令和02年(2020年)沖縄遺骨収集奉仕活動

1月16日(木) 摩文仁海岸線で調査・遺骨収集

本日の天気予報は曇りのち雨、降水確率午前30パーセント、午後70パーセントです。また最高気温22度です。頑張ります。まず朝一番で「ひめゆりの塔」「赤心之塔」「梯梧之塔」「魂魄の塔」「有川中将以下将兵自決の壕」「ずゐせんの塔」を慰霊巡拝します。(^o^)

「ひめゆりの塔」

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.1

読めますね。篤志家たるハーリー・シンイチ・ギマ氏を顕彰している碑のようです。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.2

霊域に入ってすぐ左側に大きなガジュマルの木がありました。勿論戦後育ったガジュマルでしょうが壮観です。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.3

ガジュマルの古木には「精霊キジムナーが棲む」そうですよ。皆様も検索してみてください。(^o^)

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.4

ひめゆりの塔及び資料館などの施設案内です。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.5

ひめゆり学徒隊の軌跡を記したものです。動員・撤退・解散という三タイトルに絞って解説しています。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.6

「ひめゆりの塔の記」という碑文がありました。ひめゆり学徒隊の軌跡やひめゆりの塔設立の経緯が記されています。

【ひめゆりの塔の記】

昭和二十年三月二十四年、島尻郡玉城村港川方面へ米軍の艦砲射撃が始まった。沖縄師範学校女子部と沖縄縣立第一髙等女学校の職員生徒二百九十七名は軍命によって看護要員としてただちに南風原陸軍病院の勤務についた。

戦闘が激しくなるにつれて、前戦から運ばれる負傷兵の数は激増し、病院の壕はたちまち超満員となり、南風村一日橋・玉城村糸数にも病室が設けられた。看護婦・生徒たちは夜晝となく力のかぎりをつくして負傷兵の看護をつづけた。

日本軍の首里撤退もせまった五月二十五日の夜、南風原陸軍病院は重症患者は豪にに残し歩ける患者だけをつれて手を引き肩をかし砲弾をくぐり包帯をちぎって道しるべとしてここ摩文仁村に移動した。

南に下って後は病院は本部・第一外科・糸数分室・第二外科・第三外科にわかれて業務をつづけた。第三外科は現在のひめゆりの塔の壕にあった。

六月十八日いよいよ米軍がま近にせまり、看護隊は陸軍病院から解散を命ぜられた。翌十九日・第三外科の壕は敵襲を受けガス弾を投げこまれて地獄圖絵と化し、奇跡的に生き残った五名をのぞき職員生徒四十名は岩に枕を並べた。軍醫・兵・看護婦・炊事婦等二十九名民間人六名も運命をともにした。その他の豪にいた職員生徒たちは壕脱出後弾雨の中をさまよい沖縄最南端の断崖に追いつめられて追い詰められて多く消息をたった。南風原陸軍病院に勤務した看護要員の全生徒の三分の二がこうして最後をとげたのである。

戦争がすんで二人の娘の行方をたずねていた金城和信夫妻によって第三外科壕がさがしあてられた。真和志村民の協力により昭和二十一年四月七日最初のひめゆりの塔が建ち次第に整備された。沖縄師範学校女子部と沖縄縣立第一髙等女学校の職員十六名生徒二百名の戦没者を合祀して白百合のかおりをほこったみ霊の心をうけ、平和の原点とする。乙女らは涙と血とを流してえた体験を地下に埋めたくないと平和へのさけびを岩肌に刻みながらついに永遠に黙した。

いはまくら かたくも あらむ やすらかに
ねむれ とぞいのる まなびの ともは

ひめゆり学徒隊の軌跡が描かれた本は沢山出版されていますが、ここでは四冊をご紹介しています。ご紹介する五冊の初版日を見ますと、最初に出版された「プリンセス・リリイ」(ジョー・ノブコ・マーチン著)が昭和60年(1985年)で、最後の「ひめゆりの少女 十六歳の戦場」(宮城喜久子著)は平成7年(1995年)に出版されました。沖縄戦が終了してから40年とか50年の時を経て、ようやく体験談が出版されるに至りました。

恐らく戦後長く沖縄戦の話さえ口にするのが憚れたという時代が続いたのでしょう。語る事は級友を傷つける事になるという配慮もあったかもしれません。いずれにしても、戦後40年とか50年経過してやっと語る事が出来た、記述する事が出来たというのが実情であろうと思います。そうした心の葛藤に思いを馳せる時、著者のお一人お一人について言える事と思いますが、三ヶ月に渡る沖縄戦が如何に深刻な体験であったかという事の証左でしょう。語る事、本を出版する事、それはまた心の中に沈潜した深い傷を思い起こす事に繋がったであろうと、読み進める中でその痛みが此方にも伝わってくるようでした。

あの忌まわしい沖縄戦の事は忘れよう、二度と思い出したくないと沈黙を守り続けた生存者が、語り始める事となる大きな契機がありました。昭和57年(1982年)に「ひめゆり祈念資料館」の建設を同窓会にて決議したという流れが、学徒隊の皆さんの背中を押したようです。この動きがなかったら未来永劫、学徒隊の出版は為されなかった‥。と思えてしまいます。

「ひめゆり祈念資料館」の建設の過程で沖縄戦体験を伝えるという伝承事業に意義を見いだしたと言います。しかしながら、それはまた亡き学友の死が掘り起こされ、新たな悲しみを誘うという繰り返しであったようです。今はそうした皆さんの願いが叶い「ひめゆり祈念資料館」により、戦争の本当の姿を知り、改めて命の尊さ、平和の大切さを伝えて行く場となっています。

《書籍ご紹介》

「プリンセス・リリイ」

ジョー・ノブコ・マーチン著 新日本教育図書(株) 昭和60年(1985年)初版

著者はジョー・ノブコ・マーチンさんです。沖縄戦を自らの体験を元に、小説仕立てでの作品となっているのが特徴と言えるでしょう。ジョー・ノブコ・マーチンさんは、旧姓は与那城信子さんで沖縄で生まれ育ちました。戦後戦争花嫁として米国に渡りまして、英語で小説を書きたい一心で、ミシガン大学で学び三つの学位を取得したそうです。同著書はまず英語で書かれました。その後日本語での出版となったようです。日本語版出版に際しては、関係方面から記載内容について指摘を受けたり、出版を見合わせるよう要請された経緯があるようです。著者であるジョー・ノブコ・マーチンさんは、「この作品において戦争を描写したかったのではなく、戦争をバックグラウンドとして人間を描きたかった」と述べています。著者が語るようにこの本はフィクションであり、何処までがリアルであるのか戸惑いを持ちながら読み進めましたが、「思い出の記」に「新編 辻の華」(上原栄子著)の一節が引用されているのには驚きました。

 

「私のひめゆり戦記」

宮良ルリ著 ニライ社 昭和61年(1986年)初版

著者である宮良ルリさんも、6月19日陸軍病院第三外科壕において米軍によるガス弾攻撃で、多くの犠牲者が出た中で奇跡的に生還されたお一人です。そのガス弾が投げ込まれた時の阿鼻叫喚の地獄絵と化した壕内の様子や、生死を別けた壕内のその後の様子を生々しく活写されています。南風原陸軍病院での看護活動を書き綴る「脳症とウジ」では傷病兵への対応や手当、そして命がけの飯あげ、切断された手足を弾痕の中に捨てに行くなどの生々しい戦場の様子が描かれています。また戦場では生も死も紙一重であるのが良く解ります。山城本部壕がやられた後のひめゆり学徒隊員の軌跡がそれをよく表しています。いずれにしても、第三外科壕への米軍のガス弾攻撃に際しては、著者である宮良ルリさんは、「こんなところで死んでたまるものか。生きるのだ。生きるのだ。絶対に死なない。こんな洞窟の中で死んでたまるものか」と強く自分に言い聞かせたそうです。そして冒頭述べたように奇跡的に生還されたお一人である訳です。

 

「閃光の中で」 沖縄陸軍病院の証言

長田紀春/具志八重編 ニライ社 平成4年(1992年)初版

この本はひめゆり学徒隊に関わる著作ではありませんが、同隊員が居住した第三外科壕への米軍のガス弾攻撃について詳述しているのでリストアップしています。軍医見習士官長田紀春氏と第三外科婦長である具志八重氏の共著となっています。沖縄陸軍病院(球18803部隊)は、第一外科(外科)、第二外科(内科)、第三外科(伝染病科)の編成で戦傷患者の治療に当たりました。同著には長田紀春氏と具志八重氏の共著者以外に、36名もの看護婦さんや衛生兵の手記が掲載されています。従軍されたお一人お一人に、その人ならではの沖縄戦があるのだなと感じます。具志八重氏の手記では、6月19日陸軍病院第三外科壕では米軍によるガス弾攻撃で、壕内に居た96名(うち教師5名・生徒46名)のうち、87名が犠牲になりました。具志八重氏は第三外科壕から奇跡的に生還されたお一人ですが、そのガス弾が投げ込まれた時の阿鼻叫喚の地獄絵と化した壕内の様子や、生死を別けた壕内のその後の様子を生々しく活写されています。

 

「ひめゆりの少女 十六歳の戦場」

宮城喜久子著 (株)高文研 平成7年(1995年)初版

6月18日ひめゆり学徒隊への解散命令が出た後、引率していた仲宗根政善先生が生徒に、「解散命令が出たので、壕から出ないといけなくなった。目立たないように何名かずつ組を作って行きなさい。なるべく出身地が同じ人と一緒になった方が良い。助け合って国頭の方向へ逃れて行きなさい。決して早まったことをしてはいけないよ」と諭すように話されたというのが印象的でした。また荒崎海岸で岩陰に隠れている時に、米兵に小銃を連射され、タッタッタッタッ‥。悲鳴と白煙が立ちこめる中、悲劇の地と言える今は「ひめゆり学徒散華の跡」の碑があるその場所、大きな岩の下で右と左に別れたその動きの瞬間判断で、大きく生死の明暗を分けたようです。左に身をかわした著者である宮城さん等二人は生き残り、右に身をかわした平良先生以下生徒は手榴弾で自決されたのでした。ほんの一瞬の出来事であったようです。

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子80

荒崎海岸にある「ひめゆり学徒散華の跡」の碑です。碑には16名の戦没者氏名と、戦死の状況の内訳、昭和20年6月21日に14名がここで手榴弾自決をし、また他2名が付近でなくなったと記されています。6月21日に自決された‥。あと数日存命していたら決行しなくとも済んだのでは‥。と思わずにはいられません。碑にはご遺族による鎮魂歌が一句埋め込まれています。
「島はてに華と散りにしいとし子よ夢安らけく眠れとぞ祈る」

この写真は、平成25年(2013年)第40回金光教沖縄遺骨収集奉仕活動を終えた夕方、同碑に慰霊巡拝した時のものです。当時金光教の遺骨収集奉仕活動に参加した複数人から「荒崎海岸にある「ひめゆり学徒散華の跡」に行ったけど、場所が解らず参拝出来なかった」との声を吉井さんが聞いて、そうした方々の為に夕方同碑にご案内したもので、皆さんに喜んで頂けました。

実際に私自身の体験でも、最初の訪問では碑を見つけられませんでした。方向を示す案内板が一つあるだけで発見率は格段に高まりますので、その点は関係者への善処をお願いしたいところです。(^^;)

動画ご紹介

「語り残す―戦争の記憶― 激戦を生き抜いたひめゆり学徒隊員」

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.7

奥の方に見える白い慰霊塔が「ひめゆりの塔」です。午前9時前です。まだまだ早朝である事から観光客は私以外まだ誰も居ませんでした。黄色味を帯びたタイワンレンギョウが早春の沖縄を色鮮やかに飾っています。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.8

日中は修学旅行生などで賑わうひめゆりの塔献花台前ですが、この時間はほとんど観光客を見かけません。ゆっくり心静かに参拝するにはもってこいの時間帯ですね。今日私が最初に献花台に花を手向けるみたいです。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.9

白い石組みで清楚さを表現している「ひめゆりの塔」です。「ひめゆりの塔」裏手に納骨堂があります。この「ひめゆりの塔」は平成22年頃リニューアルされました。シンボルとしてのユリの花を大きくした事により、リニューアル以前よりも印象深いモニュメントになりましたね。「ひめゆりの塔」には、教職員・学徒戦没者219人が合祀されています。

「ひめゆりの塔」の命名由来は、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校は併置校であったため、沖縄戦では両校生徒は同一行動をとっていたという経緯もあり、戦後真和志(まわし)村村長であった金城和信氏が中心になって、戦死した両校生徒を祀る慰霊塔建立に際しては、師範学校女子部の校友会誌「しらゆり」と、県立第一高等女学校の校友会誌「おとひめ」から名を取って、この塔をひらがなを交えて「ひめゆりの塔」と命名したそうです。こうした経緯で、戦後になって両校生徒の学徒隊を「ひめゆり部隊」「ひめゆり学徒隊」などと呼ぶようになりました

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.10

千羽鶴展示台にはいつもご覧のように沢山の千羽鶴が飾られています。設置から撤去まで一ヶ月なのだそうです。結構短いな‥。と感じますが、次から次へと展示要請があるのでしょう。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.11

手前がいわまくら碑で、詩が刻まれています。 「いわまくら かたくもあらん やすらかに ねむれとぞいのる まなびのともは 昭和二十一年四月十五日 真和志村村民一同」 と彫られています。また奥の碑は、初代の「ひめゆりの塔」ですね。真和志村村長金城和信氏が中心となり村民と共に建立しました。金城和信氏は沖縄戦で二人の娘さんを亡くしておられるようです。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.12

刻銘碑です。「沖縄師範学校女子部一高女職員戦死者」「沖縄県立第一高等女学校生徒戦死者」と書かれ、戦没者氏名が縦書きで網羅されています。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.13

ひめゆりの塔前には、大きく口を開けた「沖縄陸軍病院伊原第三外科壕」があります。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.14

沖縄陸軍病院は本部・第一外科・糸数分室・第二外科・第三外科に分かれて業務を続けていました。ここはその第三外科の壕として傷病兵を収容していました。この壕は概略二段階になっており、沖縄戦当時は、ハシゴが設置され出入りしていたようです。

6月18日解散命令が出た翌日未明の頃、脱出直前というタイミングで米軍による馬乗り攻撃ともいえるガス弾攻撃を受け、陸軍病院関係者、通信兵、集落住民など壕内に居た96名のうち87名が犠牲になりました。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.15

カメラを持つ腕を精一杯伸ばし壕口の上で撮影しました。上掲の断面図に書き記されている最初の平坦な場所が壕口の下側に見えますね。そこまでは設置された板ハシゴを使い上り下りしたようです。ハシゴで中段に降りると、そこから更に自然に出来た大小の横穴が幾つかあり、各横穴では民家から運んだ畳や板で床を作り、そうした場所に十人程度のグループとなって入って居たと言います。因みに、伊原の第三外科壕では、患者の医療行為は行われなかったとの事です。

島尻が戦場になる前の第三外科壕のある辺りは、松林となっていて壕開口部も見えないぐらいだったと言います。ただ爆撃され松林が吹き飛んでしまうと、ご覧のように開口部は大きいですから、偽装したにしても発見されやすかったと思います。また上部が開口していますから、迫撃砲弾の集中射を浴びやすいと常々懸念をされてもいた様です。

因みに沖縄では昔から集落の一角に病死した家畜や動物を捨てる壕があったそうです。それは家畜などの病死骸の廃棄は、安全を確保する観点から集落単位で設けられていたと言う事の様です。伊原集落ではこの第三外科壕と呼ばれたこの壕を病死家畜の廃棄場所としていたという話です。そうした事から沖縄陸軍病院が野戦病院を設置するに際して、牛や馬の死骸とか骨を外部に搬出したのではないか推測されます。ちなみに八重瀬町仲座にある独立混成第四十四旅団司令部壕、ここは二年前に調査で入った壕ですが、近年まで仲座集落の病死骸等の捨て穴だったそうで、戦後捨てられたと思われる、リアルな牛の骨がゴロゴロしていました。

長田紀春氏と具志八重氏の共著となる「閃光の中で 沖縄陸軍病院の証言」の中で、著者であり沖縄戦当時軍医見習士官であった長田紀春氏が、沖縄戦後一年程経過した昭和20年6月に第三外科壕に入った時の感想を述べていますが、その中で沖縄戦後の第三外科壕について記述していますのでご紹介致します。

(254ページ)
沖縄戦に参加した或る兵隊から「第三外科壕の近くに駐屯していた米軍が、壕の中から出てくる蠅やうじを殺すために大量のガソリンを撒いて、壕の中を焼いていた」という証言を私は直接耳にしたことがある。

また、沖縄タイムス社発刊の『沖縄の証言』の中に、初めて(四十六年三月二十日)壕内に入った田原惟信氏の話として「遺骨は灰になってピラミッド状につまれてあった。付近に米国製のドラムカンが数個ころがっていたので、おそらく米軍がガソリンで遺体を焼いただろうと思われる」と記載されている。私が壕に入った時は、その御遺骨は収骨された後だったのである。

「閃光の中で 沖縄陸軍病院の証言」から転載させて頂きました

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.

ひめゆり学徒隊を引率した仲宗根正善先生が詠まれた哀悼の歌「いわまくら碑」です。
いわまくら かたくもあらん
やすらかに ねむれとぞいのる
まなびのともは

と彫られています。

「沖縄戦殉職医療人之碑」

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.16

右側の大きな碑が「沖縄戦殉職医療人之碑」です。各地で守備軍に協力し、住民の衛生、保険、ケガなどの治療に従事しながら戦没された医師、歯科医師、薬剤師、看護婦ら50人が祀られています。一方左側の碑が「陸軍病院第三外科職員之碑」です。次の写真で解説します。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.17

1954年10月28日建立 沖縄督療園と書かれています。

長田紀春氏と具志八重氏の共著となる「閃光の中で 沖縄陸軍病院の証言」の中に「沖縄戦殉職医療人之碑」についての記述がありましたのでご紹介致します。(^o^)

「沖縄戦殉職医療人之碑」について

(345ページ)
昭和二十年九月には、沖縄の熾烈な戦争も全て終わりを告げ、翌二十一年になると、医療関係の方々も各地区の病院や診療所に配属され、各々の技術を駆使して、戦後の多数の戦病者の治療に活躍するようになった。

その頃、各地区に分散され収容されていた家族、親類、知人の消息が日を追って明らかになるにつれ、祖国のために一身を捧げて犠牲になられた医療関係者の御名前も次第に判明したが、その悲報が伝わるや、御家族並びに関係者一同は、悲嘆の憂いに包まれ、涙を流して追慕の念を深くされたのである。

時にひめゆりの等(昭和二十一年一月)、第三外科の碑(同上七月)が相次いで建立されたのを知られるや、期せずしてご遺族はその近隣に地を定められ、木製の碑を建て、殉職者の御霊を御慰め申し上げ冥福を祈られた。昭和二十二年夏に開催された沖縄医療団の会議席上に於いて、十月二十八日に合同慰霊祭を現地に於いて執り行うことと、医療人の碑の建設案が提出され、全会一致で可決された。

やがて各地の医療関係者を中心にして集められた浄財により、ひめゆりの塔の塔傍に現在の「沖縄戦殉職医療人之碑」が完成し、昭和二十三年一月二十八日に除幕式が挙行された。題字は?宮城瑞芳先生の揮毫である。同碑は戦没された民間の医療関係者(医師、歯科医師、薬剤師、獣医師、助産婦、医療技術者)を祀ると同時に、戦死された軍医、衛生兵、軍病院関係の職員の御霊をひろく合祀し、毎年六月二十三日の慰霊の日には、御遺族や医師会等の三師会及び関係者が参拝される。

「閃光の中で 沖縄陸軍病院の証言」から転載させて頂きました

「陸軍病院第三外科職員之碑」

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.18

「陸軍病院第三外科職員之碑」です。陸軍病院第三外科鶴田軍医大尉以下、戦没職員32名が祀られています。陸軍病院第三外科は、五月下旬南風原町にある壕から当壕に移動し、野戦病院として傷病兵の看護に当たりましたが、6月19日の米軍によるガス弾攻撃でほとんどが殉職しました。かつて木製の碑が立てられていただけでしたが、1970年、長田紀春氏、具志八重氏が中心となり建立されました。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.19

「ひめゆりの塔」左手奥に、ご覧のように「ひめゆり平和祈念資料館」があります。近づいてみましょう。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.20

この時刻ではまだ門は閉じられていますが、「ひめゆり平和祈念資料館」です。昭和64年/平成元年(1989年)6月23日に開館しました。同館は沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校生徒222人による「ひめゆり学徒隊」の沖縄戦における軌跡を詳しく解説している施設です 私も二度ほど見学させて頂きました。中庭を周回するように各展示室が配置されていますし、第三外科壕を底から見上げた形での原寸大のジオラマも見る事が出来ます。沖縄に旅行した際はぜひ一度訪ねる事を推奨したいですね。

昔は沖縄戦を体験された方の講話が聞けました。実際に身をもって体験された話なので、聞いてとても心に強く訴える語りであったと、印象深く脳裏に刻まれています。しかしながら現在は証言する方の減少や高齢化などで、平成27年(2015年)で直接話を聞く事が出来る講話は終了されたとの事です。

「赤心之塔」は、多くの方々が慰霊に訪れる「ひめゆりの塔」や「伊原第三外科壕」と同じ敷地内にありますが、個人的な慰霊碑が、なぜ同一敷地内にあるのか、その理由を説明させて頂きます。

ひめゆり学徒・職員の多くが亡くなられた「伊原第三外科壕」と呼ばれる壕は、沖縄戦開始の頃は民間人のみが入って避難生活をしていましたが、6月上旬に沖縄陸軍病院が南風原からこの地に撤退して来まして、沖縄陸軍病院がすでに多くの住民が避難していたこの壕に入るに際しては、陸軍病院先発隊の説得によってほとんどの住民は壕を出ましたが、意外にも壕内にそのまま残留した地元住民が居たのです。

その居残った地元住民とは、大田家の子供3人を含む5人の家族でした。子供が居るからという配慮で残留出来たようです。しかしながら安全な壕に残れるという喜びもつかの間、「伊原第三外科壕」は6月19日米軍によりガス弾が打ち込まれ “馬乗り攻撃” が開始されたのです。この攻撃により沖縄陸軍病院職員や従軍看護婦の方々、そしてひめゆり学徒の皆さんと共に、大田家の子供三人と夫の母の四人が壕内で壮絶な死を遂げられ、大田家の生存者は子供達の母であるトシさん唯一人となってしまったのです…。

トシさんはなぜ生存できたのか?。
トシさんは、「伊原第三外科壕」への米軍による19日のガス弾攻撃を受けた時は、偶然にも所用で第三外科壕の外に出かけていました。トシさんは壕に戻ると火炎に包まれている第三外科壕を目の当たりにし、子供達を助けようと壕近くに接近したところで、待ち受けていた米軍の狙撃で負傷してしまいます。

結果として米軍によるこの日の第三外科壕におけるガス弾攻撃により、大田家は掛け替えのない9歳、5歳、3歳の三人の子供と、夫の母を一度に亡くすと共に、防衛隊に招集されていた夫一雄さんも前線で戦死され、沖縄戦終結時、太田トシさんは、太田家唯一人の生存者となってしまったのです。

戦後の消炎の臭い醒めやらない昭和23年、大田家唯一の生存者であるトシさんとご兄弟で、亡くなったご家族5名の死を悼み、このゆかりの地に「赤心之塔」と命名し建立したものです。揮毫は仲宗根政善先生、刻字はトシさんの弟である徳元さんでした。

「赤心之塔」と金光教那覇教会の林先生とは、とても深い係わりがありますのでここでご紹介させて頂きます。

具志八重さんといえば二年前にお亡くなりになりましたが、「伊原第三外科壕」の数少ない生存者の一人でした。具志さんは金光教の遺骨収集奉仕活動に初期の頃から参加されていましたが、その具志さんが、平成6年といいますから今から19年前になりますが、金光教那覇教会の林先生に、「先生こういう慰霊塔があるのですが、お祭りをして頂けませんか」と申し出たそうです。

平成6年といえば戦後50年を経ているわけですが、その年6月19日、まさに大田家の子供達と母の命日に、20人ぐらいの縁者が集い第一回目の慰霊祭が執り行われたといいます。詳細は下掲の写真の中で説明させて頂きますが、爾来今日まで「赤心之塔」前での慰霊祭は続けられています。トシさんは平成7年に亡くなられていますが、以降は有志により今年も6月19日に第21回目の慰霊祭が金光教那覇教会により仕えられる手はずとなっています。

「赤心之塔」

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.21

ひめゆり平和祈念資料館に到る手前20メートルぐらいの位置で、左手をご覧下さい。ご覧のような高さ60センチほどの小さなちいさな「赤心之塔」が見えるはずです。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.22

赤心之塔を立って撮影しました。ご覧のように「赤心之塔」はとても小さな慰霊塔です。金光教那覇教会の林先生の話では、塔はとても小さいので祭事を立ってすると見下すようになってしまうので、ゴザを敷き座る姿勢で目線を低くして慰霊祭を執り行っているという話をお聞きしました。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.23

「赤心之塔」です。沖縄陸軍病院第三外科壕は軍が病院として使用しましたが、軍が入る前からこの壕に避難していた民間人である大田家の六人家族は、軍が使用するようになってからも第三外科壕での居住が許されていました。しかしながら6月19日の米軍による馬乗り攻撃で、ひめゆり学徒、陸軍病院関係者と共に、大田家六人家族のうち五名が戦死してしまったのです。

大田家唯一の生存者となってしまった母のトシさんは、たまたま用事があって伊原第三外科壕から出ている間に米軍によるガス弾攻撃を受けてしまい壕に帰れなくなりました。結果として三人の子供と夫、そして夫のお母さんを亡くしてしまいました。そのトシさんは戦後、「なぜその時にそこに居なかったのか。なぜ子供のそばにいてあげられなかったのか。あの時に一緒に死んでおれば良かった。」が口癖だったそうです。

トシさんはなぜ生存できたのか? トシさんは、「伊原第三外科壕」への米軍による19日のガス弾攻撃を受けた時は、偶然にも所用で第三外科壕の外に出かけていたのです。トシさんは壕に戻ると火炎に包まれている第三外科壕を目の当たりにし、子供達を助けようと壕近くに接近したところで、待ち受けていた米軍の狙撃で負傷してしまったという訳です。

トシさんの話によりますと、戦後50年間というもの、床に入ると毎夜のように三人の子供が目の前に出てくるというのです。睡眠も十分とれず辛い50年だったと述懐しています。

トシさんの語る「戦後50年間」という意味は、戦後50年を経た平成6年に、金光教那覇教会により、トシさんらご家族が参加されての初めて慰霊祭が「赤心之塔」で執り行われたのです。平成6年といえば戦後50年を経ているわけですが、その年6月19日、まさに大田家の子供達と母の命日に、20人ぐらいの縁者が集い第一回目の慰霊祭が執り行われたといいます。

事の発端は、故具志八重さんと言えば「伊原第三外科壕」の数少ない生存者の一人でした。その具志さんは金光教の遺骨収集奉仕活動にも初期の頃から参加されていましたが、平成6年の時に金光教那覇教会の林先生に、「先生こういう慰霊塔があるのですが、お祭りをして頂けませんか」と申し出たのが「赤心之塔」前での慰霊祭の始まりだそうです。

その初めての慰霊祭が無事に終わり、トシさんが参加者に向け最後の挨拶に立たれましたが、たった一言「今晩から安眠できます…」と語った後「わー」と叫ぶように泣き崩れてしまい、弟の徳元さんが代わってご挨拶せざるを得なかったといいます。三人の掛け替えのない子供達と夫の母、そして夫をも沖縄戦で失ったトシさんの胸中は如何ばかりか…。トシさんは平成7年に亡くなられていますが、平成7年以降は有志により慰霊祭が金光教那覇教会により仕えられています。

私たちの想像をはるかに超える慟哭の日々であったのだと思えます。今は亡きトシさんそして戦死されたご家族の皆様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.24

「赤心之塔」の裏側です。戦死された大田家の五人の名前が刻み込まれています。右側から氏名の説明をさせて頂きます。一番右が、トシさんの夫の母です。数字の十八にも読めますが、カタカナで「ナハ」さんと読みます。二番目がトシさんの夫の「一雄」さんです。一雄さんは防衛隊に招集され前線で戦死されました。三番目からトシさんの三人の子供達の名前で、「義雄」ちゃん、「繁子」ちゃん、「貞雄」ちゃんで、それぞれ当時9歳、5歳、3歳の年齢でした。沖縄戦終結時、太田トシさんは、太田家唯一人の生存者となってしまったのです。

【太田家の御霊に祈り】 「赤心之塔」で慰霊式

「沖縄タイムス」平成25年6月20日

【糸満】68年前の19日、沖縄戦で家族5人が犠牲になった大田家の慰霊塔「赤心之塔」の慰霊式が19日、糸満市のひめゆり平和祈念資料館入り口横の同塔であった。ひめゆり平和祈念資料館の島袋淑子館長ら約10人が出席。金光教那覇教会の林雅信さん(73)が祝詞を読み上げ、み霊を慰め平和を願った。

大田家は米須出身で、1945年6月19日朝、ひめゆりの塔がある伊原第三外科壕で、米軍のガス弾により、ひめゆり学徒らとともに子供三人と祖母一人が犠牲となった。その後、周辺で父親も戦死。生き残ったのは母親トシさん=享年(81)=だけだった。

島袋館長は「68年前の今日、家族が壕でどんなに苦しんで亡くなったか、胸が痛む」。21年前の最初の慰霊式から携わっている林さんは「一緒に死ねばこんな苦しい思いはしなかったとトシさんは苦しんでいた。戦争で子供を亡くした親の深い傷を癒やすためにこれからも続けていきたい」と話した。

「沖縄タイムス」から転載させて頂きました

【犠牲者の冥福祈る】 「赤心之塔」有志が慰霊祭

「琉球新報」平成25年6月20日

【糸満】沖縄戦当時、伊原第三外科壕で民間人として犠牲になった大田さん一家5人を祭った「赤心之塔」の慰霊式が19日、糸満市伊原のひめゆり平和祈念資料館前の同塔で開かれた。戦争体験の継承に関わる有志ら約10人が参加し、犠牲者の冥福を祈った。

同外科壕は、もともと伊原の住民が隠れていたが、戦闘の激化により、日本軍が住民を追い出し、野戦病院として使用するようになったという。大田さん一家は、幼い子供三人を連れていたため、壕に残ることを許されたが、68年前の6月19日、米軍によるガス弾攻撃を受けて、ひめゆり学徒らと共に犠牲になった。母の故トシさんだけが生き延びた。

慰霊式は1993年から始まり、トシさんが亡くなった95年から、有志が執り行うようになった。慰霊式では金光教那覇教会の林雅信さんが祭詞をささげた。

「琉球新報」から転載させて頂きました

「梯梧之塔」

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.25

「ひめゆりの塔」隣の「でいごレストラン」の駐車場奥に「梯梧之塔」があります。ご覧の様に案内看板も、あまり目立ちませんが設置されています。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.26

広い駐車場の更に奥まった所に「梯梧之塔」はあります。見えてきましたね。(^o^)

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.27

「梯梧(デイゴ)之塔」が見えてきました。敷地としては「ひめゆりの塔」に隣接する場所にありますが、お土産屋さんの駐車場の更に奥にあるので、初めて訪れる場合は見つけにくいかもしれません。

長く続けられている金光教沖縄遺骨収集奉仕活動では、遺骨収集運営委員会が主催する総勢400~500人の参加者で遺骨収集奉仕作業が実施される期間が長く続きましたが、これだけの人々が一度に集合整列出来る広場の確保に苦慮していたのが実情でしたが、「梯梧之塔」前にあるお土産屋さんのとても広い駐車場に本部を設置して活動した年が何度もありました。 お土産屋さんのご厚意により広い駐車場の一角を利用させてもらう事が可能であった訳ですが、本部テントがお土産屋さんの駐車場に設置された年は必ず「梯梧之塔」前で、遺骨収集奉仕活動最終日に執り行われる現地慰霊祭を仕えられるという、思い出深い慰霊塔でもあります

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.28

梯梧之塔・沖縄昭和高等女学校説明碑文です。ギリギリ読めますね。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.29

「梯梧之塔」説明碑文です。ギリギリ読めますがテキストを起こしましたのでご覧下さい。

【梯梧の塔説明碑文】

梯梧の塔は、昭和46年6月23日、旧校舎跡より、ゆかりの地に移転。母校の校歌「梯梧の花の緋の誠」にちな んで、「梯梧の塔」として建立された。

昭和20年1月25日より約1月間の看護教育を受け、3月6日、17名(4年生)は、第62師団野戦病院(石5325)へ学徒看護隊として、ナゲーラの壕へ配属された。

4月1日、地上戦が始まるや、日を逐うて前線からの負傷兵が激増、壕の中は、まるで生き地獄、昼夜の別なく看護は続いた。4月29日学友の中から最初の戦死者が出る。ナゲーラの壕は満杯で収容できず、9名は第二分院の識名の壕へ移動した。壕の中で休息中、飛んで来た破片で学友2名が戦死。戦況の悪化で5月末、武富、米須、伊原へと後退。米軍は物量にものを言わせて猛攻撃は止むことなく、伊原の地で6名戦死。病院としての機能を果たす事ができず、6月19日、隊に解散命令が出た。

無念にも学業半ばにして、戦禍の中で犠牲になった、同窓生57名と、職員3名、計60柱(旧字)が合祀されている。勝利を信じ若くして御霊となった学友の永遠に眠る南部終焉の地に建立、恒久平和を願いつつご冥福を祈っている。

梯梧同窓会 

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.30

清涼な雰囲気漂う霊場に、不思議とハイビスカスの花が一輪だけ咲いていました。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.31

亡くなられた乙女らの心情を吐露する様な芳香を感じました。いずれにしても霊域に似合う清楚な花ですね。(^o^)

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.32

戦没された学徒58名、教職員4名を祀る「梯梧之塔」です。この「梯梧之塔」は昭和23(1948)6月に学校の校舎跡地に建立されましたが、その後昭和46年に(1971)6月に、多くの犠牲者を出したゆかりの場所に程近い、糸満市伊原に移設されたものです。

「梯梧之塔」のでいごは、赤い花を咲かせる熱帯植物で、インドが原産です。沖縄県の県の花にもなっていまして、沖縄昭和高等女学校の近くに、でいごの並木道があった事から、学校のシンボルにもなりました。校章も、でいごの葉が表現されているそうです。昭和高女は戦前、事務員を養成する学校として、簿記とかを教える商業学校だったそうです。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.33

と言う事です。よろしくお願いします。(^o^)

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.34

お二方が詩を詠まれていますが、右側の詩を詠まれた藤岡豊子氏は、第62師団(石部隊)を率いた藤岡中将の奥様です。思えば藤岡中将はお気の毒な方でした。大本営は米軍による沖縄侵攻が三月か四月にあると判断し、状況急迫裡であると認識しながら、三月に沖縄第三十二軍首脳部の定期人事異動を大規模に実施したのです。

第62師団(石部隊)を率いた藤岡中将も人事異動の対象となり三月に沖縄に着任されました。定期人事異動で沖縄に着任された陸軍の指揮官は、沖縄本島だけで七名おられるのですが、例を挙げれば米軍と正面で対峙する手筈となっている独立歩兵第十四大隊や歩兵第二十二聯隊の各隊長も直前となって異動したのですから驚きを隠せません。「沖縄決戦 高級参謀の手記」の著者である八原高級参謀も、将兵の士気に関わる一大事と見たのでしょう、このような直前の大規模な更迭は失当であると暗に非難しつつ、「第六十二師団長藤岡中将は着任してわずか半月の後、戦闘が始まった。まったく沖縄に死ににきたのも同然である」と述懐している程です。

藤岡豊子氏が第62師団(石部隊)を率いた藤岡中将の奥様であると教えて下さったのが、他ならぬ梯梧同窓会長照屋ヒデ様でした。 経緯をご紹介しますと、照屋ヒデ様から私宛にお手紙を頂きました。お手紙を頂いたのは今から27年前となりますが、二枚の便箋にびっしり書き込まれた文面の中に、「故藤岡中将の御令室様が参拝に御出下さいまして、丁度梯梧の花が咲く時節でございましたので、その花をご覧になりお寄せ下さいました。…」と書き記されていました。

なぜ照屋ヒデ様からお手紙を頂いたのか。その理由はお手紙を頂いたその年、今から30余年前ですが、遺骨収集を終えた翌日、有志が集まって梯梧之塔及びその周囲の清掃を行いました。その清掃の様子を金光教の遺骨収集奉仕活動では大変な功績を残された石原正一郎氏が照屋ヒデ様にお伝えしたようなのです。その結果照屋ヒデ様から清掃作業に関わる感謝の意を表するお手紙が私の所に届けられたという経緯です。文面には卒業証書を手にする事なく花の命を落とされた同窓生への追慕の念が、昨日の出来事のように鮮明に書き記されていました。

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子13

「梯梧之塔」での金光教現地慰霊祭の様子です。1990年2月に撮影したものです。祭壇に安置された段ボール箱の中には、お清め作業により綺麗に清掃されたご遺骨が納められています。二昔前ともなりますと、二日間の遺骨収集でこんなにもご遺骨が発見されていたのですね。

この年の遺骨収集奉仕活動では、二つの記名遺品が発見され(三角定規と記名された認識票)、二つともご遺族の元に届けられるという印象深い出来事がありました。

遺骨収集の様子14

「梯梧之塔」での金光教現地慰霊祭の様子です。1990年2月に撮影ですから、今から26年前に撮影された写真という事になります。林先生や大庭さんをはじめとする関係者の皆様がとても若い姿で写し込まれているのが印象的ですね。この慰霊祭の時は旧私立沖縄昭和高等女学校関係者の皆様も多数参列されていました。

「魂魄の塔」

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.35

「魂魄の塔」が見えてきました。同塔は糸満市米須にあります。隣接して平和創造の森公園があります。一帯は緑豊かな霊域となっています。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.36

アップで撮影しましたが、「魂魄之塔」です。同塔は米須霊域の中心的存在と言えるでしょう。「魂魄之塔」は、戦後同地に収容された真和志村民が、散在していた遺骨約35,000名を集め、昭和21年(1946年)2月に建立されました。その後御遺骨の一部は国立沖縄戦没者墓苑に転骨されています。設置管理者は県遺族連合会です。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.37

「魂魄の塔」碑文です。読めますね。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.38

「魂魄の塔」碑文です。こちらはテキストに起こしてみました。碑文の立ち位置を見て理解するところですが、魂魄の塔の説明と共に、同塔を建立した金城和信翁を顕彰する文言も含めた碑文となっています。

【魂魄の塔碑文】

沖縄は国内でひとり戦場となり、言語に絶する状況下、二十万余の同胞が散華した。かかる中で、昭和二十一年一月二十三日、九死に一生を得た真和志村村民は、米軍によって当地に集結させられ、金城和信氏が村長に任命されたが、一帯は累々として亡骸が横たはる有様であった。

この光景を痛嘆した金城村長は、先ず御遺体を弔うべく決意し、夫人と共に、村民の協力を仰いで鄭重なる収拾を始めた。そして、今は敵も味方もないとの信念で、彼我二万余柱を奉じて納骨堂を造り、同年二月二十七日、金城村長は 之を魂魄と名付け、自ら石碑に墨書して「魂魄」と刻んだ。

更に金城夫妻は、信子と貞子の愛娘を戦死させたこともあって、同年四月五日、乙女たちを祀る「ひめゆりの塔」を 建立した。ひめにりの名は、金城村長が、女子師範学校と県立第一高等女学校の姫百合に因んで命名したもので、自ら石碑に「ひめゆり」と刻み、亡き生徒たちの名を刻んだ。続いて金城御夫妻は、同年四月九日、男子学徒を祀る「健児の塔」も建立したのである。

後に金城和信氏は、遺族連合会の会長となり、戦没者とその遺族のために生涯を捧げ、正五位勲三等に叙せられた。今では方々に慰霊塔が建つやうになったが、思へば、焼土と化した終戦直後に建立されたこの「魂魄の塔」こそは、沖縄における最初の鎮魂碑である。

東京大学名誉教授 宇野精一 

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.39

「和魂となりてしづもるおくつきの み床の上をわたる潮風」

平成7年(1995年)に除幕された歌碑で、金城和信真和志村村長と共に遺骨収集に奔走された当時の県立糸満高校真和志分校長の翁長助静氏の献歌です。

「金城和信翁の胸像」

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.40

「金城和信翁の胸像」です。金城和信村長は二人の娘さんを沖縄戦で失っています。そうした事もあり、「私は生涯遺骨を背負うて生きぬく」と語られるなど、奥様と共に真和志村住民の協力を仰ぎつつ、遺骨収集に全力で取り組まれた方でした。そして「魂魄之塔」を始め、「ひめゆりの塔」「沖縄師範健児之塔」など慰霊塔や碑建立にも尽力されました。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.41

「金城和信翁は‥」で始まる顕彰碑の説明文です。テキストを起こそうと頑張ったのですが、判読出来ない文字が多く、転載に誤りがあるとご迷惑をお掛けすると思い、テキスト化は断念しました。ギリギリ読めますので、皆様の判断で読み進めてくださいませ。(^^;)

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.42

「魂魄の塔」横にある生花販売所です。30年ぐらい前は女性が居て対面販売をしていましたが、は売り上げが落ちたのでしょう、十数年前から無人販売となっています。毎年必ず三束以上買い求めるのですが、今年はバケツに水が入っていない為に花が少し萎えていました。販売するおばさ~ん、水管理は毎日してくださいね~。!!

「有川中将以下将兵自決の壕」

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.43

「魂魄の塔」の向かいにある道路を進むと「有川中将以下将兵自決の壕」があります。少し見つけにくい場所にある印象です。私も一番最初は発見に時間を要しました。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.44

昭和56年6月に建立された、藤岡武雄中将を師団長とする第62師団(石部隊)の歩兵第六十四旅団戦没者を祀る「有川中将以下将兵自決の壕」です。因みに第62師団(石部隊)は嘉数高地等の戦闘で多くの犠牲者を出した部隊です。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.45

碑文です。ギリギリ読めますがテキストに起こしてみました。

【慰霊碑碑文】

石第六四旅団は沖縄県民の絶大なる協力を得て奮戦力闘したが武運拙く将兵は悉く玉砕し旅団長有川圭一中将は高級副官竹下勇大尉以下の将兵と共に此の壕で時は昭和二十年六月二十一日の未明であった茲に全国篤志家の賛助を受け記念の碑を建てその偉烈を後世に伝える云爾

昭和五十六年六月二十一日建立 
鹿児島県沖縄戦没者慰霊会 

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.46

碑の台座には、ご覧のような建立経緯が刻まれています。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.47

慰霊碑の横にある樹林の中に、有川中将以下将兵自決の壕(シーガーアブ)があります。壕口は大きいです。全景は見えないのですが、直径10mぐらいでしょうかね。縦穴的な壕ですが、壕底から横に掘り進めて一部構築もしたようです。一度は降りてみたいと思いつつ私もまだ降りた事がないのです。降り口を探したのですが、調査が甘いせいかまだ降り口を探せずにいます。壕は深くありません、降り口が解れば簡単に降りられそうなので、何時か降りたらレポートします。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.48

慰霊碑のすぐ横に立っています。ここから見る壕開口部はかなり広く見えますね。いずれにしても壁は切り立っており完全な縦穴ですね。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.49

左回りで壕の縁を歩いています。そして少し進んだところで撮影。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.50

もう少し進んだところで撮影。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.51

かなり回ってきましたよ。横穴も若干ですが構築されたようですが、まだその横穴は見えませんね。反対側ぐらい回らないと見えないかもです。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.52

一番奥まった位置から撮影しました。切り立った崖になっているのが見て取れます。一番手前の岩辺りが降りられそうな印象ですが、一人なので冒険はしません。これで大体の壕の構造は把握する事が出来ました。何時か機会があったら壕底部に降りてみたいですね。

「沖縄戦とガマ(壕)」というサイトに、シーガーアブの配置図・断面図を掲載しているコーナーがありましたのでご紹介します。詳細な図で説明が為されています。ぜひご覧下さいませ。(新しいウインドウで開きます)

「ずゐせんの塔」

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.53

国道331号線米須にある米須西交差点、ここは「平和創造の森公園」 への入り口に当たる交差点ですが、交差点を折れてすぐのところに「ずゐせんの塔」はありました。ちなみに隣接して「ひむかいの塔」もあります。慰霊塔は道路に面していますから、道路からはこの様に見えます。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.54

ずゐせんの塔です。ずゐせんの塔は那覇市首里桃原町にあった同校敷地跡に最初建立されましたが、後に生徒たちの最期の地となった米須・伊原地域に移すことが検討されまして、結果として昭和34年6月、ゆかりの地である米須に移築されたものです。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.55

沖縄県立首里高等女学校の戦没職員15名、動員された4年生61名のうち戦没学徒33名、同窓生54名、計102柱が祀られています。 同校生徒は「瑞泉(ずいせん)学徒隊」と呼ばれましたが、「ずゐせん」は同校同窓会名称「瑞泉」から命名されました。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

【ずゐせんの塔碑文】

ずゐせんの塔は、第二次世界大戦沖縄戦で戦死した沖縄県立首里高等女学校看護隊並に職員同窓会員の御霊を祭ってある。昭和二十年一月二十五日から軍医の講習を受け、引き続き合宿訓練に入った後、三月二十七日野戦病院壕で卒業式を挙行、直ちに第六十二師團、石部隊野戦病院に配属され最前線の浦添から首里、摩文仁へと負傷兵を看護しつつ、泥○の中を弾雨に叩かれ、奮闘したが惜しくも散華したのである。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.56

沖縄県立首里高等女学校の校章です。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.57

沖縄県立首里高等女学校同窓会員戦没者が刻まれています。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.58

詩が刻まれていますね。

調査・遺骨収集作業開始です

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.59

「沖縄戦没者墓苑」参道に設けられた案内板です。説明書きは、「ここは、さきの大戦で沖縄において戦没された方々のご遺骨をお納めしてある国立の墓園であります。本墓園は、これらの方々を永く追悼するため、ここ摩文仁ヶ丘に昭和54年2月25日創建されました。 厚生労働省」 となっています。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.60

赤瓦屋根の参拝所は平成29年(2017年)に新しく建て替えられました。以前の建物と仕様は同じですから代替わりした事に気づかないかも知れませんが、近づくと真新しくピカピカです。従前の参拝所は、昭和54年(1979年)に創建されたものですから、創建後41年が経過していたと言う事で屋根を中心に傷みがひどくなっていました。基礎工事の段階で土中から不発弾が見つかり、その不発弾対応と措置にかなりの時間を要したと伝え聞いていますが、無事に建て替え完了となりました。(^o^)

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.61

昭和54年(1979年)に創建された「沖縄戦没者墓苑」の納骨堂です。この納骨堂は、沖縄産の琉球トラバーチン1千個が使用され、琉球王家の墓を模した古来の技法で積み上げられています。現在は沖縄で収集された戦没者ご遺骨のすべてが、この国立沖縄戦没者墓苑に納骨されます。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

《過去の写真ご紹介》

国立沖縄戦没者墓苑の様子4

【平成26年(2014年)7月05日撮影】写真には二代目と三代目の納骨堂が写されています。初代納骨堂が手狭になった事から、初代納骨堂の背後に、昭和60年(1985年)二棟目の納骨堂が建立されました。また更に傾斜面下側に三棟目の納骨堂が平成20年(2008年)に建立されました。

沖縄戦戦没者のご遺骨は、現在でも毎年百余柱前後発見されていますからね、将来的には四棟目の納骨堂も建立される可能性があります。と言いますのも、かつては発見されたご遺骨は最終的に焼骨されていましたが、沖縄県でもDNA鑑定をスタートさせてからは、全ての発見されたご遺骨が焼骨されず収蔵保存される事となったからです。という事で、現在別の場所に建てられている仮安置室も満杯であると聞いていますので、将来的に納骨堂増設の方向に向かう事でしょう。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.62

今年も沖縄戦戦没者慰霊への志を同じくする仲間が摩文仁に参集し、無事に「国立沖縄戦没者墓苑」参拝が叶いました。日本をそして沖縄を守るために国難に殉じられた陸海軍将兵、男女学徒隊、民間人戦闘参加者や軍属、そして一般住民の方々、また米軍側陸海軍、海兵隊の将兵など、悲しくも戦場に果てた彼我合わせて二十余万の戦没者に対し、心からの哀悼と慰霊の言葉を申し述べます。そして凄惨な戦場と化し血塗られた艱難の大地が、微力ながら遺骨収集活動を通じて少しでも清められる事を祈願致します。願わくば未だ摩文仁に眠る、誰にも看取られることなく戦野に果てた戦没者が新たに見つかりますように。 合掌

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.63

調査・収集作業開始に先立ち、沖縄戦戦没者の鎮魂を願い手を合わせました。m(_ _)m

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.64

今日も天気は問題ありません。有り難いです。本日は右から豊澤さん、松永さん、そして福岡さんです。今日も頑張って参りましょう。(^o^)

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.65

ジャングルに入ってすぐにですが、福岡さんが岩の隙間を見ています。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.66

何も無かった様です。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.67

歩いている時は、下だけ見るのではなく、四方に目を配るのが理想です。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.68

今日も本当に天候に恵まれました。嬉しいです。全力で取り組める予感がします。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.69

急な上り坂になりました。こうした場合は、落石発生の可能性が高まりますので、不意の落石が発生しても影響を受けない程度の間隔を空けて歩くのが望ましいですね。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.70

右側は雪上のクレバスみたいな感じの場所です。底が見通せないぐらい暗いです。気をつけて通過しましょう。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.71

福岡さんが降りられそうな場所を見つけて降りていきました。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.72

上り坂が続きます。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.73

写真では解りにくいのですが、格好の隠れ場所がありまた。早速枝葉を折るなどして、中に入ってみる事にしました。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.74

中に入っていきました。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.75

早速ご覧の様な鉄片が出て来ました。この部品は良く出て来ますよね。砲弾の一部と考えられますが、今のところ良く解りません。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.76

福岡さんの持つ金属探知機がかなり反応しています。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.77

何なのか良く解らない部品が出て来ます。錆び具合から、沖縄戦に関わる部品と思われます。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.78

松永さんに最先端での作業が変わりました。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.79

何やら大きい物がある様です。簡単には取れないとの事です。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.80

馬力のある豊澤さんに変わってみました。取れるかどうか‥‥。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.81

福岡さんは手が空いているので、別の壕内を見ています。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.82

私も別の口から壕内に入っていきました。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.83

福岡さんが見つけた遺品です。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.84

少し遺品が出ている様です。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.85

しばし探してみる事になりました。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.86

金属探知機での反応もある様です。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.87

少し探しただけで、これだけ遺品が出て来ました。将兵が身につけていた襦袢(シャツ)のボタンもありました。この壕内で亡くなられた可能性もありますね。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.88

後で再調査という事で、壕内から一端出ます。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.89

ご覧の様に壕口もそれほど大きくは無く、直撃弾を浴びなければ、良い場所と思われます。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.90

吉井さん摩文仁に到着の連絡を受け、一端ジャングルから出ます。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.91

結構な上り坂です。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.92

午後からは吉井さんが合流されました。写真右側が吉井さんです。よろしくお願いします。(^o^)

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.93

早速ジャングルでの調査開始です。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.94

地際にご覧の様な壕口がありました。一寸狭いですが、ギリギリ入れそうなので、入ってみましょう。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.95

ギリギリ入れました。地形的に見ても、戦後土砂が流入している雰囲気です。沖縄戦当時はもう少し入りやすかったと推測されます。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.96

オー。奥まで続いていますよ。今は止めて、後で再調査しましょう。(^o^)

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.97

小銃弾がありました。金光教の遺骨収集の時に赤テープが巻かれたようです。赤テープの劣化具合から20~30年前に巻かれた可能性が高いです。と言う事は~、この壕も金光教の遺骨収集が為されたという事を意味します。(T_T)

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.98

ここにも入れそうな壕口がありました。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.99

ここも壕口かな。埋没しているだけかもです。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.100

ここも立派な陣地になりそうな雰囲気ですよ。一段低くなっています。降りてみましょう。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.101

降りました。結構奥まで続いていますね。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.102

ご覧の様に一段低くなっています。前からの攻撃には抜群の陣地ですね。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.103

福岡さんが最奥部を見ています。上り坂になっているものの、この先人の出入りは無理そうです。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.104

ご覧の様に、壕口が少し小さいです。戦後埋没したのとは違う印象です。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.105

壕底には、ご覧の様な空き缶、空き瓶が目立ちます。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.106

投げ捨てられた空き缶、空き瓶と共に、岩石が多数転がっています。これらも霊園工事に伴い、上から投げ捨てられたのかも知れません。異常に多いです。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.107

一段降りたところで、早速地面を調査しています。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.108

革で出来た遺品ですね。下士官用の長靴、将校用背嚢それとも図嚢 などでしょうかね?

夕方となり本日の調査作業も無事終了となりました。そうした中で、「司令部壕内にある秘密洞窟を見てみたい」 と言う提案があったので、皆で見に行く事になりました。ここで登場する秘密洞窟とは、「沖縄決戦 高級参謀の手記」 で著者で或八原博通氏が牛島軍司令官と長参謀長が自決されて以降、実際に八原高級参謀外数名が、一時隠れていた司令部壕内の場所を指しています。この秘密洞窟は数人入れる広さがあり、入り口部分を岩石等で塞げば、中に人が居る事さえ気づかない場所とされています。

「沖縄決戦」 高級参謀の手記

八原博通著 読売新聞社 昭和47年(1972年)初版

この本の中で秘密洞窟に関わる部分を引用させて頂きます。

(393ページ)
掃討攻撃は今にも始まると覚悟しなければならぬ。私は今後数日間、かねて準備した秘密洞窟に潜伏し、敵の警戒緩となるに乗じ、出撃する計画である。皆を急きたてて、必要な食糧や毛布を持って、参謀室北壁に続く秘密洞窟にもぐり込んだ。この洞窟は、人がようやく出入りできる小さな入り口で、中に入ると、六名ぐらいは収容可能な広さがあり、石で入り口を閉塞すれば、容易に発見されぬ屈強な場所であった。もちろんゆっくり腰かけたり、寝たりすることはできぬ。上からは無数の鍾乳石が垂れ下がり、底はのこぎりの歯のような岩盤だ。手足を伸ばすこともかなわず、ほとんど身動きもできぬ。ロウソクに火を点ずるわけにもいかず、したがって、真っ暗だ。ときどきマッチをすり、航空時計を見て、時間の経過を知るありさまである。‥‥

「沖縄決戦 高級参謀の手記」から転載させて頂きました

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.109

本日の調査作業も無事に終了しました。帰り際に、摩文仁89高地の軍司令部壕に立ち寄り、その秘密洞窟を見学してみましょう。

「摩文仁の軍司令部壕」

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.110

ここが司令部壕の摩文仁側の壕口です。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.111

摩文仁の司令部壕は天然の壕を一部加工するなどして司令部壕としたもので、ご覧の様に、立って歩くとヘルメットが岩にぶつかる場所もかなりありますね。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.112

秘密洞窟のある場所に到着しました。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.113

この写真は秘密洞窟の中を撮影しています。入り口は確かに少し狭かったですが、中は思いのほか広いですね。最初はご覧の様に上っています、かなり岩がゴツゴツしていて、照明が無いと前進するのは難しい印象です。岩の割れ目にある空間という状況ですから、空間の高さはあります。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.114

少しずつ狭くなって来てますね。ただ秘密洞窟で唯一、地盤が平坦な状態になっています。ここなら横になって寝る事も可能な様です。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.115

私は腰に道具をぶら下げているので、これ以上前に進めませんでした。福岡さんはこの先に進んで見えなくなっています。私の立ち位置よりも4mぐらいまで前進出来た様です。ご覧の様に幅がかなり狭くなっているものの、結構奥まった場所まで人が滞在出来る様です。また空間が斜めになっているので、立つ事は出来ません。足下には割れ目があり、物を落とすと深く入り込んでしまい、拾う事は不可能な状況です。

この秘密洞窟に入って見た印象としては、矢原高級参謀が書かれている様に、六名ぐらいは収容可能な広さと感じました。ただ数日間滞在が可能かどうかの視点では、水や食糧は持ち込めば良いのですが、必ずトイレの問題が発生しますよね。その点が気がかりでした。(^^ゞ

沖縄戦に於ける八原高級参謀等は、結果として短期的な一昼夜程度の秘密洞窟滞在となった様です。それは米軍による壕内への攻撃を想定しての、秘密洞窟退避作戦であった訳ですから、そうした攻撃が回避されたと悟った時点で秘密洞窟滞在が意味を失いましたからね。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.116

福岡さんが地面を掘り始めました。飽くなき意欲!! 壕内に入ると無意識に体が動く‥‥。皆さんが秘密洞窟の見学を終えると、我先にクマデや金属探知機が動くのでした。(^o^)

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.117

こちらは豊澤さんです。昨年取り組んだ場所!

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.118

ここは摩文仁司令部壕の中央付近にある便所開口部ですね。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.119

夕方になったので司令部壕を出る殊にしました。摩文仁集落側の壕口に向かいます。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.120

壕口が見えてきました。

令和年(2020年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.121

本日午後から吉井さんが合流されました。当初に集合写真を写せなかったので、作業終了の今撮影させて頂きました。右から豊澤さん、吉井さん、福岡さんです。本日も無事に作業終了です。(^o^)

摩文仁司令部壕内での作業の様子を平成31年(2019年)の1月22日、23日の両日で詳しく解説していますので、興味のある方はご覧くださいませ。

《サイトご紹介》

摩文仁第三十二軍司令部壕に尚 順男爵一族が訪ねているのをご存じでしょうか。今私達が立っているこの司令部壕に関連する情報と言う事で、皆様にご紹介したいと思います。(^o^)

琉球の歴史を遡りますと、琉球王国最後の国王は尚 泰王(しょうたいおう) です。尚 泰王は、第二尚氏王統の19代目の国王として、天保14(1843年)8月3日に生まれました。父は15歳で実質的な王位についた尚 育王、そして母は佐敷按司加那志です。 琉球王国は薩摩藩による琉球藩の設置後、明治12年(1879年)の琉球処分によって、沖縄県が設置された事に伴い滅亡します。尚 泰王は中城御殿に移ります。尚 泰王36歳の時でした。

明治政府に東京移住を命じられ麹町に邸を贈られた尚 泰侯爵は、その後59歳で亡くなるまで家族と共に東京で暮らしていました。尚 泰侯爵は死後沖縄に帰り、歴代の第二尚氏王統の国王や王族たちの陵墓・玉陵に埋葬されました。尚泰が眠る玉陵は世界遺産に登録されており、一般公開されているのはご承知の通りです。

尚 泰侯爵には、妃が1人、夫人が2人、妻が6人居られました。こうした数は琉球王としてごく普通らしいのですが、パートナーが大勢の為に尚 泰侯爵の子供の数も多いです。後に貴族院議員となる長男の尚 典を先頭に、尚 寅・尚 興・尚 順・尚 秀・尚 光・尚 時。女子は長女の真鶴金を先頭に、真鍋樽・牧志翁主・嘉手苅翁主・政子・八重子・千代子・公子・佐代子・鈴子・貞子です。子供だけで7男11女の計18名も居られます。と言う事で尚 泰王侯爵家系譜の追跡も大変でした。(^^ゞ

最後の琉球国王尚 泰の第四子である尚 順男爵は、 廃藩置県に伴い、父と共に7歳で上京しましたが、明治25年(1892年)、20歳の時に宜野湾王子と呼ばれた尚 泰の三男尚 寅と共に帰郷し、若干21歳で沖縄最初の新聞社である琉球新報を創刊して自ら社長に就任されたり、電気軌道、軽便鉄道の敷設、また沖縄港運を設立するなど、戦前の沖縄における近代化や文化向上、基幹産業の発展などに大きく寄与されました。また桃原農園で、沖縄の温暖な気候を活用した熱帯果樹や香辛料、そして観葉植物の栽培に取り組みました。

ご本家である侯爵家が東京麹町邸や外渋谷南平台の邸に移り住むようになったのと対照的に、尚 順男爵は中城御殿に留まりました。こうした経緯により、沖縄戦当時は従三位、勲三等尚 順男爵を、事実上の沖縄王の様に敬意を持って接する人々が多かった様です。

尚 順男爵が暮らした中城御殿は、敷地が約4千坪、家族16人、使用人20数名の大所帯であったと言います。また尚 順男爵には6人の男子と10人の女子が居ましたが、沖縄戦でご本人、妻、長男一家、三男、四男、孫の尚 忠昭、尚 忠正が戦火に斃れました。尚 順男爵の享年は72歳でした。尚 順男爵の六男である尚 詮の妻、尚 弘子氏の回想によると、6月17日米須の壕で死亡したと述べています。改めて尚 順男爵一族のご冥福をお祈り致します。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.122

尚 順男爵肖像】(那覇市歴史博物館所蔵)

尚 順:
尚 順(しょう じゅん、1873年5月2日 - 1945年6月17日)は、最後の琉球国王・尚泰王の四男。男爵で貴族院議員。琉球新報、沖縄銀行(日本の華族界における十五銀行(別名、華族銀行)に相当する銀行で、現在の沖縄銀行とは無関係)の創立者。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

《書籍ご紹介》

「琉球王国の歴史」

月刊沖縄社 平成11年(1999年)初版

「琉球王国のグスク」

中田真二・高橋一正・中田広二著 東京地図出版 平成20年(2008年)初版

八原博通著「沖縄決戦 高級参謀の手記」に、尚 順一族が摩文仁を通過する際に、令嬢が重傷を負われ、89高地にある軍司令部壕を訪れ、懇意にしていた長参謀長に治療を依頼した際の様子が描写されていますのでご紹介致します。

「沖縄決戦」 高級参謀の手記

八原博通著 読売新聞社 昭和47年(1972年)初版

(329ページ)
‥‥かくて琉球島南端の断崖絶壁上において、多くの老幼婦女子をいたましい犠牲としたのは実に千秋の恨事である。

琉球王尚家の一族十数名もまたこの犠牲者であった。新戦場の戦いもようやく激化せんとする六月七日の夜半、齢七十余歳の老男爵を中心とする一族は、知念脱出の念願を果たさず、山城に引き返さんと敵砲弾頻りなる摩文仁部落を通過しつつあった。このとき哀れにも令嬢の一人が迫撃砲弾で重傷を受けた。この令嬢と付き添いの母堂、令嬢の三人は、かねて懇意だった軍参謀長を我々の洞窟に訪れ、治療を乞うた。嘉数軍医中尉の執刀で左腕を切断された令嬢は、付き添いの母、姉とともに顔色蒼白のうちにも毅然とした態度で、長将軍心尽くしの贈り物、かん詰め、食糧などを携え、再び山を降りて麓に待つ一族のもとに帰って行った。

尚家一族の訪れた後数日にして、島田県知事が荒井警察部長を伴い、お別れを告げるためにやってきた。かつての宴会の折には、「しょっ、しょっ、しょじょじ」の童謡を歌い、幼稚園の児童よろしく無心に踊った知事、そして元気だった警察部長も、ともに今は憔悴していた。「文官だからここで死ぬる必要はない」との牛島将軍の勧告を受けて、参謀部洞窟を出て行く両氏の後ろ姿は忘れることができない。

「沖縄決戦 高級参謀の手記」から転載させて頂きました

沖縄戦におして、尚 順男爵は疎開せず島尻の米須で戦死されましたが、尚 順男爵の六男である尚詮の妻、尚弘子氏は沖縄戦を生き抜き戦後しばらくして手記を認めたとの事です。その著作本を探しましたが見つからずに居た時、その手記の抜粋を掲載している「日本軍の沖縄作戦」に出会いました。ここでその記載部分を転載しご紹介致します。

《書籍ご紹介》

「日本軍の沖縄作戦」

沖縄戦史刊行会編纂 月刊沖縄社 昭和60年(1985年)初版

尚男爵一家の遭難

沖縄戦では住民が直接戦火を浴びたため軍人軍属、防衛隊員、戦闘協力者を除く純然たる民間人(主に婦女子)の犠牲は二万八千七百名と夥しい数に上り一家全滅の惨に遭った例も少なくない。次に記す尚順男爵家もこれに準ずるものである。

尚弘子手記大要
当時一高女の三年在学、南風原陸軍病院で一日だけ勤務、徳田教師の勧告で帰る、家族と別れ姉米子と二人、南部へ避難、6月7日摩文仁付近の木陰で潜伏中、迫撃砲弾が落下、米子腕に重傷を負う。

旧知の長参謀長を頼って軍司令部を訪れ手当を乞い嘉数軍医の執刀で切断手術を受ける。二日間ほど滞在、長参謀長の部屋はローソクで明るく毎晩謡が流れる。用足しのため側を通ると呼び止められ貴女は何歳か、おじいさん(老齢なので間違ったらしい)はお幾つかと聞かれ出発の日には数個の缶詰を貰った

一旦壕を出て炊事場北側の岩陰で数名の地元出身女性のグループと過ごす。そのうち米兵に発見されてガソリン攻撃を受け急きょ炊事場の壕に移る。ここで二ヶ月近く過ごすが重傷の姉米子は八月初め衰弱死する。

戦後父の男爵は6月17日米須の壕で死亡、母真佐子、兄嫁つる子、同じく貞子を含む家族、使用人13名は南部戦線を彷徨、6月20日頃摩文仁を通過する際、砲撃を受け全員死亡したことを知る。私は8月9日米兵に捕らえられ収容所生活のうち本土へ引き揚げ現在千葉市に住んでいる。

【註】尚順男爵が疎開しなかったのは懇意にしていた長参謀長から沖縄防衛の自信ありと聞かされた事を信用したことと持前の豪気から敢えて踏み止まったのではないかの説が有力である。

「日本軍の沖縄作戦」から転載させて頂きました

ここからは、摩文仁司令部壕に関連した記事等をご紹介致します。

平成31年(2019年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.54

【沖縄県公文書館所蔵】
分類名:B0201
撮影地:糸満市摩文仁
撮影日:1945年 6月28日
備 考:日本軍捕虜 写真解説:【原文】 A Jap prisoner of war stands in front of the graves of Gen. Isamu Cho, Chief of Staff, and Lt.Gen. Mitsuru Ushijima, former Commanding General of the 32nd Imperial Japanese Army, on hill 98. Picture made at request of the Office of Psychological Warfare.
【和訳】 98高地にある第32帝国陸軍司令官牛島中将と参謀長長勇将軍の墓の前に立つ日本軍捕虜。心理作戦部隊の依頼で撮影

八原氏の著作である『沖縄決戦 高級参謀の手記』が登場しましたので、沖縄戦を詳述した本を三冊ご紹介しますので、よろしければ皆様も読んでみて下さい。出版年度順に掲載しています。(^o^)

《書籍ご紹介》

「沖縄かくて壊滅す」

神 直道著 (株)原書房 昭和42年(1967年)初版

著者はまず最初の「はしがき」で、「沖縄戦について、もう概に数多くの戦記や物語が発表されてきた。ある本は悲惨さに重きを置き‥。フィクションに近い想像を逞しうしているもの‥。多分こうであろうくらいの思いつきを、いかにもまことしやかに書いた‥。沖縄戦の体験者が現存しているのに記録が概にそのようである。これから先、記憶の薄れと共にどのようなものが書かれるかと思うと実はたまらないのである」と出版を決意した動機が述べられています。神氏による執筆の動機が、航空決戦と持久戦略との齟齬による見解の表明かと推測されましたが、八原高級参謀との意見の食い違いが執筆の動機ではない様です。実際に八原高級参謀執筆の著書は、神氏著書初版の5年後に出版されています。

昭和20年3月1日に現地沖縄第三十二軍に赴任しましたが、それ以前に防衛総司令部にて沖縄軍の育成に努めたり、台湾の飛行師団の幕僚として、また沖縄軍と生死を共にするはずの協力飛行部隊の一員として、沖縄守備軍を見守ってきた、としています。沖縄第三十二軍では航空参謀でしたが、第六航空軍参謀(九州)、第八飛行師団参謀(台湾)も兼任していたようです。こうした神参謀の立ち位置もあり、九州方面からの航空攻撃と連携した積極攻勢を終始主張し、八原高級参謀と鋭く対立していました。

「持久出血戦法は国軍全体の作戦に合致せず、戦法は中央の企図に沿うべきで、現地軍の都合で決めるのは筋違い」、と対立を隠そうともしません。参謀部内で攻撃論と守勢論とが、水と油の差と言える程の対立は、現地軍作戦指導に少なからず障碍をもたらしたのは間違いない様です。

同著は沖縄戦の作戦・戦術・戦闘状況の考察で埋め尽くされています。これは当時の周囲への目配りの違いか、或いは執筆の目的による必然なのか不明なのですが、八原高級参謀の手記とは大きく対局を為すものです。それはともかく、神参謀が沖縄で作戦指導に従事したのは正味2カ月半程でした。それは長参謀長の命を受け、大本営や陸海軍航空部隊に実情を話し、もう一度航空作戦を再考するよう依頼する目的で5月30日の夜8時に糸満の名城海岸を出発した事によります。奇跡的に東京への帰還に成功しましたが、その脱出行も詳述されています。

「戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦」

防衛庁防衛研究所戦史部著 (株)朝雲新聞社 昭和43年(1968年)初版

戦史叢書(せんしそうしょ)とは、防衛研修所戦史室(現在の防衛省防衛研究所戦史部の前身)によって編纂され、朝雲新聞社から刊行されています。自衛隊教育及び研究に資する事が本来の目的とされていますが、一般利用者向けにも配慮しているとの事です。本書は旧日本陸海軍で編纂された戦史に相当すると言う事で、準公的な意味合いを込めて公刊戦史とも呼ばれます。

読んでみると解りますが、占領軍の接収から秘匿されて残された大本営内部の文書や、引き揚げ部隊の将兵が執筆している事から、師団及び隷下部隊の動き、要所に於ける作戦経過が詳細に記述されており、沖縄戦について研究したり、勉強する人達には最重要の基礎史料となっています。

しかしながら作戦面に重きを置き過ぎている嫌いがあり、戦争指導の根本的なあり方や、そうした経緯を含めた議論とその経過や結果に関わる詳細な分析について、論述が不足しているのは否めず、作戦とその立案課程の概要が見えにくいと言われてもいるのが実情です。

「沖縄決戦」 高級参謀の手記

八原博通著 読売新聞社 昭和47年(1972年)初版

牛島司令官、長参謀長そして八原高級参謀と、沖縄第三十二軍の指揮した八原博通陸軍大佐の著作です。沖縄戦を深く知りたいと思われる方には必須の、第一級著作であると思います。同著を読んでの第一印象は、あたかも八原高級参謀の横に居て沖縄戦を俯瞰できたという点を強調したいです。同著により沖縄戦が目の前で展開しているような錯覚を覚え、気持ちの全てが本の中に入ったように感じた程でした。また一兵士の書いた戦記は一兵士の目線から(この目線で数冊読破しています)、八原高級参謀の手記は指揮官からの目線で書かれた言う意味で貴重な著作であると感じます。

大部の著作には、「序」とか「まえがき」、そして「あとがき」と言うのが大概ありますが、そこにこそ著者の書かねばならなかった動機や書いた事の総括や結論が書き込まれている場合が多いですね。この著作もその例外でなく、そうした八原高級参謀の強い思いが表出しています。それではまず同著の「序」から見ましょう。

「戦後、幾多の史書に、軍が拱手して、アメリカ軍を上陸させたとして、とかくの批判がある。しかしこの時機におけるわが軍の行動について深く掘りさげた論議をあまり聞かないのは残念である」

「実に奇怪な沖縄戦開幕の序景ではある。戦艦、巡洋艦それぞれ十余隻を基幹とする、強大なアメリカ太平洋艦隊。有力なるイギリス艦隊、彼我地上軍あわせて三十万、敵味方の飛行機数千機、そして多数の沖縄県民をまき添えにした陸海空一体の歴史的大会戦の序景にしては、いかにも腑に落ちない異常さである。アメリカ軍は、ほとんど防御のない嘉手納海岸に莫大な鉄量を投入して上陸する。敵を洋上に撃滅するのだと豪語したわが空軍は、この重大な時期に出現しない。沖縄の地上軍は、首里山上から悠然皮肉な微笑みをもってこれを眺めている」

また「あとがき」には次のような記述が見られます。

「私には沖縄作戦全般を通じて、痛憤禁じ得ないものがある。それは現実を遊離して夢を追う航空至上主義と、はだか突撃で勝利を得んとする地上戦術思想とに対する懸命な抗争であった。このような主義や、理想は太平洋戦争の緒戦期には、確かに通用した。しかしその中期、特に後期においては、現実にはもはや幻想となっていた」

「私はこうした先見と洞察のもとに、沖縄作戦の構想を決め、全軍十万の将兵はこの方針に従い、数ヶ月の間戦闘を準備したのである。もちろん軍司令官、参謀長も私の考えを承認されていた。しかるに、敵が嘉手納に上陸するや、大本営、方面軍はにわかにあわてて北飛行場への全軍突撃を命令した」

「しかし、中央の軍に対する攻勢要求は、参謀長の性来の攻撃的性格に油を注ぐ結果となった。そして四月十三日の夜襲、ついで五月四日の攻勢を蜂起し、私の構想は根本的に破壊されたのである。大攻勢が失敗した五月五日夕、軍司令官は直接私を呼びつけ、軍の作戦の失敗と、私の一貫した判断の正当であったことを認め、自今軍全般の作戦を私に一任する旨申し渡された。しかし時すでに遅く‥」

上掲文の文脈通り、八原高級参謀の書かねばならなかった理由が強い筆致で明かされていると感じました。

大部な著作を読破して感じた事は、昭和19年7月に大本営は捷号作戦を発令し、9月末までに3個師団半といえる、第九師団、第二十四師団、第六十二師団、そして独立混成四十四旅団の戦備を完了していました。これは長参謀長の算定した希望兵力であった事から、この時点では第三十二軍として必勝の信念に燃えていたと思われます。しかしながら、あろうことか大本営は第九師団の台湾への抽出を伝えてきました。第三十二軍司令部にとって、これがどれほどの痛恨事であったかは、11月4日に台湾の台北で開催された会議への牛島司令官の指示によく表出されています。

第九師団の抽出は、米軍の鉄量何するものぞと必勝の信念に燃えていた第三十二軍が、一朝にして戦意を喪失する結果となりました。もし第九師団の抽出がなければ、沖縄作戦の様相は一変し、一度や二度は米軍に苦杯をなめさせた可能性があるように思えてなりません。

そしてまた沖縄第三十二軍の戦意を重ねて喪失させる事態が起こりました。第九師団の穴埋めとして第八十四師団の沖縄派遣を第三十二軍に伝えましたが、何と翌日には派遣を中止すると通告して来たのです。第九師団の抽出と第八十四師団の沖縄派遣が一日で中止‥。この二つの事態がダブルパンチとなって、すでに書いたように第三十二軍の戦意が喪失すると共に、上級方面軍や大本営に対して、強い不信感を抱く事となったのです。この二点については、悔やんでも悔やみきれない、大本営の沖縄作戦最大の過失であると感じました。

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