平成31年(2019年)沖縄遺骨収集奉仕活動

1月25日(金) 摩文仁海岸線で調査・遺骨収集

今日も晴れ時々曇りの天気予報です。今年は本当に天候に恵まれています。調査・遺骨収集奉仕活動を開始してから、雨が降ったのはたったの一回です。こんな年は珍しいですね。私達はなぜ晴れや曇りの日を渇望するか‥。それは雨合羽を着るのが億劫だ、汗をかいていやだ! とかではなく、晴れるとジャングル全体が明るいので地表面が良く見えるのです。雨の日の露面と比較して、その差は余りに大きいと言わねばなりません。と言う事で、ジャングルが明るいと御遺骨発見の確率は格段に高まります。今日も頑張ります。(^o^)

今朝は「沖縄師範健児之塔」「南冥の塔」「金井戸」(チンガー)を慰霊巡拝します。朝の元気な内に (^^;)、ご一緒に慰霊巡拝しましょう。(^o^)

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.1

摩文仁にある平和祈念公園へ向かう途中、カエンカズラがあるのを発見しました。まだ蕾であるのが残念ですが、開花したらオレンジ色満開で遠目でも目立つでしょう。ちょうど見頃を迎えたカエンカズラが咲き誇る写真が過去にありましたから、ここで転載してご紹介します。

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子15

糸満市南波平集落にある沖縄そば「百美」さんの店頭です。お店の門でもあります。この写真は平成22年(2010年)に金光教沖縄遺骨収集奉仕活動の事前調査の時に撮影されたものです。林先生他懐かしい皆さんが写されています。ご覧のように門には見事なカエンカズラが咲き誇っていました。カエンカズラはつる性植物ですから横にグングン伸びるのですね。このお店では15mぐらいの幅で見事に咲いていました。※「百美」さんは本業の造園業が忙しくなったとの事で、お店は閉店したそうです。沖縄そばも凄く美味しかっただけに残念ですね。

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.2

ここが参道入り口ですね。この先に沖縄師範健児之塔や南冥の塔その他の慰霊塔などがあります。

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.3

「沖縄師範健児之塔」に向かう参道に写真の緋寒桜がありました。まだ満開にあらずという状態でしょうかね。これまで三十年ぐらいこの緋寒桜を見守り続けてきましたが、可哀想に近年は元気がありません。かつて勢いよく咲き誇った樹勢と比較して何十分の一程度に花数が減っています。樹勢が衰えた原因として考えられるのが、①株の周りはコンクリート製の階段となっており、元々岩場であったのに周囲をコンクリートで固められてしまい、根が十分に水分を吸えない。②台風が襲来した場合、この場所は遮蔽物がなく、海から塩分を含んだ強烈な風が吹き付け、枝葉が塩を浴びて深刻なダメージを受ける。等が考えられます。元気になってほしいですね。

「沖縄師範健児之塔」

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.4

駐車場に車を留め参道を降りていくと、70メートルぐらい進んだ所にトイレ休憩所があります。そのトイレ前の道が三叉路になっており、「沖縄師範健児之塔」に行く道、「南冥の塔」に行く道、そして海岸に到る道(途中「金井戸」という湧き水が出ている場所あり)の三方向に分岐しています。この分岐から更に50メートル程進むと、眼前にご覧のように「沖縄師範健児之塔」が見えて来ます。一昔前は、樹木が生い茂り、一人で訪ねるのが憚られるぐらい鬱蒼として暗く陰気な雰囲気でしたが、現在は樹木も伐採され明るい雰囲気となっています。

ちなみに「沖縄師範健児之塔」があるこの場所は、摩文仁のハンタ原と呼ぶ場所にあります。原という名がついているので原っぱになっているのかという事になりますが、さすがに農業が出来るほどの原っぱはありません。遠くから見ると平らなように見えるというレベルでの平坦さです。巨大な岩がゴロゴロありますから、とても平らな場所とは思えないかも知れませんが、周囲が隆起した岩場だらけですから、目の錯覚か原っぱであると見えてしまうのです。その例えは「黎明之塔」から展望して頂ければ一目瞭然だと思います。但しこれは「黎明之塔」から、つまり遠くから俯瞰した情景であり、その「原っぱ」に降りてみれば岩場だらけですから、その場に立てば、例えば北アルプスの剱岳八合目を登っているような印象を持つかもしれません。(^^;)

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昭和25年(1950年)6月に建立された「沖縄師範健児之塔」ですね。沖縄師範学校の野田貞雄校長ほか、戦没職員17名、生徒289名、計307名を祀っています

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.8

沖縄師範健児之塔の由来と鉄血勤皇師範隊の編成が書き記されている碑です。

【沖縄師範健児之塔の由来】

この塔は、一九四五年の沖縄戦で散華した沖縄師範学校男子部の野田校長以下職員・生徒の御霊を祀ったものである。

鉄血勤皇師範隊は、三月二十一日沖縄守備軍の命令によって編成された。以来、同隊は軍と共に首里戦線からここ摩文仁の地まで勇戦奮闘し三百十九柱の職員・生徒を失った。誠に痛ましく断腸の思いである。

時は流れて一九四七年、幸運にも生存した当時の在学生が、これら戦没学友の冥福を祈って塔の建立を発起した。戦後の混沌とした世相のなか苦労して募金運動を展開し同窓の先輩諸氏の協力を得て、一九五〇年五月二十五日この塔を完成した。

【鉄血勤皇師範隊の編成】

本部(隊員一六名 戦死一三名)
師範隊の指揮、軍司令部との連絡調整、食料の調達および師範隊の炊飯を担当

情報宣伝隊(隊員二二名 戦死九名)
千早隊とも呼ばれ、軍の情報や戦果の宣伝活動、占領地へ潜入して地下工作活動など

斬込隊(隊員五七名 戦死四六名)
菊水隊とも呼ばれ、敵の背後斬込みによる後方攪乱、軍司令部の歩哨勤務、負傷者の搬送など

野戦築城隊(隊員二四三名 戦死一二二名)
陣地構築や対戦車壕の敷設、主要道路や橋梁の補修や祖絶、弾薬や食料等の搬送など

特別編成中隊(隊員四八名 戦死三六名)
野戦築城隊から選抜して編成され軍司令部護衛、急造爆雷による対戦車攻撃など

現地入隊(隊員七五名 戦死六四名)
一九歳に達した学友が三月一日現地部隊に入隊

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「沖縄師範学校沿革」です。ギリギリ読めますね。

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沖縄師範学校男子部は、昭和20年3月31日に、職員も含めて386名全員が軍名により動員されました。386名の生徒達は鉄血勤王師範隊を編成し、本部、切込隊、千早隊、野戦築城隊、特別編成中隊を組織し、4月1日より守備軍司令部と共に作戦に参加しました。負傷兵の治療の補助、陣地構成、炊事、立哨、情報収集や伝達などの任務を担いました。そして5月下旬より戦況不利になると司令部と共に南部地区へ撤退し、最終的にこの摩文仁の壕まで退却しました。6月19日軍解散命令の出たあと敵軍に斬り込む者、この壕内で自決する者など、多くの犠牲者を出しました。また奥に見える立像は「平和の像」です。

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.11

平和の像の右下にご覧のように、初代沖縄師範健児之塔がひっそりと建っています。なぜ初代の健児之塔はここに建てられたのかなと思ったら、この小さな碑とも呼ぶべき塔の下に沖縄守備軍管理部の壕があるからなんですね。

この初代沖縄師範健児之塔は、終戦後の旧真和志村(現那覇市東部)村長に就任した金城和信氏が、昭和21年(1946年)4月に「ひめゆりの塔」「魂魄之塔」と共に建立したものですね。金城氏は沖縄戦で最愛の娘二人を失った事もあり、戦後の混乱期にも関わらず、慰霊塔(碑)の建立と、遺骨収集を含めた戦没者の慰霊活動に全力で取り組まれた方です。

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ひめゆり学徒を引率した仲宗根政善氏は、若人の死を悼んで次のように詠みました。

南の 巌のはてまで 守り来て 散りし龍の児 雲まきのぼる

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.7

読めますね。

「平和の像」

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.12

「平和の像」です。

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.13

「平和の像」です。この像は、九死に一生を得て戦場から生還した沖縄師範学校生であった大田昌秀氏、外間守善氏、安村昌享氏らが、後に自らの戦場体験を綴った「沖縄健児隊」を刊行し、それが松竹により映画化された際の印税などを元に、大田氏が中心となって製作建立したものだそうです。像は彫刻家野田氏の作で、向かって右側の少年が「友情」を、中央の少年が「師弟愛」を、左の少年が「永遠の平和」を象徴しているとの事です。

ちなみに立像の下に碑の説明文があるのですが、ちょっと全文の判読は難しいです。中途半端な形ではご紹介できないので、いつの日か「平和の像」か改装されて碑文が新しく掲示されたらご紹介させて頂きます。

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.14

「平和の像」の後ろ側に回るとご覧のような風景になります。小さな壕なのですが開口部は大きいです。壕口は東を向いています。壕口は海上に展開する米軍からは見えません。また米軍機が上から見ても壕口があるとは絶対に見えないはずです。そして階段のある側は巨岩がそびえ立っていますので、「黎明之塔」がある上部からも壕口は全く見えないという実に素晴らしい場所にある壕だと解ります。また壕内はL形になっていて、直撃弾を浴びる可能性も低いです。ここは絶好の避難壕だと感じました。この壕内で昔、遺骨収集をやった事がありまして雑骨が多数発見されました。その時に頭に浮かんだのは、この壕で亡くなられた将兵はナパーム弾にやられたのだろうなと考えました。

ちなみにこの壕がある場所に注目です。と言いますのも「平和の像」横にある階段を登っていくと、摩文仁における第三十二軍司令部壕があります。またこの壕から下に目をやると、40メートルぐらい先には司令部の炊事等を行う第三十二軍関連部隊が入っていたと推測されるとても大きな壕があります。私と吉井さんで確認していますが、立哨兵が立っていたと思われる石組みで造作された半坪ほどの平坦な地面が、周囲の風景に不自然なほどキチンと整地されていた事から、二人でそのように推測しています。話が少しそれましたが、当然重要なその二つの壕を伝令や食料や水を調達するために将兵が行き来したと思われますが、その行き来するルートの途中にこの学徒隊が居た壕があり、これは単なる偶然ではないと思われます。鉄血勤皇隊師範隊の特別編成中隊の任務には、軍司令部護衛というのもあったと書き記されていますのでね。

沖縄戦を詳細に書き記した『沖縄決戦』(八原博通著)によれば、「小径を下りつくした脚下の海岸には直径十数メートルの泉があり、その傍らには巨大な奇岩に囲繞された洞窟がある。泉は命の綱とたのむ唯一の給水源で、洞窟は炊事場になっている。戦況急迫した場合、果たして山上の洞窟と断崖下の生命源が連絡を保持し得るや否や…」と書かれています。

これは摩文仁の第32軍司令部の洞窟から見た状況ですから、「直径十数メートルの泉」とは、チンガー(金井戸)を指しているのは間違いないでしょう。また「その傍らには巨大な奇岩に囲繞された洞窟がある」と書かれていますが、チンガーの周囲にある巨大な壕とは、私が指摘する壕以外には見当たりません。炊事場というのは第三十二軍司令部の炊事場という事になろうかと思います。現在この学徒隊が居た壕の上はコンクリート製の階段が整備されていますが、沖縄戦当時も上の司令部壕まで登りやすい地形ではなかったかと推測されます。私も実際の階段の両側で遺骨収集をやった事がありましたが、現在の階段ルートが一番上りやすいルートであると認識した事を覚えています。

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.15

上の写真の壕入り口から入り、今度は壕の中から外を写しています。大きな開口部です。眼前で直撃弾が炸裂すると甚大な被害が出る懸念はありますが、開口部そのものは東北東を向いているので、海から全く見えませんし、恐らく空を飛んでいる米軍のトンボからも発見されなかったと推測されます。

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.16

「平和の像」の下の壕内の様子です。ブロックで仕切られた内部は納骨堂になっています。ブロック塀は岩の下に積み上げられている関係で工事の仕上がりが甘く、上端がキチンと埋められていないため納骨堂内部を容易に見られるのです。ですから定点観測のつもりで、ついつい中を見てしまうのですが…。

納骨堂内部に就いては、30年ぐらい前は満杯レベルで大腿骨や頭骨など大きなご遺骨が山のようになって納められていました。しかしながら近年は地面が見えるぐらいに激減しています。推測するにご遺骨は土の中にあるよりも、一定の湿気がある空間にある方が微生物分解による滅失が早いのではないかと感じます。空間の湿度がカラカラに乾いていれば別でしょうが、この壕内の納骨堂は、この壕内の一番低い部分に設置されていますので、恐らく台風などの大雨の時は水浸しになる可能性もあると思われます。比較的乾燥しているこの時期でも、ここに入ると湿気を感じるぐらいですからね。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.17

ここが壕の最奥部といってよいでしょう。とても狭いです。

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.18

上の写真で最奥部ですとご紹介しました。その最奥部が右側だとすると、この写真は左側だと言えるでしょう。そうなんです。この壕は左右二カ所隠れる場所があると言えます。ただここは壕とは言えないでしょう。ご覧のように光が入っているのが見えます。ちょっとした穴という感じです。そうした意味でも、この壕はナパーム弾攻撃かガソリン攻撃に極めて脆弱であったと推測します。

因みにこの写真に写されている地面で、昔そうですね。20年以上前ですが、手足等の細かい御遺骨を大量に収集しました。手足など大きい骨が収骨された後の、残りの小さな御遺骨という事ですね。

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.19

ちょっとした穴ですから、上を見るとご覧のように空が見えますし、無理なく登れる坂道があります。私の見立てでは、摩文仁高地にある司令部壕と下にある金井戸川という井戸や炊事場壕との行き来は、ここを通ったのではないかと推測しています。この壕の上にある沖縄師範健児之塔が設置してある場所は海から丸見えですし、そこから先は金井戸川に向けて隠れ場所がないのです。一方ここを登っていくと海から見えませんし、少なくとも後30mぐらいは金井戸川に向けて珊瑚礁の岩陰を進む事が可能なのです。

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.20

壕から出ました。この階段を登っていくと、黎明之塔や軍司令部壕などがある摩文仁89高地に出ます。更に進むと各県の慰霊塔が並んでいる地域に出ます。

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沖縄師範健児之塔の参拝を終え、今度は向かいにある南冥の塔を慰霊巡拝します。因みに参道右側から5mぐらい入ったジャングル内で、私は御遺骨を発見しました。完全一体と呼ぶレベルではありませんでしたが、長さ2メートルぐらいの岩陰にへばりつくように御遺骨が並んでいたのが印象的でした。

「南冥の塔」

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.22

駐車場から100メートルほど階段を下っていくと、ご覧のような案内石塔が見えますので、案内に従って右折していきます。

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.23

キチンと整備された歩道がありますので、夏などでもハブ等の出没を気にすることなく参拝できると思います。写真奥に「南冥の塔」があります。

突然ですが皆様、この道が無い状態、つまり左右の木々が鬱蒼と茂る状態が画面一杯に連続しているというイメージで見て頂けますか。金光教那覇教会の林先生によりますと、金光教がここ摩文仁で遺骨収集を始めた今から40数年前の頃は、この道は無かったという話ですよ。ですから林先生も、まさかこの奥に慰霊塔があるなんて長く気づかなかったと言います。私達が車を止めた大きな駐車場横にあるお土産屋さんを経営されていた、前門キヌさんという方に案内されて初めて林先生は「南冥の塔」の存在を知ったそうです。その頃の前門キヌさんは「南冥の塔」の墓守をしていたのです。人との縁が繋がって道が開けるという良い事例ですよね。

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平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.25

何やら白い看板が見えてきましたね。もうすぐです。

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.26

歩道突き当たりには、ご覧のような南冥の塔説明文が設置されています。この説明文も新設されたものですが、すでに結構汚れていますよね。季節によってはスコールと呼ぶべき強い雨も頻発したりしますから、亜熱帯に属する沖縄は年間を通して厳しい環境にあると言えるかもしれません。本文はギリギリ読めますが、テキストに起こしてみました。(^o^)

【南冥の塔解説文】

沖縄戦終焉の地であるこの一帯には、米軍に追いつめられ逃げ場を失った多数の日本の軍人軍属、一般住民が米軍の連日連夜にわたるすさまじい砲爆撃により傷つき、斃れていて、死屍累々といったその様はこの世の地獄絵図かと見まごうような悲惨な光景でした。 この南冥の塔は、沖縄戦に参戦し、その惨状が念頭から離れなかったという日系二世の米兵ヤマモトタツオ氏が中心となり、昭和二十九年九月、この一帯に放置されていた身元不明の兵士、住民の遺骨一万二千柱を集骨して建立されました。 現在、この塔の遺骨のほとんどは沖縄戦没者墓苑に移され、ここには一部が分骨されて祀られています。 ここに追悼の意を表し、戦没者の御霊を慰めるとともに、安らかならんことを祈ります。

内閣府沖縄総合事務局 

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.27

歩道を突き当たると碑の説明掲示板があり、右上に「南冥の塔」が見えてきます。

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.33

「南冥之塔」です。平成26年に改築新装なって、真新しく精々しい雰囲気となっていますね。ところで那覇教会の林先生が、沖縄に点在する慰霊塔の前で慰霊祭を最初に行ったのが、この「南冥の塔」だったそうです。慰霊祭の依頼者は、この慰霊塔の墓守をしていた前門家のキヌさんでした。という事で金光教の遺骨収集奉仕活動とこの「南冥の塔」とは、切っても切れない縁があると言えるでしょう。

林先生は、毎年6月23日の沖縄戦終結の日に合わせて、ここ「南冥之塔」で慰霊祭を仕えられています。前門キヌさんに「南冥之塔で慰霊祭をぜひ…」と相談を持ちかけられたのが昭和51年、今から43年前の話という事になります。これ以降林先生による「南冥之塔」での慰霊祭は、現在まで途切れることなく続けられているそうです。毎年本当にお疲れ様でございます。

国立の墓苑は日本全国で千鳥ヶ淵と摩文仁の二カ所しかありませんが、この「南冥の塔」もなんと国立墓苑に指定されており、それがために、林先生が祭主を務める6月23日挙行の慰霊祭には、国の出先機関である内閣府沖縄総合事務局長名で生花が届けられるそうですよ。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.28

日系二世の米兵ヤマモトタツオ氏が、摩文仁を立ち去るにあたり、刻み込んだ碑文は次の通りです。

「銃とらぬ諸人の 御霊永遠に神鎮まりませと 祈りつつ吾れ 此の碑を捧げまつる
一九五四年九月拾四日 沖縄戦参加一米兵」

日系二世の米兵ヤマモトタツオ氏が、沖縄戦の渦中、日本軍を掃討するため摩文仁で作戦を遂行中に、赤ん坊の泣き声がするので、声を頼りに辺りを探してみると、砲弾に打たれ死んでいる母親の血塗られた乳房をまさぐりながら、飢えて泣いている赤ん坊が居たそうです。しかしながら掃討戦の作戦遂行中であり、手当もせずその場を立ち去ったそうです。

やがて戦争も終わり、除隊となって郷里に戻りましたが、その時の光景がたびたび夢に出てくるというのです。それでいたたまれず、単身沖縄にやって来て、前門家の庭にテントを張らせてもらい、現在の南冥之塔がある一帯で遺骨収集を一ヶ月ほど続け、ご遺骨を塔の横にある壕に納めたそうです。

ところで、金光教の遺骨収集奉仕活動の運営を一手に担っていた運営委員会時代に、この解説文に書かれている、日系二世の米兵ヤマモトタツオ氏を、米国からお招きして、南冥之塔前で慰霊祭を…。という動きがありました。

もう何年前になるでしょうか、おそらく25年以上前であったと記憶していますが、少し記憶がぼやけてきています。いすれにしてもヤマモトタツオ氏招聘の足掛かりを掴むべく、米軍及び米軍軍属の方々の、金光教の遺骨収集参加を一元的に任されていた、米軍軍属のブレブル松枝さんという方を通して、米国で新聞投稿をして広く情報を求め、そしてついに日系二世の米兵ヤマモトタツオ氏の所在を突き止められたそうです。 しかしながら、その結果は…。

ヤマモトタツオ氏ご本人は、戦闘疲労症(PTSD)になっており、「訪問は止めてほしい」と、ご家族の方が直接語られたと聞いております。

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.29

壕の入り口を写していますが、ご覧のように段ボールが置いてありますね。昔もこの壕に70歳台と思われるおばさんが住んでいましたが、また誰か住み始めたようです。もしかしたら同じ人かもです。(^^;)

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.30

ポリバケツのフタが干してあります。昨年はこのような物は無かったので、この一年の間に住み始めたと思われます。住み始めた方は、また女性でしょうかね。女の人は強いですね。

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.31

壕内の様子です。最近掘り起こされた印象がありました。

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.32

壕前には守備軍将兵個人の慰霊碑も幾つか建立されています。

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.34

エンジェルストランペットです。もう20年以上前から、ここにに生えている元気な花木です。昔はダチュラという名でしたから私もダチュラとつい呼んでしまいますが、今は改名してエンジェルストランペットと呼ぶそうです。大きなラッパ状の花がぶら下がるように開花する熱帯花木ですね。品種によっては夜間、花が香るそうです。熱帯植物ですが寒さには比較的強く、関東地方のほとんどの地域では地上部が枯れても地下部から芽が出てまた開花します。確かに東京の新宿でも通勤途上ですが、毎年元気に花を咲かせるエンジェルストランペットが植えられています。鉢植えでは大株に仕立てないと花が楽しめず、また風で倒れやすいので庭植えにして楽しむほうがお勧めとの事です。庭植えにして大株にすると、一度に50~100輪ほどのたくさんの花が咲く事があります。通勤途上で見かけるエンジェルストランペットもそうでした。ものすごい花数で送還でした。

但しこの花は強い毒があるので、扱いには十分注意してください。因みに私も家庭菜園をやっていまして、余った土地にこのエンジェルストランペットを植えまして、それは見事な花々が咲き誇っていました。しかしある日おばさんがやってきて、「このエンジェルストランペットの花粉は強い毒があるので、野菜の花にこの花粉が付くと危険な野菜になってしまうので切って欲しい」と言われました。調べてみるとその通りで、花・葉・樹液すべてに毒があるようです。特に目に樹液が入ると失明のリスクがあります。但し正しい分量で調合すると薬にもなるそうです。これらの事を調べて納得したので、大きな木に成長していましたが、すぐに切り倒してしまいました。庭の花壇に植えるなら何も問題は無いと思いますが、管理作業では要注意です。また花粉が飛散する範囲に畑がないか等、一応見渡して気にした方が良いと思いますね。

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.35

エンジェルストランペットを横に観ながら降っていきます。しばらく直進するとご覧のように遊歩道は左に折れていきます。

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.36

チンガー/金井戸川が見えてきました。

「チンガー/金井戸川」

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.37

海岸に至る遊歩道から見たチンガーの様子です。写真奥の巨岩の下に井戸があります。その井戸から写真手前に溝が出来ていますが、これが川であり金井戸川と命名されているようです。今は水は流れていません。そもそも現在水が貯まっている井戸の位置と、この金井戸川の川底の位置を比較すると、井戸の水位の方がかなり低いので、水が川のように流れようがありません。梅雨時はどうなんでしょうかね。

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.38

チンガー(摩文仁のムラガー/金井戸)と呼ばれる井戸です。湧水量が少ないと感じますね。沖縄戦を詳細に書き記した『沖縄決戦』(八原博通著)によれば、「小径を下りつくした脚下の海岸には直径十数メートルの泉が…」と書かれていますから、沖縄戦当時と比べて湧水量は僅かとなっています。ただチンガー背面と東側に広大で緩やかな勾配の傾斜面を有していますから、梅雨時などかかなりの水量の湧き水があるのかなと思われます。また摩文仁之丘には井戸は二カ所しかありません。もう一カ所は海岸線に沿って東に1キロメートルぐらい行った先にありまして「ワシチガー」と言います。両井戸ともに米軍に井戸の存在が知られていましたから、チンガーを含めた両井戸への水汲みは決死の行動だっに違いありません。

チンガーの現在の様子です。セメント等の構築物は戦前のものか戦後のものかは不明です。昔から井戸は使わないと枯れると言われる事もありますが、正にそのような状況になっています。

沖縄戦解説本などで見るチンガーの項目では、「夜になると兵士や住民が水を求めて殺到したが、米軍による砲撃や機銃掃射で多くの犠牲者が出た。井戸の周りは死体であふれ、その死体をどけてから水をくんだ。しかもその水は血に染まっていた」という表記が為されていたりしますが、井戸の南側は小高い丘になっており、海に居並ぶ米艦船からはチンガーは全く見えません。井戸の畔に立ったとしても海からは一切姿は見えません。ですから井戸の畔に集まった人々を機関銃で直接狙撃する事は出来ません。

チンガーは死の泉として恐れられた事は間違いありませんが、米軍はチンガーの前面に哨戒艇を常駐させていたので、恐らく迫撃砲など曲線を描く砲撃が多用されたのではないか、或いはチンガーの周囲50メートルとか100メートル内に入る人影を狙って機関銃などで狙撃するという状況ではないかと推測されます。いわゆる曲射砲によるめくら撃ちですね。

戦後七十余年を経て、現在のチンガーの周囲は緑豊かな木々が茂っていますが、沖縄戦当時の白い石灰岩の丘陵であった事をイメージすると、井戸の周囲100メートルぐらいを俯瞰しても、思いのほか岩などの遮蔽物が少ないです。夜間に水汲みに成功する将兵や避難民も居たでしょうが、遮蔽物が全くない傾斜面は確実に人影が曝露し、照準が合わせられている機関銃などで狙撃された可能性があります。

一方上掲文でご紹介した摩文仁にもう一カ所ある泉についてですが、チンガーから見て、海岸線に沿って東に1キロメートルぐらい行った先の、摩文仁のもう一つの井戸である「ワシチガー」は、井戸の周囲100メートルぐらいを俯瞰した場合、傾斜面は一切の遮蔽物はなく、海岸の岩場しか遮蔽物はありません。ですから井戸及び周囲の広範囲がに米軍艦艇に曝露しており、こちらの井戸の方がよほど命がけであったと推測されます。

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.39

「金井戸川」と書かれています。昔はしっかり金井戸川と読めましたし石板も割れていませんでした。近年はご覧の通り殆ど読めません。これでは初めて訪れた方は、何と書いてあるか解読できないでしょうね。

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.40

金井戸川です。井戸に比べて川底の位置がとても高いです。

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.41

遊歩道を進むと海岸の砂浜まで行けます。写真は金井戸川を過ぎると今度は上り坂になります。

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.42

遊歩道の坂道の頂上に到達しました。後は降っていけば砂浜にでます。写真は木々の間から撮影した為、海の明るい部分にカメラが自動的に露出を合わせようとしている為暗くなっています。解りにくいですが、明るい部分の一部に海が写されています。

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.43

一段高い所に立ちました。下に金井戸が見えますね。ここは拝所もあります。金井戸は大きな岩の下にあるのが見て取れます。丸っこい岩です。

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.44

上の写真を撮影した場所に立ち、180度方向を変え、海側にカメラを向けて撮影しました。ご覧のように海は全く見えません。金井戸よりも一段高い所に立っても見えないのですから、匍匐前進する事なく、井戸際に普通に立っていても、海上に浮かぶ哨戒艇などから発見される可能性はゼロである事が解ります。

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.45

上の写真は金井戸の少し東側に立ちましたが、この写真は金井戸の少し西側に立ちました。写真中央部が一番低い所、くぼんでいる場所であるのが見て取れます。つまりは海上に浮かぶ哨戒艇から、この金井戸に居るのが見えてしまう可能性が一番高い場所です。写真には木々繁り海は全く見えませんが、沖縄戦当時のように木々が無いイメージで観つつ、金井戸から坂道を少しずつ道を登って、もうこの位置だと海上に浮かぶ哨戒艇から見えるかな‥。という所で撮影してみました。この私が立っている場所は金井戸から結構高い位置になっています。私は立って撮影しているので、日本軍将兵が匍匐前進でこの写真に写されている場を通過するなら、艦船からは全く見えないと断言できるでしょう。

この金井戸には戦死体が積まれ、井戸の水は赤く染まっていたという証言があり、現場は常に悪臭と共に悲惨な状況だったようです。と言う事で、水を求めここで亡くなられた日本軍将兵は、照準を合わせられて狙撃されたというよりは、曲射砲によるめくら撃ちで亡くなられた可能性が高いと感じます。

調査・遺骨収集作業開始です

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.46

作業開始に先立ち、戦没者の鎮魂を願い手を合わせました。m(_ _)m

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.47

今日も天気は良好です。有り難いです。本日は右から松永さん、豊澤さん、そして福岡さんです。今日も頑張って参りましょう。(^o^)

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.

松永さんがお饅頭を持参して下さいました。ありがとうございます。(^o^)
私は初めて見ましたが、「の」の字が、食紅を用いているのかな赤い字で書かれています。松永さんがお持ち下さったお饅頭は、創業100年以上の老舗で、首里の「ぎぼまんじゅう」が作る「のまんじゅう」だそうです。言葉では、「のー饅頭」とか「のぅ饅頭」と発音するようです。小麦粉をイースト菌で発酵させた生地で甘さをひかえた粒あんを包み、月桃 (サンニン)の葉の上に載せて蒸したお饅頭です。松永さんは三時のおやつとしてお持ち下さったみたいですが、とても美味しそうに見えたので、その場で半分ぐらい食べてしまいました~。(笑)

どのお饅頭にも言える事ですが、蒸したての熱々「のまんじゅう」は、沖縄といえども寒い冬にはホッとするお菓子として重宝されており、サンピン茶との相性は抜群だそうですよ。また何れも蒸したお菓子なのですが、「山城まんじゅう」「天妃ぬ前まんじゅう」(戦前、那覇市久米町にあった天妃宮の市場で売られていたのでこの名前がついたようです)、そして松永さん差し入れの「のまんじゅう」を、「那覇三大饅頭」と呼ぶ事もあるそうですよ。松永さん、また買って来て下さいませ~。(^o^)

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.48

ジャングルに入りました。司令部壕のトイレ開口部に向かいます。因みに本日は、これまで見つかった不発弾や小銃弾を自衛隊に持ち帰ってもらうよう手配してあります。併せて糸満警察署にも発見された御遺骨が殺人や自死でなく沖縄戦没者である事の確認をして頂く手筈となっています。

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.49

下りになります。

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.50

松永さんはこの調査・遺骨収集現場は初めてですから、松永さんに発見された遺品や御遺骨を観てもらっています。

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.51

作業続行です。福岡さんの所は、またまた弁当ゴミが出てきましたね。

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.52

福岡さんは手際がいいですね。

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.53

豊澤さんです。御遺骨は小さな隙間にもどんどん入っていきますから、豊澤さんは丹念にそうした隙間を見つけては掘り返していました。

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.54

豊澤さんが作業しています。

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.55

今の段階での発見された遺品や手榴弾・小銃弾です。

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.56

今の段階での発見された御遺骨です。動物の骨はまだ完全排除していません。

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.57

こちらは別の場所で見つかった遺品等です。

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.58

自衛隊の不発弾処理班の方々と、糸満警察署の署員の方がお見えになりました。

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.59

豊澤さんが自衛隊員に、発見された手榴弾や小銃弾等の説明をしています。

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.60

持ち帰る手榴弾や小銃弾を分別しています。

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.61

分別が完了し、自衛隊の班長が持ち帰る手榴弾や小銃弾の数等を記録しています。

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.62

ありがとうございました。お忙しい中摩文仁ジャングルに不発弾の回収に来て頂いた事に感謝です。ジャングルから出て駐車場にてお見送りしました。再度ありがとうございました。(^o^)

陸上自衛隊の皆さんの職務活動をつぶさに拝見しまして感動しているところ、日本の国防問題に触れたくなってしまいました。しばし話は飛びますがお付き合い下さいませ。(^o^)

今香港が大変な事になっています。今のところ人民解放軍は入っていませんが、最早戦争だと言えるレベルに事態は悪化しています。そうした危急の香港を救うべく米国が動いています。「香港人権法」が議会通過しトランプ大統領が署名した事により成立しました。これにより香港問題は新たなステージに突入し、米中対立が経済問題から人権や自由といった価値観を包含する問題へと転換したのです。そうした中で日本は‥。自由主義陣営に身を置く日本が沈黙を続けている‥。あの日本政府お得意の遺憾砲さえ発射なし。ああ‥。

香港弾圧だけでなく、シナによるウイグル人弾圧もまた酷いものです。100万人を強制収容所に入れて拷問している。そして強制収容所では男女を隔離し、戦争でなく子供を産ませない形で民族殲滅を図っている。チベットや南モンゴルも然りです。これらは対岸の火事ではなく明日は我が身と心得ておかねばなりません。

現在、日本とシナとの間には、ぎこちない友好ムードが漂っています。米中新冷戦がその一因になっている事は否めませんが、シナは米国との関係が悪くなると必ず日本に接近して来ます。シナ側からの友好ムード演出を根拠に、日シナ関係が安定に向かうと見るのはあまりに早計だと言えるでしょう。シナの尖閣諸島や沖縄への侵略意図は何も変わっていません。またシナによる北海道への浸透工作がかにり進んでいて、乗っ取られるかもしれないと言う事態に直面しています。

一方、習指導部及びシナ海軍は作戦半径を第1列島線(九州-沖縄-台湾-フィリピン)に拡大し、そしてその後は小笠原諸島やグアムを結ぶ第2列島線を突破し、2050年には世界的な制海権を掌握する構想を描いているのです。シナが取ろうとしている第1列島線上にある沖縄島や南西諸島は、シナが銃口を開けば必ず戦場になります。現状米軍基地や自衛隊基地、台湾軍基地などによって太平洋への出口を塞がれていますが、習指導部が突破できると判断すれば、戦力を集中して奪いに来るのは火を見るより明らかです。日米台の迅速な連携と堅固なる結束が求められる所以です。

《書籍ご紹介》

「日本が消える日 ここまで進んだ中国の日本侵略」

佐々木類著  ハート出版 令和元年(2019年)初版

「日本はすでに侵略されている」

平野秀樹著 新潮新書 令和元年(2019年)初版

「尖閣のみならず、沖縄も日本の領土でない」中国共産党機関紙・人民日報が記事掲載」
(J-CATAニュースから転載させて頂きました)
https://www.j-cast.com/2013/08/16181665.html

「尖閣のみならず沖縄までも領有権を主張する中国の領土観念」
(WEDGE Infinityから転載させて頂きました)
https://wedge.ismedia.jp/articles/-/2125

「中国による「静かなる侵略」に無防備でいいのか 北海道民「5人に1人が中国人!?」計画」
(YAHOOニュースから転載させて頂きました)
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191206-00594829-shincho-cn

そうした尖閣諸島や沖縄への侵略意図を隠さなくなったシナの習近平を、来年春に国賓として招くのだという。日本政府は経団連の言いなりになって忖度しているのでしょうが、国賓で招かれた元首は必ず天皇陛下に拝謁するそうですから、習近平は国賓として皇居に招かれ、雅子様と会釈して向き合う事になる。ああっ目眩がする‥。

動画ご紹介

「本当の対中国戦シナリオ〜元自衛隊幹部が語る【未来編集】」

この様にシナによる第1列島線突破の企図に際会し、沖縄を守る為に米軍の力を借りなければならないとう事は理解できますが、それはひとまず脇に置いて、沖縄に於ける米軍基地問題については、とかく与野党共に普天間飛行場とか辺野古移設とか言う前に、まずは日米地位協定の根本的見直しを最優先しなければなりません。沖縄は硫黄島と並んで国内の戦場となり、割れない皿がないほど沖縄島は破壊され尽くしたのです。そして何よりも県民の四人に一人が犠牲になるという艱難の台地でもあります。

昭和47年に沖縄県は本土に復帰したものの、日米地位協定は小手先の改定で済まされています。米軍基地が多くある沖縄は、頻発する不良米兵による犯罪に苦慮してきました。これら諸問題の根本原因である日米地位協定が大幅に改訂されない限り、沖縄はこれまでも、そしてこれからも米軍基地の存在故の諸問題や米兵による目を覆いたくなる蛮行で、平穏であるべき日常に強い憤りと我慢を強いられる事でしょう。

日本と同じかつての敗戦国であったドイツとイタリアには、NATO条約に基づきそれぞれに米軍基地がありますが、ドイツとイタリアが米国と結んでいる地位協定では、米軍基地内に対してそれぞれの国内法が適用されており、必要に応じて自国政府関係者は米軍基地内に立ち入りが出来るようになっている事を思うと、日本も出来ないはずはないのです。こうした事実を私達一人一人が自分達の事として重く受け止めて、政府を動かす方向に持って行かねばなりません。

自衛隊に武人としての名誉を与えなければならない
こうして沖縄戦に関わる不発弾処理に馳せ参じて下さった陸上自衛隊員の後ろ姿を追いながら思う事は、日本の国防を担う陸海空自衛隊は、悲しくも建軍の本義を与えられず、そして忠誠の対象も明確にされないまま、軍隊なのか大きな警察なのかよく解らない組織として、特別職国家公務員と呼ぶ一公的職業人に甘んじているのが実情です。

しかしながら私達は、彼ら自衛隊員に国家主権の発動としての交戦権を行使するを要請する立場にいます。即ち私達国民は自衛隊員に対し、国難に際しては死んでくれと言っている。これは話の順序が逆ではないでしょうか。まずは自衛隊を日本国軍たる軍隊にして建軍の本義を与える。即ち武士としての名誉を与えるのが先決だと思えます。武人は名誉の為にこそ死ねるのですから。

現在の自衛隊は憲法違反なのが明白であるにも関わらず、国の大本である国防・防衛が政争の具にされ、そしてご都合主義の法的解釈で誤魔化され続けて今日に至りました。今の自衛隊は、「自らを否定する憲法を守る為に戦わねばならない」と言う、大いなる矛盾を抱えているのが実情です。こうした欺瞞に満ちた地位に甘んずる限り、自衛隊は永遠に米軍の傭兵として継子扱いを受け続けねばなりません。

日本の国防は米国に依存しているのもまた事実です。それ故に日米安保体制の名の下に対米従属を強いられて来たのです。例えば首都東京を含む、1都8県に及ぶ「横田空域」は、横田基地に駐屯する在日米軍が未だ航空管制を行っている。これはGHQによる占領時代の話ではありません、令和元年の話です。こうした事態は独立国家としてあり得ない話です。こうした事実を露出させ、敗戦後の占領体制を引きずっている日米同盟から、美辞麗句を剥ぎ取るべき時機に来ていると言えるでしょう。

敗戦が残したトラウマ(精神的外傷)を未だにそのままにした日本は、勝ち誇る戦勝国に押しつけられた国家の基本法を俎上に載せることすら、いまもって不可能です。自民党が55年に結党した時、その大きな目的は日本国憲法の改正であったのに‥。経済的繁栄にうつつを抜かし、仕方ないではないか。どこが不都合なのだ。というご意見もあるでしょう。恐らくは不可避の決断であっただろうと思います。

だがそうした国家主権に関わる、また国家の存亡に直結する国防・防衛を外国に依存するという皮肉な弛緩は、国の頂点にも現れ何より政治の根幹に思考の停止を招来します。そしてそれはまた水が低きに流れるように国家の底辺へと貫通する。この諦めにも似たやるせない対米依存は、日本人の魂を蝕み、道義の頽廃、自立の気概、そして人間としての尊厳を、静かに奪い続ける事になるのです。こうした安全保障から経済まで米国従属という戦後体制の元で、日本人はすべからく精神的自殺を強いられて来ました。

日本が米国に死ぬまで飴玉をしゃぶらされるのでなく、いつの日か、生存を賭け日本国自身の力のみに依って立つ時、社会から噴出するエネルギーはどれ程に上るか‥。戦後70余年を経ながら、私達はこうした国家主権の根幹たる国防問題に頬被りを続けて来た事を恥じねばなりません。国家百年の大計を外国に委ねるのではなく、また日本国の未来を担う若人の為にも、今こそ私達自身の手で日本の歴史と伝統を紡いで行くべきです。

そうです。武人として、国防に命を捧げようとしている自衛隊隊員の為にも、今こそ自衛隊に名誉を与える取り組みを開始せねばなりません。手足を縛られたままの陸海空自衛隊を解き放ち、自衛隊を名誉と栄光ある日本国軍隊であると憲法に明記すべきです。これこそが国防の原点なのですから。

名誉ある死を求め続けた武人の子孫である私達なら、私達の世代で必ずや実現出来るはずです。

沖縄県出身である我那覇雅子さんが靖国神社で講演された動画をご紹介します。講演では沖縄戦で多くの県民が犠牲になったと述べると共に、我那覇雅子さんの親戚の女性も学徒隊として戦禍に倒れたと語っています。また現在の違憲状態にある自衛隊にも触れ、「自衛隊は国民を守り、国民は自衛隊を守るのです」と、印象深い言葉を述べられてもいます。ぜひご覧下さいませ。(^o^)

動画ご紹介

「我那覇真子【靖国神社で感動的な講演! 日本と世界の未来を担う若者からの提言」

脇道に逸れて申し訳ありませんでした。遺骨収集奉仕活動に戻ります。m(_ _)m

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.63

自衛隊の不発弾処理班の方々に謝辞を伝え、お見送りしました。発掘現場には手榴弾や小銃弾が無くなりましたので、何かホッとするものがありますね。引き続きクマデやツルハシを打ち振っての作業続行です。頑張ります。(^o^)

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.64

吉井さん豊澤さんが、頑張って作業続行しています。

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.65

福岡さんはこの場所を掘り下げようと懸命です。

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.66

ご覧のように、ゴミの層は突破したようです。

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.67

豊澤さんはスポット的に掘り下げてみるとの事です。

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.68

急斜面の土は全て撤去しましたから、グングン下に向かって行くだけですね。

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.69

豊澤さんが塹壕のように掘り進んでいます。

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.70

万年筆のキャップ側ですね。本体はすでに発見されていますから、もしかしたらセットの万年筆かもしれません。こちらも損傷が激しく記名を見つけるのは困難なようです。

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.71

ボタンもありました。貝殻で出来ているのかな?

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.72

福岡さんが、グングンと掘り進んでいます。

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.73

豊澤さんも前進中です。

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.74

吉井さんと福岡さんです。

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.75

これまでに発見された御遺骨です。動物の骨も入っています。お弁当ガラが捨てられていたのでやむを得ませんし、お弁当に入っていた骨もまた欠損するレベルに腐植していますからね。歯も出ていますが、これは間違いなく人間の歯である事を皆で確認しています。本日をもってこの現場での調査・遺骨収集作業は終了です。

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.76

発見された鉄類です。これら鉄の塊は、艦砲砲弾や迫撃砲弾等の破片かもしれませんね。

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.77

戦没者の遺品と思われる品々です。

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.78

別の所で発見された御遺骨です。動物の骨も入っています。

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.79

本日の作業終了という事で、帰路につきました。

平成31年(2019年)1月25日/沖縄遺骨収集の様子no.80

あと少しで公園に出ます。本日もお疲れ様でした。(^o^)

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