平成31年(2019年)沖縄遺骨収集奉仕活動

1月23日(水) 摩文仁海岸線で調査・遺骨収集

今日も晴れ時々曇りの予報ですから雨の心配は無さそうです。天候の良い日が続きます。今朝の慰霊巡拝は、「山雨の塔」「南北之塔」、そして「沖縄工業健児之塔」の三カ所を慰霊巡拝します。それでは朝一番、爽やかな朝日を浴びながら、ご一緒に慰霊巡拝しましょう。(^o^)

「山雨の塔」

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.1

糸満市の宇江城という集落の一角に「山雨(やまあめ)の塔」があります。道路脇にあるので見落とす事はないと思われます。フロントにモクマオウの木が一本ありますが、近年は枯れ枝も目立ち少し元気がないです。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.2

「山雨の塔」です。軍旗捧焼の地でもあるようです。山雨の塔(やまあめのとう)とは、第24師団の通称である山部隊の「山」、そして師団長である雨宮巽中将の「雨」を併せて命名されました。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.3

「山雨の塔」です。この慰霊塔は1962年に建立され、第24師団(山部隊)を率いた雨宮中将と幕僚や兵士500柱がここに合祀されています。中央の塔が雨宮中将、両脇の塔が部下の幕僚を表し、部下幕僚が雨宮中将を助けている形を象徴しているそうです。

この師団は満州に駐屯していましたが、昭和19年8月に第32軍に編入され沖縄に転進してきました。第24師団(山部隊)は沖縄戦が始まる前は、那覇から港川ラインの主に本島南部島尻方面の守備に当たっていましたが、沖縄戦が始まって首里に迫る米軍の進軍を阻むために、急遽運玉森から前田高地に至る前線で戦闘に加わり、米軍と激しい戦いを展開した末に、精鋭部隊の兵員を激しく消耗していったのです。

5月下旬、第32軍司令部の首里撤退に伴い、第24師団の残存兵力も順次南部島尻へと退却し、司令部を糸満市の真栄平に置き最後の抗戦に臨んだのです。米軍の圧倒的な火力による激しい掃討戦により、将兵は次々と倒れていき組織的戦闘も不能となった事から、6月30日雨宮師団長は幕僚と共に、「山雨の塔」の横にある壕内で自決し、同師団は壊滅したのです。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.4

書かれている碑文が年々読みにくくなっていますでテキストに起こしました。

【山雨の塔碑文】

大東亜戦争の局運急を告ぐるや昭和十九年八月遙か北満より雨宮巽中将の銃ぶる山兵団長躯沖縄の布陣に参加す翌二十年四月一日上陸せる米軍を迎撃血戦三ヶ月に及んで刃折れ弾尽き六月三十日兵以下幕僚等此の地宇江城跡に於て自刃悠久の大義に生く茲に南方同胞援護会の助成を得て碑を建て永くその偉烈を傳う

昭和三十七年十月 財団法人沖縄遺族連合会 

「沖縄戦 二十四歳の大隊長」 陸軍大尉伊藤孝一の戦い

笹 幸恵著 (株)学研パブリッシング 平成27年(2015年)初版

伊東元陸軍大尉ご自身の著書をぜひ読ませて頂きたいと念じていますが非売品という事で断念。また笹 幸恵氏の著書という事で迷わず購入。しかしながら予想通り、戦記物にしては文体が優しく、戦場の息を呑むような臨場感が伝わってこないのが残念です。それはともかく、「二十四歳の大隊長」というタイトルにも惹かれました。大隊長と言えば平時は少佐ですが、大東亜戦争末期は将校の任官が追いつかずこうした事態になったのでしょうか。いずれにしても、この若さで800名の将兵の命を預かる‥。その重圧たるや想像するのも難しいですね。

歩兵第三十二聯隊第一大隊は、沖縄戦関連では必ず同隊の戦いぶりが出てきますが、更に驚くのは伊東孝一陸軍大尉は、実戦は沖縄戦が初めてと言うのにも驚きました。世に机上の空論という言葉がありますが、伊藤大尉は予科士官学校を卒業して歩兵第三十二聯隊に入隊して以降、研究熱心という性格も手伝って、徹底して戦略や戦術を研究したという経緯があります。世界史を紐解き有名な戦争を分析し続けたのです。そうした机上ではありますが、実地を想定する真剣な学びが、沖縄戦と言う実戦の場で当意即妙に生きたと言う事でしょう。

この「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉伊藤孝一の戦い」笹 幸恵著/(株)学研パブリッシングに、第24師団長 雨宮巽陸軍中将が、山雨の塔の左手にある「クラガーガマ」の中で自決した時の様子が記述されていますので転載させて頂きます。

(251-253頁)
6月23日、師団司令部のあった真栄平の壕は、米軍の完全な包囲下にあった。すでに軍司令部との連絡は途絶え、わずかに隷下部隊の一部と無線が通じているのみだった。この日の夜、師団長は壕の中で自決する覚悟を決めていたという。当番兵が、師団長に夕食を差し出した。師団長はそれを静かに食している。そこへ、それまで壕外と無線連絡を取っていた杉森参謀が来て、「歩兵第89聯隊長と工兵第24聯隊が、今から10分後、新垣の壕で刺し違えて自決します」と報告した。

師団長は表情一つ動かさず、ただ黙って頷いたまま、箸をとり続けていた。

苦難の連続に、恰幅の良かった彼も顔は青白く肉は落ちていた。こけた頬をローソクの灯がゆらゆらとなで回している。

しばらくして杉森参謀が報告した。

「これから各方面との連絡を打ちきり、通信機材を破壊します」

「うむ」

雨宮は短く答えた。

壕の外で銃撃が一瞬弱まったとき、雨宮は誰に言うともなく呟いた。「誰か劇作家がいて、この最期を劇にすれば、きっと素晴らしいものになるだろうなあ」

その夜、動ける者は全員、斬り込みの命令が下された。師団長と幕僚、また動けない重傷者は壕内で自決することになった。

仁位少佐は師団長の近くで、これらの一部始終を見聞きしていたという。彼は斬り込み出撃することになっていた。仁位は師団司令部の苗代参謀と同期である。仁位は苗代に、何度となく共に斬り込みに出ようと誘った。しかし苗代の答えは決まっていた。

「気持ちはわかる。感謝するが、どこへ行っても同じだ。俺は師団長と運命を共にするよ」

わずかに微笑を浮かべてそう言うばかりだった。

仁位は説得をあきらめた。

夜半近く、斬り込みの出撃が迫った頃、苗代は師団長に爆薬の準備が終わったことを告げた。自決組は全員で円座を作り、中心に置いた爆薬で同時に自決するという。雨宮は事もなげに側近に言った。

「ここにとっておきの上等なウイスキーもあるし、一杯機嫌になったところでドカンとやるか」

周囲もまた、何の屈託もなく、また未練もなさそうに何やら世間話をしていた。

仁位は出撃に際し、師団長と苗代参謀に最後の挨拶をした。そして2時過ぎ、仁位は真っ暗闇の中へ飛び出していった‥。

この手記から、雨宮師団長の最期は、6月24日午前2時以降、天明までの間と推測された。

「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸恵/(株)学研パブリッシング) 第24師団の砲兵(野砲兵第42聯隊)将校、陸海混成砲兵大隊長の仁位顯少佐の手記よりから転載させて頂きました

「クラガーガマ

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.6

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.7

「山雨之塔」のすぐ横に「クラガーガマ」があります。数年前からこのガマに到る通路入り口に扉が設けられて自由に出入りできなくなりました。ですからここ数年ガマに入った事が無いですが、金光教では何度かこの壕で遺骨収集が実施され、ご遺骨が収集されました。この壕は「クラガーガマ」と地元民は呼び、「暗井戸」という意味だそうです。地元民の避難洞窟として利用され、また壕内は川が流れていることから、避難民の水くみ場を兼ねていたといいます。

少し解りにくいですが、ここから川が始まっていて、写真左手方向に川の中を歩いて進むと壕内に入ることができます。実は私も以前にこの壕内の進めるところまで前進してみようと、可能な限り前進した事があるのです。壕は少なくとも200メートルは容易に前進できます。200メートル前進した所は急に狭くなっており、人間も屈んで真っ直ぐにならないと前進出来ないほど狭いのです。その時は、普通の装備だったので、その穴を通ることは出来ず断念し、そこからは引き返したのです。

この壕内には多くのご遺骨や遺品が散在していると思われますが、ご遺骨を捜すのは極めて困難な現況なのです。それといいますのも、この壕内には驚くほどの汚泥が堆積しているのです。恐らく沖縄戦当時はそのような状況には無く、汚泥の堆積は戦後になってからだと思われます。

戦後の壕入り口付近での貯水池などの設置工事などにより、水がこの壕に集中するようになったと思われ、台風など大雨の時には壕内に大量の水が流れ込むようになっていますが、その水が200メートル先の狭くなっている部分から先に、容易に流れ去っていかないので、壕内が貯水槽のような働きをして、水に混じった土砂が沈殿してしまうのだと思われます。実際に発見されるご遺骨や遺品は、戦後堆積した汚泥の中ではなく、汚泥底部の固い地面部分付近から発見されるのです。水も確保できるし相当数の人たちを収容できる素晴らしい壕だったのでしょうが、現在は歩くのも困難なほど膨大な汚泥が堆積し、収集作業を極めて困難な状況にしています。

平成20年(2008年) 金光教の遺骨収集により、「クラガーガマ」から発見された御遺骨を再転載させて頂きます。

「クラガーガマ」から発見された御遺骨

遺骨収集の様子6

御霊様に申し上げます。
戦争の悲惨さを指し示す為に、御遺骨を頭骨と共にサイトに掲載させて頂きました。なにとぞ御了承下さいませ。御霊様におかれましては、安住の地に安らかに御鎮まり下さいますようお願い申し上げます。私達は目をそらす事なく30秒以上この御遺骨を見つめなければなりません。また 私達は戦争により起こりうる悲惨さを、この目でしっかり見届けておかなければなりません。
【平成19年(2007年)2月18日金光教遺骨収集にて発見・収骨】

御霊様のご冥福を心より祈念申し上げます。m(_ _)m

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.8

広い畑一面に見事な野菜が育っています。結球レタスですね。この畑は毎年結球レタスが栽培されていますので、連作障害が心配です。(笑)

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.9

本葉が展開を続けている段階で、まだ結球はされていません。人は厳しい冬の寒さを経てこそ、新春の時節には呪縛から解き放たれたように気持ちが高揚しますが、同じく真冬の関東地方から来て、このような青々と元気はつらつとした野菜を見ると、こちらまで新春のパワーが貰えそうで何か心持ちが凄く元気になりますね。(^o^)

「南北之塔」

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.10

「南北之塔」と併置されている「捜索二十四聯隊慰霊之碑」が見えてきました。ところで沖縄の人々は真栄平を「メーデーラー」と読みます。ですから30年以上前の話ですが、「真栄平にある南北之塔」と沖縄の人に訪ねても意味が通じず南北之塔の所在が一向に解らないという時期がありました。今では笑い話ですけどね。(^o^)

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.11

「南北之塔」は県道250号線沿いにある真栄平集落の背後にある小山の一角にあります。また「南北之塔」のすぐ横には「アバタガマ」があります。

沖縄戦末期の真栄平では多くの沖縄県民と日本兵が犠牲になりました。収容所から戻った区民らま、まず屋敷内や道路・田畑に散乱する遺骨の収集から始めねばならなかったといいます。集落の端に積まれた遺骨や遺体を「アバタガマ」に「真栄平納骨堂」として埋葬。昭和41年(1966年)に区民や県外の元日本兵や遺族らの寄付で同塔を改築し「南北之塔」と命名しました。この付近一帯は北海道を拠点とした第24師団歩兵第89連隊の将兵が最期を遂げた地でもある事から、塔名の「南北」は、北は北海道から南は沖縄まで、全国の戦没した将兵・住民を等しく祀ってあげたいという地元の人々の強い願いが込められていると言います。また改築に伴い壕内に納められていたご遺骨の一部は摩文仁の平和記念公園にある沖縄国立戦没者墓苑に移されたという話です。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.12

「南北之塔」の碑文です。

【南北之塔碑文】

沖縄戦終焉の地、ここ真栄平は最も悲惨な戦場と化し、多くの犠牲者を出した所である。当時の人口は九百人の中、生存者はわずか三百人余りであった。沖縄の戦後は遺骨収集から始まったと言われ、収容所から帰った区民も直ちに屋敷内や道路、田畑、山野に散らばっていた遺骨の収集をはじめた。

この塔には、真栄平周辺で戦禍に倒れた区民をはじめ、中南部からの避難民、軍人等、数千柱の身元不明者の遺骨が納められ、その御霊が祀られている。

この塔は終戦間もない昭和21年、真栄平納骨堂として、世界の恒久平和の願いを込め、真栄平区民によって建立された。昭和41年、真栄平遺族会や篤志家のご芳志を受けて改築を行い、現在の南北の塔が完成された。

毎年6月23日には、戦没者のご冥福をお祈りするとともに、平和の尊さを子々孫々に伝える行事として慰霊祭が行われている。

平成元年3月 真栄平自治会 

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子9

「アバタガマ」における金光教遺骨収集奉仕活動では、御遺骨の発見と共に大きなドラマがありました。

信者さんである右上に写っている栗平さんが、「○○○○」という名が記された 「黄色い石けん箱」を、昭和56年の遺骨収集奉仕活動において壕内で発見したのですが、驚く事になんと石けん箱に記された名前の兵士と栗平さんとは、昭和19年8月まで北九州市の小倉にある北九州防空隊に所属した戦友だったのです。その戦友は同年8月末に転属となり、以降連絡は途絶しましたが、二年前に戦友会を催す案内状を送ったところ、戦友の長男さんから「父は沖縄で戦死しています」との通知が届いていた事を発見し、早速黄色い石けん箱発見のお知らせをしたとの事でした。

そうした経緯がありましたが、その前段として「黄色い石けん箱」をぜひ御遺族にお届けしようと、戦友である栗平さんを始め、金光教のご本部、伊方教会の品川先生、銀座教会の石原氏による懸命な調査が行われたようです。そうした懸命な努力を含めて、遺品である「黄色い石けん箱」は、38年ぶりに無事御遺族の元へ帰ることが出来たのです。

「父の戦友であった栗平様をはじめ、多くの方々のご厚意により、私を捜し出して下さり、銀座教会で私の手元に遺品を返して下さったのが、母の法事の前日でした。法事の日に兄弟親戚に見せ、皆で涙しました」 と、御遺族が語っていたのが印象的でした。

この写真は、遺族である息子さんご夫妻が慰霊のために、黄色い石けん箱が発見された「アバタガマ」を訪れた際に撮影したものです。一番左に写っている後ろ姿の男性と、写真中央右寄りに写っている女性が御遺族です。

黄色い石けん箱を発見した戦友の栗平さんや、左側に写っている沖縄戦で戦った石原さんが、沖縄戦当時の日本軍の戦況や米軍による馬乗り攻撃された際の、壕内の惨劇の様子を遺族に説明しているところです。

ご遺族の○○さんは翌年から金光教の遺骨収集奉仕活動に参加されるようになりました。御遺族の○○さんは、その熱意溢れる奉仕活動を長年続けるなかで、多くの御遺骨を発見されもしました。

ご遺族の感謝の念は、○○さんが大病されて医師の勧告により訪沖出来なくなるまでの10数年間もの長きにわたって、金光教沖縄遺骨収集奉仕団の一員として、遺骨収集活動を続けられた事に、それがよく表出されていると思えます。病気が悪化し最後の段階では、病を抱えながらも身体が動く限り沖縄遺骨収集奉仕活動に参加し続けたいという、真摯な言動と姿勢がとても印象的に私の脳裏に焼きついているのです。

「捜索二十四聯隊慰霊之碑」

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.13

「捜索二十四聯隊慰霊之碑」です。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.14

「捜索二十四聯隊戦没者の碑」です。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.15

「捜索二十四聯隊慰霊之碑史」碑文です。テキストに起こしましたのでご覧下さいませ。句読点ではなく一文字の空白で段落を表しているので、少し読みにくいかも知れませんが、原文ママで表示しました。

【捜索二十四聯隊慰霊之碑史】

昭和19年7月連隊に動員下令、同年10月17日駐屯地満州東安省密山を出発 同年8月3日沖縄本島到着読谷山村字波平に駐屯波平瀬名波長浜に至る海岸線に陣地構築 同年12月沖縄防衛作戦変更により連隊は島尻郡真栄平に異動連隊本部を真栄平にき大度より米須に至る海岸線に向い陣地構築国の防衛に任ずるも 同年20年4月1日米軍嘉手納より波平に至る海岸線より上陸連日激戦を転回 同年4月24日首里防衛戦参加のため連隊は辨ケ岳後方大名部落に転進連日棚原西原幸地掛久保宮城方面に斬込隊を出動させ多大な戦果をあげ部隊個人感状数多く受け前田方面えの夜襲17戦辨ケ岳での陣地戦と勇戦敢闘せり同年 5月29日軍は 島尻地区の新防衛線に後退連隊は師団後退の後衛部隊として最後迄敵と対時良く任務を達成最後の引上部隊として真栄平陣地に後退同年 6月 1日配備完了連日斬込隊を敵陣に出動さす同年 6月18日175.5 高地えの夜襲占領翌19日同陣地で連隊主力をもっ平に至る海岸線より上陸連日激戦を転回同年 6月21日真栄平66高地陣地に於いて連隊長以下残余の将兵連隊長自ら兵の銃を取り敵を激撃全員壮烈な戦死をとげた連隊長以下戦没将兵 400名と連隊と運命を共にした真栄平住民連隊医務班看護婦炊事班勤務の炊事婦防衛隊員等約 200名の英霊に 子々孫々に至る迄慰霊の誠を捧げ2度とあの悲惨な戦争を起こしてはならない永遠の世界平和を念じここに象徴の碑を建立した

捜索二十四聯隊山三四七八部隊 
生存者 陸軍伍長 渡部 満 

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.17

この付近及び「アバタ壕」等での戦没を特定できた方が多いのでしょうね。個人の慰霊塔やお墓もご覧のように数多く並んでいます。

「アバタガマ」

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.18

「アバタガマ」入り口です。戦後一時期、仮納骨堂として地元集落に散在していた御遺骨を収めた場所でした。壕入り口は擬装や隠蔽したとしても結構目立つ大きさですね。壕の奥行きはおよそ40メートルぐらいでしょうかね。壕は斜めに下ってカーブを描いていますから、壕内部は思いの外広く感じます。また川というほど水流はありませんが、梅雨の頃には水も湧き出るのではないかと推測される水流の痕跡があります。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.19

それでは「アバタガマ」に入って見ましょう。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.20

上を見上げてみるとご覧のような感じです

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.21

凄い湿気です。あっという間にレンズが曇ってしまいました。壕の奥から生暖かい風が吹き上がってきます。カメラ本体が冷たかったという事情もあるので、カメラ自体の温度が壕内気温と同じになれば結露はとれますから、少し様子を見ましょう。

「アバタ壕」は入り口から4メートルぐらい降りたところで、二方向に分かれます。写真は少し解りにくいのですが、その二つに分かれる分岐点を撮影しています。元々この分岐から先は、この壕が真栄平集落の避難壕であった関係で、地元の戦没された方々のご遺骨を納めていました。そうした地元の戦没者が眠っている分岐入り口はセメントで完璧に塞がれていた事もあり、金光教の遺骨収集でもこの分岐口から先はノータッチで取り組みました。しかしながら数年前に何者かにより分岐入り口が破壊され、下に降りられるようになってしまったのです。ですからご覧のように降りようとすれば降りられる状況になってしまいました。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.22

ストロボ無しで壕内右側を撮影するとこんな感じです。急斜面になっている以外は良く解りませんね。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.23

同じ場所を、ストロボで撮影すると良く解ります。結構広いですね。更に奥まった部分も空間がありますが、ここでは見えません。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.24

壕の少し左寄りで底面を見ていますが、良く解りませんね。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.25

同じ場所である壕の少し左寄りの底面をストロボで見ています。今度は良く解りますね。このアバタガマの居住空間は幅と奥行きについて、結構広いというのが見て取れますね。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.26

「南北の塔」のある敷地から南側を見ています。解りにくいですが太平洋の海原が展開しています。写真中央部辺りが大渡海岸です。ここから大渡海岸までおよそ2.5キロメートルです。また少し右側に束里の清掃工場の白い煙突が見えますね。

「沖縄工業健児之塔」

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.27

「沖縄工業健児之塔」です。同塔は摩文仁平和祈念公園内の東側に位置する平和祈念資料館の東側に隣接してあります。海岸沿いの崖上にあり、背後に木々が茂っていますから海は見えないのですが、潮風と共に波音も聞こえてくる場所にあります。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.28

「沖縄県立工業健児鎮魂之塔」説明文です。

【沖縄県立工業健児鎮魂之塔】

太平洋戦争の末期、昭和一九年三月、大本営は沖縄守備隊第三十二軍を新設し、政府は五月二二日戦時教育令を公布。米軍機動部隊の沖縄攻略に備えて、飛行場、港湾等各種陣地構築に一般市民、各中等学校生、さらに小学生までも動員した。同年十二月、軍命により第五砲兵司令部(球九七〇〇部隊)が工業学校生徒に無線・有線・暗号等の特訓し、昭和二十年二月各部隊に配属。学校では鉄血勤皇隊を組織、米軍機動部隊の上陸に備える。同年三月二三日、米軍機動部隊艦載機による空爆で沖縄戦の火蓋が切られ、遂に昭和二十年四月一日米軍沖縄本島中部西海岸に上陸。水平線まで埋め尽くす艦艇による艦砲射撃等で日米両軍による国内で唯一住民を巻き込み山野が変貌する熾烈な地上戦が六月下旬の戦闘終結までの三ヶ月間続く。日本軍は米軍の圧倒的優勢の前になすすべもなくこの最南端一帯に撤退。学徒通信兵も当該地に転戦するが、同年六月十九日米軍に包囲され、その夜、敵陣に突入を決行。奮戦空しく散華。沖縄戦で、教頭、教職員、学徒隊では各中等学校中最も多くの義税者を出す悲惨なものとなった。この実情を後世に語り継ぐため、工業学徒通信隊最期の地に慰霊塔を建立する。

尚、この塔造形の意義は、背面に建つ七本の柱(健児)が一本の大貫によって、貫(団結)かれ、がっちりとスクラムを組んで碑身(平和)を護り、碑身上部の雲間には平和のシンボルの鳩三羽を飛ばす。又、教職員や学徒隊、そして通信隊員の名前を彫り込んだ名盤台天端の三つの変形菱形板には、それぞれ赤、黄、青の三原色を彩色し、その臍(へそ)を結び台上の三点で踏張って、この地上からあらゆる戦争をなくし、世界の永遠の平和を守ることを誓うとしている。

昭和三十七年十一月建立 
沖縄県立沖縄工業高等学校 
沖縄県立工業學校遺族会 
沖縄県立沖縄工業高等学校同窓会 

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.29

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.30

7本の柱は7人の武士を表し、柱横に連なりスクラムを組ませ協力を象徴していると言うモニュメントです。7本の柱にしっかりと守られていますね。ご覧のように塗装も新しくピカピカに塗られ、新装なった「沖縄工業健児之塔」の塔です。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.31

大東亜戦争中、沖縄、その他の地域で戦没した沖縄県立工業高等学校の同窓生、職員、生徒167名が祀られています。同校は、沖縄戦では、生徒97名が動員されました。生徒達は鉄血勤皇隊や通信隊を組織するなどして戦闘に参加し、88名が犠牲となりました。学徒隊の中では最も高い戦没率であったとされています。

軍の解散命令が出た後に、慰霊塔の背後にある壕内で学徒が自決したとされている事から、私も同塔背後を徹底的に調査したことがあります。その結果壕はありませんでした。あるのは亀裂です。深い所では10メートルぐいらはあるでしょうか。そんな亀裂が100メートルぐらい続いていました。亀裂の最終局面で一カ所壕がありましたが、その場所はこの「沖縄工業健児之塔」からかなり離れていますので、背後という事には当たらないと思います。調査の結果平成20年(2008年)ですが、頭骨も含めて一柱見つけることが出来ました。この「沖縄工業健児之塔」から40メートルぐらい離れた場所でした。遺品としてはかなりしっかりした鉄兜のみが見つかっています。学徒隊との関連を裏付ける遺品等は発見されませんでした。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.32

戦没された沖縄県立工業の名が刻まれた墓碑銘です。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.33

問題なく読めますね。同校生徒九名が同じ場所で即死されたと書かれています。ご冥福をお祈り申し上げます。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.34

沖縄県立工業健児鎮魂之塔の左側に展開する芝地を写しています。樹林帯も見えていますが、幅は狭くて約30mぐらいの樹林帯が帯のように連なっていまして、樹林帯に先は崖になっています。晴れてのどかな公園風景ですが、この写真に写されている範囲内で頭蓋骨を含む完全一体の御遺骨を発見しました。

その場所は芝地と樹林帯の境目、概ね写真中央部ですが、何やら柵のような物が見えますね。その右側20メートルぐらいの場所、そこは沖縄県立工業健児鎮魂之塔から見ると約50mぐらい東に移動した場所辺りなのですが、芝地から3mぐらい入った所にある壕で、私は頭蓋骨を含む完全一体の御遺骨を発見したのです。平成20年(2008年)第35回沖縄遺骨収集奉仕活動ですから、今から11年前ですね。下の写真でその様子をご覧下さいませ。

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子11

岩の割れ目から壕に入りしばらく前進すると、日本軍将兵が被っていたヘルメットがありました。こんな大きな遺品がそのままという事は、まだこの壕は誰も調査していないと感じた私は胸が高鳴りました。急がず目を凝らして極めて慎重に奥に進んでいきました。

遺骨収集の様子12

壕はどんどん狭くなりましたが、ヘルメット発見場所から2mぐらい進むと、人間がやっと入れるような隙間でしたが、遂に御遺骨を発見しました。丸く崩れていない頭蓋骨や大腿骨が見えます。その他小さな骨も奥の方に掛けて散乱しています。また岩に隙間が見えますね。一部の御遺骨は下の空間にある壕に落ちていました。それら全て収骨してみると完全一体の御遺骨と宣言して良いボリュームとなりました。

遺骨収集の様子13

発見御遺骨のあった場所の手前側は下に穴があり、そこにも壕と呼べる空間がありました。写真は今にも下に落ちそうな脛骨です。足の細かい骨等は皆下に落ちていました。

遺骨収集の様子19

収骨する皆さんが全力で記名遺品を探しましてメガネ二個が出てきましたが、残念ながら身元を特定する遺品はありませんでした。メガネが二つ出てきました。べっ甲で作られています。べっ甲で作られたメガネは珍しいような気がします。箱のようなものは「マッチ」と思われますが、驚くことに箱の部分は金属でできていました。また本部に送った土砂からキセルの金属部分も発見されていましたが、氏名の特定は出来なかったようです。また近くではサーベルも発見されましたが、腐食が酷く記名があるとは思えませんでした。

この御遺骨のあった場所は公園芝地から3mジャングルに入った場所です。このように公園からジャングルに入って直ぐ。道路からジャングルに入って直ぐ‥。こうした「○○から入って直ぐ」の場所は、御遺骨発見に向けての極めて穴場的場所であると強調したいです。例えば道路からジャングルに団体で入る場合をイメージして頂くと解るのですが、こうした場合大概道路からジャングルに入るに際して、「入りやすい場所から一列縦隊で入る」事がとても多いのです。このように道路から入って一直ぐの場所は、とても見落としが多い場所と言えるでしょう。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.35

白い塔は沖縄平和祈念堂です。昭和53年(1978年)10月に竣工しました。建物の中には 高さ約12メートル,幅が約8メートルもある、人間の祈りの姿を象徴した座像、沖縄平和祈念像が鎮座しています。沖縄平和祈念像は、沖縄出身の芸術家山田真山画伯(1885~1977)が, 全戦没者の追悼と世界平和を希う沖縄県民の心を一身に担い、全生涯を捧げて制作されたとの事です。宗教や思想,政治や人種,あるいは国を超えて、すべての人が戦没者の慰霊と平和に力を合わせて行こうという事を、10本の指を合わせた合掌の形に表現されたそうです。また敷地内には「戦いに散った魂を鎮め 人類の悠久平和を誓い この平和の鐘は とはに絶えることなく ここ摩文仁の丘より 四方に響きわたる 万人の祈りをこめて」の銘文が刻まれた鐘撞き堂である「平和の鐘」があります。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.36

広い芝地である式典広場が見えていますし、その奥に平和之丘モニュメント、そしてその背後には沖縄戦当時89高地と呼ばれた摩文仁之丘が横たわっています。さすがに黎明之塔は見えませんね。

調査・遺骨収集作業開始です

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.37

沖縄のお土産品として有名な「ちんすこう」ですね。豊澤さんが沖縄入りする前にお店に予約しておいて、昨夜受領して今朝持参され私達にお裾分けして下さいました。この商品は琉球菓子元祖 本家新垣菓子店の「金楚餻」で祖先は大美御殿(首里城大奥)の御包丁人だった方で、今でも昔ながらの製法を守り、家族で手作業で作っているそうです。

それ故に一日の生産量が限られる為、いつの間にか「幻のちんすこう」などと呼ばれるようになっているそうで、予約なしではほどんど買う事が出来なっているそうです。そうした経緯を知っている豊澤さんは、事前に予約を入れて購入されたという訳ですね。

豊澤さんの話では、写真のように二個ずつ個包装されているのですが、袋にはなっていないのにカリッとしていて香ばしいラードの香りと程よい甘さが口の中に広がるので、「ちんすこうなんて食べ飽きた」という人にこそ是非食べて欲しい「金楚餻」だと語っていました。豊澤さんは数年間仕事で沖縄県に駐在した経験があるので、こうした商品の微妙に違う味を識別できるようです。また本家新垣菓子店の後ろ隣には「新垣カミ菓子店」があり、こちらも手作りの昔ながらのちんすこうを作っていて人気だそうです。本家よりは少しやわらかくカリッではなく、サクッとした感じだそうですよ。(^o^)

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.38

ちんすこうに添付されていた説明書です。内容紹介という事で「花ボール」「金楚餻」「燻餅」「鶏卵餻」の四品が書き記されていますが、皆様は食べた事ありますか、そしてご存じでしょうか? 私は「金楚餻」だけしか食べた事ないですね~。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.39

福岡さんがホームセンターで購入してきた「サビ落とし」です。お金とか金属的な遺品が結構出てきましたから、清掃してみようという訳ですね。福岡さんは金属磨きの本格的ノウハウをお持ちですが、現場での簡易清掃の手段として購入したとの話です。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.40

ご覧のように、今日も天候は晴れで快適な環境下で作業できそうです。摩文仁司令部壕のトイレの排便場所は、この写真からは見えないようです。断定は出来ませんが。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.41

私達は本日も再度展望台に登り、軍司令部壕のトイレの排便場所の岩の割れ目を探しました。何か手がかりがあるのではないかと思えたからです。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.42

東側の地際を見ています。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.43

今度は西側の地際を見ています。う~ん。岩の割れ目らしき場所は見当たりません。昨日も書きましたが、柵を越えられれば見えるかも知れませんが、マナーとしてそれは出来ない相談です。残念ながら位置関係の把握はまたしても先送りされました。(^^;)

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.44

朝一番で集合写真を撮りました。青空の下、元気はつらつといった表情の皆さんです。田中さん親子も今日は朝から取り組まれます。それでは今日も事故に気をつけ夕方まで頑張りましょう。よろしくお願いします。(^o^)

「勇魂之碑」

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.45

勇魂之碑です。摩文仁の奥まった場所、展望台の近くにありますが、通路に面していることから、見落とす可能性は低いと思います。 勇魂之碑は、第三十二軍司令部の将兵と軍属約六百人を祀った鎮魂碑です。写真奥には黎明之塔の一部も写されています。黎明之塔のある場所が一番標高が高い場所で、沖縄戦当時89高地と呼ばれた場所です。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.46

勇魂之碑の左側には、第三十二軍司令部戦没者名碑が設けられていました。沖縄守備軍第三十二軍司令部の指揮下で、沖縄を守るため、祖国日本を守るため、六万五千人余りの他府県出身軍人と二万八千人余りの沖縄県出身軍人と軍属が、渾身の限りを尽くして雄々しく戦い、そして散華されたことを長く語り伝えたいですね。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.47

第三十二軍司令部戦没者名碑の最初に牛島 満軍司令官、長 勇参謀長、以下参謀、副官、部長等の戦没者が書き記されています。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.48

司令部壕に入りまして、本日の作業開始です。福岡さんが見えます。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.49

福岡さんは金属探知機であっという間に、こうした金属的遺品を見つけました。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.50

田中さん親子はこの場所から着手する様です。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.51

吉井さん豊澤さんは、昨日と同じトレイ開口部分岐点付近で取り組むようです。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.52

遺品が更に発掘される可能性があるので、白布も少し大きな布に変えました。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.53

こちらも白布を大きくしました。そしてある程度仕分けして置きました。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.54

福岡さん

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.55

田中さん親子が作業しています。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.56

ご覧のように、新たに遺品が発見され続けています。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.57

豆電球がまた出ました。将兵の下着のボタンも更に出ています。司令部壕なのに、白骨化するまで御遺骨があったという事なのでしょうか。だとしたら、牛島司令官、長参謀長の亡骸の処遇と共に、それはとても悲しく思います。(^^;)

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.58

田中さんの娘さんです。娘さんの動きを見ていると常に集中して作業しているのが解りますし、更にそれがずっと持続する点が素晴らしいと思います。私達もそうですが、気持ちが飽きてくると、同じ作業を続けるのは極めて困難になります。第三者が見れば、そうした心の変化はすぐ読まれてしまいますし、良く見えてしまうものです。そうした点に思いを馳せる時、娘さんが将来どのような道に進まれるのかは解りませんが、「驚くほど持続する集中力を持っている‥‥」事からして、何をやっても成功を収めるタイプだと思いますよ。頑張ってください。(^o^)

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.59

こちらはお母さんである田中さんです。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.60

福岡さんが万年筆の先の部分を発見したと見せてくれました。更に探してみると話していましたが、胴体部分はまだ見つかっていません。胴体部分には記名がある可能性がありますから、ぜひ頑張って探してみてください。(^o^)

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.61

金属探知機を当ててみましたが反応しないですね。ペン先が18金や、家庭の流台に使われているオーステナイト系18%Cr+8%Niステンレス等の場合は磁石につかないので、そうした素材がペン先に使われている可能性がありますね。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.62

吉井さん豊澤さんです。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.63

豊澤さんが見せてくれました。何だと思いますか。これは黒焦げた頭蓋骨の一部ですね。昨日も同じ大きさの黒焦げた頭蓋骨が発見されましたね。これだけ焦げるには、一定時間火力を浴びなければ焦げないと思われますから、壕内に火災があったのでしょうか。壕口から火炎放射攻撃を受けたとか、黄燐弾を浴びせられたという話は、ここ司令部壕では出てきません。実に不思議な現象です。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.64

小休止がてら垂坑道に登れないか、もう一度覗き込み話し合っている吉井さん豊澤さんです。昨日も書きましたが、写真上にあるとされる垂坑道上部から爆雷を投げ込まれ、その際に十数名の死傷者が出たとされています。そうした多くの将兵が上り下りした状況下、八原高級参謀や神航空参謀の手記には、ハシゴが掛けられていたというような記述はないので、爆雷で岩が削れてしまった事も考えらますからね。何か手掛かりがないか検証しています。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.65

豊澤さんが少し登ってみるようです。何かが見えるかも知れません。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.66

やはりハシゴがないと無理みたいですね。吊り下げられているロープは経年劣化している可能性があるので、引っ張ったりつり下がる事は避けました。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.67

垂坑道の少し横を写しています。大規模に掘り返されているのが解ります。明らかに掘り返した、つまり遺骨収集したとハッキリ解る場所というのは以外と少ないです。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.68

発見し集められた遺品の数々です。実に様々な遺品がありますね。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.69

福岡さんです。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.70

着実に発見遺品が増えていますね。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.71

田中さん親子です。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.72

発見された遺品の様子です。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.73

発見された遺品の様子です。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.74

発見された遺品の様子です。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.75

発見された御遺骨と遺品の様子です。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.76

吉井さん豊澤さんです。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.77

吉井さん豊澤さんです。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.78

豊澤さんです。かなり掘り進めましたね。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.79

吉井さんです。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.80

豊澤さんです。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.81

吉井さんです。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.82

吉井さんと豊澤さんです。地盤に達したのではないかという事で、一応ここで作業打ち切りとしました。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.83

この段階での、発見された遺品の数々です。右上に発見された小銃弾があります。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.84

こちらもこの段階での、発見された遺品の数々です。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.85

将兵が身につけていた下着のボタンが、こんなに発見されました。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.86

それでは壕を出ましょう。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.87

忘れ物がないか確認し出ましょう。

お昼ご飯ですよ (^o^)

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.88

今日もひめゆりそば店さんで昼食を頂きました。(^o^)

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.89

美味しそうですね~。頂きま~す。(^o^)

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.90

午後の作業開始です。(^o^)
司令部壕内での調査・遺骨収集作業は一段落したので、午後からは司令部壕のトイレ通路の排便場所の下に到達せんと、ここからジャングル突破を試みます。東西どちら側から入るか検討した結果、簡単な東側からはすぐに到達する可能性が高いので、今日は敢えて難儀する方から入ってみようと話が決まり、まずは西側から入る事になりました。まずは戦没者の鎮魂を願い手を合わせました。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.91

予想通り結構なジャングル帯ですね。雨でなくて良かった。(笑)
因みに私はこの近くに一度、金光教沖縄遺骨収集奉仕活動で入っています。米軍の摩文仁89高地砲撃による破壊で、大岩がここ傾斜面にゴロゴロ積み重なっていて、如何に摩文仁89高地に向けての艦砲砲撃が激烈であったか目の当たりにしたのを今でも思い出します。また昨年この地域一帯を通過しましたので大体地形は解ります。ただこの付近は一度も歩いてない印象です。それも然りです。ジャングルは5m横にズレるとまるで違った風景になる場合も少なくないです。だからこそジャングルは、一度入った経験があると任じていても極めて迷いやすいと言えます。特に周囲が見渡せないような鬱蒼としたジャングル帯は特にそうです。迷ったら確実にパニックに陥ります。頭がパニックになると、皆同じ風景に見えてしまうのです。本当ですよ。体験者が語るのですから間違いありません。(笑)

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.92

急激に登りとなります。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.93

今度は降ります。アップダウンが激しいです。雨だったら滑って大変でしたね。最も雨だったらこのルートの提案はしませんでした。楽ちんな東側から入ります。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.94

また登ります。虎ロープが見えてきました。昨年もこの虎ロープは見つけています。この虎ロープは、少なくとも金光教で設置する事はあり得ませんから、他の団体が設置した物と思われます。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.95

トイレ開口部のある崖下に無事全員到達しました。ただ時計を見るとジャングルに入ってから53分を要しました。距離は直線距離でたったの約100mです。ヒェ~。(^^;)

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.96

トイレ開口部は穴が開いてる訳ではないので、見つけるまで少し時間が掛かりました。それにしても解りにくいです。トイレ開口部はこの写真が捉えていますが、写真を見ている皆様もどこが開口部か解らないと思います。それくらい近くで見ても解りにくいです。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.97

まずは開口部に近づくために足下を整理しています。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.98

写真中央にトイレ開口部があります。開口部があるなんて、ここから見てもまだ信じられませんよね。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.99

豊澤さんが早速日本軍の手榴弾を見つけました。露天にあったので腐食が凄いですね。底面が平らである事から、九七式と比べて小型である九九式手榴弾でしょうかね。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.100

まずは地面を露出させる為に全員で草刈りを行いました。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.101

福岡さんが木の根を切っています。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.102

少しずつ地肌が露出してきましたね。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.103

草を刈っている段階で皆さんが自分が掘り進める場所を、それとなく決めていたのいでしょぅ。もう掘り始めた人も居ますよ。これにて遺骨収集作業開始です。「トイレ開口部から戦死体を下に投げ落とした」という記述通り御遺骨が埋もれているか確認する時が来たのです。発見するまで怯む事なく全員が頑張って取り組みましょう。(^o^)

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.104

早いですね。吉井さんも福岡さんも、もうこんなに掘り進めています。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.105

豊澤さんも深く掘り進めています。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.106

豊澤さんはいつもご覧のように、折りたたみ式の金属スコップを持参しますので、これは作業効率上強力な武器になりますね。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.107

吉井さんが掘り進めています。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.108

「う~ん。何も出ませんね」当初の楽観が崩れ去る瞬間でした。「明日はやり方を変えてみましょう」という事に話が収斂し、本日はこれで作業打ち切りにしました。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.109

53分も掛かったジャングルの来た道を再び帰るのは全員こりごりという事で、トイレ開口部から司令部壕に入るルートで帰る事になりました。結構急勾配でしたが、上手い具合に足場が確保できたので、女性陣も問題なく登れました。写真はトイレ開口部から入って司令部壕内を出入り口に向かう写真です。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.110

司令部壕から全員出ました。お疲れ様でした。(^o^)

豊澤さんがコラムを書いて下さいましたのでご紹介します。(^o^)

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.60

戦没者遺品である万年筆のペン先を再掲載しました。事後談となりますが、豊澤さんが帰られてから、信じられないぐらい精力的に、この先端部のみのパイロット万年筆について調査して下さいました。その結果として手に持って万年筆が書けるようになったのです。豊澤さんが、そうした万年筆復活の困難な道のりをコラムにまとめて下さいましたので、ご覧下さいませ。(^o^)

豊澤さんのコラム 「万年筆について」

今回、摩文仁の壕での遺骨収集作業中に、万年筆のペン軸部分だけが見つかった。遺品の中でも万年筆は胴体に名前が彫られている事が多く、遺族へ返却される可能性も高い。しかし今回はペン軸部分(ペン先と首軸内のインクを送る部分)だけで、キャップも胴体も見つからなかった。 ニビと呼ばれる砂泥から見つかったペン先は、白く鈍く光っていた。この主軸の事は、なぜか私の心に残り、許可をもらい自宅へ持ち帰った。

自宅で改めて見た。水洗いはしたが、ペン軸の至る所に泥が残っていた。物資統制下でペン先に金が使えず、ステンレスで代用していた時代の白ペンで、14Kとか18Kといった価値のあるペン先でもない。「なぜ私の心に残ったのか」考えて見たが分からなかった。万年筆の構造を確認する為に、自分の万年筆を机から取り出した。手元にある万年筆は二本。一本はペン先が柔らかく、長く書いていても疲れないセーラーの21K。もう一本は若い頃憧れてやっと手に入れたダンヒルの万年筆。今はどちらもインクが切れていて文字を書く事は出来ないが、「大切な手紙や書類はこれで書いたよな、今はPCやメールだけど・・・」と無意識に独り言が出た。 その独り言にドキッとした。

兵隊は極限状態の戦場で、年老いた両親の健康や、後に残された妻や子供の幸せ、恋人への秘めた思い、断ち難い学問や仕事への情熱などを胸に、平和が来ることを祈りながら雄々しく戦った。軍隊内には検閲もあり、手紙も今のようなストレートな表現は書けなかっただろう。当時は制海権、制空権とも奪われ、手紙が相手に届くかも分からない。そんな中でこの万年筆の所有者は、大切な人への思いを、一文字一文字、石に刻むような思いで手紙にしたためた・・・。この主軸はその万年筆の一部であることに気づいた。

「万年筆を復活させよう。このペン先で書いてみたい」私は馬鹿な事を考えた。改めてペン先を拡大して見た。「BEST IN THE WORLD PILOT MADE IN JAPAN(3)」の文字が読めた。早速パイロット万年筆に問い合わせて見ると、「1930年代に製造されていた「インキ止め式」万年筆。(*注1参照) 残念ながらペン先を流用できる万年筆は現行品にはない。付けペンとして使用することは出来る。」との事だった。ある意味想像通りの回答だった。つけペンとして使うことは、最初に思いついたがそれでは「復活」させた事にはならない。

(*注1) インキ止め式:首軸を外し、胴軸にスポイトを使って直接インキを入れる方式。文字を書かない時は、胴軸のインキタンクからペン先のある首軸までインキが流れない様に、栓がされているので「インキ止め式」と呼ばれる。文字を書く時には尻軸を回転させて緩めることで、首軸に蓋をしていた栓が離れ、インキがペン先側に流れる仕組みになっている。

ヤフオクでBEST IN THE WORLDを探すと1本ヒットしたが、ペン先のハート穴の形が違っていた。状態もよくなかったが当初価格は1200円だった。更に調べてゆくと、BEST IN THE WORLDのペン先にはいくつもの種類がある事もわかった。ハート穴の形状も私の手元にある逆V字のモノと丸いモノとがあり、製造の時期によってはMADE IN JAPANの表示がなかったり、数字が(6)などもあるようだった。

それから2週間が過ぎた頃、ヤフオクに古い万年筆がまとめて5本出ていた。出品はリサイクル業者で万年筆には詳しくないようだった。「エボナイト製ビンテージ万年筆」とのみ記され、それぞれの詳しい説明は無かった。その中にハート穴が逆V字の万年筆が一本あり、BEST IN THE WORLDと思われた。「同時代の万年筆があれば、パーツ取りが可能かも知れない」 そう思い落札した。価格は送料込みで2,800円だった。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.111

ヤフオクサイトに掲示されていた5本の万年筆
右から2本目がBEST IN THE WORLD、また5本の内2本ががPILOT社製万年筆

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.112

ペンのハート穴が逆V字になっていた事から、遺品のペン先と同じBEST IN THE WORLDと思い落札

2月の連休明けに万年筆が届いた。5本ともキャップ以外はインク等が固まって動かない。2日かけて、何度がぬるま湯に漬けて、すべての万年筆の掃除が終わった。ハート穴が逆V字の一本が求めていたBEST IN THE WORLDだった。胴軸にはPILOT/ THE PILOT PEN (並木のNを丸で囲ったマーク) MFG.CO.LTD /MADE IN JAPANとかすかに掘られているのが見えた。首軸からペン軸を外して遺品のペン先を付けてみたがうまくいかない。もっともうまくいっても、BEST IN THE WORLDのインクの補充方法は、現在のカートリッジ式やスポイト式と異なり、修理は難しいことは承知していた。ネットの中では、エボナイトの塊を器用に削って、シリコンのオーリングをはめて復活させている画像があったが、私には無理だった。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.113

上の万年筆がヤフオクで購入したBEST IN THE WORLDで、下が発見された戦没者遺品

銀座に映画を見に行った帰りに、文具専門の伊東屋さんで、事情を簡単に話して、ペン先の付替とインクの補充について教えてもらった。担当は私の父親位の年齢の方で、最初に水を入れて漏れを調べて、「軸内のコルクが劣化していて水漏れがするので、本来のインクの補充(軸内にインクを補充)は出来ない。無理に補充すると万年筆を傾けた時にインクが漏れて手や服を汚してしまう。」と言われた。その後ペン先を付け替えて試し書きをしたり、ペン先を拡大鏡で見たりして熱心に作業をして下さった。その結果は「遺品のペン先はペンポイントの溶接合金が片方無くなっているので文字を書く事は出来ない」というものだった。ペンポイントは触った感じで「現行品より小さいな」とは思っていたが、片方が欠けているとは思ってもいなかったのでショックだった。費用を支払おうとすると「お客様の希望通りに万年筆を調整出来なかったのでお代は頂けない」と言う。作業中に二人程万年筆の調整に来た方を待たせていたので、申し訳なく思うと同時に、担当者のプロ意識と万年筆に対する伊東屋さんのこだわりに感動した。(文末のコラム「伊東屋と万年筆」ご参照)

自宅に戻り、インクにペン先を付けて書いてみた。ネットで購入したBEST IN THE WORLDは、18Kなどの柔らかいペン先に慣れている手には多少引っかかるが文字は書けた。ペンポイントが片方欠けている遺品のペン先に付け替えると、縦横の線は引っかかりながらも何とか書けるのだが、ひらがなのように丸くペン先を動かすとついて来れず、インクが掠れてしまう。これでは手紙を書けない。高価なモンブランとかダンヒルなら費用は兎も角も、ペンポイントの修理は可能かも知れないが、白ペンのペンポイントを修理してくれるような先は無いだろう。「復活」は絶望的だった。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.114

構造図はセーラー万年筆のHP内の「万年筆の仕組み」より転載させて頂きました
「万年筆の仕組み」https://www.sailor.co.jp/knowledge/mechanism

数カ月後、反古紙をシュレッターしていた時だった。手伝ってくれていた子供が、ペンポイントが片方欠けているペン先で書いた紙を見て、「竹ペンで書いたの?」と言う。その言葉に、「書慣れれば、竹ペンで書いたような面白い文字表現になるかも知れない」と思った。シュレッター作業を子供に任せて、万年筆を引っ張り出して色々とやってみた。BEST IN THE WORLDではない4本の内の2本のテコ式万年筆(偶然にもPILOT製)にもペン先が付く事がわかった。こちらはBEST IN THE WORLDと主軸の形もインクの補充方式も違うので、シリコンチューブなどを使えば、コンバーターやカートリッジが付けられる可能性も出てきた。

万年筆としての復活の目途はたっていないが、年賀状の謹賀新年程度なら、個性的な面白い文字が書けるかも知れない。ひょっとすると、来年の遺骨収集の仲間への年賀状には(この「謹賀新年」の文字は摩文仁で見つけたペンポイントが片方欠損している万年筆のペン先で書きました)なんて説明が入るかも知れない。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.115

上がヤフオクで購入したBEST IN THE WORLDの筆跡。
下が遺品のペン先で書いた筆跡(遺品ペン先を同じPILOT社製万年筆胴体に接続)

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.116

筆跡をアップしてみました

伊藤屋コラム「伊東屋と万年筆」
https://www.ito-ya.co.jp/column/2013/05/000246.html(伊東屋HPから転載)

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.117

伊東屋で筆記具というと、まず万年筆のことを指します。
K.ITOYAの看板にもなっている通り、
「書くこと」の中心には万年筆があるとしているからです。

なぜ、万年筆か?
昔からあるものだから、見た目がかっこいいから?
いえいえ、それだけが理由ではありません。

「書く」という行為を手に、身体に、心に、最も伝えてくれる道具は万年筆であると、伊東屋は考えています。

ボールペンやシャープペンシル、鉛筆は、その構造はそれぞれ違いますが、
いずれもペン先を紙に押し付けてインク(黒鉛)を定着させていくことで筆記ができます。
対して万年筆は、紙にペン先をやさしく当てるだけで自然とインクが出てくるため、
手にかかる負担がぐっと少なくなり、書くことそのものにより心を傾けることができます。
結果、書かれた文字には頭の中の考えや気持ち、書く人の性格までが表れているのです。

意味を伝達することが、ことばの一番の目的です。
しかし、万年筆で書いた文字にはそれ以上の何かがにじみ出ていて、
それはほんのささやかな違いですが、気持ちをたのしく、豊かにさせてくれるものだと思います。

ごく普通の、黒いインクのボールペンがあれば、生活に支障はありません。
でも、一本でもいいから万年筆を持って、小さなことでもいいから何か書いてみてください。
それを読むだれかが、たとえば未来の自分が、
その文字から今この瞬間のあなたを感じることができるでしょう。

 

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.118

伊藤屋コラム「伊東屋と万年筆」から転載させて頂きました

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