令和02年(2020年)沖縄遺骨収集奉仕活動

1月13日(月) 慰霊巡拝

本日の天気予報は曇り、降水確率午前20パーセント、午後30パーセントです。また最高気温19度です。頑張ります。まず朝一番で「白梅学徒看護隊之壕」「八重瀬の塔」「勢理城/富盛の石彫大獅子」を慰霊巡拝します。その後非公開の調査・遺骨収集奉仕活動です。ご免なさい。(^o^)

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.1

遠くに山稜が見えますが、右側が与座岳です。少し解りにくいですが、航空自衛隊与座岳分屯基地の白いレーダーサイトも見えています。山稜の左端は八重瀬嶽ですね。

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.2

サトウキビの花ですね。ご存じのようにサトウキビは沖縄県特産である黒糖の原料という事になります。イネ科サトウキビ属の植物で、沖縄の方言では「ウージ」と呼ばれるそうです。THE BOOMが歌う「島唄」の歌詞にも、「ウージの森であなたと出会い、ウージの下で千代にさよなら‥」という部分がありますよね。

サトウキビは沖縄県の基幹作物になっているそうで、農家の7割以上が栽培し耕地面積の約5割、農業生産額の約2割を占めるという、沖縄の基幹作物となっているそうです。サトウキビは沖縄で一番多く栽培されているという事のようです。これは意外でしたね。それはともかく、この幻想的なサトウキビの花は12月頃から咲き始めますが、糖度が増しましたよ~、収穫してくださ~い!という合図なんだそうで、この花が咲くとサトウキビの収穫が開始されるそうですよ。(^o^)

「ハーメーチヂン」

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.3

「ハーメーチヂン」の解説板です。問題なく読めますね。面白そうなので立ち寄ってみましょう

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.4

ごく小さな丘という雰囲気の場所でしたから、50メートルぐらい緩斜面を登ったら、ご覧の場所に到達しました。この風景のどこかに石灰岩が氷柱のようになっている場所があるはずです。そこが「ハーメーチヂン」と呼ばれるみたいです。

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.5

お墓でしょうかね。

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.6

無いですね~。「石灰岩の巨岩があって、その一部をたたくと音が出る‥」と書かれていますから、大きな岩が目標なのですが‥。よく考えたら岩を叩いて探せば早期に見つかるかもしれませんが、叩く道具が無かった。

因みに遺骨収集をやっている時に鍾乳石の氷柱を叩いたら音が出たというのは、これまで何度か体験しています。今回もすでに与座で音の出る鍾乳石の氷柱に出会っています。氷柱状の鍾乳石の内部が空洞になっている為に、低い響くような音が出るという訳です。

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.7

見つかりませんでした。残念。お墓に手を合わせ下山します。

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.8

坂道を降りているところです。最初にご紹介した与座岳や八重瀬嶽がよりハッキリと見えますね。両山上を守る日本軍に対し、米軍は写真手前側から攻めていったという事になります。写真で見る限り標高差をあまり感じませんが、近づくと上から狙われる‥。みたいな想像以上の標高差を感じる事となります。

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.9

見たことのある木の葉だなと思ったので車を止めて観察してみました。これは桑畑ですね。

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.10

目立って成長している桑の木を選んで撮影しました。正に桑の葉ですね。

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.11

地面からの高さが見た目60センチぐらいでしょうか。その位置を切り株部分として毎年管理しているようです。因みに桑の葉は養蚕のカイコが食べる葉なのですが、沖縄で養蚕が為されているというのは聞いた事がないですね。ネットで検索すると、やはり養蚕の為ではなく、桑茶生産の為に育てられているのですね。

島言葉で「クヮーギ」「ナンデンシー」と呼ばれる沖縄在来の品種である「島桑」は、健康に良い植物として親しまれて来たようです。特に島桑は、血糖値の上昇を抑える成分が豊富に含まれているそうですよ。(^o^)

《過去の写真ご紹介》

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.50

【平成28年(2016年)5月29日(日)撮影】金城町石畳道の坂を登っていると、見たことのある葉だな…。と思ったら、やはり関東ではよく見ることのできるクワでした。ただ下に説明が書かれていて、「シマグワ」と書かれていまして、沖縄では「クワギー」と呼ぶそうです。関東では養蚕でこのクワが使用されますから、畑に植えられているのを見た方も多いと思いますね。

2016年5月29日/首里城周囲慰霊巡拝の様子 NO.51

「シマグワ」の幹の様子です。やはり本土のクワとは枝振り等が少し違いますね。

過去写真掲載はここまでです。

「白梅学徒看護隊之壕」

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.12

八重瀬町にある「八重瀬公園」の案内板です。

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.13

八重瀬公園内には「白梅学徒看護隊之壕」があるので、駐車場横にはご覧のような掲示物があります。

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.14

「第24師団第一野戦病院と白梅学徒隊」のタイトルで解説が為されています。

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.15

「白梅学徒隊の軌跡」です。

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.16

「白梅学徒隊足跡図」です。テキストに起こしてみました。白梅学徒看護隊の軌跡が理解できると思います。

白梅学徒隊(沖縄県立第二高等女学校)

沖縄県立第二高等女学校の前身は、1905年(明治38年)那覇市に設立された女子講習会(同年私立那覇女子技芸学校となった)で、その後変遷を経て、1928年(昭和3年)に沖縄県立第二高等女学校になりました。

1945年(昭和20年)3月24日、生徒たちは東風平村(現八重瀬町)富盛の八重瀬岳に置かれていた第二四師団第一野戦病院に配置されることになりました。生徒の仕事は、負傷兵の看護や手術の手伝い、水汲み、飯あげ、排泄物の処理、死体埋葬などでした。

その後、5名の生徒が具志頭村(現八重瀬町)新城の自然洞窟(ヌヌマチガマ)の新城分院に配置されましたが、米軍が迫ってきたため、6月3日、分院は閉鎖されました。6月4日、病院長から野戦病院の解散命令が下され、生徒達はそれぞれ数名ずつ班をつくって南部へと向かいました。

6月9日、一部の生徒は国吉(現糸満市)に到着。18日に国吉一帯で米軍による猛攻撃が始まり、辺りは一大殺りく場と化し、21日と22日に壕が馬乗り攻撃を受け、多数の死傷者を出しました。国吉に行かなかった生徒たちは、砲弾が炸裂する中で死の彷徨を続け、ほとんどの生徒が6月下旬に米軍に収容されました。

平成28年3月 沖縄県子ども生活福祉部平和援護・男女参画課 

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.17

これらの掲示板の右側にご覧のような階段があり、奥まったところに「白梅学徒看護隊之壕」があります。一番右の階段は公園の多目的広場に至る階段です。

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.18

第24師団(山部隊)第一野戦病院本部壕及び手術壕では、「白梅の塔」でも紹介している県立第二高等女学校の学徒隊が看護活動を続けた場所でもあります。第一野戦病院には、軍医・衛生兵・看護婦など200人以上が配置され、白梅学徒隊46名も加わり手術の手伝いや看護、汚物の処理、死体埋葬などの作業に当たりました。

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.19

階段を上り終えますとご覧のような狭い通路があります。

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.20

大きな岩が真っ黒に焦げていますよね。艦砲砲弾などが着弾した跡かもしれませんね。黒色の度合いが、昔と比べてずいぶんと薄くなりましたね。

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.21

壕口が見えてきましたが、何やら「立ち入り禁止」看板らしきものがみえます。いやな予感が‥。

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.22

ガーン、やはり立ち入り禁止看板です。崩落の危険なんて、まだまだ先の話だと思えますが‥。この様に崩落の危険があるからと、最近はあちこちの壕で立ち入り禁止の措置がとられるようになってきました!!

ここが「陸軍第24師団(山)第一野戦病院手術壕」入口です。壕の呼称は沖縄戦当時「上の壕」とも呼ばれていました。壕は構築壕ですが、出入り口については地域の霊場として風葬墓であったかもしれません。そこから拡張構築された壕かもです。本壕は出入り口が二カ所あります。ここは駐車場側の出入り口ですね。入ってすぐ右側が手術室です。前線で負傷した将兵は手術を受けるために、入り口付近は長い患者の行列が出来たと言います。順番を待つ間に亡くなった方も多かったそうですよ。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

《サイトご紹介》

壕口に立ち入り禁止看板がある以上、中に入るわけには参りません。立ち入り禁止看板がまだ無かった、今から二年前の平成30年(2018年)1月17日の参加記で壕内を撮影した写真がありました。再掲載しますのでご覧くださいませ。(^o^)

《過去の写真ご紹介》

2018年1月17日/遺骨収集の様子no.8

壕に入って6メートルほど進むと、右側に小さな小部屋のような空間がありますが、この空間が手術室だったと言われています。手術の為のベットその他手術備品などの配置をイメージするとそれほど広くはないですね。手術室がむしろ狭いと感ずるぐらいです。

2018年1月17日/遺骨収集の様子no.9

手術室から戻り、本坑道を進んでみましょう。壕入り口からみて左側に曲がっています。

2018年1月17日/遺骨収集の様子no.10

壕は構築壕ですから縦横一間×一間以上の空間があります。平坦ではなく勾配が結構きついですね。坑道の左右には二段ベットが設けられ、手術を終えた患者さんらが横たわっていたと思われます。

2018年1月17日/遺骨収集の様子no.11

50メートルも進まないうちに、坑道は右側に曲がっています。空間は少し狭くなっています。奥の方に出入り口が見えますね。

2018年1月17日/遺骨収集の様子no.12

一緒に入壕した菊池さんが立っておられるので、壕空間の大きさが解りますね。ギリギリ立って歩ける状況です。

2018年1月17日/遺骨収集の様子no.13

壕の壁面を撮影しています。煤で黒くなっている部分は沖縄戦当時のままの姿です。激しい馬乗り攻撃を受けた事が想起されます。そして左側の白い部分は沖縄戦当時の岩肌が剥落しています。風がよく通り岩肌が乾燥してしまうのか、壕内至る所で同じように剥離しているのが目に付きます。昔はこうした状況にはありませんでしたから、岩肌の風化が進んでいるとみて間違いありません。剥離部の厚みは、ごく薄いので落盤に至る恐れはありませんが、戦跡の存続を脅かす事態である事は間違いありません。

ところで南風原の一般公開されている20号壕では、壕の入り口と出口に引き違い戸を設けて気温や湿度を一定に保つように工夫して、壕内環境の安定化を図り、それにより風化による劣化を防ぐ努力をしています。

2018年1月17日/遺骨収集の様子no.14

こちら側がもう一方の出入り口です。周囲の地形から、この出入り口は容易には見つからないという好条件の出入り口です。

過去写真の掲載はここまでです。

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.23

壕口は二カ所あると書きました。しかし立ち入り禁止なので外からグルッと回って、もう一カ所の壕口を見てみましょう。写真中央部の通路になっている部分から入っていきます。この写真風景は駐車場前の道路から見えますのでね。見学したいという場合は探してみてください。

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.24

ここが壕口です。道路から近いですよ。50メートルも進まない内に見えてきます。因みに、この壕口は上空を飛ぶグラマンなどからは絶対に見えない絶妙な位置に口が開いています。

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.25

壕内部は少し見えにくいですが、坑道が緩やかに右側に曲がっています。

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.26

この写真は、八重瀬公園駐車場から見える風景を撮影したものです。ごくありがちな普通の風景ですが、沖縄の古墓なのです。駐車場から歩いてゼロ分、しかも風葬骨もしっかり残存しているなどというのは、極めて貴重な存在です。僕は何時かは移設もしくは閉じられてしまうのではないか?と推測しています。ぜひそうなる前に、皆様も一度ご覧くださいませ。気軽に古墓の中を見学できる場所は早々ありません。古来よりの風習の一つが残る、沖縄旅行の貴重な一つの体験として有意だと考えます。

因みに、この写真に写されている古墓は30年ぐらい前から今日まで、外も中も一切人為が加えられた形跡がありませんので、所有者不明の古墓になっているのだと思われます。

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.27

古墓の中を見ています。瓶が見えますね。そして白い風葬骨も‥。私は一個の石も移動していませんよ。30年ぐらい前から古墓の中が見える状態になっているのです。
この古墓の構造は背後のしっかりした岩盤を利用し、前面は石を積み上げてお墓とした様です。内部空間は畳一畳分ぐらいの広さが確保されているのが見て取れます。

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.28

風葬骨も長い歳月を経て、ごく少量になっているのが見えます。大腿骨などの足のとか腕の骨などの大きい骨が残っているようです。元々はこの瓶は大人の人骨一体分が入る大きさで作られているようです。割れているので瓶の全体像は解りにくいですけどね。写真に写されている瓶は、南部島尻地域で見られる一般的な風葬骨を納める瓶と言えるでしょう。一方沖縄でも首里や中部に行くと、瓶も豪華な装飾が為された厨子甕(ずしがめ)と呼ばれる瓶が用いられたようです。浦添の古墓で一度そうした装飾の施された厨子甕の蓋を見た事があります。

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.29

八重瀬公園駐車場から崖下を見ています。金光教の遺骨収集の時代に、この写真に写されている範囲内ぐらいの位置で、私も完全一体とは呼べませんが、初めて収骨すると思われる状態で、それなりにまとまったご遺骨を収骨しました。30年以上前の話ですが、あの頃は隠れるのに都合の良い大きな岩陰を見つけると、それなりの確率でご遺骨がありました。

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.30

八重瀬公園駐車場から那覇や首里方面を見ています。

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.31

おもろまち新都心エリアに建つランドマークビルと言える、地上30階建のツインタワーマンションThe EASTとThe WESTが見えますね。少し望遠側で撮影しています。

「白梅学徒看護隊の壕」や沖縄の古墓の見学を終えたで、

「八重瀬グスク跡」

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.32

「本殿跡」と書かれています。写真奥の方に八重瀬グスク本殿があったようですね。八重瀬町教育委員会の案内板がありましたので転載させて頂きます。

八重瀬グスクは一名富盛グスクとも呼ばれ島尻の世の主、八重瀬の按司の居城であったと伝えられ、今から約600年前に築かれたのではないかといわれている。このグスクは標高105mから125mの間にあり、八重瀬岳とは地形的に上・下の位置関係にある。グスクの面積は4,231㎡で内部には石で囲まれた郭があり、本殿跡・蔵当(クラトウ)・物見台といい伝えられたところがある。
現在でもグスク内には「城火の神」「ナカジク火の神」「グスク井泉」と呼ばれる三カ所の拝所・井泉があり、又「カニカマルー」の伝説や民話などが残されており村人たちの深い信仰の場になっている。

平成18年2月1日  八重瀬町教育委員会 

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.33

「本殿跡」の奥の方に歩みを進めますと、拝所のような場所がありました。「城火之神」と書かれた立て札があります。因みにグスクには水源が付近に必ずありますから、掲示されていた「城ガー」という名称の水源又は井戸を探したのですが、ちょっと見当たりませんでした。残念です。

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.34

八重瀬町にある八重瀬岳山頂と思われる場所を撮影しています。町名の由来となった地でもあります。標高は163mだそうです。一応山ですから山頂と表現しましたが、山頂がある訳ではありません。北側から撮影するとご覧のように山に見えますが、山上には陸上自衛隊八重瀬分屯地という基地があるのですが、その基地内に立てば山はどこにも見えないはずです。

なぜこのような地形になるのかと言うと、この地域一帯の石灰岩で構成される平坦面が、活断層活動により切断された傾動地塊となっているからであり、南側は緩やかな傾斜面、北側は断層崖という地形となります。結果として古城の南側が緩やかな傾斜となり集落が発展し、北側の断層崖の崖上にグスクが立地するという共通性があります。

そうした観点では、八重瀬嶽から与座に掛けての崖は特徴的ですよね。因みに崖が東西に延び連なっている地形は島尻方面にもありますね。「魂魄の塔」から喜屋武岬灯台まで連なる断層崖も同じ事が言えます。こうした崖部分に沿うように古城が作られました。例えば高摩文仁グスクから西側を見ても、ガーラグスク、米須グスク、石原グスク、波平グスクなどが規則正しく並んでいます。ここ八重瀬岳でも崖上に八重瀬グスクがありました。

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.35

遊歩道になっていますが階段がありました。まだ上に行けそうなので、行けるところまで行ってみましょう。この写真からもう少し登った所で行き止まりとなっていました。

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.36

八重瀬公園遊歩道で一番標高の高い場所で、再度おもろまちにあるツインタワーマンションThe EASTとThe WESTを撮影してみました。するとツインタワーの背が少し高くなりましたよ。私が今立っている場所は、八重瀬公園駐車場より標高が40mから50mぐらい高くなったからですね。(^o^)

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.37

駐車場に戻る事にしました。公園内を散策しながら歩みを進めました。

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.38

駐車場と多目的広場を結ぶ遊歩道まで来ました。遊歩道の両脇に植えられているのは桜の木です。両脇の桜が全部開花したら感動的な風景になるのでしょう。実は八重瀬公園は桜の名所でもありますね。その桜祭りは地域一番のイベントとして盛大に開催されるとの事。桜の夜間ライトアップやイルミネーションが施され、厳かな夜景と共に花見を楽しむ事が出来るそうですよ。(^o^)

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.39

桜は現時点でほとんど蕾ですが、一番咲いている場所を選んで撮影してみました。ピントが外れてしまってますが、色合いは確認できます。

八重瀬公園は桜の名所で毎年桜祭りが開催されるという話が出ましたので、平成24年(2012年)の遺骨収集で松永さんと共に、第6回やえせ桜祭りを見学した時の写真があるので、ここに転載しご紹介致します。(^o^)

《過去の写真ご紹介》

やえせ桜まつりの様子29

【第6回やえせ桜まつり/平成24年(2012年)撮影】
本土と同じように今年の沖縄はとても寒くて桜の開花も大幅に遅れました。ご覧のように桜は一分から二分咲きといったところでしょうか。

やえせ桜まつりの様子30

天候にも恵まれ大勢の人たちで賑わうさくら祭り会場の様子です。

八重瀬町は東風平と具志頭が市町村合併して生まれました。さくら祭り全体を通して合併した町民の懇親を深めるための演出を強く感じましたね。寒い冬から解放され綺麗な桜の花の下で、子供からお年寄りまで楽しめる各種アトラクションが用意され、イベントに参加したり観覧したりそれぞれの立場で終日楽しめるよう配慮されている印象でした。(^o^)

やえせ桜まつりの様子31

ご存じピーマンですが、大きいですね~。飛ぶように売れていました。

やえせ桜まつりの様子32

子供向けのシーサー作成教室といったところですね。沖縄らしいイベントですね。

やえせ桜まつりの様子33

作業する机の上は大変なことになっていますが、粘土を整形するところからスタートしていますから、完成した時はきっと嬉しいでしょうね。きっと良い思い出になるでしょう。

やえせ桜まつりの様子34

彼らの “作品” を紹介しますよ。可愛い顔をしていますね~。(^o^)

やえせ桜まつりの様子35

ユニークな顔のシーサーが次々に生まれていますね~。

やえせ桜まつりの様子36

子供の発想の豊かさを改めて感じますね。

やえせ桜まつりの様子37

この「シーサーのルーツ」を見ると、シーサーはエジプトがルーツであり、イスラムの中東を経て東南アジア、そして沖縄へと伝わったみたいですね。勉強になりました。

やえせ桜まつりの様子38

歌謡コンテストと銘打ってカラオケ大会が開催されています。皆さん歌がとても上手でしたが、それ以上に司会者の現地語を交えた軽妙な語りで会場を沸かせていた司会者が印象的でしたね。右側に立っている方が司会者です。

やえせ桜まつりの様子39

メインステージ前には、雨に備えてのテント付きの観覧席がもうけられていました。地元のお年寄りなどを招待しているみたいですが、踊りなどのイベント用の服装をしている方も居ましたから、観覧したりイベントに参加したりと見て踊って楽しんでいる雰囲気でしたよ。

やえせ桜まつりの様子40

出店も沢山出店していましたから販売されている食べ物は豊富でしたね。奥の方に見えるのは子供向けのさながら移動遊園地といった感じで、子供が楽しめる施設が設置されていました。

やえせ桜まつりの様子41

獅子舞の様子です。こんなに近くで沖縄伝統の獅子舞を見るのは初めてですが、かなり迫力がありました。

やえせ桜まつりの様子42

よく観察すると独特の動きがあり、この動きのパターンも多かったです。

やえせ桜まつりの様子43

この姿勢も獅子舞君のお気に入りの体勢みたいですよ。(^o^)

やえせ桜まつりの様子44

やえせ桜祭りのメインイベントと思われる大綱引きが始まったようです。東西から大きな大蛇に見立てたと思われる綱を大勢の人たちが担いで登場しました。東西の綱は男綱・女綱と呼ぶらしく、女綱を扱うときは優しく、男綱は粗々しく…。というようなイメージで綱を操るのだそうです。

やえせ桜まつりの様子45

綱は蛇に例えられるのでしょうかね。場内を蛇がクネクネするように練り歩きます。

やえせ桜まつりの様子46

東西の綱がここで合体しましたが、棒が男性のシンボルに見立てどうやら男女の合体をも意味するようです。実際にそのようにアナウンスしていましたが、もちろん神事という意味ですから、神聖な行事という意味です。時間をかけ神妙に作業が進められました。日本の祭りにはそうした男女の絡みを含めた祭りが多いですね。

やえせ桜まつりの様子47

大綱引きは準備が完了した時点で一度休止し、棒術の演舞が始まりました。

やえせ桜まつりの様子48

沖縄は空手が盛んであるのはよく知られていますが、伝統の棒術も様々な武器が登場し、また演舞のいろんな型があるようですよ。

やえせ桜まつりの様子49

複数の団体が参加している印象です。各地域に伝統芸能を守る組織があるのかもしれません。

やえせ桜まつりの様子50

単独で演舞したり、複数人で演舞したり、また動作も実に多彩です。

やえせ桜まつりの様子51

後ろ姿で少し解りにくいのですが、沖縄県自由民権運動の父、謝花昇先生を讃えるデモストレーションです。謝花昇先生「東風平謝花」と称えられて県民の尊敬を集め、地域の英傑として現在でもこのように地元のイベントで顕彰されているのですね。

やえせ桜まつりの様子52

こちらは、汗水節を書いた仲本稔先生を讃えるデモストレーションです。「汗水節」は働く喜びを歌い、社会奉仕を説く沖縄の代表的な教訓歌で、沖縄県人の社会生活向上運動に貢献し、現在でもこうして謝花昇先生 と共に地元で顕彰されているようです。

やえせ桜まつりの様子53

やえせ桜祭りのメインイベントである大綱引きが始まりました!。写真では紹介できませんが、見物する町民の皆さんも大きなかけ声を発して、会場が大きな歓声に包まれながら燃え上がりました。(私は決着がつく前に那覇空港に向かいましたが、結果は一勝一敗だったようです。また祭りの最後には、字富盛青年会のエイサーが演舞されたそうです。見たかったな~。)

過去写真掲載はここまでです。

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.40

とある壕口を写しています。よく見ると水道工事で使用する塩ビ管が少し見えますね。壕口を埋める際に用いたものです。例えば木材で壕口を塞ぐと、10年後とかに腐って再び壕口が露出してしまう恐れがありますが、塩ビ管は腐る事がありません。

因みに写されている壕は、第24師団(山部隊)第一野戦病院本部壕です。別名「下の壕」とも呼ばれていた壕です。この壕の所在場所を知っている方は少ないかもですね。本部壕は収容人員500名と最初にご紹介した案内板には記載されていましたね。500名とは結構大きな壕です。ここは「下の壕」ですから、当然「上の壕」もある訳ですが、「上の壕」は最初に見学した手術壕がそれですね。

病院長:安井二郎軍医少佐が病院長で以下軍医、衛生兵186名、陸軍看護婦や補助看護婦、そして46名の(白梅学徒看護隊員が配置されていました。そして戦況の悪化に伴い6月3日には新城分院や東風平分院に居た白梅学徒看護隊員も、ここ本部壕に引き上げていましたが、6月4日には本部壕も又閉鎖される事となり、白梅学徒看護隊員にも非常呼集が掛かり解散命令が下されました。学徒らは戦野を彷徨するかのように、それぞれ数名ずつ班を作って南部に向かいました。一部の学徒は「白梅之塔」横の病院壕に合流した後に、米軍の馬乗り攻撃を受けて戦没されたとの事です。

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.41

もう一つの壕口を撮影しました。こちらの方が塩ビ管がよく見えますね。私も昔三カ所の壕口を見ていますので、更に前方に進むともう一カ所あるはずです。以前壕口から内部空間を見た時に感じましたがが、内部空間の通路はしっかり広さ高さが確保されていて、かなり動きやすい印象を持ちました。

本部壕は、元々は壕口が四カ所あったとう話です。内部坑道は縦横に走り、本部をはじめ病室や薬局、そして炊事場等が配置されていました。下の壕で調理された食事を上の壕に運んでいたようです。食事の運搬は白梅学徒看護隊が行いました。食罐5つ6つ肩に掛けて運ぶという、命がけのかなり危険な作業だったようです。

今回は時間が無いので三つ目の壕口を探すのはパスです。ネットで調べても本部壕の中の様子は出てきません。私も本部壕の中には入った事がないので、機会があれば見学したいですね。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

2014年6月と言いますから、今からの琉球新報の記事に、第24師団(山部隊)第一野戦病院本部壕の内部調査が為され、壕の構造の詳細が判明したという記事がありましたので、ご紹介させて頂きます。(^o^)

八重瀬・第一野戦病院本部壕 構造の詳細判明

【琉球新報】平成26年(2014年)6月5日

〇沖縄戦で白梅学徒隊が看護要員として動員され、戦後、落盤により立ち入りが困難だった第24師団第一野戦病院跡(八重瀬町富盛)の本部壕の内部調査が行われ、構造を詳細に描いた見取り図が4日、公表された。

これまでは元衛生兵が記憶に基づいて描いたスケッチや、1977年に厚生省(当時)が行った遺骨収集の際に作成された概略図などしかなかった。専門家は調査成果について「詳細な見取り図で非常に貴重な戦跡が残っていることが判明した。安全対策を施し、本部壕を保存・活用すべきだ」と話している。

白梅同窓会の依頼を受けた沖縄平和ネットワーク文化財・ガマ部会が2012年12月から内部調査を進めていた。同日、元学徒らに作製された壕内の見取り図や遺留物について説明した。

同窓会の中山きく会長(85)は「ちょうど69年前の6月4日、この本部壕で解散命令が出された。見取り図は私たちの記憶を補うだけではなく、沖縄戦を語り継ぐ上でも非常に重要な資料になる」と話した。

調査結果によると、本部壕の内部は東西約70メートル、南北約40メートルに広がる。八重瀬岳の北の斜面に四つ、北東に一つ、計五つの入り口があった。

それぞれの入り口から坑道が南側(第1~4坑道)と南西側(第5坑道)に延びており、中で東西の二つの坑道に交差し、つながっていたことが確認された。

調査開始時は落盤でどこに入り口があるのかも不明だったが、第2、第4坑道の上部から穴を開けて進入。第3坑道と、第2坑道の南半分を除くエリアを計測し、図面化した。

当時は坑道に沿って負傷した兵士が寝かされており、2段ベッドの骨組みとみられる木材、未使用の薬品アンプル、薬ビン、茶碗、軍靴なども見つかった。

白梅学徒隊は県立第二高等女学校の生徒で編成され、動員された56人のうち、22人が死亡した。第一野戦病院には、ほかに手術場壕(上の壕)、新城分院(ヌヌマチガマ)などがある。

同窓会では本部壕の見取り図などを記載した説明板を近くに設置したいとしている。内部調査後に再び入り口がふさがり、入れなくなっている。(安田衛)

「琉球新報」から転載させて頂きました

第32軍は5月末に首里戦線から喜屋武半島に後退し、玻名城、八重瀬岳、与座岳、真栄里を前線とする東西8キロ、縦深4キロの主陣地帯を構成した事もあり、島尻一帯は首里に次いで激戦が展開された場所である事はご承知の通りです。特に八重瀬岳の東側は平坦地となっており、戦車機動が為されやすい事から、ここからの米軍進入を許すと、極めて短期に摩文仁が攻略されてしまう恐れがある事から、守備の最も重要拠点として独立混成44旅団が布陣し防御の任についていました。米軍の反撃が6月6日始まって以降6月中旬ぐらいまで、ここ八重瀬岳周辺は米軍の激しい砲爆撃に曝されて、日本軍将兵の多大な犠牲者が出ました。それではご一緒に八重瀬岳の麓にある「八重瀬の塔」を慰霊巡拝しましょう。

「八重瀬の塔」

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.42

県道52号線沿いの八重瀬公園の入り口付近に「八重瀬の塔」はあります。

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.43

参道は途中で踊り場がありました。

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.44

この階段を登ると到着です。

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.45

「八重瀬の塔」(東風平町字富盛/昭和24年6月建立・昭和43年5月改築)です。戦後富盛の方々が付近に散乱するご遺骨1500余柱を集めて祀ったものです。

下掲の碑文をお読み頂くと解りますが、「八重瀬の塔」は元々終戦後東風平村(八重瀬町に合併する前の村名)の方々が、この地付近より遺骨を収集し同塔に納めた経緯があり、守備軍の慰霊塔ではありません。南部地域には地区毎に納骨堂と慰霊碑があるのが一般的です。そうしたなか、東風平村富盛地区の住民が、各戸より一名が参加して遺骨収集して、カマスで収骨所に運ぶ「骨拾い作業」をされて納骨した経緯があります。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.46

碑文です。汚れて読めないのでテキストに起こしてみました。
※碑文では、1,500柱と記載されていますが、その後2,050柱と確認されたようです。

八重瀬の塔碑文

首里戦線より撤退せる残存部隊とともにこの地に結集せる第二四師団隷下各部隊は南進を続ける優勢なる米軍に対し,勇戦奮斗傷病兵に至るまで善戦よくその任を全うせるも昭和二十年六月上旬この地に玉砕し悠久の大義に生く

終戦後東風平村民はこの地付近より一,五〇〇柱の遺骨を収集し慰霊塔を建立せしも,このたび南方同胞援護会の助成を得てあらたにこの地を画し塔を改修し,八重瀬之塔と名づけて永くその功を伝え英魂を弔う

昭和四三年三月 財団法人 沖縄遺族連合会 

「勢理城/富盛の石彫大獅子」

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.47

専用の駐車場が開設されたみたいですよ。昔は道路脇に駐車せざるを得ませんでしたが、これで安心して駐車できるので、ゆっくり見学できます。(^o^)

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.48

目的の狛犬(シーサー)の「富盛の石彫大獅子」は、重瀬岳の道路を挟んだ向かい側、その昔に勢理(じり)グスクがあった山上にあります。「富盛の石彫大獅子」は(ともりのいしぼりうふじし)と読みます。因みに『うふ』は、沖縄の方言で『大きい』を意味するそうですよ。「うふ、大きい」 と書くと何かいやらしいですね。(笑)

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.49

八重瀬岳を写しています。山上右側に崖のようになっている部分がありますが、崖部分辺りが八重グスクから撮影した時に写された場所ではないかと思われます。八重瀬岳山上には陸上自衛隊八重瀬分屯地があります。山上には自衛隊の居住棟と思われるコンクリート製建物が少し見えていますね。

6km程続く島尻陣地帯の山脈のながで、一番高い山が眼前にある八重瀬岳です。標高は183mです。北側の低地帯から見ると、ご覧の様にそびえ立つ様に立ちはだかっていて、その標高差は90mもあると言われています。攻め上る米軍側から見てその山稜の格好から、米兵はこの山を〝大きなリンゴ〟と呼んだそうです。

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.50

カメラをもう少し南側に向けて撮影しました。摩文仁方面に向かうに従い、急傾斜も緩くなっているのが見えますね。奥まった場所は安里方面です。主に独立混成44旅団が布陣した地域で、6月6日から中旬にかけて激しい激闘が繰り広げられた大地でもあります。

平成31年(2019年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.51

【沖縄県公文書館所蔵】
分類名:米国陸軍通信隊 沖縄関係
撮影地:(東風平町富盛)
撮影日:1946年 1月
写真解説:【原文】 Yaeju Dake Escarpment.
【和訳】八重瀬岳の急斜面

平成31年(2019年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.52

【沖縄県公文書館所蔵】
分類名:米国陸軍通信隊 沖縄関係
撮影地:
撮影日:1945年 6月14日
備 考:第96歩兵師団
写真解説:【原文】Riflemen of the 2nd Battalion, 381st Regiment of the Tenth Army's 96th Division, peer cautiously ahead as they advance across the summit of Yaeju-Dake escarpment (Big Apple Ridge) on Okinawa.
【和訳】警戒しながら八重瀬岳(ビッグアップル・リッジ)の頂上目指す第10軍第96歩兵師団第381連隊第2大隊のライフル兵。

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.53

「富盛の石彫大獅子」とご対面です。実に331年前に据え付けられた石彫大獅子に、久しぶりのご対面です。(^o^)

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.54

この大獅子は、火除け(火返し)として琉球王朝時代の尚貞王21年(1689年)に建立されたものです。高さ141cm 長さ175cmで1つの岩から彫られおり、沖縄に現存するシーサーの中で最も古いとされています。当初は牙があったそうですが、欠けてしまったようです。実際によ~く見ると、欠けたと思われる部位が確認できます。

大獅子はフィーザン(火山)といわれる八重瀬岳(嶽)に向けて建立されています。沖縄各地にある村落祭祀上の目的で作られた獅子の中でも最大最古のものであり、民族資料としても貴重なものであるといわれています。 1974年には沖縄県指定有形文化財に指定され,今は町のシンボル的存在となっています。

沖縄戦当時の富盛の大獅子88

比べて見て下さい。
米軍側が撮影した沖縄戦の写真で、「富盛の石彫大獅子」の周囲で、八重瀬岳に布陣する日本軍守備隊の動向を監視しているところです。

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.55

弾痕の跡が一致している様に見えますね。

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.56

こちらも弾痕の跡が一致している様に見えますね。

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.57

「富盛の石彫大獅子」設置の由来は、当時村中に不審火が多いことで困っていた富盛村の住民が、久米村の蔡応瑞(大田親雲上)に風水を占ってもらった結果、「八重瀬嶽に火の性がある。早く獅子の形を作って八重瀬嶽に向けて立てよ」と教えました。その助言を受けて設置されたと伝えられています。実際に火事はなくなったというので、村人たちは「良かったさぁ~」「嬉シーサー」と、喜んだそうです。(笑)

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.58

山上の広場から「富盛の石彫大獅子」を撮影しました。

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.59

山上崖上から八重瀬岳を見ています。樹林が邪魔して周りは見えませんが、沖縄戦当時眼前の木は無かったでしょうから、ここから見事に八重瀬岳が展望出来たと思われます。

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.60

野菜畑です。欠株も多く農家にとっては不本意な結果に見えます。それはさておき、何の野菜だと思いますか。?

サツマイモですね。沖縄では紅芋(又は紫芋)と呼ぶそうです。芋の色は一般的な黄色系ではなく紫色をしているそうです。紅芋はサツマイモと同じ様に、焼いたり、天ぷらにしたり、お菓子にしたりと、多彩な調理方法で食する事が出来ます。また沖縄土産の紅芋商品として空港で買い求めた方も多いでしょう。

沖縄戦が始まる前は、「沖縄はニューギニアなどと違い、甘藷(サツマイモ)とサトウキビがあるから、戦が始まっても心配ない」と言われていたそうです。実際にその通りで、かなりの部分サツマイモとサトウキビが避難民を飢えから救ってくれたと言えるでしょう。沖縄戦戦記本にも紅芋とサトウキビのお陰で飢えを凌ぐことが出来た‥。と書かれていたりします。またそんな話を沖縄戦生存者の方から直接複数人から聞いてもいます。

首里戦線が崩壊して以降、南部島尻に避難した民間人はもとより、転進してきた日本軍将兵も、畑に植えられていた紅芋やキャベツ、そしてサトウキビを食してそれなりに空腹を凌ぐ事が出来た様です。

沖縄戦では行政の指導の下、農家の方々が戦場を彷徨う同胞に、せめて畑の野菜は自由に食べてくださいという申し合わせが為されていたそうです。そうした経緯もあり、南部における避難民は野菜を盗むという気持ちを抱かずに、畑にある野菜を食する事が出来たのだそうですよ。

こうした経緯の様子が書き記されている本がありますのでご紹介します。「沖縄かく戦えり」です。著者は沖縄戦当時人口課長で島田知事と共に県庁の中枢に居られた浦崎 純と言う方です。(^o^)

《書籍ご紹介》

「沖縄かく戦えり」

浦崎 純著 (株)徳間書店 昭和42年(1967年)初版

(118ページ)
戦局がどうあろうと、行政の第一の責任は、住民を飢えから守ることだった。島田知事はそれに徹していた。そして指導は農村の人たちの間によく実行されていた。

夜間といっても空襲がやむだけで、艦砲や地上砲火はむしろ昼より激しかった。でも彼らはよくねばり続けた。一晩中フラリフラリと落下する照明弾が、彼らの作業に照明を与えてくれると喜んでいた。

こうした農村の人たちの、危険をこえた使命感と倦まない努力は、みごとに結実して、敗戦直後の食料危機に大きく貢献したことは、深く銘記さるべきだろう。

(121ページ)
挺身隊をはじめ、首里方面から後退してきた避難民の食料は、地元の部落常会の申し合わせで、どの畑からでも自由に取って食べることがゆるされた。これは村役場からの達しもあってのことだが、戦場にある同胞に、せめて食うものだけでも不自由させまいという農民の積極的な申し出もなされていた。

避難民は、わずかの食糧しか持っていなかったので、どう食いつないでいくかが心配だった。それだけに部落の人たちの温かい思いやりを心から感謝した。そして誰はばかることなく、大っぴらに、近くの畑から農作物をとって食べることができた。

四月二十七日の緊急市町村長会議での、島田知事の指示が見事に生かされたのである。

沖縄に防衛軍が駐屯しはじめてからは、農村の人たちは陣地構築に駆りたてられていたので、農作業にはあまり手が回らなかった。そこで月明かりや星明かりのもとで作物を育てあげたのだったが、その農民の汗の結晶が、同胞を飢えから救ってくれたのであった。

南部地区農民のこうした粒々辛苦の結実がなく、また同胞へ「食べて下さい」と温かい思いやりがなかったら、飢えにかられた避難民は、生きんがために盗みという暗い気持ちを味わいながら、人目をはばかって作物をとっただろう。その時のありがたさは、今も身にしみて忘れない。

「沖縄かく戦えり」から転載させて頂きました

今回は南埜さんという方をご紹介します。沖縄遺骨収集を基本一人で取り組まれている方です。国吉勇さんが引退された以降、取って代わるように沖縄のマスコミにも取り上げられるようになりました。

プライバシーに関わる事もあり、あまり詳しくは書けませんが、彼は本土の人間で沖縄で遺骨収集をする為に長く続けていた仕事を退職して、沖縄に移住された方です。客観的に見て南埜さんの遺骨収集への志は、引退された国吉勇さんと双璧を為すといっても過言では無いでしょう。

今から南埜さんが気の遠くなるような時間を投入して遺骨収集を続ける壕を見学してみましょう。「与座第二十四師団司令部壕」と言います。ただ今回は私一人で入壕するので、あまり深くは入れません。壕の入り口付近を見学するという程度です。

「与座第二十四師団司令部壕」について、私達は今次遺骨収集活動において、沖縄を離れる前に全メンバーで内部を見学させて頂こうという予定を立てています。その見学時に詳しくリポートさせて頂きます。繰り返しますが、今回はほんの触りという事でご理解お願い致します。(^o^)

「第二十四師団司令部壕」

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.61

壕口が見えてきましたね。

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.62

ここが「第二十四師団司令部壕」です。入り口の段階から、急傾斜で下っているのが見えますね。

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.63

壕口の横にある交通壕(塹壕)です。50mぐらい先にあるトーチカまで続いています。土砂が堆積して通路らしくありませんが、しっかりと構築された形跡が垣間見えます。

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.64

さあ壕の中に入りました。滑らないように注意しながら下っていきます。

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.65

壕口から入って10mぐらいの場所から振り返って壕口を撮影しました。

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.66

壕口から入って20mぐらいの場所から振り返って壕口を撮影しました。

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.67

壁面の様子です。摩文仁でよく見られるガチガチの石灰岩では無いので掘削は思いの外容易だったのではないかと推測されます。

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.68

壕口からすでに15mぐらい入ったところから撮影開始です。坑道右側に積まれている土嚢は、全て南埜さんがお一人で詰めて、奥の水平坑道内からここまで運び出して積み上げたものです。

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.69

遺品が結構出て来てますね。

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.70

坑道は直線的に更に下っています。坑道の空間も少し狭くなってきました。

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.71

この辺りで壕口を振り返っています。

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.72

強い風を感じますね。驚きです。坑道が左側に曲がっているのが見えてきました。構築壕ではこうした爆風よけで直角に曲げて設計しますよね。壕口からこのカーブまで、20mから30mぐらいでしょうか。?

今日は一人なので、先に進みたい思いはありますが、ここで止めておきます。改めて思うのは、膨大な時間を投入しているのが見て取れます。皆様も考えてみてください。40m~50m奥から、水分を含んだ重たい土嚢袋を一袋運び出すだけで、どれくらいの労力を要するか‥。ヘッドライト一つで暗い坑道を登ったり降りたりの繰り返し‥。目の前にどれくらいの土嚢袋が並べられているか。

写真をよくご覧くださいませ。土嚢袋は通路の中央辺りに置かれています。そして土嚢袋の背後には土砂が山のように積まれています。そうなんです。土嚢袋は積み上げた土砂が崩れない為に積み上げてあるのです。土嚢袋に入ってない土砂は、多分ソリで運んだのでしょう。背をしっかり伸ばせない窮屈な空間でソリを引き続けるのもまた腰に負担がかかりますし、何よりソリを黙々と引き続けるのは並の精神力では続けられるものではありません。

単独行動なので、ここまでで止めておきます。

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.73

「第二十四師団司令部壕」見学を終え帰路につきました。再びサトウキビの花を撮影しました。いつ見ても沖縄らしい風景です。(^o^)

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.74

オッ、道路左端に無人販売らしきものがありますよ。立ち寄ってみましょう。

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.75

結球レタスが販売されていました。(^o^)

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.76

結球レタスが三個入って100円という感じですね。市場に出せない野菜を無人販売向けにしているのか、又は家庭菜園をされている方が小遣い稼ぎで野菜を販売しているのか、定かではありませんが三個100円なら間違いなくユーザーにとってお買い得な印象です。撮影時刻は10時53分。日も高く昇っていますが、この時点で一個も売れていないようです。(^_^;)

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.77

「ありがとうございます。100円」と書かれているようですね。撮影料として100円入れてきました。(笑)

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