する将兵や避難民も居たでしょうが、遮蔽物が全くない傾斜面は確実に人影が曝露し、照準が合わせられている機関銃などで狙撃された可能性があります。

一方上掲文でご紹介した摩文仁にもう一カ所ある泉についてですが、チンガーから見て、海岸線に沿って東に1キロメートルぐらい行った先の、摩文仁のもう一つの井戸である「ワシチガー」は、井戸の周囲100メートルぐらいを俯瞰した場合、傾斜面は一切の遮蔽物はなく、海岸の岩場しか遮蔽物はありません。ですから井戸及び周囲の広範囲がに米軍艦艇に曝露しており、こちらの「ワシチガー」井戸の方がよほど命がけであったと推測されます。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.118

海岸に至る遊歩道から見たチンガーの様子です。写真奥の巨岩の下に井戸があります。その井戸から写真手前に溝が出来ていますが、これが川であり金井戸川と命名されているようです。今は水は流れていません。そもそも現在水が貯まっている井戸の位置と、この金井戸川の川底の位置を比較すると、井戸の水位の方がかなり低いので、水が川のように流れようがありません。梅雨時はどうなんでしょうかね。梅雨の時節では川として水流があるかも知れませんね。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.119

この写真はチンガーの少し西側に立って撮影しました。写真中央部が一番低い所、ご覧の様にくぼんでいる場所であるのが見て取れます。位置的には金井戸川の川底よりも少し低い位置になります。池の畔に立った状態、つまりは海上に浮かぶ哨戒艇から、このチンガーに立っているのが見えてしまう可能性が一番高い場所です。

写真には木々繁り海は全く見えませんが、沖縄戦当時のように木々が無いイメージで観つつ、チンガーから坂道を少しずつ道を登って、もうこの位置だと海上に浮かぶ哨戒艇から見えるかな‥。という所で撮影してみました。この私が立っている場所はチンガーから結構高い位置になっています。私は立って撮影しているので、日本軍将兵が匍匐前進でこの写真に写されている場を通過するなら、艦船からは全く見えないと断言できるでしょう。 このチンガーには戦死体が山の様に積まれ、井戸の水は赤く染まっていたという証言があり、現場は常に悪臭と共に悲惨な状況だったようです。と言う事で、水を求めここで亡くなられた日本軍将兵は、照準を合わせられて狙撃されたというよりは、曲射砲によるめくら撃ちで亡くなられた可能性が高いと感じます。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.120

チンガーよりも少し高い場所から、海側にカメラを向けて撮影しました。ここも金井戸川の川底よりも高い位置になります。ご覧のように海は全く見えません。チンガーよりも一段高い所に立っても見えないのですから、匍匐前進する事なく、井戸際に普通に立っていても、海上に浮かぶ哨戒艇などから発見される可能性はゼロである事が解ります。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.121

チンガーの真上には丸っこい巨岩がありますが、その右端を撮影しています。小さな拝所がありました。拝所の裏手にはクワズイモが群生していますね。水気がある場所の様です。平和祈念公園内に「空華之塔」がありますが、同塔のある崖下辺りを水源とする川とは言いませんが、稜線の北側なのですが緩やかな勾配のある低地がこの写真の所まで約250m続いている事により、この辺りは湿地帯となっているものと推測されます。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.122

摩文仁海岸に向かってみましょう。チンガーのすぐ南側はご覧の様に稜線越えの様な感じで小山を越えていきます。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.123

稜線を越えると海岸に向けて一気に降りていきます。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.124

摩文仁海岸が見えてきました。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.125

摩文仁海岸に出ました。現在引き潮の状態にあるので、満潮時に水没する区域が露出しています。ご覧の様に引き潮時は、かなり沖合まで歩いて行けます。歩いて行けるその先端で釣りをしている方も時折見かけます。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.126

ご覧の様にコンクリート製の階段が破壊されています。波の破壊力は凄いですね。恐らく台風などの強烈な波によって壊されてしまうのでしょう。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.127

チンガー方面から降りてきた方向を振り返るとこんな感じです。結構な標高差がありますね。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.128

海岸の散乱する岩も丸くなっています。河川ではこの様な丸い石になっているのが一般的ですが、台風など大波の時に動くのでしょうが、海岸の岩も繰り返し繰り返し波に洗われると、この様な丸い石になってしまうのですね。新しい発見です。(^o^)

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.129

この辺りの岩も丸いですね。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.130

露出が暗くなってしまいましたが、太平洋を見ています。引き潮時はかなり沖合まで歩いて行けるのが解ります。昔ここ摩文仁海岸沖合でクジラを見た事がありますので、下の写真でご紹介します。(^o^)

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子32

皆様も沖縄本島の沖合はホエールウォッチングが盛んだと聞いた事がありますか? 冬の沖縄旅行では人気のレジャーとして、実際にホエールウォッチングツアーが盛んに行われている様です。春から夏にかけてアラスカの海で過ごしたザトウクジラは、冬はアラスカから9000km程の旅をしながら南下し沖縄の海にやって来て、出産と子育てをするのだそうですよ。

私も平成21年(2009年)の第36回金光教遺骨収集の時に、摩文仁海岸線からクジラを見ました。クジラ自体は沖合を泳いでいたので小さくしか見えませんでしたが、体を海中から出してザッブーンと再び海に消えるまでの動きは実に雄大で迫力がありました。(^o^)

この写真に鯨が写っていますのでご覧くださいませ。よ~く見て下さい。中央部水平線上にクジラが飛び上がったのが見えるでしょ~~。
「小さすぎてよく見えない」ですって。済みません、カメラの広角側で撮影したので小さく写ってしまいました~。













遺骨収集の様子

拡大して、これならどうですか~~。(^o^)
カメラの広角側で撮影したので小さく写りましたが、私達自身の目では写真と同じレベルの大きさで見ることが出来ましたよ。ザッブーンという音こそ聞こえませんでしたが、とにかく動作はゆっくりですごい迫力でした。

過去写真掲載はここまでです。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.131

東側の海岸線を見ています。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.132

今度は西側の海岸線を見ています。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.133

西側海岸線付近はご覧の様な超巨大な岩が連なっている場所でもあります。

平成24年(2012年)の出来事なのですが、とある沖縄戦に従軍した兵隊さんが本土に帰還しまして、戦後は沖縄遺骨収集奉仕活動を精力的に行なったそうです。そしてご本人が亡くなられる前に、「遺骨の一部を摩文仁に散骨してほしい」と遺言書に書き記されたそうです。そうした経緯で、亡くなられた方のご親族が、ここ摩文仁に散骨をする為に来られ、林先生が主導される「慰霊式典・散骨」の場に、私も参列させて頂く機会がありました。

プライバシーがありますからサイトでは多くを語れませんが、金光教の遺骨収集奉仕活動にも何度か参加されており、また沖縄で遺骨収集を実施する際には、平和学習ガイドの松永さんを指名して、タクシーに一緒に乗車され活動されたという経緯があるそうで、亡くなられた方の生前の活動の様子を、松永さんはよく憶えておられました。

下掲の二枚の写真は、亡くなられた方のご親族、および林先生と私たちと総勢十名程で、摩文仁の「沖縄師範健児之塔」駐車場から摩文仁海岸に降りて、一部砂浜になっている場所にシートを敷いて、林先生主導で慰霊祭を挙行し、最後にご親族が持参した遺骨の一部を海辺に散骨しました。その様子を二枚の写真に収めましたのでご紹介します。

《過去の写真ご紹介》

摩文仁散骨の様子1

【摩文仁砂浜での故人慰霊祭・散骨】 遺言者の「遺骨の一部を摩文仁に散骨してほしい」という希望に添い、ご親族の方々が摩文仁海岸を訪れ、林先生主導により故人慰霊祭を挙行している所です。プライバシーに配慮しご遺族を小さく写しています。列の一番前で祭詞を読み上げておられるのが金光教那覇教会の林先生です。

摩文仁散骨の様子2

亡くなった方ご本人の希望により、ごく少量のご遺骨が海水面に散骨されました。写されている白い部分がご遺骨です。この方は沖縄戦を戦い抜きましたが、所属部隊員全員が戦死されて、唯一人生き残ったとの事です。ご遺族の話によりますと、「戦友の元に帰りたい」 と常々語っていたそうです。

この方は戦後においては、年金を使い果たすくらいに精力的に沖縄に通い続け、遺骨収集奉仕活動に取り組まれたという話です。金光教の遺骨収集奉仕活動にも何度か参加されました。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

過去写真掲載はここまでです。

発見された四枚の認識票

発見された認識票四枚について、豊澤さんが昨夜のうちに白い粉をすり込んで持参して下さいました。刻印されている文字をクッキリと浮かび上がらせ、非常に綺麗で読みやすくなりましたね。人が集まると知恵も又集まるものです。私はこれは良いアイデアだと感じましたから、今後再び認識票が発見された場合は、同じ様に白い粉をすり込んで、読みやすくする事にしました~。(^o^)

「四枚の認識票」

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.144

豊澤さんの発案で白い粉を塗されました。とても読みやすくなりましたね。

認識票をよく見ると、刻印された文字の上を×の線が引かれたり、縦の線が引かれていますが、古い刻印として見え消しされている事を意味しています。右側3枚の認識票が遺骨収集で発見される通常の認識票です。一番左の「瀬古政秋」と氏名のみが刻まれた認識票については、昭和18年まで日本軍将校は、階級や兵士氏名を刻印した自前の認識票を所持する事が許されていた様です。

日本軍の認識票は、小判型の全長約46mm、厚み約1mmの真鍮板で製作され、上下の穴に紐を通して、胴体に紐などでたすき掛けにして装着していました。一方米軍では首から下げたそうで、認識票を犬の鑑札(狂犬病予防の法律に基づく登録票)になぞらえて「ドッグタグ」と呼ばれ、ある意味自嘲的な皮肉が込められていたと言います。

日本陸軍では、部隊の名称を秘匿する為に通称号で部隊名表示する事も多かったです。沖縄で言えば、山0000部隊とか石0000部隊とかですね。上掲の認識票ご覧下さい。桁数も違うし部隊名を表す通称号とも違っていますよね。「第一二九七四」とか「一二九二三」とか、何かまちまちな表現です。そうなんです。日本陸軍の認識票は、全軍統一の厳密な規格がある訳では無く、部隊ごとに手配していた様なのです。

更には認識票の扱いとして、認識票を戦闘の出撃前に各兵士に配り、戦闘が終わり帰隊した兵士の認識票を回収して、存命者を(逆に言えば戦死者を)把握するというシステムでしたから、認識票は個人を特定するという認識は無かった様です。こうした状況ですから、一度出撃前の認識票記録が、全員玉砕や海没で紛失してしまうと、誰がどの認識票を持っていたかも不明になってしまう事態に至るのです。

と言う事で、日本軍と米軍とでは、認識票の機能や役割が大きく違っていました。米軍側の認識票には、氏名、血液型、認識番号などが刻印されており、戦死した時に顔や遺体が原形を留めないほど損壊しても、認識票が無事ならば個人識別が可能であるのに対し、日本軍の認識票は、元々個人所有をほとんど意識していなかったと言えるでしょう。

私達は今回の遺骨収集で、4枚の認識票を発見しましたが、発見当初メンバー全員があまり興味を示しませんでした。こうした背景を知っていたので、私達は兵士個人の持ち物である軍靴が見つかったのと同じレベルの感慨しか沸かなかったのです。しかし結果として、私達は今回初めて氏名のみが刻印された認識票の発見に至ったと言う事で、とても驚いています。感無量です。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.145

「瀬古政秋」と彫られた名前も、ご覧の様にしっかり読めますね。

発見された同認識票について、琉球新報様とNHK NEWS WEB様が、早速記事にして下さいましたのでご紹介します。ありがとうございました。(^o^)

三重県出身の戦没者か 日本兵認識票に「瀬古政秋」 沖縄の摩文仁の丘周辺で発見 NPO 「遺族の元に返したい」

【琉球新報】令和2年(2020年)1月21日

〇沖縄戦戦没者の遺骨収集に取り組む松永光雄さん(66)=NPO法人沖縄鍾乳洞協会理事=らが16~19日に糸満市摩文仁の丘周辺で遺骨収集作業を実施し、当時の日本兵の認識票四枚を発見した。そのうち1枚には「瀬古政秋」の文字が彫られていて、「平和の礎」にある氏名検索端末で調べたところ、同姓同名の名前で三重県出身の戦没者を見つけた。松永さんらは「手元に返したい」と遺族を探している。

認識票を発見した遺骨収集現場は、摩文仁の丘にある各都道府県の慰霊塔の裏手あたり。急斜面の山道を約30メートル下った場所にある洞窟の中で、認識票の他に骨片や銃弾なども収集された。3年ほど前にも近くで名前が彫られた認識票が発見されている。

今回発見された認識票は4枚。全て縦約5センチ、横約4センチの大きさ。そのうち1枚に「瀬古政秋」と名前が彫られている。松永さん「名前が記された認識票は珍しい。いろんな思いが込められているはずだ。どうにか遺族に渡したい」と話している。情報提供や問い合わせなどは松永さん(電話)000-(0000)0000。

※注:「瀬古政秋」の「瀬」は、オオガイが「刀」の下に「貝」

「琉球新報」から転載させて頂きました

ガマから名前判読できる認識票

【NHK NEWS WEB】令和2年(2020年)1月23日

沖縄戦最後の激戦地、糸満市にある、旧日本軍が使っていたと見られるガマの中から、身元がわかるようにするため日本兵が身につけていた「認識票」が見つかり、収集したNPOは、記されていた名前などを手がかりに家族を捜し出し、返したいとしています。

「認識票」は、兵士が死亡したり重傷を負ったりしたときでも、身元がわかるようにするため、当時の日本兵が身につけていたものです。

この認識票4枚を、今月17日、遺骨収集をしていたNPOが、糸満市摩文仁にある旧日本軍が使っていたと見られる、自然洞窟のガマで、遺骨や兵士の靴などとともに見つけました。

このうち1枚は、「瀬古政秋」と読める名前が記されていて、NPOが「平和の礎」の刻銘を調べたところ、三重県出身者で同姓同名の人物が見つかったということです。

NPOは今後、これらを手がかりに家族を捜しだし、返したいとしています。

NPO法人沖縄鍾乳洞協会の松永光雄理事は、「刻まれた名前が解読できる認識票は珍しく、家族が見つかる可能性は高いと思う」と話しています。

※NHK沖縄で放送されたWEB記事です

「NHK NEWS WEB」から転載させて頂きました

事後談となりますが、「瀬古政秋」と記された認識票は御遺族の元に無事帰る事が叶いました。思えば同認識票は、暗い洞窟での75年という長い歳月を経て、故郷に帰還する事となりましたが、今は御遺族様のお仏壇などで安住の地を得ているに違いありません。

故郷にお帰りになられた‥‥。その事だけで、私達南部戦跡遺骨収集会メンバーは、掛け替えのないご褒美を得た思いで胸が一杯になります。ご尽力頂きました諸関係者の皆様には、衷心より感謝申し上げます。御遺族のご了解を得ていませんので、個人情報に触れない範囲で、認識票返還の様子を極わずかですが書かせていただきます。

 

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

御遺族に認識票一枚をそのままお返しするのでは芸がないという事で、豊澤さんが提案し調達もすると言う流れで、桐箱に収めて贈呈する事としました。ご覧下さい。認識票の為に作られたと思われる様な、サイズ的にぴったりの桐箱が見つかりました。そして認識票を両面テープなどで固定するのもまた味わいがないと考え、白布をベースにして紐状の和紙を用いて認識票を固定する様に致しました。如何でしょうか、これなら御遺族の皆様も、受領してからそのままの状態で仏間などに末永く安置出来ますよね。(^o^)

御遺族とは、認識票の返還を含めて一時間余り歓談しました。支障のない範囲でざっくりと書き記しますと、「政秋は○○○大学を卒業後、幹部候補生として日本陸軍電信隊に入り、昭和8年には工兵少尉に任官されました。昭和12年には支那事変に応召、上海南京錦州大別山の戦いに参戦中に、中尉となり勲六等に叙せられた。昭和15年帰郷、そして翌16年再応召、○○○○守備隊長として輝春吉林間島に駐屯。昭和19年に沖縄に転戦。陸軍大尉となり通信隊長として陣頭指揮、6月27日摩文仁にて戦死」と、持参された沢山の資料を並べて、生前の経歴を丁寧に説明して下さいました。

瀬古政秋氏は、新聞に記載されている様に三重県出身です。また学卒で任官している事から推測すると、享年は35歳ぐらいではないかと推測されます。瀬古政秋氏の戦没された日が6月27日と言うのも印象深いものがありますね。

尚、御遺族様が、瀬古政秋氏の軍服姿の写真を持参されましたので、私達も拝見させて頂きました。写真撮影から八十年ぐらい歳月を経ているのでしょう。遠い昔を象徴するセピア色の赤茶けた色合いになっていました。

手には厚手の革手袋をして、頭をすっぽりと包み込む大きな耳当ての付いた毛皮張りの防寒帽を被っていますので、冬の寒さが厳しい支那戦線駐屯時に撮影されたものかも知れません。椅子に座った座位で、少し前に出した軍刀の兜金部分を左手で持ち、武人たる凜とした表情がとても印象的でした。

 

 

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.146

認識票 第12974 300番
通称号:球12974部隊 正式名称:独立有線127中隊→電信第36聯隊(球18830)に編成替

内閣府の沖縄戦関係資料閲覧室の検索では12974部隊は特定出来ませんでしたが、ネット検索を続ける豊澤さんから朗報がもたらされました。神戸新聞に球12974部隊の関連記事がありました。まずは一部引用させて頂くと次の通りです。

「冬服と三八式銃は中国大陸、夏服と九九式銃はフィリピンなどの南方と決まっていた。所属部隊は「球12974」といった。防衛省防衛研究所によると、正式名称は「独立有線127中隊」。電話線などを使って命令を伝える「有線通信手」の集団とみられる。ただ小規模だったため、行動記録は残っていない」

「球12974」と書き記されていますし、正式部隊名称も「独立有線127中隊」と言うのが判明しました。

玉砕せよ沖縄戦 (1)沖縄への船中下った厳命

【神戸新聞】令和年(2014年)4月28日

4月28日を、沖縄の人は「屈辱の日」と呼ぶ。1952(昭和27)年のこの日、講和条約発効で主権を回復した日本の中で、沖縄は奄美、小笠原とともに米軍の統治下に置かれた。そして差別と屈辱の日々が始まる。沖縄は戦争中、国内最大の地上戦が繰り広げられ、民間人を合わせ20万人を超える命が犠牲となった場所でもある。洲本市の元陸軍兵、片山省(しょう)さん(91)は沖縄戦を戦い、所属部隊が壊滅する中で奇跡的に生還した。シリーズ「戦争と人間」第4部は片山さんの証言を届ける。名護から大里、識名(しきな)から具志頭(ぐしちゃん)へ。戦地を駆け回った片山さんは、69年前の激戦を振り返って言った。「肉弾戦でしたわ」(上田勇紀)

21歳だった。徴兵され、洲本から満州に渡って9カ月が過ぎていた。44年9月。通信手だった片山さんは動員令で鹿児島に送られ、さらに行き先を告げられないまま船に乗せられた。

「あちこちから集められた通信手ばかり、四、五百人はおったかな。夏服と九九式の銃をもらったから、これは南方だなと思った」

冬服と三八式銃は中国大陸、夏服と九九式銃はフィリピンなどの南方と決まっていた。所属部隊は「球12974」といった。防衛省防衛研究所によると、正式名称は「独立有線127中隊」。電話線などを使って命令を伝える「有線通信手」の集団とみられる。ただ小規模だったため、行動記録は残っていない。

片山さんが沖縄行きを知ったのは船の中だった。隊長が告げた。「お前らは玉砕(ぎょくさい)要員だ」

「玉砕せよ。そう言うても、沖縄は日本の国やないかい。日本の国で玉砕なんてあるんか、と思うたね」

沖縄まで3日ほどかかった。その間、米軍の空襲や魚雷による奇襲に備える必要があった。大砲の砲手を任された片山さんは、甲板で配置に就き、がくぜんとする。

「大砲と違うんですわ。木やねん。立派な大砲を据えとるように見せてね。シートめくったら丸太ん棒ですわ。僕も、誰もおらんのは変やから、おるだけのこと。敵の目をごまかすため、こんな手をやるんかと思いましたわ」

「船は那覇に着きました。暑いですよ。外国へ行ったような感じでね。赤い屋根とか石垣があって。ハブも出るし。でも沖縄県って書いてあるから、まだ日本や。那覇で船団でも組むんかと思たら、上陸してどんどん北へ行進していった」

この年の7月、日本の委任統治領だったサイパンが陥落。沖縄は、米軍が次に侵攻すると予想される地域の一つだった。米軍の上陸まで、あと7カ月。「玉砕せよ」。命令の意味も分からないまま、片山さんは沖縄の土を踏みしめた。

「神戸新聞」から転載させて頂きました

 

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.147

認識票 12923 1番
通称号:球12923部隊 正式名称:電信第23聯隊第5中隊→電信第36聯隊(球18830)に編成替
※ 番号が一番なので先任曹長認識票の可能性あり

与座にある第二十四師団司令部壕見学

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.148

朝一番で、与座にあるトーチカと第24師団司令部(山3430)の壕とを見学する事となりました。両者は隣接しています。それでは皆様もご一緒に見学しましょう。(^o^)

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.149

まずはトーチカからですが、現場に到着した様です。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.150

皆さんが最初は、「えっもう着いたの」という感じでした。軍のトーチカですから、監視用窓とか銃眼があるものとばかり思ったはずです。しかしトーチカは完全に破壊されていると言うのが見て取れると、納得してあちこち凝視していました。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.151

ご覧の様に破壊され尽くして、ぱっと見にはトーチカとは思えません。岩の塊があるだけに見えます。「トーチカは何処にあるの」 という気持ちは良く解りますね。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.152

分厚いコンクリート製であるのは良く解りました。そんな分厚いコンクリート製のトーチカ天井は見事に吹き飛ばされ、四方囲まれた壁も上半分は無きに等しく、地中に埋まっていた部分のみが、かろうじて形状を留めているという印象です。内壁も著しく破壊されている部分もあるので、天井が崩落してからも砲撃を受け続けたのかも知れませんね。

それでは今から第二十四師団司令部壕に入ります。南埜さんがたった一人で取り組まれている遺骨収集作業現場を見学させて頂こうという訳ですね。南埜さんの話によりますと、すでにこの壕では何ヶ月も取り組んでいるとの事ですが、まだまだ道半ばとのお話でした。壕内は落盤の恐れがあるとの事ですが、そうした危険な状況下お一人で取り組まれているとの事、誠に頭が下がるばかりです。

ここで南埜さんについて少し説明させて頂きますと、彼はなんと驚くなかれ「遺骨収集をするために、仕事を退職し沖縄に移住した」という方なのです。ちょっと常識では考えられない決断ですが、彼曰く「ある日、自らの使命を知った」そうで、遺骨収集に関わるその使命を完遂すべく沖縄への移住を決断したそうです。ただ本土にある自宅はそのまま維持されているそうで、時折帰るそうです。この様にどの分野に於いても、使命感を持って取り組む人間ほど強いものはありません。事実彼も又信じがたいレベルで、しかも単独で熱情的に遺骨収集に取り組まれているのはご承知の通りです。

長期スパンで取り組む南埜さんの手法や装備について、短期滞在型の私達とは若干の違いはありますが、南埜さんは国吉さんから遺骨収集の手法やノウハウを学んだ方ですから、私達にとっても大変勉強になるノウハウをお持ちです。今日は南埜さんの取り組まれている現場を拝見させて頂き、色々と勉強させて頂こうと思っていますし、特に南埜さんのその奮闘ぶりも拝見させていただく予定です。(^o^)

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

第二十四師団司令部壕に向かっています。黒い壕口が見えて来ました。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.153

この写真は壕口に面している交通壕です。先ほど見学したトーチカと眼前にある司令部壕とを塹壕で結んでいます。どうでしょうか、両者は距離にして50m以内にある様に感じます。写真は塹壕が浅いですが、戦後七十余年経過しており、土砂や落ち葉が堆積して現在の姿になったと思われます。沖縄戦当時は立っては無理でしょうが、腰をかがめれば塹壕に隠れたままトーチカと壕とを行き来出来たと思われます。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.154

入壕に際して、この壕内で亡くなられた戦没者に手を合わせご冥福をお祈りしました。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.155

さあそれではご一緒に第24師団司令部壕に入って見ましょう。

南埜さんに感謝:
この第24師団司令部壕は、南埜さんという方がたった一人で遺骨収集に取り組まれています。それも何ヶ月という長期的スパンで取り組まれているのです。壕内部は湿っぽく湿気を含む土で泥まみれの作業になっているはずです。また大規模に落盤した形跡が至る所にあります。そうした危険を包含する状況下に於いて、お一人で取り組まれているという点で全く頭が下がります。感謝の言葉以外見つかりません。今回の私達の入壕に際しては、南埜さんから壕内の測量図を頂いています。南埜さんが測量した図面ですが、今日はこの図面を見ながら、縦横に走る壕内を探索して見たいと思います。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.156

壕口は急坂であり非常に滑りやすいです。大きな岩は無いので、落石の発生という事はありません。続けて降りても支障ないでしょう。いずれにしても、沖縄戦当時は往来に迅速さと安全を期す為に、階段とかになっていたと推測されますが、戦後の重なる遺骨収集活動で、階段が埋もれてしまったと思われます。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.157

中に進むと幾分勾配が緩くなって来ました。岩壁を捉えながら降りると安全に降りられそうです。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.158

勾配が更に緩くなってきました。横幅も幾分狭くなって来てますね。坑道の奥を見ますと、土嚢が積まれているのが見て取れます。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.159

坑道の右側は全て土嚢袋が積み重なっています。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.160

南埜さんが壕内で発見した遺品を集めた物の様です。見慣れた遺品から、初めて見る様な遺品もありますね。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.161

すでに最初のカーブを直角に曲がりました。直角に曲がっているのは、直撃弾や爆風避けの為の良く見られる構造ですよね。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.162

吉井さんが居られる辺りは、地盤が水平になりました。壕底に到達した様です。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.163

ご覧下さい。土嚢袋の背後には少しスペースを設けて、そこに汚泥と言っていいでしょう。汚泥を投げ込んでいます。汚泥も水分を含んで重そうですね。勿論南埜さんの事ですから、これら土嚢袋スペースをまず調べ遺品を回収して、何も無い事を確認した上で土砂を積み上げているのは間違いありません。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.164

憎いですね。狭いスペースも有効に使っています。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.165

長い坑道からやっと広い空間に出るようです。それにしても落盤しているのでしょうか、山あり谷ありという印象です。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.166

起伏が激しくて、何処が沖縄戦当時の地盤なのか解りません。写真は地中深く掘った跡です。南埜さんも何処が沖縄戦当時の地盤なのか不安になって深く掘ってみたのでしょう。写真では深いところも黒っぽい色をした土砂が見えます。これは迷いますね~。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.168

天井をご覧くださいませ。雨ほどとは言いませんが、広範に水滴がどんどん落ちているのが見えますね。これでは土が湿っぽく捏ねれば汚泥の様にやっかいで重たい、例えれば稲作田圃の土の様に足を取られてしまう程の汚泥となる事でしょう。遺骨収集をされた方ならご理解いただけますが、汚泥の中からご遺骨や遺品を探すのはとても大変な事なのです。サラサラの乾いた土の中から見つけるのと比較して、数倍の時間がかかりますし、何よりもご遺骨や遺品がとても見えにくいです。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.169

天井の水滴を写しているつもりでしたが、岩にぶら下がっているコウモリが一匹写っていますね。オキナワコキクガシラコウモリと言う、沖縄島、伊平屋島、渡嘉敷島、久米島、宮城島に生息する翼手目キクガシラコウモリ科に属するコウモリで日本固有亜種だと思われます。

コウモリは5月から6月にかけて出産するそうですが、この時期は非常にデリケートになっているので、ストロボ光を当てたり追い回したりすると、育児を放棄したりするそうですから要注意です。またそうしたデリケートな時期以外でも、コロニーがある所などで、何度もストロボ光を照射したり、騒がしくするとストレスになるでしょうから、壕に入る際はコウモリが居るという前提で、コウモリを慌てさせないという形で入壕したいですね。沖縄固有の絶滅危惧種のコウモリも居ると聞いていますし、毎年壕に入っていて感じるのですが、年々コウモリが減っている印象がありますので、そうした点を心配しています。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.170

図面に描かれているメインの坑道を奥へと進んでいます。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.171

坑道の幅も高さも随分とありますね。広範に落盤している形跡があります。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.172

メインの坑道にある小部屋です。こうした小部屋が幾つかありました。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.173

更に奥へと進んでいきます。この辺りも南埜さんが沖縄戦当時の地盤を想定して、通路として整備したと思われます。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.174

この辺りは落盤していない感じですね。天井面を見てもそんな印象です。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.175

これも全部積み上げて石垣の様になっています。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.176

両側に見事に石垣が出来ていますね。壁際をまずご遺骨や遺品がないか調査して上で、今度は両側に積み上げていく訳ですから、これだけ見ても信じがたい時間と労力を費やしているのが見て取れますね。全く南埜さんのご苦労が忍ばれます。m(_ _)m

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.177

木材の板の様な物も多く見受けられます。板があると言う事は、通路の地面に敷いていた可能性と、寝床に敷いていたという可能性がありますね。通路の地面に敷いていた可能性が一番高いと思われますが、だとすると沖縄戦当時すでに地面は濡れていたか、ジメジメしていた可能性が高いです。首里の第32軍司令部壕も場所によっては湧水があり、地面が常に濡れていて、木材の板を敷いていたという証言がありますね。因みに水に濡れた状態の木材は、案外劣化せずに長持ちしますよね。ここ第24師団司令部壕も汚泥の中に木材があると言う事で、長く残り続ける事でしょぅ。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.178

吉井さんと豊澤さんが、壕内の様子について色々と話をしています。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.179

ご覧の様に、激しく落盤したと思われる場所もあります。よく見ると石灰岩で固結され落盤の恐れが全く無い場所と、危ないな~と感じる場所とが混在している様子です。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.180

ご覧の様に高さが無い場所は、間違いなく落盤で地盤面そのものが高くなったと言う事でしょう。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.181

遺品です。解りにくいですが、将兵が被った鉄製のヘルメットです。見事に錆の塊と化しています。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.182

こちらも遺品で銃剣ですね。やはり錆が進んでいます。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.183

遺品です。瓶とか色んな遺品がありますね。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.184

狭い範囲の崩落が、更に大規模な崩落に発展する‥‥。それを阻止するために、南埜さんはご覧の様なジャッキと鉄パイプを用いて大きな岩がずれ落ちないように支えています。南埜さんは、こうした落盤の阻止の為に色んな手を使い、あちこちにそうした対策を取っているのが見て取れますね。南埜さんは幾つかのこうした落盤の恐れがある壕と向き合ってきましたから、直感的に壁や天井面の危険度を感知出来る様になったのかも知れません。

しかしながら、こうした危険性がある壕に一人で入り、粛々と汚泥を運び出し続けるその精神は、余程強靱でなければ為し得ないと思われます。効率重視の現代社会に生きる私達は、まず壕における朝から晩まで続く汚泥との格闘に、分けても遅々として進まない、その生産性の低さにまず音を上げるでしょう。一日の矮小な作業の結末に自分が小さく見えてしまうはずです。こうした事態が予見できるが故に、私は南埜さんの使命感にも似た、その志を賞賛しない訳には参りません。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.185

手動ウインチを用いて大きな岩を移動させる際に使用するベルトが写されています。南埜さんは幾つかのトン単位のパワーがある手動ウインチを持っているのです。移動させようとする岩の大きさによって使い分けているとの事です。私達の遺骨収集ではこのような手動ウインチ等の道具類を使う発想はありませんが、南埜さんにとっては必須の道具になっているようです。恐らく沖縄遺骨収集において、南埜さん以外でこうした巨大な岩を移動させる資機材を使っている方は居ないと思いますね。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.186

コウモリの糞ですね。かなりの数のコウモリがこの壕内で生息している様です。この様にコウモリの糞が発見された場合、動かしたり触ったりしないのが無難です。と言いますのも、2020年中国で発生した武漢ウイルスと遺伝的に近縁なウイルスがコウモリから検出されたと言う報道も出ています。考えてみれば、コウモリは空を飛ぶので鳥類という印象もありますが、実は私達と同じ哺乳類に属していますよね。

東京大学大学院農学生命科学研究科獣医学専攻の、村上晋准教授および堀本泰介教授らのグループの研究では、検出されたこのウイルスの細胞への吸着・侵入過程を解析したところ、このウイルスは人間には感染しないとされました。ただ今後このウイルスが人間に感染するよう変異する可能性もある為、中間宿主となりうるコウモリ以外の動物への感染性などについてより詳細に解析する必要があると語っている様です。

因みに2002年から2003年にかけて、中国などで大流行したSARS、重症急性気管支症候群は、中国政府の発表では、ハクビシンが感染源とされていましたが、ハクビシンは自然宿主ではないということが判明し、その後の研究でオオコウモリを含む6種のコウモリで追跡調査を行った結果は、キクガシラコウモリが自然宿主であるという結論に至った様です。コウモリ由来の感染症はSARSだけでなく、エボラウィルスや二パウィルスなどもそうです。こうしたコウモリを介した感染症の拡大は、森林伐採や乱開発によりコウモリが住処を追われ、より身近に存在する様になった為だと言われています。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.187

最奥部までやって来ました。横に伸びている坑道を写しています。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.188

ここも南埜さんが全部掘り返し、汚泥を入り口付近に運び出したのですね。そのご苦労たるや計り知れないものがあります。安全の為にここから先へ進むのは断念しました。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.189

しばし皆さんが自由に観察していました。さてそれでは帰りましょうか。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.190

元来た道を帰ります。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.191

よくこれだけの汚泥を壁に積み上げたものです。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.192

ご覧の様に壁の手前側は小石を積み上げているのが見て取れます。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.193

同じく全部手作業で小石を積み上げています。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.194

地際は土嚢袋で建物の基礎の様に崩れないように固定しているという印象です。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.195

ゆっくりゆっくり戻ります。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.196

ゆっくりゆっくり戻ります。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.197

横に伸びる坑道ですね。高さが無いのはやはり落盤でしょうかね。この辺りの天井面は落盤する雰囲気では無いのですが‥‥。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.198

壕口付近の階段部分まで戻りました。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.199

松永さんが齊藤さんに何か見せている様です。何があるのかな?

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.200

丸い穴が開いていました。工兵隊の兵士が削岩機で掘り進んでいる時に、たまたま開いた穴でしょうね。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.201

壕口が見えてきました。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.202

全員無事に壕から出ました。南埜さんありがとうございました。m(_ _)m

南埜さんの新聞記事とユーチューブ動画をご紹介します。コンテンツのいずれもが、今回私達が見学させて頂いた第二十四師団司令部壕に関わるものです。南埜さんが発見された遺品が、生存者や御遺族の元に帰られたという記事と共に、動画では南埜さんの遺骨収集活動に取り組む心意気を話されたりしていますので、映像は56分と少し長いですが、どうぞご覧くださいませ。(^o^)

日本兵の印鑑、沖縄からふるさとへ 地下壕で見つかる

【朝日新聞デジタル】令和2年(2020年)6月21日

太平洋戦争末期の沖縄戦で激戦地となった沖縄本島南部の壕(ごう)で5月、一つの印鑑が見つかり、日本兵の遺品であることがわかった。沖縄で日本軍が組織的戦闘を終えたとされる今月23日を前に、遺品はふるさとへ帰った。

沖縄戦の戦没者の遺骨や遺品の収集を5年ほど前から続ける南埜(みなみの)安男さん(55)=那覇市=が5月1日、沖縄県糸満市与座の壕で発見した。象牙製で直径1・5センチ、長さ6センチ。保存状態が良く、欠けや割れはなかった。印相体で「川島修一郎」と刻まれていた。

壕は陸軍第24師団が司令部を置いた所で、南埜さんによると、内部は幅約2・6メートルの通路沿いに一辺3メートルほどの部屋が並ぶ。現在は落盤した所も多いが、入り口から80メートルほど奥の地点で、土砂を1・5メートル掘り下げて見つかった。

※この記事は有料記事です。ここから先は読めないのでご免なさい。

「朝日新聞デジタル」から転載させて頂きました

万年筆の主「賀数栄子さん」どこに 司令部壕で発見「返したい」

【琉球新報】令和2年(2020年)7月17日

〇沖縄戦戦没者の遺骨収集活動に取り組む「沖縄蟻の会」の南埜安男さん(55)=那覇市=が7月上旬、糸満市与座の第24師団司令部壕で「賀数栄子」と名前が彫られた万年筆などを見つけた。平和の礎で名前が見つからなかったため、南埜さんは「生存者だと思う。本人に返したい」と持ち主を捜している。

見つかった収集品は万年筆2本。赤い筆箱と一緒に出てきたという。名前が彫られた万年筆は黒で「STAR☆ IDEAL PEN」とブランド名とみられる刻印がある。

万年筆の持ち主は、沖縄戦当時に女子学生だった場合は90歳前後、卒業生ならさらに高齢だとみられる。

同所では6月には同師団輜重兵第24連隊に所属した少佐の氏名が彫られたはんこが見つかった。紙面で情報提供を募ったところ、遺族が見つかっている。

南埜さんは「生きていれば高齢だと思う。早く渡したい」と語った。情報提供や問い合わせなどは南埜さん(電話)090(3840)9140。

「琉球新報」から転載させて頂きました

「父からの合格祝いだった」 壕で見つかった万年筆、75年の時を経て持ち主へ

【琉球新報】令和2年(2020年)8月4日

〇 沖縄戦戦没者の遺骨収集活動に取り組む「沖縄蟻の会」が、糸満市与座の24師団司令部壕で発見した「賀数栄子」と彫られた万年筆などの持ち主が、このほど見つかった。持ち主は当時、県立第二高等女学校に通っていた平良栄子さん(89)=旧姓・賀数。壕のある与座出身で、今も同地域に暮らす。万年筆は父・賀数仁王さんが入学祝いにくれた。「その時分のことがよみがえってくる」。万年筆が、亡き父や家族との思い出を呼び覚ました。

1930年10月、当時の高嶺村(現・糸満市)与座で医師をしていた父・仁王さん、助産師の母・繁子さんの2男6女の末娘として生まれた。歴史が好きだったという栄子さんは勉強に励み、43年に二高女に合格した。その時、合格祝いとして万年筆と筆箱が仁王さんから贈られた。ただ、栄子さんは「使った記憶はほとんどない」と語る。それだけ大事にしていた。

44年11月、栄子さんは武部隊(第32軍配下の第9師団)の奉仕活動に加わっていた。「父が危篤状態だ」。作業現場に、いとこの叫び声が響いた。気が動転した栄子さんは急ぎながらも足がもつれ、やっとの思いで自宅にたどり着いた。「おとー。おとー」。何度も呼び続けたが、仁王さんが返事をすることはなかった。10歳で繁子さんを亡くし、仁王さんを病気で失った栄子さん。写真は残っているが、思い出の品はほとんど残っておらず、父がくれた万年筆は形見のような存在だ。

万年筆などは7月上旬、沖縄蟻の会の南埜安男さん(55)=那覇市=が第24師団司令部壕内で発見。本紙で持ち主を募ったところ、栄子さんの家族らが記事を見て名乗り出た。7月22日、万年筆と筆箱、ヘラが栄子さんの手元に戻った。「不思議な気分だ。でも、こんなにうれしいことはない」。万年筆を両手でぎゅっと握りしめた。(仲村良太)

「琉球新報」から転載させて頂きました

動画ご紹介

【沖縄の声】「遺骨収集は終わらない」 沖縄蟻の会 南埜安男さんの遺骨収集活動に同行取材 [桜R2/10/6]

 

調査・遺骨収集作業開始です

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調査・収集作業開始に先立ち、沖縄戦戦没者の鎮魂を願い手を合わせました。m(_ _)m

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.204

今日も天気は良好です。最終日なのでとても有り難いです。本日は右から松永さん、原田さん、吉井さん、齊藤さん、福岡さん、豊澤さん、三浦さん、NHKの記者Mさんです。今日も頑張って参りましょう。(^o^)

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.205

あと少しで作業現場の壕です。

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目的の壕です。脚立が設置されているので楽ちんで降りられます。

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松永さんが降りていきます。

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NHKの記者Mさんが写されています。地面を向いた姿勢で降りています。松永さんが指導している様です。山側を向いて降りると滑落の心配がほぼありませんし、体験してみると思いのほかスムーズに降りられるのが実感できますよね。(^o^)

本日は私達の遺骨収集奉仕活動も遂に最終日となりました。来年の下準備として、福岡さんと私とで、一寸ジャングル内を探し回って見る事としました。これは例年通りの作業なのですが、来年に希望を持たせようという意図も当然あります。それでは私達二人は別働隊としてジャングルに向かいます。

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この先広い空間がある様です。

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結構な広さですね。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.211

沖縄戦当時のお金ですね。福岡さんがあっという間に見つけました。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.212

こちらも見てみましょう。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.213

こちらも何人も滞在できるスペースがあります。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.214

写真奥をご覧くださいませ。大量の空き缶空き瓶が、壕内に流れ込んでいます。地表はもっと凄い事になっているのを確認しています。因みにこの空き缶空き瓶の山は、松永さんを通じて琉球新報様が記事にして下さいましたのでご紹介します。

一体どこから… 遺骨が眠る洞窟に流れ込む大量のごみ 沖縄・摩文仁の丘周辺の戦跡 収集作業のNPOが早期撤去訴える

【琉球新報】令和2年(2020年)1月31日

〇

【糸満】「遺骨がごみの下敷きになっている」―。沖縄戦戦没者の遺骨収集作業が続いている糸満市摩文仁の丘周辺で、空き缶や空き瓶、さび付いた表示パネルなどごみが山積し、遺骨収集作業の大きな妨げとなっている。当時の日本兵の認識票や骨片などが発見された洞窟にも大量のごみが流れ込んでいて、遺骨収集作業に取り組んでいるNPO法人沖縄鍾乳洞協会理事の松永光雄さん(66)は「あまりにもごみが多くて、遺骨や遺品を取り出せない」と頭を抱えている。

ごみが山積している場所は、糸満市摩文仁の丘周辺。各都道府県の慰霊塔などがある場所の裏手で、急斜面になっている山道を下ったところにある。遺骨収集現場への道中も、さびた空き缶を踏んでパキパキっと鳴ることが度々あった。ごみの多くはジュースやビールの空き缶・空き瓶だが、中には慰霊碑の説明パネルもある。

松永さんらは16日から19日まで、ごみが山積している場所周辺で遺骨収集作業を実施していた。洞窟に入り、地下5メートルほどの場所から名前が彫られた認識票や遺骨などを収集した。3年ほど前にも同じ洞窟の中から認識票が発見されている。まだ多くの遺骨や遺品が残っているとみられるが、大量の空き缶が流れ込んでいて「ごみのせいで遺骨が収集できない」状況だ。

松永さんは「無念の思いで亡くなった人たちの遺骨や遺品がごみで収集できないなんて、あってはならない」と話し、行政が主導する形で早急な撤去を訴えている。

「琉球新報」から転載させて頂きました

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壕の外に出ました。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.216

さあジャングルに入りました。何が出てくるか楽しみですね。(^o^)

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.217

結構アップダウンがきついですよ。

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下り坂を降りていきます。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.219

同じような風景が続きますが、一段低い平原に出る様です。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.220

福岡さんと無線機の感度の実験をしています。ジャングル内では10m離れただけで見えなくなりますので、無線機は効率よく互いに位置関係を把握するのに有効ですよ。(^o^)

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ほぼ平原に出ました。右側は急峻な崖となっている様です。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.222

オー、良い隠れ場所ですね。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.223

更に前進してみましょう。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.224

山あり谷ありです。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.225

福岡さんが良い場所があると言っています。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.226

結構広い空間ですね。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.227

進むべき方向を見定める福岡さんです。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.228

ここも良い感じですね。降りてみましょう。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.229

奥に続いていますね。

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ぐるりと回って‥‥。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.231

ここに出ましたか。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.232

クワズイモが大きく成長しています。湿気があるせいか蔓植物の天下といえる程繁茂しています。

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良い場所が合ったと福岡さんから声が掛かりました。オー、確かに。(^o^)

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.234

福岡さんはすでに遺品を見つけていて、私に見せてくれました。錆び具合から沖縄戦当時の物でしょう。爪切りかな。(笑)

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.235

見えている遺品を岩の上に置いてみました。発射された小銃弾や将兵の下着のボタンなどもありますね。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.236

ご覧の様に地盤が土なので、岩の地盤よりも居心地が良いかもです。それに広いですね。

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カメラを少し左に移すとこんな感じでず。広いですね。

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右側は更に広い空間が広がっています。天井面は堅固な岩盤ですから安心です。側面からの砲弾爆発時の飛散が心配ではあります。

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何かある様ですよ。

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小銃弾ですね。

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畑の土の様に綺麗に整地されています。戦後奥の方から流れ込んだ可能性があります。

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この辺りの土も戦後の物の様です。

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掘ってみると確かに柔らかいですね。

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ここで作業する場合は、この土を掘る必要があると言う印象ですね。

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遺品が出て来ました。

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次の場所に移りました。次から次へと興味が尽きない壕ばかりです。

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ここもそうですね。

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ここは広いですね~。

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地面を注意深く観察します。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.250

すぐに遺品が見つかりました。砲弾の破片が二個と、地下足袋の足裏のゴムの部分が写されています。

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飯ごうの蓋がありました。

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飯ごうの蓋の内側です。

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こちらは外側です。いずれにしても劣化が激しいですね。名前が嘗て書いてあったとしても全くもって読めるはずがありません。昔は飯ごうの蓋に記名があり、御遺族の元に帰った飯ごうもありましたね。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.254

隠れるには絶好の場所という印象です。

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穴があると福岡さんが呼びます。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.256

あるある。入って見ましょう。福岡さん、目が輝いていますよ。(笑)

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.257

良い場所ですね~。(^o^)

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.258

福岡さんがしっかり探しています。残念ながら、何も無いとの事です。ざんねーーん。良い場所だったのに!

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.259

再び放浪の旅が始まります。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.260

前進出来る様です。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.261

福岡さんが見ている場所の穴から何か見えるとの事です。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.262

この錆びた金属の塊は、手榴弾かな?

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.263

やはり手榴弾でした。それも米軍のものですね。錆びて随分とメタボになっています。

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またまた巨大な岩の割れ目がありました。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.265

更に奥がある様です。ここも絶好の隠れ場所に雰囲気ですね。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.266

金属探知機がピーピー鳴っています。何かある様です。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.267

この辺りも金属探知機の反応がある様です。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.268

金属探知機が鳴っています。目視では何も無いように見えますが‥‥。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.269

短時間にこれだけの小銃弾が見つかりました。

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時間が迫ってきたので、ジャングル内探査はこれでお終いです。(^o^)

皆さんが作業している現場の壕に戻りました。

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吉井さんが作業している現場に到着しました。

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指さしている先にお金が沢山ある様です。

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時間も押しているので、二人が全力で探しています。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.274

吉井さんと福岡さんが見つけた遺品の数々です。お金が多いですね。金額も大きさも違うお金がこれ程発見されるのは珍しいと思います。

因みに遺骨収集活動では、五銭銅貨や十銭銅貨もよく見かけます。その理由は、出征兵士の皆さんは千人針を銃弾よけのお守りとして腹に巻いたりしていましたが、五銭銅貨も一緒に縫い付けられていたと言います。“死線(四銭)を越えて” という意味があったと言います。他に “苦戦(九銭)を越えて” という意味で十銭銅貨も使われたそうです。

二十歳前後の若き出征兵士お一人お一人の背後には、ご両親やご家族、ご近所や近隣、そして地域において、多くの「無事でいてほしい」と言う祈りが、幾重にも重なっているのだという事を、五銭十銭銅貨や千人針を通じて思い知る事となりますね。

千人針(せんにんばり):
白色または黄色の晒木綿 (さらしもめん) に 1000人の女が赤糸で1針ずつ縫って 1000個の結び目をつくり,出征兵の腹巻にすると弾丸よけになるとされた一種のお守り。初めは寅年生れの女 1000人の手になるものをいった。
【ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典】

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三日間続けたこの場所での調査・遺骨収集活動もこれで終わりです。当初は他の団体に先を越されてしまったという事で、何も出てこないだろうと思っていましたが、蓋を開けてみればご遺骨こそ少ししか発見出来ませんでしたが、認識票四枚を含む数多くの遺品を回収する事が出来ました。参加メンバー全員の心のこもった取り組みで、この壕内で亡くなられた戦没者の方々も、満足され感謝して下さっているに違いありません。またそうであるように、私達も心を新たにして、来年の遺骨収集活動に繋げたいですね。(^o^)

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.276

最後に線香を手向け、皆さんで御霊の皆様が安らかなれと祈りました。m(_ _)m

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.277

さあ壕から出ましょう。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.278

忘れ物が無い様に気をつけて出発です。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.279

ジャングル内を進んでいる中で福岡さんが見つけました。ナナホシキンカメムシです。遺骨収集活動でも、ジャングル内で時折見つける昆虫ですね。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.280

ナナホシキンカメムシは、アップするとこんな感じです。金属光沢のある緑色に輝いています。脚の基部が赤くなっているのも見えますね。大きさは2cm程でしょうか。草食性なので植物の葉上や幹の上で群れている場合が多い様です。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.281

毎日通い続けたジャングルとも今日で見納めです。公園に出るまでケガをしない様に気をつけましょう。

与座にある湧水源「与座ガー」

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遺骨収集活動を終えホテルに戻る途中で、糸満市の「与座ガー」に立ち寄りました。市道の横にあるので見つけやすいと思われます。50m程離れた県道77号糸満与那原線の道路上に、「与座ガー」の案内板が設置されていますので注意深く観察して下さい。

与座ガーは、糸満市に十数カ所ある井戸の内の一つです。干ばつにあえぐ与座集落のために、首里王朝時代に政府が造らせたそうで、水量の豊かさで知られる湧泉ですね。貴重な水源という事で、沖縄戦でも戦場と化したこの地の井戸に、多くの将兵や非戦闘員が水を求めてやって来ましたが、湧水のある場所は緩斜面の露天で隠れる場所も無い事から、湧水から遠く離れた場所から銃の照準を合わせて待ち構える米軍に狙撃され、多くの非戦闘員が惨殺されたと言います。またひめゆり学徒隊員等も、この地で米兵に狙撃され亡くなったという記録も残っています。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.283

地元の農家の方でしょうかね。30cmから50cmに切られたサトウキビをカゴに入れて、これは鮮度を保つ為に冷やしているのでしょうかね。或いは出荷時刻を待っているのでしょうか‥‥。それとも夏にスイカを冷やすように。(^^ゞ

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短く切られたサトウキビです。表皮は竹の様な雰囲気です、中身は竹の様に空洞にはなっていなくて、その中身を食べる事になります。沖縄に来て何度か、かじったりチューチュー吸った事がありますが、噛めば噛むほどサトウキビの甘みが口の中に広がりる様な、とても美味しい食べ物ですよね。疲れた時などに食べると最高かも知れません。

サトウキビは沖縄の言葉では「ウージ」と呼ばれるそうですよ。日本のロックバンド・THE BOOMが歌う「島唄」の歌詞にも、「ウージの森で歌った友よ ウージの下で八千代の別れ‥‥」と歌われますが、ウージの森とはサトウキビ畑を指しています。(^o^)

サトウキビは食べた事が無い! と言う方も多いかも知れませんが、今はネットの時代です。スーパーなどで売っていない場合は、気軽にネットで購入出来ますから、サトウキビを食べた事が無いという方も、ぜひ味わってみて下さいませ。因みにサトウキビは砂糖の原料ですが、ミネラルがたっぷり含まれた天然甘味料でもありますら、とても健康に良い食品でもあります。そんなサトウキビの食べ方を紹介している動画がありましたのでご紹介します。(^o^)

動画ご紹介

「サトウキビ 食べ方 剥き方 沖縄県 恩納村 おんなの駅なかゆくい市場」

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立ち入り禁止の看板の更に奥が水源の様です。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.286

ここはプールです。水の透明度が高いような気がします。とても澄んでいますね。夏はプールで泳いだり遊んだりと子供達で大賑わいになるそうですよ。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.287

革の流れは更に下の段に流れていきます。こうして見ると水量が豊かであるのが見て取れますね。与座の丘陵地帯石灰岩層から、水量豊かに湧き出している様です。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.288

「与座ガー」の解説が為されています。ギリギリ読めますね。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.289

「精糖用水車」と書かれています。大正時代には製糖用の水車が置かれ、戦前まで利用されていた用です。川の流れに水車はとても良い雰囲気ですね。写真には写しませんでしたが、農家の軽トラックが来て、散水用と思われる大きな水槽タンクに川の水をホースで注ぎ込んでいました。地元の方々も大いに湧水を活用している様です。

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