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令和02年(2020年)沖縄遺骨収集奉仕活動

1月12日(日) 慰霊巡拝

本日の天気予報は曇りで未明から雨が降るとの予報です。また最高気温20度です。頑張ります。まず朝一番で「悲風の丘」を慰霊巡拝します。その後非公開の調査・遺骨収集奉仕活動です。ご免なさい。(^o^)

令和年(2020年)1月12日/沖縄遺骨収集の様子no.1

南風原町にある「南風原文化センター」です。南風原文化センターは、南風原と沖縄に関する歴史資料展示が為されています。また沖縄戦に関する資料や遺品の展示、そして沖縄で長く続いた移民に関する資料展示されています。意外に意外に思うかもしれませんが、沖縄はハワイ、北米、ペルー、ブラジル、アルゼンチン、ボリビアへの移民が盛んだった歴史があるのですね。そして沖縄の古来からの人々の暮らしぶりなどの展示なども行っています。

令和年(2020年)1月12日/沖縄遺骨収集の様子no.2

「南風原国民学校 学童集団疎開記念碑」です。南風原文化センターの正面玄関前の広場に設置されていました。碑文をテキストに起こしてみましたのでご覧くださいませ。

【南風原国民学校 学童集団疎開記念碑碑文】

昭和十九年六月の閣議決定を受け、第一次一二四人が、八月二十一日和浦丸で熊本県日奈久、坂本へ、第二次一四六人は、九月九日に一進丸で宮崎県高鍋、三財、上穂北、美々津へ学童集団疎開しました。引率教師、その家族合わせて総勢二七0人でした。

幼い学童達は、親元を離れ異郷の地で、「やーさん ひーさん しからーさん」、そして幾多の艱難辛苦を乗り越え二年余勉学に励みながら逞しく生き、昭和二十一年一0月頃に帰郷を果たしました。

ややもすると忘れ去られがちな、この「学童集団疎開」の実態と、それが「沖縄戦の一環で国策として遂行された」という歴史的事実を後世に伝え、戦争を拒否し平和を創造していくという強い意志をもって、南風原国民学校学童集団疎開記念碑を建立します。

令和年(2020年)1月12日/沖縄遺骨収集の様子no.3

南風原文化センターの背後にある稜線は黄金森と呼び、現在は黄金森公園となっていますが、その黄金森公園周辺とエリア案内図ですね。航空写真中央部に赤い囲み文字で「現在地」と書かれている場所にあります。ギリギリ解りますかね。(^^;)

南風原文化センターは平成21年(2009年)に竣工しました。比較的新しい建物です。因みにそれ以前の南風原文化センターは、600メートルぐらい更に北側の位置にありました。南風原町役場近くでしたね。その古い南風原文化センターの展示物も見学した事があります。

沖縄戦に関心がある方なら、「飯あげの道」と言う言葉を聞いた事があると思います。沖縄戦当時ひめゆり学徒看護隊員や衛生兵らが烹炊場から南風原の陸軍病院壕群までおにぎりなどのご飯を樽に入れて、竿を二人一組で担いで行き来した道のりを指す言葉ですよね。

南風原の病院壕群に食事を提供する為の烹炊場は、南風原文化センター前の県道241号線の道路を挟んで反対側の、現在の喜屋武農村公園がある場所付近だと言われています。井戸があった為にそこに決まったようです。烹炊場から陸軍病院壕群までは直線距離で500~600メートルですが、全行程の途中に黄金森丘陵がある事から上り坂下り坂とがあり、竿を担いでの道中はかなりハードであったはずです。隠れる場所もなく砲撃に晒される道中となった事でしょう。ですから朝と晩の艦砲砲撃が静まったタイミングで一気に運搬作業が進められたかもしれません。いずれにしても、丘陵の木々もなぎ倒され丸裸の状態では、艦砲弾や敵戦闘機のターゲットななりやすかったのは間違いなく、多くの犠牲者も出した事でしょう。本日はその「飯あげの道」を一緒に歩いてみましょう。

「飯あげの道」

令和年(2020年)1月12日/沖縄遺骨収集の様子no.4

南風原文化センターの背後にある丘陵近くに進みますと「飯あげの道」は見えてきます。写真中央の上り坂になっている石畳の道がそれですね。写真に写されている樹林帯を黄金森と呼びます。

令和年(2020年)1月12日/沖縄遺骨収集の様子no.5

「飯あげの道」の案内板もしっかりありますので迷わないと思われます。それでは20号壕を含めた陸軍病院壕群を見学して、再び南風原文化センターまで戻って参ります。写真では気づかないと思いますが、雨が降ってきました‥。

令和年(2020年)1月12日/沖縄遺骨収集の様子no.6

オオハマボウですね。確かハイビスカスに似た黄色い花が咲きます。摩文仁海岸線にもありますね。枝が絡むように展開するので結構やっかいな木です。

令和年(2020年)1月12日/沖縄遺骨収集の様子no.7

オオハマボウの解説です。葉は尻ふきに使用したと書かれています。尻ふきにちょうど良い大きさであるという事で、沖縄戦でも大活躍したようです。葉の表面を触ってみると、少なくとも表面は毛がなくて、お尻を拭いても赤くただれない感じがしますね。使った事が無いので断定はしかねますが‥‥。因みに、これまでに沖縄戦を生き抜かれたお二人の方から、戦時中にこの葉を使われたと言うお話を伺いました。

「悲風の丘」

令和年(2020年)1月12日/沖縄遺骨収集の様子no.8

「飯あげの道」を50メートル程登ると右側にご覧のような「悲風の丘」碑が見えてきます。

令和年(2020年)1月12日/沖縄遺骨収集の様子no.9

沖縄陸軍病院(球18803部隊)の解説板がありました。テキストに起こしてみましたのでご覧くださいませ。

沖縄陸軍病院(球18803部隊)

第32軍(沖縄守備軍)直属の沖縄陸軍病院は当初、那覇の開南中学校に本部・内科・伝染病科、済生会病院に外科、県立二中に兵舎を置いていました。病院長は廣池文吉軍医中佐で、軍医・看護婦・衛生兵など300人余の体制でした。

ところが、1944(昭和19)年10月10日の空襲によって施設が焼失したため、南風原分院のあった南風原国民学校に移動します。1945(昭和20)年3月23日に米軍の空襲が始まると、沖縄師範学校女子部・県立第一高等女学校の生徒および引率教員237人が、看護補助のために動員されました。彼女たちは戦後、「ひめにり学徒隊」と呼ばれます。

米軍の上陸を前に、病院は黄金森一帯に掘られていた30余の壕(通称:南風原陸軍病院壕)へと移動しました。外科は第1外科、内科は第2外科、伝染病科は第3外科へと改められたのです。

5月22日、首里城地下におかれた第32群司令部が摩文仁に撤退し、陸軍病院も南部へと移動することになりました。その際、重症患者に青酸カリが配られ、自決が強要された壕もあります。「南風原陸軍病院壕趾」碑には、「重症患者二千名余名自決之地」と刻まれていますが、この数字に確かな根拠はなく、犠牲者の数はいまだに明らかではありません。

1990年、南風原町は戦争の悲惨さを伝える証として、現存する第1外科壕群と第2外科壕群を文化財に指定しました。第二次大戦の戦争遺跡としては全国で初めてのことでした。

現在は、20号壕、24号壕の公開に向けての準備を進めています。その他の壕は入り口が落盤しているため、琉球大学考古学研究室の協力で、壕の位置を調査しています。

詳しくは、「南風原文化センター(電話098-889-7399)」「ひめゆり平和祈念資料館(098-997-2100)」にお問い合わせ下さい。

南風原文化センター 2002年 

令和年(2020年)1月12日/沖縄遺骨収集の様子no.10

「悲風の丘」です。南風原にあった沖縄陸軍病院で戦死した二千名余名が祀られています。初代の「悲風の丘」は、昭和28年に建立されました。写真のは昭和41年3月となっていますので、改装後の塔だと思われます。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和年(2020年)1月12日/沖縄遺骨収集の様子no.11

「悲風の丘」碑から少し先に進むと、ご覧のような「南風原陸軍病院壕趾」があります。

令和年(2020年)1月12日/沖縄遺骨収集の様子no.12

「南風原陸軍病院壕趾」の説明が書かれています。ギリギリ読めますね。

令和年(2020年)1月12日/沖縄遺骨収集の様子no.13

「南風原陸軍病院壕趾」の背後に病院壕があったのだと思います。30年ぐらい前は壕口だけ樹木が無くて、むき出しの斜面に土砂を詰めて埋めた‥。みたいな雰囲気があったのですが、戦後75年を経た現在は斜面にある草木もほぼ同一となり、嘗てここに壕があったという雰囲気はほとんど無いという印象です。

因みに「悲風の丘」は、「埋没壕上の建碑運動」の流れで建立された慰霊塔の一つです。1972年(昭和47年)5月に、沖縄の施政権がアメリカ合衆国から日本国に返還されましたが、それまでは日本政府が琉球政府に直接、遺骨収集や納骨堂整備に関わる資金を直接交付出来なかったので、日本側は南方同胞援護会や沖縄遺族連合会が窓口となって推進されていました。

そうした南方同胞援護会や沖縄遺族連合会による遺骨収集や納骨堂整備、そして建碑運動の中で、沖縄遺族連合会による事前調査で、埋没壕について崩落等の危険があり、壕内での遺骨収集の実施が不可能だと判定された壕については、慰霊碑の建立をもって遺骨収集の代わりとするとされました。この様な埋没壕上の建碑運動により生まれた慰霊碑は、「悲風の丘」(南風原町)の他に、「真和の塔」「不抜の塔」「眞山之塔」(以上糸満市)の四カ所が挙げられます。

という事で、南風原陸軍病院壕趾の塔が立つ所の病院壕は、沖縄戦終結時もしくは戦後入り口や内部が落盤していたと考えられますね。即ち遺骨収集は為されていない状態のまま、壕内に入るのは危険とされたのだと思います。

令和年(2020年)1月12日/沖縄遺骨収集の様子no.14

「悲風の丘」と「南風原陸軍病院壕趾」の慰霊巡拝を終えたので、ここからは「飯あげの道」を辿りながら、ひめゆり学徒看護隊や衛生兵の人達の体験した苦難を、可能な限り再体験してみましょう。

と言いつつ、ご覧くださいませ。「飯あげの道」は完全に遊歩道として舗装されたり階段まで設置されていますので再体験というにはちょっと無理がありますね。但し山上から稜線を下る場面では、まだ往事の「飯あげの道」が残存していますので、少なからず当時のご飯運搬の困難さは再体験できるはずです。

令和年(2020年)1月12日/沖縄遺骨収集の様子no.15

稜線まであと少しとう段階で、ご覧のような急勾配となってきましたが、階段となっていますので滑ることもありません。因みに降り始めた雨の雨脚が少し強くなってきました。忙しいので階段も駆け上がります。

令和年(2020年)1月12日/沖縄遺骨収集の様子no.16

黄金森の稜線に到達しました。写真では解りにくいと思いますが、ここからは下り坂となります。遊歩道的な整備された路面はここまでで、ここからはご覧のように、往事を忍ばせる「飯あげの道」そのものとなっています。四方を見た印象では、稜線部が切土されているので、このルートは往事の道で間違いないようです。目の前にある下り坂は、今は雨が降っているので、ツルンと滑ったりしたらやっかいな事になります。(^^;)

令和年(2020年)1月12日/沖縄遺骨収集の様子no.17

と言いつつ目線を少し右に移すと、「雨天時はこちらをどうぞ」と木道が準備されていますよ。雨が降っている時は、階段を利用した方が安全かもしれませんね(^o^)

令和年(2020年)1月12日/沖縄遺骨収集の様子no.18

稜線に達したところはある意味十字路になっているのです。私が登ってきた道、そしてこれから下っていく道ルートと、左右に直交するルート、つまり稜線沿いに伸びる道ですね。

少し寄り道をします。十字路から、まずは右に行ってみます。ご覧のように稜線沿いに道となっていて、50メートルぐらい緩斜面を登っていくと黄金森の二番目に高い場所に出ます。12年前に平成20年に来た時は、頂上までしっかり草が刈られて道となっていましたが、今はご覧のように枯れ枝が落ちていたり、草が生い茂っているので、道とは思えない雰囲気となっています。

令和年(2020年)1月12日/沖縄遺骨収集の様子no.19

黄金森の一番高い山に到達しました。この山頂も12年前に来た時は、30メートル四方の範囲でしっかり草刈りが為されて、遠望が出来たのでピクニック気分で昼食を食べたくなるような雰囲気でしたが、今は木も伸び始めています。

令和年(2020年)1月12日/沖縄遺骨収集の様子no.20

稜線の元の位置に戻りまして左側を見ています。この道を進むと黄金森で一番標高の高い、標高85メートルの丘に出ます。また「仏ぬ前」の石碑がありますね。この道の奥に地域の方々が訪れる拝所があるようです。仏の前は「フトゥケヌメー」と読むようです。また陸上競技場への近道なのでしょうかね。

令和年(2020年)1月12日/沖縄遺骨収集の様子no.21

十字路各方面の確認が出来たので、それでは今から「飯あげ道」を降りていきましょう。稜線付近が一番勾配がきついです。ボーとしていると滑りそうなので注意して降りて行きます。

令和年(2020年)1月12日/沖縄遺骨収集の様子no.22

中間地点辺りになりますと勾配も少し緩くなりますね。ここまで来ると転倒リスクも小さくなります。それにしても沖縄戦当時は、樹林は全て砲撃で吹き飛ばされていたはずで、隠れながら前進するなどは不可能であったと思われます。艦砲弾が付近で炸裂すれば被弾は免れないという印象ですね。「飯あげ道」は、自分が丸裸であると認識せざるを得ない場所に感じられます。

令和年(2020年)1月12日/沖縄遺骨収集の様子no.23

山裾に伸びている舗装道路が見えてきましたね。道路に降りたら左に進むと20号壕があります。

令和年(2020年)1月12日/沖縄遺骨収集の様子no.24

転倒する事なく無事に山裾の舗装道路に出ました。写真突き当たりまで進むと20号壕のある場所にでます。

「陸軍病院20号壕」

令和年(2020年)1月12日/沖縄遺骨収集の様子no.25

「陸軍病院20号壕」はこの建物の横にあります。建物は壕見学受付業務とか保守管理をする為の施設です。

令和年(2020年)1月12日/沖縄遺骨収集の様子no.26

「陸軍病院20号壕」です。山裾に壕口が穴が開いているだけと思われた方も居られるでしょうが、壕口はご覧のように建物の様になっています。サッシの扉を開けると壕口があります。

壕口になぜ扉を設けているのかと言うと、壕内通路の湿度と温度を一定に保つ為のようです。壕口はここと裏手にもう一カ所ありますが、壕の坑道はほぼほぼ直線的になっている事から風通しが非常に良い状況です。壕内を乾燥した強い風が通れば、あっという間に壕通路の壁面や天井面の土が乾いてしまうでしょう。その結果表面の土が剥落してしまう恐れがあります。結果として火炎放射、撃を受けたと思われる壁面の黒い煤なども落ちて無くなってしまい、展示価値を損なう原因となり得ますので、出入り口を設けて温度と湿度を管理しているという訳ですね。

それにしても受付も含めて人の気配がありません。どうしたのでしょうか?

令和年(2020年)1月12日/沖縄遺骨収集の様子no.27

ギリギリ読めますね。

令和年(2020年)1月12日/沖縄遺骨収集の様子no.28

「壕の中に一度に入る人数は10人以内です」と書かれた項目があります。これも壕内の気温や湿度を一定に保つ為の措置だと思えます。

令和年(2020年)1月12日/沖縄遺骨収集の様子no.29

壕内の展示物等を紹介している掲示板です。ギリギリ読めますね。

令和年(2020年)1月12日/沖縄遺骨収集の様子no.30

「陸軍病院20号壕」施設の全景です。本来はこちら側から訪問するのが一般的なようです。

今から12年前の平成20年(2008年)に、開設して間もない「陸軍病院20号壕」を見学した記録がありますのでご紹介致します。内部を撮影しても良いとの了解が得られたので、何枚か内部空間を撮影していますので、ご覧くださいませ。

《過去の参加記ご紹介》

令和年(2020年)1月12日/沖縄遺骨収集の様子no.31

与那原や中城湾方面を見ています。南部へ撤退する日本軍将兵は、眼前に見える現在の国道77号線等の道路を利用して転戦を続けたのでしょうか。

令和年(2020年)1月12日/沖縄遺骨収集の様子no.32

「沖縄陸軍病院24号壕」です。近づいてみましょう。

令和年(2020年)1月12日/沖縄遺骨収集の様子no.33

入り口は完全に落盤していますね。昔壕口であったという雰囲気も、掲示板を見ないと解らない程ですね。

令和年(2020年)1月12日/沖縄遺骨収集の様子no.34

「沖縄陸軍病院24号壕」掲示板です。ギリギリ読めますね。この付近に第一外科壕群が散在していたようですね。

令和年(2020年)1月12日/沖縄遺骨収集の様子no.35

ここからは帰り道です。南風原文化センターの駐車場まで戻ります。往路は本来の「飯あげ道」を通ってきたので、復路は設置されている木道階段を歩いて帰ります。

令和年(2020年)1月12日/沖縄遺骨収集の様子no.36

勾配を緩くする為でしょうか、階段は横にも伸びています。

令和年(2020年)1月12日/沖縄遺骨収集の様子no.37

階段の勾配が急になってきました。最後の登りですね。

令和年(2020年)1月12日/沖縄遺骨収集の様子no.38

木造階段を登り終え稜線を超えて、今度は下りになりました。

令和年(2020年)1月12日/沖縄遺骨収集の様子no.39

あと少しで南風原文化センターです。如何でしたか? 南風原にある南風原文化センターを起点とした戦争遺跡を、機会があればぜひご覧になってくださいませ。(^o^)

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