令和02年(2020年)沖縄遺骨収集奉仕活動

1月11日(土) 与座及び周縁地で調査・遺骨収集

本日の天気予報は曇りのち雨、但し降水確率午前午後共に10パーセントですから、雨は早くて夕方になると思われます。また最高気温22度です。頑張ります。まず朝一番で「歩兵第三十二聯隊終焉の地碑」「山形の塔」「眞山(みやま)之塔」「白梅之塔 上の壕」「白梅之塔」「沖縄兵站慰霊之碑」を慰霊巡拝します。その後非公開の調査・遺骨収集奉仕活動です。ご免なさい。(^o^)

「歩兵第三十二聯隊終焉の地碑」

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.1

糸満市字真栄里にある「歩兵第三十二連隊終焉之地」と書かれた石碑です。歩兵第32聯隊は島尻に撤退以降も、国吉大地を中心に米軍と激突し、米軍側にも多大な出血を強いました。平成17年(2006年)建立ですから、比較的新しい石碑ですね。場所は、白梅之塔から歩いて2分程度です。道路を挟んで山形の塔がありますね。山形の塔に隣接するように建立した理由は、碑にも「霞城聯隊」と書かれているように、明治29年秋田に設置された連隊本部が、日露戦争後、秋田から山形城(雅名は霞城)へ転営し、徴募区が山形県になった事によると思われます。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.2

石碑の横面に書かれている文言です。軍旗を奉焼した場所が書き記されています。「ここより西北西470mの低地で軍旗を捧焼した」と書かれていますね。地図上で確認してみますと、バクナー中将慰霊碑の少し北側には高地帯になっていて稜線が通っており、その崖下の低地で焼いたという可能性が高いですね。と言いますのも、そのバクナー中将慰霊碑の北側の高地帯は、真栄里集落の北側を貫いており、そこには数多くの構築陣地があり、第三十二聯隊や第二十二聯隊による最後の激闘が展開された場所でもあります。私も一度その中の一つの構築陣地に入ってみましたが、立派な壕で100人以上入っても余裕があるというような大きな陣地でした。こうした陣地が散在している地でもあります。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.3

石碑の裏側です。問題なく読めますね。歩兵第三十二聯隊は奮闘し終戦の日を超えて、8月28日に軍旗を捧焼し翌日鉾を収めたと記されています。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.4

沖縄県平和記念財団が設置した「歩兵第三十二連隊」説明板です。

「山形の塔」

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.5

「歩兵第三十二聯隊終焉の地碑」の向かいに「山形の塔」があります。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.6

「山形の塔」の説明板です。読めますね。ただちょっと気になる記述がありますね。軍旗の奉焼場所についてですが、上掲の「歩兵第三十二聯隊終焉の地碑」の側面に記載されている碑文には「ここより西北西470mの低地で軍旗を奉焼した」と書かれていますが、この説明板には、「歩兵三十二連隊が軍旗を‥‥この壕内で奉焼した」と書かれています。

軍旗は主将の所在を示す旗であり、その軍旗の奉焼という軍事行為は諸部隊の尊厳と名誉に関わる事柄です。両説明板は10メートルしか離れていないにも関わらず真逆とも言える説明文となっています。両塔と石碑は設置に40年(再記は23年)の差があり、爾後歴史的真実が解明されたと言う事なのかもしれませんが、至近距離で異なる歴史記述が書き込まれているのは問題なので、どちらか早期の訂正をお願いしたいですね。

《書籍ご紹介》

「沖縄戦 24歳の大隊長」 陸軍大尉伊東孝一の戦い

笹 幸恵著 (株)学研 平成27年(2015年)初版

この本は歩兵第三十二聯隊第一大隊長である伊東孝一大尉の軌跡を綴った本ですが、この本の中に同隊の軍旗奉焼に関わる記述がありますのでご紹介します。

軍旗奉焼

調査の結果、日本の敗戦は歴然としていた。今となっては一日も早く戦闘を終結させて、一人でも犠牲を少なくすることだ。

全力で戦うことと、見事な負けっぷりとは、いずれ劣らぬ大事である。問題は聯隊長以下全将兵をどう納得させるかだ。

伊東は決して話上手ではなかった。言葉で気持ちを伝える術を持たない。ただそのまま調査の実態を報告するしかない。(あとは自分という人間を信じてもらうだけだ)

伊東はそう心に決め、夜になって樫木副官と佐藤軍医見習士官を従えて聯隊本部へと赴いた。

聯隊長以下十名ほどの全将校が、伊東が来るのを待ちかまえるようにして集まっていた。伊東は調査の結果について順を追って淡々と述べ、最後に「日本の降伏を信ずる」と報告を結んだ。誰からも、質問も反論もなかった。ほっとした一方、気が抜けた感じもあった。しばし沈黙が続いたが、結局、武装解除を受諾することに決まった。

しかし誰からも具体的な方法が出てこない。交渉は伊東に一任された。

翌日、伊東は、日本軍第三十二聯隊は米軍による武装解除を受諾すると回答し、その上で次の事を要求した。

一、武装解除の日は八月二十九日とする
一、二十七日以降二十九日まで陣地周辺約二平方キロの地域は、昼夜を問わず日本軍が自由に行動できるようにすること
一、このため四周に米軍から警戒兵を配置し、他の米兵の侵入を禁ずること

米軍側は直ちにこれを承知した。さらに警戒のために飛行機を使用し、米軍将校と通訳をジープと共に国吉集落中央に配置することを申し出た。ただし夜は恐ろしいから引き揚げさせてくれ、とのことだった。最後のくだりが伊東には少し愉快だった。米軍がいかに国吉台周辺の日本軍に痛い目に遭っていたかがわかろうというものだ。

‥‥‥。

武装解除の前夜、歩兵第三十二聯隊の軍旗奉焼が行われることになった。伊東は樫木副官を伴い、聯隊長に指示された場所へと向かった。

明治三十一年の創設以来、歩兵第三十二聯隊の伝統と団結、そして栄光のシンボルだった軍旗は、日露戦争以来の戦歴を物語るように、布地が破れ周囲の金モールの縁取りと紫色の房だけを残していた。

紋章を槌でたたき潰し、棹を鋸で三つに切断し、旗と共に油を注いで焼く。

将校たちは挙手の礼をもって焼かれていく軍旗と決別した。折しも、群雲が月を覆い、小雨が降ってきた。涙雨だったのかもしれない。

「沖縄戦 24歳の大隊長」から転載させて頂きました

「一、二十七日以降二十九日まで陣地周辺約二平方キロの地域は、昼夜を問わず日本軍が自由に行動できるようにすること」

上掲の様に米軍に約束させたと言う事は、陣地周辺は全く昼夜別なく安全に、そして自由に行動できた事を意味しますので、狭い壕内で煙にむせながら、コソコソと軍旗を奉焼する必要は感じられません。歩兵第三十二聯隊は毅然と、聯隊の象徴とも言える軍旗の奉焼に際しては、堂々と胸を張って矛を納める儀式に臨んだはずです。と言う事で「歩兵第三十二連隊終焉之地碑」に書かれている様に、「ここより西北西470mの低地で軍旗を捧焼した」という記述が事実の様な気がします。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.7

沖縄県平和記念財団が設置した「山形の塔」の説明板です。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.8

歩兵第三十二聯隊の残存部隊兵士が入っていた壕です。ご覧のように立ち入り禁止となっていますので、残念ながら壕内を見る事は出来ません。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.9

途中右に曲がっているのが見えます。沖縄戦当時コンクリート階段部は結構な急勾配となっている状況からして、出入りは大変だったかもですね。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.10

階段部の一番奥を撮影しています。階段が終わっているようですが、その先がよく見えません。恐らく壕は横坑道となるのだと思います。横坑道は地表面から4メートル以上ありそうですから、艦砲砲撃にもびくともせず耐えたのでしょう。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.11

砂利道を少し歩くと右側に「山形の塔」見えてきました。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.12

「山形の塔」です。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.13

塔の背後には碑文がありましたので、テキストに起こしてみました。ご覧くださいませ。

【山形の塔建立記】

大東亜戦争において祖国防衛のため惜しくも散華された山形県出身三万八千余の英霊を仰ぎその偉勲をしのびみ霊の冥福を祈り永久に鎮まりますことを念じここに県民の総意を結集してこの塔を建立したのである

昭和四十年二月六日 
建設期成同盟会長 加藤富之助 

「眞山(みやま)之塔」

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.14

「眞山(みやま)之塔」が見えてきました。「山形の塔」と隣接して建立されていました。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.15

「眞山(みやま)之塔」です。この慰霊塔は特定の部隊等は無く、第二十四師団隷下の各部隊と表現されていますね。凡そ100名の将兵がこの付近の壕といいますから、恐らく「山形の塔」横にある壕で玉砕したと言う事なのかもしれませんね。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.16

碑文ですが読みにくいので文字を起こしました。(^o^)

【眞山(みやま)之塔碑文】

怒濤の南進を続ける米軍に対し第二十四師団隷下の各部隊は最後の拠点として真栄里地区に陣地を構築し勇戦奮闘敵の心胆を寒からしめたるもついに昭和二十年六月十七日この付近の壕内において玉砕せる

ここに南方同胞援護会の助成を得て塔を建て地下に眠る幾多の英霊を慰め長くその偉烈を伝う

昭和四十二年五月 財団法人沖縄遺族連合会 

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.17

「白梅之塔 上の壕」

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.18

「山形の塔」を過ぎ「眞山之塔」を横に見ながら更に森の中に進みますと、「白梅之塔 上の壕」の碑文が見えてきます。ご覧のように奥まった所に碑が見えてきましたね。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.19

「白梅之塔 上の壕」の碑です。碑文はギリギリ読めますね。背後にある縦穴があり、6月22日の米軍の攻撃により、白梅学徒隊員や一般住民が死傷したと書かれていますね。それでは背後にある縦穴を見てみましょう。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.20

「白梅之塔 上の壕」碑のすぐ後ろから見た縦穴の状況です。上から見た限り縦穴ではなく、天井のない横穴と言った方が正しい状況です。当初は縦穴だったのでしょうが、米軍による激しい攻撃で、北側の壁が破壊されてしまい、このような姿になったのかも知れませんね。軍需物資は壁面に沿って可能な限り擬装されて保管されたのでしょう。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.21

縦穴の縁を右回りで歩いています。横穴らしき黒い影が見えてきましたね。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.22

ちょっとした横穴という感じですね。ここから見た限り横穴は見える範囲で終わっている印象です。岩盤は賢固な石灰岩で構成されてはいますが、縦穴に直撃弾もしくは迫撃弾を受けたら‥。という印象を受けました。白梅学徒看護隊の仮眠所とされていたようなので、ご覧のような横穴の一番奥まった場所などで眠ったのでしょうかね。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.23

更に縁を進むとこのような感じです。ほとんど露天と同じで、被弾を防ぐのは困難だった事でしょう。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.24

「山形の塔」のある位置から撮影しました。写真中央の小高い丘に、与座の陸上自衛隊電波ドームを捉えています。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.25

相変わらず左陸上自衛隊電波ドームを捉えています。側の道路を100メートル程下ると「白梅之塔」があります。それでは今から「白梅之塔」を参拝致します。

林に囲まれた静かなたたずまいのこの地は、観光化された「ひめゆりの塔」とは違い、実に清楚で慰霊塔らしい雰囲気を醸し出していますね。 白梅同窓会の方々が定期的に清掃しているとの事ですから、いつの時も清潔な雰囲気が維持されているのかも知れません。このような「乙女らの祈りの場」という雰囲気を、いつまでも大切に維持していただきたいですね。

この「白梅之塔」は、県立第二高等女学校校長以下、職員生徒、同窓生105名を祀っています。二高女の生徒46名は、3月6日東風平の国民学校に設営された陸軍病院に動員されました。そして3月24日、生徒達は今の八重瀬町富盛にあった第二十四師団第一野戦病院に配属され、負傷兵の看護にあたる事になったのです。以降戦局の悪化と共に、新城分院や東風平分院などに移動し看護活動を続けましたが、6月4日富盛の本部壕での解散命令を受けて以降は、戦野を彷徨う事となり、多くの犠牲者が出てしまいました。

解散命令が出た以降も、この国吉の壕で看護活動を続ける生徒も居ましたが、6月22日米軍にガソリンを流し込まれたり、火炎放射攻撃などの馬乗り攻撃をされて、職員を含む36人が犠牲となりました。この馬乗り攻撃は、6月18日バクナー中将が、真栄里部落で、日本軍の砲撃による流れ弾に当たり戦死した後という事もあり、米海兵隊第二師団によるその攻撃は、徹底的であり残虐的であったようです。この頃の米軍は怒り狂ったように、付近にいた住民に「日本軍に司令官の位置を通報した」として射殺したり、白旗の代わりに手を挙げて出てきた者まで銃撃するなど、軍民問わず徹底的な殺戮が行われたようです。

「白梅之塔」

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.26

県道54号線から別れて200メートルも行かないうちに「白梅之塔」が現れます。ここは真栄里になるんですね。「白梅之塔」はそんな木立に囲まれ静寂な雰囲気の中にがありました。参道の両側には常緑高木であるモクマオウ(木麻黄)が植え込まれ、実に清楚で霊域らしい雰囲気を醸し出していますよね。このような「乙女らの祈りの場」という雰囲気を、いつまでも大切に維持して頂きたいです。それから、いつ来ても感ずる事なのですが、清掃が行き届いています。「白梅之塔」に慰霊巡拝した際に、偶然清掃員の方が居て清掃作業をされていたので、立ち話的に色々と聞いてみましたら、やはりキチンと定期清掃を行っているという話でした。

国吉・真栄里地域には、五基の慰霊塔が建立されています。日本軍が最後の防衛線として設定した八重瀬岳、与座岳、国吉、真栄里ラインに重なる事もあり、小さな集落にこれだけ慰霊塔がある事からしても、国吉台地が与座に連なる防衛陣地の要衝であったかが解りますね。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.27

ギリギリ読めますね。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.28

読めますね。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.29

「白梅之塔」全景です。此処に立つと不思議と清楚なイメージが沸いてきますね。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.30

「ひめゆりの塔」は、沖縄県立第二高等女学校職員生徒戦没者を祀る慰霊塔です。沖縄戦に学徒として動員され戦死した22名の白梅隊員をはじめ、戦争が原因で亡くなった教職員12柱、同窓生113柱、計149柱が合祀されています。「白梅之塔」は何時来ても生花が供えられ絶えることがありませんね。それに千羽鶴も。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.32

手前が「白梅之塔碑文」です。奥の方に「沖縄県立第二高等女学校職員生徒戦没者名碑」です。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.33

「白梅之塔」碑文です。チラチラして読みにくいので、テキストに起こしましたのでご覧下さいませ。

【白梅之塔碑文】

沖縄県立第二高等女学校の四年生56人で編成された白梅学徒看護隊は、昭和20年3月6日第二十四師団(山部隊)の衛生看護教育隊に入隊し、補助看護婦としての特別集中教育を受けていた。

米軍の艦砲射撃が激しくなった同月24日から、東風平町富盛の八重瀬岳にあった同師団の第一野戦病院に軍属として配置され、昼夜別なく傷病兵の看護に専念した。

戦況は日毎に悪化し、同年6月4日遂に白梅隊に解散命令が下り、隊員は散り散りになって戦野を彷徨し、一人またひとりと戦火に斃れていった。 その場所は殆ど不明である。

また、解散後この地に後退した山第一野戦病院に、再び合流した一部の白梅隊員は、同年6月21、22の両日に亘り、米軍の猛攻撃を受け無念の最期を遂げた。この辺一帯は、白梅隊員の最も多くの犠牲者が出た所である。

塔は、戦没した白梅隊員及び沖縄戦で戦死、或いは戦争が原因で亡くなった教職員・同窓生149柱の鎮魂と、世界の恒久平和を祈念して昭和22年1月に建立した。毎年6月23日の「慰霊の日」に祭礼が行われる。

平成10年6月23日 
沖縄県立第二高等女学校 白梅同窓会 

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.34

現在の慰霊塔は四代目で平成4年(1992年)6月に建立されました。塔の形は「壕の中から太陽を求める。日の光を求める」といったイメージで制作されたとの事です。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.35

納骨堂ですね。多くのご遺骨が国立戦没者墓苑に移された為か、スマートな納骨堂となっていますね。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.36

昭和22年1月に建立された初代の「白梅之碑」です。この碑は「戦没された学友たちの供養は私達の責務」として、先生方、同期生、そして同窓生などの尽力と協力により、建立されると共に第1回目の慰霊祭が執り行われたのです。

この碑は当初国吉集落の南の丘の上にありましたが、昭和26年に現在の敷地に移設され、同時に現在のような立派な「白梅之塔」が建立されました。ちなみに現在の塔は三代目です。現地に行かれましたらぜひ、この初代「白梅之碑」を探してみて下さい。すぐに見つかると思いますよ。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.37

初代の「白梅之碑」の背面に彫られている詩です。散りてなほ 香りい憂し 白梅(うめ)の花 元教諭 金城宏吉 昭和二十二年一月建立

戦後三十五年目の卒業式

沖縄県立第二高等女学校の白梅学徒同期生の間で、「卒業証書を頂けないだろうか」という話が、戦後三十年を経て持ち上がったそうです。そうした経緯もあり、金城宏吉先生の指導を仰ぎながら、6月23日に亡くなった学友たちの墓前白梅之塔で行うという方針が定まりまして、沖縄の「ウスーコー(法事)」は、三十三回忌をもって終わりますので、白梅隊ご遺族の心情にも配慮しつつ、昭和52年の三十三回忌明けの二年後となる昭和54年(1979年)に、戦後三十五年目の節目に、白梅学徒同期生の卒業式が執り行われたそうです。

「白梅 沖縄県立第二高等女学校看護隊の記録」という本の中に、その三十五年目の卒業式の様子が書き記されていますので、引用させて頂きます。(^o^)

《書籍ご紹介》

「白梅」 沖縄県立第二高等女学校看護隊の記録

白梅同窓会編著 クリエイティブ21 平成12年(2000年)初版

【戦後三十五年目の卒業式】 東恩納 道子(旧姓・東恩納)

(ここまで省略)
1979年6月23日、戦後三十五年目の私たちの卒業式が行われました。開式の言葉は、西平一男先生、司会の仲田史子さん《現・東(昭和17年入学)》の声が、塔の庭に優しく、そして静かに、緑の梢の蝉時雨の中に消えていきました。

日出ずる国 みんなみの み空も海も か青なる

懐かしい校歌。しっかり歌っているつもりなのですが、なぜか声になりません。金城先生の張り詰めたお声…。

「卒業証書 安仁屋 俊子 右ハ本校所定ノ学科ヲ…」

卒業証書

稲福全栄校長先生(戦没)が、あの激戦の中を大事に持ち歩かれた校印で、朱色も鮮やかに押印され、「安仁屋俊子」、「上原春江」と戦没した白梅隊員の名前が読み上げられ、御遺族の方が正面に進まれる。いくらか腰の曲がったお父様。そして、白いおぐしのお母様。証書の娘の名をジーッと…。赤いバラをお着けになった胸を震わされ、一筋の涙を1945(昭和20)年3月23日、貴女たち自身で手にした筈の卒業証書の上に。

例年にならい「仰げば尊し我が師の恩」の歌で、広い講堂を在校生に送られ、昭和二十年三月六日、地久節といわれた皇后誕生日が、私たち二十年卒の卒業式でしたが、前年の十・十空襲で、那覇市は九十パーセントが全焼し、私たちのモダンなコの字型の校舎も全焼。空襲後、校長先生方でやっと決めた二十年三月二十三日でした。その前日二十二日の夜中十二時まで、東風平の山部隊との交渉をされた金城宏吉先生の願いも空しく、二十三日から米軍の艦砲射撃が始まりました。今にして思えば、卒業式などできる筈がありませんでした。

時は過ぎました。そう、三十五年も…。

塔に眠る貴女たちと一緒にやる筈だった卒業式。遠く東京から肥後秀子さん(現・肥後)、四国の松江富貴子さん(現・戸梶)と鈴木ヤス子さん(現・久保)、鹿児島から須賀米子さん(現・大川)、福島シズエさん(現・平井)、悦田淑子さん(現・川路)たちが、宮古の大嶺信子さん(現・砂川)、八重山からは大山喜代さん(現・大山)、備瀬秀子さん(現・新垣)渡嘉敷スエさん(現・宮良)たちが出席し、涙、涙で証書を頂いて…。

式はゆっくりと時を刻み、万感の想いを込めて『仰げば尊し』

「白梅」から転載させて頂きました

「わが国の守りは私たちの手で」と健気な決意も新たに、みずから進んで看護隊に志願し、非業の死を遂げられた白梅隊員と共に挙行された念願の卒業式…。

同期生の念願であった卒業式の挙行を待っていたかのように、沖縄県立第二高等女学校の校章や三角定規、そして糸巻き、櫛などが見つかったそうです。これら校章などの遺品は、摩文仁に近い大渡の壕から発見され、これらは同校同窓会会長大嶺勝子さんに届けられましたが、なんと三十五年目の卒業式の前日だったそうです。

校章をその他の遺品を発見したのは、石原正一郎さんという方で、金光教の遺骨収集にも参加されており、私も随分とお話をする機会がありました。

ちなみに石原正一郎さんは、米上陸軍最高司令官サイモン・B・バックナー中将の、南部戦線での戦死に関わる日本軍の砲撃を指揮した野戦重砲第一連隊の中隊長だった方で、戦後は沖縄に通い詰めて遺骨収集に取り組み、すでに南部戦跡で累計六千柱以上のご遺骨を収集された方なのです。

石原さんによる沖縄県立第二高等女学校の校章や遺品を発見し、同校同窓会長にお届けした経緯などが「沖縄・白梅の悲話」(読売新聞大阪社会部編)に記載されていますので転載させて頂きます。

本文では、発見された校章に関する説明や、石原さんの人となりや遺骨収集に掛けるその思い、そして戦没された女子看護隊の純粋さ、至高さに寄せる慈愛に満ちた哀悼の念などが記載されていますので、ご覧下さいませ。

《書籍ご紹介》

「沖縄・白梅の悲話」

読売新聞大阪社会部編著 昭和55年(1980年)初版

【沖縄白梅の悲話】

(107ページ)
沖縄の悲劇を語り継ぎたいという思いを抱くのは、沖縄の人たちばかりではない。

この沖縄シリーズ第一章『白梅』で、沖縄県立第二高女の三十五年ぶりの卒業式を待っていたかのように校章「白梅」が摩文仁の壕から見つかった、と書いたが、発掘されたのは、それだけではなかった。三角定規、おはじき、糸巻き、それに櫛もあった。

白梅隊員、上原初代さんのお宅で、まるで宝物のように大切に守られているこれらの品々を見せてもらったとき、三浦美佐子さんも河内さんも、あの戦いの様から考えて、まさに貴重品ともいえる、これら五つの遺品をだれが、どうして発見したのか、知りたかった。上原さんは「この人が、私たちのために持ってきて下さった、と聞いておりますが」と一枚の名刺を示した。

帰阪してすぐ、河内は東京で、その人、石原正一郎さんに会った。六十二歳。マユが太い。早稲田大学出身。沖縄で玉砕した野戦重砲兵第一連隊の元大尉である。

渋谷区千駄ヶ谷のマンションで、石原さんは、太く、低い声で、校章に、女子学徒兵に寄せる思いを語った。

石原さんは、昭和四十一年から、沖縄南部地区で収骨を続け、その数はすでに六千柱。四十六回沖縄を訪れている。三十三回忌の年、五十二年以降は、野戦病院を重点に収骨した。病院の中で自決させられた兵は、さぞ無念だっただろう、引きずってでも壕から出していたら助かっただろうに、という思いが強かった。

与座、八重瀬岳から摩文仁まで、二十カ所近い病院壕には、まだ数多くの遺骨があった。そして、そのまわりから、櫛、手鏡、裁縫箱、おはじき、鉛筆……少女の持ちものがいくつも出てきた。

「私はね、戦友がね、彼女たちにたとえ、包帯のひと巻きでもしていただいたのだ、心をなぐさめていたのだ、と思うようになりました。そうしますと、あの娘さんたちの小さな、ほんとうに細々としたお品が、もういとおしくてたまらなくなってきましてねぇ、ありがとうございます、ありがとうと口にしながら集めたんです。 校章もそうです。摩文仁に近い大度の壕から出ました。大きな石を二十人がかりで引き揚げました。その下に大人のご遺骨と、校章がありました。そばには少女の歯がありました」

石原さんは、すぐその校章などを同窓会の大嶺勝子会長に届けた。卒業式の前の日だった。「日本の戦史に、彼女たちのことは、全くといっていいほど出てこないんですよねぇ。まして、白梅隊は知られていない。それが残念でならなかったです。

私は必ず、六月二十三日、沖縄の終戦の日、白梅之塔にお参りしています。収骨に連れていっている大学生にも必ず、お参りさせています。若者が手を合わせてあげたら、あの人たち、きっと喜ぶよねって」

河内は、白梅の校章が結びつけてくれた石原さんとの出会いに、百万の味方を得た思いだった。石原さんはつぎつぎと遺品を見せてくれた。名刺ぐらいの鏡はところどころはげ落ちていた。鉛筆は二センチくらいまできれいに削られていた。胸が熱くなり、思わず語りかけていた。

―――ふるさと、沖縄から遠く離れた、平和な時代の東京で、二人の男が、いま、あなたたちのことを思い、偲んでいるのですよ―――と。石原さんは、両手を合わせていた。

沖縄南部で十五年間に六千体も収骨、これからも体の動く限り続けてゆくと石原正一郎さんは、南部の大きな地図をひろげて、日本の沖縄に、まだどれだけの遺骨が眠っているのか、熱っぽく話し始めた。

県の記録によると、昭和三十年までに県民が収骨した数は十三万五千二十三柱。それから四十五年までの十五年間に県は、さらに、二万九千七百六十八柱を納めたという。そして五十一年三月には、未収は、対象十八万八千百三十六柱のうち、二千百九十九柱になったと説明した。しかし、石原さんら民間の手で、五十年から今日まで、六千五十七柱が収骨されている。数が合わない。

「海洋博の年ですけど、摩文仁が心ない人たちの手でね、汚されているのがたまらなくなりましてね、ジュースやビールの空き缶がいっぱいなんですよ。清掃しようということになってね、黎明の塔から北側斜面から入ったんですよ。そしたら、山のような御遺骨ですよ。百三十七柱収骨しました。何万、何十万人という観光客の足元に、それだけ眠ってられたのです。それがいまの日本ですよ。

戦後三十五年たちますとね、もう御遺骨は、三十センチ、四十センチものわくら葉の下にあります。
まず、それをとりまして、地表を出すんですけど、その地表も風化しているんです。お骨のまわりを三メートル四方、掘りまして御遺品を捜すんです。お名前がわかるものは、なんとしても、御遺族にお渡ししたい。それが私の念願なんです。これまでに、百ほどの遺品をお届けしました。その百の御遺族のお顔を忘れることはできません。沖縄には、まだ、お名前がわかっているのに、肉親の手に帰れない遺品が何万とあるでしょう。これだけ豊かな日本が、なぜ、それをしてあげられないのか。考え方の問題じゃないと思うんですよ。日本人の生き方の問題じゃないでしょうかねえ」

石原さんは、自費で、時には、心臓の発作で救急車で入院したり、骨折したりしながら、山野に、壕の中に入ってゆく。

「私たちが山野でね、十日前後でね、多いときには何百柱ですよね。三十三回忌には二千柱ですよ。もうないとは言わせません。それを数字をあげろ、なんて役人は言いますけどね。厚生省のお役人なんか、ハブがこわいのか、山野には決して入ってきませんよ。壕内の収骨しか予算がないとか言いましてね。いま、南部ではあちこち採石しているんですけど、もう一回ブルドーザーがくれば、というところに四柱もあったりするんです。かつてね、沖縄の人たちは、占領下の食うや食わずの時代に、るいるいたる遺骨を集めて下さったんです。真壁村にある万華の塔にはね、だれだれ三円、だれだれ五円と寄付した村人の名が刻まれていますよ。塔は十字架なんです。米兵が、納骨堂からシャレコウベをとっては、電気を入れて、おもちゃにしたらしいんです。村人がなんとかしなければと考えたのが十字架を立てることだったんですね。あの戦争で、村も家も、家族も失ったあの人たちが、どんな気持ちでお骨を守って下さったか。私たちはおこたえしなければなりませんよ」

石原さんの太く、低い声も、また、一つの沖縄の声であった。

「沖縄白梅の悲話」から転載させて頂きました

追記:
「白梅 沖縄県立第二高等女学校看護隊の記録」の第十章 白梅の香り永久には、「本土の防波堤となった沖縄」という寄稿文を高岡敏郎さんという方が書いていますが、この方は昭和16年に満州に駐屯していた武部隊に入隊され、九十九里浜に駐屯する部隊で終戦を迎えられました。定年退職後、沖縄戦を知りたいと沖縄に通うようになり、その過程でご紹介した石原正一郎さんとも知り合い、また白梅学徒同期生の方々との交流も深まっていったようです。

高岡敏郎さんは、金光教の遺骨収集にも石原さんと共によく参加されました。結果として私も懇意にしていただき、インターネットの無い時代でしたから、メールなどの便利な手段はなくて、専ら手紙による“文通”を通じて高岡敏郎さんと交流を深めました。文通というのは現代では死語になっているのかな。?

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.38

「白梅之碑」ではご覧のような折り鶴が絶えた事が無いと思えます。いつ来ても沢山吊り下げられています。折り鶴は多くの人達の祈りが込められた作業を経て作られたものであり、慰霊の現場には最も相応しいアイテムであると感じます。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.39

「白梅之碑」の背面を見ています。例年は鬱蒼としたジャングルが展開していましたから撮影する事も無かったのですが、今回背面が余りに明るくなっていたので撮影してみました。来年以降どうなっているでしょうか。畑になっているのかな?

「白梅学徒看護隊自決之壕」

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.40

「白梅学徒看護隊自決之壕」の石碑です。この石碑の右側に壕の出入り口があります。因みに、ほらこの石碑の背面も例年になく凄く明るくなっているでしょう~。(^o^)

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.41

「白梅学徒看護隊自決之壕」を地元の方々は「マチドーヌティラ」と呼ぶようです。ガマの由来や沖縄戦当時の白梅学徒隊の軌跡が書かれていますのでテキストに起こしてみました。

【マチドーヌティラ】

字国吉の南西に位置するこの自然洞穴を、地元ではマチドーヌティラといいます。ティラとは神が鎮座する洞穴のことを指すといわれ、毎年旧暦9月にはクングヮチムヌメーとう伝統行事が国吉自治会によって行われています。

また、この壕は沖縄戦において第24師団第1野戦病院に動員された白梅学徒の一部が入っていた壕としても知られています。八重瀬岳の麓にあった同野戦病院は1945年6月4日に学徒に解散を命じ、この壕に撤退してきました。鉄の暴風が吹き荒れる中、行き場のない学徒16人は野戦病院の部隊と行動を共にし、この壕で再び負傷兵の看護を手伝うこととなりました。この壕の南、「山形の塔」の近くには「上の壕」と呼ばれた壕があり、食料や弾薬の倉庫、学徒らの仮眠所として利用されていました。一方のこの壕は「下の壕」と呼ばれ、負傷兵の看護場所でした。6月21日に「下の壕」、翌22日には「上の壕」が米軍の激しい攻撃を受け、学徒16人のうち10人が死亡しました。

戦後この敷地内には、第二高等女学校の全戦没者を祀る「白梅之塔」、字国吉の住民による「萬魂之塔」が建立されています。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.42

ピンク色の建物は「南禅廣寺」です。写真中央に壕口が見えますね。それではご一緒に入ってみましょう。

「南禅廣寺」

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.43

「南禅廣寺」です。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.44

「南禅廣寺」の右側に来ています。ここは昔からずっと縦穴がありました。今は完全に塞がれました。壕内部はしっかりと落盤防止措置が講じられているはずです。

ここ「白梅学徒看護隊自決之壕」では、ここ二三年前から修学旅行生への平和学習が恒常的に行われる事となったようです。この縦穴があった場所付近が一番壕内部への落盤の危険性が高かったという点と、縦穴から光が壕内に漏れていましたが、完全に遮断して光のない壕を演出する事となったのだと感じます。

《過去の写真ご紹介》

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.48

この写真は昨年の同じ場所を撮影したものです。昨年の一月までは縦穴があったという事になります。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.49

開口部の真上から撮影しました。建設足場に使うジャッキが設置され、岩底を支えていますね。落盤したと思われる土砂も多く堆積しているのが見えます。開口部手前側は、思いのほか脆い岩盤なのかもしれません。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.50

なるたけ奥を撮影していますが、これが限界ですね。ジャッキアップして岩盤を支えているのが見えます。そうするのもやむを得ないほど地表までの岩盤層の厚みが薄いですね。沖縄戦では、ここから多くの爆雷を投げ込まれたのではないでしょうか。もしそうだとすると岩盤がかなり緩くなっている可能性があるので、下に堆積している土砂の多くが戦後ゆっくりゆっくり崩落したものかもしれません。

過去写真掲載はここまでです。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.51

少し回り道をしてしまいましたが、それでは壕に入ります。現在はコンクリート製の階段になっていますので、とても歩きやすいです。降りてみましょう。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.52

間もなく階段も終わりですね。前方は突き当たりとなっています。壕の坑道は突き当たりから右側に深く伸びています。

因みに階段突き当たり部にある拝所までが、大昔からマチドーヌティラという名の洞窟だったのかもです。突き当たり部右側から始まる横坑道は、沖縄戦当時に構築されたものかも知れません。右側奥に先ほど写真撮影した縦穴があるので、複数の開口部を持つ壕にしたと考えられます。と言うのも、ここは巨大な一枚岩の岩盤の下を掘り進めて坑道を構築しているのが見て取れます。巨大な一枚岩の岩盤の下は土とか土砂なので、人力で比較的容易に掘り進めるのが可能であったと思われます。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.53

階段部突き当たりから後ろを振り返って見るとご覧のような感じです。「白梅之塔」の形状は、「壕の中から太陽を求める。日の光を求める」といったイメージで制作されたとの事ですが、正に出る事も叶わない、この壕底から見えた太陽の明るさをイメージされたのかも知れませんね。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.54

コンクリート製の階段を降りきって、通常は右側の坑道に進みますが、この写真は突き当たりの左側を撮影したものです。土砂は戦後堆積したのかもしれませんが、それなりに広い空間がありますね。もしかしたらこの辺りにも負傷兵が大勢居られたのかもしれません。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.55

壕の天井部分を撮影しています。少し解りにくいですが、鍾乳石の氷柱が折られているという点を知って頂きたく撮影しました。少しでも坑道の高さを確保するため、そして安全を確保する為に折られたのだと思います。また壕内は米軍の火炎放射攻撃などで壁面が真っ黒になっている場合も多いですが、この壕もまたよく見ると攻撃された後と見られる黒い煤が付着しているのが見て取れます。

6月21日に「下の壕」、翌22日には「上の壕」が米軍の激しい攻撃を受け、学徒16人のうち10人が死亡したとされていますので、ここ「下の壕」でも何人かの白梅学徒看護隊員が戦没されたと思われます。米軍の馬乗り攻撃では、現在階段になっている壕口からドラム缶に入ったガソリンを落とし込まれたと言われています。二十年三十年前は、煤で壕内はかなり黒かったですが、年々黒色が薄くなっていく印象があります。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.56

コンクリート製の階段を降りきってから、右側を見ています。平和学習の為でしょう、しっかりと坑道が歩きやすいように整備されています。歩く部分には砂利も敷かれているのが見えますね。

写真に写されている横坑道は構築された可能性が大きいと思います。天井面の岩盤層の下は、ご覧のように土とか土砂ですから、掘り進めるのは比較的容易だったと思えます。

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子69

平成26年(2014年)に撮影したものです。奥まった部分が穴のようになっていますが、そこが上掲写真の「頭上注意」の看板があるところです。この頃の坑道はとても歩きにくい状況だったのがよく解る写真です。この壕は繰り返し繰り返し遺骨収集が為されていましたから、地形が変わったと感じる事がよくありました。

過去写真掲載はここまでです。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.57

坑道は高さがありません。ご覧のように「頭上注意」の看板も設置されています。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.58

ここも高さがありません。一番狭い部分かもしれません。でも足下は歩きやすいので、思いの外スイスイと前に進めます。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.59

一番奥まった空間に到達しました。高さが十分にありますので頭を気にする事なく安心して立てる場所です。足下もしっかりと砂利が敷かれて安定しています。昔はこの辺りは遺骨収集で何度も何度も掘り返されていて、岩と共に土が多くて歩きにくく滑りやすかった場所です。沖縄戦当時この辺りも大勢の負傷兵の方々が居られた事でしょう。

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子70

平成26年(2014年)に撮影したものです。上掲写真と同じく、一番奥まった所を撮影しています。上掲写真とは撮影方向が少し違いますが、繰り返された遺骨収集の為に地盤が掘り返されているのがお解りになると思います。因みに遺骨収集で地盤が掘り返された時期が古いのか新しいのかは、目で見ると意外と解るものです。言葉では説明しにくいですけどね。この写真の時も、最近掘り起こされたのがハッキリと認識出来ました。

ここは現在は砂利も敷かれ比較的平らな面となっていますが、この時は傾斜面といって良いほどで平らな面はありませんでした。そうした所を病院壕として利用した訳ですから、軍医や衛生兵そして学徒看護隊、また運び込まれた患者さんのご苦労が忍ばれます。

過去写真掲載はここまでです。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.60

ご覧のように立ち入り禁止の虎ロープが張られています。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.61

虎ロープから更に上にカメラを向けますと、岩盤の崩落を防ぐ目的で数多くのジャッキが設置されているのが見えますね。岩盤の色で判定できますが、天井面はかなり堅固な鍾乳石灰岩で出来ていますが、地面部分に展開する飴色の土石類は極めて崩れやすいのが一目瞭然となっています。

しかしながら、現在沖縄では沖縄戦に関わる構築壕を中心に落盤の恐れがあるという理由で、立ち入り禁止となる壕が増えています。地権者とのトラブルもあるやに聞いていますが、それは取りも直さず修学旅行での平和学習の場が失われるという事を意味し、関係者は苦慮していると聞いています。この「白梅学徒看護隊自決之壕」(マチドーヌティラ)は、目の前の落盤危険地のみをきっちり管理できれば、その他の壕内部については、落盤の危険度ゼロと言って良い程安全な場所です。この壕内の往復の時間や移動距離も、平和学習に適切な時間で運用出来ますから、この壕での平和学習は長く続けられるかも知れませんね。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.62

天井を見ています。鍾乳石の氷柱も結構発達していますね。見ていて荘厳さを感じますし、万年単位の気の遠くなる程の歳月を経た自然の造形美ですね。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.63

それでは帰りましょう。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.64

コンクリート製の階段突き当たり部が見えてきました。突き当たりには拝所がありますね。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.65

この写真だと、鍾乳石の氷柱が折られているのが解りやすいですかね。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.66

詩が詠まれています。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.67

拝所ですね。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.68

拝所付近の鍾乳石の氷柱も見事ですね。現在は氷柱の先に水滴は全くありません。氷柱の形成がすでに終了しているという事になります。壕の中には現在進行形で鍾乳石の氷柱が形成されている所も多いですよね。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.69

開口部が見える所まで戻りました。写真を見ていますと、陸軍病院第一外科壕と、規模が少し小さいですが、壕の構造はとても似ているなと感じました。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.70

「南禅廣寺」の参道を通りつつ車まで戻りました。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.71

「南禅廣寺」の参道入り口にはご覧のような石碑が立っています。

「沖縄兵站慰霊之碑」

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.72

「沖縄兵站慰霊之碑」です。碑のある場所は糸満市大里になりますね。県道7号線に沿うようにありますので発見しやすいかもです。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.73

赤いハイビスカスの花が咲いていました。(^o^)

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.74

「沖縄兵站慰霊之碑」には、第49兵站区隊本部、陸上勤務72中隊、同83中隊、特設水上勤務第103中隊、同第104中隊、独立自動車第215中隊、同第259中隊、球1616自動車中隊、同航空兵站中隊、沖縄防衛中隊、沖縄出身従軍軍属、那覇停車場司令部などの、沖縄で召集された防衛隊、軍属ら戦没者を合祀しています。

以上の兵站部隊は米軍の上陸後、特編第二旅団を編成し第三十二軍直轄部隊として戦闘に加わった部隊です。関係者の高齢化により、沖縄兵站会主催の慰霊祭も建立30年目の節目で最後となり、現在は自由参拝となっているようです。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.75

合祀されている部隊名が列挙されています。「自動車」という文字が含まれている部隊が複数ありますね。沖縄戦ではあまり自動車の話題はありませんが、相当数の自動車が活躍していたのですね。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.76

慰霊碑建立の悲願実現と戦友の御霊安らかなれと祈る思いが切々と伝わってくる文面ですね。文字が少し小さいのでテキストに起こしてみました。

【慰霊碑碑文】

第二次世界大戦最後の且つ日本国土上唯一の激戦上となりたる沖縄本島に在りて 第49兵站地区隊本部 及び 摩下各陸上勤務中隊水上勤務中隊自動車中隊並に現地採用各軍属は昭和19年8月より米軍の侵攻来撃に備え 兵器 弾薬 装備 糧秣及兵員の輸送業務並に陣地構築の任務を遂行しつつありたる処昭和20年3月24日米軍上陸と同時に特編第二旅団を編成し 之れに現地召集防衛中隊を指揮下に入れ 第32軍司令部直轄兵団として 戦列に加わり全将兵もとより従軍志願せる軍属に至る各員は祖国防衛の難に身命を挺しつつ各戦線に赴き米軍の尨大なる戦力 且つ米軍が太平洋戦線 戦局の決定を賭しての 陸海空総戦略をつくしたる熾烈死闘猛攻に対し 日夜勇戦敢闘の限りを 尽くしつつ 緑の山野に殉国の血を染め 故国に想ひを馳せつ祖国の再興を念ひ乍ら遂ひに散華せられ 逝きぬ 時に同じ砲煙弾雨のもと もとで死生を倶にと誓ひし乍らもいかなる運命のもとにてか寄しくも生き永らえし者幾余名本土と沖縄とに在りて志を同じゆうして逝き戦友の英魂を永こしなえに慰ぐさめ弔わんものと その慰霊碑建立の 悲願を樹て 爾来20有余年1日として 忘却せざるなし 誓願 努力の積年 幾星霜 遂ひに ここに御遺族各位を含めての 英霊追慕の至情は 結実し ここゆかりも深き  南部戦線の一画に 一人一人の徴衷と心魂とを篭め尽くせる「沖縄兵站慰霊之碑」建立の本願を果たしぬ 茲に その全英魂を招き 祀り弔ふ日を迎え得たり 今 静かに往時を偲ぶとき 戦友の英姿が 俤げが瞼に映じきたりそこここより 戦友の在りし日の声聞こゆるが如きを 感じ転た血涙 新らたなるものを覚ゆ 願くわ 霊魂来たり 亨け この地に 永こしえに 安らけく 鎮ませ給え

昭和46年10月10日 沖縄兵站慰霊之碑建立 奉賛有志一同

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.77

碑の背後に壕口がありました。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.78

壕口から見た限り、あまり大きくはないですね。居住空間は直径15メートルぐらいの丸い形をしているようです。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.79

丸い内部空間の中央付近から壕口を見ています。高さはやっと立って歩けるぐらいでしょうか。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.80

壁面の一角に、横穴がある事が解りました。見てみましょう。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.81

写真では行き止まりのように見えますが、背を伸ばしライトを当てて解りましたが、明らかに地表まで伸びている坑道ですね。正面から攻撃されたら、この坑道から裏手に逃げらるようにしていたのかもしれません。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.82

もう一つの坑道口があるであろう背後のジャングル帯を撮影してみました。壕の背後は小高い山となっているので、どこかに壕口があると思われます。

午前の作業開始です

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.83

作業着手にあたり、まずは戦没者の方々に手を合わせご冥福をお祈りしました。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.84

今日も天気は問題ありません。有り難いです。今日も頑張って参りましょう。右から松永さん、豊澤さんです。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.85

まずは打ち合わせです。松永さんが指示を出しているところです。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.86

さあ壕の中に入りましょう。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.87

サイト管理人の足が写っています。(^^;)

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.88

朝一番でこの辺りを探す事になりました。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.89

遺品が見つかりました。ご遺骨は相変わらず無いですね。珍しい形の瓶が見つかりました。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.90

発見された遺品の一部を外に出しました。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.91

この瓶の形、珍しいですね。初めて見ました。子供の頃、海苔の佃煮などが入っていた瓶の形に近いかもです。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.92

再び西側の空間に移動します。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.93

感動的な鍾乳石です。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.94

同じく感動的な鍾乳石です。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.95

明るく照らされている場所で豊澤さんが作業しているはずです。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.96

この時点までに見つかった遺品です。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.97

この時点までに見つかった遺品です。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.98

この時点までに見つかった遺品です。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.99

作業を続ける豊澤さんです。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.100

一番奥まった場所にサイト管理人が行って、缶詰の空き缶のあった場所を探してみる事にしました。いざ前進です。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.101

狭くなって来ました。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.102

上を見ています。上がれそうで上がれそうにない場所を撮影しています。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.103

一番奥まった場所に到達しました。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.104

上を撮影しました。ここは全く光が入ってきません。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.105

缶詰の空き缶が二つ見えますね。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.106

右側の缶です。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.107

左側の缶です。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.108

二つとも回収しました。缶詰の空き缶があった場所にも兵隊さんが居られたという事ですね。兵隊さんは、その後どうしたのか? 心の中で手を合わせました。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.109

さあ戻りましょう。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.110

豊澤さんが見えてきました。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.111

炊事をしたと思われる場所です。ごく狭い範囲に煤が付着しています。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.112

この時点までに見つかった遺品です。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.113

この時点までに見つかった全遺品を外に出しました。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.114

この時点までに見つかった全遺品を外に出しました。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.115

この時点までに見つかった全遺品を外に出しました。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.116

兵隊さんの軍靴がとても多いですね。多くの日本軍将兵が、この壕内で亡くなった可能性が高いです。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.117

松永さんは警察官と落ち合う為に出かけていましたが、警察官が現場に到着したと連絡が入りました。私達も実況見分に立ち会う為に移動します。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.118

珍しい花が咲いていました。サトイモ科の「マムシグサ」ですね。マムシグサはやや湿った場所に生える植物だと言われていますが、正にその通りの場所にありました。マムシグサの名の由来は、茎には褐紫色の模様があり、マムシの皮膚の模様に似ている。また花の形状も蛇が鎌首をもたげている姿に似ている事から、マムシグサと呼ばれるようになった様です。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.119

糸満警察署員が到着されました。今から艦砲砲弾発見場所に向かいます。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.120

艦砲砲弾を確認してもらっています。因みにご覧の艦砲砲弾や手榴弾、そして小銃弾などの不発弾は、まず警察署員に検分してもらった後、警察署員が陸上自衛隊不発弾処理班に連絡するという流れになっています。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.121

陸上自衛隊不発弾処理班が到着次第、この不発弾はジャングルから持ち出される事になります。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.122

続いて、ごく少量のご遺骨が発見されましたので、そのご遺骨も沖縄戦戦没者なのか、それとも近年の他殺体や自殺なのかの検分をしてもらっています。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.123

発見されたご遺骨です。末端部が残存していないので断定は出来ませんが、上のご遺骨は中央部分が少し太くなっているので、上肢の骨である尺骨。下のご遺骨は下肢の腓骨ではないか?

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.124

検分も無事に終わりました。陸上自衛隊不発弾処理班にも連絡をとって頂きました。検分をして頂いた警察官の方も、目の前に広げられた戦没者遺品に関心を持ったらしく、色々と観察を始めました。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.125

警察官の質問に豊澤さんが答えています。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.126

警察官の方も座り込んで色々と質問しています。警察官に限らず、こうして戦没者遺品を見れば、関心を持たれるのは、ごく自然かも知れませんね。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.127

沖縄在住の仲里さんから差し入れがありました。ムーチーをわざわざ現場まで持参して下さいました。仲里さんは松永さんのお友達で、時折私達が取り組む遺骨収集にも参加して下さっています。因みに今回は風邪を引いてしまったとの事で、少し立ち話をしてそのまま帰られました。ありがとうございました。(^o^)

ムーチーを食べるのは、旧暦の12月8日(新暦の1月下旬から2月上旬頃です)、健康や長寿祈願の為であったり、広く縁起物として食されるとの事ですよ。ムーチー(餅、鬼餅)は、餅粉をこね、白糖や黒糖で味付けをして月桃の葉で巻いたものを蒸して作る様です。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.128

ムーチーを包む月桃(サンニン)の香りが何とも言えませんね。ムーチーの色からして、紅芋(又は紫芋)で味付けされている様です。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.129

こちらはムーチーの色からして、黒糖で味付けされている様です。両方とも食べさせて頂きました。時刻的にも三時のおやつという感じて、とても美味しかったです。仲里さん、ありがとうございました。(^o^)

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.130

糸満警察署員が陸上自衛隊不発弾処理班に連絡し、ただ今同隊処理班の方々が到着しました。早速艦砲砲弾のある場所にご案内しました。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.131

発見された艦砲砲弾は既に信管が無い事から、現場で安全化するのでなくジャングル外に出してから措置をする様です。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.132

艦砲砲弾をジャングル外に持ち出しました。米軍の4.2インチ不発弾との事です。起爆装置としての信管が無い不発弾という事で、不発弾処理班が車に乗せて持ち帰り、隊内で安全化作業を行う様です。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.133

もう一カ所の作業現場に移動しました。壕内から発見された小銃弾や特定が難しい不発弾らしき物体を識別検査しています。不発弾処理班の皆さんが目視で行っている、この識別調査作業はとても大切な作業だとのお話です。日本軍の不発弾なのか、或いは米軍の不発弾なのか、また信管があるのか無いのか、そして砲弾なのか照明弾なのか、ロケット弾なのか誘導弾なのか、はたまた手榴弾なのか擲弾筒なのか等々発見された物体が何なのかが特定されないと、その後の安全化措置に進む事も出来ません。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.134

同じく、壕内から発見された砲弾の様な丸い物体を識別しています。全部で6個あります。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.135

不発弾処理班は七つ道具をお持ちなんですね。その道具を出して物品の内容物が何かを調べ始めました。内容物は何か白く粉っぽいです。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.136

この作業現場で発見された不発弾と思われる物体を識別調査した結果発煙筒らしく、爆発する恐れのある火薬が装填された不発弾では無いと言う事で、不発弾処理班は持ち帰らないので、発見された皆さんが現場で処分してほしいとの話でした。不発弾処理班では、あくまで爆発の恐れがある、且つ火薬が装填された不発弾しか持ち帰らないとの事でした。と言う事で火薬が入っている小銃弾23個のみ持ち帰って頂きました。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.137

松永さんが小銃弾を見せてくれました。

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.138

小銃弾と言いつつ、この小銃弾は曳光弾でもあります。曳光弾とは発光体を内蔵した特殊な弾丸で、発射後、発光しながら飛んで行く事で弾道が解るようにした砲弾です。弾丸の軌跡を目視する事で、射撃中に弾丸の飛ぶ方向を微調整して命中精度を高める為に使用されます。例えば夜間の戦闘などでは、発射された小銃弾がどこに飛んでいるのか全く解りません。こうした場合に数発に一発の割合で曳光弾を発射すると、小銃弾の着弾地点が解りますし、曳光弾の着弾点を見ながら弾の飛ぶ方向を微調整する事が可能となります。

ご覧の様に芯に穴が開いていますが、この穴の部分に曳光剤と発火剤が挿入されていて、発射されると曳光剤に点火され光を放ちながら飛んで行きます。

陸上自衛隊不発弾処理班の方々のお話を伺っている中で、「私達は24時間体制で、何時でも出動出来る体制で活動しています」 と仰いました。一寸驚きました。24時間365日、真夜中に緊急出動要請があっても、出動決定から20分以内、勤務時間外でも1時間以内に出動出来る即応体制が整っている様です。

不発弾処理は、自衛隊法附則第14条により定められた自衛隊業務の一つで、発見された不発弾を処理し除去するのが主な業務です。原則として陸上で発見された不発弾及び漂着機雷等は陸上自衛隊が処理し、浮遊機雷や海上自衛隊が直接通報を受けた漂着機雷等は海上自衛隊が処理すると言う取り決めがある様です。

陸上自衛隊には四つの不発弾処理隊があり、各地域の不発弾処理を担当しています。
第101不発弾処理隊(那覇駐屯地:第15旅団隷下)
第102不発弾処理隊(朝霞駐屯地:東部方面後方支援隊隷下)
第103不発弾処理隊(桂駐屯地:中部方面後方支援隊隷下)
第104不発弾処理隊(目達原駐屯地:西部方面後方支援隊隷下)

不発弾が最も多いのは沖縄県であるのはご承知の通りです。年間何と約600~800件の通報があるそうです。これは平均すれば、一日に2回の緊急出動となる計算ですよね。そして砲弾重量では実に30~50トンも発見されるそうですが、その不発弾の種類も多彩で、小銃弾から榴弾砲、艦砲砲弾やロケット弾等々、本土とは比べものにならない程多種多様な不発弾が見つかるそうです。

そして大東亜戦争末期の沖縄戦で日米併せて使用された砲弾薬は約20万トンだそうです。その内の実に5%程度が不発弾となって地表に、そして地中深く埋没したと推定されているそうです。因みに沖縄県での不発弾処理が遅れたのは、1972年の本土復帰まで米軍施政下だった事が主な要因だったと言われています。

不発弾は多くの場合で地中深くに潜っている事から、建物や道路工事中に爆発事故が発生する事も少なくありません。不発弾の予期せぬ爆発事故で、沖縄県でもこれまでに数多くの死傷者が出ているのが実情です。平成21年(2009年)にも糸満市小波蔵で、水道工事中に不発弾が爆発し二人が重軽傷を負った爆発事故がありました。その爆発事故に関わる琉球新報の記事をご紹介すると共に、私が爆発事故現場の当時の生々しい現況を撮影しましたので再掲載させて頂きます。

【糸満市小波蔵で水道工事中に不発弾爆発】 2人が重軽傷

「琉球新報」2009年1月14日

糸満市小波蔵で水道工事中に不発弾爆発の現場

14日午前8時20分ごろ、糸満市小波蔵321番地付近の歩道で、建設業従業員の古波蔵純さん(25)=豊見城市宜保=が水道工事のため重機で掘削作業中、突然爆発が起こった。

糸満署によると、作業中の重機が土中に埋まっていた不発弾に接触し、爆発した可能性が高いという。この爆発事故で、古波蔵さんが顔面を負傷し重傷を負ったが、意識はあり、生命に別条はないという。
現場裏の老人ホームの男性入所者(75)の1人が割れたガラス片で足に軽傷を負った。午前11時半現在、ほかにけが人は確認されていない。同署と糸満市消防本部が詳しい事故原因を調べている。

午後1時現在、けが人はほかに確認されていない。付近の住宅、寺の窓ガラスが割れるなどの被害もあった。糸満市によると、不発弾の有無などを探る工事前の磁気探査は実施していなかった。

爆発事故を受けて市や県は現場に職員を派遣し、被害を確認。訪米中の仲井真弘多知事にも報告された。那覇労働基準監督署や経済産業省原子力・安全保安院も現場を視察した。陸上自衛隊不発弾処理隊も現場に入った。

糸満署や県などによると、現場は糸満市発注の市道「真栄平・名城」線整備に伴う水道管敷設工事の際、重機が約1メートル掘削した地点で爆発が起きた。古波蔵さんは重機で土中の石を割り、その除去作業中だった。重機先端のドリルが触れた衝撃で、不発弾が爆発したとみられる。当時、現場付近では古波蔵さんを含め3人が作業していたという。同市道は開通していない。

大きな爆発音が一帯に響き、黄色い煙も目撃された。古波蔵さんは南風原町の県立南部医療センターに搬送され、連絡を受けた家族が駆けつけた。

「沖縄偕生園」では窓ガラス104枚が割れた。爆発当時、入所者の多くが食事中で、窓付近にはいなかった。爆風で付近の建物が揺れ、街灯が傾くなどの被害も確認された。

現場では県警の捜査員約20人が実況検分し、ショベルカーや爆発してえぐれた地面を調べていた。爆発で地面が直径4メートルほどえぐれ、土や石が辺りに散らばっていた。
県警から「爆発現場近くに信管らしきものがある」という連絡を受けた陸自が識別のため現場に入った。

県内の不発弾事故では、1974年に那覇市小禄で園児4人が死亡、87年に那覇市長田で1人が死亡、89年に伊江村東江上で1人が死亡している。

「琉球新報」から転載させて頂きました

そして、爆発から9日後の1月23日の琉球新報の報道によれば、爆弾の種類が特定されたようですよ。

【糸満不発弾は米製250キロ】

「琉球新報」2009年1月23日

糸満市小波蔵で二人が重軽傷を負い、福祉施設の窓ガラスが割れるなど建物が損壊した不発弾爆発事故で、県警は22日り、爆発物を米国製250キロ爆弾「M64A1」と特定したと発表した。

県警の要請を受けた陸上自衛隊第一混成団が、爆発現場で発見された信管の識別番号や形状などから判断した。
県警は今後、過失の有無などを視野に捜査を進める。

陸自によると、250キロ爆弾は沖縄戦当時、爆撃機が落としたもので、県内でその不発弾が多く見つかっている。大きさは直径約35センチ、長さ約120センチ。

陸自は信管除去作業の際、深さ4メートル以上の穴を掘り、ライナープレートという鉄製の壁を周囲に積み上げて穴を覆う措置を取るが、この爆弾の場合、半径420メートル範囲の避難が必要だという。

同プレートを使用しない場合は半径700メートルの避難が必要となる。

「琉球新報」から転載させて頂きました

糸満市小波蔵の不発弾爆発現場の様子

遺骨収集の様子1

【平成21年(2009年)撮影】
不発弾の爆発事故は写真のように、古波蔵と真栄里間の道路拡幅造成工事が行われている区間内で発生しました。爆発現場は500mぐらい先の様です。ここは石灰岩の岩山を掘削して道路を拡幅造成工事しています。こうして掘削された擁壁面を見ると樹林帯の表土は極端に薄い事が見て取れますね。

遺骨収集の様子2

爆発現場が見えてきました。紅白のコーンで仕切られた部分が爆発現場です。点在する土の固まりは爆発時飛散したものと思われます。道路の舗装工事は完成し歩道工事に作業が移り、その歩道を重機で掘削している時に爆発が起きた様です。爆発事故に巻き込まれた重機そのものは、現場からすでに移動されている様です。

遺骨収集の様子3

爆発現場の様子です。私の目測では穴の幅は7メートル、深さは1.5メートル程度に見えました。赤っぽい土は歩道造成時に搬入したものと思われ、白っぽい土は石灰岩の岩盤で爆発時削られたと予想。

遺骨収集の様子4

ステンレス製フェンスはなぎ倒され、完成していた側溝やコンクリート製擁壁がご覧のように見事に破壊されていますので、爆発の威力は凄かったと言う印象です。ただコンクリート製擁壁に鉄筋がまったく入っていないのには違和感を感じますよ~。それはともかく(^^ゞ 、死者が出なかった事が幸いであり、何よりも救いでしたね。

過去写真掲載はここまでです。

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